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m @ s t e r v i s i o n
Archives 2001 part 1
★★★★★=すばらしい ★★★★=とてもおもしろい ★★★=おもしろい ★★=つまらない ★=どうしようもない

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回路(黒沢清)

脚本:黒沢清 撮影:林淳一郎 編集:菊池純一 音楽:羽毛田丈史 SFX:浅野秀二
特別出演:役所広司 武田真治 菅田俊 風吹ジュン 塩野谷正幸 哀川翔
だ〜からウィンドウズなんか使っちゃ駄目だって言ってんのに<そーゆーことじゃありません。 ● 封切2日目の日曜日に観て、月曜日に黒沢清みずからの筆になるノベライズ本を買って、そのまま喫茶店に入って一気に読み終えてから、その夜もういちど映画を観た。2日つづけて同じ映画を観るなんて何年ぶりのことだろう。大傑作とはいえない。娯楽映画としては舌っ足らずなところも少なくない。だが、これは「世界の在り方」と真摯に向きあった、すべての現代人必見の作品であり、原田眞人の「狗神」に見られるような「不快な媚」のない、内容的にも技術的にも真に世界に通用する1本である。 ● 冒頭にヒロインが乗るのが「CURE」のあのバスだ。観客はいきなり黒沢清に冥界へと連れて行かれて、最後まで戻してはもらえない。そう、これは「カリスマ」の役所広司が森で1本の樹を救おうとしている間に「街で何が起こったのか?」を描いた映画である。「ネットスリラー」という惹句はじつは偽りで、この映画においてインターネットは現代をあらわす道具だてのひとつに過ぎない。観た誰もが思うだろうが、これはジョージ・A・ロメロの「ゾンビ」なのだ。…ただしゾンビの出てこない。いや、ゾンビどころかこの映画には(数人のメインキャスト以外は)人っ子ひとり出てこない。「夜の曠野に停車した無人電車」や「人気(ひとけ)が完全に絶えて廃墟と化した銀座の街」など、かつて「ゲゲゲの鬼太郎」の「幽霊市電」のエピソードに胸ときめかせた身には忘れがたい美しさである。キャストが珍しく若手メインなのは「絶望のなかでの希望」を描くためだが、役所広司から哀川翔までの特別出演の顔ぶれをみると黒沢清が本作を「集大成」として捉えているのがわかる。「カリスマ」の林淳一郎による、全篇にわたって彩度を落としたスクリーンから禍々しい空気が流れ出てくるかのような画面も素晴らしいし、各種SFXの仕上がりもトップレベル。 ● さて、以下は観賞後にお読みねがいたいが、本作は娯楽映画としては構成に失敗しているように思う。それまで別々のエピソードの主人公であった麻生久美子と加藤晴彦がついに出会ってからの終盤はもっとテンポをあげて演出しなければ駄目だし、その代わりにノベライズにあって映画版ではなぜか省かれた重要なコンセプト>[死者の霊がひとつ地上に戻る“スペース”をつくるためには生者が1人(“死ぬ”のではなく)“存在を抹消”される。霊界からの“侵略”を受けた人間には2つの道がある。すなわち、存在を抹消されて“無”にされるか、みずから死を選んで“永遠に”死者として存在するか、である]の説明に時間を割くべきだったのだ。そうしないと自殺者の心理が伝わらない。てゆーか、そうしないと[霊界がいっぱいになったから霊が現実社会に進出してきた]という基本設定に矛盾が生じるではないか。あと細かいことを言うと、男性の同僚が初めて赤いガムテで封印したドアを目にする場面には「先刻の“あかずの間の作り方”と書かれた紙のインサートショット」あるいは「ポケットにくしゃくしゃにして突っ込んであったその紙を広げて見る」ショットのどちらかが必要だろうし、加藤晴彦が小雪の名前を呼び捨てにするのは(感情の流れからしても)「夜の電車」の場面まで待つべきだった(てゆーか、ふつー2回会って喋っただけの女を呼び捨てにするか?) 加藤晴彦の部屋のパソコン・モニターが1場面だけ(演出上 都合の良いように)向きが変わってるのはアンフェアだし、無人の大学研究室でキャスター椅子がどこからともなく(何脚も)滑ってくる演出も不発かつ不自然。そんなことが起こったら、ふつー誰かいるのかと思ってそっちを見るでしょ。また、それまで「壁の染み」として表現してきた「消失者」を、ラストのモーターボート事務所の場面だけ「炭化死体」として見せているのはおかしいのだが、これはわかっていても撮り直す予算/時間が無かったのかも。

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クリムゾン・リバー(マチュー・カソヴィッツ)

あ、ゴーモン社のロゴがグロテスク・バージョンになってる…と思ったら、冒頭からいきなり虫喰う腐乱死体の接写。両手首を切断、両の眼窩をくりぬかれ胎児の形に結わかれた死体。まず、アルプスの山並みに隔絶された寒村にある“閉ざされた象牙の塔”たる、とある私立エリート大学が物語の舞台であることが観客に示される。続いて大学構内の、中世を思わせる(観客席付きの)解剖台や、15年間の“闇の誓い”を続ける盲の修道女などが描かれるにおよんで、この映画が宣伝から予想されるような「セブン」や「羊たちの沈黙」ライクなサイコ・スリラーではなく「猟奇探偵ミステリ」なのだということが了解されるだろう。すなわち“おどろおどろしい事件”の裏には“おぞましい企み”があり、最後に明かされるのは犯人の“哀しい真実”である…という、そういうタイプのミステリだ。また、実際にアルプスにロケした雪山アクションは「バーティカル・リミット」より迫真のスリル。最後まで緊張感の途切れぬ傑作。あなたが「薔薇の名前」や横溝正史のファンならば必見。 ● 「憎しみ」のマチュー・カソヴィッツの第4作。何処に出しても恥ずかしくない立派なエンタテインメント大作である。英語版にすればアメリカでも当たるんじゃないか。名探偵役のジャン・レノはパリ警視庁のコワモテ&キレモノ警視というキャラで、コワモテなところはよく出ているが(元来が器用な役者ではないので)脚本上は意図されていたはずのユーモラスな部分がうまく表現できていない。別の糸口をたどるうちにジャン・レノに合流するハネっかえりの若手刑事に「憎しみ」のヴァンサン・カッセル。撮影で鼻の骨を折ってしまったほどの格闘ゲームのようなファイト・シーンは見もの。修道女にドミニク・サンダ。ジャン・レノを手助けする氷河学者ナディア・ファレスの、リンダ・ハミルトン系の不逞な美貌(つらがまえ)がなかなか。リュック・ベッソン組から参加の撮影監督ティエリー・アルボガストの、シネスコ画面いっぱいに展開するスケール感あふれる画面づくりと、ゆるやかに移動するカメラも絶品。 ● ギャガ宣伝部に教えちゃるけど「氷河の深い裂け目」のことは「クレス(CREVASSE)」っちゅうんだよ。宣伝コピーの「険しいクレパス!」たあ何だよクレパスたあ(ジャン・レノが雪山でお絵描きでもすんのか?) 最後にネタバレなツッコミを>[この終わり方を「反則」と言う人は、途中に出てきた写真とかの「伏線」を何だと思ってるのだろう。もっともああいうことであるなら修道女にはもう1人の娘がいるはずで、それにまったく触れないのはたしかにルール違反。それと「照合した指紋」がジャン・レノの拳銃から採取したものであるならば指紋が一致してはいけないはず。なぜならあれは「相手を撃ち殺すことをためらい、ヴァンサン・カッセルよりもスタミナがある」人物の指紋なのだから。あと、この話には「ジャン・レノが学長に引導を渡す」エピローグが絶対に必要だと思うが。

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レジェンド オブ ヒーロー 中華英雄(アンドリュー・ラウ)

「風雲 ストームライダーズ」が大ヒットしたので、続けて同じ香港の池上遼一の漫画「中華英雄」を映画化したSFXアクション超大作…かと思ったら「今世紀初頭のアメリカの中国人移民を描いた大河ドラマ」だったのでビックリした。つまりジャンルとしては「ゴッドファーザー PART II」や「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」と一緒だ。ついでに言えば「シャンハイ・ヌーン」や「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ&アメリカ 天地風雲」と同背景。いや、もちろん「X−メン」の元ネタとなったとおぼしき「自由の女神」頭上の決闘シーンなど「CGをバリバリに使ったアクション」は存在するのだが、「風雲」のように「矢継ぎ早にアクション場面が連続する」といった感じにはほど遠くて、そのアクションにしても(「風雲」のレビュウからコピペするが)漫画が原作だけあって静止画としてみればカッコイイのだが、SFXが克ちすぎて生身のアクションの興奮がカケラもない。(タイトルは似てても)リー・リンチェイの一連の武侠片などとはまったく別種の映画である。監督・撮影アンドリュー・ラウ、脚本マンフレッド・ウォン(文雋)というBOBコンビは「風雲」と同じ。なぜか日本の忍者が「学ラン」を着てるのには、まあ、目をつぶるとしても、行方知れずになった「主人公の双子の子どもの片方」をそのまんまにして映画を終わらせてしまう大らかさには唖然とする。 ● 「近づくものを皆、不幸にするという“凶星”のもとに生まれた主人公・華英雄 ワー・インホン(つまり「華」家の「英雄」クンね)」を演じるのは、もちろん(まさしく池上遼一のヒーローが動き出したかのような)イーキン・チェン。悲劇のヒロインに「風雲」「決戦・紫禁城」のクリスティ・ヤン(楊恭如) イーキンに惚れてしまう「くノ一」にスー・チー。兄弟子の娘に「ジェネックス・コップ」のグレース・イップ(葉佩[雨/文]) 他にもユン・ピョウ、アンソニー・ウォン、ン・ジャンユー、サム・リー、ロー・ワイコン、「硝子のジェネレーション 香港少年激闘団」「わすれな草」のニコラス・ツェー、「古惑仔」シリーズの眼鏡でぶ ジェリー・ラムとオールスター・キャストなので、多少ドラマが退屈でも香港映画ファンなら飽きないでしょう。

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東京ざんすっ(製作総指揮 つんく)

東京の「乗りもの」をテーマにした7篇のオムニバス。製作総指揮のつんく自らが「チューブ・テイルズ」をパクッたと公言する“志の安さ”がいかにも「つんくプロデュース」ではある。本来ならば「東京を象徴する7種類の乗りものを舞台にして“東京”を描く映画」であるべき/はずだと思うのだが、その企画意図を正しく理解していたのは、第1話の監督、松尾貴史だけだった。「チューブ・テイルズ」で試みられていた「劇中にタイトル表記を忍ばせる」という手法も、踏襲していたのは第1話のみ。「東京の乗りもの」と謳っていながらタクシーも都電も山手線もゆりかもめも出てこない。テーマも内容もてんでバラバラな「プロデューサー不在」のバラエティ。星3つの評価は“とりあえず観られた”3・4・5話に対して。 ● 以下、各話について簡単に。第1話の松尾貴史「“優しさ”の国」は、ベンガル扮するバス通勤のサラリーマンが、不必要に親切でお節介で途切れることのない車内アナウンスに腹を立ててバス・ジャックする話。往年の「バカヤロー!」シリーズに近いが、オチがないまま終わってしまうのはどうしたものか。 ● 第2話の野沢直子・監督「東京エスカレーター」は、NYトラッシュ・インディーズなビデオ撮り&キネコの自主映画。金取って見せられるレベルではない。 ● 第3話のケリー・チャン監督「約束」は、深田恭子・鈴木一真 主演の「遊園地の観覧車」を舞台にしたファンタスティック系の「小学生の時の約束&再会」もの(…って、もうこれだけでネタバレな気がするけど) 「アンナ・マデリーナ」のハイ・チョンマンが“助監督”としてクレジットされているだけあって、いちばん「映画」らしくまとまっている。 ● 第4話「東日暮里五丁目」は女湯の体重計を主人公とする嬉しい一品。監督の山岸真は本職がアイドル/ヌード・グラビアの写真家だけあってドラマは二の次で、次から次へと湯上りの女性がおおっ、おおっ、おおおっ。おれはこれだけで90分でも良かったな。すっかりガタが来た体重計の「声」をアテているのは西田敏行。 ● 第5話はアーティスト・日比野克彦による「〜らしい姿」。火事で焼け落ちた新宿西口しょんべん横丁の、吹きっさらしの2階に黄色い床・黄色い家具の“部屋”を作って住む男。背後を新宿を発車した(ちょうど同じ高さの高架を走る)山手線が通過する。もうひとり、広大な山裾の草原に「下駄の区画線」に囲まれて暮らす女。台詞はない。ポルトガル語だかポーランド語だかのナレーションがかぶる。タテ書きの字幕・・・まさしくイメージ・フォーラム的な実験映画の典型。とはいえ、それなりに「映像詩」として成立してるのは、作家本人にそれなりのイマジネーションがあるということだ。ただ、この話にゃ「乗りもの」が出てこねえぞ! ● 第6話は陣内孝則の監督による「ランニング・フリー」。警察所長の息子と、やくざの組長の息子が、小学校の運動会の駆けっこで対決する…って話。陣内本人はウェルメイドな「ちょっといい話」を意図してるつもりなんだろうがテレビの出来損ないでしかない。その志の低さが7篇中ワースト。 ● 最終7話は女性映像作家・飯田かずなのビデオ撮り→キネコ「マッハ★85」 爺さん婆さんにキッチュなコスチュームを着せての悪ふざけ。不快なので(もう全部 観たことだし)5分で退出。

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キャラバン(エリック・ヴァリ)

ネパールを舞台にしたネパール人キャストによるフランス資本のフランス映画。監督・脚本ともフランス人が担当しているので、登場人物たちは(台詞こそ現地語だが)西洋人のように考え、西洋人のように行動する。もちろん物語も西洋的なドラマツルギーに基づいたものだ。そうした違和感を無視して、これを「ヒマラヤ山脈の雄大なランドスケープをバックにした西部劇」と視るならば、たいへんに良く出来たドラマである。いや、ドラマなど無視してシネマスコープ・サイズの大画面を眺めてるだけでも入場料分の元はとれるだろう。カメラが傾いてるんじゃないの?というくらい急角度の山肌を(冬の食料となる麦と交換するための)塩を背負ったヤクの群れを率いて/押し上げていく民の姿は、…そうして生きている人たちがいるという「事実」を画で観せられては否応なく感動せざるを得ない。いや、否定してるのではないよ。それもまた映画の力のひとつだ。 ● 話は、長老とニューリーダーの対立。科学的合理性を持ち合わせた(ように見える)ニューリーダーが、若い村人たちの支持を得て200頭以上の大キャラバンを率いて出発する。時代が変わったことを断固として認めたくない、迷信と因習に凝り固まった(ように見える)長老は、村に残った年寄りと女子どもだけのメンバーで、たかだか20数頭のキャラバンを組んで後を追う。2つの隊列を交互に描く構成は「八甲田山」の趣き。もっとも本作では、天はネパールの民を見放すことはなく玉虫色のエンディングを迎えるのだが。 ● ネパールはチベット仏教の国なので最初のほうの「鳥葬」のシーンでは、鉈(なた)でコマ切れにした肉塊をハゲタカがついばむ様が(間接的に)描かれているのだが、あれが人の屍肉だってこと、観客にちゃんと伝わってるだろうか? あと単純な疑問なんだけど、あんな草地もないような土地でヤクってなに喰って生きてんの? ● 渋谷のシネマライズでは休憩時間に「もう一度ご覧になりたい、あるいは友人に勧めたいという方のために、受付にて『キャラバン』の特別観賞券を1500円にて販売しております」というアナウンスが流れていて「上映中の作品の前売券を売ってる映画館」てのは前代未聞じゃないかと思ったけど、よく考えたらこれってとても理に叶ったサービスかも。感心した。

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BROTHER(北野武)

「戦場のメリー・クリスマス」「ラスト・エンペラー」から「御法度」「ザ・カップ 夢のアンテナ」まで、オリエンタル・エキゾチズム商売の上手いジェレミー・トーマスと、オフィス北野の共同製作。「世界照準」という惹句に嘘はなくて、まるでガイジンがガイジン向けに作ったようなサービス満点のジャパニーズ“YAKUZA”ムービーである。渡哲也の出演シーンで展開するハラキリ&ユビツメなど「マジ? ねえマジでやってんの?」というほどカリカチュアされている(てゆーか、笑うとこなのかなアレ?) …いや、貶してんじゃなくて、銃撃シーンなどは、もう単純にカッコイイ。予告篇でもキメに使われていた「ファッキン・ジャップぐらい解かるよバカヤロウ!」なんて歴史的な名台詞ではないだろうか。 ● 1人の武闘派やくざが日本に居られなくなって実弟のいるロサンゼルスにトぶ。日本からかれを慕う弟分も追いかけてきて新興のヤクザ・ファミリーはLAの暗黒街でメキメキと勢力を伸ばしていく…。だから「BROTHER」とは文字どおり(血縁の、そして渡世上の)“兄貴”のことで、黒人のオマー・エプスとかも、たけしを「アニキ」と呼ぶようになる。邦題を付けるなら「兄弟仁義 羅府の盃」ってとこか。 ● もちろんここで「わかりやすいエンタテインメント」だって言ってんのは、あくまでも「北野武の世界」を踏まえた上でのことで、だから「独特のフレーミング」とか「デッド・シリアスと茶目っ気のバランス」そして何より「諦観ともいえる死生観」といった北野武を特徴づける要素は踏襲されていて、もっと言えばLAの街はまるで江東区とか千葉あたりの倉庫街に見えるし、ウエストコーストは九十九里浜にしか見えない(ガイジンの目から見たら新鮮でしょうな) ● 主演のビートたけしは文句なし。弟分の寺島進はやくざとしては貫目不足なのだが、それが意図されたキャスティングであるのならば、好演。久しぶりに硬派の大杉漣が見られるのも嬉しい。これで加藤雅也のポジションが松田優作だったら…というのは詮ない夢だわなあ。

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弟切草(下山天)[キネコ作品]

