それは暖かく柔らかかった。
ふわりと舞った煙草の香と光を受けた彼の茶色い髪。
伏せられた睫毛が頬に影を落としていて。
決して長くはない時間、けれど短くもなく。
ゆっくりとそれは金蝉の唇に触れ、そして離れていった。



硝子の花 −前編−



言いたいことは山ほどあった。
けれど、そのどれもが形を成さずに消え、金蝉は深くため息をついて、目の前で微笑む天蓬を睨みつけた。
「何のつもりだ…?」
やっとのことで口にした問いに、目の前の男はふんわりと笑みを濃くして、心底楽しそうに告げた。
「キス、しちゃいました」
あはは・・・と悪びれもせずに煙草をくわえる。
「しちゃいましたじゃねぇよ…。俺が聞いてるのはなんでキスなんかしたのかってことだ…」
脱力しながら金蝉が唸るような声を出すと、天蓬は意外そうな表情を浮かべて見せる。
「思ったより狼狽えてもらえなくて残念です」
わざとらしく残念そうに話をそらされて、金蝉は原因の追究を諦めた。
所詮この男のやることを、真剣に相手する方が間違っている。
大方、金蝉が慌てふためくのを狙ってしたのだろうが、天蓬との長い付き合いでそれが彼を喜ばせるだけだということを金蝉は知っていた。
「チッ…」
鋭く舌打ちして、乱暴に背もたれへと身体を預ける。
その様子に金蝉が追及を諦めたことに気づき、天蓬はわずかに目を細めた。
「怒らないんですか?」
「怒らせるようなことをした自覚はあるんだな」
脱力しながら金蝉が視線を天蓬に向けると、いいえ?と彼は首を振った。
「僕的には大したことはしてませんが、金蝉には刺激が強すぎたかと思いまして」
「お前は俺をなんだと思ってるんだ…」
「だって女性経験ないでしょ? 貴方」
心底嫌そうな顔をして、金蝉は天蓬を睨んだ。
「からかってんのか、てめぇは…」
「心外ですね。心配してるんです」
「余計なお世話だ」
もっともらしく答えた天蓬にそう答えると、彼は苦笑した。
そして僅かな間。
カロンと天蓬のサンダルが軽やかな音を立てた。
金蝉と執務机を挟んで立っていた天蓬が、その間合いを詰める。
再び天蓬の顔が金蝉のそれに近づいて、止まる。
至近距離で二人の視線が絡んだ。
「抵抗しないんですか?」
「お前相手に俺が抵抗したところで無駄だろうが」
軍人である天蓬に力でかなうはずがない。
無駄な事はしない主義だと暗に示して、けれど受け入れる気も無いかのように瞳も閉じずに金蝉は天蓬の瞳を見つめた。
触れそうな位置で静止したまま、天蓬は笑みを濃くした。
そのどこか含みのある、悪戯が成功したときの悪ガキのような笑み。
「天蓬……」
見慣れた笑みに、嫌そうに金蝉が名を呼ぶ。
この男はいつもこうなのだ。
ふらりと現れては、金蝉のペースを乱し、悪戯を仕掛けてからかう。
たわいもないことから大がかりなことまで、悪戯の種類は多種多様で。
いらだちまぎれに天蓬の肩をぐいと押しのける。
「やめろ。俺はお前みたいに器用じゃねぇんだ」
あっさりと押されるがまま身体を離した天蓬は、そうですねと笑った。
「出直してきます」
笑いながら白衣をひるがえし、静かに金蝉の執務室の扉を開く。
ぱたんという乾いた音を聞きながら、金蝉は天蓬が来るまで処理していた書類へと目を落とした。
天蓬が何を考えているかわからないのはいつものことであったが、ここまでわからないのは久しぶりだった。
出会った頃ならばともかく、長い付き合いになった今では、天蓬の考えていることがはっきりとまではいかないまでもおぼろげながらわかることが増えてきた。
にも関わらず、今回の悪戯は全く意図が分からなかった。
初心な自分をからかいたかっただけなのか。
けれど、天蓬がそういうことで他人をからかうようなタイプには、金蝉には思えなかった。
