アンドレは嬉しくて仕方ないといった様子でオスカル見ていた。それはまるで無邪気な子供のようでオスカルは思わす微笑んだ。するとアンドレは更に嬉しそうな様子を見せた。

 「どうしたアンドレ?」
 「いや別に。」
 「別にじゃないだろう?楽しそうだぞ。」
オスカルの言葉にアンドレは照れたように微笑んだ。

 「楽しいんだと思う。多分・・・きっとそうなんだろう。ところでオスカル。・・・」
アンドレは急に真顔になった。
 「おれ達は知り合いなのか?」
オスカルは一瞬言葉に窮したが笑って見せると頷いた。
 「・・・そんな所だな。」
 「どこで知り合った?」
 「・・・ここだ。」
 「常連か?」
 「いや、常連という程ではない。」
 「話した事は?」
 「・・・今日が初めてだと思うな。」
オスカルは曖昧に答えた。しかしアンドレは納得した様子で頷いた。
 「そうか、それでか。」
アンドレはふうと大きく息を付くと神妙な顔をしてオスカルを見つめた。

 「どうした?」
 「・・・オスカルすまない。」
 「何だ突然?」
 「いや。おれはオスカルに抱きついたんだろう?だから申し訳ない事をしたと思って。」
 「ああいい。もう済んだことだ。」
オスカルは笑った。それを見て、アンドレはほっとしたような顔をした。

 「よかった。」
 「だが、もう休め。わたしが・・・」
オスカルは苦笑した。
 「女に見えるというのは明らかに飲みすぎだぞ。」
 「それはそうだ。だけどラムはすごいよな。」
アンドレは感嘆するように言った。

 「ラムでなくとも飲みすぎればそうなるのだ。」
 「そうなのか?」
 「そうだ。」
 「でも、今までこんな事は一度もないんだぞ。」
 「だが、飲み過ぎるとこういう事もあり得るのだ。」
 「そうなのか!へえ・・・」
 「だからもう無茶飲みはするんじゃ・・・」
 「そうだ!もしかしたら!オスカルは本当にそっくりなのかもしれないぞ?」

アンドレはオスカルを見つめた。その視線はいつも自分を見る時とは違い、熱っぽさがあった。それはオスカルを居心地悪くさせた。オスカルはそれを隠そうとしてアンドレを睨んだ。

 「それはあり得ん。」
 「やっぱりそうか。第一オスカル男なのだし、男のオスカルがおれの・・・」

アンドレは不意に沈黙した。オスカルは訝しげにアンドレを見つめた。アンドレは何か言おうとして口を開きかけたが、結局何も言わずオスカルを見つめた。
 「どうした?」

オスカルは尋ねた。しかしアンドレは答えなかった。それどころか視線を逸らすとオスカルに背中を向けた。オスカルは訳が分からずアンドレの背中を見つめていたが、不安そうな顔をするとアンドレに尋ねた。

 「気分が・・・悪いのか?」
 「・・・大丈夫。」
 「そうか、それならいいが・・・」

するとアンドレはオスカルを背中越しにちらりと見た。だがすぐにまた視線を避けるようにして顔をそむけた。

 「おい、やはり調子が悪いのではないか?水飲むか?」
 「いらない。そうじゃなくて・・・」
オスカルは心配そうにアンドレの顔を覗き込んだ。アンドレはオスカルの顔を見た。するとアンドレはまたしても視線をそらした。

 「こ・・・困ったなあ。」
アンドレは呟いた。
 「困った?何が?」
 「いや、その・・・・だけど・・・どうしよう?でも・・・ああ、それだけは駄目だよな?」
 「アンドレ?」
 「でも少しぐらい・・・いいかな?」
 「アンドレ、おい!」
 「だけどそれはちょっと・・・図々しよな?」
 「アンドレ、聞いてるか?」
 「だけどこんな機会は二度とないかもしれないし・・・」
 「おい、アンドレ!!」
 「で、でも・・・どうしよう?」

 「アンドレ!!!」

オスカルは大声でアンドレを呼んだ。アンドレは気づいてオスカルを見た。
 「どうかしたのか、オスカル。大声なんか出して?」
 「それはこちらの科白だぞ。どうした?一人でブツブツと?」
 「いや、それはその・・・」
 「わたしには言えないような話なのか?」
オスカルは苛々しながら尋ねた。
 「いや!そうじゃない!言いたいんだ!」
アンドレは叫ぶと急いで起き上がろうとした。しかし眩暈でもしたのか右手で自分の額を押さえた。

