8.現在(side:天蓬)
「アカシックレコードって知ってますか?」
そう言った僕に、捲簾は訝しげな顔をした。
「いや、知らない…」
まぁ、普通そうだろう。僕だって自分に関わりがなければ知らなかっただろう。
テーブルに置かれているコーヒーの湯気を見つめる。ここは僕の部屋だ。外で話すのは嫌だったから二人で無言のままここまで帰ってきた。
溜め息を一つついて、諦めて僕は顔を上げて捲簾の目を見る。
「日本語では集合的無意識とも言います。これはユングの提唱したものですが、良く同一視されています。分かりやすく言うと、過去・現在・未来の全ての事象が記録されている巨大図書館です」
「巨大図書館……」
「もちろん現実に存在するものでは無く、科学的根拠も有りません。ちなみに良く予知能力者が言ったりしますね」
捲簾の表情が胡散臭げなそれに変わる。
……だから嫌だったんだ。
「普通は偶然でしか行くことが出来ない場所ですが、僕はそこに自分の意思で行くことが出来ます。そこで僕は知りたい事を調べて情報を持ち帰る。これが僕の占いの正体です。信じなくてもいいですが」
っていうか、信じられないだろうな。何言ってるんだと思うのが普通だろう。
「……でもさ、そんなものが本当に在るんだとしたら、何もかも解るってことだろ? それだったら、今の世界はこんな状態じゃないんじゃね? 何だって出来そうじゃん。お前だって、もっと色々しでかせるんじゃねぇの?」
もっともな疑問だと思う。そんなものがあるなら確かに何でも出来るだろう。疑っているんだろうな。当然だけど。
「残念ながら、アカシックレコードは情報に利用制限がかかっているんです。あそこの情報は全ては持ち出せない」
コーヒーを一口飲んでチラリと捲簾を見ると、ちょうど捲簾も僕を見た。
「じゃあ占いの最中、死体みたくなるのはなんで?」
「アカシックレコードが身体の中に無いからでしょう。全ての人の意識の奥底で繋がっていると言われていますが実際は体内に在るものではなく、別次元に在るのではないかと僕は思っています」
「へぇ……」
「三蔵なんかは中身が居ないって良く言いますね」
「なるほどな…」
大きく息を吐いてから、捲簾はやっとコーヒーを持ち上げた。
信じたんだろうか……。こんな話、いくら捲簾でも信じやしないと思っていたんだけど。
コーヒーを一口飲んだ捲簾は、カップをテーブルの上に戻して揺れる液体を眺めていた。
「正直理解が追い付かないってか、信じねぇわけじゃねぇんだけど、初めて聞く話だから良く解んねぇってか」
「僕の話を信じるんですか?」
「へ? 嘘なの?」
「あ、いえ。そうじゃないんですが……」
驚いた。こんな話、信じてくれるなんて。
でも考えてみれば捲簾は最初からそうだった。最初から僕をちゃんと見て、話を信じて、心配してくれた。やっぱりこの人は優しい人なんだ。
好きだなぁって、思った。やっぱり大好きだって。この人になら全てを明かしてもいいのかもしれないって。ああ、でも、貴方は優しいから、心配してくれるかもしれない。同情してくれるかもしれない。僕が後少ししか生きられないと知ったら、貴方は優しいから僕に何かしようとしてくれるかもしれない。それは嫌だな。そんなことは望んではいないから、だからあの予言の事だけは黙っておこう。……いつか、近い未来に僕が居なくなったとき、貴方が悲しまないといい。貴方の日常が変わらないといい。だからアカシックレコードのことだって秘密にしていたのに。貴方の中の僕の存在が小さなものであればいいと、そう思うのに。それでも、自分の気持ちだけは伝えたくて。我が儘だけど。伝えるだけでいいから、それだけは許して欲しい。
