九州の倭国と『日本書紀』の日本

 中国正史の『新唐書』までの記録によれば、倭国は九州にあり、畿内の「やまと」とはまったく別の国である、とみるのが公平なものの見方といえるだろう。
 しかしこれまでの日本古代史の研究は、中国史書の記録に対し、それを疑ったり、都合のよいように改変したり、その根拠として、一方では信憑性にかけるとされる『日本書紀』の記録を優先してきた、というのが偽らざる状況のようである。神功紀に『魏志』倭人伝の倭女王の朝献記事があるにもかかわらず、『宋書』の倭の五王の記事が『日本書紀』にないのは、日本は君子国であるとする立場から敢えて記載しなかったのだとしたり、『隋書』にある倭国の地理・地形からみた倭国の形状と位置に対するヤマト中心の解釈、『旧唐書』にある倭国と日本国の地理・地形の物理的な大きな差異の無視、また、『新唐書』に「用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」(用明はまた目多利思比孤という。開皇末にはじめて中国と国交をもった)とあるにもかかわらず、ヤマトを『漢書』地理志から中国正史に現われる「倭」だとしたりするのは、まさにその象徴的なものである。
 中国の記録だけみれば、[倭国は九州にあり、ヤマトとは別国である]とするのが研究の正しい結果としなければならない。この段階において倭国=日本国とする必要性はまったく存在しない。『古事記』や『日本書紀』が記すヤマトは、中国史書が記す倭国とはまったく異次元世界のものにしか私にはみえない。それにもかかわらず、『記紀』を優先した同一世界の記録として中国史書を扱ってきたところに、日本古代史研究の大きな問題点が存在するように思われる。

 中国正史の『新唐書』までの記録によれば、倭国は九州にあったとしか考えられないが、『日本書紀』には、その間の時代にそれをまったく無視するような次の事件が記録されている。

景行天皇・倭建の熊襲征討
仲哀天皇・神功皇后の熊襲征討
神功皇后の新羅征討
筑紫国造磐井の乱
任那と周辺諸国の攻防

  ①②④は九州内の事件であり、③⑤は従来朝鮮半島南部の事件とされてきたものである。これらがヤマトの事件だとする人たちは、この時代にはすでに倭国は畿内にあったしている。しかし私は、どうやっても中国史書からそういう結論を見い出すことができないのである。学説は史料に忠実であって欲しい。の事件が起きたときは倭国は九州にあったのである。この条件の下で、どのように解釈すればは成立可能となるか考えてみたい。

①②について
 『日本書紀』の景行天皇・倭建・仲哀天皇・神功皇后の熊襲征討説話については、古田武彦氏の『盗まれた神話』が参考になる。その結論をいえば、時代は前後するが、仲哀天皇・神功皇后の熊襲征討は「筑後平定譚」であり、景行天皇・倭建の熊襲征討は筑紫を本拠地とした「九州一円平定譚」だということである。博多周辺の国が筑紫に国をつくり、その勢力を九州全体に拡大していった様子を記録したもの、と考えるのである。
 私は、この九州北部の国が九州一円を平定したとする見方は正しいと思う。ただ、古田氏はその国を博多周辺にあった邪馬壹国だとするが、私はその国は邪馬壹国ではなく倭奴国だとみている。その理由は、景行天皇から仲哀天皇の時代は、『日本書紀』の原紀年にすると71年から200年頃にあたり、それは九州では、『後漢書』『魏志』によれば、107年に倭国王帥升が漢に朝貢し、それは倭奴国王と思われ、またそれが伊都国王だったとしても、その国は博多湾に近い九州島の北端部に、その後70~80年にわたり男王を出した国であり、景行天皇・仲哀天皇はその国王だったと考えられるからである。
 卑弥呼の国は『隋書』によれば、有明海北東部沿岸にあり、2世紀末の桓・霊間の倭国乱がおさまった直後、倭国の都は博多周辺から有明海北東部沿岸沿岸の邪馬壹国に移ったのである。それ以前の事件である「筑後平定譚」と「九州一円平定譚」の主体は邪馬壹国ではなく、倭奴国なのである。2世紀末の桓・霊間の倭国乱は倭奴国による「九州一円平定」のための熊襲征討がきっかけとなった可能性もある。そう考えると、熊襲とは邪馬壹国圏内の諸国をさしているとみることもできるのである。
 これが倭奴国の歴史だったとすると、ヤマトには倭奴国の歴史を知っているものがいたことになり、ヤマトの前身は倭奴国である可能性が高くなる。『新唐書』の「日夲古倭奴也」は気になるところである。

