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ときめきメモリアル Girl's Side(PS2) 二次創作

   アンバランス

1-おとぎ話のお城 〜葉月side〜

 最後の講義が終了した途端、少し遠い背中は大きな溜め息をついていた。
 何人かの『友達』が寄っている中に、高校からの同級生・有沢志穂がいる。切れ切れに聞こえて来た会話の中に、図書館、という言葉を聞いて、またか、と思う。
 別に図書館が嫌いなわけではない。ただ、最近は試験も近いせいか、有沢と一緒に勉強している姿しか見ていないのを思い出してしまうだけだ。
 大学に入ってから、ただですらモデルの仕事は増えていた。日を追うごとに予定で黒くなって来る手帳を見るのは憂鬱のネタにしかならない。
 高校の時はそんな風に思ったことはなかったけれど。
 姿を見ている時間は増えたと思う。でも会っている時間は減ってしまっている。
 連れ立って部屋を出る遥と有沢の後に続いて教室を出る。目の前の背中に、声をかけようとして戸惑っている自分に気づく。
 ----楽しそうな、笑顔。
 横顔しか見えない、その『恋人』(のはず)の笑顔に会うのが、久し振りのような気がしている。
 いつを最後に話してないんだろう。すれ違ってばかりで。ただの友達でしかなかった頃の方が、あいつは素で笑っていたかも知れないなんて思える。
 小さな頃から、自分で自分の思いが重過ぎて辛かった。
 卒業の日、全て吐き出してしまえば楽になると思っていた。
 思っていただけで、現実は軽くなるどころか、ますます重たくなって行く。アイシテルと告げることで出来上がってしまった距離を埋められずにいる。
 ----彼女は女で。自分は男で。ただ触れることですら、その言葉の前後で意味が変わってしまったから。
 図書館に入るまで二人の後ろを歩いてから、そのままドアの前を通り過ぎる。仕事に行くために校門に向かうにしてはあまりに遠回りなコースをただぼんやり歩く。
 すっかり存在自体に慣れられてしまったのか、見知らぬ女の子に声をかけられることはだいぶ減った。大学の前でバスを待っている間でも。
 やって来たバスに揺られて仕事に向かう。携帯の時計を確認。遅刻するかも知れない。そんなことを考えながら少しだけ目を閉じた。


 季節は夏ではあるが、スタジオを出る頃にはもう太陽は残っていない。それでもまだ気温は高めだ。梅雨が明けたばかりのムッとする空気に出迎えられる。
 以前に比べて明らかに大事にするようになった携帯電話。かちっと音を立てて開いたその画面に、メール着信履歴があると少し安心する。
 バス停に向かいながら開いたそのメールは、今年の花火大会はどうする?と訊ねて来ていた。
 返信する代わりにメモリから発信する。電話の向こうはずいぶん騒がしかった。
「……今、大丈夫か?」
「だ、だめかも……」
 電波の状態が悪い。そのプツプツと途切れる音が、まるで今の自分たちの関係を象徴しているようで嫌な気分になる。
「……仕事終わり? 外出てこっちからかけ直すから、待ってて」
「……あ、いや、バス……」
 電波が途切れる。無音数秒。----そして電話が切れる。
 そのままマナーモードにして、やって来たバスに乗る。
 手の中で何度か着信しているのを感じはするのだけれど、出ることも出来ないまま、到着までの時間をぼんやりと過ごす。
 飲み会だろうか。細切れに聞こえて来たざわめきをバックにしていた遥の声は少し弾んでいるように聞こえた。
 彼女は、自分とは違う世界を持っている。それは当たり前だったはずなのに。
 小さな頃に一度だけ見た泣き顔が、あまりにそのままでそこにいたから。そして同じように笑いかけてくれたから。頭の中だけで作られていた自分たちのおとぎのお城の中で、お姫様はずっと王子を待っているのだと信じていた。
 そうだ。信じていた、だけなのだ----一方的に。王子の側だけが。
 王子は旅の間も彼女を思っていた。その瞬間で時を止めたまま。でもお姫様の時間はその間も流れていた。教会で「再会」するまでに、王子とは無関係な人生を歩みながら。
 再会までの三年間。あんなにも近くにいたのに、それでも彼女は気づかなかった。王子が心の底にずっと温めて続けていたその思い出に。
 アンバランスなのだ。今でも。自分だけがひどく一方的に彼女に想いを押しつけているだけのような気がしている。
 サークルに勉強に忙しい彼女の時間は、淀んでいる葉月のそれとは違うスピードで動いているように見える。
 葉月には、相変わらず、彼女以外には友達と呼べる相手もいない。あえて挙げれば守村ぐらいだろうか。
 遥は、相変わらず、あちこちに交友関係が広がっている。男も女も。
 お姫様は幽閉されていたわけではないけれど。時々、幽閉したくなることがある。誰も近づいて欲しくないと思うことがある。高校時代からの彼女の親友である有沢志穂相手にすら嫉妬に駆られそうになる。
 そんな自分はどうかしている、とは自覚しているのだけれど。

 バスを降りてすぐにもう一度かけてみる。呼び出し音を十回以上鳴らしたけれど、出なかった。
 時間の流れが変わっている。彼女は今頃、仲間たちと楽しくやっているのだろう。携帯の着信音にも気づかないほど夢中で。
 ----何に対しても感じたことがなかった気持ち。彼女によって初めて呼び起こされる気持ち。もやもやする。
 自分という存在の意味がわからない。つかみ切れない。
 我がままな子供のように、誰かに答えを求めたくなる。
 ----どうすればいいんだろう。どう在ればいいんだろう。何をしてやれるんだろう。何を望まれているんだろう----


「----葉月くん」
 翌日、遥は少し眠そうな顔で講義の前に声をかけて来た。
「……大丈夫か?」
「うん。試験前にみんなどうかしてるよね……。でも私はとりあえず午前サマはやめといたし」
「そうか」
「ゴメンね、電話、全然気づかなかった」
「あ……いや、急いでたわけじゃないし」
 横に並んで講義室に向かう。その間も、あちこちから声がかかる。彼女はちらちらと挨拶を返しながら、それでも葉月に花火の話を持ち掛けて来る。
「……お前は、行きたいのか?」
「まあ、そりゃね。でも、葉月くん最近忙しそうだから----スケジュールとか」
 今のところ、花火大会の時間帯はフリーだ。というか、意地でもフリーにしてあるんだけれど。
「----バカ」
 そのぐらい、いい加減に気づいてくれないもんだろうか。彼女が行きたいと言えば、それが何よりも優先されるのに。
「……な、なんでバカ??」
「……お前が……行きたいなら……」
 断るはずなんかない。
 口篭もるようにし言えなかった言葉に、遥はくすっと笑って少し俯いた。
「……バカは葉月くんの方だよ」
「なんで」
「私のワガママなんか全部聞き入れることないよ? 忙しいのは知ってるから」
 同じセリフをそのまま返したくなる。葉月に言わせれば彼女の方がだいぶ忙しそうに見えるのに。
「いや、やっばお前の方がバカ」
「なんでー? だって、『私が行きたいなら』……なんでしょ? 葉月くんが行きたくないんなら、別に無理すること…」
 ----そう受け取られたのか。
「違う。----俺も行きたいから」
「ほんと?」
「ああ」
「ほんとね?」
「ああ」
「----それなら、いいんだ」
 何故かまだ少し心配そうな顔。
 その理由を確かめる時間は今はない。もうすぐ試験が始まる時刻。「じゃ後でね」と離れて行く背中を見送る。
 何故そんな風に思うんだろう。高校の頃なんか、結構強引に誘われてたような気がするのに。
 不安になるばかりだ。----こうなりたくて告白したわけではないのに。


 試験が明けると同時に----まだ講義は残ってはいるが----、校内の雰囲気は一気に夏休みモードに突入する。教えている方も早めに休講に入る先生がいたりする。空いた時間を持て余している学生の一部は、学食に併設されたカフェでうだうだと無駄話に花を咲かせていた。
 遥とは違う講義の後で、彼女を探すルートはいつもこのカフェから始まる。試験期間中は図書館の方が確実だが。
 大勢の人いきれは未だに慣れることが出来ない。頭が痛くなって来る。目を凝らして見渡す。今日はすぐに目に入った。
 三人。有沢と守村、そして遥。
 狭い配置の椅子やテーブルの間をすり抜けて近づく。すぐ隣に立つまで遥本人は気づかずに有沢と何やら話し込んでいた。
「あ、葉月さんお久し振りです」
 最初に声をかけたのは守村。慌てて振り返る遥は驚いた後にぱあっと表情が明るくなる。
 空いている椅子に手をかけるのと、彼女が立ち上がるのはほぼ同時だった。
「今日は時間ある?」
 至近距離で見上げる視線は、笑顔ながらもちょっと真剣。
「……ああ」
「良かった」
 有沢と守村に何やら話してから、遥は自分の荷物を抱えて軽く葉月の腕を引いた。
「……ちょっと外出たいな。いいでしょ」
 異論のあるはずはなかった。

「夏休みの間も撮影あるの?」
「まあ、大きいのが1つあるかも。----あとは直前にならないとわからない」
「……大きいのって」
「ジェスがメンズの店出すとかって。花椿先生が地元でモデル探すらしくて、オーディション受けさせられた」
「うわ、すご……」
 あんなの、事務所の打ち合わせで半分は決まってるようなものなのに。よっぽどの逸材がひょっこり出て来ない限りは決まるから、と自信満々に断言されている。何のためにオーディションなんてやるのかよくわからない。それでまた「蹴落とされた」と変な逆恨みを買う羽目になるのだ。うっとおしいことこの上ない。
 本音ではあまり決まって欲しくはなかったりする。普通にバイトするより割に合わない仕事であることは判っているのだ。拘束時間は長いし、プライバシーはないし、人間関係のストレスも凄い。高校生の時までは、他に時間の使い方を知らなかったから、ただぼんやりと引き受けていたぐらいの自覚しかなかった。
 今は、他に時間を使いたいのだ。特に最近は。
「----はあ。ますます遠くなるなあ、葉月くん……」
「……仕事のことは関係ないだろ」
 彼女の口からそんなセリフが出るたびに自分の立場を呪いたくなる。もう今さらどうしようもないと自覚があるからなおさら。
「……怒ってる?」
「別に」
 怒ってる。自分自身に対してなら。もう何度も。自分ほど自分を嫌っている人間なんかいない。断言出来るぐらい。
 しばらく横目でこっちを見上げていたらしい遥は、突然、にこ、と妙に危機感のない笑顔で隣から離れた。数歩前に歩いて振り返る。
「ね、久し振りに今日は時間作れそう? 帰り、お買い物付き合ってもらってもいい?」
 ----彼女に悩みがないとは思わないが、それにしても底抜けに能天気な顔してる。
 本人に言ったらぶたれそうなので黙って頷いておく。
「ホント? やったー」
 高校の時からそうだったが、遥がそういう話をしても、デート、というほどの言葉の重みを感じない。ただなんとなく一緒に出掛けているただの友達同士にしか感じない。
 その軽さは、あの頃は救いだったかも知れない。でも、今はその軽さは少し不本意だ。
 決定的に何かが変わっているわけではないのだ。変えたいと思ってはいても、その変え方を実は知らない。物好きなゴシップ誌に騒がれたことはあっても、きちんと誰かと付き合ったことはまだなかったから。
「あと一コマあるんだけど……終わったら何処で待ち合わせする?」
「……図書館は」
「昼寝する気でいる?」
「……ダメか?」
「うーん。起き抜けの葉月くんって結構怖いんだけど……」
「じゃカフェにいる」
「うん、わかった」
 手を振ってから遠ざかる背中。他の学生たちも、校門と学食と講義棟へと散らばって行く。

 学食組の流れに乗ってカフェに辿り着く。だいぶ人は減っていた。
 まばらにいる中に守村の姿を見かける。向こうもすぐに気づいたらしく、軽く手を挙げていた。
「……水嶋さんは講義ですか」
「ああ」
「じゃあ状況は一緒ですね」
 見た目や雰囲気と違い、この青年はよく喋る。もちろん、話し相手は選んではいるが。親友とまでは行かなくても、同じ高校出身で同じ大学に通っている同士で自然と話す機会は多い。
 まあ、付き合っている相手が大親友同士だ、というせいもあるのだが。
「そっちも待ち合わせ?」
「……まあ、そんなようなものです。ショッピングに連れ出されるらしくて」
 有沢としょっぴんぐという言葉が一瞬結びつかなかった。それに気づかれたようにくすくすと笑われる。
「受験が終わったら色々と気が抜けたみたいですよ、彼女は。まあ、僕も変わりましたね……。まさか出原研究室に入ることになるとは思ってませんでしたし」
 出原教授は日本でも有数のバイオテクノロジー研究者だ。学部としては一応農学部なのだが、いる学生は理系から文系まで幅広いらしい。教授自身にスカウト癖があり、高校の文化祭などでちょっと才能のありそうな人間を見つけると口説きに入るという話だった。
 そして、この守村も口説かれた1人なのだ。いずれここの大学に入る予定ではいたらしいのだが、教授の熱意に負けて研究室を選択したらしい。
「……研究、忙しいのか?」
「まあ、相手は植物ですからね。待っている時間とか祈っている時間の方が多いかも知れません」
 楽しそうに笑う。何だかんだでそれなりに充実しているのだ、というのはわかる。
 それから、例によって一方的に研究のことや大学のことをぽつぽつと話す守村の話をぼんやりと聞いていた。
 ただ見たことを忘れないだけの自分の知能では、彼のように何かを研究することは多分出来ない、と思う。
 高校までの生活で、「頭がいい」と評されることは決して心地よくはなかった。
 本当に「頭がいい」というのは彼のような知性を持った人間のことを指すのだろう。テストの成績はよくても、自由研究となると何も思いつかずに夏の間じゅう苦しんでいた自分のような人間ではなくて。

 カフェに人が増え始めた。守村が目の前で覗いていた時計がちらっと見える。そろそろ二人とも講義を終えて来る頃か。
 入り口にちらりと視線を走らせる。すらりとした長身が先に目に入った。有沢。
「……お待たせ」
 テーブルに辿り着いた彼女は柔らかな微笑で守村を見下ろした。今の彼女はコンタクトだ。それだけで印象はだいぶ変わっている。
「今日は何処に行くんですか?」
「雑貨屋よ。ティーポット新調したいって言ってたでしょう」
「……あ、いえ、でも今日お金持って……」
「試験明けてから誕生日のこと考えようって約束したと思うけど」
 相変わらず口調がきつめではあるが、それでも守村は全部理解しているようでにこにこと聞いている。
 ふっと彼女の声が落ちる。うつむいて呟くように。
「私はこういうのセンスないし……臆病なの。気に入らないものを贈りたくないから、ついて来て。……ベネチア・グラスで、すごく綺麗なの、あったから」
 守村は一瞬目を見開いてから、何の躊躇もなく彼女の手を取った。
 有沢の方は少し驚いてはいるが、戸惑ってはいない。
「ありがとう。そんな風に考えててくれただけでも最高のプレゼントです」
「……っっ……」
 急に恥ずかしくなったのか、有沢の頬が一瞬にして染め上がったように見えた。
 これはこれで、素直な反応だな、と思う。
「……い、いいから、ついて来て、とにかく」
「はい」
 二人が挨拶してカフェを出るのを見送りながら、ふと考える。
 そう言えば、彼女が----遥があんな風に照れている表情はあまり見たことがない。
 笑っていたり、泣いていたり。拗ねていたり、怒っていたり。
 たくさんのたくさんの表情を知っているつもりでも「変わらない」ように感じてしまうのはそのせいかも知れない。
 ----目を閉じる。
 泣いていた彼女が教会で答えた言葉を、思い出すたびに胸がざわつく。
 認めたくない。でもそれは事実だ。

 彼女はまだ。この自分に。
 ----「好き」という言葉すら、言ってくれてはいないのだ。


「……遥」
「ん?」
 真剣な顔でワンピースを眺めている横顔が、生返事の後で葉月を見上げる。
「今度、家……来ないか」
「うん、いいよ。いつ?」
 間を置くこともなく返事をされたことについては、葉月は喜ぶよりむしろ悩むべきことのような気がしないでもなかった。
 お茶してにこにこ喋って帰る、そういうことしか想定されてないのだとしたら悲しすぎる。付き合ってるのに、一応は。
 自分でもこんなことを考えるようになるとは思っていなかった。だが、そのあまりに能天気な恋人の笑顔に、口をついて言葉が飛び出してしまった。
「……泊まりに来いよ」
 言ってしまってから少し後悔する。聞こえたらしい通りがかりの中年女性がいかにも不謹慎だと言うような目で睨んで通り過ぎた。
 いや、言わせてしまった自分の無意識は、もちろんそういう誤解を前提にして出したのだとは思うのだけれど。
 長い間、きょとんとしたまま無反応だった遥は、----あの時の有沢のように「照れる」ことはやはりなく。
 戸惑い気味に俯いて、「うーん」と考え込んで、それから。
「……日付によるな。色々手伝い頼まれたりしてるから、そういうのにぶつかりさえしなければいいよ」
 相変わらず屈託のない笑顔で出て来た最終結論。
 ----からかわれてるんじゃないか? 俺は。
 そう思いたくなるほどに遥はのほほんとしている。
 遥にとっては、ただのスケジュールの1つに過ぎないんだろうか。自分といる時間は。
 そう思った途端に込み上げて来る想いに一瞬理性をさらわれそうになる。
 今すぐこの場で彼女を抱きしめてしまったら。その唇を奪ってしまえたら。離したくないと、ずっと愛していると、伝えたのに、何も伝わってないとすれば、もうそんな風に押しつけるしかないのかも知れないと、----
 大きく長くため息をつく。自分も"男"だったんだなあ、と、自覚してもちっとも役に立たないことを自覚して少し冷静になる。
「……俺よりそっちが優先なんだ」
「……そういうつもりじゃないよ。大丈夫、日付ずらせる用事が多いし。葉月くんの都合に合わせるよ? 仕事、あるんだよね?」
 ----またその話。なんで仕事に遠慮なんかするんだろう。仕事サボらせてでも会いたいとは思ってはくれないんだろうか。
「なんかお前の方が忙しそうだ。俺は別に、サボっても誰も気にしないし」
「いや、そんなことはないと思うけど…」
 何でこっちばっかり? 何でこんな気分にさせられる?
「……葉月くん……どうしたの? 怒ってる?……」
 ふっと思い出してしまった。他の男と遥が遊びに行っていたのを見てしまった。電話をかけたら慌てて切られて。切れる直前にその相手の声がしたのが聞こえて。
「……私、何か悪いこと言っ……」
「明日は休みだろ」
「……あ、うん、そうだけど」
「今日だ」
 これ以上耐えられそうになかった。変えてしまわなければ、壊してしまわなければ。
「え!? き、今日って」
「今日、これから。俺の家に来いよ。----泊まりに」
 やっと違う顔をしてくれた。
 ----やっと『誤解』してくれた。
 目の前の遥は、ほんの少し自分に脅えているように見える。多分、今まで彼女が知っていた葉月という人間とは違うと感じているのだろう。

