金蝉の私室と天蓬の私室とは棟が違う。金蝉は観世音菩薩の所有する棟であるし、天蓬は西方軍の所有する棟である。どちらも天帝が統括しているのでそこまで遠い訳では無いが、軍と観音とでは属している系統が全く違う為、近くもない。その為金蝉と天蓬はその辺りで偶然出会うことも無かった。 通い馴れたとは言い難い廊下を金蝉は静かに歩いていく。窓の外の風景は変わらず満開の桜だが、すれ違う人の雰囲気は徐々に変わっていく。たまに隊服のような物を着ている者もいて、大概の人間はここに居そうもない金蝉に怪訝そうな顔をしつつ道を開けた。 金蝉はあの日以来天蓬と会っていなかった。忙しいのか天蓬は金蝉を訪ねて来ず、2週間程顔を見てもいない。 普段からそのくらい会わないことは良くあるのだが、金蝉は今回は何か意味があるのかと邪推せずにいられない。なにせ最後に会った時の会話が会話だ。 『俺が遊び相手になってやる』 勢いに任せた考え無しの言葉だったが、金蝉はその言葉を後悔していなかった。 好きな相手に触れたい、抱きたい。そして、誰にも触れさせたく無い。天蓬が誰と寝ていて、その相手が何人居るのか等ということはどうでも良かった。ただ、彼に触れる人間が居ることが許せない。例え天蓬が構わなくても、金蝉にはそれが我慢ならなかった。 けれどあの言葉の後、天蓬は返事を濁した。あのはっきりした男が諾とも否とも言わずに、曖昧な笑みを残して去っていったのだ。 気に入らなければはっきり言う男がだ。 つまり、あの言葉が不快だった訳では無いだろうと、金蝉は判断していた。 けれど、諾とも言わなかった。 それが何を意味するのか。 不快では無いまでも、自分との関係を変化させるのを望まないのなら、天蓬はそう口にするだろう。 ならば何故。 まさか今更観世音菩薩の甥という立場に怯んだなどと云うこともあるまい。 「チッ」 舌打ちして不機嫌そうに廊下を歩く金蝉に、数人の軍人が慌てて道を開ける。そして幾度目かの角を曲がった時、金蝉は丁度回廊の向こうに、何時もの白衣姿で見知らぬ軍人らしき男と会話しながら笑っている天蓬の姿を見付けた。 硝子の花 −中編− たまたま視界に入らない位置に居た金蝉に気付かぬ彼らの会話が、金蝉の耳に届く。 「元帥はもう部屋に戻られるんですか?」 「ええ。これからゆっくり読書タイムです」 「好きですねぇ。また部屋が大変な事になってるんじゃないんですか?」 「失礼な。普段通りですよ」 「それはさぞかし凄いんでしょうね……」 「僕は気にならないから良いんですよ」 「つまり大変な事になっている訳ですね。これから様子を見学に行ってもよろしいでしょうか?」 「見学ですか?」 「ええ。元帥の御都合がよろしければ、ですが」 「夜までですか?」 「勿論。良いでしょう? 久しぶりに……」 「天蓬!」 考えるより先に、金蝉は声を発していた。 思わぬ場所で呼び止められた天蓬が、驚いたような顔で金蝉を見る。 金蝉は二人に歩み寄ると天蓬と居た軍人をじろりと見下ろした。その不機嫌そうな眼差しに相手が怯んで一歩下がる。 「用がある。来い」 何を考えるまでもなく口からそんな言葉が滑り出ていた。 横柄なその言葉に軍人は不快そうな表情をしたが、位の差を認識しているのか何も発することなく天蓬を見る。 その視線を受けて、天蓬がふわりと何時もの笑みを浮かべた。 「僕も貴方に聞きたいことがあったんです」 「そうか。なら丁度良い。行くぞ」 そう言うが早いか、振り向きもせずに天蓬の部屋へと踵を返した金蝉の背に、天蓬が同行していた彼に掛けた声が届く。 「スミマセンね。