例によってスーファミ版もプレステ版も角川文庫のペーパー版も読んだことはないので、もしかしたら原作のファンにとっては大満足の仕上がりなのかもしれないが、以下は“いきなり映画だけを観て”の評価ということで。 ● その存在すら知らなかった「実の父」が死んで、古ぼけた屋敷を相続したヒロインが(ゲーム・プロデューサーの)元カレを伴って屋敷へと検分にやってくる…というプロット自体はシンプルな「お化け屋敷もの」である。ただ原作ゲームとの親和性を高めるためか、全篇がパナソニックのDVCPRO[P]というハーフサイズ・テープ巾の業務用デジタルビデオカメラ(と、たぶん家庭用デジカム)で撮影され、のみならず実景はすべてコンピュータ上で色調&画調加工されて「ダンサー・イン・ザ・ダーク」というか「奇蹟の海」というか「ジュリアン」のような見た目になり、そこに「主人公たちの製作したゲーム画面」や「元カレがヒロインを撮っているビデオのファインダー画面」や「主体者不明の館内ビデオモニター画面」などがしばしば混入してくる。御存知のようにおれはキネコ映画が大嫌いなのだが、この作品に関しては内容と手法が一致しているので、あまり気にならなかった。 ● 逆に言うと(脚本ではなく)雰囲気に頼った映画で、幽霊屋敷映画としては工夫が足りないし、決して出来が良いほうではない。まあ雰囲気はそこそこ怖いので、おまけ気味の星3つとしたが、この映画の作者たちは作劇上のいちばん大切なことがわかってない。これはホラー映画だから「物理的にありえない現象」が起こるのはぜんぜん構わない。アップルのパワーブックがあんなに長時間バッテリーが持つならおれは苦労しないんだが、それも「映画の嘘」の範疇だろう。だが、たとえホラー映画であっても、登場人物たちに「心理的にありえない行動」をとらせるのは間違いである。例えばあなたは屋敷で恐ろしい○○○を発見したというのに、その正体を確かめもせず(同じ屋根の下で)暢気にシャワーを浴びたりするだろうか。あるいは屋敷に第三者が潜んでいるとわかった直後だというのに、彼女を「おれたち、またやり直せないかな」などと口説いたりするだろうか。はたまた、おぞましい内容のデータを調査するために「おれ、まだやることがあるから先に部屋に戻ってなよ」と気遣う元カレに対して、ヒロインが「また仕事なの?」…って、お化け屋敷で一夜を明かしてるときに誰が仕事しますか。脚本は中島吾郎と仙頭武則(外道プロデューサー) こんななら原作者の長坂秀佳に脚本を書かせれば良かったのに(←この人、もともとは「人造人間キカイダー」とかの脚本家である) ● …いや、奥菜恵のシャワーシーンを無理やり挿入するのは大変に結構なのだよ。しかーし、乳&尻はおろか背中すら見せないものはシャワーシーンと呼べんでしょうが。

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狗神(原田眞人)

撮影:藤澤順一 編集:上野聡一 音楽:村松崇継
休憩時間に“「狗神」はR-15指定だから中学生はここで退出するよーに”という笑っちゃうアナウンスがあった。2本立てを半分だけ観て帰る奴なんていないって>日劇東宝(ま、“建前”ってやつでしょうけど) いやあ「弟切草」の汚い画面のあとでは、フィルム撮影による四国の山並みの濃密な緑を目にしただけで「赦しちゃる」って気分になるなあ。…赦さんけど。つまらんから。 ● えーと、これエロティック・ホラーって「エロティック」の部分は(天海祐希 以外の、チラシに名前も出してもらえない)女優さんが意味もなく風呂あがりにおっぱいまる出しで歩いてたり、乳首を見せない天海祐希の代わりに後ろで別の女優さんが騎上位で腰振ってたりするので、まあ、わからんでもないが、「ホラー」ってどこらへんがホラーなの? 手鞠歌だかなんだかの「先祖の姿、蘇えらん」って、蘇えらないじゃんよ何にも。どうせ後半の展開なんて伊藤俊也の「犬神の悪霊(たたり)」にも負けないくらいプッ壊れてるんだから、ラストはCGの狗神クリーチャーぐらい出せば良かったのに。ホラーといえば、さすが“アメリカ映画通”の原田眞人だけあって早速「シックス・センス」をパクッてるんだが、演出がシャマランとは比べものにならないほど下手なので、これに騙されるような“人の良い観客”は1人もいないだろう。もっと「悲劇のラブストーリー」にフォーカスしたほうが良かったのではないか。 …えっ? やってる? これで? ● えーと、天海祐希は脱いでません(<言うこたぁそれだけかい!) 相手役に渡部篤郎。おれ、こいつの演技、見てるだけで虫唾が走るので…。この2人のカップル、劇中では「親子ほども歳がちがう」って非難されるんだけど、天海祐希の設定年令は41才(とチラシに書いてある)、渡部篤郎の役を(無理やり若くみて)20代前半としたって、せいぜい十幾つしか離れてないんだけど、それって四国では非難されるようなことなの? 紙工場の若社長をやってる原田遊人って、たしか監督の息子だと思う。 ● 本物に較べたらこれでもだいぶソフトになってるんだろうけど、土地の方言がよく聞き取れなかった。あと、クライマックスの惨劇だけモノクロ画面になるのは何の意味があるの? まさか映倫との裏取引(=成人指定にしない代わりにモノクロにする)とかじゃねーだろーなあ。


式日(庵野秀明)

最初に画面に写るのは岩井俊二の驚く顔。カメラが切り返すとそこには…白塗りの顔に赤いドレスに赤い靴はいて赤い傘さしてお引き摺りさんみたいな藤谷文子。観てるこちらの顔も引き攣って、その強張った頬が弛緩することは最後までない。全篇を通じて「あちゃちゃ〜」「げげっ」「あやややややや…」が合わせて30回ほど、失笑が数回、声を出して笑っちゃった恥ずかしい演出が2回。そういう映画である。ま、それでも途中までは星2つかなと思ってたんだけど、終盤の大竹しのぶのシークエンスですべてを台無しにしちゃったので更に星1つ減らした。 ● なんとこれ「不思議チャン」映画なのである。いくら庵野秀明が「遅れて来た映画監督」だからって遅れすぎだよそりゃ。こんなもの映画館で観せられたら怒って出てると思うが、「美術館での上映」ってことで「これはアートだアートなんだアートだってば」と自分に100回ぐらい言い聞かせて(相当の忍耐が要ったが)最後まで付き合った。アートならハダカぐらい見せんかい!<そりは誤解とゆーもの。てゆーか、アート映画にしては、美術のイメージが可哀想なくらい貧しいのが致命的。 ● 庵野秀明と藤谷文子の恋愛の(誇張された)ドキュメント。ぼくたちこんな風に出会って、こんな風に愛し合ってるんだ。ぼくは文子ちゃんのこんなところが好きなんだ…という自慢話である。役名のないヒロインを藤谷文子が“自演”。アニメにウンザリしてるアニメ監督の役を、映画監督の岩井俊二が演じている。庵野の故郷である山口県宇部市でロケーション。「フィルム撮影のシネスコ画面」と「デジタルビデオ撮影のスタンダード画面」と「合成シーンのビスタサイズ」が入り乱れる構成。撮影はピンク映画出身のベテラン・長田勇市だがピントが甘い画面が散見される。 ● 藤谷文子は「生を実感するために毎朝、ビルの屋上の縁に立って両手を広げるのが日課」という設定なのだが、どう見ても命綱を付けているようには見えない(撮影中に誤って落ちたらどうすんだ?) あと岩井俊二が使ってるワープロ、旅に持って行くにはデカ過ぎないか? てゆーか「スコラ」って大人が見る雑誌じゃねえだろ>庵野秀明。てゆーか、おれがあの男だったら「ヤれそうもない」と判断した時点で消えてるね。<サイテーな奴。

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ヤンヤン 夏の想い出(エドワード・ヤン)

エドワード・ヤンの新作はなんとフジテレビとポニーキャニオンの社員がプロデューサーを務めるという日本資本の台湾映画である。てゆーか、これたぶん台湾のエドワード・ヤンと香港のスタンリー・クァンと日本の岩井俊二で企画された「Y2Kプロジェクト」ってやつを岩井俊二が日和ったかなんかしてポシャッたのを、残った2人が律儀に仕上げたのが本作とスタンリー・クァンの「異邦人たち」なんだと思う。ったく「式日」なんかに出てる場合かよ>岩井俊二。 ● 「ヤンヤン 夏の想い出」なんてタイトルからは想像もつかないが、中味はなんと「中年おやじの人生回顧/悔悟もの」である。20年ぶりに再会した初恋の女性と日本に不倫旅行して「♪熱海の海〜岸、散歩す〜りゃ…」なんて場面まであるのだ。てっきり「子どもの夏休みもの」かと思って観に行ったおれはちょっと…てゆーか、そーとービックリしたぞ。 ● 英語原題は「1つと2つ」、漢字原題は「一一(漢数字の「1」ふたつ)」。「人はたとえ家族であっても1人1人で生きている」というニュアンスか。もちろんそこには「1人だとしても/だからこそ、人は寄り添うのだ」という2行目があるのだが。都会に生きる孤独と、それでもなお寄り添う魂の物語。エドワード・ヤン自身の筆による、結婚式に始まり葬式に終わる含蓄ある脚本。3時間弱をまったく飽きさせない堂々たる演出。「恋愛時代」「カップルズ」よりも「クーリンチェ少年殺人事件」が好きな人にお勧めする。 ● ちょっと話がズレるけど、台湾と日本ってなんでこんなに似てるんだろう? いや、別に日帝占領時代の名残りで畳敷きの和室があるとか、そーゆーことじゃなくて、人々の暮らし方とか心の持ちようがとても異国とは思えないのだ。それが証拠に本作での東京/熱海ロケの部分はまったく「別の国の別の景色」には見えない。人種的にはいちばん近いはずの韓国映画を観ると「日本人はこんなに執念深くねえぞ」とか思うし、中国映画や香港映画を観ても「いやあ中国人のバイタリティには適わねえなあ」と思うだけだが、台湾映画を観るとなんともいえん郷愁を感じるんだよなあ。これっておれだけかな?(ひょっとして先祖は台湾人か?>おれ) あ、でも大阪の皆さんは香港映画に親近感を感じてるのかな?<思いっきり偏見。

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流星(ジェイコブ・チャン)

佳い映画だということは観る前からわかる。これはジェイコブ・チャンの映画なのだから。そして、過去のジェイコブ・チャン作品と同様の問題を本作も抱えている。それは劇中でティ・ロンが演じている巡査と同様のジレンマだ。すなわち「真面目で良い人なんだけど、恋人にするには刺激が足りないのよね」って類の。 ● チャップリンの「キッド」の翻案だが、見ているあいだチャップリンを思い出すことはない(まあ「チャップリンを思い出させる映画」なんて誰にも作れやしないけどさ) 100%の香港映画である。香港のジョージ・ソロスとまで謳われた男が失墜して無一文に。家の前にうち捨てられていた赤子を見捨てることが出来ず一緒に暮らし始める…という設定をアバンタイトルの5分間で手際よく説明。ドラマは、4才になった男の子ミンとボロ・アパートの手作りロフトで便利屋をして暮らすレスリー・チャンと、恵まれない子どものチャリティに熱心な上海の富豪の奥様(もちろん諸賢がご想像のとおりの過去がある)が出会うところから始まる。だが、この映画を真に輝かせているのはもう1組のカップルである。アパートの一室で老人ホームを細々と経営する男運の悪い中年女性と、その女性に淡い恋心を抱く実直な警邏巡査。今までは「やくざの色っぽい情婦」なんて役が多かったン・ガーライ(呉家麗)が幸うすい中年女性に扮して、ほとんどスッピンで目を瞠らせる演技を見せる。そして巡査の仕事に誇りを持ち、頼りになる、だけど女には不器用な「街のお巡りさん」を演じるティ・ロン(狄龍)の素晴らしさ! 運命が用意した残酷に ついに堪えきれず感情を溢れさせるシーンに思わずもらい泣きした。2人して2000年の香港アカデミー賞の助演男女優賞に輝いたのもむべなるかな、である。「放っといてくれ。おれはミンと2人で楽しく暮らしてるんだ」と言うレスリーに、ティ・ロンが説く名台詞「馬鹿を言うな。こんな暮らしは最低なんだぞ。最低な暮らしを“楽しい”だなんて子どもに思わせるな」 最終的には、ミンはほんとうの母親に引き取られていく。リムジンが走り去る。レスリーが悲しみを振りきるように路地の階段を登っていく。ロングに引いたカメラがその階段で無邪気に遊んでいる、家を持たない(もちろん金持ちの両親なんて居やしない)浮浪児たちの姿を捉える・・・決して前面に出てくることはないが、ジェイコブ・チャンの主張はこのラストシーンで言い尽くされている。 ● 原題は「流星語」 ジェイコブ・チャンの映画なんて商売にならんので香港じゃ誰も金(製作費)を出さない。それでレスリー・チャンはこの映画にノー・ギャラで出演していて、地味な映画に「スーパースターにしか備わっていない輝き」を与えている。えらい長身のヒロインには、売れっ子のファッション・モデルでこれが映画デビューとなるキーキー。表情が硬くちょっと魅力に乏しいのだが、なんと実生活ではサイモン・ヤムの奥さんだそうで、あんまり貶すとあとが怖いのでこの辺にしとく。

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ゲット・ア・チャンス!(マレク・カニエフスカ)

ありゃりゃ。ポール・ニューマンの主演最新作だってのに場内はガラガラだ。ちっ、つくづく民度の低い国だぜ…。ギャガはギャガで、本作を最後に俳優業を引退するかもしれないという「噂」に基づいて「ポール・ニューマンもこれで見納め!?」などという誤解されることを目的としてるとしか思えない下品な宣伝コピーを付けてやがるし。まったく…。 ● かつての奔放なプロムクイーンも今じゃ老人病院の看護婦。年寄りのおしめの世話をする退屈な毎日。不良っぽいイカした色男ぶりに惚れて一緒になった元プロムキングの旦那は、いつしか真面目一方の夜勤の工員になってしまった。ああ、このまま田舎町で朽ち果ててしまうなんて堪えられない!と心の中で身悶えしてたヒロインの元へ、ひとりの患者が送られてくる。「警察病院のベッドに空きが出るまで」という条件で、脳卒中で全身麻痺の車椅子姿で臨時入院してきたのは「金庫破りの天才」と謳われたブルーの眼をした老人。それは彼女にとって何年ぶりかの刺激的な出来事だった…。 ● というように主役は疲れ具合がこれまた色っぽいリンダ・フィオレンティーノである。前半は(入獄を免れるために)全身麻痺を装っているポール・ニューマンにポロを出させようとするヒロインとの駆け引き。後半は「ケイパー(犯罪計画/実行)もの」になる。御大ポール・ニューマンは余裕で受けの演技。これはボーン・ワイルドな2人が出会って身体を流れる血に正直に生きようとする物語。しょせんはプリテンダーにしか過ぎない亭主のダーモット・マルロニーとの対比が切ない。監督は「アナザー・カントリー」「レス・ザン・ゼロ」という不思議なフィルモグラフィを持つマレク・カニエフスカ。もしかしたら自分もボーン・ワイルドなのかも…と、ひとときの夢に浸ってみたい方にお勧めする。 ● 何を仕掛けても無反応をつらぬくポール・ニューマンから「肉体的な反応」をひきだしてやろうと、リンダ・フィオレンティーノが車椅子に跨ってラップダンスをしてくれちゃったりするシーンがあるんだけど、さすがはニューマン大兄、修行が出来ててピクリともせず。おれなんかもう見てるだけで…あ、いや。

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宮廷料理人ヴァテール(ローランド・ジョフィ)

ゴーモン社の製作だし、ルイ14世時代のフランスを舞台にした「これ以上は無い」ってくらいフランス的な話なのに、なぜかローランド・ジョフィ監督の英語映画である。なにも劇中の手紙の文字まで英語にしなくても…って気がするが。案の定、フランス人の底意地の悪さが描けていないのが致命的である。てゆーか、ローランド・ジョフィって、なんでこんなに演出が下手なんだ? 通俗娯楽映画の“見得”とか“溜め”の呼吸がまったくわかってない。ラブストーリーとしては機能していないし、政治サスペンスとしてもダメダメ。エンニオ・モリコーネの鳴らしっぱなしのBGMも下品の極み。 ● 「料理人」というより「イベント・プロデューサー」と呼んだほうが相応しいタイトルロールにジェラール・ドパルデュー。よーするに山本寛斎の役なので、これでいいっちゃいいんだけど、アーティストとしては繊細さが感じられない。むしろ仇役のローザン公を演じたティム・ロスをヴァテールにしたら良かったんじゃないの? ヒロインのユマ・サーマンは、ますます鼻のお化けみたい。てゆーか、3人ならぶと「立派な鼻」展覧会みたいだぞ。

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レンブラントへの贈り物(シャルル・マトン)

ジョン・バダムの「迷宮のレンブラント」に続く日比谷シャンテ・シネの「レンブラント」シリーズ第2弾(そうなのか?) 伝記ものだが「生を謳歌する瞬間」もなければ「胸にせまる痛み」もない平凡な出来。レンブラントをめぐる3人の女が登場するのだが、ラブストーリーにもなっていない。レンブラントには懐かしやクラウス・マリア・ブランダウアー。仇役の判事にジャン・ロシュフォール。女優陣ではロマーヌ・ボーランジェだけがきっちり脱いでて偉いなあ。親父さん(リシャール)が「狂気の辻説法師」の役で共演している。

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いつか来た道(ジャンニ・アメリオ)

イタリア映画。1998年のベネチア映画祭で金獅子賞を得ている。 ● 1958年の上野駅。沖縄から出てきた兄が、東京で大学に通う弟を訪ねる。2人きりの家族。無学で文盲の兄の望みはただひとつ。自分が肉体労働をして得た金で弟が大学を卒業して立派な学者になること。かたくなで一途な胸の裡には弟への想いしかない。だが、そもそも自分で大学に行きたいなどと希望したわけでもない弟には、兄の期待が負担でしかない…。 ● シチリア出身の兄弟の愛情と相克。主人公は稲川淳ニに似た口ヒゲの兄のほうで「高度経済成長の真っ只中にある北部の大都会トリノで田舎者が遭遇するさまざまな苦難」とか「つまみ枝豆に似た弟に理解されず悲しむさま」を見せることを眼目とした映画である。こーゆー話は百万遍ぐらい観た気がする。だが、この兄がもう最初っから、ひがみ根性まるだしの意固地でエキセントリックな性格なので、とても同情できんのだ。「そんなに都会が嫌なら田舎へ帰れよ」とか思ってしまう。そして案の定、この兄の過大な愛情は、弟にとてつもなく高い負債を払わせることになるのだ。