 いつまでもしあわせにくらしました
 そんなあやふやな結論で全てを終わらせることなんか出来ない。
 この想いは、絵本じゃない。----パタンと閉じて終わらせることなんか、出来ないんだから。


 一度家に帰った遥は、いつもより大きめのバックを手に家に来た。
 誰もいない家。夕刻を過ぎて少しひんやりした空気。部屋に上がるまでの彼女はいつもより表情が硬い。
 冷たい麦茶を部屋に運んで来る。それに手を伸ばす仕草ですら、何処となくぎこちない。
 ----一度帰った。そのまま、ここに来ない選択肢も彼女にはあった。でも彼女はそうしなかった。そして、怖がる小動物のように何処となく震えながらも、いつものように話をしようと、笑おうとしてくれている。
 ここまで来てから自分の行動をかなり葉月は後悔していた。彼女が普段通りにしようと「繕う」のを見ているうちに。こんなことを望んでいたわけじゃないのに。でも。それでも。
 どうやって進んでいいのかわからない。けど進みたいのだ。変わりたいのだ。
 彼女がその心ごと確かに自分の掌の中にあることの、確信が欲しいのかも知れない。
 彼女は想いを話してくれない。一緒にいれば楽しそうにしてくれていても。ただそれだけで、それ以上の存在には自分はなれていないのではないか、と----。

「……葉月くん」
 少しの沈黙の後に出て来た言葉。無意味な逡巡を繰り返していた隙間に入り込んで来た言葉。
「……あのね、……」
 グラスに手を預けたまま、繕っていた仮面が不意に落ちた。閉じたままの唇。視線が、さまよっている。
 やがて、ぎゅう、とその手に力が入る。何かを決意したように意志を持った目が葉月を見上げた。
「……最近、なんだか、……少し不機嫌な顔してること、多いなって……」
「………」
 その原因は、良くも悪くも遥だ。どう答えていいか判らず黙り込むしかなかった。
「……私、のせい?……」
 真剣なまなざし。嘘やごまかしをして欲しくないと暗に言っている。
「----そう、だな」
 吐き出してしまえば楽になる。言ってしまえば、多分、少しは。
「……言っただろ、離れたくないって……」
「………」
「なのに、お前は…遠くなるばっかりだ。大学来てからずっと……」
「----葉月くん……」
「あの頃よりお前と会えてない。一緒にいることも減ってる」
 今を逃したら二度と言えないかも知れない。張りつめた静寂。全てをさらしてしまえばいいと、その静寂が背中を押したように感じて。
「俺の都合なんかどうでもいい。むしろ高校の時はそうだった。俺の中に……踏み込んで来たのはお前の方だ」
 怖かった。『姫』が待つ『王子』はあまりに変わり過ぎていた。あの時から。あの思い出から。
「なのに何故今は引いてる……?」
「……そんなことっ……」
「俺は、まだ……今でも怖くて仕方がない。俺はあの時ムリに俺の想いを押しつけただけなんじゃないかって----」
 戻って来た王子は、姫の意志に関係なくその手を取り誓うのだ。彼女が、彼を待っていてくれたのかどうか、確かめもしないまま、突然に。
「なんでそんなこと……言うの?」
「お前は答えてない」
 立ち上がっていた。彼女がびくんと震えて座ったまま後ずさっていた。その隣に膝を落として、すっと指先を彼女の耳元から髪の中に滑り込ませる。
「----あの時の言葉に、お前はまだ答えてくれていない」
「……葉月く……」
 そのまま引き寄せた。何かを言おうとした彼女の言葉を封じる。
 答えが欲しいと思う気持ちと、もしその答えが望まないものであったらという恐怖とが入り混じっていた。
 恐れていた。とても。否定されるぐらいならあのまま押し通した方がまだいいんじゃないか? トモダチじみた関係のままでも、彼女が笑っていてさえいれば----
 でもそれじゃ意味がない。今は。
 "欲しい"のだと思う----確証が。
 絆が。今まで、失うものだと諦め続けていた関係が。
 だから言葉にしたのに。それなのに----

 彼女は咄嗟に葉月の肩口をつかんでいだ。
 その手は、----押されている。
 拒まれている。
 それに気づいた途端にふっと頭から血の気が引いた。
 わずかに唇が離れた途端に遥の顔がはっきりと横に逸れた。その掌で押し出されて突き放される。
 ----拒まれた、のだ。自分は。彼女に。
「----遥、」
「ごめんっ……」
 あの時とは明らかに違う涙。しゃくり上げて途切れる声。
「……今日は……帰らせて……」

 ----自分で壊してしまったのだ。そのおとぎ話のお城を。


2-変わる関係、変わらない関係 〜有沢side〜

 その日は豪雨だった。
 誰もいなかった家の中で、天井がぼんやりとしか見えなかったのは、眼鏡を外していたせいだけではなかった。
 そうなってしまってからもまだ信じられずにいて、それでも今隣にいるその人の体温は本物で。
 ただ----ふっ切れた、とは思う。
 ホントに自分なんかでいいのかな、とずうっと思い続けていたから。
 一方的に思いを告げただけで。傷つけまいと気遣ってくれていただけで。この人が自分を好きでいてくれているなんて確信は何も持てなかった。
 ことあるごとにそんな類の卑下ばかりを口にしていた自分に、どうすれば信じてくれるんでしょうね、などと困ったように笑っていた。
 これが「答え」なんだとすれば、彼は----守村という人は、いざという時に物凄い飛躍をする人だったんだ、ということになる。
 でもその飛躍は全く間違ってはいないと思う。少なくとも志穂にとっては。
 ----自分が誰かに、ちゃんと「女」として扱われているなんて、こうでもされなきゃ、多分自覚出来なかったと思うから。


 梅雨の晴れ間の青空。まだ気温はさほどでもない中を、いつもと同じように大学へ向かう。
 学校で面と向かってしまうとこっちは何だか恥ずかしいのに、守村の方はまるで態度が変わらない。いや、彼に言わせれば変える必要がないから、ということらしいのだけれど。
 付き合い始めてからずっとそういう可能性だってありうる関係と思っていたし、なんて改めて言われて、頭の中のもやもやがちょっと引いて行く感じがした。
 ----やっぱり自分の頭は堅かったのかな、と思ったりする。小学生でもあるまいし。法律上結婚も可能な男女が付き合っていて、そういうことがない方が不自然なのかも、と一応は思ってみても。
 なんか気恥ずかしい。やっぱり、それまでの自分と今の自分は別人のような気がしてしまって。
 こういう時に誰かに聞いてみたくなるのは、やっぱり「オンナゴコロ」というものなんだろうか。
 卒業式から付き合い始めた----同時期に出発したカップルがもう一つある。
 客観的に、世の恋人同士というものがどういう付き合いをしているのか、知る手だてが志穂にはなかった。変なことじゃないと思っていても、隅っこの方に引っかかるこの罪悪感みたいなものは何なんだろう。嬉しいのに、大好きな人なのに、ああこれが「一線を超える」ってことなんだなあなんて思ったりもしているのに。でも。
 そのもう一つのカップルは、何だかそういう雰囲気がまるでないのが引っかかる。
 付き合い始めて二ケ月半だ。早過ぎるのではないか。それまでキスもしたことなかったのに。
 恋愛に関しては鈍いを通り越してマイナス領域に突入していそうな親友では、世の平均(?)とは比較出来ないとは思っていても。
 とりあえず聞いてみるぐらいいいだろう。親友なんだし。今の有沢志穂は勉強しか能がない女ではないはずなのだ----少なくとも、守村という人にとっては。

「……志穂から誘ってくれるの久し振りだね」
 同じ学部に所属しているせいか、帰りが似たような時間になることはあっても、確かに高校の時よりは一緒に帰ったりしなくなったかも知れない。
「いーのー? 彼氏に怒られそうだなー、私」
「……そんなこと気にするような人じゃないよ……」
「判ってるって。……正直、ちょっと羨ましい部分もあり、かな。志穂と守村くんは」
「葉月くんは忙しそうよね」
「うん……まあね……」
 ふっと表情が暗くなって初めて、志穂は自分の気の回らなさに気づいた。
 そうか。遥の相手はあの葉月だ。二人が仲良さそうにしている現場を、親友の自分ですらあまり見たことがない。
 そんな雰囲気も何も、二人きりになれる時間がそもそも少ないだろうに。まるで進展なさそうに見えるのは、進展出来るだけの時間すら二人にはないせいかも知れない。
 やっぱり相談する相手を間違えた。でも今更こんなことで電話出来るのは----奈津実ぐらいか。だがこれはこれで、どう考えてもサンプルとしては偏り過ぎのような気がしないでもないし。
「----志穂、実は、すごいタイミング良かったんだ、今日」
「え」
 遥は俯いたまま地面に向かって呟いている。
「聞いて欲しいことあるんだけど……。あんまり、人が多くなさそうな、落ち着いた店知らないかな……」
 予想外だった。いつもにこにこと笑っている遥は、悩みなんてないんじゃないかと思えるぐらい能天気だったのに。
 志穂は少し考えた末、守村から紹介されたハーブティの店に遥を連れて行くことにした。ちょっと値段は張るけれど、商店街などからは少し外れた住宅街の中にあるため、本当に好きな人以外は存在を知らない店なのだ。相談事には一番相応しい場所に思えた。

 窓際のテーブルに着いてから、遥は何度か深呼吸をしていた。それだけでも、言うには勇気の必要な話なんだろうか、と思えて来る。
 こういう時には待つしかない。急かしてしまっては悪いので、お茶に手をつけて何も言い出さずに窓の外なんかを眺めていた。
 やがて、遥がかさこそと鞄の中を探り始める。志穂が目を向けると、彼女が何やらレポート用紙のような畳まれた紙を何枚か取り出している。
 ----ラブレターでももらったのかな、と最初は思った。だが、出て来る紙がだんだん増えて来るにつけ、そうでもなさそうだと理解する。
 全部で二十枚はありそうだ。うず高く積まれたその山の向こうから、遥が泣きそうな顔で志穂を見上げている。
「見てもいいの?」
 遥はこくんと頷く。
 ……とは言うものの。
「……どれから見るのが判り易い?」
「……そ、そうだよね……」
 遥は何枚かの紙の中身を確認すると、そのうちの一枚を志穂に手渡して来た。
 印刷されたメール。宛先はもちろん遥だ。
 志穂たちの大学は、入学と同時に生徒それぞれにメールアドレスが支給される。アドレスは、学部の略称と学籍番号の組み合わせで出来ているため、学内での所属と学籍番号さえ判れば、知らない相手にもメールを送ることが可能だ。そのせいで、ゼミの名簿などを使えば、本人からアドレスを聞かなくてもいたずらメールを送ることが出来てしまう。
 実は遥は入学当初からその手のいたずらメールを受け取っていた。学部の女子の中でトップの成績で入学して来た上に(入学式で代表として挨拶させられたのだ)、葉月と親しげに話していたことで目をつけられたようなのだ。だが、遥本人は気にしている様子がなかったので、むしろその話を聞いた志穂の方が怒っていたぐらいだったのだ。
 よほどひどい中傷メールが来たのか、それとも今までは我慢していたのか……そんなことを考えながらメールに目を落とす。
 一見慇懃な手紙。だがその内容は、葉月のマネージャーを名乗る女性からの警告文のようなものだった。
 他のも見せてもらう。二人でいる所を撮影された写真がゴシップ誌に出そうになって食い止めたとか、二人のことを知った自称ファンに事務所に押しかけられて被害が出たとか、丁寧な文体ではあるが、遥が葉月と出歩いたりすると迷惑なのだ、と言いたいらしいことだけはよく判る文面が続く。
「こんなのイタズラでしょ?」志穂は呆れて遥にそれらを返す。「今までもこんなことあったじゃない。その差出人のメールアドレスだって何だかよくわからないし」
「……これは事務所のだよ。ちゃんと実在もしてた。……葉月くんの携帯にマネージャーさん出たことあるから、名前は知ってるんだ……その署名の人、マネージャーさんで間違いないよ。いつもすごく迷惑そうにされてるから、そう思われてたとしても不思議じゃないんだ……」
 まあ、ありうることなのかも知れない、とは思った。マネージメント能力は長けていても、人間的にいい人であるかどうかはまた別問題だ。最近になってますます人気の高まった葉月を、マイナーな頃から育てた自負みたいなものがあるだろう。遥の存在を疎ましく思うことがあってもおかしくはない。
「……気にするなっていうのも難しいとは思うけど、でもメールだけなんだから、メールソフトの設定で読まないようにしたら? 二人の問題なのに、マネージャーさんが口出す権利はないと思うけど」
「……うん……そうなんだけどね……」
 遥は再び手紙の山から何枚かを取り出して見せて来た。
 マネージャーは、メールの中では遥のことを「恋人」だという認識はしていないらしく、ただの友達なのに、のような書き方をしていたのだが、そのうちに、遥とは別に付き合っている女性がいるらしいことを匂わせるような文章が出て来るようになった。
「……最近になって、その本人からもめでたく連絡があったんだ」
 泣き笑いのような顔で差し出されたメール。とても文体が丁寧だ。丁寧どころか。
 年上らしい彼女は、モデルという孤独な職業で友達が少ないとかで、遥とメール友達になりたがってたのだ。
「……すごくいい人なんだ。マネージャーさんが私によこしたメールのこと知ってて、余計な勘違いをしているみたいだから話しておいたよ、って言ってくれて。以来、マネージャーさんの方は音沙汰なし」
「……そうなんだ」
「そう。彼女によると、葉月くんは私のことを幼馴染の面白い女の子って話しているみたい。彼女は、そのことを全然疑ってないの。----ライバル視もされてないんだ」
 同一人物の自作自演なのではないかと思うけれど、コンピュータに詳しくない志穂には、2つのメールが同一人物かどうかは見てもわからなかった。
「……彼女ね。私の知らないことたくさん知ってるんだ。仕事場での話は、私が知らなくても当たり前なんだけど----葉月くんの小さい頃のこととか、おじいさんの話とか。私には話してくれたことなかったよ、おじいさんがステンドグラス作家だったなんて」
「……………」
「それに----」
 すっ、と遥が差し出して来たのは、少し粗いが写真が印刷されたもの。綺麗なモデルの女性と葉月がお互いに微笑み合いつつ並んで写っている。プライベートなのか仕事なのかはわからない。雑誌のグラビアでそういうシチュエイションで撮ったと言われればそうかもしれないと思える。
「葉月くんは、気に入った女の子には手作りのアクセサリー贈るんだよって、嬉しそうなメールくれたことがあって----」
 ぎゅ、と手を握る。----今まで気にはなっていたけど、聞いてみたことのなかったものがそこにある。
 指輪。四つ葉のクローバーの。漠然と、葉月から贈られたものなんだろうと思っていた。
 そしてその粗い写真に写っていた女性の指に----
「----葉月くんから、指輪もらったって----」
 やっとの思いでそれだけ言った後、遥は唇を噛んで俯いてしまった。テーブルの上にある自分の指先、そこにある四つ葉に目を落としたまま。
 指輪だけクローズアップした写真ではないので、確証は出来ないけれど、デザインは酷似していた。
「この画像もその人が送ってよこしたの?」
 タチの悪い自作自演のイタズラなんじゃないだろうか。
「ううん。私がネットで探した」
「……遥が?」
「うん。そのモデルさん、最近あるファッション系のWebマガジンで、短期連載で葉月くんと組んでたみたい。……どの写真でも、全部、その指輪してたよ」
「……たまたま似たような指輪を彼女ももらったってだけなんじゃないの? だとしたらひどいのは葉月くんね」
 ただのクラスメイトとしての葉月は、女性心理を慮ることに長けているとはとても言えない性格なのは知っている。ただ、長けてないだけに、嘘をついて弄ぶようなことが出来る性格とも思えない。
「違うの----」
 泣き出しそうな声。
「何が違うの?」
「----葉月くん、これくれた時、……『私のために作った』、って、言ってくれた----」
「-----!」
 そこまで来てやっと、遥がたかがイタズラメールと割り切れずにいる原因を理解出来た。
 たかがイタズラならここまで偶然が重なるんだろうか。マネージャーですら付き合っていると認識しているらしい人、遥の知らない葉月の家族のことまで知る女性----。それに気に入った人に指輪を贈るなんてプライベートなことは、それこそ相当に親しくなければ知りようがない。
 もし全て嘘だとしても、かなり下調べをした上で遥を追いつめようとしていることになる。葉月がシルバーアクセサリーを作ったことがあるかどうかは、志穂がそういう雑誌を読まないから知らないだけで、メディアで露出していたかも知れない。遥が大切にしている指輪をそこに結びつけて考えることも出来ないわけではない。そして、Webマガジンの仕事相手の指輪にデザインが似ていたこと。
 ……偶然、なんだろうか。
「……でもね遥。こんなメールとホームページの画像を勝手に結びつけて悩むぐらいなら、葉月くんに聞いてみるべきなんじゃない?」
「----それじゃまるで葉月くんが二股してるって疑ってるみたいじゃない……」
「違うの?」
「………」
 違わないんだろう。答えられなくなってしまったのを見ると。
 ただ、疑っている、ということを表に出してしまって、葉月を怒らせるのが怖いんだろう、ということは理解した。
 悲しいけど、嫉妬は諸刃の剣だ。それだけ思ってくれていると解釈されるか、自分を信じてくれていないと解釈されるか。遥は多分後者を恐れて言い出せないでいる。
 高校の頃の自分なら、そんなことまで多分気づかなかった。嫌われるのが怖いなんて思ったことがなかったから。どうせ嫌われている。そこから出発する関係しか知らずにいたから。
 自分に降りかかったらどう思うだろう、と志穂は少しだけ想像してみようとする。
 ----しばらく考えてはみたけど、今の自分の立場なら、今の遥ほど疑心暗鬼にはならないような気がする。
 どうしてだろう。----多分、守村が自分と一緒にいてくれる時の態度一つ一つの積み重ねなんだろう。臆面もせず志穂に対する好意を素直に出してくれる人だから。
 その想いをたくさん感じることが出来れば、たかだかメールぐらいの悪意よりそっちを信じることも出来そうなものだけど。
 目の前の遥と比べると不思議なぐらい、志穂は守村という人を信じている。似たようなことが起きても、多分嫌われることを恐れて言い出せないなんて結論は出さないような気がする。
 遥はぬるくなったハーブティに少しだけ口をつけた。大きな溜め息。話してしまうことで少しは落ち着いたのかも知れない。
 すっと目を閉じて。----開いた後に志穂を見上げる。
「----でも、違うんだ。二股とは思ってない」
「え」
 もう泣きはしないけれど悲しそうな目。
「……永遠なんてない。そうでしょ。人を好きになるのも嫌いになるのも」
「遥??」
「多分……私、飽きられてるんだと思う、葉月くんに」
「何言い出すの、突然」
「思い当たることならたくさんある。あり過ぎて嫌になるぐらい……」
 ティーカップを手で包み込んだまま、それから淡々と遥はその「思い当たること」を次々と話し出した。
 春休みにずーっと連絡が取れなかったこと。大学に出て来てから仕事で会う機会が減ったけど、電話をしてもなかなか捕まらないのでメールで連絡することが増えたのに、それに対しては返事をなかなかもらえないこと。何処かに出掛けていても、遥の方は高校の時と同じように楽しいつもりなんだけど、最近不機嫌な顔していることが多くなったこと。----など。
 ----志穂にすれば、だからどうしてそれで疑心暗鬼になるのかなあ、と思うようなことばかりなのだけれど、遥にしてみれば、嫌なことに例のメールとのダブルパンチになってしまっているのだろう。
 メールの中のことと現実の葉月。それを別々のことだと理性で割り切ることが、今の彼女には出来ないのだ。
 別の意味で、恋は盲目。
「……私が葉月くんに探り入れてみようか」
 何だかもうそうするしかないかな、という気分になった。一度マイナス方向に走り出してしまったら、葉月がしたことが全部嫌われてる証拠になってしまうスパイラルから抜け出せなさそうだ。
「……志穂ー……」
 一瞬どうしようかと戸惑った後に、それでも少し遥の顔から緊張が薄れた。
「気にしないで。あの人に嫌な顔されるのは慣れてるから」
 志穂も最大限安心させようとして微笑んだ----自分のキャラクターから行けば、遥を悩ませてるんじゃないか、なぁんて、嫌な女の顔で葉月を責めるぐらいがいいのかな、などと、シミュレイションしてみたりしながら。


