アンドレはまた寝返りを打った。だが、どんな体勢になろうとも、頭の中がゆらゆら揺れているような気持の悪い感覚は少しも良くはならなかった。それでもアンドレは少しでも楽になる体勢を探してまた寝返りを打った。窓から光が差し込み彼の目を射した。アンドレは目を細めると毛布を引っ張りそれを被った。すると微かに香りがした。それはここにあるはずのない香りだった。アンドレは驚いて毛布を見た。だがそこには誰もいなかった。アンドレは自嘲した。

飲み過ぎて感覚がおかしくなってしまったのだ。でなければオスカルの香りなどするはずがない。アンドレは苛々しながら毛布を被った。するとまた微かに香りがした。その香りは纏わりつくように彼を包んだ。それは彼の気持ちを一層不快なものにした。

アンドレは毛布を捲ると重い体を無理やり起こした。頭の中の揺れるような感覚が一層酷くなる。それは胃の上に何か重いものを乗せて押しつけられているような感覚を呼び起こした。アンドレは顔を顰めると思わず額を手で押さえた。

どの位時間が過ぎたか分からなかった。頭の中の揺れは相変わらずだったが、吐気は少しだけ収まった。アンドレは顔にかかる長い髪を鬱陶しげにかき上げると後へやった。

彼はリボンがないのに気づいた。しかし、捜す気にはなれなかった。彼は視線だけを動かして捲った毛布を見た。このまま横になって眼を閉じてしまいたい誘惑に駆られる。だが、いるはずのない女を感じるのは我慢できなかった。

アンドレはのろのろと身体動かし、やっとの思いで寝台の端に腰をかけた。だがすぐに立ち上がる事は出来なかった。彼は両手で顔を覆った。

一体今は何時だろう?出がけにオスカルは今日1日好きにしていいと言ったが・・・
アンドレは顔から手を離した。そうだ。オスカルは・・・帰って来ているのか?

その途端胃を掴まれるような感覚が襲う。喉元まで込み上げたように感じたものは吐いて終りに出来るものではなかった。彼はそれを飲み込むと再び両手で顔を覆った。

 「全部吐き出せたら、どんなに楽だろう。」
アンドレは一人ごちた。

アンドレは側にある椅子の背もたれに手をかけると勇気を奮い立ち上がった。目眩がした。目を瞑り額を手で押さえる。しかし目眩は収まらなかった。アンドレは小さく悪態をついてそれが収まるのを待った。暫くして彼はようやく目を開けた。そして気付いた。彼は茫然と部屋を見まわした。

 「おれの部屋じゃない。」

 「・・・パルスヴァル。」
遠慮がちに掛けられた声にパルスヴァルは振り返った。開け放したままの入口に寄りかかるようにしてやっとの思いで立っている背の高い黒髪の男がいた。

 「パルスヴァルすまない。昨夜はその・・・」
男は口ごもった。
 「突っ立ってないで座れ。話はそれからだ、アンドレ。」

パルスヴァルはアンドレに向かって椅子を示した。アンドレは椅子に座ると、テーブル両肘をついて頭を抱えた。その様子にパルスヴァルは笑った。

 「そんな情けないお前を見るのは初めてだな。」
 「・・・そうか?」
 「ああ。髪を縛る気力もなかったのか?」
 「それ以前だよ。リボン探す勇気がなかったんだ。」
 「勇気とは大そうな言い回しだな。まあいい。スープ飲むか?丁度出来た所なんだが・・・」
 「いい。」
 「遠慮しなくてもいいぞ。」
 「そうじゃない。」
 「匂い嗅いだだけでも吐きそうか?」
パルスヴァルは楽しげに尋ねた。アンドレは小さく息をついた。

 「まだ酒が残ってる気がする。」
 「それはそれは。やはり作っておいて正解だな。」

パルスヴァルは棚からカフェオレボウルを取ると、水差しから何かを注いだ。彼はアンドレの前にそれを置いた。香りがアンドレの目の前で広がった。アンドレは顔を上げるとカフェオレボウルを見つめていたが徐に口を開いた。

