卒業旅行―アメリカ・ヨーロッパ・北アフリカの旅

1994.3.24‐4.29


ユナイテッド航空のアメリカ経由ヨーロッパ行きの航空券を使い、アメリカに住む友人(コーネル大学とスタンフォード大学に留学中)とベルギーに住む友人を訪ね、スペインから北アフリカに入るという計画で卒業旅行に行<事にした。

旅行計画としては、
成田―シカゴ―シラキュース
シラキュース―ワシントンDC―マドリッド
(陸路でヨーロッパ周遊)
ミュンヘン―サンフランシスコ
サンフランシスコ―成田
である。

アメリカ合衆国-
(イサカ/ナイアガラフォールズ)




3.24 18:45成田発。米国時間、同日15:00にシカゴに着いた。ここで国際線から国内線に乗り換える。 したがって入国審査となったが、まずここでトラブルとなる。 というのは一ヶ月の旅行なのに荷物が小さいディバッグ一つだったのを不審がられたためである。 別室に連れて行かれることになる。
国際学生証を見せると、係官が医学生なら心臓の4つのチャンバーの名前を知っているだろう。 言ってみろ、という。幸い英語名を知っていたので無事答えて無罪放免となった。
シカゴを16:30に出発。1時間の時差があり19:00にシラキュース着。友人が空港まで迎えに来てくれた。
イサカはニューヨーク州にあり、アメリカの名門コーネル大学のある町である。 いわゆるニューヨークはニューヨークシティのことであり、イサカからは遠く離れており、 イサカ自体はリスなどがいたりする田舎町である。今回は私の友人が留学しているため、まず、ここに立ち寄ることにした。
イサカの3月はまだ寒く、雪も残っていたが、私の来る前日は15℃と異常に暖かかったという。
翌3.25は午前中にコーネル大学を案内してもらった。午後には近所の床屋さんで髪を切る。 (8ドル)時差ボケのためこの日は早めに就寝した。

ここでの旅行計画は、何よりもナイアガラフォールズにいくことだった。 そこで、3.26、友人一家と一緒に友人の車でナイアガラフォールズに行った。 9:30イサカを出て、ナイアガラには13:30着。ナイアガラフォールズはアメリカ、カナダの国境にあるが、カナダ側から見るほうが良い。 まず、滝の直上から見て、その後洞窟になっている滝の下に入った。(入場料3.80C$)
カナダ側にはナイアガラウォッチング用に高層のビルが建っており、そのうちの一つSkeylon Towerに登った。 本来4.95C$だったが、時間が迫っていたので4C$に割引になった。タワーの上に上が帰ったら早々に睡眠した。
翌日は雨。この日はマドリッドに飛ぶ。朝はわざわざ友人の奥さんが日本食を作ってくれた。 この先しばらく食べられないとの配慮である。有難い。カリフォルニア米もおいしかった。荷物をまとめて空港に行く。 しかし、このイサカ滞在は全く緊張感なし。旅行しているという感覚ではなかった。 これから本格的な旅が始まるという感じである。



スペイン-マドリッド




シラキュースからワシントンDC経由でマドリッドに朝8:00に着いた。私にとっての初ヨーロッパである。 空港でアルヘシラス行きのクシェットを予約する。(1300Pts 1US$=117Pts)  乗車券はユーレイルフレックスパスを日本で買ってきた。
空港から市内でバスで行く(325Pts)。コロン広場に行き、そこから歩いてシベーレス広場、アルカラ門に行った。 そこから中央郵便局で絵葉書を出してプラド博物館に行った。その後ソルマヨール広場に行って食事。 ベーコンサンドとコークで400Pts。 午後は王宮(入場料350Pts)に行って、そこからソルまで歩き、メトロに乗ってアトーチカに行く(125Pts)。 ソフィア美術センターでゲルニカを見た。他にもピカソ、ダリなどの絵が多くあった。入場料は国際学生証でなんとタダ。 本当は卒業しているんだけどね。
この日の夜行でアルヘシラスに行く予定なので、マドリッドには宿はとらない。 早めに駅に行くが、この時期スペインは結構遅い時間まで明るかった。 しかし、この日一日で結構散財した。スペインといえどヨーロッパはやはり高くつく。
マドリッドから夜行列車で翌朝アルヘシラスに行く。 バスでportまで行き、そこからモロッコのタンジェ行きのフェリーに乗った(2700Pts)。 船内で岡山大学の男子学生ケンケン、イギリス留学中の女の子2人組(メグとユキ)と知り合いになり 以後この4人組でモロッコを回ることになった。



