「道はあってるのか!」
石塚は大声で怒鳴った。加藤も負けずに怒鳴り返した。

 「任せろって!俺はいつもジャンケンで負けて青葉公園にチビの散歩に来てんだぞ。優李の次にこの辺の地理に詳しいのは、この俺だ!そこを右!」
石塚は加藤に言われた通り、右に曲がると尋ねた。
 「次は?」
 「まっすぐだ。暫くしたら右側のフェンスが10メートル程途切れる。そしたら合図する場所から入り込んで斜め右に少しだけ行ってそれからまっすぐだ。」
 「竹やぶ!むちゃくちゃ言うな! 」
 「そこだけ通路になっている。チビのお気に入りの場所でイヤになるくらい来てるんだ。心配するなって!そうだ、ちょっと急な坂になってるから気をつけろよ。」
 「さっきからまともな道がないぞ!いや!あんなの道じゃない!」
石塚は叫んだ。

 「最短コースなんだ、仕方ないだろう!それに、お前なら大丈夫。陸自のオートバイ偵察部隊にいたのは伊達じゃないだろう?」
 「昔話はいい!それより・・・ええい!くそ!さっきも足回りを擦ったし、今度こそタンクにも傷が・・・」
 「石塚!もうすぐだぞ。あと少し・・・よし、そこだ。行け!」

石塚の運転するバイクは、竹林へ入り込んだ。加藤の言う通り、道は確かにあった。急な坂を一気に下り、竹林を抜けると砂利の敷かれた場所に出たので石塚は懸命にバランスを取ってなんとか止まるとため息をついた。

 「うまいぞ石塚!」
 「次は!どうするんだ!」
 「そこに道路があるだろう?それを右に曲がってまっすぐだ。それからすぐ突き当りだから、そこを左。暫くすると青葉公園に出るからそこをまっすぐ横切ると・・・」
 「横切る?青葉公園には柵があるだろう!」
 「柵じゃなくて植え込みだ。所々開いてるからそこから入れる。まっすぐ突っ切れば駅の前の道に繋がる道路に出る。そしたら右へ行ったらすぐ駅だ!」

石塚は答える代わりに単車を動かすとスピードを上げた。今までとは違い、まともな道に出ると、すぐに右に曲がって突き当りを左に曲がった。暫く走ると目の前に広空いている場所が見えた。手前の植え込みは加藤が言った通り、所々隙間が開いているようだった。

石塚は、腰の高さ位の植え込みの隙間に突っ込んだ。枝が脚にも単車にも当たり、石塚は悪態をついたがそのまま起伏のある公園の中を走り抜けた。もう一度植え込みの隙間を突き進むと、自動車がまともに走れる広さの道路に出た。その道路をすぐに右折すると、バイクは今までと違い、ようやく軽快な音を出した。
加藤が叫んだ。

 「あと少しで南青葉駅のコンコース見える!ほら!今タクシーが出てきたろう?あそこが・・・・」
タクシーは彼らのバイクの反対側の車線を走り去った。バイクは急ブレーキを掛けて止まった。

 「後部座席見たか!」
 「ああ、髪が金色ぽかったが・・・」
その時、白いカローラがまるでタクシーを追いかけるように走り去っていった。2人は顔を見合わせた。
 「降りろ!駅でタクシー拾え!」
石塚が叫んだ。

加藤が降りるとバイクは急ターンをして勢いよく発進した。
加藤は急いで駅へ走った。駅前の広いコンコースにたどり着くと、あたりを見回しタクシーを捜す。駅の左側にタクシーが何台か停車していた。その中に先程のタクシーと同じ会社のタクシーがいるのを見つけた加藤は、そのタクシーに走り寄ってドアの前に立つと、すぐに運転席のウィンドウが下りて中から声がした。

 「お客さん申し訳ないですが、先頭の車両の方へお願いできますか?」
加藤はウィンドウの中へ顔を突っ込むと、タクシーの運転手に聞き返した。
 「それより、今さっきタクシーが一台行ったろう?同じ会社の。客を見たか?」
運転手は驚いた様子で加藤を見つめると、ためらいがちに 「ええ・・・まあ。」 と返事をした。

