「睡眠薬を渡したわ。年末に医者から貰った一番強いのをね。」
ジャンヌは優李の部屋の扉の前のソファで毛布をかけて熟睡しているガードを横目で見ながら答えた。
板倉はそれを聞くとガードから目を離し、高橋を睨みつけた。
 「モニタのチェックは、何をしていた!優李の様子は!何か様子がおかしくはなかったのか!」
 「まったく!呆れてものがいえないわねえ。」
その言葉に板倉はジャンヌへ向き直ると怒りを含んだ声で尋ね返した。

 「何が言いたい?」
 「決闘を知ってからの優李はどうだったの?様子は?あれが普通だと?気づかないとはまったく笑えるわ。それともう一つ。馬鹿の為に教えてあげる。ちゃんとチェックしていたから優李が外へ出たのもすぐに分かった!」
二人は睨み合った。その様子に高橋は自分に注意が向くようにわざと声を大きくして報告をした。

 「9時頃優李の携帯に電話が入りました。学校の先輩のようです。これは2,3分で切っています。その後すぐにもう一度電話がありました。こちらは少し長くて10分ほど、相手が一方的に話して優李は黙って聞いているだけでした。そのあとはずっとパソコンの前に。11時半ごろコーヒーを自分で入れて・・・」 彼は熟睡しているガードをちらりと見た。
 「内村にもコーヒーを。それから12時半に消灯しました。」
板倉は苦々しげにガードを見たがすぐに高橋に向き直ると尋ねた。
 「爆発といたずら電話の件は?何か進展はあったのか。」

 「爆発は、やはりスタングレネードでした。3つ投げ込まれていましたが、2つは接触不良が原因で不発でした。警察の話によると、不発だったものは爆発したものとは違い、光と音だけでなく人に怪我を負わせられるタイプともう一つは普通の手榴弾だそうです。」
 「・・・・不発で助かったという訳だな。」
高橋は黙って頷くと報告を続けた。
 「投げ込んだ人物は、監視カメラには映っていません。カメラの死角をついてうまく庭に、それも警備室のすぐ側に投げ込んでいます。」
 「それも“火事だ!”という声に斉藤が窓を開けた所を見計らってね。部屋に投げ込まなかったのは甘いけど、いい判断よ。」
ジャンヌは皮肉交じりに言ったが板倉は反応せず、続けるように高橋に目配せした。

 「電話の件ですが、最初の通報は34件で18〜20歳位の全員若い女性の声だそうです。爆発音の10分ほど前に集中しています。そして爆発音の直後に“爆弾が爆発した”という周辺の住民からの110番、119番通報が83件です。」
 「管轄署は周辺に応援を要請して必要以上の消防車や救急車をここへ寄越したので、結果があの騒ぎ。例の組織の方があたし達より数倍上手ね。」
板倉はジャンヌを見ずに答えた。
 「まだ彼らの仕業と決まった訳ではない。優李かもしれない。」
 「おやおや、そうすると協力者がいるわね。一体誰かしら?スタングレネードどころか手榴弾まで手に入れられるなんて、一体どんな協力者かしら?」
ジャンヌは板倉に尋ねたが、彼はそれには答えずそれを無視して高橋に尋ねた。
 「最初の通報は全員若い女性の声だと言ったな。優李の友人は?」
 「友人?はっ!馬鹿につける薬はないとは、このことね!これじゃあ板倉の後継ぎにはもう1人候補者決まるのも無理ないわねえ。」
ジャンヌは如何にも小馬鹿にした様子で板倉に言った。彼女の態度に板倉はキッと睨むと彼女に怒鳴った。
 「ジャンヌ!いい加減にしろ!優李に憧れている子は腐るほどいるのだぞ!何も分かっていないのは君・・・・」
いきなり壁にジャンヌが拳を叩きつけた。その音に板倉は思わず口を閉ざし、周囲にいた人間は手を止めてジャンヌに注目した。ジャンヌは板倉を睨みつけながら言った。
 「では優李が頼んだとでも?優李が何の為に距離を取っていると思うの?学校の子だけじゃない!あたし達にもそう!あの子がどうしてそうするのか、どんな気持ちでそうしているか、あんたは何一つ分かっちゃいない!」

誰も口を開く者はいなかった。部屋は静まりかえったままだった。少ししてよくやく高橋が口を開くとジャンヌに言った。
 「優李の携帯の使用状況について警察から連絡が入る。結論はそれからだ。」
ジャンヌは目を伏せると 「分かっている。」 とだけ言うと、黙り込んだ。