モロッコ

タンジェ

スペインからモロッコに渡ってきた旅行者は、ここタンジェでモロッコの洗礼を受ける。 スペインはとにもかくにもヨーロッパ。常識の通じる世界である。 しかし、モロッコはガイドにだまされる、物売りにぼられるということで悪名が高い。 船を降り立つと、いっせいにガイドが群がってくる。鬱陶しいことこの上ない。 しかし、これは後になって思えばモロッコのほんのプロローグに過ぎなかった。
とりあえず、食事を食べる。24DH(ディラハム)(1US$=7.6DH)
その後カサブランカ行きの2等クシェットを予約(125DH)荷物を預けて市内観光に行った。 モロッコの物価は安いが、だまされないようするのは、大変である。 皮製の財布を買おうとしたが、初めに言ってきた値段は80DH、そんな値段のわけがないので値切っていくと最終的には10DHになった。 しかし、全てがこの調子である。モロッコ商人との戦いは大変で、ちょっと気を許すととことんぼられる。 モロッコを回って人間不信になるのも分かる。
この後、夜行列車で初めは、私はカサブランカ、他の3人はマラケシュを目指した。
しかし、カサブランカは大都会だろうし、さほど面白いとも思えない。 せっかくなので、車内で急に思い立ち、私もマラケシュに行く事にした。ここで、問題になったのは、チケットである。 カサブランカ到着は早朝。検札はこれ以前に終わるはずである。 ということは、カサブランカ行きのチケットのままで、マラケシュまでいけるかもしれない。 万が一見つかっても、差額を払えば問題ないだろう。などと、甘いことを考えていた。
そして、カサブランカを過ぎ、マラケシュに向かっているとき、不意に車掌がやってきた。 こっちに来いとのこと。 どうやら、マラケシュまで行く客のベッドをチェックしていて、そうでないベッドに私が寝ていたため、ばれたようだ。 しょうがないので、私はとりあえず途中で気が変わったからマラケシュに行くことにしたと、言い逃れてみた。 しかし、状況はそう甘くなかった。車掌は完全に私が無賃乗車するつもりだったと確信していた。 (実際そうだったのだが)そしてマラケシュでポリスに引き渡すと言ってきた。 まあ、これはおそらく脅しだろう。結局、賄賂を渡せば何とかなると判断し、あとはいかに賄賂を安くあげようかと考えた。 この場合、自分で賄賂の話をしたらぼられるだろうから、ケンケンにとりあえず,それとなく賄賂の話をしてもらった。 そうすると、奴は300DHなどととんでもない値段を言ってきた。とてもじゃないがそんな金を払うのは馬鹿らしい。 実際は差額が50DHほどなのだから、差額を払えばいいはずだと考え、強気で交渉にでた。 こちらは50DHから交渉を開始。奴はポリスという切り札をちらつかせ、交渉を有利に運ぼうとしてきた。 初めは50DHから値段を落とすつもりはなかったのだが、万が一奴の機嫌をそこね、 本当に警察沙汰になったら面倒である。しょうがないので、100DHで手を打った。
しかし、さすがモロッコ。不法乗車の賄賂すら値切れるわけだ。この経験で、値切りのテクニックも解ってきた。


マラケシュ

3.30 朝、マラケシュ着。駅を出るや否や、ガイドが着いてくる。全く無視するも、ぜんぜんめげない。 ガイドは自分のリベートがもらえる宿ばかり勧めるが、我々は無視。 フナ広場まで歩いてきて、自力で宿を見つけ、ケンケンとダブルの部屋(50DH)をシェアする。 水シャワーだがまあまあというところである。
昼食は近くの食堂へ行き、シシカバブ、クスクス、タジンなどのモロッコ料理を味わう。 これだけ食べても4人いたので一人28DH。満足した。
午後はメグ達と別れ、ケンケンと次の町、ワルサザードに行くアトラス越えのバスを予約しに行く。 しかし、バスターミナルが分からず、仕方なくガイドの世話になった。49DHでバスの予約をする。 ガイドのチップは5DH。そこからの帰りがけにメディナ(旧市街)に入る。 ここは多くの店が立ち並んでいるが迷路の様になっていて、方向が分からなくなる。 しかし、物の相場がわからないので、何も買わずに出てきた。一旦宿に帰って、再び食事をしに皆で外出。 フナ広場には怪しげな蛇使いがいて、蛇を首にかけてくれる。しかし、喜んでいると後でチップを要求された。 なるほど、したたかである。仕方なく1DH払う。モロッコでは全てが金、タダでは何もやってくれないのである。 モロッコ商人は侮れない。まだまだ甘かった。
翌日、朝食はパンと水。原始的なメニューだが、このパンが珠玉だった。フランスパンなのだが、焼きたてでやわらかい。 なぜなら、モロッコのパンは工場生産のパンではなく、小さなパン屋がみな自家製で作ったパンを売っているのである。 しかもパン一個で5.4DHと異様に安い。これはもちろん地元の人間も買うのでぼられないためだろう。 実際の物価はこれほど安いのである。この後何度もモロッコでパンを食べたが、どこでもうまかった。 フランスパンでありながらフランスのパンよりうまかった程である。
ワルサザード行きのバスは午後出発なので、それまで、メディナを散策。こまごまと買い物などをした。
3時過ぎワルサザードへ出発。ワルサザード着は夜。宿を選んでいる時間はなく、適当に入る。 100DHのダブルの部屋をシェア。 しかし、白人パッカーはそんな状況でも屋根裏に寝るように交渉したりして、安くあげていた。恐るべし。


