(資料は 「丸亀商業高等学校 野球部史」 を参考にしました)

 

 

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昭和12年春 昭和38年春 昭和38年夏 昭和44年春 昭和49年夏 昭和52年春
昭和55年春 昭和56年春 昭和57年春 昭和59年春 昭和62年春 平成9年夏

 


 

選抜初出場  第14回全国中等選抜野球大会 昭和12年3月28日〜 甲子園球場

昭和12年 一回戦 東邦商業 3 0 0 1 2 0 2 0 0 8
丸亀商業 3 0 0 0 0 0 0 1 0 4

 

《記事 ・・・丸亀商出陣費に市費四百圓支出 郷土選手應援に全力》

3月1日丸亀商選抜の決定の報がもたらされると、学校はもちろん全市あげての喜び に沸き返り、選抜一色に塗りつぶされたのである。何もかもが初めての体験で関係者はうれしい悲鳴をあげ、応援体制も十分整わないままの出陣となった。

甲子園まで応援に出かける人も少なく、わずかにラジオ放送で声援を送るのが精一杯だった。

丸亀市でも激励費として四百円支出している。五百円もあれば一軒の家が建つ時代であった。

それはさておき、選手たちは猛練習に余念がなく徐々に力をつけて本番を待つのみになった。当時アンダースローのピッチャーは殆どなく、これを予期して福島町の横浜氏の協力で打撃練習を重ねた。くしくも初戦の相手、東邦商業の松本投手が類似したピッチャーで、善戦出来た原因にもなった。

 

 

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選抜2回目出場 第35回選抜高等学校野球大会 昭和38年3月27日〜 甲子園球場

昭和38年 一回戦 南   部 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 2
丸亀商業 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 1 3

(延長11回)

昭和38年 二回戦 呉   高 2 1 0 0 0 1 0 0 0 4
丸亀商業 0 0 0 0 1 0 0 0 0 1

 

《記事》

選抜高校野球出場の丸亀商業高校野球部の一行22人は、21日午後零時四十二分国鉄丸亀駅発の列車で甲子園に向かった。ナインを激励する地元の後援会などが中心となって、出発に先立ち同駅駅前広場で壮行式を行った。

八十川校長ら教職員、生徒をはじめ市民多数が参加、駅前は数百人の人でいっぱい。同校ブラスバンド、バトンガールなども加わって応援歌や校歌などの合唱で全選手の健闘を祈った。

高畑後援会長の発声で万歳三唱の後、陶山野球部長らに引率された選手は丸亀を後にし、同日夕刻、西宮市甲子園六番町の春日旅館に入った。

 

26年ぶりに丸亀商を送り出した地元丸亀市では29日午後、三原市長はじめ特別後援会長の高畑私議、同副会長の野藤同校PTA会長らが応援団の先発として国鉄で甲子園に向かった。

一方丸亀商業高校では29日午後七時四十分多度津港発の関西汽船讃岐急行便で、八十川校長をはじめとする先生や生徒、PTA、同窓会、関係者ら二百人余りが出発。生徒の応援団には甲子園出場で特別に編成されたバトンガールの二年松本勝子さんら十人と、二十五人編成のブラスバンドも加わっており、甲子園では先に送られた地元特産のうちわを持って”カミカゼ”を吹かせようと大はりきり。

 

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夏初出場 (春夏連続出場) 第45回全国高校野球選手権大会 昭和38年8月9日〜 甲子園球場

 

昭和38年 一回戦 磐   城 2 0 0 0 0 0 0 3 5
丸亀商業 1 0 0 0 0 0 0 0 0 1

 

《激闘32イニングス》   昭和四十年卒   萬 城 光 一

三十八年夏の甲子園出場校は、記念大会ということで当年に限り一県一校となる。難敵とされていた愛媛県勢とは戦わずして甲子園へ出場できることで、一気にその距離は狭まり、上位数校は意欲満々で県大会に出場した。

準決勝戦は、昨秋以来二連敗を喫している高松商業。丸商ナインは雪辱の意気に燃え四国高校野球の頂点に立つ高商を、何が何でも倒す、と、燃え盛る闘志を抱いて試合に臨む。

一回表その闘志は炸裂。一死後、森本の中前打と、小島の右前打でつかんだ一・二塁先制機に、吉田が右前に三連続のヒットを放つ、森本猛然とホームへ突っ込む、高々と舞い上がる砂煙の中、主審の右手が上がる、ホーム寸前憤死。クソオ! 今に見ていろ必ず勝つ、と、全員腹の底から相手を圧倒する大声を出し気合を入れる。

