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人狼BBS 二次創作

   氷の村−我が神の名は−

Before Day - Afternoon

 その村は、冬になると雪に閉ざされる。訪れる者も出て行く者もなく、ただそれまでに用意したわずかな蓄えを舐めるように費やしながら冬が終わるのを待つ。
 逆に言えば、雪がもうすぐやって来るこの季節こそ、この村が一番豊かで富に溢れている。だが、それは長き白の間に疲弊して削られて行くのが判り切っている悲しい富でもある。
 人々に用意された娯楽はせいぜいが噂話だ。レジーナが営む宿屋は、冬になると、宿としての経営よりも、付随する飲食店でのレストラン兼バーとしての営業の方が主軸になる。人々は長過ぎる白の夜に退屈してふらふらと集まり、くだらないお喋りで時を潰す。
 足を踏み入れても人の脛以上に雪が積もることはない。だがこの辺りの雪は季節風の関係で湿度が高いため、積もるより先に凍ってしまうのだ。昼間の弱々しい太陽の光でほんの少し溶けるが、また夜の冷たい風で氷の厚みは増して行く。ここが「氷の村」と呼ばれるのはそのためだ。

 木を育て売ることを生業とする木こりトーマスはこの季節、半端な廃材と一緒に村々を回って家を補修して回るのが毎年の習慣になりつつあった。
 本業はもちろん大工ではないのだが、来たる冬に備えて隙間風を防ぐために彼の腕を頼みにしている人は多く、彼もまた、その仕事の代償として様々なものを受け取ることで生活の一部を支えていた。
 そして冬が来ると今度はその斧は氷を割り道を作る道具にもなる。特に女独りで経営する宿屋のレジーナはトーマスの腕力を頼り、その功労の見返りとして食事や酒を出来る範囲で振舞ってやることが多かった。
 既に貨幣制度はこの国で浸透している。だがトーマスに限らず、この村の生活にはそんな物と労力の交換、あるいは物々交換がまだ欠かせない。
 羊飼いカタリナは雪のない間には羊と山羊を放牧し、草原に簡素なテントを張って暮らしている。彼女は雪が降るとレジーナの宿に避難する。本来は客用にしつらえられている宿の厩は、訪れる人のない冬の間は臨時の改装を施されて羊と山羊たちの家となり、カタリナは自身と羊たちの一冬の宿代代わりに幾匹かの羊肉とチーズやミルク、羊毛を差し出していた。
 農夫ヤコブは小麦を代償としてパン屋オットーからパンを得る。麦わらを始めとして牧草を刈り、一冬分の羊たちの糧となる干草を作ることでカタリナから肉とチーズを譲り受ける。野菜を対価に時折レジーナから酒をせしめている。
 柄は悪いが腕っぷしだけは強いならず者ディーターは、本人はほとほと不服そうだが村での保安官的な役割を押し付けられ、あらゆるトラブルに借り出されている。時に暴力で解決し、時に驚くほど明快な裁判官の資質さえ見せる彼はそれなりに頼りにされているのだが、代償に受け取るのが酒ばかりのせいか未だに村人の中に溶け込んでいるとは言い難い雰囲気を漂わせていた。
 村長ヴァルターは夏に病に倒れて臥せっている。本人は執務が出来ないことを理由に退職を国に依願している。この国の法律により、各村の長は選挙ではなく国から任命されるのを待つしかないため、彼の後任となる人物はまだいない。代行として、村一番の長老であるモーリッツが事務的な部分をだいぶ引き受けている。
 まだ世襲の習慣が色濃く残っているとはいえ、村長の子供は今年八歳になったばかりの幼い少年ペーターただ一人だった。彼がその責務を負わせられる機会があるとしてもまだまだ先の話になるだろう。

 何もかもこじんまりとまとまった村の中心部にあるのは、レジーナの宿とオットーのパン屋、そして小さな教会だった。
 古いが手入れのいい教会を管理する神父ジムゾンは、穏やかでストイックな人物として村人たちから高い信頼を寄せられている。
 彼には十歳になるリーザという娘がいる。ただし、ジムゾンの実の娘ではない。この村に生まれた彼女の両親は早くに病気で他界してしまい、以来行き場のなくなったリーザをジムゾンが引き取って世話をしているのだ。
 この国での教会は、どこの村でもたいてい孤児院を兼ねている。そのため、孤児となった子供は教会に一時預けられるのが暗黙の了解になっていた。結局、満足な施設のない小規模なこの村では、ジムゾンが親代わりとなる以外に手がなかった。
 教会の中に佇むマリア像の右手にある小さな扉をくぐり、細い廊下を抜けた先に小さな部屋が二つある。一つは、かつて書庫として使っていたリーザのための部屋。一つはジムゾンの私室だ。
 リーザは元々、とても独立心の強い子供だった。なかなか安定した職を得られなかった両親に代わり、子供にも出来る限りの働き口を自分で探しては収入を得ようとしていた。その姿勢は今も同じ。ヤコブやトーマスの出荷の帳簿づけを手伝ったり、レジーナの宿の食器洗いをしたり。あらゆるこまごまとした仕事を買って出て、やはりその代償にいくばくかの収入や物を得る生活は以前と変わらない。
 ジムゾンの「収入」は、国からのわずかな給付金を除けば教会への寄付がほとんどだ。たまに何やら文章を書いて何処かに送っているのを見かけることがあるが、筆で食べて行く野望があってそんなことをしているわけではなさそうなのはリーザにも理解していた。だからこそ余計に彼女が「働き手」の自覚を持って駆け回ることになっているのだが。