トドラ谷
ワルサザードは砂漠のオアシスであり、ここからザゴラというサハラ砂漠のなかの町にいける。 今回モロッコの最大の目的はサハラに行くことだったので、ここでサハラツアーについて聞いてみたが、 なかなか日程がうまくつかないし結構時間がかかるようであった。ワルサザード自体はさほど見るものはないので、 とりあえず先に進み、トドラ谷に行って、その後メルズーガというもう一つのサハラツアーの方に行くことにした。
ワルサザードからティネリールにバスで行く。(30DH) このバスは豪快で、走っている最中にフロントガラスの一部が割れた。それでも運転手は動じず、 あたりまえの様に運転を続けている。車内ではモロッコ人のおばさん同士が大声でけんかを始めた。 およそ日本ではこんな公共の場所で露骨にののしりあう人はいないだろうが、モロッコでは全くめずらしくないようである。
ティネリールに着くも、ここには宿があまりない。バスが着いた目の前にあったホテルに泊まることにした。 このホテルには怪しげな日本語をしゃべる陽気なオヤジがいて面白いが、 今までの経験で日本語をしゃべる人間は信用ならないというのが身にしみていたので、気を許さず相手をした。
彼の案内で町をひと通り回る。モロッコ人のくせに日本語で冗談を言ったりして面白い。 途中知り合いの家に行くとか行って、我々をある家の中に通した。 そこで、お茶を飲みながらカーペットを見せられたりする。もちろん売るためである。 これが奴の手口なのだろう。やはりどこか信用ならない感じである。もちろん誰も買わなかった。
その日はそれでおしまい。目的のトドラ谷は翌日に行くことにした。
4.2 翌朝、昨日のオヤジが、オヤジの友人の家で朝食をただでご馳走をしてくれるとのこと。 あくまで友達だからもてなすんだと言う。胡散臭かったが断る理由もないので、付いて行った。
行った先は土産屋の一室であったが、とくに物を売るでもなく、豪華なクスクスを振舞ってくれた。 土産屋の人もとてもフレンドリーで我々は満足しながらの朝食を済ませた。 その後、食休みをしている最中、何気なく周囲にあるみやげ物を見ながら、 ある一人が手に取って見ていると土産屋の主人の品物の説明が始まった。買ってもいいなという気持ちで見ていたとのことだが、 もう彼の目はさっきと違う。今まで、多くの場所で目にした物売りの目に完全に変化していた。
しかし、今回初めに品物を取ったのは我々だったし、食事も食べさせてもらった手前、 雰囲気的にこのまま何も買わないわけには行かなくなってしまった。後で思うと、これが彼らの手口だったのかもしれない。 欧米人ならそのまま帰ったかもしれないね、といいながら、やはり意志の弱い日本人は、情にほだされて買ってしまった。 とにかく、このように、モロッコ商人の手口は巧みである。

ティネリールに来た理由は、トドラ谷に行くことであった。その日、町からタクシーに乗ってトドラ谷に行く。 (4人で一人10DH)そこから歩いてトドラ谷を回った。 トドラ谷は自然に出来た切り立った崖であり、その高さは目もくらむほどである。 欧米人のロッククライマーが登っていたが、その気持ちもわかる。 モロッコの青い空とトドラ谷のコントラストが鮮やかであった。ここで、日本人のアベックに会う。 男性は金銅さんといい、世界放浪をしている人で、いつもは彼女は日本でサポートしているのだが、 今回はお金を持ってくるついでに合流したとのこと。世の中、妙なアベックもいるものである。
トドラからティネリールに帰ってきて夕方ハマムに行った。 ハマムはアラブの公衆浴場であるが、中はパンツをはいてはいる。湯船も有り、銭湯そのものである。 日本人にはたまらない。入っていくと変なオヤジがマッサージするとのこと。ほとんど強引にマッサージをされた。 しかも結構ボキボキやられて痛い。まあこういうものなのだと思って湯船につかり、満足して出て来た。
すると、先ほどのオヤジがでてきて、マッサージ代をよこせという。 お金の話など全くしてなかったのでサービスなのかと思っていたのだ。「やられた」と思ったがもう遅い。 しかも、入浴料は5DHなのに、マッサージ代は20DHだという。値切ってみても駄目だった。 モロッコはさすが恐ろしい。これだけだまされてきて、相当警戒しているにもかかわらず、ここでもだまされた。 この国では、お金の絡まないサービスは何もないのだということをあらためて痛感した。