 「他は?髪の色とか!目の色!」
 「フードを深く被っていたから人相はちょっと・・・」
 「それじゃ他は!」
 「他はと言われても。それより・・・・」

運転手はそういうと加藤を品定めするように見つめた。加藤はそれに気づくと慌てて叫んだ。
 「俺は怪しいもんじゃねーよ!とにかく急いでんだ。何か知ってるんなら教えてくれ!頼むから!」
運転手はもう一度加藤の顔を覗き込むようにして見ると、少し考え込んで答えた。

 「身長は・・・ローラースケートみたいなものを履いてましたからはっきりとはいえません。ですが、大体180くらいあったと思います。黒っぽいズボンで・・・かなりダブついた感じでした。それに黒いフード付きのブルゾン、フードの先に毛がついてます。それに黒っぽいリュックを背負ってました。」
 「あんた、しっかり見てるじゃないか!」
運転手は照れくさそうに笑った。
 「職業柄どうしても細かくなってね。」

加藤は考えた。
インラインスケートだ。だが、黒のブルゾンなんて優李は持っていない。待てよ、確か零がそんなようなのを持っていたか?
 「すごいよ!ホント!他に何か気づいた事は?」
 「そうですね・・・線が細かった。もしかしたら女かな?と思ったくらい細い感じがした。服装はお世辞にもセンスがいいとは言えなかったが、足がやたら長くて・・・モデルか何かそんな感じでした。それから・・・・」
運転手は困ったような顔をした。
 「どうかしたのか?」
 「それがちょっと奇妙でね、腰に差してたんですよ。その、なんというか・・・」
加藤はすぐに察して答えた。
 「剣みたいだった!」
 「ええ、そうです!!」

間違いない!加藤は急いで言った。
 「悪いが無線使ってそのタクシーに行き先を確認してくれ!乗ってる奴には分からないようにな!」
 「それは無理です!出来ません!」
運転手は驚いて叫んだ。

 「同じタクシー会社だろう?なんで出来ないんだ!」
 「お客さん、興信所の人でしょう?悪いんですがそういう事に無線は使えないのですよ。前に浮気現場の証拠云々で裁判になってそれ以来・・・」
 「興信所じゃない!俺は・・・」
言いかけて加藤は思い留まった。
 「とにかく!じきに警察通じてあんたの会社に連絡が入る!人の命が懸かってるんだ!だから!」
それを聞くと、いきなり運転手の血相が変わった。

 「何があったんですか!」
 「何がって・・・それはあんたには関係ない・・・」
 「何言ってるんですか!!人の命が懸かっているんでしょう!!!何があったのです!」

運転手の全てを追求しかねないような迫力に押されて加藤は思わず答えた。
 「財産目当てに大勢の殺し屋が優李を殺そうとしてる。早く見つけないと・・・」
 「殺し屋!今の男も殺し屋の一人ですか!」
 「いや違う!優李だ。殺されかけてる方。」
答えて加藤はしまったという表情をした。しかし、運転手は気に留めもせず 「優李?男じゃなくて・・・女か!そうか、俺の第一印象通りだったのだな。」と、呟いた。

後部座席のドアが開いた。
 「何してるんですか!さっさと乗ってください!」
運転手の声が加藤に叫んだ。加藤は慌ててタクシーに乗り込むと、ドアはすぐに閉まった。
その途端、車は急発進した。加藤は後部座席でひっくり返りそうになった。 加藤が体勢を立て直して運転手を見ると、彼は無線で何か話をしていた。無線からはくぐもった声が聞こえた。

 「分かりましたよ!行き先は名古屋。現在、用賀の東名高速の料金所に向かってるそうです。」
 「名古屋!マジかよ!」
 「飛ばしますよ!」
「頼む!」  

加藤は携帯を取り出して石塚の携帯を鳴らした。石塚は出なかった。
運転してるから電話には出られないか?
加藤は呼び出すのを止めて携帯を切った。そして何気なく前を、メーターを見た。
メーターは動いていなかった。

 「おい!」
加藤は呼びかけてメーターの上の、運転手の写真に目をやった。
『強熊 剛』・・・・つよくま?
 「つよくまさん!メーターが動いてないぞ?」
 「人一人の命がかかってるのでしょう。そんな事してられますか!」
 「だが・・・」
 「それと、『つよくま』じゃありません、“強い熊”と書いて『きょうま』です。」