 「馬鹿!急に起きようとするからだ。」
 「いや、大丈夫。」
アンドレは答えると、額の手を退かして意を決した様子でオスカルを見た。

 「実はオスカルに聞いて欲しい事が・・・いや、オスカルに言いたいんじゃないんだ。そうじゃなくて、おれの・・・」 アンドレは目を伏せると口籠った。
 「・・・オスカルじゃないんだ。そうじゃなくて・・・だけど言いたいんだ。言いたくて、だけど言えなくて・・・」
 「アンドレ、おまえ・・・」
 「聞くだけでいいんだ。お願いだ。聞いてくれないか!」

アンドレは真剣なまなざしをオスカルに向けると懇願した。オスカルは気づいた。アンドレが言いたいであろう言葉は、多分彼の愛した女性に対しての言葉だ。それは多分彼女に言いたくても言えなかった言葉に違いない。しかし、オスカルは考えた。はたしてこれをわたしが聞いてよいのだろうか?

 「・・・駄目か?」
オスカルは我に返るとアンドレを見た。落胆した様子。もしかしたら彼女には愛している事すら伝えていないのかもしれない。その考えは自分の報われない思いと重なり、オスカルの胸は痛んだ。

 「すまない。馬鹿なことを言った。」
 「いや、そうではない!アンドレそうではなくて・・・」

そうだ。アンドレは酔っているのだ。明日になって尋ねられても聞いていないと誤魔化せばいいだけではないか。そうすればアンドレを傷つけずに済むのではないか?

オスカルはわざと仕方ないという表情を大げさに作ると 「よし!言ってみろ。聞いてやる。」 と答えた。
それを聞くとアンドレの口元がうれしげに動いた。

 「いい・・・のか?」
 「ああ!どんな浮ついた科白だろうと黙って聞いてやる。」
 「浮ついてない。おれは真剣だ。」
 「そ、そうか。そうだな。その通りだ。」
オスカルは慌てて答えた。アンドレは頷いて見せると大きく深呼吸をしてオスカルをまっすぐ見つめた。

 「この前取り寄せた英国産の酒。あれに入っているのは消毒薬か?それともタール?」

オスカルはあっけに取られてアンドレを見つめた。アンドレは真剣な様子で続けた。
 「あんまりおまえが嬉しそうだったから言えなかったが、あれは人の飲み物じゃないぞ!そもそも密造酒なんぞに手を出す時点でおまえ間違ってる!密造なぞどんな得体の知れないもの何が入っているか分かりはしないんだ、絶対に体にいい訳がない! 大体おまえは何かというと強い酒ばかり飲むが、ああいうものは全部!体に悪い。ブランデーやコニャックは勿論、ロシアの口から火を噴きそうな酒とか・・・あれは何だ一体!それからカリブじゃなくて・・・どこか忘れたけど刺の生えた植物を発酵させて作った変な味のするのもそうだし・・・それからジン! ジンと言えば英国ではジンの依存症で社会問題になってるくらいなんだぞ。蒸留酒などの強い酒を大量に且つ常習的に飲むのはだな、身体を壊す元凶だ。だから書斎の隠し戸棚にあるろくでもない酒のコレクションは・・・」

 「何故知っている!」

オスカルは思わず叫んだ。するとアンドレは驚いて叫び返した。
 「オスカル!オスカルも隠し戸棚に酒を隠してるのか!いや、名前が同じだとすることも似るのか?」
 「知るか!」
 「でもオスカル。強い酒ばかりだと体に毒だぞ。せめて水で割るとか・・・」
 「おまえは酒を冒涜する気か!!」
 「すごい!その言い方も同じだ。なんとまあ!」
アンドレは感嘆した様子でオスカルを見た。オスカルは不愉快そうにアンドレを見返した。

 「アンドレおまえ、言いたくて言いたくて言えない事というのはそんな事なのか?」
 「ああ。聞いてくれてありがとう。」
アンドレはそう言うと横になった。
 「オスカルと名前が同じだなあと思ったら、なんだか我慢できなくて・・・」
アンドレはそれだけ言うとふうと息をついた。オスカルはアンドレを呆れた様子で見つめた。

