プランタ・ゲニシダに住まう野生馬は、恐ろしき力を持つもの。
黒龍の住処に平然と住まうもの。
人が手を出せる代物ではなし。
(ジャルジェ家覚書ヨリ)

■決闘開始から23日目の深夜

 「勇、聞きなさい!」
 「嫌です!」
 「勇!」
 「おれ、絶対やめませんから。あと8日です!あと少しです。」
そうだ。絶対止められない、絶対に!

 「もう何があってもおかしくない。分かっているのでしょう?」
クレマンはもう一度おれに尋ねた。
 「分かっているのでしょう、勇。」
 「・・・もう持たないかもしれない。だけど!あと8日です!あと8日なんです!」
ここへ来ると決めた時から覚悟はしてたんだ。
クレマンが小さく息をついたのが聞こえた。それから彼は 「勇。」 と、おれの名前を呼んだ。
 「君の今やっているのは死に急いでいるだけですよ?」
そんなの・・・分かってる。
 「勇、そもそも君は何の準備もなく決闘を挑んだ。肩の傷もいえないまま。それでもここまで来た。だからこそ仕切り直して今度こそ最良の状態でもう一度挑めばいい。魔法も防御の方法も弓も銃も使いこなせるようにして、もう一度決闘を申し込めばいい。違いますか?」
 「駄目です。」
そうだ、もう駄目なんだ。
 「明日私がこの決闘に水を差します。」
 「駄目だ!」
 「これが最後のチャンスなのですよ?」
 「駄目ですクレマン。」
 「勇!」
 「お願いです。おれの好きにさせてください。おれ・・・絶対アンドレみたいになりたくないんです、絶対に。オスカルを護れなくて・・・」

 「アンドレはちゃんとオスカルを護りました。」
 「どこがですか?暴動に巻き込まれた時、オスカルを護って死んだからですか?だけどそんなの護ったのじゃない!」
ああそうだ、あんなの護ったんじゃない。
 「本当はオスカルを助ける為じゃなくて、ただ逃げ遅れて死んだのかも知れない。」
 「アンドレ・グランディエはオスカル・フランソワを護りました!」
 「護ってない!」
 「勇!」

 「クレマン!おれ、父から聞いてるんですよ。アンドレは父に色々話したから。自分には何もなくて・・・剣だってオスカルの方がずっと強くて・・・」
地位も名誉も財産も何もない上に・・・ホントはガードとしてオスカルを護る力さえなかったんだ。
 「暴動に巻き込まれた時も・・・護る力もないくせに、目だってよく見えてなかったのに!だから死ぬような事になったんだ!」
 「違います。」

 「オスカルをちゃんと護れるだけの力さえあれば、オスカルだって自分を責めて・・・自分がしっかりしていなかったからとか、注意が足りなかったからとか・・・それって本当はガードだったアンドレがちゃんと護れるだけの力があれば、オスカルは考える必要なんて何もなかったのに・・・・そうすればオスカルはあんなに苦しまなくても良かったのに!」

 「君は勘違いをしている!」

 「おれ、やめませんから。」
 「勇、お聞きなさい!」
 「絶対おれ、やめません!アンドレの二の舞はごめんだ!」
 「君は何も分かっていない!」
 「オスカルの為に何も出来なかった!」

 「違います!」

 「何も出来なかった!」
何もないアンドレ・・・昔のおれ。

 「何故分からない!誰も君の代わりになれなかった!誰も君のように彼女を護れなかった!」

おれはクレマンを見た。クレマンは何故か悲しげにおれを見つめている。
 「アンドレは、君はちゃんとオスカルを護りましたよ。」
 「おれは!おれ・・・もういいです。今度こそ、ちゃんとオスカルの役に立ちたいのです。」
 「君はちゃんとオスカルを護りました!」
 「護れませんでした、何一つ・・・」
 「護れなかったのは君が先に死んだからです!」

ああそうだ、力がなかったから死んだのだ。自分の身すら護れなかったのだ。

 「あと8日間です。」
 「許しません。」
 「おれ、絶対にやめませんから。」
 「君が死んで彼女が幸せになれると思いますか?」
 「ええ勿論です。」
クレマンはおれを見た。それから ふう、と息をついた。

 アンドレ、アンドレ!アンドレ、アンドレ・・・

おれの名前を呼んで泣くのは・・・
悲鳴を上げるのは・・・
違う!おまえの所為じゃない!これはおれが勝手に・・・・

 わたしの所為だ!わたしの・・・・

金色の髪。オスカルと同じ。だけど長い髪、腰くらいまである長い・・・
オスカルじゃない、大人の・・・
ああ、そうだ。あの絵だ。去年の夏、美術館で見た末娘の肖像画、オスカルの絵。残酷な絵。
オスカルが愛しているのは・・・他の誰かだ。

 わたしを独りにしないで

そうだ、違う!
オスカルじゃない!こんな風にオスカルは見ない!アンドレを見ない!
全部嘘だ!