今日はこれで」 そしてカラコロという便所下駄の音が後ろをついてくる。 当然だと言うようにふん……と鼻を鳴らした金蝉の口端が、知らず上がっていた。 天蓬の部屋は相変わらず酷い有り様だったが、今日は金蝉に部屋を片付ける気は無かった。 部屋に入るや否や無言になった部屋の主を放って、金蝉は勝手に無事だった彼の執務椅子を強引に引き出して座る。 チェーンスモーカーである天蓬が煙草も吸わず立ち尽くしている様子に、うまい言葉が見つからず、自然、落ちた沈黙に暫しの時が流れてから、ようやく天蓬は顔を上げた。 「用とは何でしょう?」 そういえば先程そんなことも言ったなと自分の行動を振り返った金蝉は、取り立てて隠す事もなく言った。 「用なんざねぇよ」 その言葉に天蓬が怪訝そうな顔をする。 「ですが、先程……」 「わざわざここまで足を運んだのに取り込み中じゃかなわんからな」 金蝉はだから邪魔してやったのだと言いたかっただけなのだが、暗に話を聞いていたのだと言わんばかりの言葉に天蓬の眉間に皺が寄る。 「……僕も貴方に聞きたいことがあったんです」 「何だ?」 聞きたいことなど解りきっていたが敢えて聞いてやると、天蓬はうろうろと視線をさ迷わせた挙げ句、口を開いた。 「この間の言葉、本気ですか?」 視線すら合わせないその態度が、苛つくと言うより違和感を感じさせる。 「嫌ならそう言ったらどうだ?」 「嫌な訳では……」 はっきりしない天蓬が、金蝉は不思議でならない。 天蓬はそういうことは慣れていると自分で言った。あの状況でその場しのぎなどする必要も理由も無いだろう事と、金蝉が見た情事の相手が恋人では無いと言ったこと、そして金蝉に手酷く扱われても気にした風では無かった事から、あの言葉は真実だろうと金蝉は思っていた。 けれど、それなら何故こんなに曖昧な態度を取るのかが解らなかった。遊び馴れていると言うのなら、金蝉を利用するなり役不足であると断るなりすれば良いのだ。わざわざ金蝉の言葉が真実かなどと問う必要は無い。 「天蓬」 特に大きな声でも険のある声でも無かったが、天蓬の肩が小さく跳ねた。 埒が明かない。 舌打ちして金蝉は彼へと手を伸ばした。 何処を掴もうか逡巡し、そして天蓬の顎を掬い上げる。 すると、先程から向けられることの無かった綺麗な紫水晶の瞳が、金蝉に向けられた。濡れたようなその色に劣情を煽られる。 引き寄せられるように、顔を寄せ唇を重ねると、天蓬の身体が緊張したのが解った。けれど、それだけだった。抗うでも無く口付けられたまま、伺うようにじっとしている。積極的に楽しむことも無い。それが、金蝉を酷く苛立たせた。抵抗もせず、積極的に楽しむこともせず、金蝉のなすがままなそれは、まるで金蝉の好きにさせてやっているのだと言わんばかりだ。 「チッ」 舌打ちして、金蝉は天蓬の身体を俯せに執務机へと押し付けた。本の山が崩れて床に落ち、埃が舞い上がるのも気にせず天蓬の白衣を捲り上げる。 天蓬が驚いたように息を呑んだ音が聞こえたが、構わずワイシャツの裾から手を忍び込ませた。 引き締まった脇腹の滑らかな肌を掌で撫でる。天蓬は抵抗しない。 白衣を着たままのため、掌の感覚だけで素肌をまさぐる。胸を撫でた指先に何かが引っかかり、金蝉はそれを指で挟み込んだ。 「ッ……」 息を詰めた天蓬が掌を握り締めているのを視界に捉えつつも、金蝉は手を止めない。片手で胸の尖りを刺激しながら、逆の手で腹を撫で下ろしていく。緊張しているのか硬くなっている腹筋を辿りベルトへと手を掛けた。 「金蝉ッ……」 天蓬が焦ったような声で金蝉を呼んだが、構わずベルトを外しスラックスのボタンとファスナーも外すと、下着の中へ掌を滑り込ませた。 