名前を呼ぶ声がする。
消防車が何台も並んで停車して視界が遮られている塀を優李は構わず乗り越えた。その途端、サイレンとよく似た音が鳴る。
システムは万全だ。 だがこの有様では効果がまるでない。

背広の上着を急いで脱ぎながら優李は辺りを見回した。消防車の給水ホースが目に留まる。
いい場所だ。
脱いだ上着と野球帽を消防車の下に放り込み、ポケットに手を入れてそれを取り出すとホースの中に押し込んで急いで離れる。

また名前を呼ぶ声がした。彼女はフードを深く被ると、ベルトに差し込んだ細長い布袋の上をずらしてすぐに中の剣を抜けるようにように鞘を軽く握りながら人を掻き分けて進む。

すごい人だ!誰も気に止めない。まだ声が・・・・かすかに自分の名前を呼ぶ声がする。
南へ下る道へ出ると、坂の下から何人もの人が走ってくる。自動車もだ。しかし彼女はそれにかまいもせず、足首と膝を深く曲げて、重心を低くして坂道を一気に下る。

赤信号の交差点、そこから急な登り坂。
交差点の左側から自動車が走ってくるのが見える。
抜けられるか?否、抜ける!止まっている暇などない。

優李はそのまま減速せずに交差点に突っ込む。自動車が急ブレーキをかける音が響く。少しして優李の背後で 「バカヤロー!」 と叫ぶ声がした。
優李は更に路面を強く蹴って坂を上る。
時間がない!急げ!時間がない!

長い坂の頂上にあるコンビニに飛び込むと中には店員以外誰もいなかった。
髪を金髪に染めて片耳にピアスをした店員は、息を切らしながら店へ入った優李をチラッと見ただけでカウンターの中で雑誌を読み続けた。
優李は店内を見回してATMを見つけると、急いでその前へ立ってカードを入れた。

画面の指示に従いボタンを押す。それから暗証番号、金額。確認のボタンを押す。だが現金は出ない。かわりに再び金額入力の画面が表示される。優李は一旦キャンセルしてもう一度同じ操作を繰り返した。しかし金額入力の画面が再度表示されてそこから先に進めなかった。

何故?まだ5分も経っていないはずだ。もう止められたのか?間に合わなかったか?これが駄目なら別のカードで試してみるか?

もう一度画面を見つめ・・・優李は一度に引き出せる限度額があるのを知った。金額を入れ直し、暫し待つと現金が何事もなく出て来た。それを掴むようにして取ると内ポケットしまい、操作をあと4回くり返した。それから優李は窓側の雑誌の陳列コーナーへ行くと時刻表を探した。

時刻表を見つけるとそれを掴んでレジへ向かおうとして、優李はふとガラス越しに外を見た。
駐車場の前の道路、グレーの乗用車が一台止まっている。店に入るまではいなかった。客ならとうに店に入ってきてもおかしくない。
レジで金を払うと時刻表をリュックに放りこんで、ブルゾンのジッパーを下げてから自動ドアの前に立つ。

優李が外へ出るのを見計らったように車のドアが開いて中から2人の男が出てきた。日本人ではない、見知らぬ男達。
優李はクスリと笑った。
だが、見慣れた男達だ。10メートル程の距離、それでも分かる。わたしが一番嫌いな龍のガードと同じ臭いがする。

優李は何事もないようにゆっくりと道路へ向かって歩いた。男達もゆっくりと動く。3メートルの距離で優李は立ち止まり、ちらっと車を見た。運転席に一人。計3名。

 「ねえ君」
男の一人が馴れ馴れしく優李に声を掛けると、愛想良く笑って言葉を続けた。
 「オレらと遊ばない?」
もう一人の男は黙ったまま優李を見つめていた。

優李は黙ってサングラスを外した。
真っ青な瞳が彼らの前に現れた。
彼らは・・・勿論彼女の顔は知っていた。だが間近で見るのはこれが初めてだった。

彼女の赤い唇の端が少しだけ持ち上る。そして唇は言葉を発する為に開かれようとする。
だが彼らはそれすら気づかない、その青い瞳から目が離せない。かわりに彼らはその瞳の色が僅かに暗く沈んだのに気づいた。
しかし、すでに遅すぎた。
「Non!」 という言葉と共に凄まじい衝撃が彼らを襲った。