板倉は、ジャンヌに様子を苦々しげに一瞥してから優李の部屋を見回した。そして、机の上に置かれた携帯を見つけると手に取った。
 「こちらもか?」
 「勿論です。」

板倉は携帯を開いたが、待ち受け画面を見るとすぐに力任せにそれを閉じた。板倉は腹立たしげな様子で尋ねた。
 「駅はどうなっているのだ!」
 「北烏山駅へ向かった形跡はありません。カードを使用不可にしたので、今はタクシー乗り場だけ見張らせています。」
高橋が言った。
 「GPSは?」
 「最初動きがなかったのですが、今はかなりのスピードで移動しています。」
 「車か!坂本は何をやっている!」
 「ようやく車を出せたので、田口と調査部の3名を連れて追跡中です。」
高橋はそう言いながら地図を広げ、板倉に説明した。
 「動かせる人間は全て使って・・・このあたりまで捜索中です。本部にも応援を要請しました。この時間使えるATM機は3件、すべてコンビニに設置されたものです。一つは屋敷の横の道をまっすぐ南西に行った・・・ここです。あとは、西へ行った川を越えたこちら、それともう一つが線路を越えたここです。近藤他2名をコンビニに向かわせました。しかしどこにも優李の姿は目撃されていません。」
高橋は指で差し示しながら言った。
 「深夜営業の飲食店等は、この辺りにはありません。一番近い所でここから直線距離にして2キロ近く離れた場所です、そこにも人をやりましたが優李が訪れた形跡はありません。タクシー会社には警察が手配中です。もし優李が偶然通りかかったタクシーに乗ったのなら連絡が入りますが・・・」
高橋は地図から目を離して板倉を見た。

 「なんだ?」
 「白タクなどの無認可タクシーなら連絡は入りませんし、ヒッチハイクの場合もです。ですが優李の性格からすると見ず知らずの人間の運転する車に乗るなどとは到底考えられません。あと偶然に自転車を手に入れたということも考えられますがその場合も・・・」
 「馬鹿なことをしてくれる!」
板倉は声を荒げた。
 「身から出たさびよ。」
ジャンヌは言った。しかし板倉は何も言わなかった。

 「今の所、盗聴している新宿の中国系マフィア幹部にも目立った動きはありません。」 高橋は報告した。板倉は暫く考え込むと、確認するようにして高橋に尋ねた。
 「優李は現金は持っていない、これは間違いないな?・・・家族のは?」
 「全員に確認しました。異常無しです」
 「南青葉駅はどうなっている?あそこは遠いが大きな駅だ。ATM機にタクシー乗り場、この時間営業している飲食店もいくらでもあるだろう?」
板倉は、家から離れた、ずっと南にある駅を示して高橋に尋ねた。

 「村上他4名を向かわせています。現在渋谷方面へ迂回して向かっています。ですが、坂ノ下の交差点で夜間工事中です。その上その先の池尻でトラック同士の衝突事故で現在通行止めだそうです。ですから南青葉駅到着まで、あと20分はかかります。」
高橋は迂回路を地図をなぞって示しながら言った。
板倉は眉を顰めた。
 「何故渋谷方面へ迂回する?最初から南へまっすぐ下って・・・」
板倉は地図を見ながら言いかけて黙りこんだ。それからすぐに 「チビの散歩コースか。迷路だったな。」 と、苦々しげに付け加えた。高橋は頷いた。

 「南へ下った一帯は道が狭い上に斜面に住宅が入り組んで建っていて、行き止まりに段差や階段が至るところにあります。自動車どころか自転車でも無理です。夜はタクシーの運転手ですら決して走りたがらない迷路どころか樹海です。」
 「だが優李には当てはまらない。」
 「ええ。優李なら道を熟知していますし、抜け出すのは簡単でしょう。ですが、徒歩しかありません。そうすると、どんなに急いでも50分はかかります。先を越されることはありません。」
板倉は考え込んだ。その様子を見てジャンヌはイライラしながら言った。
 「逃走資金はない。もう手詰まりよ!パスポートを取り戻しに来るしかないでしょう。家の周りに重点を置いて・・・」
 「優李のパスポートは?何処にある!」

突然叫んだ板倉を、ジャンヌは横目で見ると答えた。
 「あたしがへまをするとでも?いいわ、今持ってくるから。」
 「ああ、頼む。」
ジャンヌはパスポートを取りに部屋を出て行った。
板倉は部屋を見回した。
そして、パソコンに目を留めた。彼はパソコンに近づくとモニターとパソコン本体を見つめた。

丁度ジャンヌが部屋に戻って来て板倉に優李のパスポート差し出した。
 「板倉、これよ。」
板倉はそれを受け取ると・・・パスポートを開いて、優李の写真を確認ながら言った。
 「ぼくが預かってもいいか?」
 「ええ、どうぞ。」
板倉は上着の内ポケットにそれをしまうと、パソコンの電源を入れた。
しかし、起動はしなかった。
 「フォーマット(初期化)されているな。」
ジャンヌは怪訝そうに板倉を見た。
板倉はパソコンを見つめながら高橋に命じた。
 「大谷を呼んでくれないか?復元だ、大至急だと。」
 「わかりました。」