運転手が言った時、着信音が鳴ったので、加藤は慌てて通話ボタンを押した。
 「俺だ!やはりそうか!優李の行き先は名古屋だ。今、東名の用賀に向かっている。高橋さんには俺が連絡する。それより気をつけろよ!死の大天使だ。本部から来た写真で見た一番危ないヤツだ!」
加藤は電話を切ると、今度は高橋に連絡を取る為に携帯のボタンを押した。

 「お客さん。」
タクシーの運転手は50メートルほど先のバイクを見ながら優李に話しかけた。

 「なにか?」
 「後です、白のカローラ。ああ、振り向かない方がいい。それから前のバイクです。尾行されるような心当たりは?」
優李は舌打ちした。
くそ!グレーの他にもいたのか!

 「・・・・捲いてくれ。」
 「厄介事は困るんですよ。料金はいいですから降りていただけると助かるんですがね。」
運転手は答えた。それを聞いて優李は溜息をついた。

 「・・・タクシーが拾えそうな所は?」
 「もう暫くすると東名高速ですに。そこの高架下をくぐるとすぐにゴミ焼却場にぶつかります。右折してまっすぐ行けば環8へ出ますが、左折して回り込んでも環8に出られます。もし環8でタクシーが拾えなかったら、環8を越えて・・・歩いて10分位の所にある田園都市線の用賀駅ですか。あそこなら間違いない。」

 「分かった。環8の手前で降ろしてくれ。」
 「悪いですね。」
運転手はほっとしたように返事をした。

 「但し、車は停車させないでくれ。スピードを落として・・・」
 「飛び降りるつもりですか?怪我しますよ。」
 「なんとかする!頼む!」
 「・・・どうなっても知りませんよ。」
 「ああ、分かっている。」
 「・・・高速の高架下、そこが一番暗くて分かり難い。左側のドアを開けますから。」
 「ありがとう。」
運転手は何も言わず無線を取ると、もそもそと聞き取りにくい声で業務連絡をしながら運転を続けた。

タクシーは高速に近づくにつれスピードを落とした。
そして東名の高架のずいぶん手前で右折のウィンカーを出した。バイクはタクシーより先に東名の高架下を抜けると右折した。続いてタクシーも右折する。タクシーの後を追うように白いカローラもやはり右折してスピードを上げて、そのまま環状8号線の方向へ走り去った。

優李は車の姿が見えなくなるのを確認してから起き上がった。そして、すぐに車の走り去った方向とは反対側へ向かって走り出した。
彼女は走るスピードを上げた。その時、彼女はようやくそれの存在に気づいた。
剣を素早く抜き、それを突く。それはすぐに消えた。
優李は小さくターンをして止まると、すぐに用心深く周囲に注意を払い、気配を探った。
他は・・・・何もない。しかし・・・

優李は眉を顰めた。
迂闊だった。グレーの車の奴等だ、あの時からずっと付けられていたのだ。
優李は目を瞑ると大きく深呼吸をした。それから再び左側に向かって全力で走り出した。
どこへ行く?

彼女は走りながら隣を見た。コンクリートの塀は高かったが、中には煌々と明かりがついているのが分かった。
こんな時間でも稼動しているのか?人がいるなら隠れやすい。だが、奴等は皆同じだ。わたしだけでなく、関係ない人間も平気で殺す。

彼女は走るスピードを上げた。
人のいる所は・・・関係のない人間を巻き込んでしまう。この先は?何があった。
彼女はアスファルトを必死に蹴りながら考えた。
この辺の地理には詳しくない。だが、もう少し行って突き当りを左折すると確か広い道路で・・・テニスコートがあったはずだ。そして、その先には・・・
その時、サイレンの音が微かに響き、彼女は思い出した。

病院だ!救急医療センター。大きな病院、人の沢山いる・・・・
彼女はアスファルトを蹴る足に力を入れた。
病院はダメだ!絶対にダメだ。それならその先は・・・いや、それ以上先に逃げるのは無理だ。
彼女は、右にしか曲がれない突き当りを右折した。すると視界が開けて、優李が覚えていたように右手にテニスコートと駐車場、そして左手には森が見えた。道のずっと先には背の高い大きな建物がそびえていた。彼女はようやく全てを思い出した。

