艶めいたものはとかく曇りやすい。
 メッキされた鉄くずのように、外側だけが綺麗でも、僅かに空いた隙間から膿が染み込むように錆付いていく。

 餌が在れば喰らい、敵が居れば殺す。
 それはつまり僕にとって生きるということそのものだったのかも知れない。

 何が理想的かといえばダニのような…。

 不幸は僕を苛まない…。
 でも…。






 『幸せじゃないの?』






 うるさい!

 毎日毎日生きるだけで辛い…もう飽き飽きなんだ。
 幸せも不幸も無い。

 息を吸って、吐いて。
 食べて…寝て。
 女を、性欲か愛かよく分からないものと一緒に貪って。

 何もかも、嫌になって…。


 「…………」


 水も、餌も。
 汗に、涙に、便に、精液に…溶けて変わって、でも。

 何も変わらない…ただそれだけを繰り返すだけ。


 「じゃあ、誰でもいいから僕に『生』の定義を教えてくれ」






 『わたし?…生きてるじゃない?』

 『死んでないじゃない?…ずっとそばに居るじゃない』






 「なら、死の定義は?」






 『そうだね…自分が「生きてる」かどうかなんて言わなくなった時かな?』

 『だからシンジ…あなたも「生きて」いるよ』







 僕も?
 生きてる?
 僕が?

 死の定義は…。

 笑わせないでくれ!!


 「人形に未来なんて在るか!!!」



Be...
Act.1 「唇(くちびる)」
痛モノご注意!苦手な人は読まれないほうがよろしいかと。




 「遅いな…」


 駅前の喫茶店でアイスコーヒーをかき混ぜつつ、僕は少しだけ不機嫌そうに呟いた。
 それもそのはず、ここで待ちつづけることこれで二時間。
 不安と緊張を抱えながら、ともすれば震えて立たなくなる膝に力を込めながら、だ。
 いい加減そろそろ我慢の限界に来ていた。

 待ち合わせの相手は妹のレイだ。
 今でも覚えている、あの悪夢の途切れた五年前から一度も顔を合わせたことは無い。
 三歳年下だから、今は中学二年生になっているはずだ。

 本当は、二度と会うつもりは無かった。
 いや、会う資格はないと思っていた。
 母親を殺した、そして彼女自身を虐待し続けた兄を、彼女が許せるはずは無いだろうから。
 会うとすれば彼女が僕を殺してくれる時だけだと思っていた。
 それなのに…。

 五年目になって届いた彼女からの一通の手紙。
 一切の恨みも無く、ただ淡々と会いたいとだけ書かれていた。
 その意図はまだよく分からない。
 彼女が僕をどう思っているのかも…。

