日本人誕生の意味

  現代本土日本人は、「日本人の起源と系統について」で述べたように、最新の人類学・遺伝学の研究成果によれば北東アジア系である。
  宝来聰氏の研究では、弥生時代以降に渡来人によってもたらされたミトコンドリアDNAの割合は65%であり、本土日本人と韓国人の遺伝距離はゼロであるという。
  日本列島には朝鮮半島から常に人が入ってきた。縄文人も倭人もそうだった。そして北東アジア系の人たちも倭人に少し遅れて渡来し、やがて縄文人・倭人をはるかに超える数になったのである。7世紀末にはすでに、現在に近い日本人の人口構成になっていたものと思われる。
  三津永田遺跡・土井ヶ浜遺跡の弥生人は中国北部やシベリア地方の集団に近いということ(「日本人の起源と系統について2」で述べたように、この人たちはまだ江南の倭人の血が勝っていた弥生人だった可能性がある。この後徐々に北東アジア系が強くなっていく。2006.09.17追記)、『日本書紀』応神紀にある、秦氏の祖・弓月君、倭漢氏の祖・阿知使主の渡来記事、772年の坂上苅田麻呂の上表文に、高市郡内は8、9割までが「檜前忌寸」である漢氏族(百済の氏族)によって占められていた、と書かれていること、また各地に残っている朝鮮系遺跡・遺物など、北東アジア系の人たちの日本列島への渡来は、考古・文献資料においても証明されている。
  日本国の前身「やまと」は倭人の国だった。だからこそ、「倭」をもって「やまと」と読んだのである。しかし日本と改名したとき、その国はすでに北東アジア系渡来人の国になっていた。「やまと」は倭人の国から北東アジア系渡来人の国に変わり、国名も「倭(やまと)」から「日本」にかわったのである。
  それではこの倭(やまと)が、日本と改名したのはいつだったのだろうか。海外の史料には次のような記事がある。

○麟德二年(665)、封泰山、仁軌領新羅及百濟、耽羅、四國酋長赴會、高宗甚悦、擢拜大司憲。(『旧唐書』劉仁軌伝)
○咸亨元年(670)、遣使賀平高麗。(『新唐書』
日夲伝)
○[文武王十年(670)]倭國更號
日本。自言近日所出。以爲名。(『三国史記』新羅本紀)
○[長安二年(702)]日本國遣使貢方物。(『旧唐書』則天皇后)

  『三国史記』新羅本紀の670年というのは、どこまで信用できるかわからないが、『新唐書』日夲伝には、670年、唐が高句麗を平定したことを賀するため、日本が遣使してきたとある。『旧唐書』『新唐書』の記事だけでみれば、670年までには日本国は誕生していたことになり、一方、倭国は665年までは存在していたことになる。この倭と日本は別国だから同時に存在してもかまわないが、今のところ、同時に存在していたことを示す資料はない。いずれにしても、日本という国が誕生したのは670年前後としてよいだろう。

  「倭(わ)」と「倭(やまと)」は非常にあいまいであることは確かである。白村江の戦いは『旧唐書』にも『新唐書』にも記録されているが、そこでは「倭」と書かれており、それまでの中国の見方からすれば、それは九州の「倭」であることを意味している。白村江で敗れた「倭軍」は「やまと」の軍ではなく、「わ」の軍だったとみることができる。それを裏づける記事もある。

咸亨元年(670)、遣使賀平高麗。(『新唐書』日夲伝)
勑日本國王、王明樂美御德。彼禮義之國、神靈所扶、滄溟往來、未常爲患。(『唐丞相曲江張先生文集』巻七勑日本國王書)

  は、668年に唐が高句麗を滅ぼしたことに対し、唐に遣使し賀詞を述べたというものである。しかしもしこの日本が倭国だったとしたら、白村江で唐に大敗した国が、救援した百済を滅ぼしさらに高句麗まで滅ぼした国に、その賀詞を述べにわざわざ遣使したりするだろうか、という疑問と矛盾をこの記事に感じるのである。
 
は、日本は礼義の国であり、いまだかつて唐に損失や災いをなしたことがない、といっているもので、白村江で唐と戦ったのが日本だったとすると、これも史実と矛盾する。
 
①②の記録をみる限り、白村江で唐と戦ったのは日本(やまと)ではないと考えざるをえないのである。

  白村江の戦いの7年後には、すでに「日本」という名は生まれていた可能性がある。その日本は、中国の史書が古くから書いてきた倭国とは異なる国だった。『旧唐書』『新唐書』はその国が「日本」と改名した理由について次のように書いている。

○倭國自惡其名不雅、改爲日本。(『旧唐書』日本国伝)
○後稍習夏音、惡倭名、更號日夲。(『新唐書』日夲伝)