 「・・・・そう言うことは、素面の時に言え!いくらでも・・・」
 「怖くて言えない。」
 「怖くて!」

オスカルは声を荒げた。しかしアンドレはそれには気づきもせず頷いた。
 「もし言ったら最後!意地になって余計飲む。何が怖いかって、それが一番恐ろしい。大体止めたっておれの言うことなんぞ聞きやしないし、オスカルの奴は・・・ああ、オスカルじゃないよ。オスカルだよ。全くどうして強い酒ばかり好きなんだか。」
アンドレはため息交じりに言った。
 「ああくそ!聞くんじゃなかった。」
オスカルは小さく悪態をついた。するとアンドレは驚いてオスカル見た。

 「オスカル。さっきはいいって言ったのに・・・」
 「私はもっと違うことを想像していたのだ。」
 「どんな?」
 「どんなって・・・それは、わたしが女性に見えると言ったから、だからわたしはてっきり・・・」
オスカルは口籠った。それを見てアンドレは苦笑した。

 「愛してるとか、そういう言葉?」
 「まあ・・・そうだ。」
 「それなら大丈夫。いつも言ってる。」
アンドレは自信ありげに答えた。オスカルは驚いてアンドレの顔を見つめた。
 「いつも・・・?」
 「ああ!いつもだよ。」
 「・・・恋人同士なのか?」
 「まさか。」

オスカルは訳が分からずアンドレを見つめた。アンドレは続けた。
 「心の中で、夢の中で、それから、それから・・・本人には言えないけど、いつも言ってる。だからオスカルに言わなくてもいいんだよ。だってオスカルは・・・」
オスカルはアンドレの口元が歪んだのに気づいた。
 「違うんだ。だからいいんだ、言わなくても。」

オスカルは何も言えずアンドレを黙って見つめた。アンドレはオスカルに向かって微笑んで見せた。
 「だけど、本当にそっくりだよ、オスカルは。」
アンドレは笑うと目を閉じた。
 「すごいよな、ラムは。本当にすごい。」
アンドレは呟いてそれからとほうと息をついた。

 「見る人総てを酔わせてしまうような美しさだ。そんな女、見たことあるか?」
アンドレは尋ねた。オスカルは答えられなかった。
 「想像もできないか?そうだろうな。だけど本当だよ。アフロディテだってきっと逃げ出すんだ。そして、その美しさに、誰もが跪くだろう。うん、誰も逆らえない。」
アンドレは目を開けるとオスカルの顔を見て苦笑した。
 「本当だぞ。どんな男だってそうだ。絶対に!」
するとまたすぐ目を閉じた。
 「そうして・・・・」
彼は笑った。切ないような笑い顔にオスカルの胸は痛んだ。アンドレは更に続けた。
 「そうして・・・願いは総て叶えられる。だってそうしたくなる。絶対にそうだ。男なら誰だって・・・」
だが声は最後まで聞き取れなかった。アンドレは不意に両腕を被せるようにして顔に乗せた。
 「そうなんだ。だからきっと・・・・」
声がかすれた。
 「おまえの願いは・・・叶うんだ。」

オスカルは何か声をかけようとして気づいた。腕を掴んでいる手が強く握りしめられている。腕が邪魔をしてアンドレの様子は分らなかった。だがオスカルにはアンドレが泣いているような気がした。その途端、胸が締め付けられるような気持ちにさせられた。オスカルは堪らず、手を伸ばすとアンドレの髪に触れた。アンドレは腕を顔から退かすとオスカルを見た。アンドレは驚いた様子をしたが、すぐに笑って見せた。それを見てオスカルの顔は更に歪んだ。アンドレは困惑した表情をしてオスカルを見つめた。

 「おれは大丈夫、平気だよ。」
アンドレはそう言って笑った。しかしそれは逆効果だった。アンドレは体を起こすとオスカルを見つめた。オスカルは俯いていた。

 「・・・オスカル。」
アンドレは声をかけた。しかし返事はなかった。彼女は俯いて顔を上げようとしない。アンドレは心配そうにオスカルの顔を覗き込むと驚いてオスカルの顔を見つめた。
 「・・・おまえ、何を泣いているんだ?」
その途端オスカルはアンドレの肩を抱くと自分の胸に引き寄せた。

