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北田暁大著『広告都市・東京』の要約ノート


第一章 『トゥルーマン・ショー』の広告論

広告とは、差異を創出する資本の技術であり、
資本の論理(外部)と日常的な意味世界(内部)の媒介である。
また、常に差異を創出するための有用な方法論(スーパー・ソフト・セルや
幽霊化)を模索し続ける広告の本質は、脱文脈的=メディア寄生的である。

記号空間(シミュラークル)の外部なき消費社会においては、
差異を創出し価値を生み出す広告なくして資本主義は成り立たない。


第二章 〈八〇年代〉渋谷の神話と構造

〈八〇年代〉の広告者らは都市空間に目を付けたが、
広告の脱文脈的=メディア寄生的なあり方は、秩序ある都市空間の構築を
目指す近代的価値観とは対立した。これは「秩序/無秩序」あるいは
「体制/抵抗」という二項対立図式だが、都市の広告化を目論む〈八〇年代〉
的論理は、「文化」という第三項を導入することによって克服した。

都市空間を記号的に操作し、広告を幽霊化する広告=都市は、
@内部からは不可視なよう周到に〈資本〉という外部を隠蔽する。
Aそれへの批判を陳腐化するロジックを整えることによって、
 超越的・外在的「批判」をするような立ち位置を無効化する。
B広告=都市が提供する記号から距離をとり、記号システムへの適応を拒む
 非記号的な、外部に目を向ける起点としての〈私〉が禁じられる。

ここにおいて「空間を支配する者の姿が見えないにもかかわらず、
いや見えないからこそ、人々が「見られているかもしれない」という不安
に捕らわれ、支配者の用意する〈台本〉を進んで受け入れていく…p.106」
という、悪夢的な言説と空間の装置として〈八〇年代〉の広告=都市は
存立した。


第三章 広告=都市の死

広告が都市へとあまりに見事に同一化した結果、都市空間がCF化し、
気まぐれにザッピングされる(見流される)ようになってしまった。
同時に都市空間の細分化、いわば郊外化が進み、そこを訪れる人々は、
固有名に統括される舞台性やアイデンティティを求めず、ただ単に利便性に
富んだ、相対的に大規模な情報アーカイブとして利用するようになった。
もはや広告=都市は、総称的な記号としての価値、象徴性、いわばアウラを
喪失している。

情報機器、携帯端末の普及による、人々の身体性の変容も、この事態に
連関している。人々の不安は「見られているかもしれない不安」から
「見られていないかもしれない不安」へと移行した。
彼らのコミュニケーションは意味伝達指向から接続指向へと、
つまり何かの意味を伝えるためではなく、他人とつながることそれ自体が
目的化し、メッセージなきコミュニケーションとなっている。
前者の社会性は共同的ルール、秩序の枠組みに基づいて行為を調整する
「秩序の社会性」であり、後者のそれはとにもかくにも常に他人と接続
し続けるような「つながりの社会性」である。

今まで「秩序の社会性」に隠蔽されていた「つながりの社会性」が表面化
し、これにおいては接続されているという形式的な事実だけが両者の関係性
を可能にする。この社会性は過剰で過酷ゆえに、人々は都市空間において、
見られている、つながっている、という確認作業に熱中することとなる。
都市はその行為のための情報アーカイブであり、
風景もそのための素材にしかならない。

常にすでに外部に接続されており、物語的・意味的奥行きを求めることのない、
常に社会性が肥大するコミュニケーション環境を生きる彼らの視線を、
広告は自身の幽霊化によって捉えることはもはやできない。
しかし広告はその本質に則って、「「イマ−ココにある空間の脱舞台化」
と「つながりの社会性」とを結び付ける方法…p.176」
といったような、次なる適応形態へと変容を遂げるだろう。


結 広告化せよ!そして広告にあらがえ

「広告=都市・渋谷の死は、〈八〇年代〉までの〈広告−マスメディア
−資本主義〉のトライアングル編成(およびその中を生きる人々の身体、
アイデンティティ)の相対的・動態的な「構造転換」を意味している・・p.188」。

ここに至って広告=都市とそれにまつわる諸々を批判しようとして、
建築家の責任を語ったりマスメディアの権力性を指弾するのは、
従来の枠組みに縛られた反動的な振る舞いであり、的を外しているがゆえに
かえって問題を温存してしまう。広告の詭計に抗するには理論武装するより、
自身も広告的な詭計を身に付けるべし!


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