 「パルスヴァル。悪いんだが・・・」
 「いいや、飲んでおけ。二日酔いの薬だ。」
パルスヴァルは言った。それを聞いてアンドレはカフェオレボウルの中の茶色の液体を見つめた。

 「飲めばあとで楽だ。ヒデえ味だがな。だからと言って一気飲みはするなよ。」
それを聞いてアンドレは仕方なくそれを持つとごくりと一口飲んだ。アンドレはパルスヴァルを見た。
 「苦いが不味くないぞ?」
 「二日酔いの奴にはそう感じるのさ。」

パルスヴァルは答えた。アンドレはゆっくりとそれを飲んだ。紅茶のようでまるで別のもののそれはどこか異国めいたものを感じさせた。それは胃に沁みた。アンドレは飲み干すとボウルを置いた。するとパルスヴァルはカフェオレボウルに並々と注いだ。アンドレはボウルをまじまじと見つめた。

 「これも・・・飲むのか?」
 「ああ。この水差しの中身全部だ。」
 「全部!」
 「急いで飲めとは言ってない。どうせ今日は休みだろう?」
 「どうして知ってる?」
 「その有様で仕事なんぞ出来ると思ってるのか?」
パルスヴァルの言葉にアンドレは苦笑すると 「その通りだな。」 と答えて溜息をついた。

 「・・・なあ、昨夜おれはどのくらい飲んだ?」
アンドレは2杯目を飲み干すと尋ねた。
 「ジンを5杯にラムを一本。それとラムを1杯。最後のラムは滅多に手に入らないやつで・・・あれの美味さは素面の時のお前でも分かりはしないだろうがなあ。」

パルスヴァルは残念そうに言った。アンドレは額を右手で押さえると 「じ・・・自殺行為だ。」 と空に呟いた。

 「俺は止めたぞ。」
 「覚えてるよ。おれとした事が・・・」
 「これに懲りてこれからは注意することだな。昨夜だってお前の知り合いだったから良かったものの、他人だったら殴リ飛ばされてるぞ。」
アンドレは顔を上げると酒場の主を見た。

 「・・・おれは何かしたのか?」
 「お前、覚えてないのか?」
パルスヴァルが思わず聞き返した。
 「上の部屋へ行った記憶すらないんだ。飲んでる途中から何も思い出せなくて・・・」
アンドレは頭を押さえた。
 「自分でも信じられないんだが。」
それを聞いて、パルスヴァルは苦笑した。

 「そうか、それならまあ・・・よかったじゃないか。」
 「・・・覚えていない方がいいって風に聞こえるぞ?」
 「そうか?」
アンドレは頭を押さえたまま眉を顰めた。
 「そうだよ。おれは何をしたんだ?おれの知り合いって誰だ?」
 「お前の友人だ。」
 「名前は?」
 「知らん。」
アンドレは情けない顔をしてパルスヴァルを見た。

 「嫌がらせで言ってるんじゃないぞ。そいつは昨夜、初めて店に来たんだ。お前の同僚から場所を聞いて来たと言っていた。名前は名乗らなかったから分からん。お前と違って酒の美味さが分かる男だった。」
 「誰だ一体?」
アンドレは考え込んだ。

 「とにかく、この件については触れるな。」
 「だけどおれの友人だろう?知らないでは済まされないじゃないか。」
 「なら、首筋の赤い痣がついては一切触れるな。」
アンドレは訳が分からず、パルスヴァルを見つめた。
 「痣は元々あった訳じゃないが、その男はそれについて決して触れて欲しくない理由がある。分かったな。」
パルスヴァル言った。それを聞いてアンドレは考えこんだ。