メルズーガ




ティネリールからはサハラ砂漠に行くためにメルズーガを目指した。
まず、ティネリールからバスに乗って、エルフードに行き(30DH)、そこからタクシーに乗ってエルラシディアに行った。 (4人で一人13.5DH) そこで一泊(30DH)。その晩にメルズーガ行きの砂漠ツアーをアレンジした。 これは、6人乗りのランドローバーをチャーターして行くのだが、 われわれ4人と他にティネリールで一緒になったもう2人の日本人グループで一台を600DHでチャーターすることになった。 出発は早朝で、メルズーガでサハラの日の出を拝むというものであった。

前の晩は早めに就寝し、4.4朝4:00に宿を出発。ある程度進むと、そこからは道無き道となる。 くねくねと曲がりながら、砂漠を疾走し、ホテルに着く。
このホテルはトアレグが経営しているとのことだが、名前はそのままずばり「ホテル」。 つまりホテルという名前のホテルなのである。そこは、他にホテルがないどころか、周囲360度砂漠以外に何もない。 砂の中にぽつんと建っているのであった(写真)。
しかし、サハラの日の出は最高であった。
昼間のサハラは予想通り暑かったが、ミネラルウォーター一本をもって、砂漠をさまよいに行った。 しかし、この季節はまだ涼しいのだそうだ。いくつもの砂山を越えていくと、その先に形の良いパーム椰子が一本たっていた。 絵に描いたような光景に、思わず記念写真をとって、そこで砂漠放浪は終わった。




砂漠の一日はやることがないため結構長い。午後には、そこに来ていたスペイン人が持っていたスキー板をかりて、 サンドスキーをしてみた。近くにある砂山を登って、頂上から降りてくる。しかしこのサンドスキー、曲がることは出来ない。 直滑降のみである。しかもスピードは遅い。ただ、サハラ砂漠を相手にして、スキーをしているという現実を楽しんでいた。 良く考えればとんでもない贅沢なことなんじゃないかと。高いお金を出して、豪華な旅行をするだけが、贅沢ではないんだなと痛感した。
このホテルにはトゥアレグの人々が次々にやってくる。あるとき、私の持っていたカシオのデジタル時計をみて、 一人のトゥアレグの男が自分の時計と交換してくれといってきた。 彼の時計は聞いたこともないようなメーカーの時計であり、時間も狂っている。 どうやら、彼らにとって日本製の時計というのはステイタスであり、カシオの安いデジタル時計でもブランドなんだそうだ。 しかし、私も旅行に必要だからと言って断ると、彼はトゥアレグの青いターバンをつけると言ってきた。 トゥアレグターバンに惹かれるものはあったが、ターバンは買おうと思えば土産屋で売っているので、 それでも断ると、最後には、「ラクダならどうだ、子供のラクダだけど、、」ととんでもない話になった。 本当にくれるなら文句は無いが、しかし、現実問題ラクダを持って帰れるわけもなく断念したが、これは冗談見たいな本当の話である。
夜は、砂漠に寝転んで星を眺めた。まさに降るような星であった。その後、ホテルでは太鼓とアラブ音楽の演奏が始まり、延々夜中まで宴が続いた。ムスリムであるはずの彼らだが、中にはアルコールを飲んでいる物もいる。ハッシッシなどもやっている。いまやトゥアレグと言えども、何でもありと言う感じである。
驚いたのは、トゥアレグの一人は6ヶ国語をしゃべれると言う。アラビア語、ベルベル語、英語、フランス語、スペイン語、ドイツ語、で日本語は少ししかしゃべれないと言いながら、私と日本語で喋っていた。おそろしい語学力である。どれも学校で学んだのではなく、このホテルで旅行者から直接勉強したらしい。英語一つマスターするのに四苦八苦している日本人から見ればうらやましい限りである。ただ、これも彼らが必要に迫られて、覚えたからであろう。というのは、語学ができるか出来ないかで、商売に直接かかわってくるからである。
このように、トゥアレグも現代化されている。しかし、生活はまだまだ昔ながらの物が残っている。彼らの文化がいつまでもなくならないことを願うばかりである。

フェズ

4.5メルズーガからエルフードに戻り、フェズにバスで移動した。 これは時間がかかりフェズに着いたのは夜の10時。旧市街のなかにある35DHのホテルにチェックインした。
翌日フェズの新市街に行く。フェズの近くにはスキー場があるとの話を聞いていたので、ツアーを捜してみるも、見つからない。 季節的に終わっているようであった。
再び旧市街に戻り、メディナの中をうろつきながら、買い物をした。 砂漠で持っていったカメラが壊れたので、カメラを探したが、中国製のカメラが150DHで売っていた。 値切るがなかなか値段が下がらない。その日は一旦退散。翌日もまた、同じ店に行き二日がかりで100DHに値切って買った。 日本円にすると安いのだが、モロッコでは値切らずに買うことは危険である。 しかし、この値段はさすがに限界であったらしく、店のオヤジも最後には起こりながら売っていた。 すこしはモロッコ商人に反撃できたかもしれない。