3-"彼女" 〜遥side〜

 昼間続いていた小雨は綺麗に上がった。気温はこれから下がるばかりだから、少しは過ごしやすい日になったかも知れない。
 ショッピングモールの噴水の前で、携帯の時計をちらりと確認する。
 待ち合わせまで、あと五分。
 ゆっくりと深呼吸しながら指輪を外す。
 彼女が、この指輪の存在をどう思うかと考えると、少し怖いからだ。

 葉月と付き合っているという女性からメールが来るようになって一ケ月ぐらいになるだろうか。
 ただのメル友として話す限りでは、全く普通の人だった。彼女----安積由香は、遥を葉月の幼馴染以上には思っていない。
 遥たちの通う大学に在籍していた時からモデルを始め、卒業した今ではそれが本業。本人はそんなつもりではないのに、モデルをしているだけで高飛車と同性に疎まれていたので、学生時代から友達がいなかった、と。
 葉月と会ったのは春。とあるWebマガジンの短期連載の撮影で一緒になり、色々話すうち、同じような孤独感を抱えていることが判って意気投合したらしい。
 遥が、いくら電話をかけても葉月を捕まえられなくなった春休み。葉月の話によれば、撮影スタジオが地下で電波が届かなかった上に、かなりの強行スケジュールで忙しくて、終わってもかけ直す気力がなかった、らしい。
 その強行スケジュールの撮影とは、安積由香との仕事だった。出来上がったWebマガジンの写真は、二人が恋人同士というシチュエイションで撮られている。
 その時に初めて、『仕事』で微笑む葉月を見た。
 そうしろ、とカメラマンに言われてのことなんだろうと最初は解釈していた。今までそんな風な表情の仕事ってあまりなかったのに珍しいな、としか思っていなかった----一連のメールが来るようになるまでは。

 大学に入って、葉月の仕事は忙しくなった。会えない苦しさを紛らわせるように色んなサークルの手伝いなんかに首を突っ込んでしまったら、裏方要員としてすっかりアテにされるようになってしまった。
 悪循環かな、と思った時にはもう抜け出せなくなっていた。
 やっと日程が合って、会えることになった時も、彼はどこかもやもやしたような苛々したような表情を見せることが多くなって。
 何が悪いのか判らないまま、嫌われるのは怖いから、必死で高校の時と同じように振る舞おうとしていた。
 天然で、ドジで、一緒にいて面白い女の子で。そういう顔をしている時には笑いかけてくれるから。
 ホントにこんな関係でいいんだろうかって頭の片隅では思ったりする。すごくすごく劇的な告白をしてくれたのに、やっていることはただの友達だった頃と全然変わってない。
 ましてや。
 親友の志穂と守村の方は、友達だった頃とは明らかに関係を変えているのをすぐそばで見ているから----。

 由香は同性の友達にずっと憧れていたんだとメールで話していた。葉月くんが、あなたはすごく楽しい子だからって紹介してくれた、と、悪意のない文体で「(^_^)」なんて添えて書かれたりして。
 遥の方は、最初は探りを入れていた。いたずらなのか本当なのか、裏に何か別の目的があるんじゃないか、なんて。
 でも、積み重なって行くメールからはそんな雰囲気はまるでなかった。葉月との関係をことさらに自慢するようなこともなく、ただ、本当にただ同性の友達が出来て嬉しいという話だけのメール。
 葉月の祖父の話や、指輪の話。葉月についてのそんな情報は、遥が受けている衝撃には見合わないほどさりげなくさらっと流されるだけ。
 彼女にとって、葉月との関係は空気のように自然なことで、今さらそれをひけらかす必然性があるものでもない。そんな雰囲気。
 志穂や彼女に比べると、何だか自分の想いが不安定なもののように思えて仕方ない。葉月がどんな風に自分のことを思っているのか、会っている時はいつも気になる。その表情の変化に、一喜一憂する。そのくせ、何処か不機嫌そうな顔になっていたとしても、それを問い質すようなことは怖くて出来ないでいる。
 「信じてない」。一言で言えば、そんな風に片づけられてもおかしくないような気がして来るのだ。
 でも由香という彼女は違うような気がした。そして、志穂もそばで見ている限りは違うような気がした。お互いを信じ合うこと。キレイ事だけど、それはコイビトと名乗る以上は基本中の基本のような気がするのに、それが出来ていないのが今の自分なのだ。
 だから、----由香からの会ってみたいというメールにも普通に頷いた。
 知りたかったのだ。彼女という人を。

 やって来た由香は、さすがに仕事モードの時に比べればかなりラフなジーンズ姿だった。サラサラの綺麗な長い髪。志穂と同じようにすらりと背が高く、八頭身って現実にいるんだ、と感嘆してしまうほど顔が小さくてスタイルもいい。ふんわりした穏やかな笑顔の出来る女性。雑誌なんかでよく評される言葉は「癒し系」なのだそうだ。
 外見的には逆立ちしても勝てる相手ではない。同じ女でも、彼女は綺麗だと思う。
「----遥ちゃん?」
「あ、はい」
 待ち合わせの目印にしておいたピンクのバッグを少しだけ揺らして見せる。
「良かった……来てくれなかったらどうしようかと思った」心底ホッとしたように肩で息をつく。「----ごめんね。待たせるつもりはなかったんだけど」
「いいえ、私が早く来過ぎたんです」
 由香は本当に嬉しそうに微笑んだ。
 二人で連れ立ってショッピングモールを冷やかしながらあるカフェに辿り着く。小さなビルの3Fにあったこじんまりしたその店は、由香の知り合いがやっている店なのだと説明された。
 マスターらしき人と何か挨拶してから窓際のテーブルへ着く。それからは、今までメールでも話していたファッションの話や、仕事の話、学校の話などを取り留めもなく。
 テーブルにさり気なく置かれている指には、やっぱりあの指輪がある。デザインはよく見ると少し違うけど、それはむしろ嬉しいことだ。「あの」指輪が、全く同じ形で他にも存在していたら、そんなの悲し過ぎる。
「----これ、気になる?」
 視線に気づいたように、由香が指輪を外して遥に差し出して来た。
「……例の指輪、ですか?」
「そう。失礼なことに少し緩いの」くすくすと笑う。「まあ、測らせてとは言われなかったから、それを考えればいいセン行ってたのかなとは思うけどね」
 遥が差し出した手のひらにそっと乗せてくれる。とても綺麗な形の四つ葉。遥が持っている指輪のクローバーは実は少しいびつな所があるのだけれど、それはそれでハンドメイドらしさだと思っているから逆に嬉しかった。リングは遥のものよりかなり細めだ。彼女の指が細いから、この方が似合う、ということなのだろうか。
 由香に返す。彼女はそれをまた指に収める。そして、指輪を、もう片方の手で包むようにしながら。
「……なんか恥ずかしいよね。別に誰から見られたからって、贈り主がバレるわけじゃないとは判っていても……」
 少しだけ照れる。とても幸せそうに。
 遥はどうしていいか判らずに、ただ曖昧に笑うしかなかった。

 少しお茶した後、普段よく行く店だといってブティックや雑貨屋に連れて行ってくれた。遥が今まで足を踏み入れたこともないような店。行く先々で、店員は由香を歓迎し、その紹介と言われた遥とも色々と話をしてくれた。
 彼女はただのお人形さんじゃなくてセンスいいから、知り合っちゃったらどんどんテクニックとか盗んじゃうといいよ、なんてアドバイスしてくれたり。
 知らなかった世界。いや、多分、今まで通り過ごしていたら知ることもなかった世界。
 自分というものをしっかり持って仕事をするために、自分の価値を高める努力を惜しまない世界。
 由香を間近で見ていると、葉月もまたそういう世界に生きているんだと実感する。それと同時に、自分が彼のいる世界を何を知らなかったという実感も。
 ----私は、今まで葉月くんの何を知っていたんだろう……
 ただのクラスメイトで。友達で。気になる人で----『約束の王子様』で。
 あの時に比べたら自分は変わり過ぎていると葉月は言った。
 今の彼の生きている世界。遥が知っているのは、そのほんの一部だけなのだと嫌でも自覚させられる。
 でも彼女は----

 ほんの数時間の短いオフ会。これからもメル友でいて欲しいという由香の言葉に笑顔で頷き、待ち合わせたその場所で別れて帰路につく。
 あの人を押しのけてまで彼の心の中にいるだけの価値が、果たして自分にあるんだろうか。
 普通に葉月という人を信じている由香の気持ちと、小さなことでくよくよと葉月の顔色をうかがってばかりの自分と。
 判らない----。
 ----少なくとも、今の遥には自信なんか何もなかった。


 試験の全日程が終わった途端、かなり気が抜けた。大学生になって初めての試験。高校の時とは違って、暗記していればどうにかなるものでもない問題も多い。必須になっている語学はまだそういう意味ではマシだったけれど。
 待ち合わせしているわけでもないけど、何となくカフェに向かうのが常になってしまった。先客が二人。邪魔しない方がいいだろうか、と、志穂と守村の後ろ姿に足を止める。
 先に志穂がこちらに気づいた。軽く手を振って来る。そっと近づいた。
「……お邪魔じゃないの?」
「……そんなことない。聞きたいことあったからちょうど良かった」
 志穂が小声でこそこそと「……浴衣の着付けとか出来る?」なんて話を振って来る。守村はその様子にあえて話を聞かないように気を遣ったのか、明後日の方に目を向けている。
「まあ何とかね。帯とかベルトみたいに簡単に出来るヤツあるよ、最近は」
「そうなの? うーん。やっぱりそういうの新調した方がいいかな」
 去年まで、花火なんて……って眉をひそめていた志穂とはちょっと別人だ。はにかみながらもちゃんと恋する女の子してるなあ、なんて微笑ましく思ったりする。
 夏に向けての対策会議(?)でしばらくくすくすと盛り上がる。その間に誰かが来たような気がしたのと、守村がその影に呼びかけたのは同時ぐらいだった。
「あ、葉月さんお久し振りです」
 振り返って見上げた葉月は、----機嫌良さそうに見えた。
「今日は時間ある?」
 葉月が座ろうとするより前に立ち上がって聞いてみた。志穂たちを二人きりにもしてあげたかったし、そして遥自身も、久し振りに二人きりになれたらいいな、という思惑もあった。
「……ああ」
 安心する。普通に微笑ってくれている。いつもこんな風でいてくれるなら、何も不安になることなんかないのに。
「良かった」
 志穂に「あとはメールでね」と断ってから二人に別れを告げる。試験のせいでいつもより軽いバッグを抱えて、一瞬だけの躊躇いを断ち切るように葉月の腕に手を伸ばした。
 ----そっ、と腕をつかむ。
 今の守村と志穂なら、そんなことですらさりげないのに。爆発しそうな心臓を抱えながらじゃないと触れることも出来ないなんて。
「……ちょっと外出たいな。いいでしょ」
 葉月はあまり気にしていないようにこくんと頷いただけだった。

 何とはなしに歩きながら夏休みの予定なんか聞いてみる。
 葉月は、相変わらず何だか忙しいらしい。花椿先生プロデュースのメンズの店の専属モデルの仕事が入りそうだとかいう話をぼつりぼつりと。
 花椿先生。この辺では名の知れたファッションデザイナーでトレンドリーダー。本人のビジュアルはくねくねで奇抜なのだけれど、作る服に関しては一流だ。最近メンズのブランドを立ち上げるとかいう話は聞いたことがある気がする----奈津実のメール経由で。
 彼がメンズを始めたとなれば世間は黙っていないだろう。そうなれば専属でついた彼もまた名が売れることにはなる。
 ----今でも売れ過ぎてるのに。遥が距離を感じるぐらいには。
「----はあ。ますます遠くなるなあ、葉月くん……」
 独り言のつもりだった。
「……仕事のことは関係ないだろ」
 隣の葉月はその一言で一気に不機嫌になってしまった。
「…………」
 後悔しても遅い。むすっと黙り込んでしまった葉月にかける言葉を探せずに、同じく黙り込んだままでいるしかなくて。
 ----最近、こんなのばっかりだ。
「……怒ってる?」
「別に」
 どう見たって怒ってるのに。
 せめて遥に対してじゃないならそう言ってもらえるだけで気が楽にはなるのだけれど。
 ----空気を変えたかった。こんな雰囲気のままずっと歩いているだけなんて耐えられそうになかった。
「ね、久し振りに今日は時間作れそう? 帰り、お買い物付き合ってもらってもいい?」
 笑顔でいよう。
 水嶋遥は、一緒にいて面白い子でいるから。葉月を楽しくさせることが役目ならそうするから。
 だから笑って欲しい。笑いかけて欲しい。それが唯一の希望だったのに----無愛想と言われていた葉月が、自分にだけは笑ってくれる、その笑顔が。
 ----彼の表情は変わらなかった。ただじっと遥の顔を見下ろして、それから微かに頷いた。
「ホント? やったー」
 あくまで軽く行こう。重荷になるのは怖い。もしかしたらもうとっくに重荷なのかも知れないけど。彼女の----由香の包み込むような優しい存在感の方が、彼には必要なのかも知れないけど。
 講義が終わったらカフェで待ち合わせる約束をして別れる。
 笑顔でいなきゃ。笑顔でいなきゃ。
 呪文みたいに心の中で呟き続ける。
 高校の時からそうやって来た。だからこんな風に話せるようになったんだから。
 ----せめて。せめて隣を歩く時間を。
 少しだけでも、自分のために残しておいて欲しいから。