 「オ、オスカル!」
 「泣いてない!」
オスカルは答えた。それは途切れ途切れに続いた。
 「泣いて・・・ない。誰が・・・」
 「だけど、オスカル・・・」
 「・・・泣いてない。」
オスカルはくぐもった声で繰り返した。
 「おまえが・・・馬鹿だから・・・」

オスカルは更に強くアンドレを抱き締めた。アンドレは自分の肩に寄りかかるオスカルの頭と自分の首に巻きつけるように絡んだ腕をどうしたらいいのか?といった様子で見比べた。

 「・・・おれが馬鹿だから?」
 「忘れてしまえばいいんだ・・・」
 「それは無理だな。無理。誓って言うが絶対無理。」
アンドレは言い切った。それを聞いてオスカルは腕に力を入れさらに強くアンドレを抱きしめた。

 「オ、オスカル?」
 「・・・誓うな馬鹿!」
 「それはそうかもしれないけど・・・」
アンドレはオスカルの絡んだ腕を見つめた。
 「あの〜、オスカル。」
アンドレは名前を呼んだ。
 「あのな、オスカル。ちょっと離れて欲しいのだけど・・・」
しかしオスカルの返事はなかった。アンドレはオスカルを自分から離そうとした。しかしオスカルはそうされまいと腕に力を入れた。
 「オスカル!これは・・・これは良くないよ〜〜」
アンドレは弱り果てた様子で腕を見つめた。

 「困ったなあ。その・・・何というか、つまりこれは、とてもいいけれどとても良くない。オスカル分かる?」
 「・・・・」
 「そうか、分からないか。そうだよな。」
アンドレは考え込んだ。
 「でも、これが続くとだな・・・・・」

それと同時にアンドレはオスカルの腰に腕を回すとオスカルの首筋に顔をうずめた。オスカルはアンドレを手荒に寝台に押し倒した。アンドレは寝台に叩きつけられた。アンドレは不服そうにオスカルを見上げた。

 「オスカル、そんな乱暴にしなくても・・・」
 「何が乱暴だ!おまえという奴は・・・」
 「だけどオスカルは、もっとすごい事されたいか?」
 「されてたまるか!!!」
 「だろう?おれだってしたくない。だけどさっきみたいに引っつかれると、オスカルが男だと分かっていても絶対にしないという自信が・・・・」

オスカルは最後までアンドレの言葉を聞かず、乱暴に毛布を被せた。アンドレは頭にまで掛けられた毛布を下げて顔をのぞかせた。

 「ひょっとして・・・怒ってるのか?」
 「怒ってない。」
 「なら、気分が悪い。酔ってるかも?」
 「酔ってない!それはお前だろう!」
 「いや、もう大丈夫。そうだな・・・ちょっとふわふわするだけだ。」
 「寝ろ!」
 「でも、オスカルも寝た方がいい。おれが起きてるから替わりにおまえが・・・」
 「まず!おまえが!先に寝ろ!そしたらわたしも寝る。」
 「でも、オスカル疲れてるみたいだし・・・」
 「いいから寝ろ!!命令だ!寝ろ!」
 「わかった!おれがまず寝るんだな!うん!」

アンドレはそう言うと目をつぶった。オスカルはアンドレを睨んだ。しばらくするとアンドレは目を開けるとオスカルを見た。

 「あの〜オスカル。おれが寝たら声をかけるから・・・」
 「いい!」
 「でも・・・」
 「それでは、眠っていないということだろう?」
 「それはそうだな。そしたら・・・」

オスカルは不意に視線を窓へ向けた。彼女は耳を澄ました。アンドレはオスカルの様子を不思議そうに見つめた。オスカルは立ち上がると窓に近寄った。彼女は窓から外を覗き見た。しかし外の様子は分からなかった。彼女は窓を開けた。外からの冷気が一気に部屋に入り込む。

 「早く締めないと風邪を引くぞ?」
 「静かに。」

オスカルはアンドレに命じた。アンドレが黙り込むと、オスカルは身を乗り出して周囲の様子をうかがった。遠くにちらちらと蠢くように沢山の明かり見えた気がした。微かに聞き取れた音はだんだんと大きくなった。静まり返る街に音だけが響く。