 その日、リーザが礼拝堂の片隅で遅い昼食を摂っている時、聞き慣れたメイの声が入口を開けて入って来た。
 メイは山を越えた隣町に勤める配達人で、週に二〜三度この村に立ち寄っては手紙を配達し、送りたい手紙を預かって行く。郵便拠点のないこの村では教会が集積所も兼ねており、入口入ってすぐ右手に小さな木箱を置いてポスト代わりにしていた。
 メイはいつも配達を終えると教会に立ち寄り、そこから手紙を取って町へと帰って行く。メイが教会に来る時間帯は礼拝堂に誰もいないことが多いのだが、それでも彼女は律儀にきちんと声をかけて来るのだ。
 基本的に日帰りしなければならないメイは以前から、手紙の量が多い時にはリーザに配達の手伝いを頼むことがあった。もちろん少々のお駄賃----時にはそれは飴玉一個だったりすることもあるが----と引き換えに。だから、教会に引き取られる前から二人は顔見知りだった。
「……あ、メイさん」
「リーザ、いたんだね」
 メイは破顔する。普段は入口でポストの中身を引き取ればそのまま引き返すのだが、軽い足取りで礼拝堂の中に入って来る。
「今日はお仕事はないのかい?」
「今、レジーナの宿でランチタイムをさばいて一息ついたところよ」
 自慢気にふふんと鼻を鳴らすリーザをメイは目を細めて見下ろした。礼拝堂の前から三列目。硬い木の椅子の上には食べかけのサンドイッチが広がっている。ちぐはぐな大きさのパンと、サンドイッチ用にしては細切れ過ぎる野菜と干し肉。恐らくはあちこちから余り物を譲り受けてかき集めたお手製なのだろう。
「勤労少女も楽じゃないねえ」
「ま、仕方ないわ。置かせてもらえるなりに何かはやらないとね」
 苦労を感じさせないその笑顔は明るい。だがメイにはその笑顔の裏に悲しい影を見ることが時折あった。それを指摘されるのは本人が嫌がるだろうことが判っているので、メイはあえて何も言わないでいたが。
 今日もポストには分厚い紙束が入っていた。この教会の神父は、大きな町にしかない出版社に向けてたまにそんな書類を送りつけている。
 中身が何なのかメイには知りようがないが、先日、この村の担当であるメイの所にその神父について問い合わせが入って驚いた。ジムゾンとはただの仕事上の知り合いに過ぎず、直接の面識さえもあるとは言えないほど朧だと話してその場は終わったのだけれど、ひょっとしたらこの小さな田舎村から偉い小説家先生(あるいは随筆家先生?)でも誕生するのではないかと思うと、メイはほんのちょっぴりわくわくしていた。
「神父さんはまた何かを書いたんだね」
「……うん」
 何げなく話題を振ったつもりのメイの言葉にリーザは浮かない顔をする。
「どうかした?」
「神父さまの書いていることはよく判らないから」
「見たことがあるんだ」
「ナイショよ、神父さまは見られるのイヤみたいですごく怒るの」
 リーザは慌てて手を振って弁解する。メイは小さくウィンクをして秘密を守る誓いを立てた。
「じゃ私からもナイショを一つ」
「え、なになに」
 サンドイッチをかじりながら身を乗り出したリーザに、メイは『問い合わせ』の話をする。リーザの瞳は途端にキラキラと輝き出す。
「うわあ、リーザにはまだむつかしくて判らないけど、でも神父さまの文章って意外にすごいのね」
 彼女が『父』たる神父を見るまなざしはかなり冷め切っていることにメイは気づいていた。だからこそ、そんな無邪気な尊敬を彼に知らせたくてたまらなくなる。実際は、たかが配達人の自分がそこまで他人の事情に深入りするのは良くないことだと理解しているとはいえ。
「じゃ私は行かなきゃ」
 メイは革の鞄を肩にかけ直す。神父の書類のせいで久々に少し重たい。
「うん、またね」
 リーザは軽く手を振って食事に戻った。軽く揺れている足が彼女の心を吐露している。メイはほんの少しの高揚感を胸に教会を後にした。

Before Day - Night

 夜。リーザは手垢のついた古びた本をまためくっていた。
 この本を読み返すのが何度目になるのかもう覚えていない。字も小さいし大人向けの本であることは確かだが、各地の伝承や寓話を集めたものだから、リーザにもその内容はかろうじて理解出来た。おとぎ話と割り切って読めば、字面は決して難しくない。
 書庫の一部を使わせて貰っているため、リーザの部屋は壁が見えない。見えるのは本棚とぎっしり詰まった本だけ。退屈な時はその本たちを引っ張り出して、読めそうなものに目を通すことが日常になっていた。この本もそんな探索の中で見つけた。元々ジムゾンのものだ。
 窓のある東側だけはベッドや机、背の高いクローゼット代わりのタンスといった生活用品があるが、これまたみっしりと窮屈そうに並んでいる。
 机に置かれたランプの揺らぐ光の中、厚手の毛布にくるまって、ベットに寝転がり本に目を落とす。研究家の間でも解釈が分かれると言われる難しい話。そのページの隅が丁寧に折られている。
 リーザがつけた印ではない。ついでに言えば、リーザがこの本を見つけた時には既に相当疲弊した状態だった。
 神父----ジムゾンもまた、この話に惹かれた。だからこそ本を読み込み、印をつけた。消えかかっているが黒鉛の跡も見えたので、恐らくは更に鉛筆で線を引いたりもしていたのだろう。

 月に輝く白銀----
 我が神の名は安寧、我が神の名は略奪。
 彼の身となりし我に惑う道は既になし。
 迷うことなかれ。時はやがて至る。
 逃げることなかれ。選ばれし者の僥倖を受けよ。

 選ばれし者の僥倖。ジムゾンが書いた文章の中でリーザはこの一文を見ている。当時、この本を見つける前だったリーザは、それを宗教家特有の鼻につく特権意識だとばかり思っていた。
 実際に何処の村でも神父は特権階級だ。働かなくてもわずかとはいえ国から給付が得られている。一人でつつましく暮らすならギリギリでやって行けなくもない程度には。もちろんたいていの神父はそれなりに出来た人物だし(彼らも国からの指名で派遣される立場だ)、ジムゾンもまた表向きは人徳ある人物と思われていた。
 それが----選ばれし者の僥倖、とは。
 宗教と現世利益がない混ぜになった歪んだ選民意識が彼の底にあるのだとすれば、リーザにとってそれは許しがたいもののように感じていた。
 以来、世話になっているとは言え心から眉を開くことが出来ないでいた。
 その印象が変わったきっかけは二つある。一つは、この本を見つけたことだ。
 安寧と略奪。彼の身となりし我。まるで何かの怪物に喰われでもするかのような描写。それこそが「選ばれし者の僥倖」。
 それは怪物にその身を奉げて人々を守る英雄の詩なのか、悪魔に心身を売り渡した邪教徒の歓喜なのか?
 ジムゾンがこの「寓話」に惹かれたのは何故なのだろう。自身の書く文章に一部を引用したのは何故なのだろう。
 その答えがどうしても知りたくなったリーザは、ある夜にジムゾンの私室に足を向ける。それが、きっかけのもう一つだった。