下生えをかき分けまだ反応していない天蓬の性器を握ると、びくりと身体を跳ねさせた天蓬が息を呑む。 「さっきのヤツとヤるつもりだったんだろう?」 天蓬のうなじに唇を押し当て吸い上げる。 「邪魔しちまったからな。代わりに俺が付き合ってやる」 乳首を擦り潰しながら、まだ柔らかい手の中のモノを揉み込むようにすると、天蓬が身体を捻って僅かに抗う。まるで金蝉を煽るように。 口端を吊り上げて凶悪な微笑みを浮かべた金蝉が、天蓬の首筋に歯を食い込ませる。 「金蝉ッ!」 「大きな声を出していいのか?」 「何……?」 きつく乳首を潰して引っ張りながら、金蝉は笑った。 「鍵は掛けてねぇからな、誰か来るかも知れねぇな」 「なっ……!?」 「それとも、見られる方が好きなのか?」 本当に鍵をかけてはいなかったが、ただ彼を辱しめる意図の言葉だったにも関わらず、手の中の天蓬の性器がひくりと震え硬さを増す。 「へぇ……」 心底愉しそうに金蝉が呟いた。 その声に、天蓬は硬く手を握り締め俯く。 「意外だな。お前がマゾヒストだったとは」 俯いたまま天蓬が否定の形に首を振る。が、硬くなっていく手の中の性器が、金蝉の言葉を肯定しているも同然だった。 「天蓬」 耳朶に後ろから歯を立てて、金蝉は笑った。 「良い声で鳴け」 ノックをしても相変わらず返事は無い。が、金蝉は勝手に部屋に入る。そこまでは今まで通り。けれど、金蝉は天蓬が金蝉の存在に気付くのを待たなくなった。 部屋に入り本を読んでいる天蓬の傍に立ち、その本を取り上げる、あるいは抱き締めその肢体に手を這わせるようになった。 あの日以来、金蝉は3日と開けずに天蓬の部屋を訪れている。そして彼を抱いていた。 本の山の中、机に凭れて本を読んでいる天蓬に手を伸ばす。そして、己の存在に全く気付いていない彼の顎を上げさせた唇を重ねると、少しの間の後、瞬いてからやっと現実を認識した彼が目蓋を伏せた。唇の隙間をこじ開け、金蝉が天蓬の口腔内へと舌を滑り込ませる。けれど、慣れている筈の彼はそれに答えること無く、かといって抵抗することもなくされるがままだ。何をしても、身体は反応してもそれは変わることが無い。手酷く扱おうが、絶頂間際で放置しようが、拒絶も懇願もすること無く、ただ拒まず全てを受け入れるのだ。 そして今日もいつも通り。 思う存分口腔内を蹂躙すると、金蝉は天蓬の手を引いて立ち上がった。引かれるように立ち上がった彼を、寝室へと連れていきベッドへと放り投げる。逆らわずベッドへと沈んだ天蓬にのしかかると、金蝉は再び唇を重ねた。 舌を差し入れ天蓬の舌を掬い上げると、それを吸い上げ甘噛みしつつ彼の服へ手をかける。抵抗の無い身体から衣服を剥ぎ取れば、前回自分が付けた痕が現れた。白い滑らかな肌に残る赤い痕に自分が付けたもの以外が無いことを確認し、金蝉の心は満たされていく。 他の男に触れさせてなるものか。 ふと、顎に力を入れ舌を噛む力を強くしてみると、組み敷いている天蓬の身体が僅かに強張った。けれど、それにすら明確な抵抗はしない。噛み千切られる可能性を解っているのだろうに、彼は金蝉を拒まないのだ。 俺のものだ。 笑みを浮かべて金蝉は顎から力を抜き、天蓬の頬を撫でた。持ち上がった目蓋の下から現れた紫水晶は暗く、濡れたように光っていた。 ここ暫くで通い馴れてしまった道を金蝉は歩く。道を開ける軍人達の訝しげな視線など全く気にせずに目的地に向かって足を動かしているが、今日はどこか空気が違う気がして金蝉は眉間の皺を深くした。 