いちごぼっくり物語

[その26]

いんげんどじょうはすこし離れた池のそばの大岩の上で、いい調子で尺八を吹いていた。
いちごぼっくりが大声で怒鳴った。
「いんげんどじょう。」
いんげんどじょうはいちごぼっくりの顔を見ても大して驚きもせず、吹きかけた旋律を最後まで吹いてから言った。
「あれ、君も来たんだ。」
「呑気な人ねえ。あんた自分がどんな状況かわかってるの。」
「僕はたぶん死んでしまったんだろう。はじめは戸惑ったけど、いまはとてもいい感じなんだ。君に感謝したいくらいだよ。」
「困った人ねえ。とにかくすぐに一緒に帰りましょう。」

「……うーん。僕は帰らないことにするよ。」
「なに馬鹿なこといってんのよ。」
「いままで僕は、何時でも何処でもなんか居心地が悪かったんだけど、此所に来たらそれがなくなったんだ。それに何かやり残したことや心残りがあるわけじゃないし。」

「あのねえ、そんなことどうでもいいの。私はどっかの偉い先生が言うような、もっともらしいたわごとを言うつもりはないのよ。この世で有意義な生活をしなさいとか。生まれてきたからには何かを学んだり、成し遂げたりしなければならないとか。永遠からみればどんな時にどんなことしてたって優劣なんかありゃしないもの。」

「へえ、わかってるじゃん。死神が乗り移っちゃったんじゃないの。」

「うるさいわね。私は自分に我慢がならないの。いい気持ちでダンスを踊ったら、突然あんたらが死んじゃうなんて私には許せないの。どうしてもここに来たいのなら、一旦戻ってからにしてよ。」

いちごぼっくりは顔を真っ赤にして抗議した。
「それにあんたが帰らないと畑男だってこっぴどく叱られるんだから。」

この時いちごぼっくりは、自分の視界になにか赤いものが横切ったことに気づいた。それはすぐそばの池を泳ぐ一匹の真っ赤な鯉だった。
「ははーん、あんたが戻りたくない本当の理由がわかったわ。あの鯉ちゃん、なかなか色っぽいグラマーじゃない。どっかの誰かさんによく似てるわねえ。」
「そ、そんなことないよ。」
「言っとくけどね、ここは『チベットの死者の書』でいえばバルドと呼ばれているところなの。魂がほんの一時的にさまようところよ。あの可愛い子ちゃんだってすぐにここから消えていくはずよ。…その点紅子はまだあの池にいてあんたを待ってるかもね。」

いんげんどじょうは持っていた尺八を脇に置き、じっと空を見上げた。「…わかったよ。帰ることにするよ。まあ僕としてはここにいても帰るにしてもあまり変わらないんだよね。」
「ペシミストのあんたが言いそうな台詞ね。少しはあの壷じいさんを見習いなさいよ。」
「ああ、あのじいさんか。うんざりするほど元気がいいよね。」
「いまの世の中、うんざりするくらいじゃないとやってけないわよ。」
「うへー。やっぱり帰るのよそうかなあ。」

「さあ、さあ、それではこれから死神に指示された所まで戻るわよ。」



 


 


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