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宮台真司×宮崎哲弥著『ニッポン問題。』の『ヒミズ』に言及した対談に触れながらの雑感


住田はしばしば幻覚を見る。醜悪でグロテスクなモンスターが、
彼を苛むように気を挫くように見詰め、呟く幻覚。僕はドストエフスキー著
『カラマーゾフの兄弟』の次男イワンにつきまとう、あらゆる救いの根拠の
不在を告げ知らせる、ウルトラニヒリズムの木っ端悪魔のように感じた。
そのモンスターを、宮台真司さんはあらゆる希望に「んなわけネエだろ」
を突きつける"不可能性の表象"と仰る。宮崎哲弥さんの解釈では"人間の
どうにもならなさ"仏教でいえば"無明(世界の欠落)"の表象であるとのこと。

こうした根源的ともいえる無力感や閉塞感、全ての意味や価値、
あらゆる可能性や喜びを吸い込んでしまう底なしの虚無の暗い穴ぼこについて、
そして最後にその処理について考えてみたい。

住田には父殺しの罪を償い、茶谷恵子と小市民的な慎ましい幸福な生活を送る
可能性がある。決して突飛でない、極めて現実的な可能性だ。それこそ住田が
当初夢見たような、理想ともいえる未来像(こう表現すると馬鹿みたいだが
あえて)ではないか。それなのになぜあのモンスターはそれにすらハナから
「不可能性」の刻印を押すか。宮台さん曰く、それは住田の"主観性"が押して
いる。こういうこと、「みなさんにもないかな?」って、ありありですよ!
所詮無理、結局無駄、どうせ駄目、何をやっても無意味…こうした囁きが、
常に僕の頭から離れない。

住田は冬の晩に雪が降り出したとき暗い心がふいに晴れ無性に嬉しくなって、
無邪気に外へとはしゃぎに出るが、遠くからモンスターに見入られてその
晴れやかな気分は霧消してしまう。僕も、ささやかな喜びに手を伸ばせば
容易に得られるというときに、ふと「それがどうしたっていうんだ?
くだらないね、虚しいね。駄目男クンさあ、なに嬉しがってんだよ、
そんな資格ないでしょ?オマエは所詮幸福になれない駄目男クンなんだよ?」
と、こういうニヒリズムの眼差しや囁きに冷水を浴びせられ、一気に
ローテンションに陥り鬱々となる、こういうことが実際ある。
僕自身にそれを囁くニヒリズムのモンスター、悪魔、これは客観主義的視点
を組み入れた、しかしまさしく"主観性"にすぎない。後で詳述する。

さて、宮崎哲弥さん曰く。
「こうした底なしの絶望と諦念は、高等遊民など生存条件から自由な人間の
悩みであって、貧者には無縁のはずだったんです。ところが、『ヒミズ』
では底辺といっていい貧困層の中学生がそんな苦悩に呻吟している。
これはエライ時代やなあ、と。…(中略)…『ヒミズ』が告知するのは、
もはや高等遊民的な心の空虚が、とうとう最底辺にまで浸透したという
ことです。」

宮台真司さん曰く。
「実のところ"力なきもの"が力に憧れるのは当然じゃないですか。
それなのに「力を獲得したその先にも、全く希望がない』と、
"力のない"スタート地点から、すでに断念されている。
だから『ヒミズ』の場合、最後には「死」しかない。」

『ヒミズ』作中には、端から眺めればおよそ考え得る限りの最低のゴミ、
としか形容できない人間が次々現れては消えてゆく。住田も自暴自棄になって
徹底的に卑下した自己規定をする。そして住田はそれを乗り越えるべく足掻き、
しかしあらゆる可能性に絶望し、常軌を逸した信念に殉じるわけだが、僕は
そこにはいかない。しかし己をゴミ以下と措定しつつもこの苦しさをなんとか
したいという思いを持ち、同時に絶望と諦念を抱えてもいる、というところに
おいてはお仲間というわけだ。

さて、そんな僕は他者との快い関係性に憧れ、求めている。
じゃあその渇望を満たすために行動しているかというととてもそうは言い難い。
その前段階の問題に拘泥しているんだ。自己価値の他者からの承認を求めて
はいても、それはあり得ないとほぼ完全に断念している。