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プロデューサーズ(メル・ブルックス)

世の中で、投資した金がアッという間にフイになっても許されてしまう商品が2つある。「映画」と「芝居」だ。いくら契約で成功報酬や利益配分金を定めてあってもコケたら終わり、ポシャッたらそれまで。一巻の終わり。ジ・エンド。セ・フィニなのだ。てことはアレだ。出資者から「成功したら利益の50%を配分します」とかなんとか上手いこと言って金を集めて、映画/芝居をワザとコカしてしまえば製作資金はぜ〜んぶおれのもの…と考えるプロデューサーがいたっておかしくない。この理論の最大のリスクは言うまでもなく映画/芝居が当たって「利益が出てしまう」ことである。だってそうしたら利益の600%ぐらいを支払わなきゃならんような多重契約をしてるわけだから。で、この映画の主人公=ブロードウェイの古参プロデューサーであるゼロ・モステルは自身の経験からずえ〜ったいに大コケ打切り間違いなしの芝居を企画するわけだが、これはコメディだからもちろん芝居は大当たりしてしまう。かれの魂の叫びを聞きたまへ「慎重に吟味して最低の脚本を選んで最低の演出家と最低の役者を揃えたのに、なんでヒットするんだぁぁぁぁ!」・・・この台詞に天啓を受け、ハリウッドで実際に「最低の脚本と最低の演出家と最低の役者」を運用して大儲けしてるのが、かの天才ジェリー・ブラッカイマー氏であるの業界では有名な話である。 ● 1968年のメル・ブルックスの映画監督デビュー作。古いタイプの喜劇映画であるが、後年のように視覚的ギャグとダジャレに頼りきりことなく「喜劇作家」としての力量を充分に示している。ただ、どうしても納得できない点がひとつある。だって芝居小屋の楽屋で産湯をつかったような興行師だぜ。たとえコカせるための芝居であっても、破産/契約不履行で逮捕されるとわかっていても、自分が作った芝居が当たったら嬉しいに決まってるじゃないか。納得できん。 ● メル・ブルックスはユダヤ人なので劇中劇などでナチスドイツを徹底的に茶化してる。まあ、あの国はそれぐらいやられても仕方ないことをしてきたわけなんだが、もう一国、身に憶えもないのにからかわれてるのが北欧のフリーセックスの楽園スウェーデン<だからぁ、それが誤解なんだって。ゼロ・モステルが雇うのが金髪のスウェーデン人秘書で、このお姉ちゃん、まったく仕事もしないでゴーゴーを踊るだけ。英語も喋れず、なにかというとすぐ服を脱いでセックスしたがるという、よくスウェーデン大使館から抗議が来ないよなあ。…ひょっとして真実なのか? ● メル・ブルックスは1995年の「レスリー・ニールセンの ドラキュラ」以来、新作を発表していない。74才という年令を考えたらこのまま引退という可能性も憂慮されようというものだが、なになに深作欣二だって70才であれだけパワフルな映画を撮れるんだ。市川崑も岡本喜八も鈴木清順も新作を準備/撮影中だ。とりあえず「珍説・世界史 PART2」「スペースボール エピソードX」だけでも撮ってくれよ。な、爺さん?

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夜の蝶 〜ラウル・セルヴェの世界〜

「ハーピア」(9分)、「クロモフォビア」(10分)、「人魚」(10分)、
「語るべきか、あるいは語らざるべきか」(11分)、「夜の蝶」(8分)
ベルギーのアニメーション作家の特集上映。最初の4本は、かなり図式的ともいえる左翼な映画で、そのことが作家のイマジネーションの翼に重石を付けてしまってるように思う。まずテーマありきなのだ、と言われればそれまでだが。だからトリの、1994年に物故した自国の偉大なる幻想画家ポール・デルヴォーへのオマージュとして製作された「夜の蝶」の素晴らしさが際立つ。青白い夜の底の、死に絶えたような時間。駅の待合室に迷い込んだ1匹の蝶がとまると、そこが色付き息を吹き返す。ドレスから乳房を剥き出したまま踊る2人の淑女。実時間にすれば一瞬の時間を8分に引き伸ばしたような幻想のひととき。まさに、永遠の静止のなかにあるデルヴォーの絵を動かすならば「こうでなくては」という作品である。

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ふたりの男とひとりの女(ボビー・ファレリー&ピーター・ファレリー)

脚本が半分ぐらいしか出来上がってないのにクランクインの日が来ちゃった…に違いない。下品でおバカな持ち味を活かしたまんま、かっちりラブコメしていた素晴らしい「メリーに首ったけ」のあとが、なんでこんなになっちゃうの? だって構成がメチャクチャだぜ、このコメディ。ふつうの脚本なら「冒頭で駆け落ちしたカップル」は終盤に再登場するはずだし、「お助けマン」キャラが2組いるのもおかしい(もちろん本来の「お助けマン」は主人公の子どもたちであるべき) 基本フォーマットは「ジキル/ハイド人格な主人公」と「冤罪のヒロイン」の「逃亡者もの」なのだが、この2人の逃亡の目的(=どうすれば助かるかというゴール)が曖昧なのも娯楽映画の脚本としては失格である。そもそも「その人物がナレーターである必然性がまったくないナレーター」による「8割方は無くても話が通じるナレーション」が入ってる時点で「脚本未完成疑惑」をかなりの確率で裏付けてると思うがどーか? まあ、ドラマなんか無視して端からジム・キャリーの顔芸だけを楽しむつもりで観るのが正解でしょうな。顔の右側と左側で別々の人格を演じわけられる役者なんて他にはいないんだから(でも、悪い人格のほうが魅力的ってのは問題あるかも) 原題は「ぼくと、おれと、アイリーン」 もちろん邦題から明らかなとおり20世紀FOX配給である。

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僕たちのアナ・バナナ(エドワード・ノートン)

エドワード・ノートンの初監督作。冒頭はマンハッタンのアイリッシュ・バー。(ノートン扮する)カソリックの神父が酔いどれて泣き濡れている。バーテンのおやじがなにごとかと近寄って来て、神父はバーテン相手に“告解”をはじめる…というはじまり。で、ふたたび話がこのバーに戻ってきて回想の輪が閉じてから、さらにその後、結末まで30分以上あるってのは明らかに脚本の構成ミスでしょう。2時間10分という上映時間はいまの趨勢からすれば決して長くない。それでも直感として「30分 長いぜ」と思ってしまうのは「カソリックの神父とユダヤ教のラビが(幼なじみの)1人の女性に恋をする」っていうスクリューボール・コメディとして以外に撮りようがないはずの素材であるにもかかわらず、スクリューボール・コメディってものを勘違いしてるとしか思えない冗長な脚本と演出のせいだ。セックス・ネタと宗教ネタに関するアプローチに遠慮がありすぎる。「インチキ英語のカラオケ機器販売員」や「フィットネス気狂いの見合い相手」とかの狂った脇役キャラの使い方も甘い。「もっと大胆に、鮮やかに」がこのジャンルの鉄則だ。エンドロールの「スペシャル・サンクス」のトップに位置する名前はノーラ・エフロン。エドワード・ノートンは相談する相手を間違えたね。 ● 出来が良くないのに楽しめるのは、これが本格的な映画初主演となるジェナ・“ダーマ”・エルフマンの溌剌たる魅力のお蔭だ。ベン・スティラーはいつものとおりだし、ボケ役を演じるエドワード・ノートンの“間”も悪くない。てゆーか、単に「NYが舞台でスタンダード・ナンバーがかかる」というだけでなく、ノートンの自分で勝手に思いこんで独り合点しちゃうキャラにはウディ・アレンの遺伝子を濃厚に感じるなあ。 ● 脚本はノートンとはイエール大学時代のルームメイトだというスチュアート・ブルームバーグ。2000年の東京映画祭にはノートンと、1人の美しい黒髪の日系人女性と3人で仲良く来日してて、なんでもこの女性はアナ・バナナのモデルになった人なんだそうだけど、…え? てことはノートンと脚本家は――!? うーん。下世話なおれとしてはノートンの実生活での三角関係の顛末のほうに興味あったりして。 ● 原題は「KEEPING THE FAITH」。信仰の“FAITH”と、恋愛における相手への信頼(FAITH)を掛けてるわけですな。しかし「僕たちのアナ・バナナ」って日本語タイトルから「最終絶叫計画」のとある視覚ギャグを連想したのはおれだけではあるまい(火暴) ● あと、言われるまでもなくわかってるとは思うけど、ビデオメーカー(ポニーキャニオン?)はビデオ発売に際して必ず「ダーマ&グレッグ吹替版」を作るよーに。いちおう配役を指定しておくと――ダーマ(雨蘭咲木子)がジェナ・エルフマンなのは当然として――グレッグ(森川智之)がエドワード・ノートンで、ベン・スティラーにはC調の同僚ピート(島田敏)でどうだ。お母さま(藤田淑子)はもちろんアン・バンクロフトで決まり。お父さま(小川真司)はミロシュ・フォアマン(チェコ訛りの神父)、ダーマ父・ラリー(斉藤志郎)はロン・リフキン(ラビの偉い人)、ダーマ母・アビー(小宮和枝)はホランド・テイラー(キャスターの母)、色っぽいジェーン(沢海陽子)はエアロビ女でよろしく。

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ゼイ・イート・ドッグス(ラッセ・スパング・オルセン)

デンマーク映画。「御茶漬海苔プロデュース 御茶の魔劇場」と銘うったSPOの安売りホラー3本セットの第3弾。てゆーか、ホラーじゃないじゃん、これ。「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」タイプのブラックなアクション・コメディを意図してると思われるが、あんまり笑えない。…てゆーか、笑わせようとしてるんだかなんだかよくわからないんだよな。国民性の違いだろうか。スタローンの弟のような顔と脳味噌を持った主人公にまったく感情移入できないのだ。だってさあ。銀行員の堅物の主人公が銀行強盗に遭遇して、たまたま手に持っていたテニスラケットで成り行き上から撃退してしまう。それをマスコミに“英雄”とまつりあげられると、今度は自宅に「銀行強盗のカノジョ」が訪ねてきて「なんであんなことしたのよ! カレは悪人じゃないわ! あたしが人工授精するためのお金が必要で仕方なく銀行強盗しただけなのよ!」と、なに言ってんのアンタ?なことをホザいて帰る。すると主人公はどういう思考回路をしてるものか「それは悪いことをした。ぼくのせいで2人の人生を台無しにしてしまった」とか考えて、やくざをしてる実兄に頼んで(強盗のカノジョのために)現金輸送車を襲撃して人工授精の金を工面しようとするんだぜ。あほか。ようわからんよ。デンマーク人の考えてることは。原題は「中国じゃ犬を喰う(=だから、善悪の基準は一概には言えない)」

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ある歌い女の思い出(ムフィーダ・トゥラートリ)

めずらしやチュニジア映画である。あなたチュニジアって何処にあるか知ってます? いや、もちろんおれは知ってるけど、皆さんの為に書いておくと、地中海のイタリアの対岸でシシリア島の目と鼻の先である。アフリカなんだけど画面で観るかぎり文化的・人種的にはトルコあたりと近い感じがする。 ● 旧チュニジア王家の最後の皇太子だった人物の訃報を聞いて、いまは安キャバレーの歌い手をしてる女が、かつての王宮を訪れる。寂れはてた宮殿を見まわるうち、彼女の脳裏に子ども時代の思い出がよみがえる。そう、彼女の母はかつてこの王宮の端女(はしため)であり踊り子であり王族の慰みものだった。父親の名を知らぬ娘は、遠くに独立運動のデモの声が聞こえてくる落日の王宮で、多感な少女時代を過ごしたのだった・・・つまり「ラスト・エンペラー」とかマリー・ジランの「ラスト・ハーレム」と同ジャンルである。ただ本作の場合、監督・脚本・編集を手掛けたムフィーダ・トゥラートリが女性なので(生きる歓びよりも)女性が虐げられていた時代の「苦しみ」だけを語る岩波ホール向きの映画であって、ヌードシーンとか濡れ場を期待して来た下品な観客(>おれおれ)は肩すかしを喰うだろう。まあ、ヒロインが美少女なのでなんとか観ていられるが。てゆーか、むしろ「フランス資本の紐つきで非ヨーロッパ文化圏のエキゾチズム(と美少女)を売り物にしてる」という意味においてトラン・アン・ユンのベトナムものと同ジャンルかも。

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星願 せいがん あなたにもういちど(ジングル・マ)

香港の夜空に流星群が舞った夜。ひとつの魂が北極星へと旅立った…。イー・トンシン「つきせぬ想い(新不了情)」(1993)、ピーター・チャン「ラヴソング」(1996)に続く香港映画メロドラマの傑作が登場した。必見である。これを観ないで何を観る? ● ストーリーは「天国から来たチャンピオン」のモチーフ(と2、3の小道具)を借用しているのだが、そこで語られるものは「天チャン」とはまったく肌合いの異なる泣かせのメロドラマであり、キスひとつしない熱愛の物語である。いまさらながらに香港映画の映画への信頼の篤さにおどろく。こういうものは照れちゃたら出来ないのだ。作り手がシニカルだったり醒めてたりしたら絶対に観客はノッてこない。ハリウッドと日本映画界は口惜しかったらこのレベルのメロドラマを作ってみなよ。監督デビュー作の「ヴァーチャル・シャドー 幻影特攻」が冴えなかったジングル・マ(馬楚成)だが、さすがは「ラヴソング」のカメラマンだけのことはある。2作目で鉱脈を掘り当てたようだ(3作目はまたアクションものの「東京攻略」なんだけど) ● 「つきせぬ想い」のアニタ・ユンや「ラヴソング」のマギー・チャンにも勝るほどの魅力的なヒロインを演じるのは新人女優のセリシア・チャン(張柏芝) 見習い看護婦のヒロインがマスクを外して初めて顔をみせる瞬間に、おもわず息を呑む。う、…美しい。天真爛漫な笑顔と、いがいとハスキーな声のギャップに胸がキュンとなる。か、…可憐だ。そして、顔をクシャクシャにゆがめて大粒の涙をぽろぽろ流す世界一美しい泣き顔には、もうおれはもらい泣きを抑えることが出来ない(←バカ) デビュー作の「喜劇王」と本作でみごと香港アカデミー賞の新人女優賞をゲットしたのも当然である。断言しよう。2000年代前半の香港映画は「セシリア・チャンの時代」として記憶されるだろう。 ● ただひとつ懸念されるのは、日本の女性観客にとって男性スターが岸谷五朗と、銀縁メガネの田口トモロヲってのはどーか?ってこと。ヒロインに恋してしまう男性患者に、「ゴージャス」で台湾からヒロインを追いかけてくる山だし兄ちゃんを演っていた(岸谷五朗こと)リッチー・レン(任賢斉) 恋敵となるドクター(でも、いい人)に、「君のいた永遠」で脚本家の青年を演っていた(田口トモロヲこと)ウィリアム・ソー(蘇永康) 天国中継駅の官吏にエリック・コット。そして、病院前の食堂のおやじに(ジャッキー・チェンを別格とすれば)おれが香港でいちばん好きな役者であるエリック・ツァン! もう、おれにとっての「香港」あるいは「香港映画」のイメージってまさに「この人」なのだ。観ればわかる泣かせる台詞「台湾で娘に会ったら面倒をみてやってくれ」

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ハート・オブ・ウーマン(ナンシー・マイヤーズ)

おれの1999年のベストワン「ファミリー・ゲーム 双子の天使」のナンシー・マイヤーズの新作。今回はめずらしく夫君のチャールズ・シァイアーとの共同脚本ではない(てゆーか、いつもなら製作に名前を連ねていたチャールズ・シァイアーの名前がクレジットに無いんだけど、別れちゃったのか?) ● もう徹底してケイリー・グラントを演じるメル・ギブソンのチャームを頭から尻尾まで魅せる映画である。「マーヴェリック」や「エア・アメリカ」のような豪快なメルもいれば「陰謀のセオリー」で見せた弱々しいメルもいる。今回もろケツこそ出さないものの厚い胸板は披露するし、女装シーンもある。そればかりかシナトラの「アイ・ウォント・ダンス」をバックにシルクハットをひょいっと被ってコート掛けとのダンスまで魅せてくれるのだ。その代わりヒロインのヘレン・ハントはほとんど無視されていて、キスシーンでもカメラがとらえるのはメルの顔のみ。ヘレン・ハントは項(うなじ)しか写らない。てゆーか、そもそもメル・ギブソンのラブコメの相手役にヘレン・ハントをキャスティングした理由が「女性ファンの反感を買わない人」っていう以外に考えつかない。男のおれの目にもこれだけ魅力的に写るのだから、いままでメル・ギブソンを濃すぎて敬遠してきた諸姉にも自信を持ってお勧めできる。 ● メルが演じるのは極小ビキニの北欧娘がニッコリ微笑むウィスキーとかタバコの広告が十八番の広告ディレクター。女のパンツを脱がすことにかけては誰にも負けないが、女の頭の中味にはとんと疎い“男の中の男”ってやつ。それがある日とつぜん「女性が頭のなかで考えていること」が“聞こえる”ようになり、最初は自分がいかに周囲から嫌われてるかがわかって落ち込むものの、その特殊能力がナンパの強力な武器になることがわかって有頂天。よし、他社から引きぬかれておれの上司になりやがった小生意気なヘレン・ハントのアイディアを“聞き出して”出し抜いてやるぜ!・・・というスクリューボール・コメディ。一貫して「新しい皮袋に古い酒を注ぐ」映画を作りつづけてきたナンシー・マイヤーズならではの、観てて幸せな気持ちになれるウェルメイドなオールド・スタイルのコメディだが、そのじつ「女の考えてることがただ“聞こえる”ということと“きちんと耳を傾けて相手の気持ちを理解する”ということはまったく違う次元の話なのだよ」という現代の女性映画としての主張もきちんとなされている。 ● 5つ星にしなかった理由はただひとつ。ラストがピシッと決まらないのだ。この映画のエンディングは、落ちこむメル・ギブソンに対してヘレン・ハントが言う「そんなことないわ。あなたは女の望むもの(WHAT WOMEN WANT=原題)を持ってるじゃない」という台詞以外にはありえないではないか(←いや劇中にはこんな台詞はないんですよ。おれがいま考えたの) それをいきなり「あなたは光り輝く甲冑を着た英雄」って何だよ?(そんな伏線あったかあ?) ● メルが前々からコナをかけているコーヒースタンドの売り子にマリッサ・トメイ。ひさびさに魅力的かつセクシーな彼女本来のコメディ・リリーフぶりを発揮している(おれだったらヘレン・ハントよりこの娘を取るなあ) 別れた妻にローレン・ホリー。メルに改心させるきっかけとなるキツーイひとことを言う高校1年生の娘に「地上より何処かで」のアシュレー・ジョンソン。結婚相談ドクターに(ノンクレジット出演の)ベット・ミドラー。コピーライター志望だったのにメルに(面接もされずに)ハネられて、社内のメールガールをしてる地味ぃなメガネの女性社員に(「ハード・キャンディ」での好演が認められて同じような役に抜擢された)ジュディ・グリア。…ま、これだけいろんな女性と絡んでたらヒロインの扱いも軽くなるわなあ。