スペイン-アルヘシラス




4.8 朝8:30にフェズを出て、タンジェに15:00着。タンジェ15:30に船に乗り(50$)再びスペインに戻ってきた。 アルヘシラス21:30着。時間がないので、その日はアルヘシラスに一泊する(100Pts)。
翌日(4.9)せっかくスペインにきたのだから闘牛を見ようということになったが、 マドリッドまで行って闘牛のチケットがとれるかどうか、大体その日に闘牛があるのかどうかも分からない。 そして、アルヘシラスの町をぶらぶらしていると、闘牛のポスターがあった。 みるとこのアルヘシラスでも闘牛をやっているらしい。一日アルヘシラス市内観光をして、18:00闘牛を見に行った。 1500Ptsでソル(日向の席、まぶしいので安い)。この時間に始まっても、スペインはこの季節日が長いので、十分楽しめた。 しかし、闘牛自体は残酷なショーである。ただ単に牛を一頭殺すわけである。
牛は会場に入ってきた時は、元気がよく、まさに荒くれ牛そのものである。 しかし、メインの闘牛士がでてくる前に、下っ端の闘牛士が何人かで牛を弱らせる。 そして、結局メインの闘牛士が出てきたときはすでに弱っていてさえない。
闘牛士は良い闘牛をすると、牛の耳をもらえる。さらに良い闘牛の場合、首までもらえるらしい。 この日もマドリッドから来たという売り出し中の闘牛士は耳をもらって、それを掲げて場内を回っていた。 しかし、よく考えると、全く残酷物語であり、なんだかなあ、と思ってしまうのは日本人だからであろう。
その夜21:00、アルヘシラスからHayedaye行きの夜行列車にのった。翌朝マドリッドでケンケンと別れた。 17:00Hayedaye着。ここはスペインーフランスの国境で、フランスの新幹線TGVを予約しパリを目指した。


フランス-パリ






ス ペインからフランスへの入国は厳しかった。
一列に並ばされ麻薬犬が一人一人を回っていく。 中には飛びかかられる人もいた。私もサハラのトゥアレグにハッシッシをやるとか言われたが、もらわなくて幸いした。 しかし、いいかげんなモロッコとは大違いである。
その後、TGVにのり、23:45にパリ、モンパルナスに到着。ホテルを捜す。 フランスは先進国。宿も高い。モロッコで一泊500円くらいで泊まっていた感覚では、とても無理である。 しょうがなくダブルの部屋のエキストラベッドを入れてもらい3人で泊まった。(3人で345F)
翌4.11、朝は夜までにブラッセルに入ることになっていたので、一日でパリを回ることにした。
朝目メグ達と分かれ、10:00頃出発。 まず地下鉄でエッフェル塔の方に行き、シャイヨ-宮からセーヌ川を散策して、凱旋門、シャンゼリゼ通りも行き、昼食。 そこからコンコルド広場まで歩き、ルーブル美術館に行った。まあお決まりのコースである。
これで、時間になったので、ちょっと早いが駅に行き14:38発のブラッセル行きの列車に乗った。



ベルギー-ブラッセル







ブラッセルは高校時代の友人に会うためにわざわざルートとして組み入れた。滞在はもちろん友人宅。
初めの予定ではここから東欧に行くつもりだったので、各国のビザをゲットすることになる。 また、モロッコはいろいろあったものの、サハラは非常に印象深く、気に入ったので、ぜひもう一回行きたいと思ったこと。 初めはチュニジアからアルジェリア、モロッコと横断したかったという経緯もあり、チュニジアを目指すことにした。
ミュンヘンアウトの日程が確定なので、いろいろ計画を立ててみると、チュニジアに行き、東欧は一カ国くらいしか、 日程的に余裕がない。結局ブラッセルからチュニジアに行き、帰ってきてからハンガリーに行く事にした。
翌4.12はブラッセル観光。実際見るとさえない小便小僧を見て、グランプラス近辺を観光した。 旅行代理店にもよって、格安の航空券を捜す。マグレブは旧フランス領であるので、 パリやブラッセルでは格安航空券が手に入りやすい。結局ブラッセルーチュニス往復が12850BFで手に入った。
翌日はハンガリービザの手配をした。即日とれて1500BF。 ヨーロッパ内の移動はユーレイルフレックスパスがあるので、これで、移動の手配はついた。