また仮に、コミュニケーションスキルが大幅に向上して、そこそこ心地よい
関係性を享受できるようになったとしよう。力の、承認の獲得だ、そうしたら
この虚無感、閉塞感は埋まるのか?一切の寂しさは消え、幸福になれるのか?
「んなわけネエだろ」「それがどうしたっていうんだ?くだらないね、
虚しいね、駄目男クンさあ、なに嬉しがってんだよ、そんな資格ないでしょ?
オマエは所詮幸福になれない駄目男クンなんだよ?」とまあ、こうだ。

ここでちょっと今の話を整理すると、
前者の絶望は非常にレベルが低いと言わざるを得ない。
他者への執拗な猜疑心、不信感、そして病的な自意識過剰からくる自己卑下、
他者との関係の軋轢を回避した卑屈な腐れ根性の自己嫌悪にすぎない。

後者の絶望は己自身が頼るべき価値の外在的根拠がない状態での、
客観主義的思考、システム論的発想を突き詰めたときに起こる典型的な陥穿だ。
お二人の言う世界視線、つまりは人間の側からではなく世界の側から自分を
含めたあらゆる物事を見る思考様式を突き詰めれば、結局は重症のニヒリズム、
シニシズムに陥るのは不可避。世界の側から見ればどんな人間もとるに
足らない、置き換え可能な一部品にすぎない。どう足掻いても自分も
自分の喜びも吹けばかき消える、ちっぽけで無意味なものに思えてくる。
要するに、世界にとって自分は在ろうがなかろうが結局はどちらでもいい
存在にすぎない、そんな自分は決して世界に届かない、
世俗的な価値、評価を得てもそれでは自分は満たされない、という絶望。
これが『ヒミズ』の最大の主題であり、宮台さんと宮崎さんは問題にしている
わけだ。

どちらの袋小路も客観(世界認識、超越・ノエマ)をいったん留保し、
一切を意識に還元して己の欲望の観点から一から世界を了解する方法論、
竹田青嗣さんと西研さんの解釈によるフッサール現象学に頼るのが賢明
と思われる。救いの根拠を宗教や教条主義的イデオロギーの価値体系に
求めるのが無効なのは言うまでもない。しかしこれは間主観性、他者との
関係性の経由が絶対不可欠なのだが、だから僕にはどうしても駄目だ。
他人の蔑みによる不快感を払拭できないし、抗弁する気力も起きない。
これは思い込みにすぎないんだと思い込もうとしてもどうしても無理。
この確信を支える極めて現実的な条件がありすぎて日々挫折の連続。
ゆえにその先も自ずと知れる。まあ僕の泣き言などどうでもよい。

とにかくどれほど精緻で綿密な客観主義的思考や世界視線も決して正しい
完全なる認識ではなく所詮は"主観性"であり、その認識はあくまで自身や
人間にとっての有用性の観点から、欲望を活かし生を励ます観点から
用いらないと道を踏み外すということだ。

そして、自身の救いの根拠の不在や"不可能性"、"人間のどうにもならなさ"
といったニヒリズム、独り善がりの観念的かつ抽象的な外在的には無意味な
苦悩、こういう絶望はふつうは外部への夢想、超越論的欲望の挫折の結果
現れる。この人間の本質的欲望と不可避に訪れる挫折の処理に関しては、
最後に詳しく書く。

この後お二人の話はグローバライゼーションの絶望を温存する不条理な
システムへと発展する。世の中が腐っているからそれを身体で察知する鋭敏
な若者ほど腐るんだ、そしてそれは当然の帰結、と仰るか?なるほど理解は
できるが、こういう考え方が客観主義的思考の悪しき典型例に思えてしまう。
斎藤環さんも外的環境の影響を真っ先に最も鋭い形で被るのが
思春期・青年期の特長だ、と仰っていたが、
当事者として考えるとそれは身勝手な愚かしい言い訳にすぎない。