 建てつけの悪い扉は、ドアを開かなくてもリーザが覗き見る程度の隙間が最初からあった。だから好奇心を抑え切れなかったリーザは迷わず目を当て、そこに見えた光景に愕然とした。
 ぼそぼそとした声は確かに聞こえていた。だがそれが誰の声なのかまではリーザは判別していなかった。----無理もない。部屋にいたのはならず者と評判のディーターで、リーザが直接話をしたり声を聞いたりする機会がほとんどなかった相手だったのだ。
 ディーターは、あちこち毛羽立った古い長椅子にだらしなく横になり寝入っているジムゾンを、西側の窓際に立って眺めている。その目は奇妙な哀れみを湛えている。少なくとも強盗しに来たというわけではなさそうだ。
 後からふわりと香りが流れて来た。レジーナの宿ではよく嗅ぐ匂い。強いアルコール。酒の名前まではリーザには判別出来なかった。
 ドアの正面の壁に大きなデスク。その右に本棚。左手----西側には窓があり、少しズレた位置にベッドが置かれている。その横に燃えるような色の髪をした顔に傷のある男が一人。部屋の中央には長椅子と低めのテーブル。その上には酒瓶が散乱している。
 目の前の光景を素直に解釈する限り、泥酔しているのはジムゾンの方だ。ディーターは小さな溜息をついて、ぼさぼさの髪の中に手を入れて派手に引っかいている。
 その最中に、彼の手が止まる。戸惑うことなく視線が動いた。扉の隙間に。
 リーザは動けなかった。逃げるべきだという意志と、動いて音を立てたら見つかるという意志が頭の中でバラバラにわめいていた。
 その間にディーターは足音を殺してドア近くにやって来ると、ためらうことなくノブを回す。内開きの戸はかすかな悲鳴を上げて開く。逆光で表情の見えなくなったディーターの体は、リーザにはとてつもなく大きく恐ろしかった。
「なにしてる」
 低く抑えた声は脅しているようでもあり、眠るジムゾンを気遣うようでもあった。
「……声が、して……」
 喉が押し潰されていた。言葉が咄嗟に出て来なくて、ほとんど条件反射で呟くのが精一杯だった。----が。
「……悪い、起こしちまったか」
 次の瞬間の彼の言葉に込められていたのは、本当に謝罪でしかなかった。リーザは、水中からやっとのことで顔を出せたみたいだと思いながら大きく深呼吸する。
 ディーターはそのまま部屋を出る。音を立てないように丁寧に戸を閉める。薄暗い廊下で白い月明かりに照らされた男の顔は、何かを決意したように軽く目を閉じていた。

 マリア像の背後にあるステンドグラスから光が降り注いでいる。月と星しかない夜灯りがこんなにも明るいとはリーザは考えたこともなかった。夜は闇だと、誰もが思っている。でももしかしたら、目を閉じているがゆえに何も見えなかっただけなのかも知れない。
「----あいつは、心を病んでいる」
 一段高くなった祭壇の床に腰を下ろしたディーターの声はひどく重かった。
「オレがここで自警団みたいなことをやらされてんのは知ってるな」リーザが頷いたのを確認して言葉を継ぐ。「あいつは、時々前後不覚になるまで泥酔して外をフラついてんだ。夜中にな。ぶつぶつと不敬な言葉を呟きながら。全く、とんだ神父さまだよ」
 夜に酔って騒ぐ輩がいるという話はリーザも噂で聞いていた。しかもその話をした村人は、名指さないまでも全員が全員ディーターだと思っている節があった。そもそも、そういう人間だと思われているからこそディーターは変な同情をされ、仕事を融通されてしまった、とも言える。真っ当な仕事をすればそんなことはしなくなるという親切心だ。
「そのたびにオレが連れ戻してる。だからまあ、いいんだけどな。他の村人に知られるよりはオレの方がマシだろ。これでも口は堅いし」
「リーザに教えてくれたのは、どうして」
 ディーターは唇を歪ませる。「知っておくべきだからだ」
「……ごめん、よくわからない」
「いいんだ。今はわからなくても。とにかく、知ってるべきなんだよ。リーザはもう大人だからな」
 彼は真っ直ぐに射るような目をしていた。
 リーザに対して使われる「大人」にはいつも正反対の意味が込められている。子供なのに一人前に働いていて大人のようだとか。本来は子供だからしなくてもいい苦労を背負っているから大人だとか。だがこの男の言う「大人」は違う。少なくとも、今この瞬間に吐かれた「大人」は。
「……うん、わかった。知っておく。----それでいい?」
「ああ」
 その時になって初めて、この男がそれでも微笑んでいるつもりなのだとリーザは気付いた。くしゃりと片方だけ曲がっている頬に一瞬だけ光が走る。
「でも、その……心を病んでいる、って」
「少なくともあいつは神父向きじゃなかったんだろうな。昼間は神を崇めて夜は神を罵る。実際のところ、夜の方があいつの本音なのかも知れないし、本音だからこそ救われたくて神学校に入ったのかも知れない。真相は直接聞いたことはねぇけど、自己矛盾に切り裂かれている自分をごまかすために酒に走ったんだろうと思う。
 ま、結局酒飲んでもやってることは変わらねぇというか……むしろひどくなってる気がすんだが、でももう----戻れないだろうな。ああなっちまうと」
「神父さまは----自分でお酒を手に入れることなんか出来なかったはずだけど」
 村人の一人としてのリーザの認識では、彼は下戸だった。だから夜の宿にも滅多に顔を出すことはない。
「オレだよ、戦犯は」
 ディーターの言葉にリーザの顔から血の気が引いた。
「神父さまに渡すために手に入れていたの!?」
「言ったろう。戻れない。ああなっちまったらもう、それ以外にバランスを保つ方法なんかない。オレより前にも『戦犯』はいたぜ。それが誰なのかは知らねぇけど」
 長い溜息が男の口から洩れる。リーザは言葉を探そうとしていた。でもどう言えばいいのか判らない。どうすればいいのかも、判らない。
「だから『心を病んでいる』んだ」
 混乱していたリーザの頭には、それがすんなり入って来なかった。
「……依願退職すべきだ。少なくともオレはそう思う」
 遠慮がちに言い切る。それが引っかかりをすとんと取り払う。
「村長さんと同じようにってことね。病気を理由に一線から離れろってこと?」
「リーザ」
 ディーターの顔から微笑が消えている。
「隣町にヴィンセントって医者がいる。ちょっとしたことで知り合いになったんで、頼めば何とかしてもらえるかも知れない」
「何とかって」
「診断書だよ。国に対して退職を打診するなら必要になる」
 リーザはこくんと頷いた。ディーターは口にしないが、当然『偽の』という言葉が省略されているのだろう。
「だが、オレがそれを神父に話したところであいつが素直に受け容れるとは思えない」
 わかるな。リーザは大人だから。
 言外の意味がリーザに沁み込んで来る。そうだ。それを勧められるのは、諌められるのはリーザしかいないのだ。
 誰もが尊敬する清廉潔白な神父さま。その顔しか知らない人間に言われても、そらぞらしい心配以上にはなりえないのだから。
 身内だもの。これでも彼の娘だもの。
「----うん、わかった。その……ヴィンセント先生の連絡先を教えておいてくれる?」
 力強く頷いたリーザの頭をディーターは軽く撫でる。そして、ペンで何かを書く仕草をして見せた。リーザは手を挙げて待っているように合図すると、自分の部屋に手帳とペンを取りに戻った。