について
 前田晴人氏は「神功皇后伝承は神話か史実か」(『歴史読本』2006.02)で次のようにいっている。

「皇后にまつわる伝承の本源は大阪湾岸地域を根拠地としていた海民らの信仰を母体とするものと考えられ、西方の海の彼方から海岸に来臨する尊貴な母子神をめぐる素朴な神話を起源としたのではなかろうか。」
「住吉大社の祭儀にまつわる神話を住吉神話と称することにすると、住吉神話の骨格はまさしく神功皇后の新羅征討の話と応神天皇の誕生と即位の物語であったと考えられる。そして、おそらく住吉神話の初源の筋書きは、西方の海の彼方から聖なる母子が住吉の聖地に漂着し、やがて住吉大神によって祝福された神聖御子が即位してこの国の王となるという物語であったと推定され、後に母神が御子を孕んだままで新羅国を征伐するという対外戦争のストーリーが加えられて既存の伝承が成立すると推定される。新羅への渡航と戦争の記述があまりにも具体性を欠いているのが後世の架上を想定させるだろう。」
「朝鮮半島の古代国家のうち新羅国を征討し帰服させるということが中心課題になるのは六世紀以後のことである。(中略)こうした六世紀以後の倭・新羅関係が神功皇后伝承に色濃く反映していると考えなければならないだろう。」

 前田氏のこの説は神功皇后の実在を否定するものであるが、それは当然の見方かもしれない。ただ、前田氏が 「西方の海の彼方から聖なる母子が住吉の聖地に漂着し、やがて住吉大神によって祝福された神聖御子が即位してこの国の王となるという物語であったと推定され」というように、神功皇后や応神天皇にあてることができるような、人物・勢力が九州北部に存在し、それがヤマトに侵攻したとみることは可能である。
 神功皇后伝承の骨格は、新羅・任那に力を持っていたものが「やまと」に移動し、その王位を奪ったということである。神功皇后の祖先が新羅だということを考えれば、新羅征討は疑問であり、それは祖先の事績だった可能性も考えられる。九州北部にあって、任那・新羅にまで勢力を持っていたものが九州からヤマトに移っていったということではないだろうか。そうすると、神功皇后の勢力はヤマトではなく、九州北部・新羅・任那に基盤を持つが、倭国には属さない勢力だったということになる(このとき倭国は九州に存在し続けていた)。これに該当するものとしては旧倭奴国勢力が有力である。

について
 継体天皇21年(527)、近江毛野臣は任那に行き、新羅に破られた南加羅・[口彔]己呑を復興し任那に併せようとした。新羅は、火・豊国を領有している筑紫国造磐井がひそかに反逆を図っていることを知り、磐井に毛野臣軍を防ぎ止めるようすすめた。磐井は高麗・百済・新羅・任那の貢職船を誘致し、毛野臣軍を遮った。22年、天皇はこの磐井の行動に対し物部大連麁鹿火を筑紫に送り、麁鹿火は磐井と筑紫御井郡で交戦し遂に磐井を斬った。筑紫君葛子は糟屋の屯倉を献じ死罪をのがれた。
 このいわゆる磐井の乱は、一般的には、ヤマトが九州北部の支配者磐井を滅ぼし、ヤマトによる日本列島の統一が成った事件とされている。しかし中国史書からみると、このときはまだ倭国は九州に健在だったのであり、このような事件が九州で起こること自体ありえないのである。しかも物部大連麁鹿火の軍が磐井の軍と初めて交戦したのが御井郡であり、ヤマト軍が九州の内陸部の御井郡に入ってくるまで磐井が気がつかなかったというのもおかしな話である。これは九州内部の事件すなわち内乱だったとしか考えられないのである。
 それではその内乱は何が原因だったのか。欽明天皇2年(541)秋7月条に

