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Be... Act.2 「縛(ばく)」 |
痛モノご注意!苦手な人は読まれないほうがよろしいかと。 |
『……』 『僕の事を軽蔑する視線も…同情するような大人たちの言葉も』 『…………』 『いつも曖昧なままで…中身なんかなくて、ただ意味も分からずにそうしてるだけじゃないか』 『…どうしてそう思うの?』 『みんな僕のことなんか見ていない!僕らしい僕のイメージを評価して!僕を見ようとしない!!』 『それもあなたの一部じゃないの?』 『違う!誰も「僕」を知らない!「僕」を好きにも嫌いにもなってくれない!!』 『ねぇ…シンジ。わたしは「シンジ」のこと──』 『黙れ…』 『「シンジ」のこと…愛し──』 『黙れぇええええええええええええええええええ!!!!!!!!!!!!!!!』 「────っ!」 僕ははっとして目を見開いた。 意識に掛かっていた霞みのようなものが一気に霧散する。 右手側の窓から差し込む明かりは意外なほど明々と輝く月影の色…。 ベッドの上には僕一人だけがいた。 先程までいたはずのアスカの姿はもうない。 汚れてしまったシーツも取り替えられていた。 僕はそれが無性に悲しくて、何となく泣きそうになった。 「…また独り…」 この惣流家には今、父親はいない。 仕事の関係でどこか外国に単身赴任しているらしい。 多国籍企業のエリートの彼は、滅多に家に帰っては来れないから、僕は余り顔も覚えていなかった。 母親はある研究機関の科学者らしい。 自ら取った特許を利用していくつかの会社も経営していて、やはり彼女も忙しかった。 いつも帰るのは深夜になる。 ただ、今の時間くらいには帰っているかもしれないから、アスカも自分の部屋に戻ったんだと思う。 昔からキョウコさんは鋭かったから、多分全部知っているんだろうけれど…。 この部屋は「僕の」部屋だ。 五年前、僕がこの町を飛び出したときに、本当は僕もここへ引き取られるはずだったから。 その時からキョウコさんは──つまりアスカの母親は、僕をずっと待っていたといった。 僕が今でもここにいるのは惰性かもしれない。 ここに戻ってきてからもう三日になるけど、僕はいまだにレイとは一言も口を聞けなかったから。 ただ僕は僕を必要としてくれるアスカに縋り続けて、とうとう今日、最後の一線を超えてしまった。 このままじゃいけないことは分かってるんだ。 こんな流されるままの生き方はもう止めなくちゃダメなんだ。 それなのに僕はこの嘘か本当かも分からない温もりに触れて、ここから先に進めないでいるんだ。 「…もう嫌だ…」 幸せが怖いのかも知れない。 うまく行かない事を無視できる代わりのものが怖いのかも知れない。 代償のないそれらが、今ここにいて良いと肯定してくれる他者の存在が。 僕は肩を抱きしめてベッドに潜り込んだ。 それでも…。 アスカのいないベッドは信じられないくらいに冷たかった…。 「アスカちゃん…あなた…」 「ママ…」 階段を下りるアスカを呼び止めて、キョウコは哀しげに声をかけた。 娘の行動の意味は全て分かっていたから、取り繕うように寝巻きを直そうとした彼女が却ってわざとらしく見えた。 黙りこんでしまったアスカを眺めている。 全て最初から分かりきっていたこととは言え、キョウコはどうしようもない遣る瀬無さを覚えていた。 こうなる予感はあったのだ。 シンジを引き取ることを決めたときから全ては…。 アスカの気持ちも分かる。 漂う雲のようにふらふらと掴み所ないシンジの気持ちを不安に思うのも、『可哀想過ぎる』彼を同情する気持ちも。 けれども…。 「ママは…アスカちゃんの気持ちには何も言えない…でも…それがもしかしたらあなた達二人にとって辛いことになるかも知れないの」 「…分かってる…」 聡明な彼女にはそれも既知の事だった。 このままではいけない。 このままではシンジはがんじがらめになって、いつかは壊れてしまうだろう事も分かっていた。 でも、どうしようもなかった。 どこにあるか分からないシンジの気持ちをしっかりと捕まえておきたくて…だから…。 「…ごめんなさい、ママ…でも」 「ううん…怒っているわけではないの…。こうなることを承知でシンジ君を引き取ったのよ。 あの時から、シンジ君がこの町を飛び出してしまった時から、あなた達にとってお互いがどれだけ大切だったかは全部分かっていたから」 アスカはその時から心を閉ざしてしまった。 何時も自分を一番に見せて、弱さを隠そうとしてきた。 本当は捨てられることに何より敏感なくせに、だからこそ捨てられる前に捨てる人間になってしまった。 