1st Day - Early Evening

 農夫ヤコブは空を見上げていた。昼から夜に移り変わる空は紫色に染まっている。
 今年の雪は少しだけいつもより遅い。雲の流れに風を読みながら彼は思う。それだけ色々なことに猶予が与えられたと思えば幸いだが、同時に春がいつもより遠くなりそうな気配も感じていた。
 ヤコブが所有する食料庫は決して彼一人だけのものではない。蓄えられた食物はこの村の富の一部であり、村人が冬を越すための生命線そのものだった。ヤコブは決して自身が豊かになることにその財を使うことはない。飢えて春を待つ人々のために、わずかな対価と引き換えに、貯蔵された小麦や野菜----保存の効くイモ類などに限られてはいるが----を惜しげもなく提供し、春のその貯蔵庫には、自身が秋まで食いつなぐ分を除いて、ほとんど何も残らない。
 それがこの村での農夫の生き方だから。彼が自身のやり方を疑ったことは一度もない。これからも、そんな生き方以外を選択するつもりはなかった。
 夕闇に飲まれた太陽を見送って、ヤコブは大きく息を吸う。薄れ行く熱の代わりに瞬き始める星を数える。冷たい光の配置が増えるにつれ、それが表す凶兆は鮮やかなほど目に映る。
 農夫は俯いた。見たいわけではないのに。でも見ないわけには行かない。見えるのが自分だけだと知っているから。
 ----農夫だから、天候を読むために空を読まなければならないのは職業柄当然で、だからこそ季節の移り変わりに敏感だ。彼は村人から空読みと呼ばれる。ヤコブは雨を予知し、嵐を予見し、雪を予報する。全く知性的な裏づけのない勘ばかりの彼の言葉は、それでも驚くほどよく当たる。だからこそ彼は頼りにされている。
 ごく一部の村人だけは、ヤコブをまた別の名で呼ぶ。----星読み。それは宿命的な凶兆が見えてしまう不幸な能力。空の星に運命を()、人の『芯』に悪性を視()る。
 ただ、視えてしまっても彼がそれを口に出すことはほとんどない。特に人の悪性は。この村のように小さな社会では、互いを信じることでしか生き残れない。疑心暗鬼は持ち込まれた途端に病理となる。またたく間に広がってやがては必ず村を滅ぼす。ことが起こるまでは、見て見ぬふりをするしかない。それがたとえ綱渡りの平和でも、平和である限りはそれを崩すつもりなど彼にはない。それが彼なりの、ここで生きて行くための処世だった。

「……こんばんは、農夫さん」
 丸く甘い声に呼ばれてヤコブは振り返る。全身を緑のマントで包み同色の帽子を深く被った男----いや、女かも知れない----がそこに立っていた。この村では見ない相手だった。
「この村に宿はありますか? 一週間くらい滞在したいのですけど」
 声だけでは性別の区別もつかない。マントから見える足は編み上げのブーツ。使い込まれている感じがする。男物に見えなくもないが、女が履いていてもおかしくはない。
「……宿ならあの辺だ」
 村の中心部。一番高い建物が教会の十字架と宿屋だから、そちらにマントの人が目を向ければすぐに納得するだろう。
「ああ、なるほど。教会も近いんですね」
 帽子の下からは口しか見えない。晩秋の寒空の下を歩いて来た割には紅い唇。化粧の色ではない。それでもヤコブにはこの人物が女性であることをほぼ直感した。人の『芯』が視えるゆえの直感。
「ありがとう農夫さん。----ええと」
「俺はヤコブ」
「私はニコラス。宿に食堂はありますよね。案内のお礼に一杯奢らせて下さい。待ってますから」
 ニコラス----男性名だ。そう名乗られれば多分誰もが彼女を男だと思うのだろう。体の線を隠すのも帽子で顔を隠すのも、声のトーンを抑えているのも恐らくそのため。
 女性の一人旅が危険だから。ありきたりの理由で片付けるべきそんなことが、ヤコブには何故かすんなりとは飲み込めなかった。
 全ては星のせいだ。
 空にトレースされて行く記号。立ち去る旅人の頭上に、悲鳴に似た軌跡を描いて星が一つ落ちた。