 もう・・・どこへも行かないで

クレマンの作り出した嘘だ。あり得ない!こんなの・・・
オスカルは言わない!アンドレはただの幼馴染で友達だっただけだ!
言ったのは・・・あれは・・・黒い髪の男の絵の話だ。新聞記者が勝手に書いたんだ。オスカルが言ったんじゃない!違う!嘘ばっかだ!

 ずっと・・・私の傍にいてくれるな

もういい!やめろ!見たくない!見たくない!見たくない!

 「やめろ!」

オスカルの姿も声も消えてなくなった。
 「こんなの・・・嘘だ。・・・偽りだ。全部・・・全部嘘だ!」

 「何故そう言い切れるのです。君は何も知らないのに。」

おれは顔を上げてクレマンを見た。
 「君は何故オスカル・フランソワがアンドレの絵を描かせたと思っているのです?」
 「・・・・知るわけないだろう!おれはオスカルじゃない。」
 「そう、君は何も知らない。何も分かっていない。」
クレマンは口元をほんの少しだけ上げて笑った。でも目は笑ってなどいなくて・・・恐ろしほど冷たかった。

 「アンドレが死んで結婚話を自ら破談にすると、オスカルはのめり込む様に仕事に没頭した。そして病気になって・・・」
 「病気って・・・・病気って!」
 「肺結核ですよ。あの頃は命を落としかねない恐ろしい病気でした。」
 「そうしたら!軍なんか辞めて・・・」
 「ええ、療養すれば助かった。それなのに彼女はそうしなかった。彼女にも分かっていたはずです。それなのに隠したまま軍務を続けた。挙句すべてを捨ててアンドレの絵だけを抱えて死にました。君はその頃何も知らず絵に張り付いて・・・」

 「おれじゃない!アンドレだ!アンドレの所為だ!」
 「だから、すべての元凶は君だ。君の死後、彼女は目の件も知る事となったのですよ、酷い話だ。」
 「さっきも言ったじゃないか!アンドレが護るだけの力がないから!その所為でオスカルは!」

 「だから君は何も分かっていないのだ。」
低い抑えた声。だけど頭に直に話しかけられた訳でもないのに腹に響くような重い声。

 「君が死ななければ彼女に絵は必要なかった。絵ではなく、君が側にいたのだから。そして君が彼女を看取り、彼女は自分の人生に少しの悔いもなく最後の時を迎えられた!君さえ死ななければそうなるはずだった!履き違えるな!力のあるなしではない!君が目の件を彼女に隠して、死に急いだのが一番の元凶だ。君は彼女に目の件を話すべきだった!そして最良の方法を模索すべきだった。そうすれば彼女の行動も変わったはずだ。君を側に置く為に細心の配慮をした!君の死に繋がった暴徒に襲われた件もたいした被害もなく切り抜けたに違いない。」

 「そんなの結果論だ!もしもの話なんか何の役にも立たない!」
 「いいえ。君さえ死ななければ彼女は幸せだった。苦しまずにすんだ。これは事実だ。」
 「例えそうだとしても昔の話だ!今のじゃない!関係ない!」

 「そうでしょうか?君のやっている事は同じです。目の事を隠した挙句死んでしまって、彼女を苦しめただけの昔と同じ。そして今度もまた、君はフランが知らなければいいという。知らなければ幸せになれると。でも違うでしょう?君が死ななければいいのです。生きてさえすれば、そうすればフランは苦しまずにすむのです。」

 「それは昔のオスカルです。幼馴染で、一番の親友で、ずっと一緒だったから。」
それだけだ。それ以上でもなくそれ以下もない。それだけ。もし幼馴染でも、一番の親友でも、ずっと一緒でもなかったら・・・
 「今は違う。」
ああ、そうだ。今は前より酷い。
 「何が違うのです。残されたフランの苦しみを考えなさい。君は一番肝心な事を考えまいとしている!」
 「考えてます!だからこのまま続けるのが一番のオスカルの幸せなんだ。」
今のオスカルに必要なのは・・・おれじゃない、昂さんだ。
 「それが一番の不幸です。」
 「不幸じゃない!」
 「勇!」
 「おれ止めませんよ。絶対に!」

 「君は何を恐れているのです?」

おれはクレマンを睨んだ。
 「おれは何も恐れてなんかいない!」

クレマンは黙っておれの顔を見つめていた。暫くすると彼は小さく息をついた。
 「これ以上何を話しても無駄のようですね。」
彼はドアに向かって歩いていった。そしてドアの前まで来ると振り返っておれを見た。
 「勇、覚えておきなさい。決して忘れてはいけない。彼女には君が必要だった。だから君は彼女より先に死んではいけない。今度こそ絶対に。」
彼はそれだけ言うとドアを開けて、部屋を出て行った。