二回以降は高商投手立ち直り、切れのいいカーブと速球を低めに決め絶妙の投球を続ける。それでも四・五・六回を除き毎回得点圏にランナーを送り、執拗に攻めるが決定打が出ない。

丸商池田投手も、大きく割れるカーブとシュートを散らし好投、九回まで押し気味に試合を進める。

延長戦に入り相手の闘志がひしひしと伝わってくる、延長十一回表丸商バッテリーの僅かな隙をつきホームスチールを敢行、しかしながらバッテリーの好判断で刺す。

その後押され気味の丸商・・・レフと線へのファールボールを、フェンスへ激突のダイビングキャッチした丸商光岡左翼手の、気迫あふれるプレー等もあり、球趣は盛り上がり試合は進む。

延長十六回表、一死二・三塁、高商にとっては願ってもない一打サヨナラのチャンス。カウント2−2

後意表をつくスリーバントスクイズを敢行、三塁前への小飛球になり、片山三塁手僅かにとどかないと見えた瞬間、地上すれすれのところで執念のダイビングキャッチ、立ち昇る砂煙の中、ボールを確り握り締めた片山のグローブが高々と持ち上げられていた。

・・・・・延長十八回日没引き分け・・・・・・。翌日再試合となり、今度は後攻の丸商が、再び延長の十四回裏、三塁打の吉田を池田の右前ヒットで返し、三十二イニングス目に挙げた一点で、劇的なサヨナラ勝ちを遂げる。

打倒高商! それには ”倍の練習” を合言葉に・・・・・・・。

竹内監督の嵐のような猛ノックに、倒れても倒れても立ち向かって行く凄まじい闘魂、池田投手はひたすら走る、ピッチング練習以外は殆ど走っていた。このようにして技術・体力を養い、不撓不屈の敢闘精神を培って来ただけに感激もひとしおであった。

 

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選抜3回目出場  第41回選抜高等学校野球大会 昭和44年3月27日〜  甲子園球場

昭和44年 一回戦 大   田 0 0 0 0 0 0 0 0 4 5
丸亀商業 0 0 0 1 0 4 4 0 × 9

 

昭和44年 二回戦 丸亀商業 0 0 0 0 0 3 0 0 0 0 0 0 3
尼 崎 西 2 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 1 4

(延長12回)

 

《球児の夢はいつも甲子園』》  昭和四十五年卒 高 木  光

私と丸商野球の出会いを作ってくださったのは、陶山部長先生と、竹内監督でした。中学3年のある日の午後、夕立の降る中を我が家に立ち寄り、一声かけてくださったことが、高校野球に接することが出来た最大の要因です。

入学した同級生の中に、今までに見たこともない速い球を投げる男がいました。竹内監督が、『オイ井原ちょっと投げてみるか。』 彼は『はい』 と答えブルペンへ。三年生捕手のミット目掛けて思い切り投げる、ただ一言、速いなあ!の言葉しかありませんでした。その後バッテリーを組み、井原君の球を捕ることになろうとは思ってもみませんでした。

昭和四十三年、秋季高校野球香川大会が開幕、私は初の公式戦出場にひどく感動したのを、今もはっきりと覚えています。

(中略)

好投手を擁し強豪ひしめく四国大会では、我等がエース、豪腕井原投手を立て、ファイト溢れる監督の指示のもと、全身全霊を尽くし無欲で戦いました。

一回戦』、快速球藤沢投手(元中日)の八幡浜を延長十四回で破り、二回戦では、完成品と評された松村投手(元ヤクルト)の徳島商に破れる。三位決定戦では、高松一を完封し、県大会決勝戦の雪辱を遂げ、甲子園への望みを繋ぎました。

昭和四十四年、春の選抜甲子園大会の出場が決まりました。何から何まで初体験の全国大会、甲子園の土の感触は今もはっきりと体が覚えています。

一回戦大会No1と評せられた左腕福間投手(元阪神)の大田高校と対戦し、緒戦を飾ることが出来ました。雨で大会が順延され、体調を整え気を引き締めるよう監督から注意があったが、二回戦、尼崎西との対戦では、気持ちばかり前に行き思うように体が動きませんでした。無死満塁ノースリーの絶体絶命のピンチを零点に切り抜けた井原投手、この時この男は不敵にもマウンドで笑っていました。延長戦は尚も続く・・・・・佐藤君の絶好のバックホームがあったが、試合はサヨナラ負けを喫してしまいました。

甲子園という目標があったからこそ、一人一人が課題に取り組み、苦しみをこらえ厳しい練習にも耐えることが出来たと思います。

甲子園は高校球児にとって憧れの的であるとともに、色々のことを体験する最高の教室だと思います。

後輩諸君、いつも”甲子園出場”を夢見て頑張ろう。

 