そういった経験は無理に積むものではないし、気持ちが伴わない行為だけするようなものでもない。
段階を追って知っていけば、経験していけばいいだけのものだから、思春期の子供でもあるまいし、早い遅いでからかうのはあまりに幼稚だ。
ましてやあの天蓬である。
まさか真面目に心配されているとしたら、それこそ本当に余計なお世話なのだが…。
視線を落したままにもかかわらず、文字の中身が頭に入ってこない。
金蝉はもう一度背もたれに身体を預けた。
その瞬間ふわりと天蓬の煙草の香りが舞った。
「…………」
知らず指で己の唇に触れる。
皮膚の感触とは違ったな…。
思い出すように、金蝉は目を閉じた。
天蓬のそれは、もっと暖かくて柔らかい…。
そして、どこか甘かった。



普段から毎日顔を突き合わせるような間柄では無かった。
お互いある程度の立場を持っていたのでそれぞれ職務もあるし、軍人である天蓬と観音の甥である金蝉とは周りの環境も人間関係も違う。
2、3日に一度、長い時は一か月以上会わないこともざらだった。
それでも思い出したように前触れなく訪れる天蓬を、金蝉が疎ましく思うことは無かった。
かといって、待つということも今までは無かったのだけれど。
仕事が手につかない。
金蝉はため息をついて机の上の書類の山に手を伸ばした。
普段から暇なわけではない仕事量ではあるが、ここまで溜まったのは初めてだった。
上の方からパラパラと指でめくってみるが、内容に少しも興味は湧かなくて。
現在開いている書類にもう一度目を落とす。
けれど内容は全く頭に入ってこない。
何度となく読み返すけれど、結局は無駄な努力に終わるのだ。
「……クソ…」
小さく毒づいて金蝉は背もたれへと身体を沈めた。
あれから4日。
仕事が手につかないのはアレのせいだ。
天蓬からのキス。
その一件が金蝉の頭の中を支配していた。
柔らかかった感触や触れた温度、煙草の匂い、伏せた睫毛の影。
ふとした隙にそういったものが思い出されて仕事にならない。
そして見えない彼の意図に想いを馳せ、ぼんやりしていることに気づくというのを、ここ数日繰り返しているのだった。
ただの悪戯だと分かっているのに、心のどこかで理解しきれない。
見えない意図が気になってたまらない。
何故自分がそんなに天蓬のことを気にするのかも解らない。
そして意図を気にする度に思い出してしまうあの感触。
堂々巡りだ。
「だっせぇ…」
呟いて額に手をあて、苦虫を噛み潰したかのような自嘲の笑みを浮かべた。
確かに触れた天蓬の唇。
初めてだったのだ。
だからこんなに気になるに違いない。
天蓬は自分にとっては大したことないと言っていた。
大方慣れているのだろう。
しかし金蝉にとっては、初めてのことであったし、なにより人との接触を嫌う自分にとっては、思わず動揺するほどの距離の近さであった。
思い出したように近づいてきて、有無を言わさずパーソナルスペースに入り込み、挙句の果てに口づけて。
悪びれもせずに笑う男。
にもかかわらず。
困ったことに。
それが金蝉にとっては心底不思議だったのだが。
嫌では無かったのだ。
元々天蓬に関しては全幅の信頼を預けている金蝉である。
何にも興味を持たず、関わることもせず生きてきた金蝉に、こんな世界もあるのだと、扉を開いて見せたのは天蓬だ。
金蝉の世界は天蓬によって構成されていて、彼が全てだった。
けれど天蓬は違う。
自らの興味と欲望のままに生きる男だ。
興味を持てばどこまでも深く関わり、どこまでも行く。
そしてその実力で有無を言わせない。
彼の前では金蝉もただの興味の対象で。
彼は、自分に一体何を見ているのだろうか。
天蓬ほどの男が興味を持つものを自分が有しているとは、金蝉には思えなかった。
自分はつまらない男だ。