百濟聞安羅日本府與新羅通計。

同天皇5年(544)2月条に

別謂河内直、(中略)自昔迄今、唯聞汝惡。汝先祖等(中略)倶懷姧僞誘説。爲哥可君(中略)專信其言、不憂國難。乖背吾心、縱肆暴虐。由是見逐。職汝之由。汝等來住任那、恆行不善。任那日損、職汝之由。(中略)由汝行惡、當敗任那。

さらに同年11月条に百済聖明王の言葉として

又吉備臣・河内直・移那斯・麻都、猶在任那國者、天皇雖詔建成任那、不可得也。請、移此四人、各遣還其本邑。奏於天皇、其策三也。

とある。これらは、日本府の吉備臣・河内直等はその先祖の代から新羅と通じていた、それが原因で任那は滅びたのだ、といっているのである。このことは継体天皇の時代、つまり九州の磐井のときに、任那諸国には新羅と通じているものがいたことを示している。そしてそれを指示していた人物が磐井だったことになる。このとき九州は倭国の時代であり、磐井が筑紫を本拠地として火・豊国を領有していたのであるから、磐井はまぎれもなく倭国の王だった。その王が新羅と通じていたということは、それは反逆ではなく倭国の政策だったのであり、反逆者はむしろ毛野臣の方だったのである。
 任那日本府は倭の政策に忠実だったのであるが、任那の領有をめぐって新羅と対立していた百済と百済派にとってみれば、それは当然反逆行為にみえるのである。
 磐井の乱はヤマトの統一戦争などではなく、それは九州倭国の任那をめぐっての、百済派と新羅派の勢力争いだったのである。この問題は磐井の死で終わったのではなく、欽明天皇の時代にも引き継がれていく。
 541年~544年の記事から、新羅派の磐井が死んでも、日本府の倭臣は新羅派としてまだ活躍しているのがわかる。その後562年、任那官家(日本府)は新羅に滅ぼされてしまうが、これは日本府が新羅派によって占領されたことを意味するのかもしれない。倭国は新羅派の国王が死んでも滅亡することはなく、その後も『隋書』にみられるように九州島に健在だったのである。
 『旧唐書』倭国伝には「衣服之制頗類新羅」とあり、倭国は引き続き新羅寄りの政策をとっていたことが伺われる。また『三国史記』「金庾信伝」は、白村江の戦いで百済と倭が降服したときの様子を、「大王謂倭人曰 惟我與爾國隔海分疆 未嘗交搆 但結好講和 聘問交通 何故今日與百濟同惡 以謀我國」と書き、「新羅と倭は交戦したことはなく、友好を結び互いに交通していたのに、なぜ今になって百済とともに悪をはたらき、新羅を謀ろうとするのか」という新羅王の言葉を載せている。これによって倭は、白村江の戦いの前の少なくとも数十年間は新羅と友好関係にあったことがわかる。『旧唐書』の内容とも一致し、磐井の時代から一貫して倭国は新羅寄りの政策をとっていたことが知られるのである。
 磐井の政策は新羅寄りのものであり、毛野臣は百済に組していた。磐井を反逆者とする見方と毛野臣の記録は百済によるものだったと考えるとよく理解できる。 この事件はヤマトとはまったく関係のない、九州倭国の百済派と新羅派の任那支配をめぐっての勢力争いの一つだったとみるほうが理にかなっている、と私には思えるのである。