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夏2回目出場 第56回全国高校野球選手権大会 昭和49年8月9日〜 甲子園球場

昭和49年 二回戦 丸亀商業 0 1 1 0 0 0 0 0 0 2
旭川竜谷 1 0 0 0 3 0 0 0 0 4

 

《死闘! 北四国大会》  昭和五十年卒  山 下 弘 孝

昭和四十八年秋季四国大会でベスト四まで勝ち残り、翌年の選抜出場は確実か・・・と言われながら、翌年二月一日選抜選考会の日、残念ながら朗報はグラウンドまで届かなかった。

「これでたぶん夏も甲子園は無理だろう・・・」 正直そんな思いがなかったわけではない。

私たちのチームはこれと言って傑出した選手はおらず、どちらかと言えばチームワークと投打のバランスで勝ち抜いてきたチームだった。

昭和四十九年の春の県大会もそのバランスで制し、夏の県大会も苦戦をしながら何とか北四国大会まで駒を進めることが出来た。

しかしその北四国大会で、今まで味わったことのない壮絶な試合を経験することになる。

松山球場で行われた同大会、緒戦は選抜に出場した新居浜商業戦。戦前の予想を覆し壮絶な打合いとなった、先制はしたもののすぐに追いつかれ、また点を取ればすぐに点を取られる・・・・40度を越す炎天下・・・そんな中、バットボーイをしていた一年生の西川君が、突然日射病で倒れた。「西川、誰かと交代して休め」 と言ったら彼は、「これが私の仕事ですからやらせてください・・・」 と言い聞かなかった。彼のその姿を見てベンチの中は、「西川のためにも絶対に勝つ!」・・・一気にそんな空気に包まれた。

しかしながら、七回裏この試合初めて7−6と逆転を許してしまった。残る攻撃はあと二回。

もうだめかと思ったが奇跡は起こった。八回表無死から私がバントヒットで出塁すると、大川がこの試合三本目の三塁打で同点。続く城山、本宮と連続ヒットでついに逆転。ベンチのムードは最高潮に達した。その瞬間三年生の松永が突然大声で泣き出した。今までに経験したことのない、なんというか、ベンチの全員が本当に一つになったのを感じて鳥肌が立つのと同時に、これがチームワークなんだと、中学・高校と野球をしてはじめて思った。

三時間を越す壮絶な試合は結局9−8で逃げ切ったが、試合後、三番を打つ本宮が盲腸で緊急入院し、翌日の高商との決勝戦は本宮抜きで戦わなければならなかった。

松山球場での香川県勢同士の決勝戦も先日同様打ち合いとなったが、7−5で勝利し、念願の夏の甲子園出場が決定した。

閉会式で優勝旗をいただき、その足で全員で本宮の入院している病院へと向かい、彼に優勝旗を見せることが出来た。本宮がいなかったら当然ここまで来れていなかったし、本宮だけでなく誰一人として欠けていたら甲子園も行けなかっただろう。

今私が社会で頑張っていけるのも、高校の三年間で素晴らしい”友”という財産にめぐり合えたおかげだと、つくづく感謝している。

 

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選抜4回目出場 第49回選抜高等学校野球大会 昭和52年3月27日〜 甲子園球場

昭和52年 一回戦 丸亀商業 0 1 1 0 2 0 0 0 0 4
北海道日大 0 0 0 1 0 0 0 0 0 1

 

昭和52年 二回戦 東   北 1 0 1 0 0 0 0 0 0 2
丸亀商業 0 0 0 0 4 0 2 0 × 6

 

昭和52年 準々決勝 丸亀商業 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 2
岡 山 南 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 4

(延長14回)

 

《故障を克服して》  昭和五十三年卒  石 谷 寿 夫

甲子園出場に憧れ、伝統ある丸商へ昭和50年入学。夏の大会が終わるまでは毎日練習の準備・あと片付け・球拾い等の繰り返しで、その合間をぬってキャッチボール・トスバッティング・ランニング等の基本の反復、基礎体力の養成に努めました。

中学時代ののんびりとした練習と違い、上級生は技術を磨き技を競い合いながら、精神力を養い、目標は甲子園出場と常に心に秘めて練習に打ち込んでいました。

(中略)

夏の大会が終わり例年通り、一・二年生で新チームが結成され、三塁のレギュラーポジションを与えられました。張り切っての毎日の練習でしたが、秋の大会前またも右人差し指の第一関節を骨折、監督に言わずにテーピングして試合に出場しました。以前に腰を痛めたときに、あせる気持ちをじっとこらえて治療専門に心がけ、違った角度から野球を見、考えることが出来たので、精神力が一段と強くなったように思われます。

