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読書記録2004年2月


『イワン・イリッチの死』
トルストイ,訳:米川正夫(岩波文庫)1884/★★★★

−あらすじ−

 一介の官吏であり地上的な喜びにのみ生きがいを感じるようないわゆる
俗物、主人公イワン・イリッチが、些細な事故から不治の病に罹り、
死の恐怖や苦痛、孤独感に悶え苦しみながら、やがて死を受け入れ、
永遠の眠りにつく過程が描かれる。

−感想−

 仕事で得られる自尊心、社交界で得られる虚栄心、友人とのカード遊びで
得られる開放感…。根源的な問いを真面目に発することなく、そういった
至極世俗的な愉しみにのみ生きる喜びを感じる凡人が、他人ではなく己自身
の死に直面したときの驚愕や戦慄、その後の内面の変遷といったらどんな
ものだろうか?そうした疑問に見事に応じた作品である。

 主人公は自分がもう長くないと悟ってもなお生にしがみつき、それゆえに
苦しむ。初期の苦しみは生への執着が原因だが、しかしふと、自分のこれまで
の生涯とは、虚飾や虚偽に蔽いつくされたくだらない全く無意味で無価値な
ものだったのではないかという、これまで無意識裡に見まいとしてきた想念
に囚われる。事実そんな人生を送ってきた自分や自分を取り巻く世界を憎悪
するが、いよいよの末期、その全てを赦し、許容し、慈しみ、また周囲に
自身の許しを請う心境に達した瞬間、死の恐怖や苦痛の一切から解放される。
 そして終盤の次の一節がクライマックス、非常に印象深い。

…いったいどこにいるのだ?死とはなんだ?恐怖はまるでなかった。
なぜなら、死がなかったからである。
 死の代わりに光があった。
 「ああ、そうだったのか!」彼は声にたてて言った。「なんという喜び
だろう!」…p.102

 自己完結しない、矛盾に満ちた謎だらけの生からの解放。生への執着心、
我執が消え、さらに終局においては憎悪し呪いすらする人生や世界を愛せた
とき、死は死でなくなる、自己に閉じられた生からの"解放"に感受される、
光に向かって解き放たれる、という死を受け入れる観点はとてもユニークだ。
意識を保持していられれば、自分自身の最期は永遠性、超越性に触れ得る
最大にして最後の機会でもあるというわけだ。
 僕は、もう今後さほど素晴らしい出来事には出会えないとか、ろくな人生
は歩めないとか、そういう厭世気分に常に浸されているから、この観点には
大いに心を掴まれた。

−名文の抜粋−

…すべての死人の例にもれず、彼の顔は在世のときより美しく、
だいいちもっともらしかった。その顔には、必要なことはしてしまった、
しかも立派にしてのけた、とでもいうような表情があった。
のみならず、この表情のうちには、生きている者に対する非難というか、
注意というか、そんなものが感じられた。…p.8,9


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