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溺れる魚(堤幸彦)

「ケイゾク」の監督の新作。保守的な年寄の繰り言と聞いてもらっていいけど、相変わらずの悪フザケな画面の連続に、最初の1分で飽きちゃってタイトルが出る頃には映画館を出たくなってた。見目お麗しき仲間由紀恵さんを心の支えに我慢して観続けていると、1時間を過ぎた頃からようやくストーリーが転がり始めて、撮り方もすこし普通になってくるのでなんとか最後まで観ることが出来た。感想としちゃあれだな。おれも仲間由紀恵のキスマークの付いた紙ナプキンは欲しいかも(火暴) ● てゆーか、なんで三池崇史の悪フザケは許せて、こいつの悪フザケは許せないんだろう? それはたぶん三池崇史は「映画なんてキョーミねえよ」ってなポーズをとりつつ根本のところで映画を――登場人物を…と言ってもいい――信じてるんだと思う。対して堤幸彦にとって映画の登場人物は(まさにこの映画の劇中人物が口にするように)ゲームの駒でしかない。ゲームの駒を使って描けるものは当然「ゲーム」でしかなくて、こいつには端っから「ドラマ」を描こうなんて気持ちはサラサラない。たとえば本作では冒頭の「思わせぶりな謎」に対しての明確な解答は与えられないままだし、犯人の動機すら明らかにはされない。そういう態度で「映画」を作るやつに「日本映画への期待を抱いてもらえるような作品にしたい」とか言われても困る。宍戸錠を出せば赦されると思ったら大間違いだ。少なくともおれはアンタなんかに日本映画の未来を託したくはないよ。 ● 俳優陣で儲け役は悪者キャラのIZAM。「漂流街」のミッチーほどじゃないけど「カッコイイ一瞬」がいくつかある(でも、最後にはないがしろにされて放り出される。ゲームの駒だから) あと、照明が暗すぎる。こういう「キャラクター主導の映画」では、ちゃんと俳優の顔が見えるように照明(あかり)を当てないと。それと、新宿西口から佃までは5分で走れる距離じゃねえぞ。

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ザ・ウォッチャー(ジョー・シャーパニック)

なんかまたここへ来てMTVやCM出身の監督が急増してる気がする。本作で監督デビューしたジョー・シャーパニックも(ギャガ宣伝部によれば)「MTV出身の気鋭」だそうだ。(これはギャガのチラシには書いてないことだが)本作のキアヌ・リーブスは、シャーパニックがMTV監督時代に口約束で「ヘイ、あんたが映画を撮るあかつきにはおれも出てやっからよ デュード」とか言った言質を取られて(訴訟とかおこされたらカンベンなので)嫌々渋々俳優労組の定める最低賃金で出演したという、いわく付きの作品。だからアメリカ版のポスターとかでは、あくまでも「ジェームズ・スペイダー マリッサ・トメイ主演」であって、キアヌはあくまで「特別出演」扱い。インタビュー協力とかもなし。そりゃ最低賃金でそんなにネーム・バリューを利用されたらタマラんわなあ。だから、ギャガが作った(あたかもキアヌのワンマン映画のような)日本版のポスターとか予告篇とかをキアヌのエージェントにチクったら即座に訴訟沙汰になるものと思われる。いや、しないけどさ。フッフッフッ…。 ● 映画の中味はこうした周辺情報ほどには面白くない。キアヌが「次の犠牲者」の写真をスペイダーに送りつけて「24時間後にこの女を殺す」と予告。警察とFBIが必死になって公開捜索するが、シカゴのような(=東京のような)大都会で1人の人間を捜しだすことが如何に困難か…というくだりは面白いのだが、その趣向がうまくドラマ全体の構成に結びついてこない。もっと都会の孤独な女たち=被害者にフォーカスしてれば見応えがあったかも。あとクルマの(ガソリン浸しの)ボンネットに点火したら、まず自分の車が吹っ飛ぶと思うぞ。 ● (当たり前だが)やる気のないキアヌ・リーブスは今にも「ヘイ、デュード!」とか言いだしそうで「マニアックなサイコキラー」には見えない。キアヌに“惚れられる”ノイローゼ気味のFBI捜査官ジェームズ・スペイダーは適役だが、精神分析医にマリッサ・トメイをキャスティングするセンスの無さは信じがたい。「やる気のなさ」が伝染したのか顔がむくんでるし、思いっきり不自然なカツラのような髪型も最低だ。キアヌのファンにも、マリッサ・トメイのファン(=おれ)にもお勧めできない。「ジェームズ・スペイダーが出てればなんでも良い」という盲信的スペイダー ファンにのみお勧めする。

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張り込み(篠原哲雄)[ビデオ上映]

6人の監督がデジタルビデオ作品を競作する「ラブシネマ」シリーズの第4弾は、「はつ恋」「死者の学園祭」の篠原哲雄の新作。自殺の名所として有名な高層団地の最上階に住む若い主婦の部屋に1人の刑事が訪ねてくる。「何のご用でしょう?」「はあ、張り込みです」 向かいの棟の部屋に爆弾犯人が潜伏してる可能性があるのでベランダから見張らせてほしいんですわすいませんねえご迷惑をおかけしますどうもご協力ありがとうございます…とズカズカと入りこんでくる、やたら愛想がよくてあつかましいヒゲ面の刑事。でもこの男、一般人のあたしに平気で捜査の事べらべらしゃべるし、なんかあたしの事もよく知ってるみたいだし…。さて、いかにも胡散臭い刑事の正体は? その目的は? 見えているものの裏に隠されているものとは?…というサスペンス映画。小予算ゆえの方法論だろうが、基本的には部屋での2人芝居のみ、というじつに演劇的な作品である。モノクロにすることでデジタルビデオの画質的欠点を(あまり)気にならなくさせたのも上手い戦略(回想シーンだけがカラーで描かれる。…え、回想?) ヒロインには(おれは観たことないけど)テレビ「天までとどけ」の長女役(若林志穂あらため)若林しほ。ヌードシーンあり。“得体の知れない”という形容がピッタリのヒゲ面刑事に、小市慢太郎。京都の劇作家マキノノゾミの劇団「MOP」の看板役者だそうだが、こいつがじつに巧かった。団地の一室の話だから、派手な銃撃戦や奇想天外な展開とは無縁だが、ちゃんと頭を使った脚本(豊島圭介)と役者の巧さで魅せる一品。原作はヤングマガジン系の漫画家・華倫変(かりんぺん)←これがペンネーム の短篇。

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スーパーノヴァ(トーマス・リー)

す…、す…、すごいもんを観てしまった…。こんなおやじギャグのような「下ネタ脚本」に巨費を投じることに誰も疑問を抱かなかったのだろうか!? 特に医療宇宙船の女性医務員を演じるロビン・タニーは(まるで「エンド・オブ・デイズ」で二十歳まで処女を守った反動のように)90分の映画に4回も無重力セックスの場面のある役柄に疑問を持たなかったのだろうか(←乳は見えません) 「エイリアンの卵」のような未確認物体を発見して、乗務員たちがその正体についてあーだこーだと推測してるときに「宇宙人の大人のオモチャかしら?(Alien sex object ?)」などという台詞を喋らされることに抵抗は感じなかったのだろうか。それとか「ワープ時に乗務員たちは(「ザ・フライ」の物質転送装置と同じ理屈で)一糸まとわぬ姿で透明な個人用カプセルに入らなきゃいけない」などという嬉しい設定もあったりする。でもってトドメがあの大ネタだ(これはご覧になった時のお楽しみに別ファイルにしておく) まわりのお客さんには悪かったけどつい爆笑しちゃったぜ。いやあ、いいもん観せてもらいました。なお、星3つを信じて観に行って、怒り心頭となられてもおれは責任とらないのであしからず。 ● 男の主人公の「ドラッグ中毒からリハビリ中の元軍人」という設定がまったく何の伏線にもなってない副船長に、今回けっこうタフガイなジェームズ・スペイダー。女の主人公の(どうしてもスペイダーより強そうに見えちゃう)ドクターにアンジェラ・バセット。出てきて無重力セックスと(ハダカの胸板を見せつつ)逆立ち腕立て伏せをしただけで退場しちゃう医療技師にルー・ダイアモンド・フィリップス。どんな未知の病原体がいるかわからない深宇宙の医療船に勤務してるくせに未確認物体にへーきで素手で触れてしまう“豪快さん”だ。監督のトーマス・リーってのはアラン・スミシーの別名で「トーマス・リ」ぐらいまでをウォルター・ヒルが、最後の「ー」をフランシス・コッポラが担当したらしい。


写真家の女たち(オードリー・ウェルズ)

両親とも弁護士という裕福な家庭で、成績優秀容姿美麗な姉に気圧されて、萎縮しきって育った劣等感のカタマリのような二十歳の小娘が、姉の結婚式に写真を撮りに来た雇われ写真家の加納典明の歯の浮くようなおだてにコロリと騙され、せっかく受かった東大法学部にも行かず、家出してテンメイのロフトに転がり込む。毎夜のゴールデン街での芸術論争や、ヌードモデルをしたり、アシスタント代わりに写真を教えてもらったりして「これでアタシもすっかり芸術家村の一員」と舞いあがる。でも、気がついたらウエイトレスで家賃を稼ぐ毎日。憧れの男の正体はロクに仕事もしないアル中のスケベおやじでした。ちゃんちゃん…という話。どーでもいいよ、はっきり言って。だいたいこの話でヒロインが脱がないってのは詐欺じゃねえか<結局それかい! ● 「ことの終わり」では寝取られ亭主だったスティーブン・レイが、ここでは若い女を次から次へとタラしこむ“ウブな娘っ子にいろいろと教えたがり”のアイルランド人の写真家を演じる。だけど、この役はもっとハンサムな人がやらないと説得力がないと思うがなあ。ジェレミー・アイアンズとかサム・シェパードとかさ。バカな小娘に、笑うとじつは歯茎っ娘なサラ・ポーリー。棒姉妹の姉にジーナ・ガーション。「あなたが若い女とばかり付き合いたがるのは、あなたみたいなヒッピーくずれの二流写真家に“憧れの視線”を送ってくれるのは世間知らずの未通娘(おぼこむすめ)――うちの娘みたいな――だけだからよ。まともな大人の女なら破れたジーパンの男なんかに目もくれないわ」と写真家を完膚なきまでにたたき潰す正論を吐いて去って行くヒロインの母親を演じるベテラン女優ジーン・スマートがカッコ良すぎ。 ● 総体としては星2つの「普通につまらない映画」なのだが、ラストシーンの“いい気なもんだ”度が目に余ったので最低点とする。ちなみにこういう終わり方だ>[いちどは写真家の元を離れたヒロインだが、4年後に、男がエイズ(?)で死にそうときいて看病に戻ってくる。想い出の屋上に2人。「おれの最期はどんなんかな」という写真家に、ヒロインが元気づけようと語る、そのファンタジーが映像化される――あなたは廊下を歩いてる。各部屋にはあなたの過去の“教え子”たちがいてあなたを赦したり愛してると言ったりするの。最後の部屋にはもちろんわたしがいて最高の笑顔であなたを見送るわ。そして突き当たりの部屋には何があると思う? 突き当たりの部屋にはねえ…ピチピチした19才の女の子がカメラを手にあなたを待ってるの!]<ええい、勝手にさらせ!

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ただいま(チャン・ユン)

「クレイジー・イングリッシュ 瘋狂英語」では主人公のキャラのあまりの強烈さの蔭で、監督としての才能があるんだか無いんだかよくわからなかったチャン・ユン(張元)の新作。16才のときに行き違いから人を殺めてしまい、以来、北京の市立刑務所に服役中の野沢直子が、17年後に恩赦で旧正月帰郷(過年回家=原題)をゆるされる。たまたま非番となった同郷の(ヒロインよりも年下の)女性看守主任・鈴木紗理奈が同道することになる…。 ● 今回はドキュメンタリーではなく、脚本にもとづいて俳優が演じる「劇映画」なのだが、そのあまりにシンプルな(=一本道な)ストーリーゆえドラマ仕立ての社会派ドキュメントに見えてしまう。普通の映画ならば後半の山場に持ってくるであろう「ヒロインは誰を殺したのか」という謎が「長めのプロローグ」として最初っから観客に提示されてしまうのも、ドラマというよりドキュメンタリーの文法という気がする。 ● この映画でいちばん面白かった部分は(なにせ17年ぶりの帰郷なので)ヒロインの住んでいた北京市街の石造りの街路が再開発の波に洗われて、すっかり取り壊され瓦礫の山となっており、住民たちは郊外の吹きっさらしの野っ原に建つ団地――それも日本の基準で言ったら1960年代に建てられていたような無愛想な建築物だ――へ強制移住させられている、という件り。北京の現在の姿が伝わってきて興味深い。中国映画では(国の恥部なので)めったに描かれることのない刑務所内部の様子が描かれているのも貴重(この映画、中国政府の検閲を通ってるのかな?) あと、囚人の送迎マイクロバスが「北京市立刑務所」とか書いてない普通のクルマだったのが「お上の温情」って感じでちょっと意外だった。えーと、ちなみに劇中では誰も「ただいま」なんて言いません。

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惨劇の週末(アルヴァロ・フェルナンデ・アルメロ)

「御茶漬海苔プロデュース 御茶の魔劇場」と銘うったSPOの安売りホラー3本セットの第2弾。なぜだかファンタスティック映画が多く作られているスペインからやってきた「ラストサマー」の亜流。犠牲者は男3人+女3人の「セント・エルモス・ファイアー」な若者たち。復讐鬼となるのは(仲間の1人であった)傲慢な新進画家。「ラストサマー」の「第1部:事件篇」と「第2部:復讐篇」のうち、これは「復讐篇」から始まってじょじょに「事件篇」が明らかになるという構成。ただスラッシャーではなく心理サスペンスなのでハデな惨殺シーンとかを期待してると肩すかし。

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ことの終わり(ニール・ジョーダン)

アイルランドの映画作家ニール・ジョーダンの「マイケル・コリンズ」(1996)以来の劇場公開作。この人、おれにとっては「狼の血族」以来、ファンタ系の映画監督というイメージなんだけど、なぜか日本では“そっち路線”は「ブッチャー・ボーイ」(1997)「イン・ドリームス 殺意の森」(1998)と2本続けてストレート・ビデオになってしまって悲しいかぎり。「日本じゃ当たらない」とか思われてるんだろうけど、…そのとおりかも知んないけど、でもジョン・シュレシンジャーのつまらない「スウィーニー・トッド」を公開するんなら「ブッチャー・ボーイ」を公開してくれてもいいじゃないか。ジェニファー・ロペスとヴィンセント・ドナフリオ&ヴィンス・ヴォーンの「ザ・セル」が公開可能なら、アネット・ベニングとロバート・ダウニーJr.&アイダン・クインの「イン・ドリームス 殺意の森」だって公開できそうなもんじゃないか(そーゆーもんじゃない?) ● ま、それは措いといて「ことの終わり」だが、久々の王道メロドラマである。1946年、雨のロンドンで2年ぷりに再会した旧友の浮かない顔。妻が浮気をしているようなので私立探偵を雇おうかと思っている、と。だが、その人妻こそは自分と2年前まで狂おしく愛し合っていた相手だった…。2つの謎がストーリーを転がしていく。すなわち現在時制においては「かつて愛し合ったひとは別の男と浮気をしているのか?」という主人公の嫉妬の感情。また過去の回想においては主人公が語りたがらない「2人が別れた顛末」について。とくに回想シーンで描かれる(ドイツの空襲下での)激しい恋はよろめきドラマと言ってもいいほど。濡れ場も1970年代の日活ロマンポルノほどにはあるし。ジュリアン・ムーアのヌードは初めてじゃないけど、てゆーか「初めてじゃない」どころか、この人「ショート・カッツ」のヘアまるだし とか「ブギーナイツ」のアネット・ヘブン役をやってきたわけだけど、逆にこういうロマンティックな濡れ場は初めてかも。「ハンニバル」の大ヒットでギャラ大幅アップは確実なので、もうハダカ仕事はまわって来ぬやもしれず、美しい白い裸身もこれが見納めか?<悲しい。 ● 主人公の小説家にレイフ・ファインズ。この人、キリリとした顔はカッコイイのだが、ニヤけた顔がちょっと嫌らしい感じ。ヒロインの高級官吏たる夫にニール・ジョーダン組のスティーブン・レイ。「クローサー・ユー・ゲット」の肉屋のボンクラ青年や、「ひかりのまち」の哀しいアル中親父のイアン・ハートが実直(ちょっと間抜け)な探偵に扮して絶妙のコメディリリーフをみせる。しかし、屋敷に潜入して日記とか盗って来ちゃうのは探偵じゃなくて泥棒だと思うが、昔の探偵ってみんなああだったのか。音楽は開巻最初の1小節でそれとわかるマイケル・ナイマン。今回はわりと控えめで、ここぞというときに鳴らしている。

