ホテルの従業員のマリアンヌは、中庭へ向かう渡り廊下を子供が1人で歩いているのを見つけた。
今日は招待客しか宿泊していない。子供は確か・・・
彼女は考え込んだ。
そう、2人。2人だけだ。
1人はこのホテルのオーナーであるレニエ氏の一人娘で。
彼女は思い出して思わずため息をついた。
本当に信じられないくらいきれいな子、まるで天使みたいだった。金色の巻き毛に宝石のような青い瞳で、真っ赤な唇は・・・・
彼女は子供に近づいて気づいた。
黒い髪だ、あの子じゃない。マダム エイレンのお子さんだ。確か名前は・・・・

 「アンドレ君、どうしたのですか?こんな時間に。」

マリアンヌに声をかけられて、子供ははじかれたように彼女を見た。
 「あ・・・」
 「レセプションパーティはまだ1時間ほどかかりますよ。お母様に何か用があるなら、お呼びしましょうか?」
 「い、いえ。そうじゃないです。あの・・・」
子供は口篭って俯いた。マリアンヌはその様子に、まるで自分の弟にでも話しかけるようにして優しく尋ねた。
 「普通のホテルと違っているから緊張しちゃった?」
子供は首を振ったが、 「でも、ちょっと眠れなくて。」 と答えた。
マリアンヌは少し微笑むと子供に尋ねた。
 「お母さん、呼んで来たほうがいい?」
子供は顔を上げると、「いいえ!いいです。」 と慌てて答えた。
それからすぐに 「・・・・中庭のばらがきれいだって・・・母さんから聞いたのを思い出して・・・・」 というと中庭を見た。
その言葉に、マリアンヌも中庭の薔薇を見た。
部屋からの明かりが中庭一面に咲き誇る薔薇をかすかに照らしている。
風が吹いて薔薇が揺れる。それと共に薔薇の香りも運ばれてくる。
連日ホテルのオープンの準備に追われていて花を見る余裕もなかったけれど、なんてきれいなのだろう。
 「・・・ええ、お母様のおっしゃるとおりだわ、本当にきれい。でもね、アンドレ君。」
 「分かってます。だけど・・・もう少しだけ、見てていいですか。あと・・・少しだけ。そうしたら部屋に戻りますから!」
子供の熱心な様子に彼女は苦笑すると 「ではあと少しだけよ。そうしたら部屋に戻ってね。」 と答えた。
それを聞くと、黒い髪の子供は嬉しそうに笑って 「ありがとうございます。」と言った。それを見てマリアンヌは微笑むとその場を立ち去った。
子供は従業員がいなくなるのを確かめると中庭を隔てた棟のある部屋に明かりがついているのを確認すると、あたりを見回して人がいないのを確かめてから中庭へ入っていった。

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 「・・・彼女の評判はいい。ああ、男も女もだ。だけどそれがどうした?」
金色の髪の子供は怒った。
 「だからなんだ!・・・・ああ、そうだ。僕はやだ!絶対!母上なんて呼ばない。そうだろう?彼女は父上の妻になるのであって僕の母親になるのではない。」
子供は俯いた。
 「・・・母親なんて呼ばない。たとえ・・・」
子供は黙り込んだ。
 「・・・・・・・・・分かっている。・・・・・・だから分かっていると言ったろう!」
子供は大声で怒鳴ると決まり悪そうに口を閉ざしてまた俯いた。
暫くしてようやく口を開いた。
 「・・・・・・・・・エイレンは、彼女は・・・分かってる。その子供も・・・父上は会ったって。父上もいい子だと言っていた。すぐに仲良くなれると・・・」
子供は俯いたまま答えなかった。随分時間がたってからようやく子供は答えた。
 「・・・嫌われないかな?」
それは先程とは打って変わってひどく心細げだった。それからまた沈黙が続いた。
暫くすると子供は苦笑して顔を上げた。
 「お前は楽天家だな。だけど・・・・ああ、本当にそうだったらいいと思う。だけど凶暴な女だとか・・・」
子供はまたしても俯いて、暫くすると今度は首を振った。
 「・・・僕のいとこだ。あいつは口が悪いから誰にだってそうだ。だから別にいいが・・・・・・」
そして顔を上げると心配そうに尋ねる。
 「・・・もしお前が言うような子なら・・・フェンシングの練習も一緒にしてくれるかな?」
子供は笑った。
 「なんだそれは!僕は相手が泣くまでなんてしないぞ。・・・・それにしてもお前、ずいぶん自信ありげに言い切ったな?さてはお前・・・自分がそうだったのだな!やはりな。相手は・・・そうか!お前の夫か。そんなだからお前の夫は・・・違う?・・・・それはお前の夫が弱虫だから・・・分かった!分かったから、もういい!大人しくて控えめで優しいのだな。もう分かっている!お前の夫の話はさっきから何度も・・・・だから何故僕の話になる?はあ?」
子供は叫んだ。
 「何だそれは!僕が鈍いから心配だと!僕のどこが・・・気づかないと困るって?・・・・だから!お前の夫の話は・・・分かったから!もういい!よーく分かった!お前の夫は、大人しくて控えめではじけなくて、その上とても優しくて・・・」
子供は考え込むと少ししてニヤリと笑った。
 「タフだろう?・・・そうだろう?お前は人を振り回すタイプだ。違うとは言わせないぞ!だからお前の夫は、タフに決まっている!当たりだな。」
子供は“してやったり”という顔をした。しかしすぐに驚いて叫んだ。
 「ちょっと待て!なぜ僕がお前と同じなのだ?僕はお前みたいに・・・」
その時、置時計が ボーン、ボーン、ボーンと重々しく鳴った。
子供が時計を見ると針は12時を差している。それを見て子供の顔は曇った。
 「・・・来なかったな。・・・仕方ないさ、世の中そんなものだ。僕はちゃんと分かって・・・・なんだって!」
子供は驚いて立ち上がった。
 「見えてないって・・・全然見えてないのか!まったくか!馬鹿!何故早く言わないのだ!それではここまで来られないではないか!・・・だが!・・・・そうなのか?でも・・・・ああ。それなら持って来ている。僕の部屋だ。ここで待ってろ!すぐに取って来る。」
子供は急いで部屋のドアを開けて飛び出した。

