「看病」(2)

おさき狐の向かった先は、学校ではなく宇賀谷家だった。
誰もいない静かな家の中を、真っ直ぐに珠紀の部屋へと向かう。
影になって襖をすり抜けるおさき狐を追って、俺は勢い良く襖を開け放った。
 「たま……き」
珠紀は部屋の中に居た。
布団に横になって、荒い息を吐き出している。
頬がほんのり赤くなっているのは、熱を出している所為なのか。
 「真弘……先輩? どうして?」
俺の声に気付いて目を開けた珠紀が、不思議そうな顔で見上げている。
 「どうしてじゃねーよ。何でこんな状態だってのに、一人で寝てるんだ。
 美鶴はどうした?」
矢継ぎ早に問い質す俺に、珠紀が気を使って起き出そうとする。
それをまた無理矢理布団に戻す。
体調が悪い時に、何をやってるんだ、コイツは。
 「美鶴ちゃんは、お祖母ちゃんと一緒に出掛けてます」
大蛇さんも昨日、そんなことを言っていたな。
だからって、こんな状態の珠紀を放っておくのか。そんなに大切な用事なのかよ。
憤慨していることに気付いたのか、珠紀が執り成すように慌てて言う。
 「美鶴ちゃんも心配してくれたんですよ。でも、私は大丈夫だから……。
 薬も飲んだし、ゆっくり寝ていればすぐに治ります。
 私が美鶴ちゃんに、そうして欲しいって頼んだんです」
 「だからって具合が悪いのに、一人で寝かせておくことは無いだろう。
 それなら俺を呼べば良かったんだ」
どうせ美鶴のことだ。俺が来たら煩くて、余計に身体が休まらないとかなんとか
言ってたに決まっている。
美鶴はガキの頃から、俺のことを軽んじてる節があるんだよな。
 「まぁ良い。珠紀の看病は俺がする。だから、オマエは安心して休んでろ。
 取り敢えず、何かして欲しいこととかないか?」
布団の横で胡座をかくと、胸を張って宣言する。
珠紀もそれを聞いて安心したのか、熱で潤んだ瞳を細くして微笑んだ。
 「それなら……。お水をお願いしても良いですか?
 さっきからずっと、咽喉が渇いていたんです」
 「水だな、よし」
珠紀に必要とされたことが嬉しくて、俺はその望みを叶えようと躍起になる。
水、水と言いながら周囲を見回すと、枕元に薬と水の入ったコップを見付けた。
 「ほら、珠紀、水だ。起きられるか?」
コップを手に取ると、珠紀に差し出した。
さすがにコップでは、横になったまま飲むってわけにはいかないからな。
珠紀を起こすのに手を貸そうとする。
 「ごめんなさい。ムリ……みたいです。
 頭がクラクラして……起きられそうにありません」
辛そうに顔を歪めて、珠紀は申し訳なさそうな声を出す。
 「そ、そうか。それなら……」
 「真弘……先輩。……水が飲みたい……です。……早く……して」
熱が上がってきたのだろうか。少し息が上がっている。
 「早くって言ったって……」
俺は手に持ったコップと、懇願する珠紀の顔とを交互に見比べ、
途方に暮れるしかなかった。
珠紀に早く水を飲ませたい。けど、横になったまま水を飲ませるには……。
何か方法はないのか。
 「お願……、真弘……」
少し開いた唇から、荒い息遣いと一緒に俺の名前を吐き出す。
その少し濡れた唇が、やけに目を引いた。
手にはひんやりとした水の感触。そして、珠紀の唇。
 「そうか。一つだけ……方法があった」
まるで機械仕掛になったように、ゆっくりと首を動かしてコップに顔を向ける。
横になっている人間に水を飲ませる唯一の方法。
それは、口移し。自分の口に含んだ水を、相手の口に注ぎ揉む。
ゴクンっと唾を飲み込む音が、やけに大きく耳に響いた。
口移しをしている俺と珠紀を想像した途端、一気に顔に熱が上がる。
咽喉を鳴らして水を飲む珠紀が、やけに生々しくて……。
 「で、出来るわけねーだろーが!! 待ってろ、珠紀。何か探してくる!!」
そんなこっ恥ずかしいこと、俺には出来ない!!
相手は熱の所為で、半分意識のない珠紀なんだぞ。
無抵抗なのを良いことに、無理矢理俺がしたみたいになるじゃないか。
これは男の沽券に関わる問題だ。
 「何でこんな時にばっかり、男気を出しちまうんだ、俺は。
 せっかくのチャンスだったのに!!」
珠紀の部屋を転がり出ると、一人喚きながら、台所に向かって走っていく。
 
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