1st Day - Night

 旅人が宿に来ている、という噂は、あっと言う間に狭い村を駆け巡った。ただでさえ物珍しい物事に村人は飢えている。日がとっぷりと落ちた頃にチェックインしたニコラスが食堂兼バーで食事を摂ろうとする頃には、そわそわと落ち着かない視線の渦に真っ向から晒されることになってしまった。
 ニコラスにとってそれはいつものことだ。この程度の規模の村なら何処でも判で押したように反応は同じ。だからこそ下手に隠し立てることもなく身分を明かし、雑談に応じる。建物の中でも帽子やマントを取ることのない見かけの怪しさは、話で帳消しにする。疑われないための経験則だ。
「……じゃお仕事で来たのね」
 宿の給仕を手伝っていた十歳前後の小さな少女----リーザと名乗っていた----が目を輝かせながら話に食いついて来る。子供の方が遠慮がない分だけ相手にしやすい。
「そうですね。出版社と言っても本当に小さな所なんですけど」
「でもすごい、神父さまの文章ってちゃんと読んでもらえてたんだ」
「面白いと思いましたよ。社が私を派遣して話をしたいと思う程度にはね」
「なんだ、出版が決まったってわけじゃないのね」
 心の底からがっくりした様子のリーザに、周りの村人が和やかに笑う。
「だけどホントにすごいんだな、神父さまは。なんだか物静かで得体が知れないと思ってたけど、実は文筆家センセーだったんだな!」
 心の底から感嘆したようにしみじみ頷いたのは少し色の白い青年。周りからオットーと呼ばれていた彼はさっき、朝食用にとパゲットを籠一杯に下げてやって来てからずっと居座っている。恐らくは宿と同じ通りに面して建っていたパン屋なのだろう。
「得体が知れないって、失礼だなお前は」
 体格のいい灰色のヒゲ面の男は、トーマスと呼ばれていた。この季節にしては少々薄着が過ぎる綿のシャツを、それでも暑そうに上半分のボタンを外している。宿の女主人に薪がどうこうと話をしていたので、木こりか材木商。ただその体格を見る限りは前者に見える。
「うち教会には行かないから。仕事以外で付き合いないし」
 肩を竦めてオットーが答え、
「元々この村の出身じゃないからねぇ、オットーは」
 フォローするように女主人----レジーナが口を挟む。
 イントネーションがかすかに違うように聞こえていたのはそのせいか。当てはまる村の名前のいくつかがニコラスには簡単に思い浮かんだ。
「どうしてここでパン屋さんになったんです? 失礼ですけど、修行とかなさる気なら、もっと……」
 ニコラスが言い淀んだ先の言葉を、オットーは笑顔で掬い上げる。片えくぼが一瞬だけ頬に刻まれる。
「うちはここの小麦が性に合ったんだな。あと、水も」
 ちらりとだけ目を向けた先にはさっきの農夫がいた。奢るという約束を違えず来たはいいが、グラスはほんの少しだけ残して放置されたまま。本人はテーブルで船を漕いでいる。考えてみれば朝が早い仕事だ。こんな時間でも彼には充分きついのだろう。
「旅人さんも食べてみるといいんだな!」
 レジーナに渡した籠はカウンターの隅にそのまま置かれていた。オットーはその籠の奥の方から小さな丸いパイを取り出してニコラスに差し出して来た。
「ダークチェリーとシェーブルのミニパイ! 新作! 特別に差し上げるんだな!」
「あたしの宿にくれたんじゃなかったのか?」
「旅人さんには親切にするものなんだなー」
 ニコラスが受け取ったのを確認すると、ふんぞり返って説教でもするみたいに言い放つ。その口調にまた村人たちが笑う。
「出来立てなんですよ、そのシェーブル」
 横で編み物をしながらにこにこと聞いていた物静かな女性がニコラスに声をかけて来た。それでやっとつながった。シェーブル----山羊の乳から作られるチーズ。ヤコブの畑よりも少しだけ離れた郊外で羊と山羊を何匹か見かけた。その時に彼女の姿も見たような覚えがある。
「あなたは羊飼いさん?」
「はい、山羊と羊と羊毛で生計を立てています。カタリナです」
 編みかけの何かを軽く上げて見せる。よろしく、と穏やかに挨拶すると、彼女はまた目を落として熱心に編み棒を動かし始める。
「これは明日の朝ごはんにいただこうかな」
 呟いた声に頷いたレジーナが油紙を差し出して来た。
「乾いちまうともったいないからね」
「ああ、ありがとう」

 なんて優しい人たちだろう。なんて温かい人たちだろう。
 だから彼は迷ったのか。目覚めることにためらったのか。
 ----『触媒』に触れてしまえば、もう後に戻ることなど出来はしないのに。


1st Day - Midnight

 ヤコブは彼女を()ようとしていた。
 がやがやと賑やかな間はほんの浅い仮眠を取る。人がそれぞれ家路について、食堂に響くのは皿を洗う音とリーザの鼻歌だけになった頃に、大あくびと一緒に目を覚ます。
「やっと起きた……」
 歌声が止まる。駆け寄って来るリーザが膨れてグラスを押し出して来た。
「旅人さんがせっかく奢ってくれたのに。ぬるくなっちゃったよ」
 濃い色の赤いワイン。ヤコブは曖昧に笑う。ぐるりと部屋を見渡してももう誰もいない。
「片付かないから飲むのかどうするのか決めてっ」
「いただくだよ」
 残りを一気に飲み干す。今年は出来がいいと毎年言っている行商人アルビンの顔がちらりと浮かぶ。少なくとも今年についてはそれは嘘ではなかった。
 リーザはグラスを下げて行く。レジーナは、遅くまで悪いねとリーザを労い、リーザは楽しかったから平気と声を弾ませる。
「旅人さんは」
 ヤコブの問いかけに、皿を拭いていたリーザが肩を竦めた。
「散歩だって。こんな寒いのにね」
「大勢に質問攻めにされて疲れたんだろう。一人で外の空気を吸いたくもなるさね」
 レジーナは物憂げに肩を鳴らしながらヤコブに近づいて来る。
「で、いつまでいる気だい」
 ひくりと頬を引きつらせた微笑みにヤコブは苦笑した。
「……いや、もう出るだよ。悪いな」

