6.住宅事情

私の住んでいたジェッダでは、家族連れで駐在している欧米人や日本人は大抵郊外のコンパウンドに住んでいました。一つのコンパウンドは40mx30m位の大きさで、周囲を塀で囲み、塀に沿って2階屋がずらっと並んでいます。中央部は共同の庭で、プールがあります。

日本を出る前に知り合いの人に紹介されたサウジ駐在の外交官や会社の取引先の日本人駐在員もこのような所に住んでいましたので、時々休日に呼ばれて奥様の手料理をご馳走になったり、プールで泳いだりしていました。また、時には男ばかりで共同生活している商社の宿舎に行ってはマージャンをしたり、本を借りたりしていました。私はマージャンは余り強くありませんでしたが、商社の人たちに大変世話になっていましたので、適当に負けても良いつもりでやっていました。

これらの人たちを訪問するときは勿論自分でも何か買って持って行きましたが、商社の方には時々日本からの差し入れの食料品や出張者のお土産を分けてもらったり、家族連れの家では手料理をお土産に貰ったりしていましたので、これらは自分では食べずに、家族連れの家や、商社マンの方に持って行くと双方で喜ばれました。




メカニックの部屋


ジェッダの住宅地

私のいた会社の出稼ぎのメカニック達は会社の寮に居住していましたが、16畳位の部屋の中で、一坪分位のスペースをカーテンで仕切って5人が共同生活していました。即ち、1人分のスペースはベッドを入れると後は身の回りの荷物を少し置けるだけです。これではプライバシーは全くありません。勿論まかない等はないので、彼等も共同で自炊をしていました。3階建の寮で、この様な部屋が沢山ありました。

中級クラスの出稼ぎ外国人や日本人の駐在員が共同生活していたのは3〜4階建ての低層アパートです。高級なアパートになると便所も風呂場も複数あり、召使用の部屋までついています。集合住宅には大抵、屋上や、櫓の上に水道用のタンクが付いています。私の家のタンクには蓋が付いていなかったので、埃も入るしとても飲む気にはなれません。夕方帰ってきて水を出すと、暫くはお湯が出ていました。


下層のアラブ人は昔ながらの泥壁で出来たような家に住んでいます。窓には木枠の桟がはまっていて、日射を防いで、風通しが良い構造になっています。夕方になると家の入口に老人がたむろして、水パイプを吸ったり、おしゃべりをしていました。近くの広場では子供たちがサッカーをして遊んでいる光景を良く見かけました。

何世紀も経ったような古い小さな家が沢山残っている一方で、近代的な建築物や施設、超豪華な邸宅が混在しているのがサウジアラビアです。
サウジ政府は遊牧民のベドウインを都市部に定住させようと、彼等のために20階建位の高層住宅群をあちこちに建設しました。しかし、ベドウインはこれを嫌ってなかなか住み着きません。ベドウインはラクダの乳を毎日飲むのに、高層住宅ではラクダが飼えないと言う事だそうです。従って、この様な住宅は全て空家でゴーストタウンの状態でした。全く勿体ない話です。ジェッダでもリヤドでも、湾岸の都市でも同じで、この様なゴーストタウンがありました。これらの高層住宅は湾岸戦争の際に米軍やクーウェイトからの避難民が使用し、その後サウジ人に格安で分譲され、今は空き家は解消されているそうです。

私の住んでいたのは会社所有の小さなコンパウンドで、マネージャークラス用の社宅が6軒ありました。ここには中庭はなく、欧米人や日本人の駐在員の感覚ではかなり古くて粗末な建物でしたが、3LDKの家具付きでした。周囲にはレバノン人の重役、スーダン人の会計士などが住んでいました。他の家はシャワーしか付いていないようでしたが、日本人は風呂が必需品だからということで特別にバスタブを付けてもらいました。調理用にはガスでなく、電気式のコンロを使っていました。温水器も電気式でしたが、サーモスタットが付いていないので、時々電源を入れたまま出掛けたりすると帰ってきたときに屋根の上に水蒸気が噴出していました。また、温水器のスイッチを入れると偶に、家中の電源が切れることがありました。ヒューズボックスを開けてみると、総てヒューズの代わりに細い電線が入っていました。それでも時にはその電線が切れることもありました。更にコンパウンドの電源ボックスを調べたら、此処もヒューズの代わりに銅線が入っていたのにはびっくりしました。


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