観世音菩薩の甥だというだけで、認められるだけの地位は辛うじてあるが、それだって自分の力によるものではない。
特に力があるわけでも、話術に取り柄があるわけでもない。
自らの力で道を切り開いている彼とは、真逆と言っていい存在。
今までこんなことを考えたことが無いかというと、そうでもなかった。
ふとした拍子に噂に上る天蓬。
噂話を耳にするたび金蝉は必ず思うのだ。
自分は彼に興味を持ってもらえる程の存在ではなく、一時的に毛色の珍しいものに彼が興味を持っているからこそ今が有って。
そして彼が飽きたら自分たちの関係はそこで終わると。
それは自虐でもなんでもなく、金蝉にとってはただの事実だった。
「皮肉なもんだな…」
唇を歪めて呟く。
天蓬が何を考えてキスなんてしたかは解らないけれど、本来の意味の甘さを考えると自分たちの距離はあまりに遠い。
恋人同士どころか、友人同士であるかすら危ういなんて。
クッ…と喉で笑う。
笑う以外何ができるっていうんだ。
金蝉は深いため息を吐いた。
ゆったりと空気が動き、桜の香が届く。
天蓬の残り香も消えてしまった。
金蝉は羽ペンを投げ捨てると、ゆっくり立ち上がった。
一人で思い悩んでもなんの結論も出ない。
それならば、無駄であろうとも直接聞いた方がマシだと思った。



扉の前に立ち、そっと手をもちあげる。
小さく響くノックの音。
しかしというか、相変わらずというか、返事は無い。
金蝉は深くため息を吐くと、もう一度扉を叩いた。
居ても居なくても天蓬が返事をすることは極めて稀である。
ここをあまり訪れることのない金蝉でもそれくらいは知っていた。
そして部屋の中が静まり返っているからといって、留守とは限らないことも。
「入るぞ」
仕方なくノブに手をかけ、雪崩を警戒しつつそっと扉を引くと、部屋の中には人は居なかった。
雪崩こそ起こさないものの、片付いているわけではない部屋に足を踏み入れる。
本のけもの道ができていて、おそらく誰か訪れたのだろうことが伺えた。
「居ねぇのか…」
肩すかしを食らったような気分になりながら、執務机に近づいてみるが、机の上も本だらけでとても執務できるような環境ではない。
いつものことだとはいえ、顔をしかめながら金蝉は部屋を見渡した。
一応天蓬が本に埋もれていないか気にしてみたが、どうやら今日は本当に誰もいないらしい。
無駄足だったか。
ため息をついて、さてどうしたものかと考える。
このまま部屋に戻っても仕事は手につかないだろう。
かといって天蓬の行きそうな場所の心当たりはここ以外無かった。
と、何かが耳をかすめた。
金蝉は顔を上げてもう一度部屋を見まわした。
けれどそこにあるのは先ほどとなんら変わりのない部屋。
空耳かと思い始めたころ、今度は先ほどよりはっきりと声が耳に届いた。
そちらに目をやると一枚の扉が目に入った。
部屋の中ほどにある扉。
確かその先には寝室がある。
普段は本に埋もれていて扉があることをすっかり忘れていた。
本を避けつつ扉に近づいてみると、辛うじて開閉できるだけの隙間がある。
雪崩を起こさないように、そっと扉を引くと今度は先ほどよりもはっきりとした声が金蝉の耳に届いた。
「あっ……」
聞きなれた声だった。
いや、初めて聞く声かもしれない。
誰の声かなんて考えなくても解った。
伊達に長い付き合いをしているのではないのだ。
けれど、その艶を含んだ声は初めて耳にするもので。
混乱して、否定した。
天蓬のものであるはずがないと。
けれど、開きかけた扉から目に飛び込んできた光景に、その否定はやすやすと砕かれる。
「はっ……、あん……」
天蓬の声が耳に届く。
どこかかすれた艶を含む聞いたことのない声。
天蓬はベッドの上に居た。
けれど一人では無くて。
天蓬の上に一人の男が覆いかぶさっていた。
