西アフリカ旅行
(1997.9.5-16)
マリ




成田からサベナベルギー航空でブラッセル経由でバマコに入った。
バマコは私が今まで見たなかで最も貧相な首都であった。 というのは、首都でありながら三階建て以上の建物がほとんどない。 メインの道路以外は舗装されておらず、なお且つ雨が降って泥だらけである。 空港に着いて、近くにいたバックパッカーとタクシーをシェアして、訳もわからないまま彼らが目指した宿に行く。 泊まったChez Fantaという宿は(写真左上)は、入り口がなんだか分からない掘っ立て小屋のようなところであった。 夜に到着してそのまま寝たのだが、蚊がすごく、しかも蚊取り線香を持っていない。 寝袋もなかったので小さな毛布からでた手足は刺され放題。およそ50箇所くらいさされた。
ここマリはれっきとしたマラリア汚染地帯。予防薬など飲んでいない。これだけさされては今更しようがない。 もうなるようになれと腹をくくった。(ラッキーなことに発症しなかった。)
この宿では、モプティで農業のボランティアをしていたという鳥取大の農学部の学生さんと一緒になった。 彼はもう帰国前だったのだが、体調が悪いらしくしばらく寝込んでいたそうで、40度を越える熱も何度か出たとのこと。 マラリアではなさそうなのだが、前途の多難さを感じた。
バマコでは路端にプレハブの床屋の建物があり、丁度髪の毛が長かったこともあり、髪を切ることにした。
言葉はフランス語であり、うまく伝わらないので、ヘアカタログを見せてくれといったら、出てきたカタログを見てびっくり。 あたりまえのことだが全てニグロヘアであった。そのなかでも少しはまともそうなのを選んで切ってもらった。 腕前は素人に毛がはえた程度。散々な出来だったが、その後の日程も長かったので、最終的には支障がなかった。

バマコからモプティにはバスで行った。バスの出発はまさにアフリカンタイム。 その日の朝チケットを買いに行ったら、午後3時頃来いと言っておきながら、いつになっても出発する様子がない。 結局出たのは午後7時。彼らの感覚では、4時間くらい誤差の範囲内のようだ。

モプティには早朝着いた。 早速宿を探しに行った。泊まった宿はカンプマン。ここにはエアマリのオフィスがあり、ブッシュタクシーの乗り場も目の前である。 もう一つバルマリという宿もあるが、ここは娼婦宿もかねていて、ちょっと怪しい。ただ、値段は安いそうである。
モプティに来た目的はドゴンに行くためであるので、モプティで情報を仕入れようとしたが、 モプティにも自称ガイドが沢山いて鬱陶しいことこの上ない。しかも、バカ高い値段を言ってくる。 ガイドは雇う必要はあるのだが、モプティで雇うとガイドの分まで、交通費を負担することになるので、 当然料金は高くなるのである。結局ドゴンに関しては、バンジャガラに言ってからガイドを選ぶことにした。
まずドゴンに行く前に朝市で有名なジェンネに日帰りで行くことにした。というのは丁度朝市がある月曜に当たったからである。
ジェンネまではブッシュタクシー(写真右上)に乗って行った。 このブッシュタクシーというのがとんでもないもので、ダットサントラックの荷台に木で出来た長いすをコの字型に並べたもので、 しかもそこにギュウギュウ詰めで人を座らせる。そして、真ん中のスペースに古タイヤを置きそこにも数人座らせる。 そして、荷台の出口につかまり立ちをして乗る車掌のような男が2-3人乗るというとんでもない絵である。 結局全員で15人位乗ることになる。この身動き取れない状態で2−3時間乗っていくのはきついし、尻が痛くなる。 しかも、この車、結構当たり外れがあって、行きに乗った車はしょっちゅうエンコして、 そのたびに運転手が車の下に潜り込んで修理するという繰り返し。 3時間で行けるところに4時間以上かかるというような、散々な状態でジェンネに着いた。