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ベニスで恋して(シルヴィオ・ソルディーニ)

2000年にイタリアでいちばん当たった映画。イタリアのアカデミー賞(ダビッド・デ・ドナテロ賞)で最優秀作品賞ほか9部門を制したんだそうだ。中味は平凡な中年男女のラブストーリーである。日本でいえば倍賞美津子と小林稔侍、アメリカ映画ならジョーン・キューザックとハーベイ・カイテルというような作品だ。 ● どんくさい中年主婦が団体パックツアーの途中で家族とはぐれ、ひょんななりゆきでベネチアへ。じつは彼女、生まれたときからイタリアに住んでるのにベネチアには行ったことがない。せっかくだから1泊…が2泊、2泊が3泊。服装がピンクのスパッツというオバサン・ルックから花柄のワンピースに変わるにつれて、彼女の心にも潤いがよみがえってくる…。夏のベネチアで彼女を迎えるのは、さびれたレストランの中年ウェイター、男運の悪いエスティシャン、アナーキストの花屋の老人など。ベネチアという街が、ヒロインの「退屈な日常」から「活き活きとした非日常」への入口として機能していると同時に、ヒロインの存在もまたベネチアの裏通りに吹き溜まって、枯れかけていた人たちにふたたび花を咲かせる「幸福の天使」であるわけだ。やっぱりこーゆー人生の愉しさを謳歌する映画を撮らせたらイタリア映画は伝統的に上手いね。原題は「パンとチューリップ」。つまり「人生、パンも大事だけどチューリップもなくちゃ」ということですな。 ● ヒロインには舞台女優/演出家のリーチャ・マリエッタ。部屋にいつも首吊り用の縄がぶらさがってるアイスランド人の孤独なウェイターを演じるのは、黙ってそこに座ってるだけで絵になる名優ブルーノ・ガンツ。この人、ドイツ人かと思ってたら、お母ちゃんがイタリア人なんですと(ちなみに父親はスイス人) ヒロインの亭主に雇われてベネチアまでヒロインを捜しに来るマザコン&でぶ&ミステリ・マニアの(ジャック・ブラックみたいな)配管工のキャラがケッサク。

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アヴァロン(押井守)

まあ予想していたことではあるが、そりゃ押井守に好き勝手やらせりゃこーゆーことになるわなあ。この人は「うる星やつら」や「機動警察パトレイバー」のように、商業的制約のもとで作ったほうが良いものが出来るのはフィルモグラフィから実証されてるのに。おそらく「本物の戦車が使える」という理由で選んだに違いない「ポーランド・ロケ/ポーランド俳優/ポーランド語の台詞」にしても、オリジナリティを追求するあまり、結局ひとまわりしてラース・フォン・トリアーやエンキ・ビラルとかのヨーロッパ系ファンタ映画の真似に見えちゃうのは皮肉としか言いようがない。実写画面をコンピュータに取り込んで徹底的に加工&CGを描き加えて(セルではなく)実写によるアニメを作るという試みは興味深いが、それとて対費用効果を考えたら疑問だ。ほんとバンダイもこんな金喰い虫の監督を、よく面倒見てるなあ。 ● 話がいつもおんなじなのは問わない(「忠臣藏」だって「四谷怪談」だって何度もリメイクされてるじゃん) ただ、本来の「押井守ドラマ」ならば、終盤で「消えたリーダー」が滔々としゃべる台詞で「その世界の謎」が解明され、そこで観客は現実崩壊感を味わえるはずなのに、なにせ台詞がポーランド語なのでいまひとつカタルシスが得られないのが致命的(そこまで睡魔と闘ってきた努力はどーしてくれる!) ヒロインの購入する書物がなぜか「日本語の本」なので、ははぁん…最後はきっと、ここまでの話はすべて「バーチャル・リアリティがテーマのゲーム画面」で、プレイヤーは日本のおたく君たち。ヒロインの正体はネカマの千葉繁でした。ちゃんちゃん。…てなオチだと予想してたんだけど、違ってた。<あたりまえ。 ● なにしろ「実写アニメ」なので(「攻殻機動隊」のヒロインにクリソツの)ポーランド女優にも演技とか表情は初めから要求されていない。主要キャラ以外の「街の人たち」(=エキストラ俳優)が意図的につねに静止したままなのもアニメ感を演出してる。カメラマンはポーランド人。音の仕上げを、なんと(ルーカスの)スカイウォーカー・ランチでやっていてドルビーデジタルEX&THX仕様になっている。…てゆーか、ヒロインはどこで靴を履いたんだよ?

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BLOOD THE LAST VAMPIRE(北久保弘之)

「人狼」に続く押井守ブランド・フランチャイズの…というかプロダクションI.Gの新作アニメーション。どのようなコンセプトあるいは自信に基づくものか50分の中篇である(当日料金は1,500円) おれはオープニングでつまづいてしまった。営団地下鉄 銀座線の、田原町から浅草までの車内で幕を開けるんだが、まず銀座線はあんなけたたましいドルビー・デジタルのキンキンした音はしない。そして銀座線の車両はあんなに広くない(あれじゃJRの中央線だ) それと、駅間で旧式車両の車内照明が消えるのはほんの「一瞬」であって、この映画に描かれているような「暗闇の時間」なんてものは存在しないのだ。いや、ふつうのアニメならこんなことは言わんさ。だけど「リアリティ重視の背景画像」を明らかにその魅力(=売り物)のひとつとしている作品において、こういういい加減さは(たとえそれが小さな擦り傷であっても)目立つんである。あと、1966年という時代設定なのに吊革だけが最新デザインなのはどういうわけだよ。 ● 「オリンピック前夜の(パラレルワールドな)東京」という歴史の書き換えに面白味があった「人狼」に対して、本作の「ベトナム戦争当時の横田基地」という舞台設定は“思わせぶり”なだけで、そうでなくてはならない必然性が欠けている典型的な独り善がりに過ぎない。横田基地のある福生(ふっさ)の町の描写にも違和感がある。 ● 50分しかないので、アクション(=そこで行われていること)を描くのが精一杯でキャラクターの内面のドラマは描かれない。それは正しい選択だろう。だが(タイトルにもなっているように)ヒロインが「ヴァンパイアの一族の最後の生き残り」いう設定であるならば、少なくとも「なぜヒロインは血を啜らずに生きていられるのか?」というフォローをしておくのがジャンル映画としての最低条件ではないのか?(「その秘密はPS2のゲームで明らかに!」なんてことだったら、それはあまりにも客を馬鹿にしてるというものだ) ● 監督は「老人Z」の北久保弘之。せっかくキャラクターデザインが寺田克也なのだから(こーゆーのとかこーゆーのを描いてる人ね)もう少しエロチックな場面を入れてほしかったなあ。保健室で少女吸血鬼が同級生の襟元をはだけて血を啜る…とかさ(火暴) フルデジタル・ペインティングによる彩色は一見の価値ある美しさだが、肝心の動画が下手くそ。コンピュータに投資する金があったら優秀なアニメーターを育成したほうが良かないか。いや、マジで。

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キンスキー 我が最愛の敵(ヴェルナー・ヘルツォーク)

怪優クラウス・キンスキーは1991年に65才で死んだ。普通の人なら“早死に”だが、本作を観た後では「そりゃ死ぬわ、そんだけエネルギー使って生きてれば」と妙な納得をさせられる。マカロニ・ウェスタンの魁偉な悪役や、寺山修二の「上海異人娼館 チャイナ・ドール」での“ホンバン男優”として知られるキンスキーは、ドイツの異能の映画監督ヴェルナー・ヘルツォークと一緒に「アギーレ 神の怒り」(1972)、「ノスフェラトゥ」(1978)、「ヴォイツェク」(1979)、「フィッツカラルド」(1982)、「コブラ・ヴェルデ 緑の蛇」(1987)という余人には決して為しえない5本の映画を撮った。「キンスキー 我が最愛の敵」は、ヘルツォークが当時の舞台裏の映像と共にキンスキーとの思い出を語るドキュメンタリーである。と言っても、ちっとも褒めたたえたり偲んでるわけではなくて、わざわざ南米の「アギーレ」や「フィッツカラルド」のロケ地まで出かけて行って、ただ「あのときは非道い目に遭った」だの「キンスキーはほんとに人間のクズだ」だのと、愚痴を垂れてるのである。言ってみれば「ハート・オブ・ダークネス コッポラの黙示録」と同ジャンルだが、こちらは、ほかならぬヘルツォーク本人の監督作だってところが凄い。「ア…」と「フ…」にド肝を抜かれた人は本作を観て「なるほど少しぐらい(いや少しじゃないか)狂ってないとこんな映画は作れないのだ」と得心されることだろう(逆に言えばその2本を観てないとこの凄さは伝わらないんじゃないかと思うので、公開順が逆じゃないか?>パンドラ) それにしても「アギーレ」がたった37万ドル(4千万円ぐらい?)で作られたというのはちょっと信じがたいな。 ● 本作は良く出来たミステリーのような構成になっていて、その白眉は、それまでさんざキンスキーへの文句を連ねてきたヘルツォークが現場で書いていたという「メモ帖のページ」がアップになるところである。そこにはアリが這ってるような…常人にはとても読めないような小さい文字がギッシリと紙を埋めつくしているのである(!) ほとんど映画の終わり近くに登場するこのカットで、おれを含めて数人から思わず「うわあ…」と声が漏れた。ホンモノのキチガイはこいつのほうだったのだと、キンスキーを狂わせていたのはヘルツォークだったのだと観客全員が悟る瞬間である(繰りかえし書いておくと、この映画の監督はヘルツォーク自身である) その後しばらくのあいだは、次の場面になっても場内にはザワザワとした動揺が残っていたほどだ。 ● レアトラックとして「フィッツカラルド」の、鐘楼で鐘を鳴らして「オペラハウスを作るぞっ」と叫ぶ主人公をジェースン・ロバーズが演じたバージョンが収録されていて、期せずしてロバーズの追悼にもなっている。キンスキー版では「強迫観念に囚われたキチガイ」にしか見えなかった人物像を、ここではロバーズは「憎めない法螺吹き」として演じてるように見える。しかもそのバージョンでは傍らにミック・ジャガーがいるのだ(!)

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うつしみ(園子温)[キネコ作品]

「息をつめて走り抜けろ」というタイトルのピンク映画(もしくは自主映画)として企画された60分の作品が(過去に天野天街の「トワイライツ」を製作した)愛知芸術文化センターのスポンサーシップが付いたことにより、ドラマ部分とは直接かかわりのない「ファッションデザイナー・荒川眞一郎と、写真家・荒木経惟と、舞踏家・麿赤児のドキュメント」とミックスされて、1時間50分の「うつしみ」という不思議な映画になった。“うつしみ”とはすなわち「現身」あるいは「虚身」。冒頭に引用される「花瓶」と「コーヒーカップ」の暗喩からもわかるように「精神の容れ物」。もっと言うなら「人生の容れ物」としての「肉体」のことである。だから「肉体を包むものを作る人」や「ハダカの肉体を写し取る人」や「肉体そのもので表現する人々」のドキュメント−−といってもサワリをちょっと撫でただけの代物だが−−はドラマ部分のテーマを補完しているわけだ。それは理屈としてはわかる。わかるけれども邪魔くさいよ。ドキュメント部分をとっ払って突っ走る60分のドラマだけを観たかった。つまり、それほど傑作なのである(↓) 
★ ★ ★ ★ ★ 息をつめて走り抜けろ(園子温)
男「パンツは…脱がないのか?」 女「突き破ってごらん!」・・・くぅ〜、カッコイイじゃねえか。まるで決闘に挑む2人のような台詞だ。そうこれは(比喩ではなく字面どおりに)疾走するアクション恋愛映画なのである。そしてまた本作は、恋愛(というシステム)の完璧なビジュアル化に成功した稀有な例でもある。「恋とはこういうものだ」という詩人・園子温の強引な主張は、安易な否定を許さないほどの迫力で観客を圧倒する。クライマックスで描かれる映画史上はじめての疾走ファックに、おれは泣いたよ。「きみを走らせていたのは現実だ。おれを走らせていたのはロマンなんだ!」 ● 山をも動かす…てゆーか○○○をも動かすパワーで恋に突っ走る女子高生に劇団ナイロン100゜Cの澤田由紀子。処女とヤるのにいきなり立位〜駅弁ファックという鬼畜な おでん屋に鈴木卓爾。走ることをしらないカノジョに津田牧子(=鈴木敦子) もともとピンク映画になるかもしれなかったぐらいだから女優は脱ぎまくり。撮影もビデオにしてはたいへんに美しく、キネコも上質の仕上がり。

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阿修羅の伝説 死闘篇(長濱英高)

全日本格闘技チャンピオンになった夜、赤いドレスの女に両目を切り裂かれて失明。山にこもって修行して「盲目の格闘家」となった男…というのが今回の的場浩司の役柄。つまり、めずらしく「やくざもの」ではなくて、「凄腕の中国人殺し屋」とか「正体不明の格闘家の助っ人」とか「地方都市を牛耳る謎の巨大組織」とかが登場する、いかにも「小池一夫+池上遼一」な劇画的リアリズムの世界である(原作のクレジットがないのでオリジナル脚本のようだ) 監督は1997年に「もうDEBUなんて言わせない!」と、的場浩司 主演の「かっ鳶五郎」でデビューして以来の3作目となる長濱英高。マイクバレがあったり、女優のクロースアップでピントズレしたりと技術的に稚拙なところもあるが、2時間ぶんのドラマを80分で語ってしまう性急な演出と、意欲的なフレーミングは注目に値する。「首を刎ねられた男(の胴体)が自分の首につまづく」なんていうオオッという描写もある。つまり、本作はまだまだプロの映画とは言えないが、この監督は将来に傑作を撮るかもしれない、ということだ。 ● 主演の的場浩司は目で演技する…てゆーか、もの凄い形相で相手を睨みつけることを「演技」だと勘違いしてる人なので、盲(つまり目を瞑ってる)という設定がうまいぐあいに臭みを抜いた。「組織の陰謀で非業の死を遂げた(主人公の恩人である)格闘ジムの会長の娘」というステレオタイプの権化のような設定のヒロインに大河内奈々子。「凄腕の中国人殺し屋」に、意外とマッチョで運動神経の良い石丸謙二郎。まあ、池上遼一イズムからすると、もっと中性的な印象の俳優がやるべきなんだが。「謎の助っ人」に、これもミュージカルで鍛えてるので動きの良い雨宮良。格闘シーンになると、なぜか地下のボイラー室に体育マットが敷いてあるのはご愛嬌だ。青森県八戸市で全面ロケーションしている。あと主人公が盲目になって“目覚めて”から「葉隠」を愛読してるって設定なんだけど、やっぱあれかね、点字本があるのかね?>「葉隠」

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ファイナル・デスティネーション(ジェームズ・ウォン)

ジョン・デンバーがそんなに恐ろしい音楽だったとは! 「運命」そのものを悪役に据えるというアイディアが功を奏した「死神もの」のバリエーション。あるいは「歴史改変SF」のホラーによる変奏とも言える。つまり「目に見える殺人者」が存在しないので、殺し方(というか死に方)も「13金」から「ラスト・サマー」にいたるスラッシャーの流れではなく「オーメン」の“首刎ね”に近い。そしてそれぞれの殺人がアイディア豊かでかなり怖い。シリアルキラーだの爆弾魔なんてのは「架空の世界の住人」って気がするけど「運命」ってのは(それが善なるものか邪悪なものかは別として)たしかにありそうじゃん。おれなんか映画館からの帰り道、頭上でジジジと音を立てるネオンを(落ちてきやしないかと)思わず見上げてしまったよ。 ● “墜落する運命”の旅客機で、いまパリへの修学旅行に旅立とうとする高校生たち。主人公が運命を予知して騒ぎたて(引率教師1名を含む)7人が飛行機を降りて命拾いする。ところが「運命」は“死ぬ定め”だった7人を手放すつもりなどなかった。主人公は、なんとか運命の“法則”と“順番”を見抜いて“襲いかかる運命”に立ち向かう! ● 「運命」は警察の目には自然災害や事故としか見えない方法で“運の良い”7人の命を奪って行く。だから、急にバタンとドアが閉まったり、クルマのエンジンがかからなくなったりするのはいいんだけど「物理的な力も働いておらず傾斜もないバスルームの床で、水が(自分の意思をもっているかのように)自然に引いていく」なんていう自然の物理法則に反する描写は極力ひかえるべき。あと「踏切上の自動車に突っ込んでも止まらない貨物列車」ってのも不自然。これなんか「焦点の合わない目をした運転士」のカットを入れるだけで解決する問題なんだがなあ。「運命」のふりかかる順番の“根拠”がかなり失笑ものなのだが、これはドラマの進行上ある程度いたしかたないとして、「順番を見抜いた主人公が誰かを救うと、その人は“運命をスキップできた”ので助かる」というルールを設定したのに、次は自分の順番となった主人公が“運命を切りぬけた”ならば「残った次の人に運命の魔手が襲いかかる」ってことに考えが至らないのは馬鹿すぎる。しかもこの主人公、その“次なる犠牲者”を救うために山小屋からその人物の自宅まで走って戻ってくるのだ(それもパトカーよりも速く!)・・・というように欠陥も多々あるのだが、それでも「人がたくさん殺される映画」としては久々の傑作と言っても良いのではないか(でも星3つだけど) ● 運命に立ち向かう主人公にティーン俳優の将来有望株デボン・サワ。ヒロインに「TATARI」のアリ・ラーター。「死」の代弁者たる“葬儀屋の男”にトニー“キャンディマン”トッド。最後にご注意申し上げておくが、近々に飛行機に乗る予定の方には(妊婦が「ローズマリーの赤ちゃん」を観るぐらい)精神衛生上よろしくないので、ぜったいに観ないよーに。

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私が愛したギャングスター(サディアス・オサリヴァン)