について
 任那は『日本書紀』崇神天皇65年秋7月条にはじめて登場する。その後神功皇后の新羅征討、七国平定によって任那は日本領になったようにみえる。また日本の臣の中には任那・三韓を支配しようとするものも現われた。任那には日本府が置かれるが、任那は新羅の侵略の対象となり、日本府、百済を巻き込んだ抗争が繰り返されたのである。
 日本府は日本の出先機関だといわれているが、なぜそういわれているのか私にはわからない。なぜなら日本府は日本や日本に従っている百済の方針に従わず、逆に新羅と密通しているからである。この状況は筑紫国造磐井の事件に具体的に現われている。日本は任那を支配していたというより、任那加羅を支配しようとしていた新羅と百済に対して、任那にある一拠点を通してどちらにつこうかという話しであるようにみえる。百済側からみた欽明紀は百済の心境を詳細に記し、日本の大義名分のもとに新羅を非難し、日本府をも非難している。欽明紀は百済の目によって書かれているのである。聖明王の言葉が長々と記録されているのは、それが任那における百済史の一つだったからである。
 任那に関する記事全体を眺めても、これらの事件の主体が日本でなければならないというものは一つも見受けられない。結局任那はどうなったのかというと、646年に「ついに任那の調をやめる」と一言書かれ、その後任那は消えてしまうのである。日本にとってこれは完全な敗北であるはずである。しかし任那に対する日本の執着はまったく感じられない。執着していたのは百済である。
 継体天皇~欽明天皇の時代は倭の五王と俀王阿毎多利思北孤の間の時代であり、中国史書に現われているのは当然倭国である。任那は「任那加羅」として『宋書』にも現われ、中国は倭国と任那の存在をともに認めていたのである。したがって任那を支配しているといっているのは倭国であり、日本とは倭のことであり、日本府とは本来倭府と書かれるべきものということになる。
 『日本書紀』の任那を『宋書』の任那と同じとみるならば、任那に関わった日本とは、『漢書』地理志から『旧唐書』までの倭・倭国のことでなければならない。決してヤマトではないのである(ヤマトも関わるようになるが、それは562年の任那官家滅亡以後であると私は考えている)。

 こうやってみてみると、①②③は倭奴国と倭国乱後の倭奴国勢力の事件であり、④⑤は百済からみた倭の九州・任那での事件という見方ができそうである。倭国が九州にあっても問題はない。また、これらの記事がなぜ『日本書紀』に編纂されたのかということも理解できるようになる。①②③は九州から「やまと」に移った倭奴国の一部勢力・残勢力によってもたらされたものであり、④⑤は任那にいた百済人によってもたらされたものである、と考えることができるからである。
 私は、初期ヤマトをつくった倭奴国の一部勢力 の事績と、7世紀後半に日本人となった北東アジア系渡来人(特に百済人)の祖先の任那での歴史が、『日本書紀』を形成する大きな要素になったとみる。ヤマトを創始した人たちと、そこから脱却し新生日本をつくった人たちの歴史が、日本人の新しい歴史をつくったのである。
 私は
の『日本書紀』における九州・任那関係記事をこのようにみる。そうすると、そこには『日本書紀』を優先し中国史書の記述を無視しなければならない理由は何一つ存在しなくなる。『日本書紀』は、日本人となった人たちが、真の日本人になるため(「日本人誕生の意味」参照)、日本人を形成する人たちの歴史を集成して新たにつくったものなのである。
 倭国人ではない日本人が、倭国ではなく日本の歴史をつくったのであり、倭国を記録する『旧唐書』までの中国史書に対して、『日本書紀』が異次元世界のまぼろしとみえるのは当然といえば当然のことだったのである。しかしこのことに気づかないでいると、倭国の歴史・日本の歴史そのものが、それこそ永遠にまぼろしとなりかねない。

再掲載 2007.05.31


※任那・三韓に対する考えを述べた部分があったが、現在再検証中であるので、削除した。2014.07.01
※雑考ノート「任那再考」掲載後、任那に関する部分の訂正ができていなかったので、ここで訂正した。2017.09.28


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