 「つまり、そいつは首筋の赤い痣について絶対触れられたくなかったのに、おれは酔いに任せてそれについて何かしたか、言った。それは殴られても仕方ないような事だった。そういう事か?」
 「・・・大筋は、そんな所だ。だからその件については何も言うな。お前は、何も覚えていないと正直に話すだけでいい。」

アンドレは何か聞きたそうな顔をしたが、パルスヴァルは 「お前は何も覚えていないんだろう? 覚えてない事をいくら謝罪されたところで気分は良くないぞ。」 と畳みかけた。それを聞いてアンドレはようやく諦めたような顔をした。

 「分かった。それ以上の詮索はしない。」
 「それがいい。それがお前の為でもある。」
 「それにしても一体誰なんだ?」
アンドレは呟いた。
 「長身。金髪で青目。目つきが鋭い。」
パルスヴァルは言った。アンドレは考えた。

 「・・・口数の少ない奴だったか?恰幅のいい?」
 「口数は少なかったが恰幅は良くなかった。少し瘠せ過ぎの感があった。」
 「なら、猫背だったろう?」
 「姿勢は良かったぞ。それはもう堂々としていた。」
それを聞いてアンドレは首を傾げた。
 「他に何か・・・特徴とかはないのか?」
 「特徴はあるが具体的にどう説明していいのか・・・いや、表現に困るんだ。ちょっと待ってくれよ。」
パルスヴァルは考え込んだ。

 「肌は白い。それも・・・抜けるような白だな。腰ぐらいまである髪はふわふわと煙るようで・・・まるで髪自体が光っているように見えた。で、唇は赤くて・・・紅を差したようだった。そして真っ青な瞳は心を射抜かれるようで・・・」
パルスヴァルは苦笑した。
 「言葉にしちまうとまるで女だな。」

 「オスカルか!オスカルがここへ来たのか!」
アンドレは叫んだ。
 「どうやら分かったようだな?」
 「ああ、そんな奴はオスカルしかいない。それよりあいつ何しに来たんだ?」
 「だから飲みに来たんだ。」
 「だけど!オスカルは昨夜・・・」
アンドレは急に黙り込んだ。

 「どうしたアンドレ。」
 「酷いな。」
 「何が?」
アンドレは答えなかった。手で額を押さえると苦いような面持ちで尋ね返した。

 「オスカルは一人だったか?」
 「ああそうだ。それがどうした?」
しかしアンドレはその問いに答えなかった。彼は更に尋ねた。
 「・・・来たのはいつだ?おれがここへ来てからどの位経ってた?」
 「2時間程後じゃないかと思うがはっきりとは・・・」

パルスヴァルは考え込んだ。アンドレは慌てて 「いいよ。そんなに大したことじゃない。」 というと目を伏せた。 「少し、気になっただけなんだ。」 彼は付け足すように言って黙り込んだ。

 「オスカルって奴の相手がそんなに気になるのか?」
パルスヴァルは尋ねた。
 「メルシ、パルスヴァル。その件はもういい。」
アンドレは額を押さえたまま言った。言葉の端にはこれ以上この会話はしたくないという意思が感じられた。

 「あのな、アンドレ。オスカルって奴は・・・・」
 「パルスヴァル!」

アンドレはきつい口調で名前を呼んだ。パルスヴァルは口を閉ざすとアンドレを見た。アンドレは両手でを額を支えるようにして 「もういい。お前も昨夜の件には触れるなと言ったろう?」 と続け、それきり黙り込んだ。パルスヴァルはアンドレの様子を見て苦笑した。

 「惚れてるのは同じ女か?」
 「誰と?」
 「お前とオスカル。」
アンドレは沈黙した。しかしパルスヴァルは続けた。

 「オスカルって奴は否定したが、本当はそうなんだろう? だからお前はオスカルに言わなかった。それとも言えなかったのか?」
アンドレは苦く笑った。

 「そうじゃない。」
アンドレは答えようとして口を開きかけたが思い留まった。
 「違うんだよ、パルスヴァル。」
彼はそれだけ言うと黙り込んだ。

 「否定したいならそれでもいいさ。だがな、お前の友人とお前の惚れてる女との間に何かあったと思うのは間違ってると思うぜ。」
アンドレはクスリと笑った。
 「・・・知ってるよ。それは有り得ない。」
 「だが、お前は友人を疑ってるだろう?」
パルスヴァルは尋ねた。アンドレは答えなかった。