まるで「ルパン三世」みたいな…って書こうとしたらチラシ裏にデカデカと書いてあるなあ。モンキー・パンチのコメントまで載ってるよ。だけどおれの言ってる「ルパン三世」ってのはテレビアニメの「緑ルパン」のことね。「金を奪う」ってことよりも「警察を出し抜く/からかう」ことに生きがいを感じてる強盗団の首領。劇中では人も死ぬし、アイルランドの話なのでIRAとかも出てくるのだが、銀行強盗も美術品略奪もどこかゲーム感覚で「現実の犯罪」という感じがしないところがまさに「緑ルパン」なのである。この「暢気さ」を成立させているのは「舞台がアイルランドだから」ってのが大きい。あの国ならば、警察があれほど間抜けで、泥棒がのうのうと暮らしててもなんか納得できるっつーか。…まあ、映画で観てるだけで実際に行ったこともないのに失礼な話だが。 ● 忠実な片腕・次元大介に(「ジャッカル」や「マイ・ネーム・イズ・ジョー」でもギャングのボスだった)デビッド・ハイマン。融通の利かない堅物・石川五右衛門に「マイ・ネーム・イズ・ジョー」のピーター・ミューラン。ほかの犯罪には目もくれず執拗にルパンを追う(だいぶ若い)銭型警部に「ウェルカム・トゥ・サラエボ」のスティーブン・ディレーン。「カラバッジオの幻の名画」のもともとの所有者である神父さんに(「ウェイクアップ!ネッド」のヌード・バイカー爺さんこと)デビッド・ケリー。…さて、興行的要請とはいえ、こうしたローカル色の強いアンサンブルに入ってしまうと「ハリウッド・スター」のケビン・スペイシーはちょっと軽い感じがする。コーム・ミーニーあたりに演らせたほうが、決してへこたれない感じが出て良かったんじゃないか。おれの愛するリンダ・フィオレンティーノがスペイシーの“亭主の商売に理解のある”妻を演じてるんだけど(一応それらしい発音はしてるものの)こちらもやはりミスキャスト。 ● 監督は「ナッシング・パーソナル」のサディアス・オサリヴァン。原題は「ORDINARY DECENT CRIMINAL」。劇中でスペイシーが敵対するIRAの幹部に向かって言う「あんたらに較べたら、おれは地道でまっとうで犯罪者だ」という台詞から採られている。

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ゴッド・アンド・モンスター(ビル・コンドン)

気取り屋の、ホモの、死に損ないのじじいが、筋骨隆々の庭師に恋をする話。悪いけどホモ映画は好きじゃないんだよ。だいたい おれは「ベニスに死す」を何度 観ても寝てしまうような感性豊かな人間なのだ。 ● このじじいがただのスケベじじいではなくて「フランケンシュタイン」「フランケンシュタインの花嫁」「透明人間」の監督だってのがポイントで、脳卒中で倒れて以来、過去の…北イングランドでの「アンジェラの灰」みたいな極貧子ども時代や、人生の絶頂期だった撮影現場での想い出やらがランダムに甦ってくる。劇中で引用される「フランケン…」や「…花嫁」のシーンや、再現された撮影現場シーンとかは面白いが、それはこの映画の力ではない。 ● 主演のイアン・マッケランはたしかに「入魂の演技」だが、この役ならアンソニー・ホプキンスでも出来そう。頭カラッポ…かと思うとそうでもない庭師を演じるブレンダン・フレイザーは(おれのイチオシ銘柄ではあるが)この役にはミスキャスト。初登場した時にもっと粗野で男臭い印象を与えられる人でなくては。監督は大して出来の良くなかった「キャンディマン2」のビル・コンドン。なぜか引き続きクライブ・バーカーがエグゼクティブ・プロデューサーにクレジットされている。カーター・バーウェルによる低い基調音の物哀しい旋律が印象に残る。

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レッド・プラネット(アントニー・ホフマン)

泰山鳴動して虫1匹という話(←観てない人には何のことやらわからんだろうけど) 本質的には「ピッチブラック」と同ジャンルのクリーチャーSFのはずなんだが、なんか「2001年 宇宙の旅」とかのハードSF方面に変な色目を使ってるのが映画の“思いきり”を悪くしていて、当然その分だけこちらのほうがつまらない。悪役となる海兵隊仕様AIBOが「1つ目」なのは笑って見ていられるが、ヒロインの役名が「ボーマン船長」ってのはなんかの悪い冗談かね? 本作にはSF映画として画期的な描写があって、それは火星に降り立ったクルーたちが並んで立ちションをするのである(!) あれですかね、この映画の気密服には股間にジッパーが付いてんですかね? 火星に行くクルーに女性がキャリー・アン・モス(セミヌードのシャワーシーンあり)1人だけってのもバランスが悪いし、その1人が母船に残って火星に降りないという構成には「馬鹿じゃなかろか」としか言えんよ。まあ「ヴァイラス」の脚本家じゃ、しゃーないか。みどころがロボットのSFXだけってのも「ヴァイラス」と同じだし。

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6 i x t y n i n 9 シックスティナイン(ペンエーグ・ラッタナルアーン)

知られざるタイ映画の傑作かも…という期待は、オープニング・クレジットが終わる前に失望へと変わっていた。会社でリストラが行われ「女子社員のうちクジ引きで3人を馘首にする」というエピソードから始まるのだが、ヒロインが「当たりクジ」を引くのは観客全員がわかってるのだから、こんなとこチンタラチンタラ描写する必要は無いんだよ。もうそれだけで「これから皆さんがご覧になる作品は(それがコメディであれサスペンスであれ)テンポを欠いた駄作です」と宣言してるようなもんじゃないか。 ● 6号室の「6」という数字の留め金が外れてクルリと「9」に。それで間違ってノミ屋の金が6号室に住むヒロインの手に渡ってしまう。開巻30分で殺人者となったヒロインが事態を収拾しようとあがけばあがくほど部屋には死体が増えて行く…という、明らかにブラックコメディとして撮られるべき素材である。だが初っぱなで懸念したとおり演出が重いんである。トロいんである。笑えないんである。だいたいこんなタイトル付けといて「6号室と9号室の取り違え」というアイディアが、本筋が始まるとまったく忘れ去られてしまうのは鈍感すぎる。てゆーか、なんでタイトルが「シックス・ナイン」じゃなくて「シックスティナイン」なの?(「69号室」なんて出てこないんだけど)

★ ★ ★
追撃者(スティーブン・ケイ)

「おれの名はジャック・カーター。おれと知り合ったら後悔するぜ」・・・ラスベガスの借金取立て屋。腕っぷし以外に誇れるものがない時代おくれの喰えない奴。そいつが、事故死に見せかけて殺された弟の仇を討つために5年ぶりに故郷へ帰ってきた…。ほんとは ★ ★ ★ ★ でもいいかもと思ってるんだが、あまりに世間の評判が悪いので日和って3つにしておく。1970年代風アクションだと無条件に反応しちまうってのは年寄りの郷愁かねえ? ● スタローンも「アタマの足りない(←これは演技だか地だか判別できない)用心棒」って役がいい感じだし、マイケル・ケインやミッキー・ロークやジョン・C・マッギンリー(!)の「昔の名前で出ています」も嬉しいし、「タイタス」で新皇帝を熱演したアラン・カミングがここでも思いっきり弱っちくて卑劣な悪役を演じているのも楽しい。もちろんスタローンとミッキー・ロークの素手の殴り合いも用意されてるし、カーチェイスもある。死んだ弟の妻がミランダ・リチャードソンなので最後は魔女の正体をあらわすのかと思ったら…って、すまんネタバレだな、これ。姪っ子にレイチェル・リー・クック。鼻ピアス黒づくめ煙草スパスパの不良ゴス娘として登場して、最後はすっぴんにナチュラル・ファッションに変わる…という演技力いらずのわかりやすい演出もこーゆー映画では許されるでしょう。何より、ホテルのテラスで「足りない頭で必死になって心に傷を負った姪を元気づけようとする」スタローンの演技はキャリアの中でもベスト。おれは泣いたね。 ● 「1970年代アクション」と「AVID的編集」を違和感なく両立させたジェリー・グリーンバーグの編集は特筆されるべき。初めてのメジャータイトル挑戦となるタイラー・ベイツのスコア(1971年版テーマの編曲?)もカッコイイ( PET というバンドのギタリストだそうだけど有名なバンド?)

★ ★
アート・オブ・ウォー(クリスチャン・デュゲイ)

「スキャナーズ2」「スキャナーズ3」「ライブ・ワイヤー」「スクリーマーズ」「アサインメント」と(おれ的には)今までハズレがひとつもない“B級映画の星”クリスチャン・デュゲイの新作…だったんだけどなあ。「力による平和」を標榜する国連が極秘裏に抱える特殊部隊のリーダーが孤立無援となって闘う…という荒唐無稽な話なんだが、劇中で何が起こっているのかどうもよくわからないのだ。わからないのが「サスペンスとしての演出」なのか「脚本と演出がヘボなせい」なのか「おれの頭が悪いから」なのかもよくわからない…という凄まじさである(3つとも正解という気もするけど…) まあ、筋を理解しようとなんざ思わずにウェズリー・スナイプスのアクションを眺めてるだけならOKかも。「NYPD15分署」の日系人女優マリエ・マチコが(これまた何の役だか最後までよくわからないんだけど)ヒロインとして頑張っている。ライバル隊員にマイケル・ビーン。ウェズリー・スナイプスの上司の国連幹部にアン・アーチャー。マフィアのボスみたいな国連事務総長にドナルド・サザーランド。タイトルの「アート・オブ・ウォー」とは孫子の「兵法」のことだが、脚本にそれが活かされているわけでは(もちろん)ない。

★ ★ ★ ★ ★
恋の骨折り損(ケネス・ブラナー)

製作会社がその名も「シェイクスピア・フィルム・カンパニー」だ。人生をシェイクスピアに捧げているケネス・ブラナーの最新作は、往年のハリウッド・ミュージカルへのオマージュ。意図的にテクニカラーのこってりとした色調を再現。ロンドンのシェパートン・スタジオから一歩も出ることなく全篇がセット撮影されている。ヨーロッパ某国の王様とその学友3人が勉学のために「禁欲の誓い」を立てるが、フランス王の使いとして王女とその侍従3人があらわれて誓いはその日のうちに破られる…という他愛ない話にミュージカルの名曲をちりばめている。まあ、歌はまだしも、踊りは「素人が撮影前に3週間練習した」ものでしかないので、アステアを観ているときのような「感嘆」は感じないが、それでもこの「楽しさ」(愛嬌ともいう)はミュージカルとして合格だろう。ただ問題は、これを「愛嬌」で済ませるには、王様と王女の役には(アレッサンドロ・ニヴォラとアリシア・シルバーストーンなどではなく)絶対にスター俳優をキャスティングすべきだった、ということだ(いや、予算の問題とかあるんだろうけどさ) 助演陣では、トニー谷のような英語をしゃべるスペイン貴族に扮したティモシー・スポールがケッサク。あと関係ないけど、男女ともそれぞれ「白3黒1」ずつなのに黒と黒のペアにならないのは「政治的配慮」ってやつだろうか。「政治的」ということでいえば、ケネス・ブラナーの主張が明確に示されている「歌も踊りもすべて終わった後の5分間」に敬意を表して星を1つ増やした。

★ ★ ★
デモンズ2001(グレン・スタンドリング)

「御茶漬海苔プロデュース 御茶の魔劇場」と銘うったSPOの安売りホラー3本セットの第1弾。みなさんご賢察のとおりランベルト・バーヴァの「デモンズ」とは何の関係もない。原題は「悪魔に関する歴然たる真実」。ニュージーランド製のB級オカルト・ホラーである。ベン・キングズレーみたいな禿頭&口髭の教祖が率いる「悪魔崇拝のカルト教団」に入信した兄が5年前に自殺。以来、カルト教団の化けの皮を剥がすことに執心してきた文化人類学の教授が、「天井桟敷」の団員みたいな白塗り&レザーウェアな信徒たちに拉致される。で、今まで地獄も悪魔も信じていなかった大槻教授が悪夢のような体験をする…。身体にぐにゅっと手を突っ込んで心臓をつかみ出したり、悪魔のCGクリーチャーが出て来たりとサービス精神旺盛で楽しめる。ただ生ゴキブリ警報なので苦手は方はご注意。あと全体になんとなくホモっぽい臭いがする。主人公を助けるナチュラル・ハイな戸川純みたいなイカれ女にカティ・ウルフ。主人公のカノジョのブロンド女弁護士にサリー・ストックウェル。

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太陽を盗んだ男(長谷川和彦)

これは皮肉でもなんでもなく素直にそう思うんだが、モノクロ3時間半のつまらなそうな映画を割増料金まで払って観る気には、とてもなれんので、代わりにもうひとつのバスジャックから始まる物語をご紹介する。1979年に東宝系で全国公開。よく保守的な体制翼賛大東宝が公開を許可したものだ。だってこの映画、修学旅行のバスをジャックした(いまは亡き名優・伊藤雄之助 演じる)特攻隊の生き残りが皇居前に乗りつけて天皇に戦争責任を問うシーンから始まるのだが、なんとそれを本当に皇居前にロケして撮ってるんだぜ。しかも本筋のほうは原爆をオモチャにした娯楽映画なのだ。 ● 主人公は中学校のサエない理科教師。いつもねぼけたツラして風船ガムをくっちゃらくっちゃら。で、ついたアダナが「フーセンガム」 今でいう典型的な“おたく教師”で、「原爆は誰にでも作れる。ただしプルトニウムさえあれば」と断言して、授業で原爆の作り方を熱心に解説しては、生徒から「もっと受験に役立つ授業しろよ」とかバカにされてるような教師である。ところがこのセンセー、本当に東海村の原子力発電所に侵入してプルトニウムを盗み、アパートの部屋で原爆を作っちゃうのである。それで(世界に核保有国は8つ。自分が9番目なので)“9番”と名乗り、原爆をタテに日本政府を脅迫するんだが、そこでハタと困ってしまう。かれには原爆を使って自分が何をしたいのか分からないのだ…。 ● それまで日本で「サスペンス映画」と言えば、やくざ者のドンパチか、犯人がなぜか必ず重い過去を背負ってる社会派ミステリだった。黒澤明の「天国と地獄」や、傑作のほまれ高い「飢餓海峡」、かずかずの松本清張ものはこのタイプ。ところが「太陽を盗んだ男」は、そこに突如として出現した−−原爆を組み立てながら「鉄腕アトム」を口ずさむような−−おれたちにとってリアリティのあるヒーローが活躍する「娯楽アクション・サスペンス」だったのだ。当時の若い観客の熱狂ぶりは「キネマ旬報」読者選出ベスト1、「映画ファン選出による第1回ヨコハマ映画祭」ベスト1といった結果からも想像がつくだろう。 ● 主演の中学教師を演じるのは、当時は第一線バリバリの歌謡曲スターだった沢田研二。1977年に「勝手にしやがれ」でレコード大賞を得て以来、「憎みきれないろくでなし」「サムライ」「ダーリング」「カサブランカ・ダンディ」とヒットを連発、翌1980年には「TOKIO」を発売…とソロ・キャリアの絶頂期にあった。犯人と奇妙な絆で結ばれる警視庁の鬼刑事には東映の菅原文太。「トラック野郎」が大ヒットしてシリーズ化され、寅さんの向こうを張って年に2本ずつ撮っていた時期である。ほとんど活躍しない深夜放送DJに池上季美子。この彼女がやってる(TBSの局アナ・林美雄がDJをやってた「ミドリブタ・パック」ことパックイン・ミュージックをもじったとおぼしき)ブタブタ・ジョッキーなる「若者向けラジオ」の描写が本作最大の弱点で−−このあたりがゴールデン街で酒くらって喧嘩に明け暮れてるカツドウ屋の限界というか−−当時の基準でも死ぬほどダサかったなあ。監督は当時32才の長谷川和彦。だが、わずか2作目にしてこのような「異端の傑作」を撮ってしまったプレッシャーゆえ、それ以来1本の映画も撮れないでいるという、いわば「呪われた映画」でもある。 ● “9番”は結局、何を要求したのか。要求その1は「テレビのナイター中継を最後まで放送しろ」、要求その2が「ローリング・ストーンズの武道館公演を実現しろ」・・・今じゃ両方とも当たり前のようなことだが、信じてくれ1979年のおれたちにとっては、到底、実現不可能に思われた切実な願いだったのだ。そもそも、テレビ局がナイターを最後まで放映するようになったのも、ストーンズの来日が実現したのも、本当にどこかの“9番”−−いまならインドとパキスタンがあるから“11番”か−−が、日本政府を脅して実現させたことかもしれないぜ。・・・おや、否定するのかい? 日本の原子力施設の運営がどんなにズサンかということを、おれたちは今じゃ肌身にしみて知ってるというのに?