そんなことで、翌年春にはテーピングしたまま、第四十九回甲子園大会に出場しました。

マンモス球場を埋め尽くし、一投一打に揺れ動く大観衆。ともすれば雰囲気に呑まれそうになるのを、マイペース、マイペースと言い聞かせ、監督の指示に従い全身全霊を尽くし戦いました。

準々決勝は対岡山南戦、エース坂本がサイドハンドからのくせ球を駆使して、の投球で試合は進み、延長に入り後藤(中日入団)のリリーフがありピンチを切り抜けたのですが、十四回裏2−1でサヨナラ負けを喫しました。意外と悔しさは少なく、全力で戦ったさわやかさがあったのを覚えています。

現在一男一女の父となりました。長男は丸商へ入学させ、野球部へ入れます。たとえ甲子園へ出場できなくても、結果だけを求めることなく努力する過程を大切にする人間に人間に育てたいと思っています。忍耐・努力・協調性・友情・礼儀等を野球を通して身につけ成長してほしいと願っています。

近年甲子園大会のテレビを見て、ピンチ・チャンスの場面で、思わず体が固くなり息苦しい思いをします。自分がプレイに集中していたときのほうが楽だったなと、当時を懐かしく思い返します。

丸商野球のますますの発展を祈願してペンをおきます。

 

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選抜5回目出場 第52回選抜高等学校野球大会 昭和55年3月27日〜 甲子園球場

昭和55年 一回戦 瀬 田 工 0 0 0 1 0 0 0 0 0 1
丸亀商業 0 1 0 2 0 3 0 0 × 6

 

昭和55年 二回戦 丸亀商業 1 2 0 1 0 0 1 0 0 0 0 1 6
滝   川 0 0 0 0 1 1 3 0 0 0 0 0 5

(延長12回)

 

昭和55年 準々決勝 東   北 0 3 0 0 0 0 0 0 2 5
丸亀商業 0 2 0 0 0 3 1 0 × 6

 

昭和55年 準決勝 丸亀商業 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 1
帝   京 0 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 1 2

(延長12回)

 

《帝京戦の試合経過》 

延長十二回、帝京・伊東の打球は左翼ポール際を越えていった。史上七本目のサヨナラホームラン。

確かにこのような形でしか決着はつかない展開だった。延長戦に入ってからは、ともに併殺で好機をつぶし、こう着状態に落ち込みかけていた。伊東の一発は強い右から左への浜風に乗って長引きそうなゲームに劇的なピリオドを打った。歓喜に

残酷さをもあわせた幕切れだった。

帝京の勝利は、決勝打とともにこの伊東の右腕に負うところが大きい。シュートを勝負球に、緩いカーブを配合。特に走者を許してからの冷静さが光って、丸亀商をかわし続けた。四回はけん制で、五回にはバント処理から鋭い判断で走者を二塁に刺し、自らの手でピンチを断った。

丸亀商の左腕高橋の投打もたたえたい。投球が高めに浮いた五回に3連打されて失った1点を、九回の打席で中前適時打して同店に持ち込んだ。投手と投手との戦いの感じで、勝敗はもう運、不運という抽象的な言葉でしか表現できない。

 

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選抜6回目出場 第53回選抜高等学校野球大会 昭和56年3月27日〜 甲子園球場

昭和56年 一回戦 秋田経大付 1 0 1 0 1 0 0 0 0 3
丸亀商業 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0

 

《試合経過》  

秋田経大付の上位打線は力強い。丸亀商の先発松本の球が高めに浮いたこともあるが、振りが鋭かった。一回、先頭佐々木の二塁打を足場に先制。三回は二死から鈴木、松本の長短打で加点し、五回には景山が左翼に本塁打を打ち込み、五回までに10安打と打ちまくった。

丸亀商にとって惜しまれるのは一死満塁とした四回の攻撃、1−2から今崎のスクイズバンドが投手正面のゴロとなり、三塁走者が本封された。

守っても、松本の先発は裏目に出た格好。救援の渡辺は4回を無安打に抑えた。

 

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選抜7回目出場 第54回選抜高等学校野球大会 昭和57年3月26日〜 甲子園球場

昭和57年 一回戦 丸亀商業 0 1 0 0 2 0 1 1 0 5
浜   田 0 1 1 0 4 0 1 3 × 10

 

《試合経過》  

制球に苦しむ丸亀商・遠山を浜田打線は効率よく攻めた。特に2−3から一気に試合の主導権を握った五回の攻めは鮮やかだった。二死から四球で出た福井が、その足がかり。佃、井内、荒木皮、川神の下位打線が、遠山がストライクを取りに来るのを狙い打ち、4連続長短打して一挙に4点を奪った。