 おれは目を伏せて俯いた。組んで強く握り締めた膝の上の手を見つめて深く息を吐く。
おれ、本当はクレマンの言うとおりだって分かっている。だけどおれ・・・
ソファに横になるとおれは顔に両腕を被せた。
おれ知っている。板倉さんから聞いたから。決闘を止める唯一の方法。

 「クレマン、ありがとうございます。おれなんかの為にそう言ってくれて感謝してます。だけどおれもう、続けるしかないんです。」

助かったって、おれはもうオスカルに何もしてあげられないんです。
おれ・・・もう次のチャンスがない。じきに右目も見えなくなる。
そしたらもう、ホントに何もしてあげられない。 おれ・・・おれは・・・

 「おれ、そんなのやだよ。」

 「待たせましたか。」
 「いえ、私もつい先程です。それより勇は・・・よろしかったのですか?」
クレマンは微笑んだ。
 「ええ、大丈夫ですよ。ディアンヌ。それより例の組織の動きはどうなっていますか?」
 「ほとんどが確保されたようです。それより・・・・」

ディアンヌは話した。
クレマンは黙ってそれを聞いた。次第に頭が下がって、ディアンヌが話し終えても、クレマンはなかなか顔を上げなかった。暫くして彼は 「・・・知ってしまいましたか。」 と呟いた。
それから更に長い沈黙が続いて、クレマンはようやく顔を上げた。

 「例の組織はあと誰が残っているのですか?」
 「マクシミリアン他3名です。」
 「そうですか。ではこちらで誰か動いている者は?」
 「いません。ですがゲメネ氏の様子が少しおかしいのです。」
 「ゲメネ氏が?」 クレマンは眉を顰めた。
 「今の所、大きな動きはありません。ただ、例の組織は日本へ11名が潜入してから・・・日本の情報収拾にはかなり力を入れておられるようですし、色々探っておられます。」
クレマンは頷いた。

 「そもそもあの組織を、自殺したウィリアム氏に教えたのはあの方ですからね。」
 「ええ。ですから優李が家を飛び出したという話を鵜呑みにされて動かれると非常に困るのです。あれは囮ですから。」
クレマンはクスリと笑った。
 「そうでした、囮ですね。マクシミリアンを捕まえる為にフランが家を出たという偽情報を流して、彼女の囮を新宿に配置しているのでしたね。」
 「ええ。」
 「ですがあの方は確証もなく動く方ではない。動いた時は厄介ですがね。」
クレマンは考え込んだ。少しして彼は何か決めたらしくディアンヌを見た。

 「では引き続きゲメネ氏の動向にはくれぐれも注意を。それから日本の様子も逐一報告を入れるように。あとは・・・私が、明日の昼をめどにパリへ来られる距離に待機するように数名に連絡を取りますから、必要に応じて配置してください。」
 「メンバーは誰でしょう?」
 「エルキュール、ドルリー、フィアロ、ルルタービュ、アルセーヌこんなところですか。」
ディアンヌは顔を曇らせた。

 「ゲメネ氏が本気で動くとお思いですか?」
 「指揮ははグリゴリーでしょうが・・・そう簡単にゲメネ氏のお側を離れません。動くのはフレッセルでしょう。」
 「今からフレッセルが日本へ向かうと?」
クレマンはディアンヌに2、3言囁くと、口の前に人差し指を置いた。
彼女は驚いて目を見開いた。
クレマンはにっこりと笑った。

 「彼らには直接君に連絡を入れさせますから。くれぐれも内密にですよ。分りましたね。」
 「は、はい。」
 「では、至急手配を。」
デイアンヌは慌てて部屋を出て行った。

クレマンはディアンヌが出て行くのを見計らって机の引き出しを開けて中からノートを取り出した。
そのノートは、A4ぐらいの大きさのまるで干からびた蛙のような風合いの表紙で、彼はそのノートに左手を置いた。
それから彼は人差し指でトントントンと数回叩くと指を離して満足げに頷いた。

 「さて問題は・・・どうしたものか。」

クレマンは呟いて、それから少し考え込んで目を伏せると遠くを見るようなまなざしをした。かなり長い間、彼はそのままでいた。 5分ほど経ってから彼は突然呟いた。

 「先約ですか。私よりそちらが優先するとは酷いですねえ。」

クレマンは目を伏せてクスリを笑うと立ち上がって窓の方へ向かって歩いた。
庭には照明で照らされた白い薔薇が微かに風に揺れている。
そしてその中央には井戸とそして銀色の守護者が見えた。龍の彼の頭が動いてクレマンを見た。
クレマンは彼に礼を取るとすぐに窓から離れた。