音楽の良し悪しって何だろう。 (1998.12.13)


音楽の良し悪しを人はどう評価するのか、考えてみたいのである。

「このサイトは音楽の良し悪しの指南にはならないと思います」とか言っておきながら、早速手のひらを返すようではあるのだが。

たとえばこういうことである。いわゆるオーケストラの編成の曲があって、調性もはっきりしていて比較的平明だとする。そこにいきなりヘビメタなギターソロが割り込んで来る。ギュイーンとかズンズンズンズンとか。

これはかなりヘンである。ヘンである、ということは、ある基準に照らして「良くない」と判断している、ということでもある。「斬新で面白い音楽」と思っているのとは違うのである。

何故だろう。いいではないか、ヘビメタズンズン協奏曲 変ホ短調。今まで誰もやったことのない音楽だぞ。なんてちっとも思えないのである。

実はこれは筆者の実体験である。テレビで偶々見てしまったのだが、イングヴェイ・マルムスティーンの「エレキギター協奏曲『新世紀』」。いやつまらないの何のって。

ファンの方ごめんなさい。このくらいにして話を先へ進める。

ところが、これがオーケストラにエレキギター、エレキベースそれにドラムセットが入って弦と一緒にズンチャカブンチャカやっているシュニトケの「合奏協奏曲第2番」なんかになるともう、可笑しくってしょうがないのである。ああああ、やめてくれシュニトケ、腹の皮がよじれる〜。

(ところで、アルフレート・シュニトケ氏は今年8月に63歳で亡くなられました。遅ればせながら謹んでご冥福をお祈り申し上げます。)

この違いを作るものは、いったい何なんだろう、ということから、音楽の良し悪しとは何であるかに、ちょっとは迫ってみたいと思うのである。とはいえ、かなり大雑把な議論になる予定なので、あまり真剣に考えずに一緒にてきとーに楽しんで頂ければ幸いである。

何でヘビメタ協奏曲はダメで、ブンチャカ合奏協奏曲はOKなのか。これは実はかなり面倒な話だと思う。

多分、我々は音楽をいくつかのプロトタイプ、まあ典型ってことですが、と比較することによって評価しているのだろう。それは「ジャンル」という外在的なものとは違って、各自の音楽体験によって微妙に成り立ちが違ったりするであろうことは、音楽の好みが百人百様であることからも推測できる。だが、それによって音楽の良し悪しを判断するメカニズム自体ついては、結構皆同じだったりするのではないか。

単純化するとこんな感じである。あるプロトタイプ(例:俺にとってはこれこそがロック、なんだよなあ。みたいな曲のイメージ)に似ているものについては、そのカテゴリーにおける「良いもの」として評価する。しかし、そのプロトタイプとほぼ完全に一致するものについては高く評価せず(ただの物真似とかパクりとか、ですな)、むしろ、一定以上離れない範囲で差異のあるものを、その差異により高く評価する。その一方で、一定以上このプロトタイプから離れたものについては低い評価を与えるか(質の落ちるフォロワー)、全く評価しない(ヘンな曲)。

これだけなら話は簡単である。だが、実際は「どのプロトタイプからも大きく隔たったもの」が、そのリスナーの中で新しいプロトタイプ/カテゴリーを立ち上げてしまうことがあると思うのだ。それが前述のシュニトケのような例である。

これはどういう仕掛けによるものなのだろう。知識が足りないのであまり展開できないが、ある種のショック効果みたいなものか、という推測はできる。つまり、あまりに違いすぎて、今まで音楽の価値判断基準に使ってきたフレームワークで評価することができないため、仕方なく別のカテゴリーを立ち上げ、そこに収めることでやっと納得するというか、ホッとするというか。

この「新しいプロトタイプ/カテゴリーの立ち上げ」というのは、言い換えると「言語化」ってことなのだろう、と思っている。つまり、それまで見たこともないような物事や状況に対して、言葉による解釈を与えてやることにより、認識の枠組みの中に位置づける、という行為と同じ仕掛けではないか、ということである。卑近な例で言うと、どうにもおさまらない怒りなんかを言葉に出していくと落ち着ける、なんてことがありますよねえ? あんな感じとでも言うか。卑近すぎます?

実は音楽を聴くということは、「感覚」ではなくて、感覚されたものをどう「認識」するかに関わる行為なのだろう、と思うのだ。

一応、これで「聴取者にとって全く新奇な音楽が、ある評価の位置を得るメカニズム」についてはそれなりの仮説が立ったものとする。しかし大雑把だなあ。あまり突っ込まないで下さいな。先行きます。

すると気になって仕方がないのは、このショック効果を引き起こすレベルには至らないものの、既存のメジャーなプロトタイプからは逸脱している、「中途半端に独自な」音楽のことである。このサイトの「図書館天国」でも実際、(元々がお気楽音楽評を目指しているせいだが、)こういう音楽をかなりの数、バッサリと切り捨てている。しかし、今では筆者の中で大きな位置を占めるMPB(ポスト・ボサノヴァのブラジリアン・ポップス)にしても、最初はそのような存在だったのだ。特にカエターノ・ヴェローゾなんか。それが自分の中である重要性を持って立ち上がったのは、どういう成り行きによるものだったかと考えるのだ。

ここから先は益々個人的な体験に根ざして書く。訳がわからんかったらすんません。先に謝っときます。

そこでは二つの効果があった気がする。1つには、音楽自体が発火点に達する程度の違和感を備えていたこと。カエターノの場合は何枚か聴いてピンと来なくて、その末に出会った「シルクラドー」という1枚がそれに相当した。やっぱり、そういうレベルのショックが一度はないとダメなようではある。そしてもう1つはやはり、言葉なのだ。これほど、トロピカリズモやMPBというものが語られていなかったら、彼は自分にとってここまで重要なミュージシャンであったろうか、と考えると甚だ心許ないのだ。

それは、一方では「言葉に騙されている」と言えてしまう事態なのだろう。だが一方で、普段繰り返し好んで聴いている音楽以外に関心が向かない状態というのは---それは非常によくある、普通の状態だとは思うのだが---、そういう固定化した評価体系の中に閉じこめられている状態なのであって、それは一種の「言葉の牢獄」のようなものだと思うのだ。

だから、そこを離れて、自分にとって新奇な音楽を自分の聴取体験に取り込むためには、多かれ少なかれ言葉を媒介とせざるを得ない。このサイトで延々とああでもなくこうでもなく音楽を語り続けている動機の一つは、こういった考えなのである。

ただ、言葉で音楽を語ることについてはいいことづくめではなく、功罪の両面がある。あるいは両刃の剣と言ってもいいかも知れない。それはまたいずれ論じてみたいと思う。

あちゃあ、出だしは軽やかだったのに、なんだか真面目ぶってしまいました。次回は気を付けます。

(end of memorandum)



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ただおん

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