「捲簾」
「ん?」
「貴方が好きです」
「……お前の、それってさ…」
何故か捲簾はいつものように返さなかった。何かを言いたげにいいよどむ。それが何故か、何を言いたいのか解らなくて僕が首を傾げると、捲簾が目を逸らした。珍しい。
「いや、やっぱイイや。何でもない。サンキュな」
何だろう。でも多分聞いて欲しくは無いんだろうな。
翌日一言文句を言おうと三蔵に電話をすると、忙しいようで留守電に繋がった。何度か掛けてみたが同じ結果で今日は諦めようかと思った頃に、その三蔵からメールが入った。
『19時に会社に来い』
相変わらず簡潔な用件のみのメールだなぁ。僕の都合はお構い無しですか。まぁ三蔵に比べれば全然暇ですがね。仕方ないからそれまで本でも読んでましょうかね。
指定された時間の10分前に三蔵の自室がある会社のビルに着いた。僕はセキュリティカードを持ってはいないから、受付に声をかける。時間外ご苦労様です。この建物にはお偉方の部屋が多いので、割と遅い時間まで受付に人がいる。受付で来客用のカードを借りてセキュリティを通過する。エレベーターに乗って30階まで行き、三蔵の部屋の扉をノックした。
「どうぞ〜」
嫌な予感がした。だって、今の声は明らかに…。
扉を開くと応接用のソファセットに三蔵と、捲簾が居た。思わず視線が鋭くなる。
「僕の用件は解っているんでしょう?」
「ああ。取り敢えず座れ」
用件が解っているなら何故捲簾がここに居るんだ。昨日の捲簾の同伴について文句を言いたいのに、捲簾が居たら言えない。……もしかして、敢えて、か? きっとそうだ。三蔵はわざと捲簾を同席させている。ということは、この時間設定も敢えてだろう。そういうつもりなら、捲簾に気を使うことなく言いたい事を言わせて貰おう。
僕は、ソファに腰かけて、煙草をくわえて火をつけた。
「昨日、何故捲簾を寄越したんですか?」
「お前の知り合いだからだ」
「それだけで? 僕に断りもなく?」
「断ったらお前は断っただろうが」
「当然です。仕事は仕事としてちゃんとしたいですから。それに、捲簾は詳しい話は何も聞いてなかったじゃないですか。クライアントの前でそういう不信感を煽る態度はマイナスでしかない」
「ならば聞くが、俺が説明しても良かったのか?」
思わず口をつぐむ。三蔵が真正面から僕を見据えた。
「逃げるな」
「逃げてなんかいません」
どうしてこれが逃げになるんだ。イライラする。煙草を揉み消して新しいのを取り出す。
「そうやって僕の事を解ってるみたいに言わないで貰えます? 迷惑なんですよ」
「てめぇの迷惑なんざ知るか。俺は俺のやりたいようにやる」
明らかに話を成り立たせる気の無い態度。三蔵と仕事の話でこんなに対立するのは初めてだ。
「何が嫌なんだ?」
「僕の仕事に捲簾が立ち入るのが」
「何故だ?」
「それは…」
……言えない。捲簾を僕に深く関わって欲しくは無いなんて。言ったらその理由にまで話が及ぶ。三蔵はあの予言の事も知っているけれど、捲簾には知らせたくはない。三蔵は多分僕が捲簾にあの事を言っていないことに気付いている。三蔵はどうしてそんなに僕の全てを捲簾に示したいんだ。捲簾も捲簾だ。人に踊らされるのが嫌いな癖して、何故三蔵に乗せられているんだ。僕の視線なんて気にした様子も無い三蔵に、居心地悪そうにするでもない捲簾。二人とも何を考えているのか…。というか、もしかして二人とも結託しているのか?