どこか、ざわめいているような騒がしいような気配。 それでも構わず天蓬の部屋へと進んでいくと、回廊をぐるりと回った場所に黒い隊服の人間が何人か居るのが目に入った。天界軍は小隊ごとに隊服が違う。というか、元はどこも一様に普通の着物だったのだが、第一小隊だけ天蓬が勝手に自分がデザインしたものに変えたのだ。そして金蝉の記憶が正しければ、あの黒い隊服は第一小隊の物だ。 軍の召集でもあったのだろうかと、彼らに視線を向けてみると、その中に天蓬がいた。普段の白衣ではなく黒い隊服に身を包み、厳しい顔で周りの人間と話している。 第一小隊は他の隊と比べ上下関係はそこまで厳しくないと聞く。そしてその言葉通り元帥である天蓬と彼らは肩を並べ普通に話しているようだ。 すると、一人が敬礼をして輪から外れた。どうやら天蓬が何か命令を下しているらしい。紙の束を手に一人ずつに顔を向けて何事か言うと、言われた相手は敬礼して輪から外れていく。 確かに畏まった上下関係は無さそうであるが、それでも元帥としての彼と部下との間にはどこか一線を画しているように見える。第一小隊の人間は皆、元帥としての天蓬を信頼し付き従う、まるで天蓬の崇拝者のようだ。そして彼等に取り囲まれる天蓬は、金蝉に見せたことの無い顔で彼等に指示を下している。 上に立つ者の顔。誰にも弱みは見せず、ただ強く部下を率いて行く、鋭い白刃の様な男の顔。その彼に全幅の信頼を預け従属する彼の部下達。 ざわりと、金蝉の胸をざわめきが満たしていく。まるで焦燥感の様なそれに突き動かされるように、金蝉は止まっていた足を動かし、天蓬の部屋へと駆け込んだ。 これから出陣なのかもしれないと思ったが、この不可解な感情を抱えたまま自室まで戻る気になれなかった。誰かに会いたくも無い。天蓬が戻ってこなくてもかまわない。この心が落ち着いたら自室へ戻るだけだ。 執務室にあるソファーの上の本を無造作に床へ落とし、そこに座る。座面に埃と煙草の灰が散っていたが、気にする余裕は無かった。ざわざわと落ち着かない胸の内が、何故なのかも何なのかも解らず金蝉を苛む。 不可解な感情を持て余し、金蝉は大きく息を吐き出した。 その時不意に、部屋の扉が開いた。 「……来てたんですね」 ふわりといつも通りの、金蝉の見慣れた微笑みを浮かべた天蓬が、黒い隊服のままそう言った。 「……出陣じゃねぇのか」 「いえ、逆です。今戻って来たところですよ」 「いつの間に出てたんだ」 「昨夜急に指令が入りまして。まぁ、簡単な調査物だったのですぐに戻ってこれたんですが」 やれやれと肩を竦めると、天蓬は隊服を脱ぎ始めた。 金蝉が見ている前だと云うのに気にする素振りもない。 「風呂には入らんのか」 「今回はそんなに汚れてませんよ?」 相変わらずのものぐさな台詞に眉間の皺を深くした金蝉を他所に、普段通りの白衣姿になった天蓬は早速煙草をくわえる。 その見慣れた天蓬の姿に、金蝉は胸のざわめきが凪いでいくのを感じた。 肩から力が抜け小さく息を吐いたが、それが何故かは解らず、金蝉はそれを気にしない事にする。 「元帥自ら赴く程の調査だったのか?」 「そういう訳でも無かったんですけどね」 「大方お前が下界に下りたがっただけだろう」 「ヤですねぇ。断定しないでくださいよ」 「違うのか?」 「違いませんけど」 「合ってんじゃねぇか」 「あはは」 短くなった煙草を溢れている灰皿に押し込み煙草のパッケージへと伸ばされた天蓬の手を捉えると、金蝉はその手を引いて彼の身体を抱き締めた。 自分のモノだと所有を示すかのように力を込めて抱き締めれば、金蝉は安心出来る筈だった。 