そうだ、昔遊びに来た。テニスコートの奥は陸上競技のトラックがあって、ずっと遠くまで見通せる平らな場所だ。そしてその向こうは・・・川。行き止まりだ。橋は?・・・何処にあるか分からない。
彼女は走りながら右側を見た。

公園だ。起伏があって大きな木が沢山ある、まるで森のような・・・大きな広い公園。1周するのに一体どれくらいの時間がかかったか?
ここなら、人のいない今は隠れるにはいい場所だ。だが、彼らのような相手ではみすみす捕まりに行くようなものだ。
気配を完全に消し去る事など出来はしない。結界を張られたらすぐに見つかってしまう。わたし一人では絶対無理だ。でも、このままではすぐに見つけ出される。
どうする?どうしたらいい?どうしたらいいのだ!!

決して忘れてはいけない。君は強い、一人で立てる子だ。
だから君は、どんな苦難も困難も叩き伏せて必ず君の望むものを手に入れられる。

不意に優李の脳裏に言葉が浮かんだ。
アーロン。剣を教えてくれたわたしのガードの別れの言葉。
そうだ。アンドレはちゃんとわたしを信じてくれたのだ。それなのに、わたしは・・・

優李は唇を噛んだ。
信じていなかった。自分を信じていなかったのだ。わたしは・・・臆病者だった。
優李はスピードを上げた。

 「不味いな。娘は気配を隠したぞ。結界がないここでは追跡は難しいぞ?どうするフロレル。」
男は、ショートボブの色の白い美しい青年に向かって尋ねた。
 「だけど使い魔が連絡を絶った焼却場は、道路を隔てて高速道路と絹縫公園とテニスコートに囲まれるように建っているからね。焼却場前を左折して、突き当りを右に曲がったこの道に出るしかない。違う?レミー。」

 「まあな。俺達の車はすぐに引き返したから・・・テニスコートの奥の陸上競技場の方へ逃げたのか?」
レミーと呼ばれた男は、テニスコートを見ながら言った。
 「見通しが良すぎる。それならすぐに見つかるはずだぜ?」
もう一人の目つきの悪い男が、唾を吐き捨てると答えた。
 「あとはこの先にある病院だね。時間的にはそこら辺が限界だよ。」
 「ああそうだ。だが、レトーから連絡は来ていない。つまり娘は病院までたどり着いていない。つまり・・・」

レミーは突然黙り込んだ。
 「・・・バイクの男だね?環8から回り込んだんだ。今・・・・病院前を通った。直にこちらへ来るよ。」
フロレルが察して答えた。

 「公園に隠れよう。」
 「車は大丈夫なの?」
 「ああ、ナンバープレートは取り替えた。」
 「エンジンは?まだ暖かいだろう?」
 「ちゃんと急冷した。」
 「使った痕跡は残してないよね?」
 「そんなヘマするか!」
 「来るぞ!」

3人の男は、3メートル近くはありそうな高い棒状の先の尖った柵に走り寄ると、易々と乗り越えて公園の中へ入り込んだ。
それと共に、小さかった音はだんだんと近づいて彼らがいた辺りで止まった。
しかし暫くして再びエンジンのかかる音がして、バイクは走り去った。

 「・・・・行っちまったぜ?それも病院の方へ戻ったぞ。何故焼却場の方へ行かなかったのだ?」
男の一人が公園の外の気配を探りながら言った。
 「もしかしたら何か掴んでいるのかもしれない。」
 「迷わず戻ったからね。環状8号線へ出ると確信している様子だよ、あれは。」
 「俺達の車を調べていたな?」
 「ナンバーも取り替えて、魔法を使ってしっかりと冷やしたんだ。ずっと路駐してあった車にしか見えない。それより問題は娘だろう?」

 「焼却場の中だ。公園に隠れるような馬鹿な真似はしないだろう。」
 「しかし、焼却場の中は厄介だぞ。かなりの・・・人の気配がある。」
男はどこか遠くを見るような目で、明りの灯る焼却場を見て心配そうに言った。
 「邪魔なら全員ヤッちまえばいいだけさ。」
目つきの悪い男は楽しそうに答えた。