はだけられた天蓬の服と、男の背に回された彼の手とで嫌でも解る状況。
「ここですか?」
「っあ!」
笑いを含んだ男の声とともに、身体を揺さぶられて天蓬が仰け反る。
ベッドの軋む音が妙に耳障りでならない。
「あっ、あっ…、そこっ」
妙に甘ったるい天蓬の声。
普段はハキハキと喋る男が、舌っ足らずに言葉を紡ぐ。
「そこっ…、っぁ…、っ…、もっとぉ!」
自ら望んでいる行為なのだと、突きつけられた気がした。
そんなに離れていない場所なのに、天蓬は金蝉の気配に気づかない。
二人の距離がひどく遠く感じる。
なのに金蝉は、金縛りにあったかのように、その場を動くことができなかった。



どのくらい経っただろうか。
高く啼いた天蓬の声でベッドの軋みも止んだ。
しばらくは荒い呼吸が聞こえて来たが、それもやがて止む。
二人で顔を寄せ合い何事か会話しているようだ。
そして男がベッドから降りた瞬間、金蝉は慌てて、それでもバレないように気を付けて扉を閉めた。
絹ずれの音のあと、足音が扉へ近づいてくるのに気づいて、慌てて今度は本の山になっている執務机の影に隠れる。
と、扉が一度開閉した音がして、また足音、もう一度扉の開閉、そして廊下を足音が遠ざかっていく。
バレなかったようだと、詰めていた息を吐き出すが、まだ身体はこわばったままだった。
見れば、指先は震えていた。
怖いわけじゃない。
動揺、なのだろう。
訳の分からない感情が胸に渦巻く。
それを吐き出すように、大きく息をついて、震える指を握りしめ、金蝉は立ち上がった。
廊下と執務室をつなぐ扉に触れて、数瞬考えて、鍵をかけた。
ゆっくりと無言で執務室を横切り、寝室の扉を開く。
扉の軋む音がやけに大きく聞こえた。
天蓬はベッドの上に横たわったまま眠りに落ちかけていたようだったが、音に気付いて口を開いた。
「忘れ物ですか?」
先ほどまで抱き合っていた相手と勘違いしているようだ。
落ちる沈黙。
それから扉の閉まる音。
何か不自然なものを感じたらしい天蓬が、目蓋を持ち上げた。
そして、その瞳で金蝉の姿を捉え、目を見開いた。
「金…蝉……」
天蓬は慌てて身体を起こして、掛け布団で身体を隠す。
見たことが無い彼の行動に、胸の訳の分からない感情が抑えきれなくなりそうで、金蝉は口を開いた。
「恋人、なのか?」
その言葉が意味する事。
珍しく笑みも浮かべず天蓬は目をそらした。
先ほどの情事を見られていたのだと、そしてどう誤魔化そうかと考えている表情。
その顔に、感情が煽られる。
僅かな沈黙の後に、天蓬は諦めたようにため息を吐いた。
「恋人なんかじゃ、ありませんよ」
「嘘だ」
「本当です。彼は、ただの……」
そこで一度言葉を切って、天蓬は目を閉じた。
「遊び相手です」
金蝉は表情を浮かべること無く、その言葉を聞いた。
胸の中のどこか一部が妙に冷めている気がする。
その他の部分はどろどろで、訳の分からない感情が溢れだすその時を待っているかのようで。
ゆっくりとベッドへ歩を進める。
「天蓬」
ビクッと肩を揺らして、伺うように金蝉を見た天蓬の表情に、何かが焼き切れた気がした。
無表情のまま、金蝉の手が、天蓬の肩を掴んでベッドへと押さえつけた。
驚愕の表情を浮かべて、抵抗もできない天蓬に金蝉はのしかかる。
全裸の天蓬を組み敷くと、金蝉は口端を釣り上げた。



本気で抵抗すれば、金蝉が天蓬にかなうはずが無いのは明らかだった。
けれど、天蓬はそれをしなかった。否、できなかったのだろう。
天蓬が金蝉に力を振るったことは一度も無い。
何を考えているのかわからない男だと、金蝉は思った。
こんな状況にもかかわらず、本気で金蝉を押しのけようとはしない。
それどころか、煽るように、わずかに肩を押しかえす。
そんな些細な抵抗は、火に油を注ぐだけだ。