だが、抱き締めた天蓬から香る普段とは違う匂いに、金蝉の胸は再びざわめきだす。 煙草とも汗とも違う、乾いたような匂い。そして硝煙と僅かな血の匂い。 腕の中に閉じ込めているのに、こんなに近くに居るのに、天蓬を酷く遠く感じる。 思わず抱き締める腕に力が入り天蓬の身体が軋む。 しかし、僅かに身動ぎした天蓬は痛みを訴える事も無く、その瞳に金蝉を映して艶やかに笑ったのだ。 その瞬間、金蝉はやっと気付いた。 自分はこの男を手に入れてなどいないと―――。 濡れた瞳に誘われる様に唇を重ねる。 抵抗など無い。 そして、肯定も、無い。 所詮、この蝶の様な男が手に入る訳が無いのだ。 金蝉のしたいようにさせてくれているだけだ。金蝉の望みが自分の利害から外れていないから、好きにさせておくだけだ。 『遊び相手』だから、受け入れてくれているだけなのだ。 知らず、金蝉の口端が上がる。 まるで茶番だ。 腕の中に居るのに、手になど入ってはいない。 捕まえた錯覚、手に入れたような幻覚。 リアルな幻。 けれど、幻はいつかは消えるのだ。 明日か明後日か一週間後か一年後か、この関係は終わるのだ。 ならばせめて、今だけでも一番傍に―――。 天蓬が飽きるまででいい。 自分のモノになるなど有り得ないのは解っている。 だからそれまで、俺をお前の一番近くに置いてくれ。 遊び相手で構わない。 都合の良い相手と利用してくれればそれでいい。 ゆっくりと腕の力を抜いて、金蝉はもう一度天蓬を抱き締めた。それは先程までの閉じ込めるような荒々しい物では無く、大切なものに触れているかのような、ただただ優しい拘束。 違和感を感じて金蝉を見た天蓬の綺麗な瞳の色に、決して手に入らない相手なのだという事を改めて実感し、金蝉は少しだけ目を細めると、そっと瞼に口付けを落とした。 そっと伏せられた瞼へ、頬へ、そして少しだけ躊躇してから、もう一度唇へと触れる。深くも荒くもない触れ合わせるだけのキス。 まるで誓いのキスのようなそれは、金蝉にとっては確かに誓いの証だった。 「金蝉……?」 問うまでいかない声を問いにしてしまう前にもう一度口付け言葉を封じると、金蝉は天蓬の身体をソファーへと横たえた。そして適当にはめられたシャツのボタンを一つずつ丁寧に外していく。 大切な贈り物を開くかのようなそれに、居心地悪そうに天蓬が身動ぎしたが、構わず金蝉は現れた滑らかな肌に唇で触れた。何度も啄ばむ様に軽く吸っては離すと、うっすらと赤い痕が出来、直ぐに消えていく。 もう、痕を残すことなど出来ないと思った。 散々キスマークどころか、痣のような鬱血の痕や噛み痕を残しておいて今更だというのは解っている。けれど金蝉にはもう、あんな風に触れることは出来なかった。自分のモノでもないくせに所有印を残すなど、おこがましすぎるだろう。 恭しくシャツを開くと、無防備に晒された胸へと掌を這わせる。そっと、まるで壊れ物に触れるかのように撫でていく掌に感じる綺麗な滑らかな肌に、ずっと触れていたくなる。 好きだと、言葉にすることなど出来ない。それでも彼の一番近くに居られるならそれで良かった。 それが例え一時のものだとしても、構わなかった。 その日を境に、金蝉は天蓬の部屋を訪ねていくのを止めた。いや、出来なかった。自分が訪ねることは自分のものなどでは無い天蓬の時間を奪ったり、その自由を束縛したりすることである。天蓬には天蓬の都合がある。 しかし、それを尊重したい訳では無かった。 天蓬の都合を邪魔をして切り捨てられるのが怖いだけだ。 今まで金蝉は天蓬をマメに訪ねる事は無かった。