ギィーーーイ!
急に鋭角で左折した為、優李のシューズは地面に火花を散らした。そして後方から車のタイヤが鳴る音が後を追う。優李は地面を蹴る足に力が入る。

次は・・・30メートル先、1メートルほどの段差で駐車場だ。
彼女はその段差を感じさせないように滑るようにそれを超えた。車もそのまま突っ込んだ。ガシンという音、それから底を擦るギギギーという音が深夜の住宅街に響く。しかし車は駐車してある車にぶつかることなく追尾を続ける。

腹が立つほどいい腕だ。だがもう少しの辛抱だ。
300メートルほど行って右。もう少しだ。よりいっそう地面を蹴る足に力を入れる。
ここだ、右折。

次、200メートル先は・・・階段。1メートル程の幅。車は無理だ。右は壁、そして左に手摺、スチール製の丸パイプ。確か15メートル程の長さだ、かなり長い。だが大丈夫!アンドレと何度も公園で練習したのだ。飛び乗る時のタイミングとあとはバランスだ!それさえ誤らなければ難しくはない!

薄暗い街路灯に照らされて空色の手摺のパイプが見えた。
優李はそれに飛び乗ってシューズを寝かし、車輪の取り付けられているフレームの部分を使ってそのまま一気に階段の手摺のパイプの上を滑り降りた。

 「・・・逃げられたな。」
信じられない面持ちで運転手は言った。
 「なんて腕だ!洗いざらい調べたのではなかったのか!」
腕を押さえながら一人の男は言った。

 「銃は定期的にグアムで射撃練習をしているからかなりの腕だとは分かっていたが、まさか剣とは。」
 「完全に油断した。多少使えるとは聞いていたが・・・あんな凄まじい“気”を操るとは!剣の刃風だけでこの有様だ。」
 「“使い魔”は追ったのか?」
 「ああ。だがあれだけの“気”を操るのだ、期待は出来ない。見つからぬよう、うまく追尾してくれればいいが。」
 「何処へ向かう気だろう?」
 「さあな?だがコンビニで現金を引き出していた。それと時刻表だな、あれは。どこか遠くへ行くつもりだぞ。」
 「家へ帰る気はさらさらないか。ひとまず友人の所へでも身を隠すか?」
 「そんなものはいない。孤独さ。何もない、不幸な子供だ。」
 「だが金はある。腐るほどな。金さえあれば何でも手に入る。」
 「あと3年、龍に殺されるまではな。」

 「無駄話はいい!それよりあの娘、車は運転できるのか?」
 「出来ない。これは間違いない。」
 「すると、公共交通機関が動いていない今は徒歩か・・・・タクシーぐらいだな。」
 「タクシーか?この時間はこの周辺で捕まえるのは不可能だ。配車を頼む方が確実だぞ。」
 「ここでは無理だ、タクシーですら迷う。それに!たとえ少しの時間でも一所へ留まりたくはないだろう。配車はない。」
 「ならばタクシー乗り場でタクシーを拾う。家の側の駅の隣駅・・・北烏山駅は?あそこにはタクシー乗り場がある。」
 「それはないだろう。家の方へ戻る事になる。逃げる者の心理だぞ、少しでも遠くへだ。」
 「ならばここから南東にずっと下った川の側の駅は?」
 「南青葉駅か!」
 「ああ、あそこならこの時間でもタクシーを捕まえられるし、小さいが繁華街もある。身を隠すのには便利だろう。」
 「しかし、ここを抜け出すには・・・」
 「あれならかなりのスピードが出るぞ!」
 「その通りだ。フロレルとレトーに連絡しろ。計画は変更だ、南青葉駅へ向かえと。俺はマクシミリアンに連絡を取る。かく乱用の人員がいる、娘の護衛の動きを封じなければならんからな。何があったのかは知らんが千載一遇のチャンスだぞ。」