邪魔な両手をまとめて頭上に手で拘束して、天蓬の胸から腹へと手を滑らす。
が、あの男に触られた直後だと思うと、それ以上触れる気にもなれない。
性急に足を開かせる。
「…っやめ」
さすがに抗うように腰を捩られるが、そんなものは金蝉を煽るだけで。
蹴りつければいいのにそれをしない。
力を込めて金蝉を蹴れば、こんな状況はいくらでも変えられる。
甘いんだよ。
金蝉を傷つけないように、気を使いながら抵抗している天蓬が逃げられる訳が無いのだ。
膝を曲げさせて、大きく足を開かせる。
余りな体勢に、天蓬はきつく目を閉じて横を向く。
天蓬が唇を噛みしめていることに気づいたが、そんなことはどうでも良かった。
晒された、最奥からとろりと白い液体が零れ落ちる。
限界だった。
「っ!? や、やめっ…、金蝉!?」
悲鳴のような声を上げた天蓬にかまわず、金蝉はベルトを外すと、前をくつろげただけで一気に性器を天蓬へ突き立てた。
「っ……!?」
最奥まで一気に押し込むと、天蓬の身体が飛び跳ねる。
慣らしも、愛撫すらもしていない。
先ほどまでの情事が無ければ受け入れられたか解らないくらいの荒さ。
衝撃にこわばった身体のまま、天蓬は眉根を寄せて、金蝉を見た。
金蝉は無表情だった。
「遊び相手…か」
普段より一段低い声。
「誰でもいいんだろ?」
強張ったままの天蓬の身体を無理に割開くように腰を動かし始める。
信じられないような目で金蝉を見ている天蓬を、静かに見つめる。
「俺が遊び相手になってやる」
「こん…ぜ…ん?」
天蓬の声が良く聞こえない。
自分が何を言っているのか、何をしているのか良く解らない。
胸の訳の分からない感情が身体中を犯していて。
金蝉はそのまま乱暴に天蓬を抱いた。



日常とは一体なんだろうか。
ただ流れていく時間のことを示すんだろうか。
机の上に積みあがっている書類。窓の外の満開の桜。穏やかすぎる時間。
脳が融けそうで反吐が出る。
あの日から天蓬に会っていない。
天蓬が訪ねて来ることも、金蝉が天蓬の部屋へ行くこともなく。
そしてもう会わないのかもしれない。
それも当然だろう。
あの日、金蝉は天蓬を手ひどく扱った。凌辱したといっても過言ではない。
何度も何度も、金蝉の気が済むまで欲を叩きつけて、それは天蓬が意識を飛ばしても止まらなかった。
意識を失った天蓬の身体を玩具のようにゆさぶって、そしてそのまま、……放置した。
天蓬はもう二度と金蝉に会おうとは思わないだろう。
自嘲の笑みすら浮かばない。
ただ、無表情に、書類を黙々と処理していく。
こんなのは逃避だ。
解っていても、他にどうすることもできない。
何も考えたくなかった。
と、金蝉の執務室の扉を叩く音がした。
「開いている」
大方、身の回りの世話をする女官だろう。
そう思い視線を上げることもせずに書類に判を押していると、のんびりとした声が響いた。
「お久しぶりです」
聞きたかった声。
けれどもう二度と聞けないだろうと思っていた声。
その声に弾かれたように、金蝉は顔を上げた。
「相変わらず真面目に仕事してますねぇ」
ふんわりとした微笑のままゆっくりと天蓬は室内に入り、扉を閉める。
そして金蝉の執務机の傍まで歩いてくる。
普段通りの態度、表情、雰囲気。
まるで何も無かったかのように。
先日の出来事がまるで悪い夢だったかのような気がしてくる。
呆然と天蓬を見つめる金蝉に、天蓬は不思議そうな顔をした。
「どうかしましたか?」
余りに普段通りで。
もしかしたら無かったことにしてくれているのだろうか。
そんな都合のいい考えすら浮かんでくる。
いや、もしかしたら、本当に夢だったんだろうか。
タチの悪い悪夢。
狼狽して、言葉が出てこない。
何か言わなければと思うのに、いや、思うほど、言葉が浮かばない。