 その彼女と会うために僕はここに居る。
 ただ…。
 それはそれとして気に掛かることが一つ…。






 ……何なんだろう…この娘は…。

 僅かに視線を上げ、ちらりと窺ってみる。
 その先に見えるのは、信じられないくらいに可愛い…と言うか、綺麗な赤毛の女の子だった。

 長い髪がさらさらと柔らかそうに揺れている。
 妙に艶のある唇は、思わず触れて見たくなるほど扇情的だ。

 そんな女の子が僕の前に座っている…いつの間にか、それも当たり前のように…。
 いや、そのことについては嬉しくない訳ではないけど…でも。


 「…どちらさまですか?」

 「…………」


 …物凄い眼で睨まれた。
 まるで、ここにアタシがいちゃダメなの?…とでも言わんばかりに。

 もちろん悪いわけではない。
 ただ意図不明な行動に少し戸惑っているだけで…多分僕に非は無いことに疑いは無いだろう。

 変な人だな…。

 回り中の視線を集めている。
 それはもちろん、彼女が余りに美少女だからというわけなのだろうが…。


 「だから…何か御用ですか?」

 「…はぁ」


 何故か溜息を吐かれた。
 さもウンザリしたとでも言うように。
 それから暫くして、彼女は大袈裟に肩をすくめながら妙に尊大に言い放った。


 「何言ってんのよ、このバカシンジ!幼馴染のこのアタシを忘れたってぇの!!?」

 「…?」

 「まだ思い出せないの?アタシ、惣流アスカよ!」

 「────!」


 それを聞いた瞬間に、僕の心臓は爆発しそうなほど鼓動を繰り返した。
 冷汗が流れ、嘔吐感が襲ってきて、思わず口元を抑えてうめいていた。

 がちがちと歯が鳴る…それは明らかな恐怖だった。


 「ちょ、何やってんのよ」


 彼女が身を乗り出してきて僕の背中に触れた。
 電流が走ったように、僕は更に身を固くする。

 彼女は僕が何をしたかを知らない。
 僕の本当を知らない。

 今更顔を会わせる積もりも無かったのに、こんな風な形で再会するなんて…。

 僕は彼女の手を乱暴に振り払って立ち上がると、取り乱したままで入り口の方へ向かって歩き出した。

 急いで会計を済ませ、入り口のドアのノブに手をかけて、そして。
 引こうとした…。

 しかし…。

 回転し掛けた僕の腕は空回りしていた。
 ドアはひとりでに開かれ、代わりに僕の目の前にあったのは…。


 「────!!!」


 脂汗が噴きだした。
 小刻みに振動を繰り返す足首は既に僕自身の体重を保てなくなっていた。

 目の前が暗くなって…僕は前のめりに倒れこむ。

 そのときに何か柔らかいものを巻き込んで、思い切り抱きしめていた。
 僅かに漏れた甘いうめき声が僕の頬にさわりと触れた…。

 僕は僕が分からなくなる。
 夏の日差しが陽炎を映すアスファルトの地面が、不自然なほどゆっくりと近づいてくる。

 朦朧とした意識のまま僕は叩きつけられた。
 そのときに、何故か暖かいものが僕の唇に触れた。


 「──む…ん!」


 不思議と衝撃は無かった。
 何かクッションなようなものが、僕にとっての緩衝材の役目を果たしていた。

 著しく思考能力の停止した脳で考える。

 理解は出来ない…眼前に見えるものは…蒼い…そして、赤い…。
 柔らかい感触。
 懐かしくて恐ろしいモノ…。

 唇をふさぐ暖かいもの…。
 優しい感触。

 それは、罪…。


 「────っ!」


 何かに気付いて、僕は半身を起こし、目を見開いた。
 体の下に組み敷いた『彼女』が、僕を冷たい視線で見ているのが分かった。

 『彼女』は仰向けになったままで淡々と言葉を紡ぎだしていた…。


 「…どいてくれる?」


 僕はとっさに口元を抑えていた。
 赤い視線が僕を射抜いている。


 「ご、ごめん…」


 慌てて身を離す僕。
 『彼女』は全く取り乱した風も無くゆっくりと立ち上がった。

 落ち着いて、いや、むしろひどく緩慢な動きで服についた埃を払っている。

 パタ…パタ…。
 振り払うイメージが、僕への拒絶にも見えて…。

 僕の方を見ようともしない…。
 耐え切れなくなった僕は僅かに視線をそらす…。

 …と。


 「────!」


 突然に僕は右腕を捕まれて、引っ張られていた。
 目を向けると、アスカの顔があった。

 少しだけ強張った表情で、彼女はそのまま埃を落しつづける『彼女』の腕も掴んで強引に店の中へ引き入れる。