板倉は考え込みながら続けて指示を出した。
 「それから成田と・・・一応羽田にも手配をしてくれ。偽造パスポートを使われる可能性がある。確認できるように優李の写真をコピーして持って行くようにと。あと列車の始発が動き出してからの事も考えて駅に優李の写真を配れるよう手配をしてくれ!」
 「駅は無駄。」
 「優李は目立つ!やる価値はある!高橋!」
 「分かりました。都内と神奈川県、全ての駅に手配します。」

高橋が部屋を出て行ったちょうどその時、着信音が鳴った。ジャンヌは携帯を取り出すと開いてボタンを押した。
 「Allo?-Allo,oui・・・・Oui!・・・Oui,bien sur・・・」
そして今度は板倉の携帯が鳴った。
 「ぼくだ、ああ・・・ああ。」
板倉はジャンヌを見た。
ジャンヌも同様に板倉を見て頷いた。  「ああすまない。ああ・・・・ああ。人数は・・・ああ、分かった。何かあったらこちらにも連絡してくれ。」

通話を切ると少し遅れて通話を切ったジャンヌに言った。
 「手のあいている者は?」
 「いるわけないでしょう!猫の手も借りたいのよ!」
ジャンヌは声を荒げた。それから溜息をつくと 「・・・パートタイムで動ける人間を当たってみる。」 と言った。
 「頼む。斉藤!坂本から連絡は?」
板倉が部下に尋ねると彼は困ったような顔をして 「まだ連絡は・・・」 と遠慮がちに答えた。

 「連絡しろ!今の状況がどうなっているのか!何か分かったらすぐぼくに電話をまわせ!」
 「はい、分かりました。」

倒れる!
そう思った瞬間、優李はバランスを崩してアスファルトの地面に身体を思い切り叩きつけた。膝と肘にはプロテクターをしていたが、スピードを出していた分、身体の受けた衝撃は大きかった。
身体中に激痛が走る。何とか起き上がろうとするが、痛みの為にすぐに動けない。額から何かが伝ってアスファルトの上にポタ、ポタ、と落ちた。
 「畜生・・・・」
もう少しで駅なのに。急がないと、もし捕まったら・・・

 「アンドレ・・・アンドレ。」
優李は名前を呼んだ。

こんな怪我じゃない!もっと酷い。きっとこんな痛みじゃない!
馬鹿だ、おまえは。わたしの為に、わたしなんかの為に・・・・
優李はやっとの思いで痛みをこらえて立ち上がった。そして10メートルほど進むとフェンスの切れ間から飛び降りてスピードを上げた。

駅のコンコースに入ると周囲に気を配りながら見回す。タクシー乗り場はすぐに分かった。コンコースには停車しているタクシー以外、何もなかった。
優李は10台ほど並んでいる一番先頭のタクシーの前へ向かって走り寄るとコツコツと窓を叩く。するとすぐに後部のドアが開いたので急いで乗り込むと扉が閉まった。行き先を告げようとするが、息が切れてすぐに言葉が出ない。

 「お客さん、大丈夫ですか?血が出てますよ、額のところ。」
 「・・・転んだだけだ。」
何とか息を整えると優李は答えた。
 「随分酷く転びましたね。」
 「それより行ってくれ。」
 「どちらまで?」
優李は行き先を告げた。
運転手は振り返って優李を見た。
 「・・・お客さん、その・・・どの位飲んでますか?」
  「飲んでなどいない!」
優李は叫んだ。
運転手は暫く優李を見つめると言った。
 「・・・では本当に?」
 「ああそうだ!大至急だ、行ってくれ。」
優李は言った。

タクシーが動き出して、優李は急いでベルトを外すと背広のズボンを脱いだ。するとその下からデニムの細身のパンツが現れた。優李はリュックからコンビニで買った時刻表を取り出し、かわりにそのズボンを放りこむと溜息をついた。それから運転手に聞く。

 「どれくらいかかる?」
  「そうですね。最低3時間はかかりますから・・・・早ければ7時ぐらいですか。」
  「ライトをつけても?」
  「ええ、どうぞ!」
  「ありがとう。」
時刻表をめくる。

パリへの直通便は・・・・・10:40発、これなら間に合う。
優李は考え込んだ。
用心した方がいい。念の為だ、時間はかかるが・・・
優李は時刻表を見た。

8:40発、だめだ!間に合わない。
それなら経由する?・・・・11:15発 ロンドンのヒースロー空港 15:40着 これだ!
乗り換えて、シャルルドゴール空港。そうすれば明日の夕方にはパリだろう。
しかし・・・・
ドゴール空港は見張られているかも知れない。
優李は目を伏せた。

大丈夫、見つからない方法はある。賭けかも知れないが。
本を閉じてライトを消す。そして彼女は溜息を一つ付く。
パソコンはもう調べただろうか?フォーマットしかしていない。調べるのにどのくらい時間をかけてくれるだろうか?