チュニジア




トゥズール

4.14 朝、ブラッセルからチュニスに到着。チュニスの空港から35番のバスで市内中心部まで行った。 まず、バスターミナルに行き、時間を確認。21:00発のトゥズール行きにのることにする。
その後メディナを散策した。 メディナ自体はモロッコと同様だが、客引きのしつこさが違う。結構あっさりあきらめてくれるのが良い。 これはとても快適な旅行ができそうな予感である。
夜行バスでトゥズールを目指す。 というのは、モロッコでサハラに感動して、チュニジアでももう一回サハラツアーに行きたかったからである。 チュニスートゥズールは15.3DL。トゥズールには朝の3:30についた。
あまりにも早く着いて、宿も開いてないので、仕方なく近くのパン屋で時間をつぶす。 アラブはアザーンが早朝に流れるので、朝は早い。5:00頃には宿も入れたので、チェックインしとりあえず寝た。 10:00頃起きて、町に出る。インフォメーションをぶらついていると、チュニジア人の警官夫婦に会う。 この警官は結構いろいろと親切にしてくれ、なりゆきで、一緒に行動することになり、 トゥズールにあるアラブのテーマパークに行った(5DL)。 そこでなんとモロッコのティネリールで会ったアベック(金銅さん達)に会う。 なんという偶然。彼らはティネリールからカサブランカに行き、そこからチュニスに飛び、 日本で岡山在住の彼の大学に留学していたチュニジア人Missiと再会するために来たのだそうだ。 しかし驚いた。チュニジアに行くとは聞いていたが、まさかこんなに有名な町でもないトゥズールで会うとは。 彼らは車で来ていて、シートには幸い空きがあった。 そんなことで、なぜか私の連れの警官夫婦と、金銅君たちとMissi、車の運転手の総勢7人の団体になってその後行動することになった。
とりあえず、皆で食事に行った。タジンやらクスクスを食べて店を出ると、なんと乗ってきた車が駐車違反でつかまっていた。 しかし、ここで、警官が本領発揮。警察署に乗り込んでいって、なんと無罪放免になった。 こんないいかげんでいいのかと思うが、この国では警察はやたら威張っているそうだ。 たとえば、私がカセットを買おうとして店に行き、例によって値切りの交渉をしたが難航していた。 そこにその警官がきたらあっという間に値段が下がった。 それは、彼らがぼっていたというより、警官が有無を言わさず無理やり値段を下げさせたという感じであった。 そう言えば彼は、その店に入ってもお金を払わない。 我々が一緒に入ると彼も分まで払うことになるが、それは彼が我々におごるように要求しているのではなく、 彼がどんな場面でもお金を払わないんだということのようだ。
Missiはこの国では警察にはしたがっていた方が良いといって、ややわがままな彼の行動も静観していた。 その後、金銅君達はGafsaに帰るといい、警官夫婦もそちら方面に行くとのことなので、私も成り行きで一緒に行くこととした。
車はおんぼろプジョー。途中何度も検問がある。というのはアルジェリア国境付近を通るためである。 トゥズールに来るときはこの検問でさんざん停められ、かなり時間がかかったとのこと。 しかし、帰りは警官パワーでどの検問もあっという間に超えていく。 しかも、ブレーキ故障で車が停止線で止まれず、検問を突破してしまい、パトカーに追いかけられ、 ドンでもないことになりそうになったときも、警官が全て丸くおさめてくれた。
ということで、わけのわからない成り行きツアーだったが、良くも悪くも警官のパワーを感じた一日であった。 Gafsaには夜遅く到着。警官の値切りで3.5DLでホテルに泊まった。

マトゥマタ







4.16早朝に起きてGabesに向かう。バスで4.95DL。Gabesの町には何もないので素通りして、バスでMatmataに行った(1.65DL)。 Matmataはベルベル人の地下住居で有名なところで、スターウォーズのロケ地にもなったところである。 宿はその地下住居をそのまま改造してホテルにしたところに泊まった。(一泊5.3DLで朝食つき)
ここMatmataは、小さな村であり、そのあちこちに地下住居やその跡がある神秘的な場所である。 確かに、スターウォーズのロケ地にもなりそうな場所である。





モナスティール




マトゥマタを5:30のバス(1.65DL)で出て、Gabesに行き、8:15のバスでSouseに行った(9.32DL)。 さらにSouseから電車に乗ってモナスティールに行った(1.36DL)。 モナスティールはカスバの町で古い城跡が美しい。また、海岸線は眺めもよく典型的リゾートであり、白人のツアーが沢山きている。 この日(4.17)は日曜であり、現地の人間も遊びに来ていた。 しかし、さすがアフリカ人。 ワゴン車のなかは、アラブ音楽をガンガン鳴らし、自らも踊ったり、太鼓をたたいたりといった感じの観光である。 彼らはいつでもどこでもこんな感じであり、長距離バスのなかはアラブ音楽でいつも騒がしいし、ちょっとしたことで踊り始める。