 何事があったのかと、様子を窺ってくる環衆の間を抜けて。

 抵抗しようともせずに、僕たちは引き摺られていく。
 僕の生き方のメタファーのように。

 漂うだけの僕に相応しく…。


 「レイ…?」


 それでも埃をはたき続ける『彼女』に、アスカが声をかけた。


 「…落ちないのよ…汚れが…」

 「ちょっと…レイ、アンタ何言って…」


 『彼女』は──レイは、それも無視して今度は唇をハンカチで拭い始めた。
 まだ感触の残るそこを…僕のそれが触れていった場所を。

 無表情が却って衝撃的だった。
 僕は喉を掻き毟りたいくらいに息苦しかった。


 「…気持ち悪い…」

 「────!!」


 暗転…。
 今度こそ僕は意識を失っていた…。

 いや、完全には失っていなかったのかも知れない。
 ただ、それからアスカに引き摺られて帰る道を、僕は一切思い出すことは出来なかった。
















































 『もう嫌だ…』

 『……』

 『もう嫌になった…』

 『分かってた事じゃないの?あの娘があなたを許す訳無いって…』

 『分かってるさ…でも、違うんだ』

 『違う?』

 『レイは僕を怨んでいるだけじゃない…僕を否定しているんだ…』

 『それも分かってたことじゃない?』

 『僕を見ていないんだ…僕を殺してもくれない…』

 『……』

 『もう嫌だ…』

 『……弱虫』
















































 「…僕は何を期待してたんだろう?」

 「え?…あぁ、気がついた?」


 目を開ければ、そこにあったのはアスカの顔だった。
 当たり前のことだけど、そこにレイの姿は無かった。

 余り冴えない頭で、辺りを見回す。

 赤い…。

 全体的に赤い色を基調とした内装が広がっている。
 炎のように躍動的で居て、血のように生臭い感じがした。

 僕が今居るこのベッドは、平常の主人のものか、微かに甘い香りがした。
 鼻腔を刺激するそれを少しだけ吸い込んで、僕は問い掛けるようにアスカの顔を覗いていた。

 見詰められて、きょとんとしている。
 僕は何となく、無意識的に手を伸ばして彼女の頬に触れていた。


 「なっ」


 刺激に、というより僕の突然の行動に反応して、彼女は一歩だけ引いた。
 僕の腕はやはり空振りして、手持ち無沙汰になったそれは何度か開閉を繰り返した。

 いつもあと一歩で欲しいものが手に入らないんだ。
 どれだけ手を伸ばしてもみんな逃げていく…。


 「…期待するから惨めなのかな…」

 「?…何よ、いきなり」

 「分かってたんだ…レイが僕を許すはず無いなんて、そんな当たり前すぎること」

 「……」


 アスカが僅かに緊張するのが分かった。
 彼女は案外、知っているのかもしれない。
 何もかも…僕の犯した罪も…。


 「…アスカでもいいや…」

 「…何がよ…」

 「僕を殺してくれ…」

 「!──何バカなこと言ってんのよ!」


 そう言って彼女は僕の胸倉を掴んで引き寄せた。
 抵抗しない僕は、簡単に起こされて、力の抜けた首が糸の切れたマリオネットのようにかくんと揺れた。


 「…理由なら今すぐ作ってやろうか?…このままここで君を犯してやってもいいんだ…」

 「──!」

 「そしたらアスカも母さんみたいにおかしくなっちゃうのかな?…クスクス…」


 アスカは何もいわずに、ひどく強張った表情のまま僕の眼を見詰めるだけだった。
 正気を失った、焦点の定まらない目で僕は見返す。

 僕は緩慢な動きで彼女の肩に手をかけると、そのまま強く引いて回転する要領で彼女との体勢を入れ替えていた。

 驚きに目を見開く。
 少しだけ怯えたその様子に、僕は何故か満足した。


 「僕が去年までどこに居たか知ってる?」


 彼女は何も答えない。
 僕は気にせず、今度は空いた方の腕で彼女の肩を掴み、ベッドに両肩を押さえつけるようにした。

 くぐもった声が漏れる。
 僕は体の力を抜いて、彼女と胸が触れ合うように体を重ね合わせた。


 「少年院にいたんだ…学校の友達をレイプしてね…」

 「…………」

 「最後は気持ちよさそうに自分から僕を求めてきたくせに、その娘次の日に飛び降り自殺しちゃったんだ…。
 死体はもうぐちゃぐちゃでね…あはは、全くバカみたいな死に方だったよ!!」