ジェンネにはで大モスクがあり、その前の広場にところ狭しと店が並んでいる(写真左)。 食品やら日曜雑貨やらありとあらゆるものがあった。 旅行者が買うようなものはないが、その熱気はすごく一見の価値はある。町自体は狭いので、 泊りがけで行く必然性はないが、田舎の町でのんびりしたい人には泊まる施設はある。 ただ、多くの旅行者は日帰りで行っていたようだ。

ジェンネの後は、いよいよメインであるドゴンを目指した。
まず、ブッシュタクシーでバンジャガラに行こうと、ターミナルに行く。 10時くらいには着いてチケットを買ったが、いつまでたっても車が出る気配がない。
ここであった日本人の大阪芸大の学生さんとともに、オヤジに文句をいうも「すぐ出る」というばかりで一向に出ない。 こちらはすでに金を払ってしまったので、どうすることも出来ずただただ待ちつづけた。 結局ブッシュタクシ―が出たのは3時過ぎ。アフリカンタイムの恐ろしさを思い知った。

バンジャガラについたのはもう夕方になってしまい、とりあえず、宿をAuberge Kansayeというところに取った。 時間が時間だったので、翌日のアレンジは厳しいかと思われたが、ラッキーなことに、 宿にいたオランダ人が、ガイドを雇ったがまだプジョーの席が空いているとのこと。便乗させて貰う形で話がつく。
翌日ドゴンに向かって出発した。しかし、この道のりも大変なもので、まさにトライアルコースのような悪路であり、 途中小さな川を越えたりする。そこをRV車でもなんでもない普通のおんぼろプジョーで越えていくのである。 もはや車の性能をはるかに超えているが、そんなことはお構いなし。大きなギャップでは我々を下ろしたりしながら1時間。 ドゴン最初の村ジギボンボに着いた。

ジギボンボには、ドゴン独特の土で出来た家々がある。 子供達は裸足。若者達は旅行者からもらったと思われるTシャツをきたり、古ぼけたスニーカーを履いてたりする。 マリ自体が貧しい国だが、ここドゴンはそのなかでも、さらに貧しい村である。 電気もなく、現代文明から取り残された世界であるが、 そのうち観光化されていくとこの素朴さがなくなっていくのだろうと思うと寂しいものがあった。

ここからはトレッキングである。ガイドのママドゥに付いて、しばらく歩いていくと、 視界が開け丘の上にたどり着いた。遠くドゴンの村が見える。急な断崖の上に立った我々はしばしその眺めを楽しんだが、 次にはそこを下っていくことになった。下りきってしばらく行くと、カニコンボレという村に着き、ここで昼食になった。
カニコンボレは小さな村で、人も少ない。ドゴンのみやげものである木彫りの像や真鋳の装飾品などを見てから、 またトレッキングに行った。
3時過ぎに、テリという村に着いた。見ると断崖の岩の中腹ほどに無数の家がある。 これがドゴン独特のものらしい。ここで同行のオランダ人は宿泊となる。 私は日帰りでバンジャガラに買えるつもりだったので、テリで少し休んでから、近くにある滝を見て、 同じ道を帰ることになったが、これは後で後悔した。
テリに着いた時点で十分疲れており、 一人だったら間違いなくテリで泊まっていただろう。しかし、モプティで合った学生さんと同行して部屋をシェアしており、 しかも彼は体調不良で宿で休んでいたこと、日帰りで帰ると言った手前、電話のないようなところに泊まるわけには行かず、 どうしてもバンジャガラに帰らなければならなかったのだ。
帰りは行きに降りた断崖を逆に登っていく。 帰りに同行したイギリス人の女の子は泣きべそをかきながら歩いていたが、私も限界に近かった。
日もとっぷり暮れたころ、ようやくジギボンボに着いた。
ジギボンボは電気がなく、わずかなランプの明かりのみで真っ暗である。自分が原始の状態に戻ったような感覚。 次第に五感が研ぎ澄まされて、静寂ななかのわずかな音にも敏感になっていく自分を感じた。

