鉄火塚 谷和原村大字宮土684.685番
谷和原平野のほぼ真ん中にポツンとて立っている松の木がある。
番地は2筆に及ぶが僅か1坪にも満たない草だらけ塚で中に小さな石碑があます。
江戸時代命をかけて戦った勝者の証である。
この地をめぐり下総国と常陸国の住人が壮絶な土地争いをしていました。
慶長3年(1598)2月、大房籐十郎が検地に訪れた際、訴訟が両者から起こされました。
お互い合い譲らず判別がつきませんでした。
ついに、神裁をもって判決を下すことになり、同年11月15日争地宮土地先に火炉を
設置して鉄棒を焼いて握り合って神裁を受けることになり、
下総川崎郷の川崎播磨と常陸楢戸郷の土田隼人が争いました。
神裁は土田氏に上がりその主張が認められその場所に塚を築き松を植えました。
その松は鉄火松と呼ばれ、後世枯れるたびに植え替えられてきました。
塚の中央の石碑は、大正7年(1918)に近隣の有志によって建てられたものです。
神裁に使われたとされる鉄火棒は谷和原村教育委員会が所蔵しています。
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