 本当は別に欲しいものがあったわけではなかった。ただ何となくあちこちをお買い物して。花椿先生の店であるジェスは今でも少しだけメンズが置いてあるのだけれど、そのうちどれかは葉月くんが着ることになるのかなあなんて横目で眺めたりして。
 間接照明で綺麗にディスプレイされたワンピース。そういえば奈津実が「この夏はペールオレンジ」とメールで力説していたような気がしたけれど----
「……遥」
 名前を呼ばれたような気がして隣を見上げた。
 また何だか怒っているように見える。
 笑わなきゃ。意識と表情がまるで連動してくれなくて焦っているその隙間から。
「今度、家……来ないか」
 久し振りに言われたその言葉に遥の心臓は激しくジャンプしていたのだけれど。
「うん、いいよ。いつ?」
 ----由香のことが引っかかって自分で自分をセーブする。変に意識しているのが自分だけだったとしたらバカみたいだから。
 高校の時もよく家に呼んでくれた。外にいれば世間の好奇の目にさらされてしまう人だから、家にいる方がゆっくり出来る人だから。
 それだけ----だと思った、のに。
「……泊まりに来いよ」
 はっきりと、言葉が落ちて来た。
 ……どう解釈していいのか、判らなかった。
 一瞬真っ白になった頭の中に、ふっと優しげな笑顔が浮かぶ。
 ----彼女を差し置いて?
 ----それとも、こんなことすら考え過ぎなの?
 ----オトコとオンナ、なのに?
 ふっと怖くなる。葉月が「そういうつもり」なんだとすれば。だとすれば。
 逆に----由香はどうなるんだろう。
 指輪をくれたことを喜んでいた彼女は。葉月に愛されていることを照れていた彼女は。幸せそうに微笑んでいた彼女は。----初めて出来た同性の友達、と、遥に嬉しそうに笑いかけていた彼女は。
 目を落とす。手を握りしめる。落ち着こうと努力する。
 気づかれないようにゆっくりとゆっくりと深呼吸を繰り返して。
「……日付によるな。色々手伝い頼まれたりしてるから、そういうのにぶつかりさえしなければいいよ」
 笑えた、と思う。いつものように。
 ある意味、由香は自分でもある。そばにいたいと思って微笑んで。ほんのいっとき、隣にいてくれる幸せを手に入れた人。
 その幸せを壊す権利が自分にあるかどうかなんて、まだ遥にはわからないのだ。
 本当はどっちが葉月の理解者でいてあげられるのか、そう思うと天秤は一気に由香の方に傾いてしまう。遥は高校の時からどっちかと言えば葉月を振り回して来ただけという自覚があるから。
 高校までの人間関係の中で、葉月を理解してくれる人なんかきっと何処にもいなかった。彼女が初めてのそういう人なのかも知れないのに。同じ孤独を、心の底に感じていた想いを、分かち合うことが出来た人なのかも知れないのに。
 ----なのに。
「……俺よりそっちが優先なんだ」
「……そういうつもりじゃないよ。大丈夫、日付ずらせる用事が多いし。葉月くんの都合に合わせるよ? 仕事、あるんだよね?」
「----なんかお前の方が忙しそうだ。俺は別に、サボっても誰も気にしないし」
「いや、そんなことはないと思うけど……」
 逃げている。自覚している。ただにこにこと表面的に笑っただけで。でもどんどん言葉だけが上滑りして行くのもまた判っていた。
 何かに苛立ったように目を細めて空を睨んでいる緑の瞳。
 もうダメなのかな。何を言っても逆効果なのかな。
 気にしてないよ。気にしないから。重荷にだけはならないから。一緒に笑い合える関係でいてくれるなら、それだけでいいから。
 ジャマしないから。友達でいるから。だから。
「……葉月くん……どうしたの? 怒ってる?……」
 だからそんな顔しないで。
 ----どうしたらいいのかわからない----
「……私、何か悪いこと言っ……」
「明日は休みだろ」
「……あ、うん、そうだけど」
「今日だ」
「え!? き、今日って」
「今日、これから。俺の家に来いよ。----泊まりに」

 初めて彼を怖いと思った。
 優しい声で----笑顔でそれを言ってくれたら、もしかしたら違ったかも知れないのに。
 それは。異様なぐらい張り詰めた顔で。ピンと弾いたらそのまま切れてしまいそうなほどに緊張を抱えた表情で。
 ----承知した、というよりは----逆らえなかった。
 何かが変わってしまっている。葉月という人の中では。
 泊まることを前提に色々と準備までして彼の家の前に立ってしまってから、遥は全身がどうしようもなく震えて止まらなくなってしまった。
 自分でもそんな自分が悲しかった。こんなことを怖がるのはおかしいのに。
 遥の方だってずっと好意を持っていた。卒業式に「好きだ」と言ってくれた。相手は男性だ。こんな付き合い方でいいのかなと思うぐらいプラトニックだった。
 ちゃんと付き合い続けていたら、いつかは変わるかも知れなかったのに。
 ----なのに。
 呼び鈴すら押せずにいた遥の前で、ドアがゆっくりと開く。
 目の前に立っている葉月はまだ何処か苛ついている。
 ……泣き出しそうな気分になった。それでもまた、心の中で、呪文を何度も何度も繰り返す。
 笑わなきゃ。
 笑わなくちゃ。
 ----彼の望む通りの『水嶋遥』で在り続けなきゃ。
 ----それが価値なんだから。由香とは違う自分の価値なんだと思うから。

 遥は必死で話していた。何をどう話していたのかまるで記憶に残らないまま。
 高校の時までは、この部屋にいて沈黙が怖いなんて思ったことはなかったけれど、今は怖い。いたたまれなくなる。
 外がまだ夕日に包まれていた時から、徐々に薄闇に包まれるまで、表情が堅いままの葉月を前にして一人だけ足掻き続けている気分になる。
 ふっと言葉が途切れた時に、何をしているんだろう、と空しさが沸き上がって来た。
 彼の真意がよくわからない。「泊まれ」と言って来たのは葉月なのに、決してその様子は楽しそうではない。
 相槌以上の言葉は話さない。持って来た麦茶はテーブルに水滴を落とすためのオブジェにしかなっていない。
 耐えられなかった。何を望まれて自分がここにいるのか理解出来なくて。どうしても彼女のことを思い出してしまうのだ。
 もしここにいたのが彼女なら、仕事の愚痴とか話せたのかも知れない。あの穏やかな優しい笑顔で彼の苛々を受け止めてあげられるのかも知れない。
 ----どうして私はここにいるんだろう?
 すっかりぬるくなってしまった麦茶のグラスを握りしめる。ゆっくりと息をつく。
「……葉月くん、……あのね、……」
 はっきりさせたかった。このままずっと黙り込まれたままでいるよりは。
「……最近、なんだか、……少し不機嫌な顔してること、多いなって……」
 時計の秒針の音がやけに重く聞こえる。
「……私、のせい?……」
 その日、部屋に入ってから初めてまともに彼の顔を見た。
 少し驚いているだろうか。
 さっきまでいつものように笑おうとしていたけれど、もうそんな努力が出来なくなってしまっているから?
 お願いだから答えが欲しい----。
 心の中で叫んでいる自分が欲しい「答え」は判っていても、そうは答えてくれないのではないかという絶望的な予感も確かにあって。
 だから。
「----そう、だな」
 ----その答えが返って来た時は、もう全てが終わったのだと。
 そうとしか思えなかった。

「……言っただろ、離れたくないって……」
 言ってくれた、と思う。そしてもちろんそれが嬉しかった、と思う。
「なのに、お前は……遠くなるばっかりだ。大学来てからずっと……」
 最初のすれ違いが何処から始まっていたのかなんて、今思い出してももう遅いのかも知れない。でも、あの一週間がなければ----由香との仕事の時の1週間の『圏外』がなければ、多分ここまで不安になってはなかったかも知れない。
「あの頃よりお前と会えてない。一緒にいることも減ってる」
 わかってる。葉月が悪いわけじゃない。彼の仕事を、仕事として割り切れていなかった自分のワガママだと、わかってはいる。わかってはいるのだけれど----
「俺の都合なんかどうでもいい。むしろ高校の時はそうだった。俺の中に……踏み込んで来たのはお前の方だ」
 ----言葉に鋭さはないけれど、ちくりと心に突き刺さった。
 勝手に彼の領域に踏み込んだのは確かに遥なのだ。何もわかりもしないのに。
 由香の存在で、自分がして来たことの無神経さを自覚するようにもなった。だからこそ気にするようになった。気にしなければ彼に無理をさせるような気がして。
 由香とは違うから。立場上、何も理解してあげられないから。
「なのに何故今は引いてる……?」
「……そんなことっ……」
 ない、と言おうとした。
 引いてるんじゃない。ただ、少し考えるようになっただけだと。
 でも----
 目の前の葉月の表情から、ふっと苛立ちが消えて行く。
「俺は、まだ……今でも怖くて仕方がない。俺はあの時ムリに俺の想いを押しつけただけなんじゃないかって----」
 小声で呟いて目を伏せた葉月の目はひどく悲しげに見えた。
 唐突な変化に遥の方がついて行けずに、一瞬言葉を失う。
「なんでそんなこと……言うの?」
 やっとのことで絞り出した声は、ひどくかすれていた。
 テーブルの端にいた葉月の手が、ぱたんとそこから落ちた。
 窓から入る風に揺れていた髪の下から、泣き出しそうな緑色が遥を直視していた。
 混乱した。何故そんな顔をされるのかわからない。咄嗟に遥は身を引いていた。
「お前は答えてない」
 彼が立ち上がるとともに叩きつけられた言葉に、遥はすっと全身が冷えた気がした。
 ----答えていない……?
 近づいて来た葉月の手が頬の辺りに触れた。反射的に後ずさったが、背中に柔らかな壁がぶつかる----ベッドだ。
 逃げ場はなかった。
「----あの時の言葉に、お前はまだ答えてくれていない」
「……葉月く……」
 答えようとしたその言葉の出口が突然ふさがれる。
 何をされているのか気づく前にその言葉の意味を悟った。それと同時に今までの彼の態度の謎があっさりと氷解したような気がした。
 答えてなかった----YesともNoとも。夢の中で流れた涙が溢れて来るのを止められずにいただけで。はっきりと言葉にしたことがなかった。
 そのままで春になって。連絡が取れなくなって。それでも、何故か思っていた。自分たちは付き合っているんだと。会えずにいたことは寂しかったけど疑ったことなんかなかった。
 ----まだ自分たちは、始まってすらいなかったんだ。想いを告げられたまま、それを受け入れるとも断るとも言わないままで放り出していたのは、遥の方だったのだ。
 苦しかった。胸の奥からじわじわと広がる罪悪感を抑え切れない。
 もう遅かったんだ。答えていなかった。だから彼は離れたのだ。あの笑顔を見せてくれることがなくなったのだ。
 だから。
 ----由香を選んだのだ。

 無我夢中だった。このままここにいるのが辛かった。
 知られるわけはないと思いながらも、もし今日のことが----というより、葉月がこんな想いをまだ自分に抱え込んだままだということが由香に判ってしまったら、と思うとずきんと心が痛くなる。
 今の葉月は、もう時間を戻せないまま、手に入らなかったおもちゃに固執している子供みたいだ、と遥には思えていた。
 優しさよりも怒りの方が強いそのキスから逃れたいとしか思えなくて、声よりも先に手が出る。
 遥の背中に回ろうとしていた手が戸惑うように動きを止めて、やがてあっさりと彼女を解放する。
 彼の顔を直視出来ない。
 何かを言おうとしても声にならず、気づいた時には泣き出していた。
 自分の涙をどうすることも出来なくて、途切れ途切れにやっとのことで、ただ帰らせて欲しいと言うのが精一杯だった。
 ----多分、それから再び時が動き出すまでには一分もかかっていなかったのだろうけれど、遥にとってその一瞬はひどく長かった。
 肩にいた彼の手が離れて、ゆっくりと立ち上がるのだけは視界の端で判っていた。
 その姿が見えなくなって。直後に、いささか乱暴にドアを閉める音がする。
 ----無言のまま。

 自分の家の自分の部屋まで、どうやって帰って来たのはあまり覚えていない。
 部屋に入る直前に尽に声をかけられたような気がするけれど、声を出す気力も残っていなかった。
 そのままベッドに倒れ込む。安堵感で1度は止まっていた涙がぶり返す。
 鞄の中の携帯電話の音----一番聞きたかった音で、一番聞きたくない音が鳴っている。
 そのメロディは葉月からの電話の時にしか流れないのだ。
 耳をふさぐ。今は考えたくなかった。----今だけは。


 夏休みの間に、大学の人形劇サークルが何度か公演をすることになっていて、遥は、いくつかの会場で設営を手伝う約束をしていた。
 夏休みに入ってすぐに友人から確認の電話が入る。詳しくはメールしておいたから、と言われて久し振りにパソコンを立ち上げる。
 大学のサーバにつないでメールを取り出してみる。他にも何通かメールが届いていたようだ。
 サークルの友人からのメールを開いて手帳に場所と時間をメモする。その後、届いていたメールの一覧を眺めて、由香のアドレスを見つけた。
 開いた文章の中に何かのサイトのアドレスが貼られている。何気なくクリックして開いたページには見覚えがあった。
 由香のメールに目を戻す。
『好評だったらしくて、またもや明日から地下スタジオ監禁です(T_T)。空調あるけど、なんか撮影中は外に出られなくて気詰まりします……ちょっとシンドイ……』
 そんな愚痴が並んでいる。
 開いたページは、春に撮影があって夏に公開されていたファッション情報のWebサイト。あの由香の写真を見つけたページ。
 また、あの時と同じなのか。
 机の上で充電していた携帯から発信する。
 事務的な女性の声は春でもう聞き慣れてしまった。電波が届かないか電源が切れている、という案内メッセージ。
 電話を切った後、着信履歴を呼び出してみる。
 昨日まで断続的に続いていた葉月の番号。ずっと今まで向こうから電話して来ることなんかなかったのに。あの日から突然。
 遥は、一度も出なかった。葉月は、留守電が嫌いなのか、切り替わった途端に何もメッセージを残さないまま切ってしまう。
 まだ普通に話せる自信がなかった。
 由香に対する罪悪感も強い。あれが何であったにせよ、彼女を差し置いてキスされてしまったことには変わりないのだ。
 ----まだあやふやなまま、なのに。
 椅子にぱたんともたれかかって天井を見上げる。
 このところ毎晩、眠る前に考えてしまう。
 自分は、葉月のことがどんな風に「好き」でいたんだろう、と。
 人付き合いが苦手でマイペース。学校では孤立しているけど有名なモデル。そんな彼が自分にだけ別な顔を見せてくれたことに浮かれていただけなんじゃないか、と。
 彼に笑っていて欲しくて、彼が面白いと言った水嶋遥で在ろうとしていた。そしてその思惑通りに彼は笑ってくれるようになって。
 それから?
 椅子から立ち上がってベットに身を預ける。
 それから。
 ----認めたくはなくても、「それから」のことをあんまり考えていなかったような気がするのだ。
 笑って隣にいて欲しかった。でもそれ以上のことを想像したことがないのに気づいてしまった。
 キスとか----その先とか。
 葉月とそうなるかも知れない自分というものがイメージが出来てなかったのだ。
 恋愛に関しては鈍いヤツだという自覚がある。志穂には高校を卒業した頃から実は呆れられている。高校では、葉月が遥を気にしている様子があまりにもあからさまなので、気づいていないのは本人だけ、という状態だったらしいので。
 それを考えると時々怖くなるのだ。彼には、流れている時間がある。自分が忘れてしまっていた、幼い水嶋遥との思い出と、高校で再会してからの三年間と。その間に彼の中に少しずつ積み重なっていた想いは、多分遥が彼に対して抱いているそれとは比べ物にならないだろう。
 あの時----卒業式のあの日から、ひどくアンバランスだったんだ、と、今になればよく判る。
 彼の言葉に応えられるだけの気持ちを、遥は多分持っていなかった。
 その幼稚な恋愛感情のまま、友達の延長のような付き合いだけを続けていて。
 彼の中の遥という存在----思い出も含めて----と、現実の遥の間には、埋められないギャップがあったのかも知れない。
 それが彼を苛つかせて。
 その隙間に、由香の存在が嵌まったのかも知れない----。
 ベッドから起き上がって再びパソコンに向かう。お仕事お疲れ様、というような友達としての返信だけを由香に送って、次のメールを開く。
「……志穂?」
 またアドレスが張られたメール。
『例の葉月の彼女からのメールなんだけど……やっぱりいたずらじゃない? ココ見れば私でもあのぐらいは捏造出来るんじゃないかな。
 メールの設定で受信した途端にゴミ箱放り込むなりして、無視すればいいと思う。
 いい加減、葉月くんのこと信じてあげたら?
 私が葉月くんに探り入れる必要なんかないと思うけど……。』
「……どういうこと?」
 クリックして開いたサイトのタイトルには、「葉月珪私設ファンクラブ Silver Rose」と書かれていた。

 夕飯出来たってよ! と尽が呼びに来るまで、遥はずっとそのサイトに張りついていた。
 「Silver Rose」の管理人は、葉月が初めて雑誌に載った頃から注目していたらしく、彼がメディアに出るたびにその記事を拾い上げて情報を集めているようだった。管理人の主義は「いいことも悪いことも全部取り上げます」ということらしい。
 掲載された雑誌の一覧年表、葉月が語ったとされる彼に関する情報、リアルの葉月の目撃証言のまとめ、そして----噂になったことがある女性の名前のリストまである。
 志穂の言うことは確かだった。祖父がステンドグラス職人だというのは、雑誌の記者が調べて判ったことで、葉月に真意を確かめたら「はい」と答えていたそうだ。それと、フリマに一度自作のシルバーアクセを出店していた時の話から、はばたきWatcherでさんざん騒がれていたシルバーの指輪の出所もバレてしまっている。そうなれば、好きになった相手には手作りのアクセサリーを贈るかも知れないと想像することは確かに出来そうだ。
 女性遍歴(?)のページでは十人以上の名前が出て来て、遥は思わず苦笑した。大部分は雑誌のガセネタなのだろうけれど、高校の二年頃に「名前不明(同級生?)」なる記述があるのがちょっと気になる。----遥のことだろうか。二年の頃は、結構あちこちに二人で遊びに行っていたから。
 ちなみに、女性遍歴の最新の名前は安積由香だ。
 掲示板もあった。たいていは「葉月くんカッコイイ!」とか「○○に出てましたねー」とかいう書き込みなのだが、「ウワサの恋人スレッド」なるものがあって、返信(レス)の数も非常に多い。最近の話題はやはり安積由香のことらしい。
 彼女じゃしょうがないのかなぁなんて諦めている人、またどうせ噂でしょと切って捨てている人……色々な意見がある中、管理人さんに情報ソースを求めている人がいた。雑誌などではまだ報道されていないみたいですけど、と。
 管理人である「あきゅ☆」のそれに対する答えは、
『あまり大きな声では言えませんが、実は例のサイトのヤツで仕事上ちょっと関係しちゃって・・・。ちょこちょこ会えてたんです。だから、ま、リークですね。バレたら殺されるカモ(^_^; ハタから見てる分にはかなりマジっぽいし・・・』
 それからは「ホントですか?」「そうなんだ、すごい!」「あきゅ☆さんその仕事うらやましい…」といったレスが続いていた。
 業界の関係者なのか。
 志穂は祖父のことやアクセサリーのことを見せたくてアドレスをくれたのだと思うけれど、この掲示板を見てしまったら今の遥には逆効果だ。
 仕事場で会っている人が「マジっぽい」と感じる程度には二人は親しいということ。もちろん、志穂はメールの相手が安積由香だということまでは知らないだろうし、掲示板のこんなスレッドを喜んで見るタイプではないだろうから、責はないけれども。
 ----全部が悪い方に悪い方に回っているように思える。たくさんの材料が、じわじわと遥と葉月を引き離しにかかっているような気がして。
 尽にせかされてパソコンを落として、夕飯のために部屋を出る。
 明日からはしばらく、友人の人形劇サークルの手伝いが入る。その間は携帯が鳴っても取れないだろう。突然電話をして来るようになった葉月は、春に遥が感じたような疎外感を同じように感じるんだろうか。それとも----ただそのまま、フェイドアウトしてしまうだけなんだろうか?


