岡田寒泉生祠(okadakansenikihokora)
谷さん 二人目の神様だな
和さん 違うよ最初の神様だっぺ!
谷さん ほうがほうが
岡田寒泉は江戸のひとで、寛政の三博士といわれた大儒学者でしたが、寛政六年(一七九四)五十五歳で代官として
常陸の国に赴任しました。寒泉が治めた地区は現在の谷和原村を始め七郡一八二ヶ村に及びました。まず、領内の開墾につとめ
農民の生活の向上に、風俗の粛正や勤倹貯蓄・人口増殖を奨励しました。当時全国の農村で行われていた間引きを禁じ、
育児を奨めるため、幕府に願い出で産児養育料一千両の支給を受け長子には米五升、二子には一斗、三子には二斗の
手当を与えました。その恩恵で成長した子供は千数百人にも及びます。
しかし、寒泉は寛容の半面、休耕田を耕し、飢饉に備えて米を備蓄させ厳正に年貢を取り立てることも怠らなかったようです。
寒泉は生神様としてあがめられ、文化七年(1810)筑波郡谷和原村下小目の小貝川堤防下に村民の手によって生祠が
建てられました。寒泉は文化十三年(1816)に七十歳で亡くなったそうです。 小貝川のすぐ下に有りました、
とてもよく手入れがなされていました。谷和原大橋から入って下小目の標識のある手前の四つ角を右には行った突き当たりです。 |
 |
原さん 取材にいったら住民もシラナっかたよ
和さん 標識もなく案内文もなくこーらが谷和原の教育委員だっぺ!!!
谷さん でも、よく手入れされていたけよ
HOME BACK NEXT
|