 「ニコ!無駄な殺生はご法度だぞ。マクシミリアンの言葉忘れるな!フロレル、お前からも・・・フロレル?」
青年は相変わらず木の生い茂る公園の奥を見つめていた。
 「フロレル、どうかしたのか?」
彼はレミーに微笑むと 「愛しい人(ma biche)はきっとこの中だよ。」 と答えた。

 「愛しい人?笑わせるぜ、殺す相手に。」
ニコが馬鹿にしたようにフロレルに言い放ったが、彼は気にも留めない様子で楽しそうに答えた。
 「鹿だよ、女鹿(ma biche)。優美な女鹿が身を隠すのは森の中しかないだろう?」
 「それはそれは!ではこれから森で鹿狩りか!残念だなあ。俺は今、鹿撃ち銃の持ち合わせはないぜ?フロレル。」
青年はニコを見ると、にっこりと微笑んだ。  「たとえ銃があったとしても、あんたの腕じゃ掠りもしないよ。」

その言葉と同時にニコはナイフを取り出してフロレル向けたが、彼に出来たのはそこまでだった。フロレルはいつの間にか彼の腕を掴んでいて、いとも簡単にナイフをニコから取り上げると、5メートルほど先の桜の木に向かってそれを投げた。ナイフは木の幹にしっかりと突き刺った。

フロレルはニコに、女のように美しい顔で微笑んだ。
 「取って来たら?」
ニコは何も言わず木に近づくと、突き刺さったナイフを抜き取ろうとした。その時、フロレルはもう一度彼に声をかけた。
 「無駄だよニコラス。それとも試してみる?お得意の鞭でもいいよ。」
ニコは下卑た笑い顔をフロレルに見せるとナイフを抜き取り、それをしまった。
もう一人の男はその様子を黙って見ていたが、首を振るとフロレルに言った。

 「フロレル、アムからの連絡から推測するとかなりの使い手だぞ。そんな奴がわざわざ公園など入り込むだろうか?」
 「彼女、長剣だってね。顔だけは傷をつけないように気をつけないといけないね。」
 「顔だけはか?ならば身体は切り刻むか?それは俺に任せて欲しいな。」
フロレルは、嬉しそうに言ったニコを呆れたように見た。

 「傷は一つだけでいいのさ。」

彼はそう言うと、公園の奥へ歩いていった。
 「フロレル!何処へ行くんだ?おい!」
フロレルは手を軽く上げただけで返事をしなかった。
ニコはフロレルの後姿に向かって叫んだ。

 「勝手な事ばかりしやがって!カマ野郎が!」
 「ニコ、止せ。聞こえるぞ!」
レミーがニコに諭すように言ったが、彼は構いもせずに唾を地面に吐き捨てると不機嫌に言い放った。
 「マクミシリアンのお気に入りか何か知らんが、俺はあの男女は気に入らん!」
 「ニコ!もうちょっかい出すな。あんな女に間違えそうな面だが、中身は・・・分かっているだろう。」
 「ああ、妖魔に関してはヤツが俺より数段上だ。だが人をヤルなら俺の方が上かも知れないぜ?」
それを聞いて、レミーは黙って首を振った。

 「とにかく!フロレルは娘の気配を察したのかも知れん。オレはレトーに状況を説明して善後策を練る。」
 「何故だ。レトー達はこれから新宿へ向かわねばならないのだろう?」
ニコラスはレミーに尋ねた。
 「レトーにはここへ残ってもらう。新宿は、陽動だ。3人も行けば十分だろう。」
 「それでは俺は、焼却場を調べればいいか?」
 「ああ。だが誰も殺すなよ!絶対だ!アム達が来たら状況を説明して奴等に任せろ。劉の所からも応援が来る。」
 「何だそれは?面白くもない。」
ニコはその言葉に不機嫌そうに言った。

 「面白い事なら他にある。」
ニコはレミーの顔を見た。
 「バイクの男だ。奴も娘を追っているぞ。探し出して捕獲する!」
それを聞いてニコは嬉しそうな顔をした。
 「捕まえたら切り刻んでもいいか?」
 「その前に娘の護衛の動きを聞き出すのだけは忘れるな。聞き出した後なら、お前の好きにさせてやる。」

女鹿
“鹿”はフランス語で biche そして ma bicheは“女鹿”になるが、鹿の持つ優雅さや優しい感じから女性の愛称としても使われる。この場合 ma bicheは“愛しい人”の意になるらしい。