 花火の日が来てしまった。
 まだあんなことがある前に、メールで「18時に駅で」とは伝えてある。
 携帯電話の着信履歴に彼の番号しかなくなってしまっても、それでも一度も話してはいない。でも、約束はしてある。
 ほんの少しだけ気が重いけれど、逆に会えば何かしらきっかけにはなるんだろうかとも思う。
 由香と付き合っていたとしても、友達でいてくれるだろうか。高校の時みたいに。ほとんど特別な意識なんかしていなかった頃みたいに。
 それでも指輪を外せないでいるけれど。
 ちゃんと話したら、これも外せって言われてしまうのだろうか。あの時に彼が着けてくれたから、それだけの理由でずっと左手の薬指に嵌めたままだから。

 駅はさすがに込み合っていた。年に一度の花火大会は恋人たちにとっても家族連れにとっても大イベントだ。
 慣れない浴衣の裾を気にしながら、細めのリストウォッチで時間を確認する。
 少しだけ遅れて到着したのだけれど、まだ葉月は来ていなかった。
 駅から吐き出されては会場に向かう波をぼんやりと目で追いながら葉月を待っていた。
 由香からのメールによれば、まだ例の地下スタジオ仕事の最中のようなので、少しぐらいは遅れるだろうと覚悟はしていた。
 15分ぐらいしてから、勇気を出してかけてみた携帯はやっぱり「電波が届かないか、電源が切れている」状態だった。それからは覚悟を決めてのんびり待ち続けることにした。
 なるべく時計は見ないようにとは思っても、やはりどうしても気になってしまう。
 20分たち、30分たち、とうとう会場の方から花火の音が響いて来る。
 駅からもわずかながら大輪の花の一部が見える。それを見るともなしにぼんやりと見上げ続けて時をやり過ごしていた。
「……なんかずーっと独りだよね、カノジョ」
 突然、少しあざわらうような口調が耳に入り込んだ。声がした方を見上げると、1人の男がにやにやと遥を眺めていた。
 高校生ぐらいだろうか。軽薄そうな痩せた男。
「カレシにすっぽかされたんなら、俺と行かない?」
「………」
 この手のは相手にしないに尽きる。ざわめきで聞こえなかったふりをして、人を探すような仕草で駅の改札に目を向ける。
「……ちょっと。俺アンタに話してんだけど」
 手をつかまれる。睨みつけて振り払い、再び改札に目を戻す。
「なんだよ。そんな邪険にすんなよぉ。せっかく浴衣着て来たんだしさー、こねーようなひでーカレシなんか放っとこうよ。な?」
 改札と遥の間に----つまりは視界に無理に割り込んで来たので、今度は花火の破片に目を。
「ぐずぐずしてたら花火終わるよ?」
 今度は右腕。振り払おうとしたけれど----かなりしっかりつかまれてしまっている。
「離して下さいっ」
「花火終わっちゃうって。浴衣もったいないじゃん」
 足を踏ん張る。絶対に動かないつもりで。
 周りで遠巻きに見ている視線を感じる。とはいえ、誰も助けてなんかくれないだろうけど。
 行くフリしてとりあえず手を離させた方がいいだろうか、と遥は考え始めていたのだが、
「離した方がいいですよ」
 落ち着いた男性の声がした。聞き覚えがある----ふと見ると、一人で出かけている時に時々道を聞かれたことがある人が立っていた。何だか妙に口調が丁寧だったので記憶に残っていたのだ。
「……なんだよあんた」
 ナンパ男が不満そうにその人を横目で睨む。
「……あなた、これ、見えないですか?」
 後から声をかけてくれた彼が、遥の左手をいきなり持ち上げて男の前に突きつける。
 左手の薬指の指輪……。
「彼女には、決まった人、います」
「……なんだよ、売約済みってやつ?」
 ナンパ男は今度はからかうように見下して来た。
「それでも来てくれないわけ、あんたのフィアンセさんとやらは」
 直後に、ぱしっ、と音がした。
 遥が呆気に取られている目の前で、かばってくれている彼がナンパ男に平手打ちをしたのだと判った。
「ちょっ、やめて下さい」
 慌てて止めようとした遥に構わず、彼は何かを英語でまくし立て始めた。遥に聞き取れたのは最初の「Stop it, you rat!」だけだったけれども。
 ナンパ男はその勢いに気圧されて黙り込み、やがて面倒そうに手をひらひらさせる。
「あーもうわかったわかった。何だか知らないけど、またね、おねーさん」
 踵を返し、会場の方へと去って行った。
 かばってくれた青年は、大きな深呼吸をして首を軽く振った。その仕草はアメリカのドラマなんかでよく見るような感じがする。その時になってやっと、彼が日本人に見えて日本人ではなかったことを理解した。口調がバカ丁寧だったのは、丁重にしていたわけではなくて日本語があまり得意ではないせいだったのか。
「……あの、ありがとう、助けてくれて」
 微笑んで頭を下げる。
「あ、いえ、----僕も、同じかも知れません」
「……え?」
「あの、…ずっと、気になってました。待ち合わせの人、遅刻してるですか?」
 彼にも見られていたのか。曖昧に笑ったまま、どう答えていいか判らず俯いてしまう。
「----す、すいません……」
「ううん。いいの。確かにそうだから」
 俯いたまま見た時計。45分経過。
「……あの」
「はい?」
 見上げた遥の視界で、その青年は穏やかに微笑んでいる。
「キモノ、綺麗ですね」
「……えっと、これは浴衣っていうんだけど」
「そうなんですか? す、すいません、僕、日本語、まだ勉強中で」
 怒られた子犬みたいにしゅんと目を伏せる。表情が凄く判りやすい人、というのは、見ていると確かに楽しいかも、などとちょっと思ったりする。
「ユカタ、ですね。覚えました。----ユカタ、綺麗です」
「あ、ありがとう」
「でも、綺麗で目立つと、さっきみたいな人に……huntされたり大変ですね」
「日本語では『ナンパ』、かな。huntは」
「ナンパ?」
「そう、ナンパ」
「ナンパ、よくないですね」
 真剣な顔。----でも、言っては何だけれど、こうやって立ち話している段階でちょっと新手のナンパのような気もしないでもないけどな…と内心だけで遥は少し苦笑する。
「待ち合わせの人来るまで、少し…近くにいてもいいですか?」
 その真剣な顔が、そのままでいきなりそんなことを言い出した。
「………」
 どうしよう。
 遥が困っているのを見て、青年は小声で付け足した。
「……さっきの男、まだあなたの後ろで歩いています」
「そ、そうなの?」
「はい」
 会場の方に行ったと思ったのに。バレないように、そっと花火をうかがうフリで横目で確認する。----本当だ。
 でも、葉月がもし来た時に、全く知らない人とはいえ、彼と一緒にいる所を見られてしまうのは少々困る。
「----少し離れてる、っていうのはダメ?」
 どう説明すれば判ってもらえるだろう、と頭を巡らせながらの言葉に、
「いいですよ」
 青年はほんの少しだけ寂しそうな顔とともに遥から距離を置いてくれた。

 それから何度か、待ちぼうけている浴衣女にちょっかいを出したがる輩の訪問を受けたが、そのたびに、英語で何事かまくしたてる青年が横から割り込んでくれて事なきを得た。
 そのたびに少しずつお互いの自己紹介めいたこともしたりした。何度か道を尋ねられたりしていたことは覚えていると言ったらとても嬉しそうに笑ってくれる。
 その青年----蒼樹は、花火が終わりかけた頃になって、日本で花火を見るのは初めてで、などと話し出した。
「……じゃあ、見に行けば良かったのに。別に私に付き合わなくても……」
「いえ、ここからでも見えましたし」
 見上げて目を細める。見られなくて残念がっている様子はなかった。
 一緒に見上げた視界の中で、ほんの一部の光が、ぱっと広がって、やがて静かになる。
「----終わっちゃった…かな」
 時計を確認する。20時。終了予定時刻だ。
「……待ち合わせの人、来ませんでしたね」
「うん……」
 春の頃も、夜21時を過ぎても彼の携帯はつながらなかった。また仕事が遅くなってしまったんだろうか。
 ----もしかしたら、ずっとかかって来ていた電話は、花火に行けないと連絡するものだったのかも知れない。でもそれならそれで、留守番電話サービスにそう吹き込んでくれればいいのに。
「…もう遅いし、私、帰るね」
「はい、気をつけて」
「うん。今日はありがとう」
 軽く手を振って歩き出す背後から、花火帰りの楽しそうなざわめきが波のように押し寄せて来る。
 来ないかも知れないとは思っていなかったはずなのに、それでも、今までに比べたら何となく冷静でいられる自分が不思議だった。
 このまま会えなくなって終わるんだろうか----自然消滅、みたいな形で。
 バスや電車の時間を気にして急ぎ足で通り過ぎる人々を何とはなしに目で追う。最後のこの瞬間でもいいから、彼が現れてくれたら、話だけでも出来るのに----そう、思っていた。
 ----その光景を見るまでは。

 最後の未練のように振り返った駅の改札。
 そこに人を探しているかのようにきょろきょろとしている葉月がいた。
 普段着のままなので、仕事を終えてすぐ走って来たのだろうと思う。
 でも、遥はそこに駆け寄ることはしなかった。いや、出来なかった。
 その後ろに、葉月と手をつないだまま笑いかけている浴衣姿の由香がいたからだ。
 まだ遥には気づいていないのを確認して、そっと携帯を取り出す。----リダイアル。
 数回の呼び出し音の後に聞こえて来たのは、「電源が切れているか電波が届かない」という聴き慣れたアナウンス----

 探すのを諦めたらしく立ち止まった後ろ姿に、由香が楽しげに話しかけている。
 彼がどんな顔をしているのかは、この角度からは見えない。
 見えなかったのはむしろ幸いだったのかも知れない。
 それがもし笑顔なら。遥だけが知っていたはずのあの笑顔なら----

 遥は足早にその場を後にする。もう二度と振り返ることもなく。
 歩きながら目の前が滲んで行く。まばたきで辛うじて落涙だけは防ぎながら足を速める。
 駅からだいぶ離れた所からは小さく走り出していた。
 もうそれ以上そこにいたくはなかった----一刻も早く、一人になりたかった。


4-信じる、ということ 〜葉月side〜

 スタジオに作られた偽物の部屋でソファに座らされて、ああでもないこうでもないと色んな角度で体を動かされて、葉月はいい加減疲れて来ていた。
 なんでそもそもこんなに短期間の強行スケジュールなのか。安く上げたいクライアントがムリな時間編成を組んで日給で雇って来たのかなどと余計な邪推をしてしまう。
 スタジオの隅に置かれた時計はもう17時を過ぎていた。この調子だと、やはり花火大会には間に合わないかも知れない。
 その約束が、今となっては唯一の望みだったのに。
 遥はあれから、電話をしても出てくれなくなった。例によってサークル関係で色々と忙しいんだろうと自分を納得させようとしても、心の何処かでそうは割り切れずにいる自分がいる。
 キスだけでなく、電話まで、話すことまで拒まれている。そう考える方が腑に落ちてしまう。
 そうこうするうちに、長期休暇を理由に入って来る仕事が忙しくなり始めて、また春から続いて来たすれ違いの日々に飲まれて行く。
 こんなことの繰り返ししかもう残されていないんだとしたら悲し過ぎる。
 せめて答えが欲しかった。まだもらえていない答えを。彼女の本当の気持ちを。
 ----それが否定的なものであるかも知れないという絶望的な気持ちも何処かにはある。でも今は、それでもいいからはっきりさせて欲しかった。
 そうでなければ自分で自分の気持ちに整理がつけられそうもなかったのだ。ずっとずっと持ち続けて来た小さな思い出たちが----その温かさが。

 19時近くになってようやくソファから解放される。ぐったりしてしばらく動かなかった葉月にカメラマンが笑いながら謝って来た。
「----ま、今日は花火だしね。葉月は準備しなくていいの?」
 今から走っても花火大会終了に果たして間に合うかどうかなのに。のろのろと立ち上がって何度か深呼吸をする。その間に、ドアの辺りで何やらざわめきが上がった。
「こっちは準備出来てるけどね」
 弾んだ声がする。人の波の間から現れたのは、仕事相手である安積だった。
「----?」
 しかも浴衣姿。
「……さっすが由香ちゃん……。そういうことだったわけね、途中退場は」
「ま、ディレクターさんがラストに葉月くん一人の撮影を入れるスケジュールにしてくれたから、という説もありますね」
「だってそりゃ、由香ちゃんにお願いされると断れないでしょう」
 和やかに笑うスタッフたち。葉月1人だけが事情を飲み込めずに呆気に取られていた。
 先刻までのヒールとは明らかに違う草履の音をさせながら安積が近づいて来る。目の前に立って、少し恥ずかしそうな上目使いで葉月を見上げて来る。
「……驚かせようとしたんだけど、ひょっとして成功し過ぎたかな」
「……何がですか」
 話の流れからすると、仕事の衣装というわけではなさそうなのは葉月にも理解出来た。
「花火、好きだよね、葉月くん」
「……まあ、好きですけど……」
「んじゃ、早く行こう? 間に合うかどうか微妙だけど」
 なんでそうなる?
 すっと腕を取られて、あまりにもそれが当たり前のように隣に並んで歩き出そうとする。
 周りのスタッフにもにこにこと屈託なく見守られてしまっている、この空気は何なんだろう。
「……いや、俺、あの、」
 ----別な人との約束が。
 言いかけた言葉を遮るように、スタッフの野次が飛んで来た。
「何今さら照れてるかなあ」
 それをきっかけにくすくすと小さな笑いが広がって。
「いつまでもツーショット見せつけてくれなくてもいいって、葉月。ホントに終わっちゃうよ、花火」
 近づいて来たカメラマンにポンと荷物を渡されてしまった。
 ----とにかくここを出た方がいいような気がした。何だかおかしい。どうして自分が安積と一緒に花火に行くことになってしまっているんだろう。
 ここにいる連中のこの妙な歓迎ムードでは埒があきそうもないので、会場に着くまでの間に何がどうなっているのか確かめることにして、押されるままに安積と2人でスタジオを出た。