 「オスカルって奴は、今の恋を諦めるつもりだぞ。」
パルスヴァルは言った。アンドレははじかれたように顔を上げた。

 「オスカルが・・・そう言ったのか?」
 「はっきりと言った訳じゃない。」
 「なら違う。」
 「断言したな?お前、ちょっと悲観的すぎやしないか?」
 「期待出来るような状況がどこにある?」
アンドレの顔が苦痛に歪む。
 「オスカルの首にある赤い痣が・・・」

アンドレはそれ以上言えなかった。アンドレは両腕で頭を抱えた。パルスヴァルはやれやれと言った様子でアンドレを見た。

 「赤い痣はお前だ。馬鹿。」
アンドレはゆっくりと顔を上げた。彼は意味が飲み込めずパルスヴァルの顔を見つめた。
 「俺が折角落ち込まないようにと気を使ってやったのにお前って奴は、悪い方へ悪い方へ考えやがって。」
 「オスカルは痣について絶対触れられたくなかったのだろう?だから・・・それは・・・つまり、おれが・・・したから?」

パルスヴァルは深々と頷いた。
 「俺も曖昧に言ったのは悪かったと思う。だがな、いくらなんでも相手は男だろう?それにオスカルって奴の事を考えるとなあ。お前に惚れた女と間違えられてだぞ、無理やり抱きしめられてそこら中にキスされて・・・」
 「そこら中?」
 「相手が男じゃ、想像もしたくないだろうが・・・」
パルスヴァルはふうと息をついた。

 「とにかく!お前が女にべた惚れだという事は痛い程分かった、それはもう十分過ぎるぐらい伝わったぞ! 俺にもオスカルって奴にもだ。」
アンドレは口を動かした。しかし声にはならなかった。パルスヴァルはさらに続けた。

 「だからお前が無理やり押し倒しても、お前を殴ろうともしなかった。」
 「無理やり、押し倒・・・した?」
 「男としてのプライドはズタボロだろうに、それでもオスカルって奴は、お前が惚れた女と自分を間違えた事を知ったらどんなに傷付くだろうと、それはもう心配してたんだぞ。あいつはいい奴だぞ。」
パルスヴァルはアンドレの様子に気づくと笑った。

 「心配するな。やったのはそこまでだ。押し倒そうとしてお前はそのまま寝ちまった。それで酔い潰れたお前を、俺とお前の親友とで上まで運んだ。それだけさ。」

しかしアンドレは 「オスカルに・・おれがオスカルに・・・」 と繰り返すだけだった。パルスヴァルは小さく息をついた。

 「だから俺は言いたくなかったんだ。まったく!お前が変な勘違いをするから・・・」
 「・・・パルスヴァル。」
 「どうしたアンドレ。」
 「死にたい。」
 「・・・・・・・」
 「おれはもう・・・死んでしまいたい。」
 「・・・・気持は分らんでもないが、そこまで言わなくても・・・・」
 「オスカルに誤解されたんぞ!」
アンドレは震えた。
 「オスカルにおれが・・・・おれが・・・・おれは・・・・」

 「死んだ方がましだ!!!」

アンドレはそう叫ぶと突っ伏した。パルスヴァル暫くの間アンドレの背中を見ていたが、苦笑すると彼の背中をぽんぽんと叩いた。

カフェオレボウル
スロップ・ボウルではありませんm(_ _)m カフェオレボウルが流行するのは19世紀に入ってかららしいですが持ち手のないカップは17世紀からあるそうです。