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夕暮れの、うす暗くなりかけた川ぞいの道を、一人のおじいさんが歩いていました。おじいさんはふっと立ち止まると、川を囲む手すりにあごを乗せ、じっと川を見つめました。時折、たそがれの影に包まれた川の上を、船頭さんのほかは誰も乗っていない船がゆっくりと、すべってゆきます。今日の仕事を終え、船着場に帰るところなのでしょう。
(わしだって若いころは・・・。)
おじいさんは、そう思わずにはいられませんでした。そう、今から三十年も前には、おじいさんだって、元気に川の上をすべっていたのです。そのころは、こしは棒のように真っ直ぐでしたし、手に持っていたのは杖などではなく、立派な、長いかいでした。
(あのころは・・・。)
ほぉー、というため息が、おじいさんの口からもれました。
その日は、特別きれいな夕焼けでした。空には、夕日の切れ端のような雲がいく重にも重なり、まるで、海のさざ波のように見えました。夕焼けは水面にも映り、川はうす暗い赤色に染まっているのでした。
(空と川が一緒になったみたいだな。)と、おじいさんは思いました。(こんなにきれいな水の上を行けたら、どんなに気持ちがいいだろう!)
そのときでした。空を見上げていたおじいさんは、一瞬、夕焼け空がぐぅんと、自分に近づいてきたような気がしたのです。・・・
ハッと気がつくと、おじいさんは船の上で、波にゆられていました。あわてて立ち上がろうとして、よろめきました。年のせいではありません。前にいく度も味わった、この感じ・・・なつかしい、この感じは・・・!おじいさんの右手ににぎられていたのは、古ぼけた杖ではありませんでした。長い長い、かいだったのです。それはもう、おじいさんが持ったことのないくらい、とても長いかいでしたけれど、ずっと昔から使っているように、しっくりと手になじんでいました。
左手を頭にあげてみると、乾いたわらがさわりました。かさです。どうやらおじいさんは、船頭だったころにもどったようです。
立ち上がって見てみると、そこはどうやら、空の上のようなのでした。辺り一面、燃えるような赤色の水面が広がり、その水面の上を、金と赤とオレンジを混ぜこんだような雲の波が、立ち上がっては消え、立ち上がっては消えるのです。
(おお!わしは夕焼けの海に来たのだな。かいが長いのは、空の上だからだろう。・・・とすると、この船は何だろう。)
おじいさんは船底にひざをつき、船の横腹にかかれた名前を読んでみました。船はたいそう古いものらしく、黄色のペンキでかかれた名前も、もう消えかかっていましが・・・何とか、こうかいてあるのが分かりました。
「ミズエ丸」
そのとたん、おじいさんの胸に、長い間忘れられていたなつかしい思い出が、滝のようにあふれ出してきました。そうです、ミズエ丸・・・。この船は、おじいさんが船頭になったとき、初めてお客さんを乗せた船でした。けれどもある夕暮れに、船着場へ帰る途中、洪水に巻き込まれておし流されてしまったのです。幸い、おじいさんは助かりましたが、ミズエ丸の行方はそれっきり、分からなかったのでした。
「よしよし、ミズエ丸。今日こそ、無事に船着場に帰してやるからな。」
おじいさんは船に優しく声をかけると、立ち上がりました。この夕焼けの上を、どこまでもどこまでもゆける。そう思うと、嬉しいような楽しいような、ワクワクする気持ちが抑え切れなくなり、おじいさんはかいをにぎり直しました。
スィーッ。
ひとこぎ、おじいさんはかいを動かしました。すると、雲の波はとろけるようにちぎれ、後ろに流れてゆき、ミズエ丸は静かにゆっくりと、なめらかに海の上をすべりました。
スィーッ、スィーッ。
おじいさんは楽しくなって、夢中で船をこいでゆきました。
どれくらい、こいだでしょうか。赤く燃えるようだった海が、少しずつ、かげをひそめてくるのが、おじいさんにも分かりました。けれどおじいさんは、そんなことは少しも気にかからない、気づかない、というように、船をこぎ続けました。また地上へもどってしまう気がして、こわかったのです。日が暮れたら何もかも・・・ミズエ丸も、かいも、かさも、そしてこの海も、全て消えてしまうような気がしたのです。
日はどんどんしずみ、とうとう、ひと筋の弱弱しい光が、辺りを照らすだけになりました。もうじき、この光も消えてしまうのでしょう。・・・そのときおじいさんは、光が差してくるほうに、船着場を見つけました。ミズエ丸と同じような、古い船が、たくさん止まっています。ボートもあれば、漁船もあります。おじいさんはそれを見たとき、ほっと、安らいだ気持ちになりました。そこに並んでいる船が、満足げに、幸せそうに見えたからでしょうか?
「よかったな、ミズエ丸。」
おじいさんは呟くと、船着場のほうへとこいでゆきました。
最後の、ひと筋の光が、今まさに、消えようとしていました。おじいさんは、ポーンと身軽に、船着場の岸にとび上がると、ミズエ丸を、水面からつき出た一本のくいに、つなぎとめました。そのとたん、最後の光が消えました。
ハッと、おじいさんは身を起こしました。日はしずみ、辺りは真っ暗です。時折通りかかる人々の目が、
「おじいさん、寒くなりますよ。早くお帰りなさい。」
と言っています。おじいさんはくるりと後ろを向いて、歩き出しました。コツ、コツ、コツ。杖の音が、暗闇の中にひびきます。その後ろ姿は・・・何だか、楽しそうに見えました。
あとがき
夕日の物語、燃える赤の物語をかいてみたくて、このお話をかきました。今度は、青色の物語を、かきたいと思っています。
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