12.現在(side:天蓬)
頬にあたたかい物が触れた。
そのあたたかい何かは、今度はゆっくりと頬を撫でていく。とてもあたたかく、優しい、心地良いそれに思わず擦り寄ると何故かとても安心した。なんだろ、これ……。人の、手のひら? 親の手のひらって、こんな感じだったかな。
微睡みの中、優しいその手にすがると、今度は温かい水が降ってきた。なんだろう、この液体は……?
ゆっくりと、意識が浮上していく。
ぼんやりと目蓋を持ち上げると、暗い室内が見えた。そっか、夜か。電気をちゃんと消して寝たんだった。
……なんだか温かい夢だったな。
もう一度幸せな夢に帰ろうと瞳を閉じた時、また顔に水が降ってきた。
雨? 室内なのに、何故?
もう一度目蓋を持ち上げて暗闇に目を凝らす。と、僕の前に人影があった。
誰だろう? 生身っぽいけど、どうしてここに? 鍵はかけてあった筈なんだけど……。
温かい手のひらがもう一度僕の頬を撫でて、唇に触れた。
まだ、僕は夢を見ているのかもしれない。いや、かもじゃない。これは夢だろう。だって、僕の頬に触れているのはここにいる筈のない人だから。
「良かった―――」
囁きと同時にきつく抱き締められて、やっぱり夢だと納得した。これが現実なワケない。
「もう、逢えないかと思った……」
耳元に囁く声に、その背に腕を回そうと持ち上げたその時―――。
「もう、離さないから」
……え?
「どこへも行くな。お前が居なくなるなんて耐えられない。だから、絶対に離れないで」
骨が軋むほどの力で抱き締められて、苦痛にその肩を押し返すと、彼は少し身体を離して僕を見た。
「嫌なのか? でも、駄目。逃げんのも許さない」
なんだろう、これは。嫌な夢でも見てるんだろうか。幸せな夢が悪夢になるなんていうお約束な夢?
うっすらと彼が笑った。
「だから、お前を閉じ込めるんだ。何処へも行かせない。誰にも見せないで、ずっと俺と居よう。お前を死なせたく無いんだ…………天蓬」
こんな夢、見たくない。こんな、貴方は、見たくないのに。
「………………捲簾」
掠れた声が零れた。
これは紛れもない現実だ。
多分、あの部屋の事を知っていたのは三蔵だろう。誰にも、三蔵にも言っていなかったあの部屋。親の遺品なんかを保管しておく為だけに昔借りて、ずっとほぼ放置されていた倉庫同然の部屋。生活する為の設備は一つもなくて、ただ水と電気が通っているだけの部屋。そこで僕は親の遺品を整理しながらぼんやりと生きていた。誰にも教えていないここで僕は一人で過ごし、そしてそのうち殺されるのだろうと思っていた。
あそこで見た未来で、僕が死ぬのは夜だった。月がキレイなのを良く覚えている。あの月の欠け具合からそのタイミングを計ると、次は一週間後くらいだろう。それを過ぎたらまた一巡りするのだ。でも僕は、もう今はその瞬間が早ければいいと思っていた。もう二度と貴方に会えないのなら、生きていたって仕方ない。けれど、どうしたってもう貴方に会うことなんて出来やしない。貴方が僕を好きになんてならなければ、貴方を見ていることくらいは出来ただろうに。
……いや、貴方のせいじゃない。悪いのは僕だ。僕が弱いから。僕が貴方の手を取ってしまったから。最初から知っていたのに、僕が貴方の傍に居ることを選んでしまったから。だから、結果貴方を苦しめてしまった。残り時間の短い人を好きになってしまうのは、それがどんな種類の好意でも苦しいと、両親の死の時に僕はそれを身を持って知ったのに。だから、僕の時にはそんな思いを誰にもさせたくないと思っていたのに。
目を覚ました室内は間接照明で柔らかく照されていた。時計も無い、外も見えない部屋。窓はあるのだけれど、そこから光が射すことはないから、何らかの手段で塞がれているのだろう。その上にカーテンがかけられているので良く解らないが。その代わり、室内にはずっと間接照明の柔らかい光が満ちている。時間の全く解らないこの部屋に僕は、あの日からずっと閉じ込められていた。
あの日僕の前に現れた捲簾は、そのまま僕を自分の部屋に連れ帰り、僕を閉じ込めた。部屋の鍵は勿論のこと、僕の手と脚とを鎖でベッドに繋いで。しかも鎖が短すぎて僕はベッドから降りることも儘ならない。窓にも部屋の出口にも指一本触れられない。食事は捲簾が運んで来てくれるが、風呂もトイレすら行かせて貰えない。けれど、捲簾が居るときは繋がれているだけだからまだいい方だ。捲簾はどうしても外出しなければならない時は、僕を鎖で繋ぐだけではなく、手首を纏めて後ろ手で拘束した上、ご丁寧に目隠しまでしていってくれるのだ。もう、これは僕を守るとかいうんじゃない。ただの監禁だ。どうしてこんなことになってしまったんだろう。
時間の感覚が無くて、今日が何日かだとか何曜日かとか、今が昼なのか夜なのかも解らない。捲簾が仕事に行っているのかすらも解らない。ずっと家にいるような気もするし、たまに長い時間居ないような気もする。
捲簾は、大丈夫なんだろうか。
こんなことして、……僕は良いけれど、あの人の生活は平気なんだろうか? 捲簾には仕事だってあるのに。貴方の生活が、壊れているんじゃないだろうか。……今まで貴方が積み上げてきた全てが、音をたてて崩れていっている気がする。―――僕のせいで。
