中欧



2008.5.2-6

今回は、以前から懸案のプラハに行くことにして、プラハinで、地理的にポーランドに抜けるルートでワルシャワout、 陸路の移動は鉄道として、途中クラクフからアウシュビッツと、世界遺産四箇所の旅という企画で計画した。
期間から言うとかなり欲張りな企画である。
ホテルも、鉄道も現地手配で問題ないのだが、今回は夜の到着が多く、治安が読めないことと、時間を節約して、観光時間を確保するために、 プラハ、ワルシャワのホテルと、鉄道はインターネットで手配した。
ホテルはHotel Club、鉄道は地球の歩き方トラベルである。どちらも高くつくことは間違いないが、日本にいながら、 自らの手で手配を完了させることが出来るのはメリットである。


プラハ



5月2日

成田に朝向かった。空港に着いたら、ターミナルでSPに囲まれた、麻生太郎に遭遇した。(まあどうでも良いことだが)
11:35発のNH209フランクフルト行きで、16:30フランクフルトに着いた。 そのままトランジットで17:45発のルフトハンザLH3264でプラハへ。 シートは14Aだったが、ルフトハンザ機には13番のシートはなかった。 ちょっとした発見である。
18:50頃プラハに到着した。
この時期ヨーロッパは日が長いので、まだまだ明るい。
空港を出て市内に向かう。No109のバスにのり地下鉄のDelvicka駅まで行く。チケットはバスの中で30Kc(コルナ) で買った。地下鉄とバス共通で、75分間使えた。(1US$=16Kc)
地下鉄Alineに乗り換えて、staremesto駅で降りる。ホテルはHotel Clubというインターネットのサイトで予約したRot Hotelである。 しかし、行き方の記載のみで、地図がなく、場所は番地で調べるしかなかったが、旧市街広場の近くであり、歩きながら何とか見つけた。
結果的にはロスタイムなく、最短時間で着いたと思われる。
旧市街広場のすぐ近く。中世の町並みの中にあり、観光用の馬車が通るという雰囲気に感動した。
7時半頃ホテルにチェックインしたが、まだまだ明るい。しかし、時差の加減もあり。夜は速攻で睡眠した。




5月3日

朝6時過ぎに起きて、まずホテルからすぐ近くにある旧市街広場に行った。 ここはプラハの中心。周囲には、聖ミクラーシュ教会、ティーン教会(写真中)、ゴルツ・キンスキー宮殿、石の鐘の家、旧市庁舎(写真右)が並んでいる。 中心には、チェコの英雄、ヤン・フス像がある。早朝は人通りも少なく静かである。
旧市庁舎には15世紀に作られた天文時計があり、9:00から21:00の正時に仕掛け人形が姿を現すとのことである。
とりあえず、一通り確認して、一旦ホテルに戻り、7:00から朝食を食べた。
8時過ぎにチェックアウトして、観光開始。天文時計の仕掛け人形は9時に見ることとして、まず、共和国広場に向かった。
共和国広場にある、火薬塔(写真下左)、市民会館(写真下中)をみてから、旧市街広場に戻る。

9時少し前になると、仕掛け人形を見るために、沢山の人だかりができていた。一体どんなことが起きるかはおそらく皆知らない
そして、9時になり、仕掛け人形が動き始めた。写真の時計の上にある窓に次々とキリストの12使徒が現れるのだが、まず、小さくてよく見えない。 最後に、鶏が一声鳴いて終了である。あまりのあっけなさに待ち構えていた人達は、終わった事実がわからない。
まあ、人だかりほどたいしたことはないものである。しかし、その後も正時になる度に、人だかりが出来て大変な状況になるが、 終わる度に、皆が苦笑して帰っていくということが繰り返されていた。
見る価値なしとはいわないが、決して過剰に期待してはいけない(写真右)。

旧市街広場から、カレル橋を通り、プラハ城に向かう。 カレル橋は、チョコ語でヴォルタヴァ川、いわゆるモルダウ川に架かるチェコ最古の古い石橋であり、1357年に着工し、1402年に完成したとのこと。
歩行者専用であり、橋の上では、大道芸人がいたりして、非常に混雑している。ヴォルタヴァ川越しに見るプラハ城は絵になる。
橋の欄干に彫像が並ぶが、聖ヤン・ネポムスキー像はさわると幸運に恵まれるとのこと。 順番に並んで、皆が触るので、触る部分だげ光っている。