 スタジオから駅前までの間には少し歩かなければならない。その道をゆっくりと歩き出した途端に、安積が少し申し訳なさそうに話しかけて来る。
「……ごめんね。でも珪くんそこまで驚くとは思ってなかったよ」
「………」
 なんで名前で呼ばれているんだろう。遥にですらまだ苗字でしか呼ばれていないのに。
「……まだびっくりしてる?」
「……俺、他に約束、あるんですけど」
 ようやくそれだけ言って足を止める。このまま、待ち合わせ場所に彼女を連れて行くわけには行かない。
 隣の安積もつられて立ち止まる。不思議そうに聞いて来る。
「誰?」
「安積さんは多分知らない人で」
 すっとその顔が曇る。
「----どうして……?」
 どうしても何も----
 言いかけた声はまた遮られた。今度は、安積の行動で。
 いきなり、彼女が頭を葉月の胸元に預けて来たのだ。
 咄嗟のことで対処し切れずふらっとよろけた後、勢いで彼女の体を支えるように抱き止める。そうしなければそのまま倒れてしまいそうだったから。
 安積はそのままそっと体に腕を回して来る。と同時に、少し鼻をすするような音が腕の中から聞こえ始める----まるで泣いているみたいに。
 絶句してしまった。何が起こっているのか葉月にはよく把握出来ていなかった。
 寝ぼけて彼女と花火の約束でもしたんだろうか。いや、そもそも彼女とそんなに親しく話せるような関係でもなかったはずで。
「……あの……」
 とりあえずこの体勢は困る。道端で堂々と抱き合っているように見えるこの状態は。
 声を出さずにすすり泣いている安積から、「ごめんなさい……」と小さな声が返って来て、ようやく顔を離してくれる。少し赤くなった目。
「……驚かせようって思ってて、当日までナイショにしてたのを怒ってるんだよね?」
 ----全然、通じてないらしい。
「いや、そうじゃなくて…。前から約束してたんですよ、その人と。だから俺、一緒には----」
「うん、だから、私が行かないって思ったから他を探したんだよね?」
「----はい?」
「何処で待ち合わせしてるの? 私がちゃんとここにいるんだし。遠慮してもらうように私からもお願いしてみる?」
「………」
 この彼女の確信は何処から来ているのか理解出来ない。安積と一緒に行くことは大前提であるらしい。スタジオにいたスタッフ連中も全員がそんな感じだったことを考えると、間違っているのはこっちなんじゃないかと洗脳されそうになるぐらいだ。
「その友達だって判ってくれると思うけどな。やっぱり、せっかくの花火、一番大切な人と過ごすのが当たり前だと思うし」
 何の疑問もない感じでそう言ってから、少しだけ顔を赤らめて葉月に微笑みかけて来る。
 普通に見ていれば綺麗な笑顔だ。----だが。
 おかしい。何かがおかしい。この、仕事仲間としか思っていなかった相手に、何故「一番大切な人」だなんて言われなければならないんだろう。
 葉月にとって「一番大切な人」は、小さな頃から今まで、ずっと一人しかいなかったのに。
 この女よりもずっと先に教会で出会っていた少女で----そして高校からの同級生で。
「行こ?」
 安積が腕を絡めて来る。幸せな恋人にしか見えない仕草で少し体を傾けて来る。
 その手にふっと目を向けた時。
 そこに指輪を見つける。
 左手の薬指----四つ葉のクローバー。

 何かが葉月の中で切れた気がした。
 かなり乱暴に安積の腕を払って、そのまま駅に向かって走り出す。
 街に立つ時計をちらと横目で見る。このまま急いでも多分20時は過ぎるだろう。
 それでも会いたかった。会って話がしたかった。
 自分の周りが----スタッフたちまでもが、あのWebマガジンのシチュエイションそのままに葉月と安積の2人を無理に並べようとしているような、あの妙な雰囲気から逃れたかった。
 正しいのは葉月の方だと----安積由香と付き合っているわけでもないし、一緒に行くつもりなんかなかったと、証明してくれるのは彼女しかいないように思えた。

 走り続けて駅の改札に辿り着く。振り返った空にもう花火は上がっていない。
 結局間に合わなかった。そのことは残念ではあるけれど、今の葉月にとってはそれよりも遥に会う方が大切だった。
 話し合いたいと。時間が欲しいと。せめて、電話に出てくれないかと、それだけでも伝えなければ今日は帰れないと思っていた。
 上がった息を整えながら遥の姿を探す。花火から帰って来た人波に押し流されそうになりながら。気持ちが焦っていた。もう花火は終わっている。いくらなんでももう待っていないかも知れない。でももしも、もしも待っていたら----
「……もお、珪くん、どうしたのいきなり……」
 後ろから一番聞きたくない声が追いかけて来た。
「……終わっちゃったね、花火」
 寂しそうにまた手を伸ばして来る。手のひらを包み込むように握られる。
 周りに人も多いため、目立たないように注意しながらやんわりと振り払う。
「……そうね、人目多い所はマズいかも」
 安積は、にこっと笑って小さく頷く。
「----そういう問題じゃない」
 思わず出てしまった言葉は、小声ながらも自分で驚くほどに語気が強かった。隣の安積が意味が判らないと言いたげにきょとんと目を見開いている。
「何か勘違いしてませんか」
「----え?」
「俺はあなたと----そういう関係になった覚えはないんですけど」
「……な、なに? 突然……」
「とにかく----もう今日は俺、帰ります」
「珪くん……? ……どうして? 私、……私、何か気に障ること、……した?」
 安積は少しパニックになってまた腕にすがりついて来ようとする。それを少しわざとらしいぐらいに避けて、それからは振り返らずに元来た道に舞い戻った。

 人いきれが遠くなる。もう安積は追いかけては来ていないようだった。
 いつからそんな勘違いをされていたんだろう。春に仕事をするようになってから、葉月の方はビジネスだとしか思っていなかったのに。しかも周りも、あの様子では多分そんな関係だと思っている。----頭が痛かった。
 これまで雑誌などで何人かの女性と噂を立てられたりしたことは知ってはいる。ただ、具体的に誰とどんな噂になっているのかは、あえて知ろうとは思わなかったのでいちいち覚えてはいなかった。マネージャーが「そういうこと書かれているから」と一言教えてくれるのが唯一の情報源のようなもので。それすらも、右から左に抜けてしまうだけで、今となっては人数すらも思い出せないぐらいなのだけれど。
 今までは記者たちがうざったいだけで実害は全くなかったけど、もし安積が本気で思い込んでいるとしたら少々厄介なことになりそうな気がする。
 明日、マネージャーに会ったら話しておいた方がいいんだろうな、ととりあえず心に留めておく。
 ----今はそれよりも。
 もう静まり返ったショッピングモールを抜けつつ、鞄から外ポケットに無造作に突っ込まれている携帯を引き出す。
 かちっと音を立てて開く----が、液晶が暗いままだ。
 壊れた?
 最新機種を追いかける方ではなかったから、もうかなり長いこと古い機種を使っていたことは確かだ。
 もう電池が寿命だったんだろうか。一度電池を外して付け直して電源を入れてみる。
 何事もなかったように携帯が起動した。電池残量はフル充電を示している。しばらくたって、アンテナも一度に三本表示された。
 ----引っかかる。
 電源を切った覚えはない。朝、出掛ける前にマネージャーからの電話を取った時は充電器から電話を取り上げた。撮影の前に最後に見た時はメールチェックをした覚えもある。
 切ってはいないはずだった。ずっと。
 その時になって、大学が始まったばかりの頃に遥から言われたことを唐突に思い出した。
 あの地下スタジオでの仕事の時は携帯がつながらないと愚痴られたこと。地下だからだろうと何となく思ってそう答えたこと。
 でも----
 撮影の前にあのスタジオでメールチェックをしたことがある。その時、----圏外にはなっていなかったはずだ。
 スタジオにいたスタッフの携帯が鳴ったこともあったはずだ。
 確かに、話をする時には途切れてしまうらしくて、「もしもし?」を繰り返しながら表には出てしまうのだけれど、でも----でも着信はしていた。
 なのに----つながらなかった? 自分の携帯だけが?
 スタジオでは、隅に長机が何個か置いてあって、撮影中はたいていそこに鞄を乗せてある。
 休憩する時はその辺りでたむろして話していることが多い。自分も、スタッフも、
 ----安積も。

 胸の中がざわついた。
 疑いたくはないが----まさか。
 ----わざと、携帯を切られていた----?

 携帯を鞄のポケットに放り込んで足を速める。
 向かっている先は遥の家。
 花火が終わる前にそこを離れていたとすれば、多分もう自宅には着いているはず。何処にも寄っていなければ。
 いて欲しい、と願った。直接会いたかった。
 二人の間に何かが立ちはだかっているような----嫌な予感がどうしても拭い切れなかった。


 遥の家の前に辿り着いた時にはもう九時を回っていた。
 さすがに気温は下がって風も出て来ていたけれど、湿度が高くムッとする空気は変わらない。
 二階の遥の部屋の窓には明かりが点いている。隣にある彼女の弟の尽の部屋にも。窓は開けられていて、時折風に押されて揺れているカーテンだけが見えていた。
 直接呼び鈴を鳴らすには少々ためらう時間だったので、汗のせいで少し滑る指先に苛立ちながらもまずは携帯から電話をかけた。
 ずっと呼び出し音を鳴らし続けても、相変わらず彼女は出ようとはしてくれない。
 部屋にいないんだろうか。そう思って一度切り、しばらくしてからもう一度リダイアルする。
 ぼんやり立ったまま何度かそれを繰り返しても、ただ空しく呼び出し音が続くだけだった。
 ----何故そこまで拒まれなきゃならない? その理由さえ話してはくれないのか?
 携帯に当たり散らしたくなるのを堪えて、自分を落ち着かせるためにわざと深呼吸をしてみる。
 もう一度だけ、と言い聞かせて携帯のメモリを呼び出した後、ふと思い付いて非通知で発信した。
 見上げた視界の----窓の中で人影が動いた。やっぱり部屋にいる。
 葉月だけを拒否していたのだ、とはっきりしてしまった。心に小さなトゲを突き立てられたような気がした。
 しばらくして電話に出た声は声がかすれている。もしもし? という不審気な声。それでも、確かに彼女の声で。
 安堵と悲しみがない混ぜになる。自分の電話は無視しても非通知なら出るなんて。
『----もしもし?』
 反応しない相手に一段低くなった遥の声。
「切らないでくれ。----俺だ」
 やっとのことでそれだけ口に出した。電話を向こうで息を呑む気配がする。
「頼むから切らないでくれ。今お前の家の前にいる」
 無言のままだが、切らないではいてくれている。
「五分でいい。時間をくれないか」
 耳に入る沈黙の隙間に、少しだけすすり泣く声を聞いたような気がした。
「遥」
 傷つけたいわけではないのに。泣かせたいわけではないのに。
 ----もしかしたら。
 自分に周りを見る余裕がなかっただけで、何かあったんじゃないか。葉月の携帯が切られていただけではなく、もしかしたら彼女の側にも----。
「遥、ひょっとして、お前、何か隠して----」
 かさっ、と物音がした後に、唐突に電話が切られた。
 直後に、遥の部屋で何かが窓を横切って行く。
 来てくれるんだろうか、ここに。
 携帯を閉じる。少しずつ早くなる鼓動を落ち着けようとするがうまく行かない。
 顔を見たら何から話せば----まずは今日のことを謝るべきなんだろう。
 この際、洗いざらい話しておいた方がいい。安積が何を考えているのか判らないが、あのせいで待ち合わせに遅れることを連絡することすら出来なかったんだから。
 かちゃんとドアが開く。同時に葉月の心臓の鼓動も跳ね上がる。
 ゆっくりと開いたドアから、おずおずと顔を出したのは、
 ----尽だった。

「----ごめん。ねえちゃん、多分、今は話せないと思う……」
「………」
 何処で食い違ったんだろう。いっそ想いを告げない方が笑い合えていたんだろうか。
 電話で話すことも会うことももう出来ないんだろうか----これ以上。
「……あのさ」
 尽が玄関先で葉月にもっと近づくようにと手招きしている。
 それに従って、鉄製の低い門扉を挟んで向かい合う。
「姉思いの弟としては、姉が行かず後家になるよりは葉月とうまく行って欲しいと思ってんだけどさ」
 顔を見る限りでは真剣らしい。
「ちょっと確認させてもらいたいんだけど」
「何を?」
「他に女、いないよね?」
 心に刺さったままのトゲが少しだけ大きくなる。
 他の女?
 遥まで----あの周辺スタッフと同じように----安積と自分の間に何かあると思っているのか?
「いない」
 もしそうだとしたら、何処からそんな話に----。葉月が知らないだけで、またくだらないゴシップ誌に騒がれていたんだろうか。
「いると----思われてるのか?」
「かも知れない」
 でも高校の時までだって、そんなガセ程度はいくらでもあったのに。その時には遥はここまで過剰反応はしていなかったのに。何故今は。
「それともひとつ。----指輪なんだけどさ」
 その言葉で思い出すのは、小さな四つ葉のクローバー。絵本の中の四つ葉に仮託した誓い。
「ねえちゃんが持ってるあれって、葉月がプレゼントしたんだろ」
「ああ」
「手作り----だよな」
「……ああ」
「世界に1つしか、ない……よな? 他のヤツにあげたりしてないよな?」
「してない」
 その言葉で記憶の中に入り込んで来る影。
 四つ葉の指輪。安積が絡ませて来た手に光っていた銀色の----。
「----なら、いいんだ。多分、ねえちゃんはどうかしてるだけだから」
 何処で見たんだ? そしてどうしてそんな勘違いをしてるんだ?
 全ての悪い予感が、吸い寄せられるように1人の存在につながって行く。
 遥は安積由香と----あるいはその周辺の何かと会っているのだろうか。それで距離を置き始めたんだろうか。
 だとしたら。
「----やっぱ、会うのは無理か?」
「まあ少なくとも、こういう時間だと普通迷惑だと思うんだけど。一応年頃の娘なもんで」
 いきなりにこやかになった尽にそう言い切られて、一瞬二の句が継げなかった。
「お前……」
「いや、まあ、そういうことにしといてよ、今日は。ストーカーじゃないかって近所に通報されでもしたら困るんだけど」
 笑いに紛らせた後で、少しだけ声をひそめる。
「俺が言ったこと、何か心当たりあるんじゃないの? 葉月」
「………」
 小学生の頃から思っていたが、姉に似ずこいつは鋭い。
「それ、何とかしてからにしなよ。俺からも軽く説明ぐらいしとくから」
 葉月が頷いたことを確認して、尽は門扉から離れて玄関ドアの向こうに消える。

 今まで、自分周辺に勝手に沸いているとしか思っていなかった噂。遥がいる以上、かつてのようにそれを放置しているわけには行かないんだと、その時に初めてはっきりと自覚した。
 何が起きているのか調べる必要があるのだ。彼女の誤解を解くためにも。


 携帯に入っていたメッセージに従って、仕事前に事務所に来た。マネージャーのデスクに近づく。何やら電話で話しているが、その言葉は謝ってばかりだ。ダブルブッキングでもしたのだろうか。
 しばらく謝り倒しだった彼女がようやく電話から解放されると、一気に疲れたように机に突っ伏してしまった。
 ……どうしようか迷いはしたが、呼び出されたのはこっちなので、「あの……来ましたけど」と遠慮がちに話しかけてみる。
 振り返ったマネージャーは一見して激怒寸前だった。仕事をサボった(というか寝過ごした)時も怒られはするが、怒るというより呆れていた。でも今は。
「……おはようございます……」
 一応挨拶などしてみる。
「葉月」
「はい」
 突き刺すように睨まれ続けて穴が開きそうだ。
「……何をどうアレしたんだか知らないけど、プライベートは知りませんで逃げさせてもらうからね」
「………はい?」
「今までそのテのことなんかちっとも関心なさそな顔してたから油断しまくってた私も悪いし、いきなりネットじゃ防ぎようもないんだけど……」
「ねっと?」
 頭の中で何故か虫捕り網が揺れ始めてしまってから、マネージャーの机の上の液晶ディスプレイに目を向ける。
 薄いグリーンを基調にした、妙にデザインの凝った画面。虫捕り網はとりあえず意識の外に追いやっておく。----インターネット、か。
「えっらい悪者になってんだけど、葉月」
「----え」
「由香ちゃんぶっ叩いたってホント?」
 その名前で一瞬のうちにフラッシュバックが始まる。
 浴衣の由香。自分に笑いかける笑顔。銀のリング。何度も擦り寄って来る手を振り払った花火の夜。
「----叩いてなんかいません」
 むっとしたまま呟いた葉月に、
「じゃないとしても、そう言いがかりつけられるようなことはしてるって顔なんですけど」
 伊達に長年付き合ってはいないマネージャーの一言。
 あれを『言いがかりつけられるようなこと』だと言うのなら確かにそうなんだろう。何故か勝手に盛り上がっている彼女を邪険に扱ったこと。でも、その前にそもそも、勝手に盛り上がられる理由がない。それまでだって仕事でしか接したことがなかったのに。
「これのね、」
 マネージャーが、目の前で開いていた薄いグリーンのWebサイトをマウスカーソルでつつく。
「この『彼』ってのがあんたのことだってさ。あっちのマネージャーに泣きつかれた次はディレクターからの泣き言とカメラマンのブーイング。もう対応すんの疲れたんですけど」
 からから軽い音を立てて椅子を隣のデスクに移動する。残された葉月は画面を覗き込む。
 ----日記、らしい。
 モデルやタレントがサイトで日記を書くことは珍しくはなくなっている。由香はこういうのが好きなようで、ほとんど間を置かずに何かしら日記を書いているらしい。
 画面の中の日付は花火の日で止まっている。その内容は、『彼』にひどい振られ方をしたという失恋話だ。
 前の日まで優しかった『彼』が、一緒に花火を見るために驚かそうと浴衣を着た彼女に突然別れを告げた----とか。
 あまりにいきなりの別れ話に動転して理由を問い詰めたら叩かれた----とか。
 わざわざ花火の日に人目のある場所で置いてけぼりにされた----とか。
 そのままさっきのマネージャーと同じく机に頭をめり込ませたくなった。微妙に本当のことが含まれている故に反論とか弁解の言葉が出て来ない。あの人込みでの出来事を目撃していた人が見れば、これが事実と思われても仕方はないかも知れない。
「仕事降りるって騒いでるらしいんだけど、由香ちゃん」
 何でこんな目に遭わなきゃならないんだろう。と言うかいつからこんなことになっていたんだ?
「とりあえず謝っちゃったら。予定ではあと2日だし」
「----謝る理由なんてありません」
「なくても謝るの。あんたもう18過ぎてんだから少しは大人になってくんないかなあ」
「俺のせいですか」
「そう、あんたのせい」
 隣の机で肘をついたまま、マネージャーがきっぱり言い切った。
「----納得出来ません」
 葉月もまた吐き捨てるしか出来ない。
 何を謝るんだ、自分が。むしろ携帯を勝手にいじられた被害者かも知れないのに。
「……やっぱアンタって女の子と付き合うのは向いてないのかもね」
 そんな言葉だけ捨て置いて、彼女は廊下へ出て行ってしまう。
 ----嫌な予感がする。マネージャーまでまさか勘違いしてるのか。そもそも、安積由香と葉月が本当に付き合っていて、その挙げ句にこじれたのだと思っているのか?
 ちらと見た時計に急かされて、とりあえずスタジオへ向かう。本当に由香が仕事をする気を失っているなら、無駄になるかも知れないとは思いながら。

