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『討論 三島由紀夫vs東大全共闘』の断片的要約ノート


○暴力について

全共闘A>
無条件に暴力を否定したりせず、肯定もするのは全共闘と相通じるが、
三島には他者がない、そこでは自己の論理は自己のものでしかない。
暴力と言うならそのとき他人はどういう位置づけに?

三島>
暴力はエロティシズムに根源でつながる。エロティシズムは相手の主体性
や意思を封じ込める、相手に意思を認めて振るわれる暴力はその存在にで
なしに意思にであり、つまり非エロティックな対立関係での暴力である、
それは自分の考える暴力ではない。

「…他者というものは我々にとっては、本来どうにでも変形しうるオブジェ
であるべきだ。…p.22」


○「解放区」をめぐる論戦の要点

全共闘C>
何故解放区を作るか?我々は外界から一方的に関係付けられてしまう、
その関係を逆転するためにあらゆる関係付けを排除した空間を作る。
一切の関係を捨象して事物そのものと出会う、そうしたメタレベルから
無目的に作為なしに遊戯として一から関係付けを行う、
すなわちファーストステップとして事物を武器として使う。

三島の実践的活動はゲームである。ゲームには目的があり、他志向である。
全共闘は遊戯をやっており、ゲームにおけるそれがない。自らの全存在を
ぶつけるときそこに成立する空間、「解放区」を作るという行為は、
主観と所有を放棄した、遊戯としての暴力である。それは形態が即内容であり、
内容が即形態、また作られたその空間=歴史の可能性そのものであり、
かつ可能性そのものの空間=歴史である。
それが数分間もとうが一週間もとうがその期間を比較することに意味はない。

三島>
解放区を持続させる時間について考えがない、それでは運動は未来へ
つながらない。それにまず一切の関係付けを排除すると言ったって、無目的
にそこで関係付けを行うことはそもそも不可能だろう。
またそれは全てに名前のない世界だ。
道具を使う、それは時間の持続や目的論、名があることを前提とする。
関係付けや時間的プロセスを排除したところに道具の利用は成立しない。

全共闘A>
「…さっきからの論の展開の視点というのは…即ち、実在的諸関係がそこ
にあると。その時に僕らがそこにあるものに対して、その関係性というもの
に注目して能動主体として働いている場合には、その実在的諸関係そのもの
から絶対に逃れることはできない。その意味においては実在的諸関係を
あえて拒否することが必要なんじゃないか。…それに対しておそらく
実在的諸関係の持続性というものを無視しないという点に立って
考えるならば、おそらく三島さんと同じところに立っている…p.60,61」


「天皇」をめぐる論戦の要点

全共闘H>
三島は自身の考える天皇が非現存であるからこそ、至高の、至禁の美として
の天皇が描ける。そもそも究極美とは、全てを超越し、捨象したところに
できる空間、観念の中でこそ生きる。しかし三島は時間性とか関係性に拘泥
するがゆえに逆に関係性に絡め取られ、本来観念の究極としてあるべき美が
腐蝕してゆくという過程が生じる。つまりその美に具体的形態や関係性を
与えて現実化しようと足掻いたり、観念と名辞を混同したりする曖昧さから、
時間や空間に対する超越性が失われ、美は腐ってゆき、
また自身のみっともない行動が生まれる。

三島>
自分の天皇観は儒教的天皇観ではない。日本武尊に象徴されるような人神…
人間天皇と統治的天皇、神的天皇と文化的天皇、そうしたダブルイメージを
持つ二重構造が天皇の本質である。権威や征服者としての、奔放な強者と
しての神がかった美しさの純粋持続、それこそが自分の天皇観だ。

天皇はブルジョワなどではなく、日本の民衆の底辺にある観念、日本人の
持続したメンタリティ、いわば庶民の超越項である。それをものにしなければ
空間を理解できない時間を生きる民衆の心は掴めず、革命はあり得ない。
徹底的な論理性は非論理的で非合理的な文化の上でこそ成り立つ。
文化的概念としての天皇こそが、それゆえに革命原理、戦闘原理となりうる。

全共闘C>
三島の言う民衆とは農耕民族であり、その民衆はもはやいない。三島の天皇観
は天皇を自己一体化させたいという欲望であり、それはイマージュと自己の、
一種の単なるオナニズムだ。三島は過去の歴史に規定された関係性の中でしか
生きられず、日本文化に拘泥し、その幻想の中に喜びを感じている。
それは日本文化や日本人であるということに負けている、ということだ。
自由であることを放棄した、そういう退屈な三島からは何も生まれない。

全共闘H>
「…ヤマトタケルは、現実の天皇を支えていた関係性に敗れ、殺されること
によって、自らを観念として、つまり「白鳥」に象徴される観念性として、
超越したと。それを支えるものとして民衆の幻想形態があった…それと現実の
天皇…今上陛下に代表される関係性を無媒介にくっつけるところに三島氏の
曖昧さ、欠陥がある…p.98.99」

「…天皇というものは観念として自らを超出してゆくものであるがゆえに、
名辞は何ら問題にはならない。…観念の絶対性を我が物にしようとするならば、
三島氏にとって現実的な道とは…観念を腐食させる関係性の廃絶。…天皇は
実体としては解体して、その観念というものは現実の諸個人である僕たちの
中に保存されていると、まあそういうふうになると思うのです。…p.113」


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