ベルギー-ブリュージュ







チュニス9:15発の飛行機でブラッセル12:45着。その後スイスに向かう前に時間があるので、 途中ベルギーの観光地を回ることにし、ブリュージュにいくことにした。ブラッセルーブリュージュは355BF。16:00前に着いた。 ブリュージュは美しい町で、古い町並みと美しい花で有名で、日本人ギャルやアベックが沢山来ていたが、 男一人でバックパックという人はめったにいない。いいところなのだが、自分にはやや場違いであった。 2時間ほど歩いて回ってきた。ここから21:09発のバーセル行きの夜行列車にのった。








スイス






ブリュージュから夜行に乗って、インターラーケンに朝8:30頃着いた。 ユーレイルフレックスは1等にのれるので、すいていた一等の席で横になって寝ていけた。 まず両替をした。(20US$=27.60SF)駅で地図を買うが1Fした。スイスは全体的に物価が高く。 ほとんど日本と変わらない。
季節は4月下旬。初めスキーをしようとしたのだが、時期が遅く、 雪があるところは、山岳電車でかなり上まで行かねばならない。それには、お金も時間もたりなかった。 天気も悪く、曇っていてしかも寒い。仕方なく、インターラーケンでのスキーはあきらめ、同じスイスのバーゼル、 ベルンに行くことにした。
12:45ベルンに向かう。13:30着。 ベルンの町はヨーロッパ特有の古い町並みだが、地下室で有名である。 また、市内にある公園で地面に絵を書いてチェスをやっていた。
スイスは先進国なので、特に他に面白いこともなく、再びバーゼルに移動。市内をぶらつく。 ここも、なんと言うこともない普通の町であり、ここから、ブダペストに夜行で移動することとした。 このあたり、ユーレイルパスを最大限に活用して、移動してばかりであった。 基本は先進国で宿を取らないということで、お金もなかったので仕方がなかった。





ハンガリー




4.20 ベルンから再び夜行列車でオーストリアを素通りし、ブダペストに午前11:50についた。 ハンガリーは旧東ヨーロッパのなかでも比較的早く西側と交流をもった国であり、それがためにユーレイルパスが通用した。 この時点で金銭的余裕がなくなってきたので、当初予定していたチェコやブルガリアに行くのは断念し、 ユーレイルで入れるハンガリーを選んだわけである。
駅のインフォメーションでユースの場所を聞き、ユースに行く。 一泊600Ft。季節はずれのため、改装工事中で、お客は少なく、私を含め二人であった。 ここ二日車内泊だったので、とりあえず洗濯をして、シャワーを浴び、近くのスーパーで買い物をした。 店の品物は、ハンガリー製のものと西側のものと両方あり、品揃えは結構良い。 しかし、ハンガリー製のものが極端に安く、品質が悪そうであるのに対し、西側の製品は高いが質がよく、際だったコントラストだった。 地下鉄で市内に向かったが、市内を走る車も旧東ドイツ製のトラバンタが走っているかと思えば、 日本車やドイツ車の古いものが走っていたりして面白い。
ハンガリーはドイツの影響を受けていて、町にはバールがあり、昼間っから皆ビール飲んでいる。 地下鉄も面白いことに、ドイツでよくある、改札がなく自分で切符を買って差し込むタイプである。 これがスペインやフランスだと改札に回転バーがついていて勝手に入れないようになっている。 何度も無賃乗車をしようという欲望に駆られたが、見つかったら数倍の罰金を取られるとのことで、結局1-2回しかしなかった。 (結局やったんだけど)
翌日はハンガリーのハマムに行った。 入浴料は120Ftだが、タオル代が50Ftで、デポジットとして200Ftを払い、かえるときに返してもらう方式になっていた。 入るのには水着が必要なので仕方なく680Ftで水着を買い、石鹸も49Ftで買ったので結構お金がかかった。
ハンガリーのハマムはアラブと違い、入っている人たちの感覚はプールのような感じである。 水着を着ていることもあるし、中の作りもプールのようである。
この日の夕食は近くのスーパーでスパゲティを買ってきて自分で作った。ここユースはこじんまりとして居心地は良かった。 4.22は革命広場に行った。こういった場所にいくとやはりここが社会主義国であったんだということを感じる。 広場にいる衛兵の交代をみて、博物館に行く。IDカードで入場料はタダ。この博物館はかなり規模が大きく見ごたえがあった。