それはさておきこうした先行きのドン詰まった情況や、可能性を見出せない
絶望した状態においてもなお生きる根拠として、外部についてのあり得ない
夢想と共に生きる、これぞ逆説的な生の動機付け、宮台さんは仰る。
宮崎さんの『ヒミズ』の救いの観点からの最終的評価は、「(モンスターは)
無明を象徴するがゆえに「外部(世界の境位)=意味の地平線)」を思わせる
…救いのない内閉を描き尽くすことで、むしろ「外部」の存在性を意識させる
構造になっている。これが『ヒミズ』という文学作品の救済の構造です。」
といった具合。

これらを聞いて僕は竹田青嗣著『エロスの世界像』や『陽水の快楽』
を思い出した。

僕が他者との関係性を求めるのは、おそらく自我の不安の打ち消しを中心の
動機としている。が、たとえ他者とのそこそこ快い関係性を獲得してもなお
解消できない根源的な欠落感、それを埋めようとする決して叶わぬ欲望が
間違いなく残る。そういう不安の打ち消しではなく"乗り超え"を契機として
成立する"向こう側"の、いわば「本来の世界」「あるべき世界」に対する欲望、
竹田さんはこれを「超越論的欲望」と呼ぶ。これは叶わないにも関わらず、
人間にとって本質的な欲望だ。この過剰性が人間が人間たる所以である。

この欲望の向く先、超越世界、宮台さんと宮崎さんの言う「外部」は、
そこに到達することが生にとって第一義となるような可能性としての
「世界」にほかならない。しかしそれへと向かう欲望は必ず挫折し、決して
成就することはない。かつては宗教・政治的イデオロギー・情熱恋愛・芸術、
などがそれを与えていたが、あらゆる価値の相対化が進んだ現代、『ヒミズ』
の舞台においては最後の砦の恋愛すらももう無効なのだ。諦めざるを得ない、
しかし挫折しつつもなお現実の中であり得ない超越を、人間は本性上求めざる
を得ない…。ここに大きな問題が横たわっているというわけだ。

まあなんにせよ現実には叶わぬ夢である以上、これに拘泥して苦悩やら絶望
やらに打ちのめされて住田のように本当に死んでしまうなど、彼には気の毒
だがたわけたことであると僕は考える。それを選ぶことはない。
ではすっぱり忘却するべく解脱へ向けて修行するか?
「世の中所詮色と金、今ないものは求めない」とばかりに開き直るか?
そういう二者択一の単純な道しかないと考えるのは間違っている。

超越論的欲望と世界の狭間には、決して超えられない巨大な深淵が
横たわっている。しかしそれにいくら絶望していても、その深淵を覗き込み、
「おののき(絶対叶わないはずという確信)」と「めくるめき(一縷の可能性、
一条の光)」の入り混じった、いわば眩暈を感じる超越的な瞬間が可能性と
してある。これすらないと言い張るのは、病的に無根拠な意地を張っている
ということにすぎない。超越を現実で一瞬間だけ閃かせる、事後的には虚しい
幻想にすぎずとも、その瞬間もまた生のこのうえない果実である。
挫折と断念の痛念をとことん身に滲み渡らせ、それを抱えて深淵を踏み渡って
いく、隘路を歩んでゆくという道がある。世界の外部ではなく内部に炸裂する
超越、その到来を待ち、もし出会えたならば味わうのが賢明であろう、
賢い人間であればニヒリズムにいつまでも押しひしがれていやしないだろう、
ましてや死んでしまうなんて、と僕は考える。
死ぬとはこの可能性すらも無に帰す、文字通り取り返しのつかない行為なのだ。

ジョルジュ・バタイユ的に言えば、連続性への郷愁は、不連続であることが
人間の本質である以上満たされることはない。しかし象徴的に幻想的に、
一瞬間において成就させることができる可能性がある、ということだ。

人間とは絶えず絶望する、そして絶望し再生する過程の中で自分を維持する
ものであり、自己とはそのような基盤の上に成り立つものだ。不安定である
ことそのものや、あり得ないにも拘らず夢見てしまう可能性、そして現実に
おけるその一瞬の閃きそのものが人間の本質に属しているのだから、
どんなに深く絶望しようと自死する必要はない。
人間とはそういうものだと気楽に構えて生きればよい。
ましてや達観した禅僧や泥のリアリストを目指す必要もないのだ。


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