★ ★ ★ ★
13デイズ(ロジャー・ドナルドソン)

結末のわかってるサスペンスなんて…と、ぜんぜん期待してなかったのだが、これがじつに面白かった。もっとも、興味ぶかく観られた理由としちゃあ、おれが「キューバのミサイル危機」について「キューバ」で「ミサイル」で「危機」だったって程度の知識しか持ち合わせてなかった、というのも大きいが。<いい歳して馬鹿すぎる…。 ● これは“理想に燃える少数派”が“現実主義者の多数派”を説き伏せるという「十二人の怒れる男」にも通じるディスカッション・ドラマである。まわりがWASPだらけのなかでケネディ兄弟とケビン・コスナーだけがアイリッシュ・カソリックってのが出来過ぎのようにわかりやすい(コスナーが口笛で吹く「ダニー・ボーイ」のメロディーは有名なアイルランド民謡) 完全な室内劇というわけでもなくて、ポイント・ポイントで「空中戦」とか「スパイゲーム」とかが挿入されて2時間半を飽きさせない。「カクテル」「ホワイト・サンズ」「スピーシーズ 種の起源」「ダンテズ・ピーク」と、何をやらせてもピリッとしなかったロジャー・ドナルドソンだが、本作は(やはりケビン・コスナー主演だった)「追いつめられて」以来のひさびさの当たりではないか。まあ、前半のカラー/モノクロの使い分けは意味がないと思うし「出来の良いテレビ映画みたい」という意見には「そのとおりでごぜえます」と頭を下げるしかないんだけどさ。 ● 老兵なれど気骨を秘めた国連大使にロバート・デュバル、どうも信用できない古狸政治家にドナルド・サザーランド、戦争がしたくてたまらない将軍にジーン・ハックマン・・・というキャスティングを普通ならしそうなところを敢えて(すぐには名前の出てこないような)脇役俳優中心のアンサンブルで固めたことがリアリティを生んでいる。その中に入ると1人だけビッグスターなケビン・コスナーが浮いちゃうんだけど、まあ、かれの演技自体は控えめで好感の持てるものだし、興行的要請もあるのだろうから良しとしよう。主役であるJFK役のブルース・グリーンウッドは「ダブル・ジョパディー」の亭主など、このところ卑劣な悪役キャラでノしている人なのだが、本作を観ている間は「この大統領、いつかソ連に寝返るんじゃないか?」などと、おれに疑問を抱かせることはなかったので、これはやはり「名演」だろう。「ロミオ・マスト・ダイ」の監督からカメラマンに復帰したアンジェイ・バートコウィアクが、得意の“滑るように這う”ステディカムの妙技を存分に魅せてくれる。あと、映画ファンとしては1959年のキューバ革命を描いた「ゴッドファーザー PART II」と、1963年(なんと本件の翌年である)の暗殺事件を検証した「JFK」を予習しておくと万全でしょう。


冷たい一瞬(とき)を抱いて(アンジェリカ・ヒューストン)

「たとえそれが不快な内容の映画であってもそれを作る権利は誰にも奪えない。観る観ないは受け手の側の問題である」というのは正論である。これが小説であったならば全面的に首肯できる。小説は作家の頭の中で作られる創作物だから。だが映画は? 小説と映画の違いは、映画では「誰かがその役を演じなければならない」ということだ。では、いくら(フィクションである)映画だからといって、年端もいかない子どもに「義父に折檻され骨を折り、悪戯され泣きはらし、殴られて血みどろになる」などという役を演じさせることが許されるだろうか。それが映画ならば許される? 子役とはいえ職業俳優なのだから許される? 「児童虐待」を防ぐという崇高な目的のためならば許される? いいや、そうは思わない。おれは、これもまたひとつの「暴力」だと思う。たとえ映画のためであっても子どもにそんな思いを擬似体験させる権利は誰にもない。 ● 映画には編集というマジックがあるではないか。智恵を絞って「別撮り」をすればいいのだ。だが、これが監督デビューとなる女優アンジェリカ・ヒューストンは撮影時たぶん11才のジェナ・マローン(後年、「コンタクト」のジョディ・フォスターの少女時代や、「ラブ・オブ・ザ・ゲーム」のケリー・プレストンの娘役を演じることになる)に、明らかに役柄を理解させて「虐待される少女」を演じさせている。つまり映画には義父が少女の尻を革ベルトで鞭打つ場面や、殴って血だらけにして犯す場面が描かれている。さらに付け加えるならば、このジェナ・マローンという子役女優は実生活において「母親による報酬搾取や仕事への口出し」をやめさせるよう裁判所に訴えて、16才となった昨2000年の1月に母親からの「自立権」を勝ち取っている、そんな境遇の少女なのである。 ● 内容についてもひとつだけ指摘しておくと、この映画で「義父」以上に性質が悪いのは、亭主が娘に折檻をしていると知って、なお男と別れられない「実の母親」のほうなのだが、アンジェリカ・ヒューストンはこのジェニファー・ジェイソン・リー演ずる「母親」に対しても、ラストで娘からの「赦し」を与えている。おれはマイケル・ルーカー扮する「叔父さん(=母親の兄さん)」がショットガン持ち出してきて「義父」も「母親」もブチ殺してくれないかと真剣に願ったよ。ほかにグレン・ヘドリー、ダイアナ・スカーウィッド、ライル・ロヴェット、ダーモット・マルロニー、クリスチーナ・リッチらが出演。ナレーションはローラ・ダーン。原題は「カロライナ生まれの私生児」

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真紅の愛 DEEP CRIMSON(アルトゥーロ・リプステイン)

撮影:ギレルモ・グラニーロ 音楽:デビッド・マンスフィールド
センチメンタルなタンゴが高らかにメロドラマの開幕を告げる。それも夜9時からの2時間サスペンスとかじゃなくて、昼の1時からやってる大場久美子とか伊藤かずえとか高木美保とかがヒロインを務めるような「昼メロ」の世界。1996年のメキシコ映画。「ハネムーン・キラーズ」の元になった事件の再映画化…ではなくて、これは「ハネムーン・キラーズ」という映画そのものを原作にした変奏曲。 ● メロドラマだからすべては説明される。「ハネムーン・キラーズ」にあった不条理も冷徹もグロテスクもない。それどころか(連続殺人を扱った映画でありながら)これはサスペンスでもホラーでもないのだ。中年看護婦のヒロインは、太ってはいるがそれほどブスではない。彼女と運命の出逢いをする結婚詐欺師も、カツラ使用者ではあるが二枚目だ。被害者となる女性たちもそれなりに美しく、それぞれの事情があり、作者は暖かい視線で登場人物たちを描いている。この映画は(死化粧のバイトをしてるのでホルマリンの臭いがする)満たされぬヒロインが、ひび割れた鏡を通して見る願望充足夢であり、2人して“鏡の中”に入っていくラストは当然ハッピーエンドだ。ゆるりゆるりとたえず移動するカメラが素晴らしい。アルモドバル映画の常連、スペインの大女優マリサ・パレデスが被害者の老婦人役で出演。近頃ではめったにない「ウルトラ☆ステレオ」が“二束三文 感”を増幅している。

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SLC PUNK!!!(ジェームズ・メレンディノ)

“キレてる兄(あん)ちゃん”を持ちキャラとするマシュー・リラードが主演で「モルモン教の総本山ソルト・レイク・シティ(=SLC)でパンク小僧をつらぬきとおすのは大変なんだ」という話と聞いて「わたしが美しくなった100の秘密」のようなブラック風味の田舎町コメディを想像していたのだが、これは王道の「青春の終わり」ものであった。1人また1人と世間からヒネクレた仲間が櫛の歯が欠けるように消えていき、最後は主人公独りきりに。やがてはその主人公も「体制側」に組み込まれてしまうだろうことを予感させて終わるほろ苦い味わいは「レス・ザン・ゼロ」とかと似てるかも。主人公がカメラに向かってしゃべるのはジョン・ヒューズか。 ● 「パンク小僧」とはいっても、この主人公、高校を卒業してユタ大学の法科も優秀な成績でクリア、そのうえ弁護士の親父は金のなる木を持っている…という恵まれた環境で、そんなんで「パンクだ!」とか言われてもその時点で反則って気もするけど。舞台背景はロナルド・レーガン治世の1980年代。1999年時点の主人公のナレーションがかぶるんだが「現在の主人公の姿」を写さないのはルール違反でしょう。ドラッグで身を持ち崩して行く悲惨なティーンエイジャーにデボン・サワ。最後に出てくるカワイイ娘は誰かいな?と思ったら、おお、すっかり大人になったサマー・フェニックスじゃないか。あと関係ないけど、この映画によるとユタ州じゃビールのアルコール濃度が低いんだそうだ(!)

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パリの確率(セドリック・クラピッシュ)

フランス人ってじつは馬鹿なんじゃないかと前っから薄々疑ってはいたけどやっぱり馬鹿だったか。1999年12月31日の年越しパーティーから翌2000年元旦の朝までの話だが、出てくる奴ら全員が「いよいよ21世紀」だの「21世紀おめでとう」だのホザいておるのだ。どうやら、かの国では「21世紀は2000年から始まる」というのが公式解釈らしい。 ● 「猫が行方不明」「百貨店大百科」のセドリック・クラピッシュの新作。主人公が中出しを拒否したために自分の実存が消えかかった2065年のジャン=ポール・ベルモンドが、1999年時点の父親に「頼むから中出ししてくれ」と頼む…という話。年越しパーティーのトイレでのイッパツで(子どもが欲しい)カノジョが太腿を主人公の腰に巻きつける。(子どもはまだいらないと思ってる)主人公がそうはさせじとイク直前にちんぽを抜く。行き場をなくしたザーメンが(スローモーションで)宙を飛び、ちょうどトイレに入ってきたブロンド美女のドレスにびちゃ。唖然として見つめあうブロンド美女と主人公・・・という導入部を観ればだれだって「T2」のような過去改変SFかと思うよな。つまり主人公の現在のカノジョは間違った相手で、ベルモンドがなんとかしてプロンド美女と主人公をまぐわらせようとする話かと。…違うのだ。主人公がた〜だうじうじうだうだして、最後にこれといった理由もなく衝動的にカノジョとナマでヤッてメデタシメデタシというナメ腐った話なのだ。これだからフランス映画は(以下略) それとか1999年に現れたベルモンドに、カノジョの女ともだちが「わたしのお父さんにそっくり」とか言ったりすんだけど、その女はそれ以上ドラマには絡まずたんなる思わせぶりだったり。なんなんだよまったく。てゆーか、砂に埋もれた非文明的な未来が待ってると知ったら、余計に子どもなんて作りたくなくなると思うが。


アンジェラの灰(アラン・パーカー)

撮影:マイケル・セレシン 美術:ジェフリー・カークランド 音楽:ジョン・ウィリアムズ
良く出来た映画である。技術パートの達成は素晴らしいし、アラン・パーカーはいくつかの忘れがたいような美しい場面を創出している。実際、おれも何度か涙ぐんだ。だが、そんなに気持ちよく泣いてよいものだろうか? 小学生の主人公が「父親がタイヤチューブで補修したポロ靴」を笑われて裸足で泣いていると、厳格な教師は「きみたちの中にこの子を笑えるほどの裕福な子がいるのか。見なさい、イエスさまは裸足だ」とクラスメイトを叱る。じつに立派で素晴らしい教師である。だが、その同じ口は、イギリスへの怨嗟や異教徒への蔑みを子どもたちの純真な耳に吹きこんでいる。恋人を肺病で失った16才の主人公が「(肉欲の罪を犯した)自分の所為で彼女を地獄へ堕としてしまったのでは」と、おののいていると、「大丈夫、彼女は天国にいる。神は君を赦してくれる」と諭す神父はじつに優しくて感動的だが、そもそも「セックスは悪である」という強迫観念を主人公に植えつけたのはこいつらなのである。カソリックは町を恐怖で支配するとともに、プロテスタントや異教徒への憎しみで住民たちを洗脳する。世界の不幸を維持してるのはこうした奴らなのである。それを「感動の担い手」として演出する態度には、おれはものすごく抵抗をおぼえる(映画にそうした責任を求めること自体が間違いかもしれないが) ● 最終的に主人公は「貧乏で不潔で惨めなアイルランド」を脱出して「夢と希望と自由に満ちたアメリカ」に渡り、それがハッピーエンドとなるのだが、主人公がその渡航費を手に入れる手段も許せない。[以下、ネタバレ]郵便配達でほそぼそと稼いでいる主人公に「借金の督促状の代筆とその配達」という金になるアルバイトを与えてくれた、金貸しの老婆の「孤独な死」に際して、こいつは葬儀屋も呼ばず弔いもせず、ただ閻魔帳と金を持ち出していくのである。「因業ばばあも最後に善行をした」とか何とか自分勝手きわまりないナレーションを呟きながら。ちょっと待てコラ。銀行が歯牙にもかけないような貧乏人に、どうせ返せないと判ってる金(もちろん老婆個人の金だ)を貸し出してる1人暮しの老婆のどこが「因業ばばあ」なんだよ。

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シャンヌのパリ、そしてアメリカ(ジェームズ・アイボリー)

ジェームズ・アイボリーが「カリフォルニア州バークレー生まれのアメリカ人」と聞いたときは笑っちゃったよ。いや「いい映画を撮ってる良心的な映画人」だとは思うけどさ、なんつーか「文化後進国の文学コンプレックス」がすごーくわかりやすい形で現れてる気がしない? ● 「サバイビング・ピカソ」に次ぐ、これは1998年の作品。パリに暮らすアメリカ人一家。「地上より永遠に」や「シン・レッド・ライン」の作家を父に持つ娘シャンヌの“お父さん子”だった少女時代。3部構成の2時間7分。第1部は小学生時代。フランス人の男の子が養子にもらわれて来て“弟”ができる。第2部が中学生時代。オペラ好きのカマっぽい男の子(そのうえ母親がジェーン・バーキン)と親友になる。で、第3部がアメリカに帰っての高校時代。なにしろ自伝の映画化だから、それぞれのパートがブツ切りのスケッチで、もっと父と娘の交流を丁寧に描いておかないとラストが効いてこない。「軍人の娘は決して泣かない」という原題は、父親が娘の涙を止めるために言う慣用句(?)から採られてるのだが、劇中に登場するのは1部に1度きりと、あとはラストのみ。これももっと“前フリ”をしておかなきゃ。あと、養子となる弟のキャラクターが最後まで曖昧なのも気になった。 ● 2部と3部をリーリー・ソビエスキーが演じてるのだが、劇中では年令が示されないので2部でいきなり初潮が来て観てるこっちがビックリした。劇中年令が14才でリーリーの当時の実年令がたぶん15、6だから、そんなに無理のある役じゃないはずなんだけど、発育が良過ぎてとても中学生には見えんぞ。この娘、パリ時代は処女だったのに、アメリカの高校に来たとたん(フランスからの帰国子女ってことでモテるので)男の子たちとデートしまくってアッと言う間に「公衆便所」とか陰口を叩かれて痛い目に遭うんだけど、そういう展開で処女喪失を描かないのは不自然じゃない? あと全体をリアリズムで演出している映画なのに1箇所だけ、2部の「女校長の教室への登場/退場シーン」で俳優が台車に乗ってスライドしてくるのがわけわからん。なぜだ? ● 心臓病の持病がある作家の父にクリス・クリストファーソン。母親がバーバラ・ハーシー(このあとブルース・ウィリスと結婚して「ブレックファースト・オブ・チャンピオンズ」になるわけだな) 回想シーンに登場する弟の実母にヴィルジニー・ルドワイヤン。

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ウーマン・オン・トップ(フィナ・トレス)

「ウーマン・オン・トップ 腰を振る女」とかすると、そのまんま洋ピンになりそうなタイトル。ま、中味もたしかに「アタシ、上じゃなきゃイヤなの」という女と結婚した男が「たまにはおれも上で腰を振りたい」と浮気したところを見つかって、女房は家出。亭主が追いかけてって「おれは一生、下でもいいよ」と言って元の鞘…という話だが。<要約の仕方が間違ってます。 ● だいたい企画の前提が間違ってる。“世界一、セクシーな上唇”ペネロペ・クルスの属性は「エキゾチックな肉感的美女」ではないし、彼女はブラジル女には見えない。艶笑コメディなのに「大らかなエッチさ」が足りないし、乳首だけは頑として隠すってのもなあ。いや、過去作からも明らかなように本人は見せる気まんまんなんだよ(←推定) よくわからんハリウッドのコードに縛られた−−「ワールド・イズ・ノット・イナフ」におけるソフィー・マルソーにも通じる−−不自然さである。 ● ヒロインが「上じゃなきゃイヤ」とのたまう根拠である「乗物酔いに極端に弱い(ただし自分で運転すれば大丈夫)」という設定がほんの小ネタとしてしか活かされてないのは勿体ないし、何より、この話のキモである「ヒロインの料理が恋の魔法をかける」という設定が途中から「人魚の女神の魔法」とゴッチャになっちゃうのは致命的。脇のキャラも畸矯度がぜんぜん足りないし、このベネズエラ人の監督さん、コメディの根本がわかってないのでは? それと、かの街には「サンフランシスコでコメディを撮ったら『キートンの セブン・チャンス』をやらなきゃいけない」という法律でもあるんだろうか。 ● ラブストーリーとしても2人の復縁が納得できかねる。賭けてもいいがあの亭主の浮気癖は治らんよ。とても女性監督&女流脚本家の作品とは思えんね。これだったら「赤い薔薇ソースの伝説」か「バニラ・フォッグ」をお勧めする。

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17歳のカルテ(ジェームズ・マンゴールド)

思春期の不安を巧いことすくいあげた良いタイトルだなあ…と思ったのだよ、観るまでは。そしたらこのヒロインて17才じゃないじゃんか! いや、ウィノナ・ライダーの実年令の話じゃないよ。そんな野暮なことを言うつもりはない。20代の俳優が平気な顔でティーンを演じるのが映画というものだ。そうじゃなくて、この映画のヒロインは高校を卒業してて、劇中にもはっきりと「もう18才以上なんだから」という台詞(字幕)まであるのだ。じゃ誰のことなんだよ「17歳のカルテ」って!? ● てゆーか、2000年の9月2日封切りの作品をなぜに今頃?って話だが、いや、苦手なんだって>ウィノナ・ライダーの熱演と、良い人を演じるウーピー・ゴールドバーグ。まあ、この映画に関しては危惧するほどのことは無かったけど。監督が上手いんだと思う。この手の話だと俳優は、つい熱演して泣き叫んだり、台詞を怒鳴ったりしがちだけど「コップランド」のジェームズ・マンゴールドは、ぎりぎりまでそうした事態を抑制している。このヒロインって結局(軽度の)精神病院に入って人生から逃亡(あるいは退避)してるに過ぎないんだけど、それを美化することなく正直に描いているし、ヒロインの心情を丁寧にすくいあげている。ただし、ヒロインと、そのダークハーフたるアンジェリーナ・ジョリー扮する不良少女 以外はまったくキャラ立ちしておらず、その他大勢としてしか描かれないのは大きな欠陥だが。てゆーか、ハイド氏を(消し去るのではなく)飼い馴らしつつなんとか生きてるおれとしては、こんな甘ちゃんの人生なんて興味ないよ。 ● 「わたしがイカれてたのか、それとも1960年代だったせいか」というヒロインのナレーションで始まるように、本作は「1960年代もの」という側面も持っている。男の子たちはベトナムへ。あるいは徴兵忌避のヒッピーに。そして結婚をするでも大学に行くでもない女の子はどうしたらよいの?…というわけだ(お気づきのように、この映画には女の子しか出てこない) だから当時の空気を知る人にはすごくよくわかるのかも知れないが、おれはそこまで歳行ってないからなあ。 ● 女性校長(いや院長先生か)を演じるヴァネッサ・レッドグレイブが(いつもながらに)素晴らしい。撮影はイーストウッド組のジャック・N・グリーン。