 その力が一番強まるのは深夜。だから視たい『芯』がいる時はいつもこんな風に二度寝する。
 気味が悪いくらいに頭が冴えていた。見上げて納得する。満月だ。真っ白に澄み切った冷たい月。
 こんな日は何もする必要がない。視ようとする努力も要らない。濁りがあれば勝手に向こうから飛び込んで来る。星が知らせてくれた凶事がそれであれば、もう何も知る必要はない。
 外からの侵入者。この村の危うい均衡の上に築かれた平和を壊すもの。ある意味、ヤコブは彼女を待ち焦がれていたのだ----自身の存在意義として。
 目の前を行く背中が見えた。落ちる光の中で静かに並ぶ夜のものたちとは明らかに異質のモノ。
 邪が視える。空を行き交うのが視える。餌食を探しているのが視える。ヤコブの頭の中に小さな釘が刺さるイメージ。ガツンと。その釘はやがて太くなる。ミシリと音を立ててヤコブ自身を食い荒らそうとする。
 ----遮断する。
 吐き気が襲って来た。グラついた足元を立て直そうとした時、ようやく気配に気付いたとでも言いたげにゆっくりとニコラスが振り返った。
「そうか。あなたが『星読み』なんだね」
「--------」
「私は『星読み』にはよく会うから。色々とカンが鋭くなってる。その分じゃ村人たちにはまだ誰も話していない?」
 答えるべきではないのが判っている。少なくとも『彼ら』はこちらの心を読むことなんか出来ない。
「全く。どうしてのこのこ出て来ちゃうのかなあ? もう少し推理を楽しませてあげようとか、そんな風には思わなかった?」
「必要ないだ」
 ----この村は滅ぶ。『彼ら』に目をつけられてしまったら。人が互いに信頼することでしか生きられなかったこの村は。おとぎ話のようには簡単に人を殺せるはずがない。
 この旅人はともかくとしても----残る片方が、彼である限り。
「さあ、どうでしょう。実際のところ、村人たちが危機感を感じることが出来れば、少しは考えるんじゃないかなって思うけど」
「じゃあ危機感を煽ればいい」
「どうやって?」
 唇だけの顔が微笑む。目に見えぬ矢のように突き刺さる緊迫。
「もう決めているんだべ」
「そうですね」
 ニコラスは帽子を外した。耳元辺りまでの短い髪は、月に輝く白銀。
「----あなたは役割を終えている」
 ヤコブは目を閉じた。自分の耳元を掠めた爪が胸から腹に振り下ろされる。その時には既に感覚などないはずの手足が、それでも寒くて冷たいと、ヤコブは最期にそう考えていた。

2nd Day - Morning

 翌朝。一番最初にその血だまりを発見したのがディーターだったことは不幸中の幸いだった。朝早くから仕事をしに行こうとしていたトーマスを捕まえ、既に残骸としか呼べない遺体と血とを、人目----特に子供たちの目から遠ざけるように片付ける。そのまま二人してレジーナの宿に飛び込み、呑気にコーヒーをすすっていたモーリッツを見つけて事の一部始終を報告した。
 レジーナもまたその話を耳にして一瞬凍りついた。やがてカウンターから大柄な体を乗り出して来る。
「……本当にヤコブなのかい」
「やり方が悪趣味過ぎる。デスマスクみたいにわざわざ顔を残してんだ。その他は全身喰い尽くしてやがるのに……何なんだアレは? 野犬にしちゃ恣意的過ぎるだろ」
「ならば人がやったとでも言うのかの?」
 老人モーリッツは物静かな目でディーターとトーマスを代わる代わる眺めている。
「少なくとも、ヒト並に考えられる何かでなければ出来ない----と思う」
 トーマスは口元をきつく結んでいる。嘔吐感を堪えているように見えた。
「そうか。『彼ら』がここにも来てしまったのじゃな……」
「あ? 心当たりがあんのか、じーさん」
「……残念ながら知り合いではないがの」
 言葉の途中で食堂のドアが軋む。現れたのは油紙で包まれたミニパイを手にした旅人。その場の殺伐とした空気を察したのか、入るのを躊躇うように足を止めた。
「ニコラスさん、あんたは無事だったんだね」
 レジーナに問われてニコラスは首を傾げた。
「----無事、とは?」
 ディーターが後を継いだ。
「ヤコブが昨夜殺された----のか、食い荒らされた、のか、まだ結論は出てねぇけど……。要するに妙な死に方をした」
 旅人はぴくりと手を震わせる。ディーターはそれを見逃さずに更に畳み掛けた。
「あんた見たのか? 何か知ってんのか」
「いえ、何も見ていません。ただ----」
「ただ?」
 責めるような声色と共にディーターはニコラスに詰め寄ろうとする。
「他の村で噂を聞いたことがあって。人狼、とかいう化け物の」
 モーリッツは軽く頭を振った。
「旅のお方。よろしければ話をしてもらえませんかな。わしらはこの村からあまり出たことのない者ばかりで、世間の話には疎いのですじゃ」