「……僕のことなんて放っておけば良いじゃないですか」
「嫌だね」
即答。今まで話に加わって無かった捲簾が。
自分が吸っていた煙草を灰皿に押し付けてから、僕を見る。
「俺だってお前の事知りてぇんだ」
どうしてこういうことになるんだ。勘弁してくれ。
目をぎゅっと閉じて組んだ手に当てる。
と、再び開いた視界の端で三蔵も煙草を灰皿に押し付けた。
「テメェが何を怖がっているかは解っているつもりだ」
「だったら…」
「けどな、俺は納得出来ねぇ」
「……どういう事ですか?」
「俺は俺のやりたいようにやるだけだ」
立ち上がって執務机に向かいながら、三蔵はそう言い放った。
どうしてだろう。どうして三蔵はそんなに言い切れるんだろう。納得しようがしまいが未来は変わらない。だったら誰も悲しまない方が良いに決まっているじゃないか。人一人居なくなったところでこの世の中は何も変わらない。それが親しく無い人であればあるほど。だから僕は親しい人間を作らない。例外はここにいる二人と三蔵の所の子供くらいなものだ。
……例外を作ること自体間違っていたのかもしれないな……。
自嘲の笑みが浮かぶ。
過去は変わらない。だったら僕は、これからどうするべきか。簡単だ。この二人の手を離せば良い。けれど、そっと距離を取るには多分時間が足りない。ならば、向こうから手を離して貰うしかない。
少しだけ目を閉じて、深呼吸する。
僕は大丈夫だ。
もう一度瞳を開いて、僕は顔を上げた。
「用はそれだけですか?」
僕が話をすることを止めた事に気付いたのか、捲簾が目を細めた。なのに三蔵はこうなることが解っていたかのように、眉一つ動かさずテーブルに執務机から持ってきた書類を投げた。
「急ぎの仕事だ」
どっかりとソファに腰掛けながら、僕も見ずに煙草に火を点ける。この状況で……。
「僕が引き受けるとでも?」
随分舐められたものだ。
侮蔑の視線を三蔵に投げるが、気にした風も無く彼は僕をじっと見返した。
「26日13時15分に霞が関A2番出口だ」
さらりと用件のみが伝えられる。僕が断る事なんて有り得ないと言わんばかりのその態度。しかし、それよりも僕には聞き逃せない事があった。だって、普段は、普段三蔵と依頼をこなすときは待ち合わせはここだ。それが現地集合ということは。
「ちょっと待ってください、その待ち合わせって…」
「同伴は捲簾だ」
一体三蔵は何を考えているんだ。
「お断りします」
話をするだけ無駄だ。ソファから立ち上がり出口へと足を向ける。と、後ろから三蔵の声がかかった。
「違う未来を試さなくていいのか?」
息を呑んで足が止まる。
違う未来……。それは僕がこんな仕事をしている本当の理由。気付いていたのか……、三蔵は。話した事は無いはずだ。一体いつから気付いていたのか。
僕がこんな事を仕事にしているのは他に何も出来ないからじゃない。そして世の中の為とか言う訳でもない。だいたい僕はこの力を過信してはいない。むしろ疑っている。いや、より正確に言うならば信じたく無いのだ。誰だってそうだろう。自分が死ぬ予言なんて、誰も信じたくないはずだ。
僕だって最初はこの力を楽しんでいた。あの場所には本当に世界のあらゆる知識があって、それを知ることができる事が素直に楽しかった。けれど、当然そこにある知識は良いものばかりでは無い。その最もたるものが自分の死。知った時は怖くもなったし絶望もした。けれどすぐにあの場所の知識が確実では無いのではないかと疑い始めた。けれど今までそれは無かった。でも確実なんて物は無いはずだ。僕が占いもどきを始めたのはそんな頃だ。少しでも多くあの場所から知識を持ってくれば、その中のいくつかは外れるかもしれない。
僕はこんな力、信じてはいない。むしろ、僕はあの場所の知識が外れる事を祈ってこんな事をしているんだ。
とても不純な動機。それに、三蔵は気付いていたのか……。
止まっていた身体を動かして、ドアノブに手をかける。と、後ろから捲簾が声をかける。
「天蓬!」
けれど僕は振り返らなかった。否、振り返れなかった。
「受けますよ。それでいいんでしょ」
それだけ言うのがやっとだった。
僕は逃げるように扉を開いた。
26日13時10分霞が関A2番出口。階段を登りながら溜め息をつく。気がすすまない。今日の依頼も捲簾の同伴も。
階段を登りきって地上に一歩踏み出すと、軽く手を上げる人影。今日はスーツ姿の捲簾がそこに居た。僕より遅く来たら確実に置いていかれる事を読んでいるんだろうな。まぁ、社会人としてこの場合僕の方が一応お客的ものにあたるから先に来るのがマナーと思っているのかも知れないが。
そのまま足を止めずに歩く僕を気にする様子も無く、捲簾は並んで歩き出した。
