馬車はまだ無理だという酒場の主の忠告をアンドレは聞き入れなかった。アンドレは渋る主に頼みこんで馬車を呼んでもらうと取るものも取らずそれに乗り込んだ。

案の定、馬車の揺れは彼の身体を容赦なく痛めつけた。しかし彼は耐えた。これから彼がしなければならない事はもっと酷い苦痛を伴うものになるはずだった。
馬車が屋敷についたのは、昼少し前だった。

 「ムシュウ!大丈夫ですか?」
辻馬車の男は馬車から降りたアンドレを見てびっくりして声をかけた。
しかしアンドレは答えられなかった。辻馬車の男は心配そうにアンドレを見つめた。アンドレようやくそれに気づくと、何も言わず懐から財布を取り出すと金を出して辻馬車の男に渡した。男は渡された金を見て、それからアンドレを見た。

 「ムシュウ。こんなに沢山は・・・」
 「いい、取ってくれ。」
 「いいんですか!」
男はうれしそうに声を上げた。
 「いや〜、申し訳ありませんね、ムシュ・・・」
アンドレは礼をいう男の言葉を最後まで聞かず屋敷に向かって歩いた。

アンドレは使用人専用の出入り口の扉を開けようとして手を止めた。厩舎の裏抜けた方が誰にも会わないで部屋へ戻れるかもしれない。アンドレは扉を開けず、そのまま厩舎に向かった。

厩舎に馬以外の誰もいないように見えた。アンドレはホッとすると裏手へまわった。すると何かぼそぼそと人の話すような声が聞こえた気がした。アンドレは立ち止まり耳を澄ませた。

それはやはり人の声だった。声は一人ではなかった。アンドレは注意深く声のする方へ進んだ。すると、この寒空に円陣を組むようにして集まっている10人程の集団があった。彼らは額を突き合わせるようにしてぼそぼそと話しこんでいた。

彼は仕方なく元来た道を戻ろうとした。その時その円陣から 「オスカルさまがお可哀そうよ!」 という声がした。そのあとすぐにそれを諌めるような声が聞こえ、アンドレは思わず振り返るとその円陣を見た。

その中の一人がアンドレに気づいた。彼は周りの人間に 「おい!」 と声をかけた。彼らは一斉にアンドレを見た。その様子はいかにも気まずげで、アンドレは急いで彼らに近づいた。

 「何かあったのか?」
アンドレが尋ねた。すると同僚達は顔を見合わせただけで答えなかった。
 「今、オスカルが可哀そうとか言っていなかったか?」
もう一度アンドレは尋ねた。

 「いやそんな事は・・・」
 「それよりアンドレ、何なのその恰好!!」
 「ちょっと!酒臭いわよ!何時まで飲んでたの?」
 「そうだなあ、顔色も良くないし・・・」
 「そんなのどうでもいい!オスカルに何があった?」

彼らはまた顔を見合わせた。その中の一人が話さなくていいというように皆に目くばせした。アンドレはその目くばせした人物を見た。

 「カトリーヌ、おれには話せないような事なのか?」
 「そういう訳じゃないのよ。ただちょっと・・・」
カトリーヌは口籠った。
 「なら話してくれ!オスカルに何があった!」
 「他はともかく、アンドレだけは知っていた方がよくない?」
 「でも・・・」
 「それに・・・」
ドロテは横目でカトリーヌを見た。
 「黙ってたって気づくでしょう?」
それを聞いてカトリーヌはため息をついた。アンドレは不安そうな顔で二人を見比べた。


 「あのね、アンドレ。」 ドロテが声をかけた。 「昨夜オスカルさまが舞踏会へ行かれたでしょう。その・・・」 彼女は声を潜めた。 「いつもと違う恰好で。」
その言葉にアンドレは集まっているのがオスカル付きの使用人であるのにようやく気付いた。ドロテは続けた。

 「勿論、喧嘩なんてのは私だってしょっちゅうするし、みんなだってそうでしょう?だけどね!あれは酷いわ!」
彼女は語尾を強めた。
 「だから、声大きいって!」
エレーヌが声をかけた。
 「あ・・・ごめん、ちょっと興奮しちゃって・・・」
 「まだ恋人かどうかは分かんないわよ。」
 「恋人よ!じゃなきゃ!あんなことは!」
 「ああ、無理やりも考えられる。」
 「確かにその方が筋通るなあ。」
 「冗談でも言わないで頂戴!」
 「だから声が大きいって!」
 「恋人だって!そうじゃなきゃ何故ドレスなんか!」
 「あれはな、同意の上での行為ってのが十分考えられるぜ。」

 「何があった!」

アンドレの常ならぬ強い口調に皆、口を閉ざした。
 「おれに分かるように言ってくれ!頼むから!」
アンドレは額を抑えながら尋ねた。同僚たちは顔を見合わせた。
 「実を言うと・・・俺達にもよく分からないんだ。」
アンリが答えた。