ここでママドゥはもう遅いからジギボンボに泊まれという。私も時間があれば、この村で一泊したい気もした。 しかし、私が何度も言ってたのにもかかわらず、ママドゥがどうやら、はなからバンジャガラには帰るつもりがなかったらしいこと、 その他にもいろいろいいかげんなアレンジで腹立たしいことがあったので、 もう意地になってママドゥにバンジャガラへのトランスポートをアレンジさせた。
結局、帰りの足は、プジョーでなく、なんと原チャリの二人乗りであった。 あの悪路をこんなのでバンジャガラまで行けるんかいなと思ったが、ガイド達が「ノープロブレム」というので、 私と、イギリス娘達の3人が3台の原チャリの後ろに乗って、村を出発した。
しかし案の定、途中で次々にパンクする。結局3台ともパンクして、ジギボンボに戻るはめになる。 まさにアフリカ、なんでもありありだという感じ。
この時点でイギリス娘達は帰るのを断念。 しかし、私はこのアフリカンウェイにもう完全に意地になりながら、絶対帰るといってパンクを直させ、再出発した。
ひどい悪路は降りて歩きながら、何とか進んでいく。村から遠く離れた場所でエンコしたらもはや戻れない。 サソリのいる平原で野宿することになる。
かなり不安と危険をかんじながら、 それでもようやく夜の11時過ぎバンジャガラに戻った。
なんだかあわただしく、しかも体力勝負で散々なドゴン行きだったが、後で思えば、これはこれで非常に印象深い旅行とも言えた。
もちろん帰った瞬間に死んだように寝たのは言うまでもない。
バンジャガラで芸大の学生さんと分かれ、翌日朝モプティに戻る。モプティで一泊して、その翌日にエアマリでバマコに飛ぶ。 そしてそのまま、バマコからダカールに飛んだ。


セネガル




ダカールに着いて、とりあえず中心である独立広場の近くに宿をとることにして、Hotel Provancalに泊まった。 この近辺は夜は治安が悪いとのこと。その通り、近くには娼婦がたむろしているようなところである。 ただし、ホテルの裏側の通りにはビアホールがあったりして、なかなか便利なロケーションではある。 ホテルのドアは二重のカギがついていて、セキュリティーはしっかりしていた。
まず、町を把握するために、町歩き。Marche SandagaとMarche Kermelを見て回る。
ここダカールは大都会であり、黒人が多いことを除けば、まるで普通のヨーロッパの町と変わらない。 マリから来た身には、別世界であった。
翌日バスに乗ってLac Roseに行く。 行き方が分からず、周囲の人に聞きながら、バスを乗り継いでいくと、最後はロバの馬車の荷台に揺られて行く事になった。 これも貴重な体験である。
Lac Roseは名前の通り赤く見える湖で、写真のような塩も取れる。 パリ―ダカールラリーのゴールにもなっている場所でもあり、そのためもあり、物売りは観光客慣れしていて、しつこい。
ボートで湖に漕ぎ出て見たり、ぶらぶらしたりして過ごすが、相変わらず物売りがうるさい。 物売りでない人たちは、親切であり、タダで食事を食べさせてくれたりしたのだが、、。 しかし、物売りに辟易して、早々に退散した。

翌日はゴレ島に向かった。 ゴレ島はかつての奴隷積み出し港であり、歴史博物館ではその様子を知ることができるが 、現在の島では写真のような城壁がその名残をとどめているに過ぎない。
ダカールからゴレ島にわたる船は頻繁にあり、乗っている客の多くは地元の海水浴などのレジャー客である。 こういうことを言うと人種差別かもしれないが、ゴレ島の海岸で沢山の黒人達が海水浴をしている様は壮観である。





ダカールから帰国する前に、アフリカ最西端であるアルマディ岬とヨフ海岸に行った。
というのはどちらもダカールのヨフ国際空港からすぐ近くだったからである。
アルマディ岬は、クラブメッドがあり、出店がいくつかあるものの、 なんてことはないところである。
ヨフ海岸は漁師町の浜であり、写真のような船が並び、 新鮮な魚をその場で売っていたりする。
海自体はそれ程きれいではないが、 のんびりしたところである。もちろん、観光地ではない。