「か」
「か?」
天蓬が問うように少しかがんだ。
近くなった顔に、金蝉の混乱が増す。
「身体は、平気なのか」
咄嗟にそんな言葉が口を突いて出た。
何を言っているんだ俺は。
心配する権利が自分にあるのかと。
心配するくらいなら最初からやるなと。
狼狽え切っている金蝉を見て、きょとんとしていた天蓬が花が咲くように笑った。
「ええ、大丈夫ですよ。心配してくださったんですか?」
「……そりゃ、まぁ…」
やったことがやったことだけに、な。
苦虫を噛み潰したような顔をしている金蝉に、天蓬は嬉しそうな笑みを向ける。
その微笑みに、安堵する一方、胸のどこかがチクリと痛んだ気がした。
しかし、その胸の痛みの理由は解らない。
「ねぇ、金蝉。貴方に知らせるつもりはなかったんですが、バレちゃったので白状すると、僕ああいうことは慣れているので、平気ですし、気にしなくても大丈夫ですよ」
ざぁっと、血の気が引いた気がした。
真っ青な顔をしている金蝉を見つめて天蓬はふんわりと笑った。
どこか自嘲的なその笑み。
「……慣れてんのか」
あの日感じたどす黒い感情が再び満ちてくる。
どくどくと、脈打つ鼓動がやけにうるさい。
「ええ、まぁ。遊びばっかりですけど……なんて、貴方に軽蔑されちゃいそうですね」
視線を逸らせて、天蓬は寂しそうに笑った。
その顎を捉えて自分の方へ向けさせたい衝動をやりすごして、金蝉は掌を握りこむ。
「何で、んなことしてんだ…」
ぴくっと、天蓬の肩が震えた。
何かに怯えるかのように小さく息を逃がす素振りに、苛立ちがつのる。
怖がらせたいわけじゃないのに。
沈黙が落ちて。
そしてそれを破ったのは天蓬だった。
普段の彼からは想像もつかないくらいの小さな声。
「本当に欲しいものは、手に入らないから」
伏せた睫毛が落とす影がキレイだと思った。
この男の吐く弱音が愛おしいと思った。
ああ、そうか。
どす黒い感情の正体。
金蝉はやっとそれを理解した。
自分は、この男を。
天蓬の事が好きなのだと。
だから他の男に抱かれているのを見て、嫉妬し、手ひどく犯してしまったのだと。
「天蓬…」
急に触れたくなって、金蝉は天蓬へと手を伸ばした。
間にある執務机が邪魔でたまらない。
今、お前を抱きしめたいのに。
好きだから。
…………。
伸ばした指を握りこむ。
天蓬の言葉がゆっくり理解される。
『本当に欲しいものは、手に入らないから』
金蝉はゆっくり目蓋を下し、震える息を吐いた。
お前も、誰か手に入ら無いヤツを想っているのか?
やりきれない思いを断ち切る様に、金蝉はもう一度目を開いた。
席を立って、天蓬の肩を掴むと、天蓬は逸らしていた視線を金蝉へと戻した。
そして、ひたりと見つめて言った。
「でも、もし貴方がこんな僕を嫌悪したり、気色悪いと思ったりしないなら、できればこれからも親しくしてもらえると嬉しいです」
天蓬の顔に浮かんだ微笑に、胸が苦しくなる。
好きなのに。
何かを耐えるかのように眉根を寄せ、金蝉は天蓬を抱きしめた。
天蓬の重荷になりたいわけじゃない。
だから言えないし、言わない。
俺は自由なお前が好きなんだ。
手に入るなんて、思っちゃいねぇよ。
この思いは一方通行だ。
今は自分の顔を見られたくない。
だから天蓬を抱く腕に力を込めた。
「金蝉?」
戸惑うような天蓬の声に、どうしようもなく心が揺れる。
苦しくてたまらない。
こんな感情無かったことにしてしまいたい。
けれど、そんなことができるはずもなく。
だったら。
天蓬を抱く腕の力が更に強くなる。
だったら。
「俺が遊び相手になってやる」
だから。


だから……。


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