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 「・・・19、20、21、22段と、それから・・・右、左?」
黒い髪の子供は尋ねた。彼は怪訝そうな顔をした。
 「だけど・・・どちらも行けるよ。・・・・うんそう。同じ扉。まるで鏡に写したみたい。うん、そうだと思う。だってホテルだもん。部屋には必ずバスルームとベッドがいるし・・・・・うん、だけどそれは違うよ。」
子供は首を振った。
 「おれが泊まっている棟とは違うんだ。こちら側の棟は・・・・さっきも話したでしょう?隠されていた部屋の人の話。その人が使っていた時と出来るだけ同じにしてあるんだって。」
子供は頷いて答えた。
 「理由はね、その人を主人公にして描かれた物語・・・描いたのは日本人だよ。日本人なら誰でも知ってるって。それで・・・そうだよ。すごいファンがいるんだって。みんなその部屋に泊まりたがってるって。特に7月12日。この日は結婚した日だから・・・・明後日がホテルのオープンなのに、もう10年先まで予約が入ってるって・・・どうかしたの?・・・なんでもないならいいけど。」
そういうと子供は考え込んだ。
 「おれさあ、こっちじゃないかと思うんだけど・・・うん、右。あなたも?・・・それじゃあ、まずこっちへ行ってみる?」
子供は頷くと、右の方へ進んだ。
それから大きな両開きの扉の前に立つと、左側の取手を両手で持つと力を入れて引いた。
扉はゆっくりと開いた。
黒い髪の子供は急いで部屋の中へ入ると扉を閉めて部屋を見た。
明かりはすでにつけられていた。
天井はドームをいくつも組み合わせたような複雑な形で、普通の部屋に比べるとずっと高かった。床は磨き上げられて鈍く黒光りし、壁は白く、曲線を描く回り縁に幅木、そしてレリーフが施されていた。アクセントに大理石張りの飾り柱が配置されている。
部屋は、シャンデリアの光が壁面に陰影を作り出し重々しい感じを与えないでもなかったが、飾り柱に張られたピンクがかった明るい大理石と、繊細な曲線を持つ家具や置物、それからカーテンがそれを和らげていた。
黒い髪の子供は、部屋に暖炉を見つけて近づいた。暖炉の上には大きな鏡が取り付けられていた。
子供は背伸びをして、鏡に自分の姿が写るのを見ながら言った。
 「電気はついてるけど、誰もいないみたいだよ。・・・・他の部屋?」
子供はきょろきょろと見回して、扉がいくつもあるのに気づいた。そのうちの一つに近づくと、そこを開けて扉の脇の壁を探ってスイッチを見つけると、それを押して明かりをつけて中へ入った。
 「・・・本がいっぱい、まるで図書室みたいだ。勉強部屋かな?」
子供は壁面のほとんどが本で占められた部屋を見回しながら言った。そして、誰もいないのを確認すると、入ってきた扉の脇のスイッチを押して消灯し、部屋の扉を閉めた。
それからまた違う扉を開けて中を確かめる。しかし、そこにもやはり誰もいなかった。
そうしてまた別の扉を開けて・・・・子供は何度かそれを繰り返した。
 「あとはここだけだね。」
彼はそういって最後に残った扉を開けた。その部屋は他の部屋とは違い、最初に入った部屋と同じで照明がつけられていた。だが他の部屋と比べ明かりは暗めで、部屋の真ん中には天蓋の架かった寝台があった。子供は寝台に近づくと緊張した面持ちで布を持ち上げると顔を入れて中を覗き込んだ。暫くして顔を出すと、もう一度部屋を見回す。
すると、バルコニーの窓が開いているのに気づく。その時、風がそよそよと心地よさげに吹いてカーテンを揺らした。
 「誰かいたみたい。だけど・・・・」
彼は部屋にあった置時計を見ると、ひどく悲しそうな様子で言った。
 「もう12時を過ぎちゃってるよ。どうしよう・・・怒って帰っちゃったのかな?」