 「時間を追って順番に話したら?」
アンナが言った。
 「その方がいいかもしれない。」
それを聞いて他の同僚達も次々に同意した。
 「なら、まずは俺からだな。」
モリースが名乗りを上げた。アンドレは彼を見た。

 「昨夜はお忍びだったから、俺が御者を務めたのはお前も知っての通りだ。俺はそのままオスカルさまがお戻りになられるのを待った。1時間半程してからオスカルさまは戻ってこられた。お疲れになられておられるのはすぐに分かった。顔色は少し青く見えたし、何故かしら歩き方もぎこちなかった。ドレスは疲れるからと笑われたが、俺にはそれだけの所為には見えなかったんだ。馬車へ乗り込むのも難儀された。そしてしきりに手を・・・左手首だ。しきりに気にしていらした。長手袋をしていらしたから分からなかったが、俺はどうしても気になって・・・失礼かと思ったがオスカルさまに具合が悪いのかどうか尋ねた。オスカルさまは驚いたように俺を見て、それから大丈夫だと笑われたが、俺にはとてもそうには見えなかった。」

次にアンナが口を開いた。

 「屋敷へお帰りになったオスカルさまは、本当に疲れてらして・・・一刻も早く服を着替えたがってらしたの。でもね、ばあやさんは少しでも長くオスカルさまのお姿を見ていたかったようで、オスカルさまが着替えるのを渋ってて・・・それと言い忘れてたけど、この件はまだばあやさんは気づいてないから言っちゃ駄目よ。」
彼女はアンドレに念押ししたのでアンドレは黙って頷いた。それを見て彼女は再び話し始めた。

 「あたしがドレスを脱ぐお手伝いをしたわ。まず手袋をはずそうとして・・・そしたら、オスカルさまは結い上げた髪をご自分で解きながら自分でするからいいとおっしゃった。だからあたしはドレスを先にした。そしてそれに気づいたの。ドレスの背中と袖の付け根。そこが裂けてた。あたしは多分オスカルさまが転ぶかした拍子にそうなったのだと思ったから、あえてその件には触れなかった。だけど・・・」

彼女はエレーヌを見た。今度は彼女が口を開いた。

 「わたしはアンナからドレスを渡されて・・・破けてるのはアンナから聞いたから他にも破れがないかないか確認した。そして飾りの・・・アンドレ、服の首のあたりに大きなルビーの飾りが付いていたの覚えてる?」
 「ああ。覚えてる。」
アンドレは思い出して頷いた。

 「その飾りの所が裂けていたの。つまりその・・・どこかに引っかけたりとかじゃない。引き千切ろうとでもしない限りそんな風に裂けたりしないのよ。」
  アンドレは大きく目を見開いて同僚を見つめた。彼女は黙って頷いた。
 「そしたら血相変えて私の所に・・・」
彼女はカトリーヌを見た。カトリーヌは躊躇いがちに話し始めた。

 「手袋は着替えられてからご自分で取ろうとされたんだけど、長手袋だから難しいでしょう?それであたしがお手伝いしましょうか?言ったらオスカルさまは 『ああ頼む。』 とおっしゃって・・・だから私はまず右手から外したの。右手はどうもなっていなかった。だけど左手は・・・手首に帯のような真っ赤な痕が付いていて・・・オスカルさまも驚いてらしたけど、すぐにお笑いになって 『そう言えば転びかけた時打ったような気がする。』って言い訳されたけど・・・あれは手を強く掴まれた跡。間違いない。指の跡がはっきり残っていたのよ!それも男性の手、間違いないわ。」
彼女は言い切った。

 「今朝は少し赤く痕が残るだけ。よく見ないと気付かないかもしれないけど・・・・」
アンナは口籠った。
 「あたしは分かったわ。サラだってそう言ったもの。」
声を低くしてドロテが言った。アンドレは口を開こうとした。その時彼の隣にいたセシルが口を開いた。
 「そして一番の問題は・・・」

彼女はアンドレの右隣にいたギャスパーを見た。彼は口をひらいた。

 「話は前後するが、今朝早くの出来事だ。俺が馬達の世話をしにここへ来ると何故かオスカルさまがおられた。オスカルさまは 『目が冴えてしまってね。』 と言われたが、目が赤いのが分かった。多分よくお休みにはなれなかったんだろう。俺は今までの話の経緯があったのは少しも知らなくて、だからいつものように馬の調子をお話しして・・・それで偶然気づいた。」
それから彼は口籠ったが、意を決した様子でアンドレを見た。

 「変わった育てられ方をされたが、あの方は本当にお優しい良い方だ。ちゃんと見る目のある殿方が見ればそんな事は一目で分かるんだ。だから俺はな、それを見つけてほっとした。むしろ祝いたい気分になった。」

 「何が祝いたい気分よ!あんなことする奴はクズよ!クズ!」
ドロテが叫んだ。
 「だけどな、頭で分かっても、なかなかそれは難しい時もあるんだぞ?」
 「ちょっと!もう少し小さな声よ!」
 「だけど女の立場も考えられられないのはねえ?」
 「だから!まだそうときまった訳じゃないんだから・・・」
 「そうよあんなことをするような奴は・・・」
 「だから!そうじゃないって!恋人だったら・・・」