カレル橋を渡り終えて、対岸の聖ミクラーシュ教会を通り、急な坂を上ったところにプラハ城がある。
フラッチャニ広場から正門を入るが、正門の両脇には衛兵が微動だにせず立っている。 しかし、観光客にとって格好の撮影ポイントとなっているため、いいようにツーショット写真をとられている。
ここも、毎正時に衛兵交代がある。
正門を入り、中庭を通って中に入ると、大きな聖ヴィート大聖堂がそびえている。 ここがプラハ城のメインともいえる場所である(写真左)。

朝も早くから、聖ヴィート大聖堂の周りには中に入るために、長蛇の列があった。 この日は土曜日であることもあったが、とても待ってられるような時間とは思えず、中に入るのは断念した。
どうやらステンドグラスが見れるらしい。

聖ヴィート大聖堂を旧王宮の横を通って一周。天気もよく、大聖堂は絵になる。
そこから、川側に下っていくと、イジー広場があり、さらに黄金小路と呼ばれる小さな家が並ぶ通りに至る。 ここは、城に仕えていた従者が住んでいた家で、その後錬金術師が住んだことでこの名があるらしい。 チケットが必要なので、中に入るのは一旦スルー。
さらに下っておもちゃ博物館の前の広場で昼食。その後最後戻って、small ticket(250Kc)を買って、黄金小路に入っていった。
黄金小路に並ぶ家々は基本的に今はお土産屋であるが、22番の水色の家は作家のカフカが執筆に励んだ家とのことである(写真中)。
黄金小路を抜けると、城壁沿いに自然に外に出てしまったので、再度坂を上り、正門から入って、旧王宮内に入る。
中にヴラディスラフホールがあり、さらに奥に全聖人礼拝堂がある。ヴラディスラフホールでは大統領選挙が行われているらしい。

外に出て、イジー広場に面する聖イジー教会内に入って、行くべきところは終了。聖ヴィート大聖堂はさらに行列がすさまじくなり、 問題外であった。
少し雨がパラパラ降ってきたので、急いで地下鉄駅まで行き、再びstaremestoに戻った。

今度は旧市街広場に戻る前に、ユダヤ人地区に行くこととした。ここは、以前のプラハのゲットーであった場所である。

まず、芸術家の家に行った。ここは「プラハの春」音楽祭の会場で、プラハ交響楽団の本拠地であるそうだ。
この日の夜も、ベートーベンの英雄交響曲のプログラムがあったが、夜8時開演だったので、断念した。
そこから、周囲にいくつかあるシナゴーグに行ったが、残念ながらこの日は土曜日で、ユダヤの休日。全てのシナゴーグは閉まっていた。
仕方がないので、その当たりの土産屋を巡った後、再び旧市街広場に戻った。

土曜の午後とあって、旧市街広場は、大変な賑わいである。日本で言えば原宿のような感じである。広場では大道芸人がパフォーマンスをやっている。
しばらく眺めていたが、雨が降ってきたので、近くのカフェに入り雨宿り。すぐにやむ程度の雨なので、観光には支障がない。
雨宿りの後、今度は国立博物館方面に歩いていった。
途中カロリヌムと呼ばれるカレル大学の本部を通った。カレル大学は中欧最古の大学だそうで、1348年にできたらしい。 写真にあるゴシック式の出窓は当時のものらしい(写真右)。

カロリヌムの隣には、エステート劇場という劇場がある(写真左)。 ここはオペラ「フィガロの結婚」で評判を得たモーツァルトがプラハ市の依頼で作ったオペラ「ドンジョバンニ」を初演した劇場である。 しかも、この日夕方5時から、その「フィガロの結婚」と「ドンジョバンニ」からのミニコンサートがあるという。
当日券を売っており、一番安い席で690Kcであったが、せっかくなので行くこととした。

