はじめに

 日本古代史に興味を持つようになったきっかけは、多分その人の数だけあるのだと思う。ある人は、古墳や土器、鏡、剣・矛などの遺跡・遺物に、そしてある人は邪馬台国や卑弥呼の幻想的な魅力にとりつかれたりしたのかもしれない。しかしそこには誰にも共通するものがある。それは、それらのものがいつ何のためにどのようにしてつくられたのか、また卑弥呼の国はどこにあってどういう経過をたどって今の日本になったのか、というような、ただ真実を知りたいという純粋な気持ちである。

 今私たちが使用している「日本」という国名は倭国が改名したもの、というのが一般的な見方となっている。しかし本当にそうなのだろうか。
 中国の正史『旧唐書』には倭国伝とは別に日本国伝が設けられている。倭国伝では倭国の地形は、『隋書』の俀国伝と同様「東西五月行南北三月行」であるのに対し、日本国伝における日本の地形は、「其國界東西南北各數千里西界南界咸至大海東界北界有大山爲限山外即毛人之國」と書かれ、その地形は倭国の地形とはまったく異なっており、二つの国は別国であることが表現あるいは示唆されているとみることができる。しかし 『新唐書』になると倭国伝は消え日本伝のみとなり、日本の地形は『旧唐書』倭国伝の倭国の地形そのものとなり、日本の都は『旧唐書』日本国伝の日本国の地形そのものとなる。中国史書には『旧唐書』までの、倭国と日本国は別国であるとする見方と、『新唐書』のように「倭国=日本国」とする二つの見方が存在する。これが中国史書であり、日本は倭国でありずっと一国で続いてきたとする日本の歴史観との間に大きな隔たりがあることがわかる。

 中国の見方を信じるのか、日本人がずっと信じてきた歴史を信じるのか。ただ資料というのは何もないところには存在することはないのであり、中国の見方を頭から否定してしまうのは学問とはいえない。真実を知りたいという純粋な気持ちが学問の初心ならば、そこからスタートしなければならないのだと思う。 

 このようなことから、日本という国が登場するまでの倭国の歴史と日本国誕生の意味を、従来の見方を離れ、資料事実が示すままにここに記すことにした。


ホーム   次のページ