  二つの記事には多少のちがいはあるが、「倭という名を嫌った」ということでは一致している。つまり、倭という名が嫌いで日本に改めた、ということになる。
  しかし考えてみると、これはおかしな感じもする。「倭」という字は倭人が日本列島に来る前から使われていた字であり、夏音を習ったからといって7世紀にもなって、この使い慣れていた字をほかの字にかえてしまうのだろうか、と思えるのだ。事実『日本書紀』では国号が日本となっても、「倭」は依然として使われ続けている。そんなに嫌いだったら一切使わないと思うのだが。
  私はこれにはほかの理由があると思っている。「やまと」がすでに倭人の国ではなく、「北東アジア系」の国になっていたこと、白村江の戦いで倭軍が敗れたこと、などがその大きな理由だったのではないか。倭国が白村江で唐と戦いしかも敗れたことは、長きにわたり中国と穏やかに通交してきた倭国のイメージをかなり落とすことになった。当事者ではなくても、660年の百済滅亡に伴う百済人亡命者を多く抱えた「やまと」が、その後も「倭」を使用することは、外交上大きなマイナスになりかねない。倭国の白村江での敗北は、「やまと」にとっても大きな危機となった。しかし北東アジア系渡来人にとっては、「倭」という字が悪いイメージを持つようになったことは、国名から「倭」の字を消す理由を得たことになり、また「やまと」を倭人の国としてではなく、北東アジア系渡来人の国として新たに築く、絶好のチャンスを得ることにもなったのである。
  外交の上だけとはいえ、長い間親しんできた「倭」という字を捨て去る行為ができたのは、日本という国がすでに倭人の国ではなく、北東アジア系渡来人の国になっていたからである。対内的に「倭」がしばらく使用されたのは、その基礎に「倭」の文化・伝統があったからだと思われるが、当時の天皇が倭人の血を濃く引くものだった、ということもあったかもしれない。

  現代の日本人は倭人ではない。このことは古代の歴史書からも、ヒトの遺伝子からも証明される。現代日本人は北東アジア系の人たちがその多くを占める、縄文人と倭人と北東アジア系渡来人の混血である。縄文時代は縄文人の時代であり、弥生時代は倭人の時代であった。弥生時代から渡来していた北東アジア系渡来人は古墳時代になるとますます増え、「やまと」を中心として日本列島は北東アジア系渡来人が多数を占める国となった。そして7世紀朝鮮半島動乱の中で、日本列島を代表する倭人の国・倭国は唐・新羅軍に敗れ、日本列島全体が大きな危機に直面した。このような情勢の中で、どうすればこの危機を乗り越えることができるのか。それは日本列島が一つにまとまること、日本列島人が一つにまとまることだった。畿内「やまと」はこの危機を乗り越えるために、「倭」の字を棄て国名を「日本」とした。そのとき日本列島には、縄文人でもなく、倭人でもなく、北東アジア系渡来人でもない、「新生日本」の「日本人」が誕生したのである。
  彼らは日本人になることで、ひとつの国としてまとまり、東アジア動乱期の大きな危機を乗り切った。倭国はその後中国史書からも消え、倭国人も日本国の人となり、やがて日本に溶け込んでいったものと思われる。
  「やまと」は日本列島の日本国となった。北東アジア系渡来人は日本人となったが、日本人になるためには、縄文人のものでも倭人のものでも北東アジア系渡来人のものでもない、日本という国の日本人の新しい歴史が必要だった。『古事記』『日本書紀』は、彼らが日本人になり切るためには、どうしてもなくてはならない史書だったのである。特に『日本書紀』は部分的には『百済書記』といってもよく、日本という新しい国を隠れ蓑にした、亡国百済人の第二の母国史だったのではないかとさえ、私には思えるのである。

  5世紀後半から7世紀の新羅による三国統一までの朝鮮半島は、南部の加耶諸国を含めて動乱の時代だった。加耶が新羅に併合された後も新羅と百済の攻防は続き、倭を巻き込んだ白村江の戦いへと突き進んでいく。
  神功皇后紀から欽明紀までの『日本書紀』には、「百済記」「百済新撰」「百済本記」という、いわゆる「百済三書」の注が多くみられる。注としてではない本文についても、百済系資料をもとにして書かれたのではないかと思われる部分も多く、特に欽明紀にいたっては、そのほとんどが百済系資料によるものとみられている。しかしこれらの百済系資料の内容は『三国史記』の朝鮮半島の記録とはかなり異なっている。『日本書紀』には、朝鮮半島の百済ではなく、任那における百済の歴史が書かれていたと考えると筋が通るのである。


※史料によって十分な確認をすることなしに、任那は加耶であるとする見方をした部分があったので、関連部分を削除・訂正し構成の一部も変更した。2007.05.30
※百済人と日本人の関係について、確定したような記述をした箇所があったので、それを削除した。2007.09.16
※任那に対する考えを述べた部分があったが、現在再検証中であるので、削除した。2014.07.01


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