金色の髪の子供は、自分の部屋のドアを開けると机の上に置いてあった黒いケースをしっかりと抱えた。急いで部屋を出ると重い扉を開けて廊下へ出る。そこでケースを抱え直すと子供は全力で走った。
急がないと!困っているかもしれない。どうしたらいいか分からなくて迷ってるかもしれない!それにしても何故早く言わないのだ、あの女は!
長い廊下を一生懸命走り、ホールへ出ると大急ぎで階段を駆け上った。右に曲がり、重い扉を引いて身体の入る分だけ開けると中へ入り扉を閉めた。
それから側にあったテーブルの上に黒いケースを置くと2ヶ所の留め金を外して蓋を開けた。中には4本の弦を持つ美しいアメ色をした楽器が収まっていた。子供はそれを取り出すと手に持った。
 「感謝してほしいな。僕がバイオリンを持っていて・・・・当たり前だ!弾けるに決まっているだろう!僕はこれでも・・・まあいい、何がいい?・・・・モーツアルトのディヴェルティメント・・・のどれだ?・・・・ロードロンセレナーデ?どちらの?・・・・・15番、第4楽章アダージォ・・・ああ!第一バイオリンか。勿論問題ない。モーツアルトは僕には物足りないが・・・まあいい。」
子供はそういうと寝室への扉を開こうとして扉に手を掛けたが思いとどまった。
 「・・・寝室ではない?ではどこだ・・・何だ、この部屋か!それなら早く言え。」
子供はそれからバイオリンケースの置いてある机まで戻るとバイオリンを顎に当て、弦に指を置いた。そして弓を弦に当てて何度か動かすと満足げな顔をしたが、すぐに気づいて答えた。
 「その通りだ、窓を開けないと。そうしないと聞こえないからな。」
子供はバイオリンを持ったまま弓だけ机の上に置くと、窓の一つに近づいてそれを開けた。
中庭から風が入り込み、カーテンをゆらゆらと揺らした。
子供は机に戻ると弓を手に取った。それからどこか遠くを見るような目をしたが、すぐに不機嫌そうな顔をした。
 「分かっている。だから今・・・・ああ、考えている。・・・違う!譜を思い出しているのではない。・・・だから!ああ、そうだ。イメージだ。」
それから子供は小さくため息をついた。
 「先生にはあれを弾くと必ず言われるのだ。まるで恋人を待つような・・・知るか!僕にそんなの分かると思うのか?ぼくはただ・・・解釈がおかしいのは分かっている。だがあの曲は・・・嬉しいのと心配なのが混ざったような・・・ああ、そうだ。・・・その通りだ。ああ、・・・少しだけ怖い。怖くないのは分かっているのに・・・・」
子供は黙って弓を見つめた。暫くするとバイオリンを顎に当て、弦に指を置くと、子供の顔は優しい表情に変わった。
そして子供は、身体全身を使うかのようにして弦の上に弓を走らせた。

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黒い髪の子供は懸命に耳を澄ませた。しかし、聞こえたと思った音はそれっきりで、仕方なく子供は再びバルコニーに座り込んで中庭の薔薇を見下ろしながら申し訳なさそうに言った。
 「ごめんね。途中で迷ったから・・・・うん、だけど・・・」
子供は苦笑した。
 「・・・そう、待つのは慣れてるんだ。だけど・・・・うん、そうだね。ここも開けっ放しだし、何か用があったのかもしれないね。・・・・うん、そうだったらいいけどね。」
子供はそう言って、また薔薇の花を見た。急に風が強く吹いて、薔薇の花は花びらを少しだけ散らした。
子供は風に流されるように飛んでゆく花弁をぼんやりと見た。
その時突然、隣の部屋から音が響いた。それは柔らかい優しい音色で、子供はその曲を知っていた。
あれは・・・モーツアルトだ。
彼は急いで立ち上がると寝室の中へ入り、扉まで走った。

音色は変わらず響いて来る。
急いで、それでもそっと扉を開けると、美しい音が急に大きくなった。部屋に入ると、そこには金色の髪にきれいな赤い唇をした子供がバイオリンを弾いていた。
彼は黙ってそれを見つめた。
目を瞑っていたので目の色は分からなかった。だが彼にはすぐに分かった。
彼女によって作り出された澄んだ音が、柔らかく部屋を包む。
そしてそれは、とても甘い、甘い音。
金色の髪の子供の閉じられた目が突然開かれて彼を見た。
その瞬間、バイオリンの音は止まった。

夫は言った。
 「お前の手にモーツアルトは役不足だ。お前の手には・・・・」
彼は続けられなかった。
代わりに彼の妻が震える声で答えた。
 「もっと・・・ダイナミックな曲がふさわしい。違う・・・か?アンドレ。」
 「ああ、その通りだよ。オスカル。」
彼の胸に飛び込んだ妻をしっかりと抱きしめて夫は答えた。