ドイツ―ミュンヘン



当初の予定では、ヨーロッパはミュンヘンアウトであったが、 せっかくなのでイギリスに行きたいと思った。ミュンヘンアウトのチケットはロンドン経由であり、 ロンドンでトランジットになる。そこで、ミュンヘンーロンドンを捨てれば、 ロンドンから乗ることが可能であり、一日早くロンドンに陸路で行き、ロンドン観光をしてから、 ロヨーロッパを後にすることにした。こういう考えも、ロンドンまで陸路でいっても、 ユーレイルで何とかなるからである。
ということで、4.22夜21:00夜行でブダペストを出発、翌4.23朝5:50ミュンヘンに着いた。
その日は土曜日。サッカーの試合がある日だったようで、私がまだミュンヘンの駅にいる頃、 ニュルンベルクからサッカーのサポーターを満載した列車が着いた。 しかし、ドイツのサポーターの熱狂振りはすごい。列車のなかですでに大声で応援歌を歌っている。 その歌声とともに列車が到着。到着するや否や、その列車は銃を持った大勢の軍人によって囲まれて、 出てくる人々は全てボディチェックを受ける。さすがヨーロッパのサッカーの本場は違う。 すごい光景だった。
その後、町に出たが、町じゅうのいたるところでミュンヘンとニュルンベルクの両方のサポーターが、 それぞれの応援グッズを身に付けて、入り乱れて大騒ぎしている。
これを見ただけでもミュンヘンに来たかいがあった。
ロンドンに翌日までに着かなければならないので、適当に市内観光した後、ICE(ドイツの新幹線)にのってケルンに行き、 Oostendeに行き、ドーバーを越えてロンドンにはいることとした。


イギリス―ロンドン






ロンドンビクトリア駅に早朝着き、近くのB&Bにチェックインしてから、観光に出かけた。 ロンドンではモロッコで会った友達と待ち合わせをして、案内してもらった。 まずバッキンガム宮殿に行き、衛兵交代をみた。その後地下鉄でロンドン橋、ロンドン塔、トラファルガー広場と回る。 昼食を食べて、大英博物館、ピカデリーサーカスと回り、一日でロンドンのほぼ主要な観光を済ませた。 夜は久々の中国料理を食べ、大満足の一日であった。
翌4.25はビッグベンに行き、中に入った。 そのままヒースローに行き、チェックインをする。 ヒースローのセキュリティーは丁度テロが問題になっていたためもあり厳しく、しかも私がモロッコ、 チュニジアを回っていたため、怪しまれて、荷物を全部開けられた。 そのまま、13:55発で同日16:30サンフランシスコに着いた。





アメリカ合衆国―サンフランシスコ


サンフランシスコでは、友人の出迎えを受け、彼の家に行って、久々に日本食を食べた。 まさに感激であった。宿はセキュリティーの関係もあって、近くモーテルに二日で88$で泊まった。 今回の旅行で最も高い宿であり、思わずカードを使った。







スタンフォード

私の友人が留学していたスタンフォード大学に遊びに行った。 まず、スタンフォードタワーに行き、スタンフォードの敷地を上から眺めたのち、 大学のオフィシャルツアーに参加した。 午前中でスタンフォード大学の主だったところを回るツアーで、 教会やら創立時代の歴史などを見聞きした。昼食は友人と一緒に学食で食べ、 午後はMedical Centerに行った。昔はMedical Centeのツアーもあったそうだが、 現在は無かった。仕方なく、ちょっと散策して、ロダン広場やart galleryなど回って、 本屋に行き、終了となった。




バークレー

スタンフォードに行ったので、翌日はもう一つの名門大学であるカリフォルニア大学バークレー校に行った。 大学構内はいかにもアメリカの大学という感じで、構内を学生がローラーブレードで走っていたりする。 構内を見た後は、学生街を散策。午後3時頃サンフランシスコに帰ってくる。 その後ノブヒルに登って、海やベイブリッジなどを見て、チャイナタウン経由で帰ってきた。 この日は、友人ともう一人会社に派遣できている先輩とともに、寿司を食いに行った。 カリフォルニア米の寿司であるが、職人は日本人であり、味には違和感は全くない。 カリフォルニア巻きなども堪能した。




サンフランシスコ市内


サンフランシスコは坂の多い町である。日本でいえば長崎のようである。 4.28は一日市内観光とした。まず、ケーブルカーでフィッシャーマンズワーフに行った。 その後、バスでゴールデンゲートブリッジに行く。曇っていたが、なかなかの眺めであった。
そこから、ゴールデンゲートパークに行った。きれいな公園でのんびり出来た。 そこからMuri メトロでcultrainの駅の近くに行く。途中civic centerに寄った。 やはり治安が悪そうな感じであった。
サンフランシスコ最後の夜は日本食とし、日本の新聞 、日本のテレビをみて完全に日本リハビリをした。
翌日4.29、友人と一緒に市内に行った。空港に11:00過ぎに着く。 見送りを受けて13:35定刻どおり出発。帰国の途に着いた。

長い旅行でやりたい放題だったが、航空運賃も含め30万で済んだ。 就職前の最後の旅行だったが、十分楽しんだ。いろんな人に会い、友達になった。 もうこういった旅行が出来ないかと思うと残念であるが、これからも短期でも旅行を続けたいと思った。