むしろ、訪ねて来るのはもっぱら天蓬の方で、彼の都合が全てだった。確かにここ数日金蝉が天蓬の都合など構わず押し掛けても、天蓬は迷惑そうな顔もせず受け入れてはくれた。が、それが続くと思うほど金蝉は楽観的になれない。 元々天蓬は自由な人間だ。自らの興味が全てで他のものは飽きれば切り捨てる。そういう人間だ。それは長い付き合いで金蝉も知っていた。そして、金蝉と天蓬の関係は、彼の毛色が違うモノに対する興味だけで成立しているという事も。 天蓬を訪ねて行く事で彼の都合を邪魔すれば、それは切り捨てられるまでの時間を早める事に他ならない。 長く続けたいのなら、天蓬に全てを委ねる他は無い。消極的な手段だということは解っていた。それでも金蝉には、他に選べる道は無かった。何故なら金蝉には、天蓬が興味を持てる様なものは何一つ在りはしないのだから。 いつか切り捨てられる。それはずっと解っていた事だ。 金蝉に出来るのは、それが少しでも先である事を祈る事だけだった。 金蝉が訪ねる事を止めて数日後、天蓬は以前の様に金蝉の部屋を訪れた。彼の顔を見て金蝉は心底安堵したが、それを表情に乗せることは無い。その代わりのように手を伸ばす。その手を天蓬は拒まなかった。 大切な壊れ物を扱う様に肌に触れ、ただ彼の快楽を呼び起こす事だけを考え遂行する。自分の快楽はもはやどうでも良かった。 彼に触れる事が出来るのが自分だけになれば良い。そう思う心を捩じ伏せ心の奥深くに仕舞い込み目を逸らす。そうしながらも、彼の身体に自分以外が触れた証が無いか探るように触れるのを止められない。 再び気紛れで金蝉の元を訪れるようになった天蓬に、その顔を見る度安堵と底無し沼に嵌まっているかの様なほの暗いわだかまりの様な物を感じて、けれど何を見る事も拒み、金蝉は目を閉じる。 その度触れる掌は優しさを増していくのだ。 書類に署名をし、先程から重ねていた山に乗せたところで、その山が高くなっている事に気付き、金蝉は顔を上げた。署名をして直ぐに捺印する事は出来ない為、墨が乾くまで待つ事になるのだが、待つのも面倒であるので纏めて捺印をしようと重ねていたのだ。書類に目を通しているうちに乾くことは乾くので、次の書類に署名をする頃には乾いているのではあるが、いちいち筆の準備と捺印の準備をするのも手間だと普段から纏めてやっているが、いつもはもっと少ない量で作業を切り替えている。つい没頭してしまったらしい。 筆と硯を机の隅に寄せると捺印用のマットと朱肉を用意する。室内に放置していた為朱肉の表面が少し乾燥している事に気付き、練った方が良さそうだと判断すると金蝉は引出しを開けた。しかし、定位置にいつも使っているヘラが見当たらない。はてどうしただろうかと前回使用した時の事を思い出してみると、そう言えば前回洗おうとした時に世話係の女官が居らず、仕方なく自分で洗い、乾かすために窓際の棚に置いたことを思い出した。 小さく息を吐いてから、金蝉は仕方なく席を立つ。振り返ればやはりそこにヘラがあった。 窓際まで歩き、ついでのように外を眺める。空は相変わらず晴れ渡り、万年桜が今日も変わらず咲き誇る。その変わらないつまらない景色に、金蝉が眉間に皺を寄せた時、桜の隙間から人影が見えた。金蝉の執務室は2階であるため、枝の低い桜に遮られて気付かなかったのだろう。 誰が居ようと興味など無い。そのまま視線を室内に戻そうとした目の端に白衣がふわりと舞い踊り、金蝉は桜の隙間から見える人影に改めて目を向けた。 さわさわと穏やかな風に枝が揺れ、花の向こうの人影を僅かに覗かせては隠す。 ふわふわ舞う白衣ばかりが見えて肝心の顔が見えない。