今日の文章に笑うところはないので先に書いておく。
いつも気になっていて腹が立つ存在がいる。
それはパチスロで目押しをしてもらう人間である。
パチスロとはその名の通りパチンコ屋にあるスロットゲームのことである。
メダルを入れてレバーを叩くとドラムが回転する。
あとはボタンを押してドラムを止め、3つ絵柄が揃えばそれに応じたメダルが払い出される。カジノなんかにあるタイプと原理は一緒である。ただ、役は毎回狙えば止まるものではなく全てコンピューターで管理されている。つまり、コンピューターが当たりを出さない限り絵柄は揃わないのである。
パチスロには大当たりと呼ばれるものがある。だいたいスリーセブンなのだが、その絵柄は各ドラムに1つか2つしかないためコンピューターが当たりを出したとしても通常のゲームで揃うことは実に少ない。つまり、揃えるためには絵柄を狙わなければいけないのだ。これを「目押し」と言い、初心者がなかなかパチスロに手が出せない障害のひとつになっている。
パチスロの醍醐味とはこの大当たりを揃える瞬間であり、それを誰かに揃えてもらうなど邪道以外の何者でもないのだ。揃えてもらいたがる人間は口を揃えてこう言う。
「だって、絵柄が見えないから」
私ははっきり言いたい。見えないならするな!と。
確かにドラムの回転する速度が速いため絵柄の判別は難しい。しかし、慣れてくるとはっきりとした絵柄は見えなくとも、その絵柄を表す形なり、色なりのヒントが見えるようになっているのだ。だから、はっきりと見えなくても何とかなるのである。
例え、それで見えなかったとしても自力で揃えるのが筋であろう。
パチスロははっきり言ってギャンブルである。
金がかかっているのだ。
何が悲しくて自分には一銭の徳にもならないことをしてやらねばならぬのだ。その甘えた性根に無性に腹が立つのだ。別に揃えてやった見返りをよこせというのではない。自分のケツぐらい自分で拭けと言っているのだ。
しかし、そういう輩が増えていったのには理由があるのも事実。
それはやたらと揃えたがるやつの存在である。
誰かが大当たりを引いたのを見るや否や「俺が揃えてやるよ」と声をかけ揃えてやるのだ。傍から見れば親切なやつだが、私から言わせれば単なる自分のテクニックをアピールしたいだけのいやらしい人間である。そんなものは善意でもなんでもない!
もともとギャンブルなんてものはやるものではないと思う。
ドップリと首まで浸かっている私が言うのも実におこがましい話ではあるが、本当にそう思う。ギャンブルには金がかかっている。勝てばいいが、そんなに世の中は甘くない。だいたいパチンコをしている人間の7割は負けているのだ。基本的に勝ち続けることは不可能といってもいい。つまり、運だけで渡って行けるほど甘い世界ではないのだ。
そこに1人のビギナーがやって来た。
軽く本などを読み、パチスロは当たるとデカイという知識は持っていた。
やり方も分かる。まあ、なんとかなるさ。そんな感じだ。
さっそく空いている台に座り、打ち始める。
数千円つぎ込んだ辺りで大当たりを知らせる表示が出る。
しかし、初心者である彼はそれに気付かない。
やがて最後のお金をつぎ込む。彼は思うだろう。やっぱし当たらないものだと。そんなにいい話は転がってないなと。それでいいのだ。これで彼はパチンコに対する甘い考えを捨てることができる。
ところが、そこに自分では善人のつもりの男が声をかける。それ大当たりが入ってるよと。彼は意味がよく分からない。すると男は彼の目の前で大当たりを揃えて見せるのである。気づけばコインは増えており、その後も当たりが入るたびにその男は教え、揃えてやるのだ。結果は大勝ち。彼はこう思うだろう。パチスロなんて簡単じゃないか。これでこんだけ金が入るなんてなんておいしいんだと。大きな勘違いである。彼に勝つことが出来たのは男がいたからである。男がいなければ彼に勝ちはなかったのである。一度勝ちの喜びを知ってしまった彼はパチスロへとまた足を運ぶことになるだろう。前回の勝ち以上の負けを食らうことになるのも知らずに。
ギャンブルは恐ろしいものである。
「郷に入らずんば郷に従え」という言葉がある。
あ、それは「虎穴に入らずんば虎児を得ず」であった。
もとい「郷に入らば郷に従え」である。
パチスロをしたいのであれば、それに見合った知識なり技術なりを得て来いと私は声を大にして言いたい。ギャンブルでは信じられるのは己の力のみである。
少々熱くなってしまった。
しかし、前々から気になっていたことであったのでこういう形でマスターベーションできたのはすっきりした。あくまでも、今日パチスロで負けたからその腹癒せで書いているわけではない。断じて違うのである。しつこいけど、違うんだってば!