2nd Day - Afternoon

 その日の午後に人々は宿に集められた。ペーターやリーザも。来ていないのは寝ついている村長だけだ。
 食堂のカウンターに座ったニコラスは、モーリッツに問われながら人狼についての「事件」をいくつか話した。
 普段は人の姿をした化け物が、夜に人を喰い殺す。その化け物に襲われた村は、人狼と思われる者を会議で決めて処刑することで村の危機を救おうとした。ある村ではうまく人狼を処刑することで村は助かった。ある村では人狼が議論を攪乱して無実の人々を処刑に追いやり、残る村人を自分たちの餌食として葬り去って村を捨てた。
 まるで現実感のないおとぎ話。大人たちは半信半疑で互いに目を見合わせている。ディーターとトーマスだけはニコラスの言葉に確かな説得力を感じていた。ペーターはモーリッツにしがみついたままずっと震えている。リーザは嘘があるなら見破ってやりたいとでも言いたげな激しい瞳でニコラスを睨んでいた。
「……私は何度かその『現場』に立ち寄ったこともあります」
 大人たちの頭が再びニコラスに注目する。
「ヤコブさん、拝見しました。あの殺され方は----確かに人狼の仕業に間違いはないでしょう」
「じゃあ、この村でも、それをやらなきゃならないの? 誰かを疑って、処刑するだなんて! それしか、助かる方法はないの!?」
 リーザが叫んだ。唇を噛んでいる。シンと静まり返った食堂に、かすかに湯を沸かす音だけが流れる。
「そうですよ、リーザ。助かりたいならね」
「むちゃくちゃだわ。ここはみんなが身を寄せ合って生きて来たの。ヤコブさんがいないだけでも私たちには痛手なのに。この冬さえも生き延びられるかどうか判らないのに!」
「リーザ、落ち着け」
 ニコラスに食ってかかろうとするリーザを、ディーターが羽交い絞めで止める。その悲痛な訴えは実のところ全員の危惧でもある。
 そんなことに本当に意味があるのか。この村は、物々交換や労働力の提供で、うまく歯車が噛み合って生きて来た。たとえ誰が人狼であろうとも、昨日までのように、他人に危害を加えることなく共存する道を取ることはもう無理なのか。
「----やらなきゃならないんなら」
 ディーターに押さえつけられたままのリーザ。
「やらなきゃならないんなら、あなたを処刑するわ、旅人さん」
「リーザ、何を」
 驚いて椅子から立ち上がったのはオットー。
「だってそうでしょう。この中で」リーザは小さな手でテーブル席を囲むように円を描く。ニコラスはその輪には入らない。「誰が人狼だとしても、今までうまくやって来れてたじゃない! それの何処がいけないの? 旅人さんが来なかったら、リーザたちは今までと同じように冬を越せてた! そうでしょう!?」
 再びの沈黙。人々の目が一斉にニコラスを見つめている。それは疑いのまなざしではなく、一様に、絶望に追い詰められた者が出すすがるような色をしている。
「私が人狼なら」ニコラスは静かにリーザを見ていた。「こんな話をするより先に全員を喰い殺すでしょうね。その方が怪しまれない」
「----っ」
 ディーターの手の中でリーザの全身から力が抜けた。
「うん。自分は殺人犯ですと宣伝しながら人殺しをするヤツはいないんだな……」
 オットーもまた気が抜けたように椅子に座り直す。
 重苦しい沈黙が宿に満ちた。誰も眉一つ動かさなかった。
「……そうか。私はこういう星回りだったのかも知れませんね」
 ぽつりとニコラスが言葉を落とす。その場の全員が意味をつかみあぐねていた。旅人は長い溜息をついた後に、丸い割によく通る声で村人たちに向けて宣言した。
「私は『星読み』です。仕事でここに来ると決まった時からわずかな兆候は()ていたのですが……。恐らく、この力を皆様のために生かせという天の采配なのでしょう」
 村人たちの顔が急に明るくなった。星読み、それは凶事を正確に言い当てたり、人の本性を見抜くことの出来る才能だと、そのくらいの知識であればこの国では常識だったからだ。
「それは頼もしいのう」
 それまでずっとしかめっ面だったモーリッツが柔らかに破顔する。それを皮切りにあちこちから安堵の溜息が洩れ出した。
 この日の夕刻から、ニコラス主導で人狼の対策会議を開くことがその場で決まった。処刑についてももちろん考えるという前提で。疑うことは辛い。だが『星読み』という判別手段がある限り、無実の者を処刑しなくて済む。そんな安心感が話をスムーズにした。
 ----ただ一人、リーザだけは、まだ何かを疑うようにじっとニコラスを見つめていた。


2nd Day - Early Evening

 リーザはヤコブの畑を見渡していた。
 収穫は既に終わっている。周りに生えていた下草もカタリナの羊たちのために刈り取られ、小さなサイロの中で眠っている。
 彼は、今年の冬に備えた全ての仕事を終えていた。まるで何もかもを覚悟していたかのように、その光景は整然としている。寒々しいほどに。
 広大な小麦畑の西側に建つサイロをぐるりと回り込むと、その裏手に小さな小屋がある。柱も壁も少ないがらんとした家はヤコブが普段暮らす家で、その家よりも存在感があるどっしりした食料庫が隣に建っている。大きな南京錠が二つ並ぶ重たそうな木の扉がしっかりと中身を守っていた。
 ヤコブ自身の家には鍵がついていない。彼には育てた作物以外に金目のものなど何もないからと自分で言っていたのを思い出す。
 ドアは開け放たれていた。リーザが覗き込むと、古びた木のテーブルと二脚の椅子以外に家具らしい家具は何も目に入って来なかった。部屋の暗さに目が慣れてから、奥に簡素な台所と、物置か何かの扉があるのが見えて来る。
 そのそばにレジーナがいた。
「レジーナ、どうしたの」
 リーザの声に彼女は手を止めて振り向いた。悲しみと怒りがない混ぜになった涙の跡。
「……頼まれてたんでね。色々と」
「ヤコブに?」
「ああ」
 頼まれていた----それはまるで。リーザは畑の寒々しさを思い出して少しだけぞっとした。知らずふるっと体が震えたリーザを見て、レジーナは面白くなさそうに片方の唇だけを上げて見せる。
「『星読み』はね----」
 台所の引き出しから、レジーナは小さな紙片を取り出した。ちらりと目をやってから言葉を続ける。
「来てみてから自分の星回りに気付くなんてことはないと、あたしは思うんだよ」
「……どういう、意味」
 また背筋がぞわりとした。穏やかでにこやかな旅人の言葉を反芻する。
「少なくともあたしの知る『星読み』は、自分自身のお役目と限界だってちゃんと星から読み取ろうとしていた。だからこそ何も持とうとしなかった。財産も、地位も、何もかも」
「--------」
「自分が何をして何処へ行くべきか、理解していたから----余計なものは何ひとつ遺しやしなかったんだよ。いや、遺せないと理解していたんだよ」
 部屋を見渡す。レジーナが何を言いたいのか、リーザにももう判っていた。
 『星読み』はいたのだ。季節の変化が激しいこの村にとって、日々の生活の中で一番の凶事は天候だから。だから『星読み』は空読みになった。それが自分に与えられた役目だと知っていたから。
「これが彼の唯一の遺産だね……」
 レジーナはさっき取り出した紙片をリーザに見せる。まだ学校にも行けない年の子供が書いたような歪んだ筆跡は、大人になってから必要最低限だけ読み書きが出来るようになったと笑っていたヤコブの手だとリーザにもすぐ判った。ところどころ文字の左右が反転していたり、線が一本少なかったりするのもいつものことだった。
「----しんぷさま は やみ に とらわれ……」
 リーザはつかえながらその言葉を声に出した。出してから解釈するまでに、ほんの少しだけ間があった。
 神父は闇に囚われている。
 リーザはレジーナを見上げた。レジーナの瞳の中で、怒りよりも悲しみが強くなり始める。
「私にはどうすればいいのか判らない。たとえ人狼なんてものが本当にいたとしても、神父を村人の判断で私刑に追い遣るなんてこと、本当にしなきゃならないのかい?」
 しなければならないのだろうか。そうしなければまた誰かがヤコブのように殺されるのか。
「でも、どうして今になって……」
 リーザにはそれが解せない。少なくともリーザが物心ついた時にはジムゾンはこの村に赴任していた。確かに物静かで必要以上には人と関わらない男だが、それでも村人に危害を加えるようなことはして来なかった。
 そう、まるで彼を待っていたようではないか----旅人ニコラスを。
 もしそれがまた星読みの『遺産』の一つなら。
 リーザがそうしたように、彼の出現を、彼の存在を疑えというメッセージそのものに見える。
「やっぱり、あの旅人さんは……何かあるんだと思う」
 ぽつりと呟いたリーザに、レジーナは否とも応とも答えなかった。ただ、彼女の目の中にある決意は、明らかにリーザの言葉に頷いていた。