今日の依頼主は警察だ。警察からの依頼は意外と多い。初めは迷宮入りしていて時効寸前の事件で、それをきっかけに時々依頼が入るようになった。余りこういう根拠の無いものに頼るイメージが無かったから最初は何故かと思ったのだが、どうやら警察関係者に三蔵は顔が売れていたようだ。どういう経緯なのかとかどんな関係なのかとか、多少気になるが深く突っ込んだことは無い。警察の楽な点は、元々来客の多い所だから周りを気にせず訪ねられるところだろう。僕らが情報提供しているというのがバレるのはあまり望ましく無い。僕の仕事的にも、安全の為にも。犯人の逆恨みは一番可能性が高い危険だ。ロビーに入ると、顔見知りの刑事の子が僕の顔を見て走ってきた。
「こんにちは! 今日もよろしくお願いします」
ニコニコと屈託無く挨拶してくれる彼は、僕のお気に入りの一人でもある。警察に限らず僕の力は基本疑わしく思われている。だから僕に対する態度も自然それなりの態度になる事が多い。そんな中でも僕の事を好意的に思っていてくれている人というのも確かにいて、彼はその中の一人だ。名前を宋公と言う。まだ新米だがいつも一生懸命できっと良い刑事になるんじゃないかな、と思う。宋公は僕の隣に居た捲簾を見て、ペコリと頭を下げた。
「初めまして、僕は宋公と言います。今日はよろしくお願いします」
「捲簾です。こちらこそよろしくお願い致します。今日はうちの三蔵が来られなくてすみません」
「いえ、大丈夫です。三蔵さんからお話は伺っています。面倒だから別のをよこすって」
気を悪くした様子も無く宋公はあははと笑った。
宋公の後ろを歩きながら、エレベーターに乗り込む。今日の依頼も犯人探し。このところちまたを騒がせている連続婦女暴行殺人犯。事件が起こりはじめてからすでに2ヶ月経つが犯人が捕まらないまま被害者が二桁に上っている。早急な解決を求められてはいるが、捜査は難航していた。事件は殆ど夜に起こっているらしい。朝、ジョギング中の人や新聞配達の人が死体を発見するパターンが殆どだ。死体はいつも手足を縄で縛った跡があり、死因は絞殺。手袋をはめての犯行。そして必ず暴行の跡がある。コンドームを使用しているようで、精液等の体液は残されていない為DNA鑑定も出来ない。薬なんかも使われている様子は無く、にも関わらず抵抗らしい抵抗はできなかったようで爪の間なんかからも犯人の皮膚や血は発見できない。連れ去られた翌日には死体があがる為、誘拐等の届け出も出ていない事が殆ど。そして一番の問題点が、目撃者が居ないことだ。これだけ件数があって目撃者が居ないのは凄い。警察側でも必死で聞き込み等しているようだが、どうにも有力な情報が掴めないようだ。それでも一応容疑者は何人かいるようで、僕に依頼が来た訳だ。
会議室に入り椅子に座ると机に写真が広げられた。今回依頼してきた担当者が僕の正面に座る。
会議室ってあんまり好きじゃないんですよねぇ。椅子がね。ソファとかの方が意識が無くなった時に落ちにくいので。嫌だけど今回は捲簾に支えて貰うしかないかな。気が重い。おっと、その前に聞いておきたいことが一つあるんだった。
「暴行を受けたのは生きているときですか? 亡くなってからですか?」
亡くなった方の記憶を辿った時に勢い余って暴行を受けている最中の記憶にぶつからないようにね。余り見たい物ではないので、可能なら避けたい。か、しかし。
「おそらく同時だろう」
「同時…ですか」
ヤりながら殺されたってことか。それじゃ避けようがないな。仕方ないか。まぁ、ヤりながら絞殺ってことは正常位だろうから顔は簡単に見れそうだな。
「じゃ、行ってきます」
「ああ、頼む」
隣に座っていた捲簾が、何故か立ち上がって僕の後ろに立つ。そして僕が疑問を口にするより早く、椅子の背もたれごと僕を抱き締めた。
……確かにこれなら体制は崩れませんけど。でも正面の担当者さんの視線が痛いんですが。ついでに、結構集中しにくいんですけど…。捲簾には本気に取られてはいないが、僕貴方の事が好きなんですけどね…。想いが通じあったりとか、そういうことは考えてはいませんが、肉欲は有るんですよ? 好きな人に抱き締められたら落ち着き払ってはいられません。でもさすがに言えません……。
大きく深呼吸をして目を閉じる。普段なら簡単なハズのダイブが難しい。この同伴はいろんな意味で失敗じゃないだろうか……。
なんとか動悸を落ち着かせて、ゆっくりと潜っていく。心の中を通過し更に奥へ。ふっと視界が開ける。巨大な図書館に僕は居た。さて、調べないとですね。
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