 僕はほとんど彼女と唇が触れ合わんばかりに近づいて、さも憎々しげに吐き棄てていた。
 アスカはその様子に却って冷静になったのか、僕を軽蔑するような眼差しで見返した。

 僕はその目が気に入らなくて、右腕を彼女の首の後ろに回して強引に唇を奪っていた。


 「ん…く…はぁ」


 抵抗は無い。
 不審に思った僕は一度身を離して彼女の相貌を見詰めた。

 意思のある目をしている。
 いつも僕に抱かれる女の死んだ魚のような目でも、怯えるウサギの目でもなく。

 僕は思わず問い掛けていた。


 「何故…」

 「何も分かってないのね、あんた」

 「…何が言いたいの?」

 「あたしがあんたを殺してやると思ってんの?」

 「──っ」

 「最低ね…勝手に期待して、裏切られて…それでいて自分はいつ裏切られてもいいように人を信じようとしない。そんな風にしか生きられなかったの?」

 「うるさい…」

 「…それに…」


 僕は唇をかんで耐えていた。
 いつもそうなんだ。
 みんな奇麗事しか言わない。

 僕を好きにも嫌いにもなってくれないくせに、それを僕だけのせいにしようとするんだ。
 僕の事をどうでもいいと思ってるくせに、僕が人を、生きることをどうでもいいと思う権利を認めない。

 詭弁で誤魔化して。
 気がつけば僕は一人なんだ…。

 所詮人形は愛されない…。
 分かりきったことなのに曖昧にしようとするんだ…。


 「それに…」

 「うるさい…」


 僕は彼女を抱きしめる力を強める。
 それ以上何も言わせまいと…。


 「それに…アタシは…」


 それでも彼女は続けようとする。
 僕は怖くなって身を竦ませた。


 「アンタのこと…ずっと待ってたの…」

 「!──な…にを…」

 「…さっきのはアタシのファーストキスよ…」

 「────!」

 「アタシ…」


 とっさに僕は耳を塞いでいた。
 それ以上聞くことを僕の中の深い部分が許さなかった。

 しかし…。
 彼女は残酷な宣告を、今になって僕にする。
 あの時聞けなかった、聞きたかったはずの言葉…。

 それを今更に、僕がダメになってしまったあとで…。

 それを聞くことがただ苦痛でしかなくなってしまった僕に…。


 「アタシ…シンジが好きよ…」


 衝撃が僕の体を駆け抜ける。
 僅かの高揚感と、凄まじいまでの痛みを伴って。

 僕は何も言えなくなって、気がついたら頬を一筋の滴が伝っていた。

 今までで二番目に熱い涙…。
 僕はただ、嗚咽をあげて泣いた…。

 かたりと、ドアの向こうで何か物音がした。
















































『…痛いだけだ、泣くのなんて』

『……』

『ずっとそうなんだ…』

『でも、探してたんじゃないの?』

『…そうかもしれない』

『見つけた?』

『まだだよ…多分』

『そう?』
















































 「…何故…?」


 赤い瞳が覗いていた。
 シンジが泣き崩れるさまに、何の感慨も見せずにただ冷厳な眼差しを向けている。

 僅かに隙間の空いたドアが軋む。

 暫くの後に、彼女は踵を返して階段を降り始めた。
 その口元に、押さえつけるように右手を重ねながら…。


 「感触が消えない…洗っても落ちない…」




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XIRYNN
「今回はちょっとだけ救いあるお話、かな?
今のところそれほど痛い展開では無いように思いますが…うぅむ。
それよりもこのまま指定モノにならずに済むかが心配かな…。(汗)
なんて言いつつ、次回話は微妙。
指定は、ないと思いますが…。
難解な表現で、結構たくさんの人に誤解を与えたみたいです。(汗)
これも加筆修正…レイがより意味不明になりました<おひ」

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