さらに歩いていくと、ヴァーツラフ広場に出た。ここは、プラハの春の際にソ連が戦車を乗り入れて、革命を阻止した場所である。
その際、抗議の自殺をした学生の石碑が聖ヴァーツラフの騎馬像の前にある。
その後の1989年、無血の民主化であるビロード革命の際にも多くの市民が集まった場所であり、歴史的に重要な場所である。 広場の先には国立博物館がある。

ここまで歩いてきて、また雨が降ってきたので、地下鉄でMuzeum駅からMustek駅まで一駅戻り、エステート劇場周囲の土産屋を散策し、 エステート劇場でコンサートとなった。
エステート劇場は、さすが歴史のある建物であり、貴賓席のような個室が並ぶ、およそ日本では見かけないようなコンサートホールである。 コンサート自体はオペラのプログラムだが、フルオーケストラではなく、木管3重奏と歌手は二人という少人数の編成(写真左)。
しかし、演目はオペラのダイジェストである。もちろんこちらも当日に気軽にチケットを買ったので、これで十分である。

1時間程度のミニコンサートであり、おそらく、オーケストラメンバー達の小遣い稼ぎのような感じなのだろうが、 逆に客もジーンズで気楽に入れる感じであり、演奏自体はしっかりしているので、楽しめる。
そして、歴史のある初演ホールでの演奏だから、十分満足した。

想いのほか短時間で終了したので、また旧市街広場方面にぶらぶら戻っていくと、今度はClam-Gallas Palaceでの室内楽コンサートの勧誘があった。 弦楽6重奏でヴィヴァルディの四季、バッハのG線上のアリアなど、有名な曲ばかり7曲ほどで1時間のミニコンサートである。
特にやることもないし、7時からなので、夜行列車にも十分間に合う時間だからまたチケットを買った。600Kcである。
近くの売店で軽食を食べてから会場に入った。室内楽であり、まさに宮殿の小さな部屋で行われたが、 内部には大きなシャンデリアがいくつも下がっており、贅沢なつくりである(写真右)。
こちらも皆、客は軽装であった。演奏はしっかりしたもので、こちらも十分楽しめた。 ヴィバルディ クインテッドという名前で演奏活動をしているようで、実力は問題ない。
プラハでは、どうやらこういったミニコンサートが毎日いろんなところで行われているらしい。
8時には終了したので、近くでみやげ物を買ってから、地下鉄でプラハ中央駅に行き、 21:30発の夜行列車のクラクフ行きに乗った。

列車の予約はしてあり、二等の寝台だった。チケットには座席番号と客車番号が書いてあるが、 実際の列車にはどこに客車番号が書いてあるかわからない。
結局、乗務員に確認してもらった。単純に一号車、二号車という番号でないので、注意が必要である。
二等寝台は三段であり、私は上段であったが、上段は中段、下段に比べ高さが低く、乗り心地が悪い。夜なので寝るだけだが、選べるのなら 中段、下段がお勧めである。
ということで、早々に睡眠した。



オシフィエンチム



5月4日

ポーランドの列車は比較的時間通りに運行しているらしいが、国際列車はしばしば遅れたりすることがあるらしい。
時刻表ではクラクフに朝6時半くらいに着く予定であったが、実際についたのは朝8時15分であった。
クラクフと、オシフェンチム(アウシュビッツ)に一日で行くことにしていたので、どういうルートにしようかと考えたが、 ちょうど雨が降ってきたので、午前中は町歩きは難しいと判断し、先にアウシュビッツに行くことにし、 クラクフ中央駅からそのままローカル列車を乗り継いでオシフィエンチムに行くこととした。
朝食を食べた後、9:15発のオシフェンチム行きのチケットを11Zl(ズオティ)で買って、10:50にオシフェンチム駅に着いた。

