轍 −わだち− ◇7◇
表向きは平穏な日々。 なにも変わらない、いつも通り。 けれど、裏では確実に何かが変わっている。 音を立てて軋みだしている。 あの日から、まだ3日しかたたない。 「八戒」 珍しく八戒がまだ起きている時間に悟浄が家に帰ってきた。 日付の変わる大分前。 と言うよりは。 「さっき、出かけたばかりですよねぇ…?」 怪訝そうにきょとんとして八戒が言った。 「酒場で何かあったんですか?」 いつもと変わらない様子の八戒とは対照的に、言葉を押し殺したまま厳しい表情をしている悟浄。 促しても、黙ったままの悟浄に微笑むと、八戒はとりあえず座ったらどうですかと言った。 「コーヒーでもいれますか?」 キッチンに向かおうとして悟浄に背を向ける。 その無防備な背に向けて、悟浄が言った。 「お前……、美春になんかした?」 名前は、本当に知らなかった。 きょとんとして、振り返った八戒は同じくきょとんとした声音で問うた。 「美春? どなたですか、ソレ?」 そのどう見ても演技でない八戒の様子に、悟浄は毒気を抜かれたように間の抜けた顔をした。 「ええと…、酒場の女なんだけどぉ…?」 慌てて説明をするが、それがなんだかばかばかしい。 間違いであってほしいと言う気持ち、まさか八戒がと言う気持ちが相まって、悟浄はホッとしかけた。 「八戒、最近どっか出かけたりした?」 「ええ。そりゃ買い物とか出かけてますけど?」 「や、そうじゃなくてさ」 いったん言葉を切ると、八戒と目があった。 なにか……。 「お前、なんか隠してるだろ」 睨み付けた悟浄に、八戒が笑った。 「ええ」 さわやかに答えられて、悟浄のこめかみに血管が浮き出る。 そんな悟浄の様子を意に介さぬよう、八戒は悟浄に背を向けた。 「コーヒーでも、いれますか?」 カッとして彼の肩を掴む。 そしてこちらを向けさせると、もう一度問うた。 「美春になにしたんだ?」 「……」 ぎりぎりと掴んだ手から音がする。 八戒は、小さくため息をついた。 「美春さんって、茶色い髪の悟浄がしばらく前に泊めて貰っていた女の方ですか?」 驚いて悟浄が目を見開いた。 「最近酒場に来ないと思っていたらふらりと現れてってとこですか?」 くすりと八戒が笑う。 「お前……!」 「彼女の言ったことは、本当ですよ?」 信じたくなかった。 女の戯言だと、思ってしまいたかった。 他人のそら似だと思いたかった。 けれど、八戒は肯定した。 「彼女がなにを言ったかは知りませんけど、全部本当です」 悟浄の手が、震えた。 「僕が、やりました」 にこりと、いつものほほえみ。 「美春って、名前だったんですね」 「お前っ…」 「だって、名前なんてどうでもいいでしょう?」 鮮やかに微笑んだ八戒に、悟浄は薄ら寒いモノを感じて手を引いた。 「なんでっ……」 我ながら、陳腐な問いかけだと思ったが、悟浄の口からはそれしか出てこなかった。 「なんで、あんな事を…っ」 久しぶりに酒場に顔を出した彼女は、数日前に会った彼女とは別人だった。 身の内に玩具を忍ばせ、淫猥に微笑みながら男を誘う。 所かまわず誰彼かまわず媚びて、懇願し、抱かれ、そしてまた誘う。 酒場の女とは、もう言えないくらい。 ソレではただの娼婦。いやむしろ……。 「上手く、調教できたでしょう」 信じられない八戒の言葉。 「お気に召しましたか?」 手が出ていた。 思うより先に、八戒を殴り飛ばしていた。 「てめぇ……」 倒れ込んだ八戒の上に馬乗りになって、その胸ぐらを掴みあげた。 「アイツがお前になにしたっていうんだ!? んなことする権利がお前にあるのかよ!」 「権利なんて……」 不自然に言葉が途切れ、八戒は笑った。 「やっぱり、気が付いてなかったんですね」 その悲しい笑みに、悟浄の手がゆるんだ。 「な……に…?」 「権利なんて、ありません」 きっぱりと言って、戸惑っている悟浄を見る。 そして、その宙に浮いた状態の手を恭しく取り唇を付けた。 「貴方が、好きです」 「……っ、…冗談…」 手を取り返すのも忘れたまま、目を見開くことしかできない。 そんな悟浄を見て、八戒が目を閉じた。 そして、再び開いたときにはもういつもの八戒の顔をしていた。 「なんて、冗談ですよ」 身体から力が抜けて、悟浄はずるずると八戒の上に倒れ込んだ。 「重いですよ、どいてください」 くすくす笑う八戒の上から慌てて退くと、八戒はすっと立ち上がった。 「なにへたり込んでるんですか?」 笑いながら八戒に指摘され、慌てて悟浄は立ち上がると疲れ切って椅子に座り込んだ。 ふと、歩いた八戒の行く先が解らず目で追ってしまう。 「おい」 問いかけは最後まで言えず、八戒の言葉に遮られた。 「ねえ、悟浄」 八戒が、こちらを見て笑った。 「ありがとうございました」 ぱたんと、ドアが閉まる。 玄関の、ドアが。 意味を理解できず、固まったまま、見送ってしまった。 今、八戒はなにを? なにを言った? 慌てて後を追い、ドアを開くけれど、外にはもう誰の姿も見えない。 「冗談っ……」 無意識の呟きに、ふと彼の言葉を思い出す。 −冗談ですよ− どこまでが冗談で、どこまでが本当なのか…。 それとも全て嘘なのか? そうであって欲しい。 そういうことにしてしまいたい。 けれど。 −ありがとうございました− それは紛れもない肯定。 「なんでだよ」 訳が分からない。 なにがなんだか。 ただひとつ。 ただ一つだけ解ることと言えば。 八戒はこの家を出ていったということだけ。 そしてもう二度と戻らない。 |
花吹雪 二次創作 最遊記