白衣を着ているような人間は余り居ないが、それでも天蓬だけと言い切れはしない。 暫くその場でその人影を見ていると、その人影が少し場所を移動した。花の影から完全に抜け出した訳ではないが、誰かは判別出来るくらいの場所。 白衣を羽織ったダークブラウンの髪に柔和な微笑みを浮かべた眼鏡の男。やはりその人影は天蓬だった。 こんな所で何をしているんだ……? 天蓬が居るのは観音の屋敷が集まる場所の回廊に囲まれた中庭だ。軍所属の天蓬が偶然通りかかるような場所では無い。 ……俺に会いに来たのか? ふとその可能性に気付き、金蝉の胸がじんわりと暖かくなった。 天蓬がこんな処に来る理由が他に浮かばず金蝉の表情が自然と和らぎ、その口許に笑みが刻まれようとしたその時、天蓬の隣に誰か居ることに気付き、金蝉は眉をひそめた。 天蓬と違い先程まで完全に花の影になっていたらしく気付かなかったが、女官が1人、天蓬の側に立っていた。見知った顔の女だ。金蝉付きでは無いが、たまに食事を運んで来たり伝書を持ってきたりした事がある。整った顔立ちをしてはいるが、美しいと言うより可愛いという表現がしっくり来る、目の大きな少女だ。 二人は楽しそうに微笑み、何事か言葉を交わしているようだ。声までは届かない為、話の内容は解らないが、親しげな様子は伺える。少なくとも初対面では無いだろう。 俺に会いに来ただと……? 俺は何をめでたい事を考えてんだ。 桜の花に囲まれた美男美女。仲睦まじいその様子に金蝉の胸が僅かに軋む。それを吐き出すように息を吐くと、金蝉はヘラを取って執務机に戻った。 「フン……。お似合いじゃねぇか」 けっして自分のものにはならない。それは解りきっていた事だった。金蝉がどれだけ欲しいと願っても、手に入る事など有りはしない。どれだけ願おうが切望しようが、そんなものは関係無いのだ。 ぼんやりと意味も無くヘラを手で弄んでいると、ノックの音が響いて金蝉は顔を上げた。けれど、返事をする気にもなれず無言で居ると、扉が勝手に開いた。 「あれ、居るじゃないですか」 「……居ちゃ悪いか?」 姿を表したのは天蓬だった。そんなに呆けていたつもりは無かったのだが、どうやら結構時間が経っていたらしい。 「居るなら返事くらいしてくださいよ」 「返事しようがしまいがお前は勝手に入って来るじゃねぇか」 「一応確認をね。本当に居ないのかなって」 悪びれもせずに笑う男に舌打ちをすると、金蝉はヘラを机に放り出し椅子に身体を預けた。 「それより天蓬、お前さっき―――」 『誰と居たんだ』という言葉を金蝉は咄嗟に飲み込んだ。 自分は一体何を言おうというのか。 あの女は誰だ、どういう関係だ、好きなのかなどとでも聞くつもりか? そんな権利など有りもしないくせに。 「さっき?」 「……いや。何でもねぇ」 天蓬は自分のものではない。天蓬が誰と会おうが誰と話そうが、それこそ誰と寝ようが付き合おうが、金蝉には何を言う権利も資格も無い。 手に入れる事も、束縛する事も叶わない。 「言いかけて止められると気になるじゃないですか」 何の警戒もなく天蓬が金蝉のすぐ傍まで歩いて来る。 この男は自分の魅力を解っていない。金蝉だけでなく、男女問わず彼を目にしたものは彼を手に入れたいと願うだろうに。その綺麗な顔立ちだけでは無く、秀でた頭脳も、艶やかな声も会話も立ち振舞いも、全てが他者を魅了して止まないと云うのに。 そこまで考えて、金蝉は気付いた。逆だということに。 解っているのだ。 この男は自分の魅力を解った上で、寄ってくる花を蝶のように渡り歩いているのだ。 