 「一番の問題というのは何だ!」

アンドレは声を荒げた。アンドレの言葉に皆は顔を見合わせた。
 「申し訳ないんだが!おれは今あんまり頭を働かせられる状態じゃないんだ。それじゃなくてもお前達の話は・・・」 彼は顔を顰めた。 「とにかく!具体的にはっきり言ってくれないと困る。」

すると、セシルがアンドレの首筋を指で押さえた。
 「ここと、ここと、ここ。べったりと赤い痕が・・・どうするとそうなるかは言わなくても分かるでしょう?つまりそういう事。はっきりと見えたのはそれだけで服の中までは分かんないけど・・・アンドレ?アンドレ?どうかしたのしゃがみこんで。ちょっとアンドレ!」

アンドレはしゃがみこんだまま返事をしなかった。彼女はどうなってるの?という風に皆を見た。

 「耐えがたい・・・衝撃だったのよ。」
カトリーヌがため息交じりで答えた。
 「そうか、そうよね。わたしだって驚いたもの。」
 「別の意味でも衝撃的だったろうしね。」
 「何それは?」
 「・・・20年以上お側にいると、色々とあるって事よ。」
 「色々って?」
 「まあいいじゃないか、そんな事は!!それより・・・おい、アンドレ。アンドレ!しっかりしろ!」
ギャスパーはアンドレに声をかけた。
 「おい、アンドレ!落ち込んでる場合ではないだろう!おい。」
それを聞いてアンドレは顔を上げた。

 「そうだ。それどころじゃない。」
アンドレは立ち上がった。
 「よし!それでいい。そこでだ、これから考えなければならないのは・・・どうしたアンドレ?」
 「聞いてくる。」
 「誰に?」
 「オスカル。」

アンドレは踵を返すと屋敷に向かって歩いていった。同僚たちはアンドレの背中を見て、それから顔を見合わせた。

 「止めなくて・・・いいの?」
 「いいんじゃないか。」
 「で、でも!」
 「だって、アンドレしか聞けないだろう?」
 「で、でも!」
 「そうよね。アンドレに聞いてもらって確認するのが一番確かだし。」
 「これでオスカルさまが合意の上ならまあ仕方ないけど・・・」
 「とんでもない!すぐに別れさせるべきね。オスカルさまの為よ!」
 「・・・・あんた、過激ね。」
 「あら!あたしは普通よ。」
アンナは澄まし顔でいった。
 「オスカルさまに関しては、ばあやさんやアンドレには敵わないわ。オスカルさまの為ならどんな過激で恐ろしい事でも平気でする・・・」

アンナの顔色が変わった。皆一斉に顔を見合わせた。

 「・・・・いや、あいつは我慢強いから・・・な?」
 「そうよね!多分、大丈夫、きっと・・・」
 「ちょっと!不安になるような事言わないでよ!」
 「なら大丈夫・・・多分。」
 「でも、オスカルさまが泣いたりしたら・・・・」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「そ、それはちょっと・・・」
 「相手の男を半殺しにしたりして?」
 「やめてよ!!どんな男か知らないけど!相手は貴族よ、きっと!」
 「あっ!でも、それならアンドレより旦那さまがするんじゃない?」
皆一斉にセシルを見た。彼女は不思議そうに首を傾げた。

 「どうかしたの?」
 「あんた!今さりげなく恐ろしい事を言ったわね?」
 「私達が何の為に善後策を練ってるか分かってるの?」
 「・・・だって!マリー・アンヌさまがまだ結婚される前のあの話、知ってるでしょう?」
それを聞いて皆顔を顰めた。
 「どうしたのよ!そんな顔して。」
 「分かってなかったのね!やっぱり!」
エレーヌが頭を抱えた。

 「何を?」
 「いい!あの話が意味するところはね!旦那さまはオスカルさまに負けず劣らず一本気な方ってことよ!」
 「それが悪いの?」
 「悪くはないが限度がある。」
アンリが答えた。

 「オスカルさまはお嬢様だが、旦那様にとってはご子息だ。だから考えてみろ。不甲斐無いとか言われてだな、オスカルさまも一緒にお手討ちになんてことになったら・・・」
 「そ、そんな!」
 「だからこうやって考えてるんでしょう!」
カトリーヌが仁王立ちでセシルを睨んだ。セシルは慌てた。

 「そ、そしたら!とにかく・・・内密によね!そうよね!」
 「そう、内密だ!」
 「特に旦那さま!」
 「何があっても隠し通す!」
 「ドレス着た件も、絶対に知られないようにしないと!」
 「何か・・・誰もが納得する噂をばらまくってのは?」
 「あんまりしたくないけど考えておくにこしたことはないかもね。」
 「とにかく、アンドレが戻って来たら話を聞こう。それから考えた方がいいからな。」

アンリの言葉に、皆は黙って頷いた。