オシフェンチム駅からアウシュビッツにはバスでも行けるが、歩いても1.5kmくらいである。幸い雨も上がっていたので、歩いて行った。
道は道なりに行くだけだから難しくない。
オシフィエンチム博物館というのが、いわゆるアウシュビッツ収容所のあった場所である。
以前の囚人受け入れ所が入り口の建物で、サービスセンターになっており、各国語でのガイドサービスがある。 入場料は無料。ユダヤ人の援助が相当あるのだろうと想像される。
ここから中に入っていくと、有名な”ARBEIT MACHT FREI"(働けば自由になる)というゲートがあり、ここをくぐって鉄条網の中に入った。(写真左上)
収容所の建物自体はナチスが去る際に破壊したそうなので、再現されたものであるが(写真右上)28棟ある建物のなかに、当時の様子を物語る展示がされている。
それぞれ衝撃的なのだが、なかでも囚人が銃殺された「死の壁」(写真中上)、集団絞首刑台、収容所所長のルドルフヘスが絞首刑にされた絞首刑台。 そして有名なガス室(写真右)などが印象的であった。もちろん、見て楽しいものではない。

昼頃には十分見終わったので、クラクフに帰ろうと思ったが、帰りの列車は夕方までない。おそらくバスの便がクラクフまで出ているはずなので、
博物館の道を隔てた反対側にあるinfomationで聞いてみたら、通常のPKSのバスとミニバスがあるとのこと。 ミニバスが比較的頻繁に出ているようなので、時刻表をもらってのることにしたが、どこにバス亭があるのかがわからない。
いろんな人に聞いたが、それぞれ皆いい加減なことばかりいって、再度infomationに行って聞いてみても要領を得ない。 結局PKSのバスに乗って帰ることとなった。13:10発で9Zlである。時間を無駄にした。



クラクフ



オシフィエンチムから1時間50分ほどかかり、3時にクラクフに到着した。 クラクフ発17:55のEuro Cityでワルシャワに行くことになっているので、時間短縮のために、タクシーでヴァヴェル城に向かった。 14Zlで到着。あいにくの雨であった。

まず大聖堂に入る。カテドラルに入ること自体にはお金はかからないが、 ジグムント塔の上にあるポーランド最大といわれる鐘をみるため、 塔の上に上がるのにチケットが必要である。
塔の上からはクラクフの街が見える。聖堂の内部の装飾、ステンドグラスなど見ごたえがある。

大聖堂をでて、旧王宮に入る。中庭の周囲の建物は16世紀に建てられた美しい建物である。
王宮の展示、王族の私室、博物館と全てチケットが必要であるが、時間の関係もあり中に入って廻ることは断念した。
王宮の中庭から再び外に出て、ヴィスワ川側に向かう。城の高台から川を見下ろす景色も絵になる場所である。
川べりの竜の洞窟という穴もあったが、雨が振ってきたこともあり一旦建物に入って休憩。
ヴァヴェル城観光はここで終了として、クラクフ市内に行くこととした。

ヴァヴェル城から旧市街方向に歩いていく。 Kanonica通りからGrodzka通りに入り、まっすぐ行くと、中央市場広場に出る。
ここが、クラクフ市内の中心である。広場の真ん中には中央市場があり、塔だけ残っている旧市庁舎と、 市場に向かい合う形になっている聖マリア教会がある。
クラクフはポーランドの旧首都であるが、第二次世界大戦での戦災を免れた街であり、中世の街並みがそのまま残されている。
旧市街自体が世界遺産になっている。
あいにくの天気が残念だったが、晴れていればもっときれいに見えたと思われる。

まず、聖マリア教会に入ることとした。
ここは1222年に作られた歴史のある教会であり、内部にある祭壇がヨーロッパで第二の高さをもつ木造彫刻であるらしい。 入場は6Zlだがカメラ持込が5Zlである。
カメラ持込でお金を取るだけあって、内部は非常に美しい(写真左)。ステンドグラスも見ごたえがあった。


広場では大道芸人がパフォーマンスをしたりしていたが、天気が悪くいまひとつの盛り上がりであった。
そのまま、メインであるFlotianska通りをぶらつき、ケバブ屋で腹ごしらえした後、フロリアンスカ門から出て、バルバカンという砦に至る。 ここまで来るとクラクフ駅は目と鼻の先である。