女官に飽きたら金蝉の元に、そして金蝉に飽きたら次の相手へ―――。 自由に、思うがままに。 決して自分のものにはならない男。 この男を、自分のものにしたい。 なるはずが無いのは解っているのに、欲しくなる。まるで砂漠のオアシスか麻薬の様だ。 不可能と知りつつ、欲が止められない。 いっそ、何処かに閉じ込めてしまおうか。 それでも手に入らないのなら、自分から逃げて行くと言うのなら―――この手で壊してしまおうか。 そうすれば、もう、誰のものにもならない。 知らず、口端が吊り上がる。 そして、手を伸ばそうとしたその時―――。 「金蝉?」 天蓬の声にハッとして、金蝉は動きを止めた。 俺は今、何を―――。 自分の思考に愕然として、掌を爪が食い込む程強く握り込む。 違うだろう。手に入らないから壊すなど、間違っている。天蓬には天蓬の意思があるのだから、それが意に沿わないからと言って子供の様に癇癪を起こすなど。 近くに居るじゃねぇか。 そうだ、彼は自分のすぐ傍に居るのだ。 この現状で満足すべきだ。 手に入らないのだから、これが最上なのだ。 これで満足し、諦めるべきだ。 これ以上は無いのだから。 現状で満足していれば天蓬の傍に居る事が出来る。 彼の近くで、ずっと彼を見ていることが出来るのだ。 彼が金蝉に飽きるまでは。 ―――それはいつだ? 彼の側で、彼が舞い踊るのを見続けるのか? 彼が自分以外の誰かと笑うのも、自分以外の誰かに触れるのも、自分以外の誰かと幸せになるのも、全て一番側で見るのか? その場所を誰かに奪われるまで。 天蓬が幸せにならなければいいと呪いながら、彼の側に在り、そして彼の幸せを祝福しなければならないのか? 彼が幸せになればもう二度と触れることは叶わないだろう。それどころか傍に居ることすら出来ないだろう。 それを祝福するなど―――。 ならば壊してしまえば良いのか? 天蓬を。いや、この関係を? 祝福出来ないのなら遅かれ早かれ結末は決まっているのだ。 全てを隠し傍に居るか、全てを無くすか。 無くす? 金蝉がふわりと笑んだ。 そして口を開き、静かに言った。 「もうてめぇには触れねぇ」 「え?」 「遊び相手は降りるっつったんだ」 そう言うと、金蝉は視線を机に落としヘラを手に取る。天蓬の反応など見る気も無い。 天蓬に取って金蝉などただの毛色の変わった玩具で、大した価値がある筈もない。遊び相手にしても、金蝉1人では無いのだ。金蝉が降りたところで何の問題も無ければ不自由も無い。天蓬には些細な事だろう。 自分の身の程など、己が一番良く知っている。 「そう……ですか」 予想通りのアッサリとした天蓬の反応に悲しむ事も出来やしない。 朱肉を練ると、みずみずしい朱が現れた。その艶やかさに金蝉の頬が緩む。こんな小さな物にすら鮮やかな一面があるというのに。自分にもこんな面が有れば、天蓬は少しは残念に思ってくれただろうか。 と、身動ぎ一つしない天蓬が言葉を紡いだ。 「僕を、嫌いになりましたか?」 「……なってねぇよ」 嫌いになれたのなら、金蝉はこんな苦しみなど感じずに済んだだろう。 朱肉を練るのを止め、マットの上に書類を乗せる。そして印を取り朱肉へ押し付け、次に書類へと押し付けた。 「……後悔してますか?」 天蓬のその問の意図など解らない。だが、解らなくても答えは一つしか無かった。 「ああ」 満遍なく印に乗せられた朱が行き渡るよう圧を掛けてから、金蝉はそっと印を持ち上げた。 どこも欠ける事の無い、掠れも滲みもない綺麗な印影。 全てを無くすと云う事は、それは解放なのかもしれない。 ←back ◆ →next |
花吹雪 二次創作 最遊記