静かに部屋のドアが開いて、食事をトレイに乗せた捲簾が部屋に入ってきた。
「起きてたんだ? 腹減ってるだろ」
湯気の立ち上るそれを簡易テーブルに置いて、捲簾は微笑んだまま僕の頭を撫でた。
「どした? 嫌な夢でも見たのか?」
「……ええ、そうなんです。とても嫌な夢―――」
今の現実が、本当に嫌な夢みたいで。
そう言った僕の真意は捲簾には伝わらなかったようだ。そう言った僕を安心させるように、捲簾は優しい笑みを浮かべて僕をそっと抱き締めた。
「大丈夫。ここに居れば安全だから。ここに居れば何にも脅かされない。だから、ずっとここに居ればいい。な?」
「捲簾……」
思わず顔を歪める僕の背を、捲簾が撫でる。違うんだ。僕が苦しいのは夢なんかのせいじゃないのに。
あの日僕の前に現れた時から、捲簾はどこかおかしかった。普段はいつも通りなのに、ある特定のワードでどこか狂気じみたものが覗く。例えば僕のここから出たいだとか、そう言う言葉や逃げる素振りで。暴力を振るったり言葉を荒げることは無いが、聞き分けの無い子供に言い聞かせるように優しくここに居なければいけないと、ずっと諭してくれる。けれど、それがそもそもおかしいということに捲簾は気付いていない。
何が捲簾を歪めてしまったのだろうか。僕が姿を消した事? そんな事でここまで歪んでしまうのだろうか? たかが、人一人。それが好きな人だとしても、貴方なら耐えられる強さを持っていただろうに。それとも、何か他に理由があるのだろうか?
…………そう言えば、何故捲簾は僕を閉じ込めたんだ?
僕がもう何処へも行かないように? 逃がさない、もう離さないと貴方は言った。だから、それもあるだろう。けれど、それだけじゃないんじゃ……。
不意に耳に捲簾の言葉が甦った。ここに居れば何にも脅かされず安全だと言った貴方の言葉。
『お前を死なせたく無いんだ』
―――ああ……。
知ってしまったのか。
そして貴方は気付いてしまったに違いない。
僕が仕事をしない理由や友達を作らないようにしていた事、そして貴方の為に姿を消した事に。
……それを知ったら貴方が悲しむのは解っていた。貴方は優しくて、強いから、だから悲しむだけではなく、きっと一緒に決められた未来にケンカを売ってくれるだろうと、解っていたんだ。
だから、僕は貴方には知られたく無かったのに。
―――この世界には、どうにもならない事もあるのだから。
「ねぇ、捲簾。もう、やめましょう?」
「天蓬?」
捲簾の身体を押し返して、不思議そうな顔をしている貴方を見つめる。
「もう、終わりにしましょう? 貴方がこんなことをする必要は無いんです」
「…………」
「僕は大丈夫ですから。ね? だから、こんなことはもう終わりにして、僕の事なんか忘れてしまって良いんです」
微笑んで捲簾に諭す。貴方を犠牲にはしたくないんです。変わらない僕の未来なんかのために、貴方が全てを犠牲にする必要なんて無い。そう、伝えたかったのに。
捲簾は、ふわりと笑った。笑って、そして―――。
「駄目だよ、天蓬」
「……え?」
静かな声だった。微笑んでいる貴方が僕の肩を、掴んで、押した。背中が柔らかいベッドに沈み込む。
「もう離さねぇよ」
囁きと同時に降ってきた唇が、僕の唇に静かに触れる。
何が起きたのか、解らなかった。
ただ重ねられただけのそれは、柔らかくて、温かくて……。
思わず目を伏せかけた僕の肩に、捲簾の指が食い込んだ。握り潰さんばかりの力に、痛みを感じて少しだけ冷静になってやっと、捲簾にキスされているんだと気付いた。
慌てて捲簾を押し退けようと腕を上げ、けれどその手が宙をさ迷う。
肩を掴む貴方の手が、痛いくらいの力の込められた貴方の指が、なんだか僕に縋りついているようで……。
けれど、それでも、僕にこのまま貴方を受け入れる事なんて出来ない。
きつく目蓋を閉じて、僕は思い切り捲簾の肩を突き飛ばした。
「ッ……」
覆い被さっていた捲簾の身体が少しだけ離れる。下からだったせいで捲簾は少しバランスを崩しただけだったが、それでも良い。なんとか、捲簾に冷静になって貰わなくては……。
視線を上げて捲簾を見ると、彼は僕の上で四つん這いのまま静かに僕を見下ろしていた。先程まで見せていた微笑みは消え、その顔にはなんの表情も浮かんではいない。じっと僕を見下ろす瞳は、ただ暗い色を湛えていて。
ゾクリと背筋を悪寒が這い上る。
捲簾の手がゆっくり肩から離れ、僕の首筋を辿ってシャツの襟に触れた。そしてその手が襟を握り締め―――。
「お前は俺のだ」
「ッ!?」
静かな声と共にシャツを引き裂かれ、驚愕に目を見開く僕の耳に、飛んだボタンが床に跳ねた硬い音が届く。
「………………捲簾?」
無表情のまま、瞳に暗い色を湛えたまま、捲簾は僕の胸に手を這わせ、そして胸の真ん中で手を止め、笑った。
「もう離さない」
そこでやっと僕は、自分が判断を間違えた事を知った。
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