クラクフ中央駅の前は大きなテントで覆われていて、ロックコンサートをしていた。
古い町並みとはややそぐわない感じである。

ワルシャワ行きのEuroCityは17:55の出発が18:00に変更となっていた。
例によって、乗るべき車両がよくわからないのだが、非常に客が多く、一等の列車でも通路に人があふれている状態である。
あらかじめ日本で一等のクシェットを予約していたのだが、どうやらオーバーブッキングであり、車両番号がわからないうちに 出遅れたため、座る席がなくなってしまった。
作戦失敗である。しかも乗る前には乗務員がいないので、乗る前に文句を言うことも出来ない。
結局立ち乗りで3時間の道のりということとなった。ひどい話である。
あらためてチケットを手配した代理店の契約条項を見ると、オーバーブッキングで受けた不利益は免責ということであり、代理店にも文句を言えない。 結局、鉄道の予約なんてする必要は全くなかったと痛感した。

21:00過ぎにワルシャワ中央駅に到着。夜に到着することを考えて、駅に近くにホテルをとっていたが、こちらは問題なく、 駅の近くのホリデイインにチェックインした。 長時間の移動と、観光で疲れたので、速攻で睡眠となる。



ワルシャワ


朝5:00に起床。すでに外は明るい。
この日で観光は終了だが、15:10発ヒースロー行きの飛行機なので、二時間までに空港に行くこととすると、 実際動けるのは12時半頃までである。
ということで行動を早く開始した。

6:30に朝食をたべて、7:30にチェックアウト。早速観光を開始するも、ルートをホテルに近づいてくるように設定するために、 はじめタクシーで王宮広場に行った(写真左)。

旧市街は、周囲をバルバカンという砦に囲まれている。
王宮広場から旧市街広場に向かうエリアは歴史的な建物が並んでいるが、 実際は第二次世界大戦で破壊されているものを復元したものであるらしい(写真右)。

王宮広場から、旧市街広場に向かうが、途中にある聖ヤン大聖堂の前には、プラハの春、ビロード革命の時の写真が展示してあり、 住民が教会に逃げ込んでいる様子が写されている。
この辺が、歴史的な事件に際して、重要な役割を演じた場所であることがわかる。

旧市街広場に入ると、周囲は中世の街並みとなり、300年前からの歴史があるレストランなど、趣のある店が並んでいる。

しかし、これらは全て第二次世界大戦で市街戦があったときに破壊されたものを復元したものである。 市街戦で破壊された写真も、旧市街広場の近くに展示してあった。

旧市街外広場を出て、バルバカンを抜け、北に上がると、キュリー夫人の生家に着いた(写真右)。
実はキュリー夫人がポーランド人であったのは今回はじめて知ったのだが、ここは現在キュリー夫人博物館となっている。
しかし、この日は月曜日。残寝ながら博物館は休館であり。中には入れなかった。他にも、月曜休館に阻まれた場所が多く、 月曜観光は失敗であったが、後の祭りである。

キュリー夫人博物館から、クラシンスキ公園方向に向かうと、交差点の角にワルシャワ蜂起記念碑がある。
第二次世界大戦末期にワルシャワ市民がナチスドイツに対して蜂起したのだが、市街戦で市内が破壊された上に、制圧されたという 悲しい話で、その際の戦況の経過などの説明がされている。
街角を歩いていて、いろんな説明のボードが見れるのも、面白いところである。


記念碑から再び、バルバカンから旧市街広場に戻る。中心にある人魚像を見て、歴史博物館に入ろうとするも、ここも月曜休館。 あきらめて、さらに南下。 王宮広場経由で、クラクフ郊外通りに行った。
クラクフ郊外通りは、ワルシャワの市内観光のメインロードとも言うべき道である。主な見所はこの道沿いに存在する。
聖アンナ教会を通り、左手にポーランドの詩人で独立のために活動した、アダムミツケヴィッチ像を見た後、ラジヴィウ宮殿に至る(写真左下)。
ラジヴィウ宮殿はもともとは貴族の宮殿だったが、現在では、大統領官邸となっている。よって、建物周囲は厳重な警備である。
ラジヴィウ宮殿の前にはユーゼフ ポニャトフスキ像がある。ポーランド出身のフランス軍人である。
一旦、通りを戻って、Trebcka通りに入ると、国立オペラ劇場がある。巨大な劇場であり、劇場博物館もある(写真中下)。