キョウコもそれを見るのが辛かった。 シンジを救ってやれなかったことをずっと後悔して来たのだ。 だから二人が結ばれることには何の疑問も抱かない。むしろ祝福してやりたいと思っている。 でも…若すぎる二人にはそれは重課にしかなり得なかったから。 特に求められることを、求めることを恐怖しているシンジにはそれが彼を縛り付ける枷にも見えるだろうから。 キョウコは深いため息をついた。 「アスカちゃん…何があっても、シンジ君を見ていてあげてね?でないと…」 「…うん、分かってる」 「あの子が例えあなたを嫌いだと言っても…何があっても…」 「…………」 アスカは何も答えない。 自信は無かったのだ。 もしもシンジに完全に否定されたら、それでも自分はシンジを好きと言い続けられるだろうか…。 分からなかった…。 「レイちゃんも…」 「…?」 「レイちゃんももしかしたらシンジ君が好きなのかもしれないわ…ずっと前からね…」 「!…そんな…だってレイはシンジを…」 唐突にキョウコの口から告げられた事実に、アスカは驚愕する。 それはそうだ。 なぜならレイはシンジの妹であり、そして…。 レイは、シンジを憎んでいるのだから。 彼女を虐待しつづけた悪魔だと…。 「…哀しいことが起きるかも知れない…」 ぽつり、と。 キョウコの口から漏れた言葉が、少し薄暗い階段になんどもぶつけ、反響していた。 人工的な白熱灯の明かりが、無性に寒々しかった。 音のない部屋の中で、僕は再び浅い眠りにつく。 夢を見ない暗闇だけのそれに…。 色のない辛いだけのそれに…。 僕は何時ものように魘される。 夢も見ていないのにも拘わらず…。 冷汗が流れる。 実体のない、ひどく曖昧なものが僕を苦しめる。 それはきっと僕の悲劇的といっていい過去に関連のあるトラウマなんだと思う。 安らかには眠れない。 現実の世界に不安が多すぎて、容易く夢を見ることを僕自身が許容しないんだ。 深夜になって突然苦しみ始めて、絶叫を上げながら助けを求める母さんを慰めなければならない。 ただ、正気を失った母さんは僕のことを父さんと勘違いして、僕に抱きしめられることを望んでいた。 僕には出来なかった。 出来るはずがないじゃないか…。 僕は愛されない。 彼女は彼女のために僕を愛したフリをし続けていただけないんだ。 言い訳じゃなく、好きだと言ってくれたのは…。 …………。 馬鹿だな…。 僕は我が儘だ…。 そこまで想到して、僕は深い自嘲に捕らわれる。 僕は身勝手で…ずるい。 結局僕だって母さんと同じ種類の人間になってしまっているのに。 僕はそうやって人に不満ばかり押し付けて、そのくせ自分では何も出来ていないじゃないか…。 レイに好きだって言ってあげてないじゃないか…。 一方的に捨てられたと思い込んで、何もしてやってないじゃないか…。 だからみんな僕を離れていくのかな…。 「…でも、好きって…僕に言えるのかな…」 「…あなたの気持ちを言えばいいわ…」 「────!!」 無意識的に、寝言にも似たことを呟いた僕の言葉は、思いがけずに現実の世界から答えを返された。 急速に回復していく意識の中で、僕は現前にある信じられない光景を凝視していた。 まだ明るい月影の下に、美しい妖精が舞い降りたように…。 蒼い髪と紅い瞳の…幻想的過ぎてどこか危うさを帯びた存在がそこにいた。 闇に映える白い肌を隠そうともせず、一糸纏わぬ姿の彼女はそれでも表情のないまま淡々と僕を見下ろしている。 信じられないくらいに冷たい指先が僕の首筋に掛けられて、締めると言うには優しすぎて、撫でると言うには強すぎる力で触れていた。 僕は訳が分からずに彼女の綺麗な相貌を見上げていた。 その眼差しはきっと、ほとんど自殺願望者の目だったかも知れない。 このまま殺してくれるならそれもいい。 そう思って眼を閉じようとしたら、彼女は首を左右に振って否定した。 それからそっと仰向けになった僕の上にしな垂れかかるように身を預けてきた。 甘い香りと圧し掛かる体重に、僕は少しだけうめき声を上げる。 「…何故?」 「…え…?」 唐突に呟いた彼女の言葉に、僕は少し間抜けな声で返した。 彼女は僕の胸に顔を着けて囁くように言った。 「…何故あなたはわたしに殺されたがるの?」 「……」 「首をしめるとね…安らいだ顔になった…」 「そうすれば全部楽だから…」 そう、そのために僕はこの町に帰ってきたんだ。 彼女の手に掛かって死ねるのなら、僕にとってそれが一番心地いい死に方なんだ。 「生殺しのまま生き続けるよりはずっといい…」 「…そう…」 そう呟くと、彼女は僕の背中に手を回して軽く抱きしめてきた。 