 スタジオには妙に重たい空気が流れていた。
 一応、24時間対応の「おはようございます」を言ってみたはいいが、のろのろと準備を始めたスタッフたちの動きが鈍い。
 衣装担当に引きずられて着替えてスタンバイするまで、葉月に声をかける人が誰もいない。
 妙な息苦しさ。人のもやもやした悪意を露骨に感じて居心地が悪いことこの上ない。
 だからドアが開いた時には逆に救われる思いでいたのだが、それと同時にばっさりと地獄に突き落とされもした。
 現れたのは、由香だった。仕事をしているんだから当然と言えば当然なのだけれど。
 降りるとゴネたせいなのか、後ろにマネージャーらしき男性がくっついてしきりに何かを話しかけている。
 既に衣装の彼女が、スタジオの作られた部屋に入って来る。葉月の隣に並んでスタッフたちをちらりと見回す。
「遅くなってすいません」
 いつものように明るい声に、スタッフたちの緊張がなんとなく少し緩む。----が、そのままふわりと振り向いた彼女の視線は刺すように冷たかった。
「----最っ低」
 葉月にだけ聞こえる囁きと共に、にっこりと微笑んで見せた。
 華やかさと穏やかさを兼ね備えたモデルの微笑。安積由香という『商品』の武器。
 それはとても綺麗だった。綺麗なだけに、じわじわと締めつけられるような恐怖を感じさせる笑顔だった。

 モデルという仕事をやっていても、「プロ」という自覚は薄かったと思う。表情を作ることもそんなには頑張っては来なかったから。
 でも、その日は、精神的にひどく疲れた。今の由香に対して、まるで恋人であるかのように笑いかけるなんてことが、どうしても自然には出来ない気がして。
 今まではずっと、頭の中で遥を思い浮かべていた。自分が彼女に向けてどんな顔をしているかなんて自覚はなかったけれど、周り----主に守村----から言われたことがあったからだ。
 遥を見ている目だけが違うと。柔らかくて穏やかな笑顔をしていると。
 今は、彼女のことを思い出すのは少しつらい。
 誤解を与えたまま、泣かせたまま。話さえして貰えない。溝は深まる一方でも、自分の中にある気持ちはまだ変わってはいないから。
 本当は仕事なんて早く放り出してしまいたいのに。春にずっと不安そうだった「携帯がつながらなかった」ことだけでも、理由を話したかった。そして聞き出したかったのに。彼女をあんな風に追いつめているのは何なのかを----
 何度目かのダメ出しの後に出たOKの声に肩の荷が降りる。もう慣れたとはいえ、相変わらずスタジオの時計は20時を軽く過ぎている。
 片づけに入るスタッフの間を抜けて、休憩スペースのテーブルから自分の鞄を取り上げる。更衣室にそれを持ち込んで、着替えるより先に携帯を開く。
 電源が切れている。
 暗い液晶に光を点す。おぼつかないながらも二本立ったアンテナ。続いて「メール受信中」の文字。
 ----確かに電波は届いていることを確認して、葉月は自分の着て来た服にさっさと着替えてその部屋を後にした。

 適当に挨拶を交わしながら、携帯を手に由香を探す。地下から上がる階段の外にいた後ろ姿は一人。
 後ろから小声で声をかけると、かなり驚いたように肩を揺らして彼女は振り返った。
「今さら、なに?」
 葉月を認めた途端に不機嫌になる声。今さらも何も、とは言いたいけれど口には出さず、冷静に携帯電話を突き出してみせる。
「……俺の携帯の電源、切りましたね」
 眉が少しだけ動いた。わざと目を伏せるように視線を逸らされる。
「----何でこんなこと」
「必要、ないでしょ、仕事中なんだから」
「………」
 正論ではある。
「それなら俺に直接言って欲しかったです。勝手に切るんではなくて。注意されればちゃんと----」
「----あなたが悩んでたから!」
 葉月の言葉を遮る強い声。一瞬何を言われたのか理解出来ずに言葉が止まる。
「悩んでるって言ってたじゃない、高校の時からの女がしつこいって! 電源切ってれば、仕事中はせめて平穏でいられるし、だから、」
「ちょっ……、あの、何の話ですか?」
 また由香の思考回路が何処か時空を超えてしまっている気がする。しつこい女って……。確かに遥はどっちかというと電話魔(最近はメール魔)の部類には入るから、端から見たらそう見えるのかも知れないが----。
「今さら何よ……。あんなことまで言っといて! もう話しかけて来ないで。イイ人ぶらないでよ! もう……もうやめてよ……!」
 泣き出しそうなのを堪えている。言葉に涙が混ざり始めても、葉月はまだ付いて行けない。付いて行こうとする努力をしていいのかすら判らないでいる。
 唇を噛んだ由香がキッと葉月を見上げる。非難する目に気を取られている間に、何かが手のひらに押しつけられた。勢いで受け取ってしまってから手を開く。
 そこにあったのは四つ葉のクローバー。まだ温もりの残る指輪。
 ----既製品。遥へ贈ろうとした指輪を作る時に、参考のため色々と見て回った中で見たことがある。確かショッピングモールの、かなり入り組んだ路地にあるシルバーの専門店で。
 何故これを渡されるんだろう。
 それを聞こうと思った時には、既に彼女の背中は小さくなっている。
 慌てて走り寄る。早足で遠ざかろうとする由香の腕をつかむ。
「ちょっと待って下さ----」
「いい加減にしてよ! もう返すから……だから! もういいでしょ!?」
 振り返らないまま押しつけられる涙声。
 ……『返す』?
「返すってどういう意味ですか」
「……最低っ……。最っ低」
「俺、あげた覚えないですけど」
「……そぉいう作戦だった、って感じなんだ? 何も知らないって言い逃れて。自分は悪者じゃありませんって顔して……」
「……はい?」
 葉月の手の中の細い腕が震えている。ぎゅっと握られた拳。
「その指輪の時だって桐生くん巻き込んどいて、こんなやり方って卑怯過ぎる----最低っ!」
 勢いよく走り出す。それ以上は追えないまま、茫然とそれを見送る。
 街灯に照らされた影も見えなくなってしまってから、叩きつけられた言葉の断片に、頭の片隅が過剰に反応した。
 ----桐生。
「あいつか----?」
 ばはたきWatcherの特集記事。オーディションなんて形だけで、そもそも葉月のための企画だったのに、モデル事務所同士の「政治的な絡みで」(マネージャー談)葉月が「選ばれた」ことになった。その時に「蹴落とされた」ライバルの一人。
 最後に会ったのは確かビリヤードホールだ。遥と一緒にいる時に。
 あの時----遥という少女が、今までの単なる取り巻き程度の存在とは違うと自ら言ってしまったも同然だった自分の態度を見られている。それに対して、肩をすくめながらあの男は笑っていた----いや、嘲笑っていた。
 部外者たちの中では、彼が一番知っているのだ。葉月と遥のことを。あの瞬間にたまたま立ち会った、それだけで。
 そしてまた彼には恨まれてもいる。はばたきWatcherの件でも、そして。
 ----このWebマガジンの仕事のための件でも。

 葉月は手の上で転がるクローバーの鈍い光に目を細めた。
 ----探していた答えがやっと、見つかったような気がしていた。


 駅から少し離れた一帯に、ビルが立ち並ぶビジネス街がある。桐生の所属する事務所はその中にあった。
 近くにある小さな公園。ビルの敷地内に作られたもので遊具などはない。植木の周りを囲むように置かれたベンチに座っていた葉月を見つけて、桐生聡史が近づいて来た。
「事務所通してわざわざ連絡つけて来るなんて珍しいな」
 にやにやと興味本位の笑い。個人的な連絡先なんか知らないからだ、とは言わないまま立ち上がり、ずっと手の中に握られていた指輪を突き出して見せる。
「お前に、返してやるよ」
「--------」
 顔色が明らかに変わった。が、その直後にまた、あまりタチの良くない笑みが口元に浮かぶ。
「……へえ。もうバラしちゃったんだ、由香のやつ」
「やっぱり、お前が」
 葉月からだと偽って渡したのか。
「ご名答。さすがナンバーワンモデル」
 ふざけたように拍手しようとしたその手に指輪を投げつける。当然のように受け取られないまま、指輪は甲高い音を立ててコンクリートを転がって行き、植え込みの中に消えた。
「……何でわざわざこんなこと」
「紹介したよしみってやつで」
 楽しそうに笑いながら桐生がさらりと言ってのける。
「紹介、だと?」
「頼まれてね。葉月珪のメールアドレスを教えてやったんだ、安積に」
 肩に掛けていた鞄から携帯を取り出して見せる。
「面白いもん見せてやるよ」
 数個のキー操作の後、葉月に携帯を渡して来る。
「そのフォルダのメール、なかなかうまく出来てると思ぜ、我ながら」
 メールの送信控え。数行のメールが何通も。それは、silverrose1005で始まる携帯アドレスの主がazumi_yukaで始まるアドレスに送ったもの。
 見たことがある。そして見たものは忘れられない。このアドレスは、由香が自分の日記サイトで感想受付用に表示していた彼女のアドレスだ。
 一方、送信者の"silverrose1005"は。
 メールの中身を開く。
 全てのメールの、最後に必ず記してある署名の名は。
 ----葉月。

 お互いに立場があるからあまり現実では話せないから。そんな言い訳が確認するように紛れ込む短いメールの応酬。
 今まで謎だった由香の態度の理由が全てそこにあった。
 (苗字ではなく)名前を呼ばれても迷惑じゃないかと聞いた由香に「そんなことない」と答えている。
 指輪の話もしていた。都合があって桐生に託したことを書いている。
 時々仕事中に着信する相手について、高校時代からの同級生が電話魔で、と言い訳めいたことも書いている。ちょうどその時期ぐらいから、地下スタジオの携帯電話は着信しなくなってしまっていた。
 夏になってからのメールは花火の話が中心で。行こうとは書いてはいないけど、花火が好きだという話をしたり「その日は空けておいて」と理由は明かさないまま由香が書いていたり……
 葉月が直接彼女に接触していないことは、メールの中で全て正当化されていた。「お互い立場があるから」の一言で。
 それらの文章たちに触発されるように思い出すことがいくつかあった。
 由香の「仕事」の時に見せる微笑み。本当に心からのように見えるそれは、モデルとしての演技だとしか思っていなかった。
 仕事を一緒にした女性たちが、休憩時間に馴れ馴れしく話しかけて来たりするのはいつものことで、それに特別な意味があるなんて考えてみたこともなかった。
 時折携帯の画面を覗き込んで笑っていた由香。それを覗き込んだスタッフが意味ありげに葉月を一瞥していたこと。スタジオに時々姿を見せるマネージャーと由香がかなり親しそうだったこと。春の撮影終了時に打ち上げと称してスタッフが葉月をどうしても連れ出そうとして、結局しつこく断った時の由香の悲しそうな表情。
 撮影後にかけられた「二人ともさすがだね」の言葉は、仕事ぶりへの褒め言葉だとしか思っていなかった。
 撮影中の冷やかしの言葉は、「恋人同士」というシチュエイションゆえの「演出」のひとつだとしか思っていなかった。
 ----何も知らなかったのだ。何が起きているのか。

 葉月の手が止まってしまったのを見て、すっと桐生が手を伸ばして来る。携帯電話がまた彼の手の中に戻る。いくつかのキーを操作しながら彼が口を開く。
「さ……て。どう返事してやる? 振られたショックなのかもう向こうは何も書いて来てないけど」
 「葉月」を陥れるために由香を利用したのか。何の関係もない彼女を巻き込んだのか。
 その余波が恐らく何らかの形で遥にも及んだのだろう。話せないでいる間に、雑誌か何かで----あるいはネットか----無責任な噂が広がったのかも知れない。それがどんな内容で遥に伝わったにせよ、彼女は安積由香の存在を気にしているのだ----恐らくは。
 確かに葉月と遥は時間的に会えないまますれ違っていた。でも、その間に、遥から見て葉月を信じられなくなるような"事実"が次々に発覚したのだとしたら。
 ----それが彼女のあの態度になったのだとしたら。
 頭の中で今までの不可解な出来事がやっと一つの線でつながった。その途端に、どうしようもない怒りが沸いて来た。
 考えるより言葉より先に体が動いていた。自分で自分を制することすら間に合わなかった。
 桐生の体が派手に飛んで植え込みに背中から突っ込む。手のひらから飛び出した携帯は下のコンクリートに叩き付けられて跳ねた。同時に上がる悲鳴。
 夕暮れの時間帯で人通りも少なくはない。周りからざわざわと広がる囁きの中に自分の名前を聞く。
 しばらく痛そうに顔を歪めていた桐生は、倒れたままで一瞬だけ勝ち誇ったように笑ってみせる。
 深呼吸。そして再び痛そうにうめいたその後で。
「----葉月!」
 ビル街に囲まれたその場所で声は思ったより大きく響いた。
 ----周りの囁きが確信に変わって行く。
「いきなり暴力かよ!? 何考えてやがるっ!」
 ----アレッテアノ葉月珪? モデルヤッテルアノ葉月ナノ?
「有名だからってこんなことしていいと思ってんのかよっ!!」
 人垣が増える。
 視界の端で女性が携帯を取り出している。レンズが自分に向いたのが見えて、咄嗟に葉月は身を翻した。
 視線と囁きから逃れるように細い路地に入り込む。桐生が一瞬だけ見せた笑いの意味をその時になって理解する。
 彼が声高に被害者を主張すれば、葉月にとって有利な条件は何もない。十人以上いる目撃者。弁解もせず逃げ出した自分。
 『葉月 珪』のモデル生命はこれで絶たれるのかも知れない。
 そうは思ったものの、悔しさや悲しさは感じなかった。
 自分で望んで始めた仕事ではなかった。何処かで終わらせたいとは思い始めていた。
 これで終わるならそれでもいいと思えた。偽りの偶像なんて最初から必要ではなかったのだから。


 葉月が事務所に入った途端に小さな会議スペースに誘導された。忙しそうに資料を手にしたマネージャーは、時計を気にしながら淡々と事実だけを話した。
 ジェスでの秋からの仕事が契約破棄になったこと。はっきりとした理由は告げられてはいないらしいが、代役として採用されたのが桐生聡史であると聞いた葉月は何となく納得していた。
 そして、向こう3ケ月ぐらいの仕事の予定が次々にキャンセルされていること。その理由も、マネージャーの口から詳しく語られることはなかった。
 そういうものなのだと思った。必要以上に敏感で。勝手に作られたイメージの中で踊らされる世界。人形の代理なんて、この世界にはいくらでもあるのだ。
「…遅い夏休み、ってとこかしらね。何かあったらまた連絡するから」
 慌ただしいその言葉に見送られて、葉月は事務所を出た。

 夏休みも残すところあと一週間足らず。結局、休みの間に遥とまともに話すことも会うこともなく終わってしまった。
 ただ、----高校を卒業してから夏までの間、自分の中にくすぶっていた焦りのようなものは何だか薄れている。
 ずっと、自分の周りには見えない殻があるような気がしていた。
 どうせ誰も自分のことをひとりの人間としてなんて見てくれないのだと。
 自分でその殻を破ろうとも思わなかったし、外から破ろうとする人もいなかった。
 彼女は----遥は初めて、葉月を「裏切った」人間だった。
 他人が自分をありのままに見てくれることなんかありえないと思い込んでいた葉月の殻に風穴を開けた人だった。
 彼女は笑いかけてくれるのに。葉月珪の歪んだネームバリューとは無関係に自分に接してくれる人なのに。
 それ以上の何を彼女に求めていたんだろう。
 何を欲しいと思っていたんだろう。
 ゆっくり進んで行く時間の中で、遥は決して思い込みや誤解をすることなく葉月を見てくれていたのに。ただそのままの自分を受け入れてくれていたのに。
 ----思い込みや勝手なイメージや、自分と切り離された商品としての『葉月珪』や、そんなものでしか判断してくれなかった人間とは違って。

 ----それが答えなのだと思えた。
 自分こそが彼女を信じていなかったのだ。
 確実な言葉なんて。今以上に触れることなんて。それが今の彼女と自分の関係にどれだけの意味があるんだろう。
 自分の周りにいた誰とも、彼女の存在は違うのだ。そう思っていたからこそ惹かれたはずなのに。
 それ以上何が要る? 何が欲しくて焦っていたのだろう?