オペラ劇場からピウスツキ元帥広場に至ると、サスキ公園側に無名戦士の墓がある。
墓の前には衛兵がいて、毎正時に衛兵交代の儀式がある(写真右)。ここに着いたのがちょうど10時だったので、衛兵交代をしっかり目撃した 。 公園側には噴水があり、公園自体もきれいな公園である。

元帥広場を通って、再びクラクフ郊外通りに戻ると、正面にヴィジトキ教会が見える。 教会自体はたいしたことはないが、ここが昔、ショパンが日曜ミサでオルガンを弾いていたということで有名である。
もちろん、ショパンもポーランド出身である。

その隣にはワルシャワ大学がある。歴史ある大学であり、キャンパス内の建物もそれなりである。 一番奥にカジミーシュ宮殿があるが、ここは以前音楽学校であり、ショパンも在籍していたらしい。
ヴィジトキ教会側からキャンパス内に入り、正門に抜けた。

ワルシャワ大学の正門からは、道を隔ててチャプスキ宮殿があり、現在は美術アカデミーとなっているが、以前ショパンが住んでいたところらしい。 この当たり、ショパン関係の場所が続く。

そして、その隣の教会が、聖十字架教会であり、ひときわ高く目立つ建物である(写真中)。
ここの本堂の石柱の中にショパンの心臓が埋められているとのこと。心臓がキリスト教的に意味があるのかどうか疑問だが、 それほど、ショパンはポーランド人にとって大切な人物なのだろう。

聖十字架教会からさらに南に下ると、ポーランド化学アカデミーの前にコペルニクス像が建っている(写真左)。 そう、コペルニクスもポーランド人なのである。

この当たりでちょっと休憩。ちょうどコペルニクス像の前にKFCがあり、小休憩をした。

クラクフ郊外通りは、この辺りで新世界通りを名前を変える。 ワルシャワ旧市街観光はここらでほぼおしまいであるが、最後に近くにあるショパン博物館に行った(写真右)。
もともとは17世紀に立てられらたオストロフスキ宮殿であるが、国内外から集めたショパン関係の資料が沢山展示されているとのこと。
しかし、ここも残念ながら休館であった。

再び新世界通りに戻る。この辺りになると、中世の建物がなくなり、カフェや、おしゃれなお店が並ぶ通りに姿を変えている。 確かに新世界通りという感じである。
途中、chmielna通りから西に向かい、Zgoda通り、Zlota通りを経て、採取の観光地である文化科学宮殿に着いた。

文化科学宮殿は高さ234m。34階建ての高層ビルである(写真左)。
ワルシャワのランドマークであり、1952年にスターリンから贈られて作られたものであるが、見ての通り、権威主義的な建物のために 地元の市民には評判がわるいとのこと。
確かに旧市街の建物とは、趣が違い、旧市街広場を忠実に再現したような市民性を考えると、それもうなずける話である。
展望台が30階にあり、上まで上ってきた。ワルシャワ市内の眺めはなかなかである(写真右)。

宮殿の近くにはスーパーマーケットがある。この辺りは普通の街であり、見所はない。スーパーも普通のスーパーであった。
ここからホテルはすぐなので、一旦ホテル戻り、荷物を取って、空港に行った。タクシーで30US$。 15:10発のヒースロー行きであるが、13:00に空港に着くように出たので、ホテルを出たのが12時40分頃。
午前一杯での観光であったが、ワルシャワは想いの外小さいので、駆け足ながら市内観光としては十分である。

帰りのヒースローでは、トランジットの空港にもかかわらず、ユーロでのおつりがポンドで来たということに久々にイギリスの権威主義をみた。

今回の旅行は、プラハ、クラクフ、ワルシャワと、いずれも旧市街が世界遺産になっている街で、さほど大きくなく一日で廻れるところなので、 観光もしやすかった。
久々ヨーロッパは、きれいで、便利で、見所沢山と観光するには申し分のないところである。 最近中南米やアジアばかりだったが、まだ重要なヨーロッパの街で言っていないところは沢山あるので、 これから可能な限りヨーロッパを目指してみようかと思っている。