僕はされるがままで彼女を受け入れる。 彼女の意図が何なのかはよく分からない。 ただ僕は流されるだけだ…。 ふと…。 僕はある事に気がついて顔を上げた。 その表情は例えば驚愕にも近い歓喜だった。 濁り切って透明さのない僕の、それでも精一杯の笑顔が漏れる。 僕はおずおずと彼女の素肌に手を伸ばして言葉を滑らせていた。 「やっと…」 「……?」 「やっと口を聞いてくれた…」 「…………」 思えば僕は生まれて初めて彼女と『まともに』話をしているのかも知れない。 僕が彼女を虐待し、それを繰り返していた頃は、僕は彼女を自分と同じ存在だとは思えなかったから勿論話などしなかったし、 僕が自分の罪を知ってからは、それどころではなく、毎日彼女と顔を合わせるだけで恐怖が僕を苛んでいたから。 僕の願いは少しだけ叶えられたのかも知れない。 「僕は…君とずっと話がしたかったんだ…」 「…そう…」 「僕の話を聞いて欲しかった…そして僕を殺して欲しかった」 「…………」 彼女はそれには何も答えなかった。 代わりに別なことを口にする。 「今思えば…あなたはずっとわたしの味方だったのかも知れない…」 「……!」 僕は息を飲む。 思いもよらない彼女の言葉に僕は何も言えなくなってしまっていた。 呪いの、恨みの言葉が吐かれる事だけを予想していた…。 否、期待さえしていた…。 或いはそう思い込むことで辛い現実に耐えようとしていただけかも知れない。 僕は驚愕の眼差しでただ彼女を凝視するだけだった。 「これからもずっと…味方でいてくれる?」 分からなかった…分からなくなった。 それは確かに僕を嬉しくもさせたけれど、同時にもっと怖くなった。 嫌われるよりも、捨てられるよりも僕は怖くなった。 「ずっと…捨てないで」 「────!!」 僕は声にならない悲鳴を上げる。 何の前触れもなく唇に押し付けられた彼女の唇が異常なほどの熱を帯びているのを感じた。 彼女は僕の反応を無視して、僕の服を脱がせようとしてきた。 驚いた僕はとっさに起き上がって、軽い彼女の体を突き飛ばしていた。 彼女はベッドの下に尻餅をつく。 暫く呆然としたまま僕が見ていると、彼女は何事もなかったかのように静かに立ち上がった。 僕は荒い息を繰り返す。 彼女は逆に息一つ乱さずに僕の方を観察するように眺めていた。 そして…。 「────!!」 笑った。 彼女は笑っていた。 心を壊された人形のように。 くすくすと、さも可笑しそうに。 僕は凍りついたまま、闇の中で響く彼女の声を呆然と聞いているだけだった。 知っていたから…。 この笑い声が…母さんのそれとそっくりだと言うことを。 「くすくす…結局あなた、自分が怖いから許されたがってるだけなのね」 「違う…」 「わたしの事なんてどうでもいいのよ…」 「違う!!!」 違う…違う…違う。 本当にどうでもよければこんなに辛くはないんだ。 何よりも大切だと思うから僕はこんなにも苦しんでいるんじゃないか。 多分それだって僕への言い訳かもしれないけど…。 それでも今苦しんでいる自分は本当なんだ。 どうでもいいモノが壊れても、僕はこんなに痛くない。 「なら…証拠を見せて…」 「…証拠?」 「わたしを今ここで抱くか…それともわたしを殺すか…」 「なっ、そんなこと…出来る訳ないじゃないか!!」 出来るはずがない。 妹を抱くなんてことも、殺すなんてことも。 それが出来ていれば、今こんなところに僕はいなかったろうから。 何故彼女はこうも即物的で…形のある愛を求めるのだろう。 証明を欲しがるのだろう。 まるで愛されると言うことを知らないように…。 …………。 ああ、そうか…。 僕のせいなんだ…。 僕が彼女をこんな風にしたんだ。 「…意気地なし」 僕は何もいえなかった。 窓から差し込む明かりが映し出した彼女の影に隠れて、僕は人形のように白い顔をするだけだった。 彼女は窓の方へ進み、窓をすっと開ける。 くず折れるように、僕は膝をつく。 そんな僕から視線そらして、月を眺めながら彼女が呟いた。 「明日…デートしましょう」 さわさわと、夜の風が流れる。 冷たい空気の中に、やはり流されるだけの僕がくっきりと浮かび上がっていた。 まるでこの世界から、僕一人だけがはじき出されたように…。 縛(ばく)…。 僕を縛るものも、開放するものも…全ては、愛と名付けられた狂気だった。 僕は乾いた笑みを浮かべる。 「僕は本当に、何を期待していたんだろう…」 消え入るような声で呟いた僕を、振り向いた彼女が凍てつくような視線で見ていた。 |
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