 葉月は携帯のメールボックスを開く。今まで苦手でずっと避け続けて来た携帯のメール。
 初めてメニューから「返信」を選ぶ。
 今かけてもまだ彼女は電話に出てはくれないかも知れない。でもメールならもしかしたらと思った。
 メール関連のマニュアルは読んでもいなかったので、たった3行打つのに気づくと20分以上かかっていた。
 そして出来上がったメールを初めて送り出す。
 送信完了のメッセージの後、送信ボックスに残る3行を確認すると、ゆっくりと深呼吸して携帯を閉じた。


 夏休み最後の日曜日。
 風を通すためなのか、あの教会の扉は開いていた。
 正直、そこまでは葉月は予想してはいなかった。少し離れた所にあるベンチででも待っているつもりでいた。
 もう亡くなっている祖父の、天国からの小さないたずらなのかも知れない。そんな風に思いながら、木の扉をゆっくりとくぐる。
 夏の終わりの静かな日差し。少しだけ埃っぽい空気が作り出す光の柱。ステンドグラスの様々な色が作り出す、虹色の天使の梯子。あの時と変わらない風景がそこにはあった。
 ずっと放置されたままの絵本を手に一番前の列に座る。
 物語の最後。四つ葉のクローバーの指輪。その意味を遥が既に忘れてしまっていたことは少し悲しいけれど。
 その思い出を塗り潰すほどに、この夏の出来事は異常だったのだ。
 これから取り戻せばいい。少なくともここ三ケ月は「仕事」を理由にしなくて済む。
 そう思うとふっと心が軽くなった。
 この数ケ月、さんざんかき回されたとはいえ、こういう結果になったことはむしろ桐生に感謝すべきかも知れないなんて思って少し苦笑する。
 もう『葉月珪』は誰のものでもなくなったのだから。ただの一人の人間にしか過ぎなくなったのだから。
 メールに書いた時刻は13時。それは高校の卒業式を終えて、あの告白をした時間と同じ。
 彼女が来てくれるかどうかは判らなかった。
 もしここで会えないなら、それはきっと自分の心の中では一つの区切りになるだろうとも思っていた。
 今気づいても遅かったのだと。もう取り戻せないのだと。
 それでも----感謝はしたかったけれど。再会出来たことに。想いを、告げることが出来たことに。

 ----いつの間にか眠っていたらしい。ふと気がつくと、ステンドグラスから差し込む日差しの色が変わっていた。
 固い椅子で寝こけていたせいか体のあちこちが少し痛い。
 立ち上がって伸びをする。誰もいない教会に、小さな溜め息が何だか大きく響く。
 ふと傍らに置いた携帯が目に入る。点滅する光。
 開いた画面に刻まれた「メール着信」の文字。2,3のキーの後に現れた短い文章。
『少し遅れます。』
 素っ気無い一言は、それでも何故か嬉しかった。ずっと話すことすら出来なかった彼女が、会う約束をしてくれたのだ、という気がして。
 そのままぱたんと携帯を閉じた途端に、ドアのきしむ音がした。
 大きく鳴った鼓動を深呼吸で鎮める。ゆっくりと振り返る。
 逆光の中に佇む小さな影。少し肩が上下しているように見える。
「----悪い。急がせた……か?」
 影は首を横に振りながら教会の中に入って来た。
 光と影が交代する中を歩いて来る遥は、最後に会った一ケ月以上前とは少し変わっているように見えた。髪を切ったような気がする。少し痩せたような気がする。
 まるで記憶を探るように目を細めた葉月の前まで来て、その目を見て思った。
 ----意志の強さだ。何かを、決意した瞳。
「……来て、くれたんだな」
 こくんと頷いたまましばらく上がらなかった顔が、大きな溜め息とともに再び葉月を見上げる。
「私も、話したいことがあったから」
「ああ」
 はっきりした声が何かの宣告のようにも聞こえる。
 待とうと決めてはいたのだ。彼女の答えを。それがどんな結果であれ。
 だから葉月はただ待った。コトコトとうるさい自分の心臓を必死に宥めすかしながら。
 遥は、一度きゅっと唇を引き結ぶ。言葉を探るように目を閉じて、----それから。
「……花火の時、由香さんと一緒に……いた、よね?」
 責めるでもなく悲しむでもなく。ただ真っ直ぐに真剣なだけの声。
 葉月は頷くことしか出来なかった。
 この場であの日のことを言い訳して、全てを由香の思い込みのせいと切って捨てていいのかどうか判らない。彼女もまたある意味では被害者で。
 遥は少しだけ息をつく。その落ちる呼吸と眼差しが逸れるのとはほぼ同時。
「----私、あれからずっと考え続けてたんだ。私と、葉月くんのこと」
 苦しくなる沈黙。感情を抑えた声であるだけに、その後に続く言葉が何なのかが予想出来ない。
「……ずっと、ずっと悲しかった。電話もつながらなくて、他の人と一緒にいるのを見ちゃって。あー、もうダメなのかも、って思った」
 話の表面的な内容の割に、声はただ淡々としている。
 それが余計に葉月の心に刺さって来る。
 ----この教会で始まったのに、この教会で終わってしまうんだろうか。だとしたら、ひどい皮肉だ。思い出になるにはきつ過ぎる皮肉。
「----ダメなのかも、と思った時にね」
「…………」
「----あの時に言われた言葉を、思い出した」
 『あの時』がいつを指しているのか咄嗟には理解出来なかった。
 すっと流れるように上がった視線。涙は見えない。元々少し色の薄い髪が、ステンドグラスに透けたオレンジに染まっている。
「ねえ」
 声が出せなかった。感情のないように見えたその顔が少しだけ苦しそうに見えて。
「私たち、まだ----」
 一言重ねるたびに、彼女のそれが「仮面」であるとしか見えなくて。
「始まってない、よね?」
 笑おうとして----。
 それが崩れて、遥は両手で顔を覆った。
「----はる……」
 言いかけて、でもそれ以上どうしていいか判らなかった。
 泣き声は聞こえなかった。ただ、時折すすり上げる息だけが小さな余韻を残しては消える。
「……ホント、バカみたい、私……いっつも言われて、る、通り……」
 狭間にそんな言葉を聞いたような気がした。
 ほんの数分だけそうしていた遥が次に目を上げた時は、涙で濡れた頬を隠すことはしないまま葉月に向き直った。
「何でかな。……始まってなんかなかったのに、あの人のことを知ったら----、もう、私の隣にいてくれないんだって思ったら----、涙が、止められなく----」
「遥」
 それが、答えなのか。
「な……に」
 隣にいてもいいと思ってくれているなら。
「----ここにいても、……触れても……」
 いい、と言って欲しかった。
「……あの時以来、俺は----」
 拒まれることがずっと怖くて、
「だから、」
 何処かで、
「----諦めてた」
 唇がうまく動かない。自分が伝えたいことがうまく言えない。もどかしくて、----でも手を伸ばしてそれを振り払われそうで。部屋での、拒絶されたあの時のように。
 指先だけが彼女の温度を求めていた。一度染みついた記憶が消えない。もう失いたくない。失いたくないから触れるのが怖い。
 目を閉じる。自分まで泣きそうになっていることに気づいて。
 その途端、とん、と静かに葉月の体に重さがかかって来た。
 ----それが何なのかは見る必要なんかなかった。
 胸元から伝わって来るしゃくり上げる声を包み込むように手を回して、それからやっと目を開く。
 その中に在る温もりの向こうに鼓動が聞こえて来る。
 彼女がそこにいる。ずっと触れたかった存在が。
 あの時に、爆発しそうな苛立ちを抱えながら彼女に近づいた時とはまるで逆だった。
 不思議なほど安らいでいる----もう失わずに済むんだと思えて。

 これだったんだ、とその瞬間にわかったような気がした。
 信じる、ということ。
 初めからこの手の中にあったのに。
 ----それを見ようとしなかったのは、自分の方だったのかも知れない。


 夕闇が迫りつつあった街を抜けて、彼女の家までゆっくりと歩く。
 その2人の距離はまるで高校の時のようだった。とても微妙な「友達」の距離。ずっと近づきたくて、それでも近寄れなくて、でもここにこうしていられることが密かに嬉しかった、そんな距離。
 家の前で手を振って、ドアの向こうに消えて行くのも。
 部屋の窓に灯がともり、静かに引かれて行くカーテンを見るのも。
 ---今の二人にはこのぐらいでちょうどいいのかも知れない。
 物理的に「触れる」ことよりも先に、少しだけひび割れてしまった心の距離から埋めて行こう。少しずつ。
 多分、時間はたくさんある。それまでメインに追い回されていた「仕事」から解放されている今なら。

 葉月は頭の中だけで、今までの自分に小さく別れを告げていた。もう迷わない。惑うこともない。ヒトの目を気にして作られていた葉月珪のアイデンティティはもう必要ない。
 これからは自分のためだけに生きられそうな気がしていた。ずっと押し込められていた想いにも素直になれそうな気がしていた。
 誰にも妨げられることなく----彼女の、隣で。


5-epilogue

 久し振りに校門で顔を合わせた遥は、夏以前よりも更に輪をかけてのほほんとしているように志穂には見えていた。
「……おはよう」
「志穂〜! 元気だった?」
 それはこっちのセリフだ。夏休み前はあれだけ落ち込んでいたように見えた遥と本当に同一人物かと疑いたくなる。
 それはそれで、いい方に解決したんだと思っておくことにする。送ったURLは少しは役に立ったんだろうか?
「……そういえば、あのサイト、消えてたわね」
「あ、うん……そうだね」
 silver rose。遥が知らないと言っていた葉月の情報をネット上で見つけた。そこを見ていれば、あのいたずらメール程度のことなら誰でも簡単に騙ることが出来てしまう。
 遥は軽く流して頷いただけだった。あまり気にしている様子はない。だが、その後に続いた一言は志穂にとっては意味不明だった。
「もう必要ないんじゃないかな」
「遥にとっては最初から必要ないと思うけど」
「ううん。……そうじゃなくてね」
 スキップしそうな勢いの歩調。
「----辞めるかも知れないから。モデルを」
「葉月くんが」
「うん」
 そうなんだ。
 遥の笑顔に漂う何かすっきりしたような空気の理由は、それで説明がついた。志穂にはもちろん経験はないが、付き合う相手が有名人というのは余計な疑心暗鬼の原因でしかないような気がする。
 何はともあれ、良かったんだろう。親友が幸せそうにしている分には何の異存もない。志穂は、校舎の入口で別れて背中を見送った後、自分の講義の教室に向けて少しだけ足を速めた。


「……はい?」
 放課後、隣に座っていた葉月が突然言い出した言葉に、守村は一瞬どころか10秒ぐらい固まってしまった。
 ようやく動き出した声帯で、やっとのことで返した返事は何だか間が抜けていた。
 ひょっとして聞き間違えたか。いや、聞き間違いであって欲しいような気がしないでもない。
 それからさらに20秒ぐらいたった頃、葉月は何かを諦めたようにがくりと肩を落として溜め息をついた。
「……やっぱりいい」
「いや、あの」
「……お前たちの話を聞いてどうするんだって、今思った」
「……は、はあ」
 まあ経験の範囲内で一般論なら答えられなくもないことはないですが。
 でもちょっと学校でがやがやしたカフェの中で相手に届けるためにはそれなりの声量で話さないといけないわけで。
 そういうボリュームでこういう場所で話していい内容とは思えないというかなんというか。
 守村が次々と言い訳だけをぐるぐるぐると頭の中で繰り返している間に、葉月はミルクを貰い損ねたネコみたいな顔の残像だけを残してカフェを出て行ってしまった。
「……いや、その……」
 誰に宛てるともなく呟いてしまってから、それどころじゃない大前提に気づいて再び石化しそうになった。
「……な、なんで判ったんですかね……」
 志穂のせいだろうか。「恋する女は綺麗になる」を地で行く変化をしているから。ただ最初に思ったのは、女性ホルモンって凄いんだなあ、ってことだったりする辺りはちょっとズレてると思うけれども。
 ----そう言われてみれば、水嶋の方はそういう意味で変わった感じはしないかも知れない。いや、知れないも何も葉月が自らたった今暴露して去って行ったばっかりだ。
「…………」
 ちょっとだけ苦笑。
「……勢いと引き際、じゃないですかね……」
 ----あの雨の日を思い出しながら、いない相手に小声で返事をした後、そんな自分が急におかしくなって、守村はくすくすと声を抑えて笑い出してしまった。


 9月とはいえ、まだ日差しは暑い。ただ、空気は少しだけ秋の温度。講義棟を出て目を閉じて少し強めの風をやり過ごした後、開いた瞼の向こうに葉月の姿を見つけた。
 無言で片手を上げて近づいて来る。相変わらず眠そうな目だ。
「今日、行くの?」
 昨夜貰ったメールの中身を頭の片隅で思い出しながら。
「ああ」
「そっか。うまく行くといいね」
 いつも持っているショルダーとは別に、手に提げられた小さな箱。多分、"自信作"が入っているんだろう。
「じゃ」
「うん」
 来た時よりも少し早足に遠ざかる背中を見送って、遥はカフェへと向かう。

 葉月は、夏以前に会っていた頃より、苛立った顔を見せなくなった。それがどういう変化なのかは、遥も全て理解していたわけではない。
 由香からのメールは花火の日以来途絶えている。その翌日ぐらいにsilver roseが消えた。そして尽からあるアドレスを流された。由香の日記。毎日のようにつけていた日記が花火の日に途絶え、そして数日後に復活。思っていた人に振られ、そしてそれを慰めてくれる新たな「友人」が現れたこと、などが書いてある。
 そして尽が「そうだったら面白いけど」という前置きで紙にすらすらと書いた文字。
 A-K-Y-U……「あきゅ☆」。sliver roseの管理人。
 Y-U-K-A……ユカ。
 ----彼女の名前のアナグラムだったんだろうか。
 もしそうなら全てが符合してしまうのが何だか怖い。由香はずっと葉月を思っていたのかも知れない。だから遥に探りを入れて来たのかも知れない。
 アドレスを「葉月に紹介された」と言って(書いて)いたことの矛盾を指摘してくれたのは志穂だ。学校から支給されたアドレスなんて、葉月に教えた記憶はないのだ----彼がメールするなら携帯によこすはずだから。
 由香が自分に見せていたことの1つが嘘だと判ってしまうと、全てが疑問一色になる。彼女の話を無条件で信じていただけで、確たる証拠なんか何もなかったから。
 こんな風に疑ってしまう自分が偽善者に思えて来る。でも、彼女を一方的に悪者にしてしまう方が、全てを素直に片づけられる。
 少しだけ、心が痛い。
 今の遥には、それが時間という薬で消える痛みであることを祈ることしか出来ないのだけれど。

「あら、一緒じゃなかったんだ」
 カフェへの道で会った途端のちょっとだけからかうような志穂の口調に、遥は自分でも無意識のうちに手が先に出ていた。
「ちょっ……何よもう」
「そっちこそ一緒じゃないじゃない」
「待ち合わせてるのよ。……遥も?」
「ううん。葉月くんは、バイトの面接……みたいなもの」
「そうなんだ」
 意外そうな声で返されたので、内心ちょっとだけ同意しておく。バイトなんて言葉は葉月には何だか似合わない。働く姿を想像出来ないのは今の遥も同じ。
「ただまあ……普通のバイトとはちょっと違うけどね」
「でしょうね」
 納得したように深く頷く志穂。
「工房なの。オーダーアクセサリーの」
 遥が言った途端に、志穂は目を少し見開いた。その視線が、指輪に落ちて来る。
「……凄いじゃない」
「うん。でもまだ採用されるって決まったわけじゃないし」
 ショッピングモールの奥に、葉月がよく行っている小さなシルバーショップがある。アートクレイなどの材料も売っているので、店員が最初に葉月の顔を覚えたらしい。そして、雑誌などで彼のアクセサリーの出所を知りたがるような記事が出るたびに「ひょっとして手作りなのではないか」と思っていたようなのだ。それで、セミオーダーを任せている工房が手が足りてないという話を耳にして、葉月に声をかけて来たらしい。
 モデルという仕事に色々な意味で限界を感じていたという葉月は、作品を持参して工房を訪ねる約束をした。それが、今日。
 アクセサリー作りを仕事にしたいと葉月から聞いたことがある。一度フリマに出店したのも、自分の作品がどれだけ「売り物」として通用するかを試したかったからたと聞いている。
 自分がしたいと思ったことが出来るチャンスが目の前にある。その話をしていた時の葉月は子供みたいに楽しそうだった。
 ずっと笑顔で。彼なりに少しはしゃいで。
 そして、そんな風に夢を追っている彼を見ていることは、遥の心も弾ませてくれる。
 それまで心の何処かで、葉月という人が自分にだけ笑顔を見せてくれることがただ嬉しかっただけじゃないか----と不安だった。自分が、彼の隣にいるだけの価値があるのかどうかも判らなかった。
 今は、どうしてそれに囚われていたんだろう、と思えるようになって来た。
 近くにいたい、と思えている。彼が自分の夢を追うなら、それを少しでも支えたいと思えている。自分自身のことよりも、彼が彼らしく在ることが喜べる。
 恋という名で言えるような、甘ずっぱい情熱よりも、穏やかに時間を共にするような関係でありたいと願っている。
 たとえて言えば、家族のような。
「モデルよりは、時間が不規則じゃない分、いいかも知れないわね、遥には」
「どういう意味ー」
「不安がり過ぎるからよ。付き合わされるのも大変なんだから」
 大袈裟に肩を落としてみせてから、くすっと吹き出す。一緒になって笑いながら、内心、志穂に深々と頭を下げていた。

 多分、もう大丈夫。
 やっと出発点に立っただけのような気がするけれど、今までのようなアンバランスさはもう感じていないから。
 いつか親友たちのように、自然に「恋人」になれるその日まで、きっとちゃんと歩いて行ける。その道筋に霧はもうかかっていない。
 まだ、きちんと伝えていない言葉を。
 いつか、その道の先で言えますように。
 ----遥は、カフェのざわめきに足を進めながら、心の中だけで静かに誓っていた。

=== END === / 2002.09.08 / textnerd / Thanks for All Readers!

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