多分馬だ。それも足並みが揃ってる。これは訓練された動きだ。警察か・・・軍隊。だがこんな時間だ。オスカルは考えて思い当った。これは多分、先導。

 「墓地の移転だ。」
オスカルは言った。それを聞いてアンドレはぼんやりと考え込んだ。
 「そういえば・・・誰かが・・・言ってたな?」

オスカルは目を凝らした。明かりは見えなかった。だが、石畳を進む音だけがはっきりと分かる。多分2つほど手前の大通りを通っているのだろう。その時、松明らしき明かりがいくつか見えた。しかしそれは建物が邪魔している所為かそれ以上は見えなかった。そしてガラガラと馬車の通る音がだんだんと強くなる。遺骸を運ぶ荷馬車だろう。オスカルは考えた。

人目のない深夜、混乱を避ける為にパリ市内の共同墓地から掘り起こされた遺骸は、こうしてこっそりと運び出される。教えからすれば許されない行為、だがそれでもしなければならないのだ。パリは死者の為のものではなく生者のものだから。

その時、オスカルの脳裏に酒場の主の言葉が蘇った。オスカルは思わず身震いした。彼女は自分のその行為に自嘲した。

 「死者が呪うなど有り得ない。もはや魂は主の御元で永遠の安らぎを得ているのだ。」

彼女はそう呟くと窓を閉めると振り返ってアンドレを見た。アンドレは寝台で身動き一つしていなかった。オスカルは慌てて寝台に駆け寄るとアンドレを見下ろした。微かに寝息が聞こえる。オスカルは苦笑すると、アンドレに毛布を掛け直した。それから彼女は自分のコートを取るとそれを羽織って、寝台の横にある椅子に座った。

オスカルはテーブルに置かれたゴブレットに酒を注ぎ入れると一口飲んだ。オスカルは、アンドレを見た。アンドレは気持ちよさげに眠っていた。オスカルの顔が思わず顔が綻んだ。

 「まったく世話のかかる奴だな。子供と同じだぞ。」
オスカルは呟くと、手を伸ばしてアンドレの髪に触れた。漆黒の髪は彼女が思っていたより柔らかかった。オスカルは思い出した。

 「おまえの髪は猫っ毛だったな。」
そうだ、よく触ったのだ。猫のような柔らかな感触だった。それが好きだったのに・・・
オスカルは悲しげな顔をした。

 “だからオスカル!触るなって!おまえが触るとクシャクシャに・・・だからそれはいいって!おまえにリボンを結び直してもらったりしたら!おれがおばあちゃんに怒られるんだぞ!!!”

 「出仕するようになった頃だな。あの頃から触らせてくれなくなったな。」
オスカルはアンドレの髪をそっと撫でて不意に顔を曇らせた。

ばあやを言い訳に使っただけで、本当のはもっと別の理由があったのかもしれない。もしかしたらあの頃にはもういたのかもしれない。そして彼女は思い出した。

そうだ、あの頃からだ。おまえが何を考えているのか少しずつ分らなくなったのは。それまではおまえの事なら何もかも分かっていた。隠し事などあってもすぐに気づいたと自信を持って言えたのに。

 「おまえの相手は一体誰だ?まさか、アントワネット様ということは・・・ないよな?」
オスカルは眠っているアンドレに尋ねた。

おまえは時々フェルゼンに対して酷く冷たい眼差しをする。だがそれは・・・
オスカルは苦笑した。

 「わたしの所為か?」

舞踏会へ向かう馬車に乗り込む時、おまえが見せた一瞬だけの不安げなまなざし。知っていたよ。 オスカルはアンドレの髪をそっと撫でると目を伏せた。

おまえは気づいていたのだろう? わたしがフェルゼンを愛しているのを。多分ずっと昔から。それなのに気付かないふりをしてくれた。それは報われぬ思いの辛さをおまえも知っていたからなのだろう。

それなのにわたしは気付かなかった。分からなかったのだ。おまえが誰を愛しているのか、わたしには見当もつかない。おまえはわたしの為に問いもせずいつも手を差し伸べてくれるのに、それなのにわたしには分からない上に手も差し伸べてやれない。

 「アンドレ、わたしは忘れるよ。」
苦しさだけしか残らない。もう疲れた。だから忘れる、諦める。わたしには・・・
オスカルの顔が苦痛に歪む。
 「わたしには出来る。」
だからアンドレ・・・

 「おまえも、そう出来ればいいのに。」

アンドレは答えなかった。
オスカルはアンドレの額の髪を退かし、そっと口付けた。