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クロコダイルの涙(レオン・ポーチー)

脚本:ポール・ホフマン 美術:アンディ・ハリス 音楽:ジョン・ラン&オーランド・ガフ
ジュード・ロウ主演のヴァンパイアもの。太陽光も十字架もニンニクもOKなんだけど、愛がないと生きられない「愛を喰らう吸血鬼」という、美貌のイギリス人俳優にピッタリの設定。人の感情は血に溶けて全身をめぐる。この映画の吸血鬼は、そうして血の中に溶けた愛を摂取して生き長らえてきた。つまり「自分を愛してくれている女性」の血じゃないと駄目なのだ。それどころか逆に「恐怖」だの「憎悪」だのが溶けてたひにゃ毒になる。「愛」は常に犠牲者からの一方通行でなくてはならない。生物の当然の防御本能として、この吸血鬼は「感情」というものを持たない。「餌」に情けをかけたら身の破滅だから・・・という設定が抜群に巧い。「我々は周りの人の愛を搾取して生きているのではないか」あるいは「生きるために悪を為さないといけないとしたら?」といった、多分に宗教的/哲学的なテーマを含んだ映画で、タイトルは哲学者フランシス・ベーコンの「鰐は獲物を喰らうときに涙を流す。それが下等なケダモノのせめてもの分別である」という言葉からとられている。瞳に哀しみをたたえたジュード・ロウがまるでアテ書きのようなハマり方で観客を魅了する。やはりヴァンパイアと沖田総司は溜息の出るような美男ではなくては。「ハンガー」のデビッド・ホウイ以来の適役と言えよう。 ● ヒロインにハル・ハートリー映画の常連で、ちょっとオリビア・ハッセーに似てるエリナ・レーヴェンゾーン。ストレートの黒髪に黒い瞳。ルーマニア出身で、巻き舌の癖のある英語がチャーミング(ヌードあり) “事件”を追う警部に(ケネス・ブラナー「ハムレット」の太った間抜けなローゼンクランツ役)ティモシー・スポール。監督は「風の輝く朝に(等待黎明)」「上海1920 あの日みた夢のために」のレオン・ポーチー(梁普智)…当然レオンが苗字でポーチーが名前である。この人じつはロンドン生まれのイギリス国籍で、28才まではBBC(=イギリス国営放送)で働いていたという経歴の持ち主。ハリウッドではなくイギリスでメインストリームからは外れたロマンチックな作品を撮る…というのが如何にもこの監督らしい。ロンドン・ロケにもかかわらず「東欧の何処とも知れぬ街」のような不思議な雰囲気。オープニング・シークエンスの鮮烈さは忘れがたい(ネタバレ>ジュード・ロウが朝もやにけぶる森を歩いてくると警官がぱらぱらと集まって上を見上げている。カメラが大樹の幹をパンアップすると大枝の間にクルマが−−まるでそこから生えてるかのように−−横付けで挟まっている。じつはジュードが“恋人”の死体を始末するために自動車事故を装って崖から落としてこうなったのだが、事故のシーンは描かれない) 孔子の逸話とか「新生児に贈る銀の箸」のエピソードとか、監督によるものとおぼしき脚色も効果的。 ● パンフレットを買ったらなんとISBNコードの入った「書籍」だった。税込み1,000円(ISBN4-04-853296-0) 出版元は(本作の提供クレジットに名を連ねていて、配給のアスミック・エースの親会社でもある)角川書店。これからこういう形式が増えるのかなあ。これだと地方からでも簡単に入手が可能なはずだから実用的なんだろうけど、なんかちょっと嫌な感じ。

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s t r a i n ストレイン(伊与田一雄)

池上遼一の同名劇画(原作:武論尊)の映画化。(漫画ゴラクとかじゃなく)天下の小学館ビッグコミックスペリオール連載なのに新宿はやくざ映画の殿堂・昭和館での2週限定ロードショー(まあ、この出来じゃあな) ● 「ストレイン」とは“血筋”という意味。成り上がり財閥の後継者をめぐる骨肉の争い。兄はコンツェルンを継いで成功の頂点に。弟は兄に殺されそこなって台湾で凄腕の殺し屋に…。腹違いの兄弟を演じるのが兄=竹内力(悪役)と弟=的場浩司(主人公) 一見、池上遼一の原画とは似ても似つかないようだが、竹内力の凄んだ顔などは意外と劇画に似てるし、そもそも「ベレー帽の特殊部隊とサブマシンガンで撃ち合う」ような池上劇画のリアリティを映画化するにはこの両人ぐらいの虚構性でちょうど良いのだ。ある意味では(池上の大師匠筋の)さいとうたかお の「ゴルゴ13」の高倉健や、(同じく武論尊 原作の)「ドーベルマン刑事」における千葉真一の流れを汲む正統派のキャスティングと言えるやもしれぬ。ただ池上遼一の劇画を映画化するなら、マシンガンをパカスカ撃ちまくるだけじゃなくて、音もなくナイフを使う殺し屋(松重豊)とか、カンフーの達人(ロウ・ホイコン)とか出してもらわないと。 ● 全篇が台湾ロケというVシネマ大作ではあるが、いかんせん貧しいのだ、画が。この話を撮るにはハリウッド映画なみとは言わないまでも、せめて東映の劇場公開作ていどの製作費が必要なのである(製作:ミュージアム/制作プロ:エクセレント・フィルム) ビデオを前後篇にして売るつもりか上映時間が2時間もあって、後半は兄弟の争いよりも台湾やくざとの“戦争”にシフトしてしまうので、どうにも話の焦点が惚けている。もっと竹内力と的場浩司の対決にフォーカスして、じっくり描くべきだった。監督はおれは初見だがVシネマの人か。 ● 竹内力の子飼いの殺し屋に永澤俊矢。クラブのママに甲賀瑞穂。的場浩司と共闘する台湾女にオン・スイピン。竹内力が抹殺しようとする自らの隠し子に新人・高松あい。池上遼一の映画で誰も脱がないとはもってのほかじゃ。唯一、脱いでるのが台湾やくざの情婦に扮した(風祭ゆきに瓜二つの)森香名子<偉いぞ! ● あとどーでもいいけど、兄弟の愛憎のキーポイントになってる「半分に千切って2人で半分ずつ持ってる10ドル札」の由来を説明しろよ由来を。それと、台湾にいる中国人を「華僑」とは言わんと思うぞ。

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ヘルレイザー ゲート・オブ・インフェルノ(スコット・デリクソン)

シリーズ5作目は(3、4に続いて)ミラマックス映画の「ディメンション」レーベルからのリリース。アメリカでは2000年10月にストレート・ビデオになってしまったので劇場で観られるのは日本だけ。偉いぞ!>ギャガ。 ● 4作目ではとうとう宇宙にまで行ってしまって収拾がつかなくなった本シリーズだが、今回は「おのれの欲望が人間を地獄へ突き堕とす」という「ヘルレイザー」の基本に立ち返って、もう一度ストーリーを語りなおしている。ただ「痛みは快楽」という部分が薄まって、どちらかというと、パズルボックスを開けてしまったことにより現実と悪夢の境い目があいまいになり、やがては現実そのものが変容していく…という、つまり「ビデオドローム」あるいは「エルム街の悪夢」の世界に近いものになっている。おれは、映画が終わって場内の扉を開けたとき、そこが現実の映画館のロビーでほっとした。いやマジで。 ● 今回の犠牲者は刑事。チェスの名人にしてテーブルマジックの達人でクロスワード・パズルの天才。「謎を解く男」として登場したかれは、全身を引き裂かれた猟奇殺人事件−−現場には6才の子どもの指が1本 残されている−−の捜査を担当するうちに、永劫の地獄めぐりへと迷い込むことになる…。 ● 主人公がナレーションで人生哲学とかを語る「ハードボイルド探偵もの」のスタイル。おのれが地獄の苦しみを味わうのは「絶対悪」の仕業などではなく自分の中に潜むデーモンの所為だという、そういう意味では変格のハードボイルド・ミステリでもある。演じるのはクライブ・バーカー監督「ミディアン」に続く主役となるクレイグ・シェーファー。警察の(明らかに“ただの善人”ではないだろう)心理カウンセラーにジェームズ・レマー。魔道士ピンヘッドはもちろんダグ・ブラッドリー。監督は新人。魔道士が良いまわし蹴りくれてると思ったら武術指導はサカモトコウイチという日本人だった(有名な人?)

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決戦・紫禁城(アンドリュー・ラウ)

これだから香港映画は油断がならない。1)「風雲 ストームライダーズ」「中華英雄」に続くCG武侠アクション超大作の第3弾として、2000年の旧正月に公開。2)アンディ・ラウ&イーキン・チェンという2大スターを主演に迎えて、国宝・紫禁城で大規模なロケーションを敢行。3)製作・脚本はバリー・ウォンとマンフレッド・ウォン、監督がアンドリュー・ラウというBOB映画の3巨頭が結集・・・という条件が揃っていながら、どこでどーやったらチャウ・シンチー「008 皇帝ミッション」の姉妹篇ともいえるアチャラカ映画になってしまうのだ? でまた観に来た客が(おれのことだが)バリー・ウォン色が全開のベタなギャグと下ネタの波状攻撃に大喜びしてるのだから、まったくもって香港映画ファンというのはよく判らない人種である(おれのことだが) 間違っても「グリーン・デスティニー」のようにアカデミー賞にノミネートされたりする心配のない純度100%の香港映画である。 ● 原題は「決戦 紫禁之嶺(=紫禁城の屋根)」 アンディ・ラウ扮する「先代皇帝の妾腹の子である剣聖・葉孤城」が、イーキン・チェンがクールに演じる「天下の素浪人、剣鬼・西門吹雪」に、「1月15日の満月の夜、紫禁城の大屋根の上での決闘」を申しこむ…というストーリーは、台湾の武侠小説の大家(たいか)・古龍の原作「陸小鳳 之 決戦前夜」に大筋で忠実らしいが、そんなことはどーでもよろしい。じつは本篇の主人公は決闘さわぎの裏で進行する「謎の連続殺人」に挑む名探偵「皇帝密使009」なのだ。演じるのは田口トモロヲそっくりのニック・チョン(張家輝) ドレッドヘアにジョン・レノン風の丸サングラス、鼻の下にはトレードマークの眉毛のようなヒゲというフザケた風体で「細かいギャグを次から次へとくりだす強いんだか弱いんだかサッパリわからない根っからの女好き」というキャラは明らかにチャウ・シンチーを意識してる(「008は閻魔大王にやっつけられた」なんて台詞もある) ● 他に、皇帝陛下に「超速伝説 ミッドナイト・チェイサー」でイーキンのメカニックを演っていたパトリック・タム(譚耀文) アンディに憧れる皇帝の妹・飛鳳公主に、北京出身で台湾のテレビの時代劇コメディでブレイクした、「お転婆な処女のお姫さま」キャラが愛らしいヴィッキー・チャオ(趙薇) イーキンと結ばれる女性武闘家に「風雲」のお姫さまクリスティ・ヤン(楊恭如) 009なじみの娼婦・玉如意(←なんちゅう的確な名前や)にティンサム(天心) 武術指導をチン・シウトン(程小東)が手掛けていて、剣戟というより舞踏のような華麗なる手さばきは健在だが、肝心の決闘場面をCGスタッフの手に奪われてしまい残念無念。くそお、欲求不満だ。ちなみにアンディとイーキンといえば、どちらも「涙をこらえた充血した目」が必殺技だが、今回は大先輩に敬意を表してイーキンのほうが得意技を封印している。

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2001年 宇宙の旅(スタンリー・キューブリック)

2000年12月31日。渋谷パンテオンの年越しオールナイト。スタンリー・キューブリック1968年の名作と、およそ15年ぶり(※1)にスクリーンで対面した。21世紀を迎えるに本作以上に相応しい作品はなかろう。場内が暗くなって、幕が開き、序曲が始まる。ここですでにスクリーンの優位(※2)が明らかになる。闇に浮かび上がる白いスクリーンを息を詰めて見つめるとき、これから始まるであろう物語の予感に胸の動悸は早まり、心なしかスクリーンがずんずんと拡がっていくかのような錯覚すら憶えるのだ。 ● 第1のパートは原始の地球。現代の映画からは失われてしまったスケールの大きな構図に圧倒される。そう「アラビアのロレンス」などと同じように「2001年 宇宙の旅」は出来うる限り巨大なスクリーンで観られるべくデザインされている(※3) あなたがビデオやDVDでしかこの映画を観たことがないのなら、あなたはまだ“「2001年 宇宙の旅」を観た”とは言えない。 ● 最初の「モノリス」(※4)の出現。400万年前から2001年へと一気に時間を跳躍する伝説的なカッティング(※5)は何度観ても鳥肌が立つ。これ、じつにシンプルに、そっけないくらい簡単に「人類400万年の歴史は殺戮の歴史である」と言いきってるのだ。400万年の時間をわずか数百コマのフィルムで描いてしまった究極の省略話法である。また注目すべきは、現在の目で見てもまったく古びていないプロダクション・デザインの完璧さ(さすがにベルが解体されてAT&Tになることまでは予測できなかったが) そして「宇宙船が宇宙を進むスピード」や「人が宇宙船内を歩く早さ」の絶妙さ。クラシックの劇伴音楽と画面のシンクロの、スペース・バレエのような見事さは言うまでもない。 ● 人類が2つ目のモノリスと遭遇して、いよいよドラマはディスカバリー1号による「木星探査ミッション」(※6)へ。映画史上最高の悪役1人である「HAL社製 9000シリーズ・コンピュータ」の登場である。本篇中で最も見応えのあるパートであると同時に(神をも畏れぬことを言わせてもらえば)ここだけ別の映画のような感じで作品全体のテーマからも浮いているパートである。はっきり言えば「面白いんだけどこの映画にある必要性が感じられない」と思うんだけど。 ● 3つ目のモノリスはワープホール。このワープトリップと惑星誕生のパートは、おれが初めて観た(製作から10年しか経っていない)1970年代末の時点でさえ「うわっサイケだ、古〜い」と感じてしまった本篇中最大の弱点である。いや、まあLSDをキメて観た経験はないけどさ。再リリースの際には、いっそのことマジで「ピンク・フロイド」バージョンを検討すべきじゃないだろうか。そうして最後のモノリスが出現してついに人類は(殺戮の歴史から開放されて)新しい段階へ・・・さて諸君、現実の2001年に生きる我々は「次の段階」に進む準備が出来ているだろうか? ● おれは「2001年 宇宙の旅」を巷間 言われてるほどには「深い」とも「難解」だとも思わないが(←受け手が深くも聡明でもない所為だって話もあるが)これは1人の天才が作った「クールなルック」と「モダンなデザイン」のマスターピースである。 ● 2001年の4月7日から(銀座セゾン劇場 改め)ル・テアトル銀座でリバイバル・ロードショーされている。東京にお住まいの、ある年令以上の方にとっては“「2001年 宇宙の旅」と言えばテアトル東京”だと思うが此処はそのテアトル東京 跡地に建つ劇場である。粋なことをやるじゃないの>東京テアトル。使われているのは2000年の東京ファンタと年越しオールナイトとは別のプリントで、新しく5.1chデジタル・リマスタリングされたニュープリント。35ミリ・スコープだが左右に黒味を入れて70ミリ画面比率( ※7)を再現している。題して[新世紀特別版] ただ、この作品、現在、ネガのリストア中(※8)で70ミリ・ニュープリントによる再公開が全米で秋に予定されているとも聞くので、そちらもぜひよろしく>ワーナー映画。

[註釈]※1:銀座文化でのリバイバルは観に行かなかったので。 ※2:テレビのモニターに映るのはただのブランクの画面でしかない。人はつい「まだ始まらないや」とか思ってコーヒーの用意をしたりトイレに行ったりしてしまう。 ※3:欲を言えば、アイマックス・シアターに70ミリ縦送り映写機を持ち込んで上映するというのが理想だろう(これ、ほんとにやってくんないかな?>ワーナー映画) ※4:もはや映画ファンの間では「固有名詞」と化していて、新宿西口にはモノリス・ビルなどというたぶんこの映画からネーミングされたとおぼしき高層ビルまであるが、英語で「モノリス」というのは単に「一枚岩」とか「コンクリパネル」といった意味である。 ※5:「受けるほう」がただの「細長い人工衛星」ではなくて「核ミサイル衛星」だってのは映画秘宝20号の記事で初めて識った。 ※6:えらそうにウンチクを垂れてきたわりには根本的な無知をさらけ出すようで恥ずかしいが・・・「第2のモノリスとの遭遇」と「木星探査ミッション」の間には18ヶ月(=1年半)の開きがあるんだけど「2001年」の出来事はどっちなの?(火暴) 普通に考えれば「木星探査ミッション」のほうだろうけど。目を皿のようにして観ていれば画面のどこかに日付が表示されてる? ※7:カメラマン出身であるキューブリックはこの映画を70ミリの「2.20:1比率」で完璧に見えるようにフレーミングしている。したがって通常の35ミリ・シネマスコープサイズ、すなわち「2.40:1比率」の画面では天地が少しずつ切られてしまうのだ。それはほんの僅かなのだが、それでも例えば「最初のパートで画面下方を横切る猪豚(?)が2.20:1サイズならきちんと認識できるが、2.40:1サイズでは、何か下のほうを“もやもやとしたもの”が横切ったようにしか見えない」など明らかな違いがある。 ※8:「ネガの褪色」は避けられない問題である。今回の35ミリ・ニュープリントも全体に赤系統はキレイに出ているが、イエローの発色が少し濁っているし、例えば「ボーマン船長が最後にかぶるグリーンのヘルメット」がほとんどグレーに見える。「クリア&シャープな画面」と「ヴィヴィッドな発色」が生命線の映画であるので、ネガのリストアは重要なのだ。


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