「儚い望み」(2)

放課後。私は祐一先輩に言われて図書室に来ていた。
 「真弘の真意が知りたいのなら、大人しくそこで見ていれば良い」
そう言って私を本棚の影に立たせると、傍にあった本を手に取り、
そのままテーブル席へと移動する。
カタンと椅子が鳴る音と同時に、私の周囲に薄い靄のような幕が下りた。
これ、もしかして祐一先輩の幻術?
 「んだよ、祐一。話がある、なんて人を呼び出しやがって。
 珠紀、待たせてるんだからな。言いたいことがあるならさっさと言えよ」
祐一先輩の力が発動した直後、図書室の扉が勢い良く開かれた。
少し不機嫌な顔で入ってきたのは、真弘先輩。
 「すまない。だがな、真弘。俺にはオマエが、俺たちとの約束を違えていないか、
 それを確認する義務がある」
 「……約束? 俺がいつ、それを違えたっていうんだよ。ふざけんな!!」
約束? それって何のこと? 
私には判らないその『約束』について聞かれると、真弘先輩は声を荒げた。
口では違えていないと言っているけれど、その声が嘘だと告げている。
自分で判っているからこそ、真弘先輩は怒っているんだ。
 「では何故、珠紀はあんなに悲しい顔をしている? 
 それに気付いていないわけではないだろう、真弘だって」
 「んなの、知るかよ。何でもかんでも俺の所為にするな」
祐一先輩が一度だけ、私の方へと視線を向ける。
私の表情をそのまま伝えていることに、真弘先輩が気付く様子はない。
ただ憤りを隠すことなく、祐一先輩に打付けていた。
 「少し落ち着け。何をそんなに怒っているんだ。
 まるで何かに怯えているみたいに。真弘らしくないな」
 「うるせー!! 俺は何も怯えてなんかいない。
 こんなくだらねーことを言うために呼び出したんなら、俺はもう帰る。
 用は済んだんだろ」
祐一先輩の挑発的な言葉に、真弘先輩が憤慨する。
図書室を出て行こうとする真弘先輩の背中に、更に言葉を突き刺した。
 「逃げるのか? 俺たちの前からだけではなく、珠紀の傍からも。
 いざとなると臆病で尻込みする処は、あまり変わっていないな」
 「……んだよ、さっきから。オマエに何が判るんだよ、祐一。
 俺だってな。……俺だって怖いんだよ!!」
扉の手前で立ち止まった真弘先輩は、握り締めた拳を震わせている。
絞り出した声は、言葉の礫を弾き返すように高められていく。
もう一度こちらを振り返った真弘先輩の顔には、辛そうな色が浮かんでいた。
怖い? いつも自信満々で俺様な真弘先輩が? いったい何が怖いと言うのだろう。
 「俺はガキの頃から、望むことを許されなかった。どんなにそれが欲しいと駄々を
 捏ねて暴れても、無我夢中になって手を伸ばしたとしても、俺にはそれを手にする
 ことを認められてはいなかった。俺の望みは一つだけ。ただ生きていたい。
 それだけだったのに」
真弘先輩が自分の運命を知らされたのは、小学校にあがってすぐだと聞いた。
そんな小さな頃から、『生命を差し出さなければいけない』という運命と戦ってきた真弘先輩。
それはきっと想像もできない程の恐怖だろう。
 「祐一にも、他のみんなにも判らないよな。望んだものを手に入れることも、
 手に入れた時の喜びも知っているオマエたちには。
 他の何を望んでも、手に入れても意味なんかない。どうせそれはすぐに必要なくなる。
 欲したはずの俺が、この世にはいないんだからな」
辛い過去を思ってなのか、悔しそうに顔を歪める。
そんな真弘先輩を、祐一先輩は静かに見つめていた。
そして私は、嗚咽が漏れないように、必死で口を抑えていることしかできなかった。
 「真弘が抱えてきた想いを、すべて理解することは、俺たちには到底ムリだろう。
 だがそれは……」
 「判ってるよ。もう終わったことだ、って言いたいんだろう。俺は今でもこうして生きてる。
 珠紀のお陰でな。あいつが俺を救ってくれた。
 俺のちっぽけな望みは、ちゃんと叶えられたんだ」
真弘先輩の過去を静かに受け止めた祐一先輩に、真弘先輩も落ち着きを取り戻す。
真弘先輩の『生きたい』という望み。それを叶えたのは私じゃない。
運命に抗ってみせたのは、真弘先輩自身だった。私はただ、真弘先輩にずっと傍にいて
欲しいと、そう望んで、それにしがみついていただけ。
 「それなら、何を怖がる必要がある?」
その問い掛けに、真弘先輩は顔を上げた。真っ直ぐに祐一先輩の顔を捉える。
 「怖いに決まってんだろ。俺は望むことすら許されなかった。
 だが、そいつを叶えちまったんだぞ。この先まだ、俺が望んだことが叶えられるなんて
 どうして思える!! 俺は珠紀が欲しいだよ!! アイツの傍にずっといたいんだ!!
 だけど俺がそれを望んで、欲しくて堪らなくなって手を伸ばした途端、
 珠紀が消えちまったらどうする。俺がアイツを欲しいと望んだばっかりに、
 俺の運命が珠紀をこの世から消し去っちしまうかも知れないんだぞ。
 ……そう考えたら、怖くて動けなくなった」
最後の声を、苦しそうに絞り出す。
真弘先輩がそんなことを考えていたなんて……。私、全然気付かなかった。
真弘先輩の傍にいて、私は何を見ていたんだろう。
 「だから珠紀を遠ざけたのか。
 見えない運命を相手に、望んでいない振りをしてみせるために」
 「ああ、そうだ。それを臆病だと言うなら、好きなだけ言えよ。
 それで珠紀が見える処にいてくれるなら、俺はそれだけで充分なんだ。
 アイツが消えちまわないなら、俺はなんだってする」
言いたいことはすべて言い切った。
そんな強い眼差しで、真弘先輩は祐一先輩の視線を跳ね返している。
そこにはいつもの堂々した真弘先輩がいた。
 「…………」
 「何で黙ってるんだ? 何か言えよ。それとも情けないって、俺を笑いたいのか?」
 「いや、真弘らしいと思っただけだ。オマエはそうやって、相手のことばかりを考える。
 だが、それを受け止めるのは俺ではない。 真弘に何かを言えるのは、珠紀だけだ」
 「あ? 祐一、何を言って……」
さっきまでの挑戦的な口調が消え、祐一先輩はいつもの優しい眼差しを向ける。
これで気が済んだろう、と小さく付け加えると、私の目の前から靄が消えていく。
 「真弘……先輩」
私は一歩前へ歩き出しながら、大好きな人の名前を呼んだ。
 
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