会場のいたるところから一斉に割れんばかりの拍手、それから賞賛の声。
その会場の片隅で息子のネクタイを直しながらエイレンは念を押した。
 「いい?もう一度言うけれど!“とてもすばらしい演奏でした。”そういって花を渡すのよ。」
それから、相変わらずあたりをきょろきょろと見回す息子を見て母親は息子を睨みつけた。
 「アンドレ!聞いているの?」
それに気づいて子供は慌て母親の顔を見ると 「うん、分かってるよ。」と答えた。
 「何かあったの?朝から様子が変よ。」
 「そんな事はないよ、かあさん。」
アンドレは慌てて弁解した。
 「そう?ならいいけど・・・・さあ、これでいいわ。」
母親はネクタイを直し終わると息子の顔を見て微笑んだ。
 「それじゃあアンドレ。君はこれから何をするのかしら?」
彼は少し不機嫌に答えた。
 「もう何度目?アンコールの曲が終わったら、ホテルのオープンの式典の為にバイオリンを弾いた人に“とてもすばらしい演奏でした。”と言って花を渡すんでしょう。ちゃんと覚えてるよ。」
 「アンドレ、忘れてる。」
子供は少し考えて、母親の顔を見ながら 「笑って・・・だっけ?」 と付け加えた。
 「君がいつも初対面の人にするのと同じでいいの。だけど!ジェローデルさんの息子さんにしたような態度は取っちゃだめよ。」
 「だってあれは!あいつが・・・」
 「分かってます。だけど花を渡す時も何か言われるかもしれないから・・・・ああ、心配しなくてもいいわ。いつもの君でいいの。そうすれば問題なし、大丈夫。」
母親は微笑んでいった。
 「でも・・・母さん。なんでおれが急に花を渡すことになったの?おれ・・・困るよ。」
 「あら?どうして。」
 「だって、しなきゃならないことがあるし・・・」
アンドレは口篭って俯いた。
約束したのに、この間に探そうと思ってたのに・・・
 「大丈夫よ、花を渡すだけよ。あら?もうすぐアンコールの曲が始まるみたいね。それにしても!こんな間近で演奏などなかなか聴けないのに集中できやしない・・・残念だわ。」
 「有名な人なの?最初出てきた時もなんかすごかったし・・・」
 「デビューしたのは6歳の時。ウィーンフィルをバックに・・・・それはもうセンセーショナルだったわ。あの表現力はまさしく天才よ。それにね、今日はドレスなの。」
 「ドレス?」
 「いつもはいま君が着てるような格好なの。男の子みたいなタキシードで・・・」
 「男の子みたい?」
エイレンは息子が呟いたのを聞いて 「ええそうよ。」 と答えると、前方を見ながら言った。
 「シルクのオーガンジーかしら?短めのスカートが薄いピンクばらの花弁を重ねたようで・・・・ああ、なんてかわいらしいのかしら!」
アンドレは一生懸命背伸びをしたが、前にいる大人が邪魔で少しも見る事が出来なかったので、仕方なく母親の顔を見た。母親は息子に笑いかけて頷いた。
 「まるでシルフィードみたいよ。」
 「シルフィードって・・・何?」
 「風の妖精よ。ああ、アンドレ!あとで分かるから!今は見なくてもいいの!」
母親は何とかしてその姿を見ようとする息子をたしなめると、「それより最後の曲が始まるわ。終わったら・・・分かってるわね?さっきの人が来るから付いていくのよ?」 と念を押した。
その言葉に、アンドレは黙って頷いた。
辺りは再び拍手が鳴り響いた。
それから暫くして静かになるとバイオリンの音色が鳴り響いた。
アンドレはもう探すのも、見ようとするのもやめて、初めてバイオリンの音に聞き入った。

弦から弓が離れ、オスカルは少ししてから 「ふう」 と小さく息をついてゆっくり目を開けた。
途端、拍手と歓声が彼女の耳に押し寄せる。
彼女は照れくさそうに、それでも優雅に会釈をすると脇にいる父親を見た。
父親は満足げに娘に微笑むと“分かっているな?”と合図を送った。
それを見てオスカルは会場から誰かが花を渡しに来るのを思い出した。
彼女はいきなり不機嫌になる。
父上は何か企んでいる。花を渡しに来るのは多分・・・・エイレンと彼女の息子だ。
僕は彼女らに見せる為にこんな格好したのではないんだぞ。僕がこんな格好をしたのは・・・・
 「オスカルさま。バイオリンをお持ちします。」
いつの間にか側に女性が立っていて彼女に囁いた。
オスカルはその女性をにらんだ。
 「大丈夫だ。」
 「ですがあの、今から花を受け取って・・・・」
 「僕の大切なバイオリンだ。」
その女性は困惑してオスカルを見つめた。
 「ですがオスカルさま・・・」
 「僕の代わりに君が花を受け取ってくれ。」
 「でもレニエ様から必ず・・・」
 「僕は受け取らない。」
彼女はおろおろしてオスカルの顔を見てそれから左側の前方を見た。
オスカルはそれに気づいて目を伏せた。
彼女が来たんだ。
僕は・・・・受け取らない、顔なんて絶対に見ない。
 「さあ、上がって。」
係りの人間が声を掛けるのが聞こえる。
黒い革靴 −自分と同じくらいの大きさだ− が近づいてくるのが見えた。
子供だ、彼女の息子。オスカルは身体を硬くした。
僕は兄なんて欲しくない。そんなのいらない。
革靴は目の前で止まった。オスカルは顔を見ないように注意して少しだけ視線を上げる。
黒いズボンに蝶ネクタイ、お決まりの格好だな。そして花束は白いばら。僕の好きな花、だけど嬉しくない!
・・・言わないからな。僕は、言わない。メルシなんて絶対に・・・

 「やっぱり君にはモーツアルトよりダイナミックな曲の方が似合うね。」

オスカルは俯いたままクスリと笑って、横にいる女性に黙ってバイオリンを差し出した。
女性がバイオリンを受け取ると真っ白いばらの花束がオスカルに差し出される。
彼女は俯いたままそれを受け取ると右手で抱えた。それから少し緊張した面持ちで顔を上げると優しげに自分を見つめる黒い髪に黒い目の子供に黙って左手を差し出した。
アンドレは少し驚いた様子をしたがすぐに優しく微笑むと、彼女の左手を取ってそっとキスをした。
それから彼女の顔を見ると 「そのドレス、とても似合ってるね。すごくきれいだ。」と、恥ずかしそうに、しかしとても嬉しそうに言った。
オスカルは、これ以上できないくらい嬉しそうにアンドレに笑って見せて 「メルシ。」 と、答えた。

−Fin−