七回にも福田の四球を糸口に、川神の適時二塁打で加点。八回には4四死球を絡めて、試合を決定付ける3点を追加した。

丸亀商は、浜田を上回る14安打を放って、なんとか遠山をもり立てようとした。二回に先制、五回には3−2と再逆転。リードを許した終盤も、鋭い振りで浜田・川神を脅かし続けた。しかし七回、1点を返し、さらに続いた無死満塁の大量得点機を、藤本の三ゴロ併殺打で逃したのが痛かった。

 

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選抜8回目出場 第56回選抜高等学校野球大会 昭和59年3月26日〜 甲子園球場

昭和59年 一回戦 愛工大名電 1 5 0 0 0 0 2 0 0 8
丸亀商業 0 4 0 0 0 0 0 1 0 5

 

《高校野球は人生修行》  昭和六十年卒  藤 原 登 喜 夫

「高校野球」に参加できたこと、そのことが僕達にとって人生への大きな支えになっていると思います。昭和五十七年四月、丸商へ入学と同時に野球部に入部。いつかは甲子園という大舞台でプレーすることを夢見ながら、白球を追ってきました。

真夏の太陽が照りつけるグラウンドは蒸し風呂のようで、頭がボーっとなり、息苦しく、体はだるく、思うように動けない。大声を出して気合を入れると少しは楽になる。また真冬は、アンダーシャツ・ユニフォームと着替えるときは背筋にゾーッとするほど寒さを感じ、凍りつくような寒気の中で顔は痛く、いくら体を動かしても暖まらず、ファイト・ファイトと口の中で言いながら練習しました。

どんな苦しい辛いときでも弱音を吐かず、一人一人が技を磨き、競争しあって練習したことが今でも目の前に浮かんできます。そしてより一層の「チームワーク」「友情」が芽生えそれが現在の自分たちの大きな地震になって、それぞれを支えていることは間違いありません。

五十八年の秋季大会では、大苦戦の末念願の甲子園切符を勝ち取り、二年ぶり八回目の選抜甲子園出場でしたが、一回戦で惜敗しました。

夏こそはと、残り少ない日々、厳しい練習を重ね試合にのぞんだものの、その甲斐なく県大会決勝で敗れ去りました。「夏甲子園の勝利を味わいたい。」という夢が破れたことが残念でなりませんでした。

今、自分たちが苦しいことに打ち勝っていけるのも、苦しい練習に歯を食いしばって耐えたことによって、体力・精神力の成長があったおかげだと、つくづく思います。私たちをこれ程までに鍛え育ててくださった監督さんに感謝の気持ちでいっぱいです。

 

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選抜9回目出場 第59回選抜高等学校野球大会  昭和62年3月26日〜 甲子園球場

昭和62年 一回戦 八戸工大一 0 0 0 0 0 0 2 2 0 4
丸亀商業 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0

 

《試合経過》

丸亀商にとっては、よもやの完封負け。6安打、3四球で八回以外は毎回の走者を出しながら、右腕の河村を打ち崩せず、力投する綾野をもり立てられなかった。丸亀商は二回に綾野の死球と宮崎の三遊間安打から一死二、三塁、六回には二死ながら一、三塁とするなど毎回のように攻め立てたが、チャンスに河村のカーブ、スライダーを打ちあぐみ好機を逸した。

 

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夏3回目出場 第72回全国高校野球選手権大会  平成9年8月9日〜 甲子園球場

平成9年 二回戦 丸亀城西 0 0 0 0 0 0 0 4 0 4
前 橋 工 0 0 0 3 0 1 4 0 0 8

 

《かなわない夢はない》  平成10年卒  中 落 香 織

(平成9年8月7日 四国新聞記事より)

教室ではとても明るくひょうきんな彼が

マウンドでは別人のように見えた

みんなの信頼を一身に受け止める背番号7

渾身の力で投げ込む一球一球に

グラウンドとスタンドは一つになった

 

六点リードされたとき

スタンドには重苦しい雰囲気が漂った

はね返せるだろうかー

でも彼らは自分たちを信じていた

「絶対みんなで甲子園に行くんだ」

その気持ちが奇跡の逆転劇を生んだ

 

ゲームセットの瞬間

彼らは最高の笑顔でマウンドに駆け寄った

息をつめて見守っていたスタンドに

喜びが弾けた

おめでとう

そしてありがとう

 

憧れの甲子園で

彼らと私達の新たな闘いが始まる

 

 

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