 リーザは村長の執務室を訪ねた。そこに行けばモーリッツに会えることが判っていたから。長老は目をしばしばさせながら何かの書類に熱心に目を通している最中だった。
「モーリッツさん、今よろしいですか」
「……おおリーザか。かまわんよ。コーヒーでも淹れようかの」
 僕がやるよぉ。隣の部屋から無邪気な声が響いて来た。頼んだぞ、と目を細めてモーリッツが返す。ぱたぱたと軽い足音はペーターだろう。
 リーザは勧められるままに革のソファに腰を下ろす。モーリッツも向かいに座る。
「あの、ヤコブさんの家と貯蔵庫なんですけど」
「……うむ」
 彼も考えてはいたのだろう。幼い子供を見る優しい目が一気に沈んだ。
「どちらにしても誰かが管理しないと、人狼騒ぎが無事に済んだとしても冬が越せないです。村の共有財産にするなりなんなり対策を取らないと」
「その通りじゃな」
「それで、あの」
 リーザはつんのめるように言葉を探していた。この村では皆誰もが忙しい。役割を果たすだけでプラスアルファの余裕がある人は少ないのだ。
「リーザではダメですか。ヤコブさんの帳簿づけお手伝いしたこともあるし、何がどのくらいあるのか、リーザは把握しているつもりです。もちろん、お役目としていただいたならちゃんと再調査して、きちんとします。大人はみんな忙しいから、だからリーザが」
「ディーターに任せてみるかの」
「は……へ?」
 予想もしなかった名前にリーザは呆気に取られた。危なっかしい手つきでコーヒーを手に部屋に入って来たペーターが、そのぽかんとした顔を見て不躾にけらけら笑っている。
「この騒ぎでみんな不安になっとるな。この冬が越せるかどうかも怪しいとリーザでなくても思うだろう。こんな時はの、出来心が生まれやすい」
 リーザはちらりとそんなペーターを睨んだだけですぐモーリッツに向き直った。
 言葉の意味を咀嚼しようとして、悲しい疑惑に気付いて唇を噛む。考えたくはないけれど、考えなければならない可能性。
「----用心棒が必要、ということですね」
「そうじゃの。少なくとも今しばらくは、公平であるためには力が必要になる。もちろん、リーザがディーターを手伝いたいんならわしは異議を唱えたりせん」
 モーリッツは、どっこらしょ、とかけ声つきでソファから立ち上がる。ペーターの頭を軽く撫でるとその手をつなぐ。
「ヴァルターに一言相談してみるで、すまんがディーターを探して来てくれんか。墓掘りを頼んでいたでの、サボってなければ墓地にいるじゃろ」

 ディーターはモーリッツの言葉通り、悪態をつきながらもトーマスと二人で墓を掘っていた。リーザがモーリッツの用向きを伝えると、うんざりしたような顔で空を見上げて舌打ちをする。
「……ったく、なんでもかんでもオレにやらせりゃいいと思いやがって、あんのジジィは」
「そうじゃないよぉ、頼りにしているってことだと思うんだけど」
 誠意が伝わらないのはもどかしい。リーザもなんだかんだ言って色々とディーターのことは頼もしいと思っているのだ。
「はいはい、そういうことにしといてやるよ」
 シャベルをぐさりと地に突き立てる。話を聞いていたトーマスは何もかも判ったと言いたげに軽く何度か頷いてみせた。
「んじゃちょっくら行って来る。リーザ、日が暮れる前に教会に帰れよ」
「それより先に宿に行かなくちゃ」
「……あ、そうだったな。ったく、めんどくせぇな……」
 ぶつくさ言いながらも手を振ってディーターは去って行く。午後のほんのりした温度ももう急激に冷え始め、時間帯は夕刻へと突入しようとしていた。


2nd Day - Evening

「彼は人狼ではありませんよ」
 ニコラスの声に、宿に集まった誰もがほうっと安堵の息を吐いた。
 星読みの力にも限界があり、一晩に一人しか人の本性を見ることは出来ないと村人たちは知らされていた。ニコラスがその日に見たのはオットーで、結果は白。村人たちは確実に人狼でなければ処刑などしたくないと一様に思っていた。だからこそ、これで----少なくとも今夜は----誰も手にかけなくて済むことに安心していた。
 ただ、当のオットーは、自分の無実を聞いてもあまり嬉しそうではなかった。
「それ、うちを疑ってたってことか、旅人さん」
「逆ですよ。あなたは目立っていたし、皆にも慕われている。早々に人間であることを確認したいからこそ読ませてもらったんです」
「そういう理由ならモーリッツやディーターの方が相応しかったのに。モーリッツは今や臨時村長だし、ディーターはなんだかんだで村の安全を一手に引き受けている立場だ。二人が人狼だったら村は大混乱なんだな」
 名指された二人は動じなかった。モーリッツはしわがれた手を軽く挙げてニコラスの注意を引く。
「のう星読みさんや。誰を占うかは会議で決めた方が良くないかの。もし本当に人狼がいるなら、処刑なんぞなくても村人は減ってしまうということだ……やはりの、やると決めたからには積極的に人狼を探す努力をしなければならないだろうて」
「ええ、そうですね」
 きゅっと結ばれた唇だけでニコラスは頷いた。
「モーリッツ、それって……誰かを疑え、ってことになるな」
 トーマスの声は重苦しかった。そんなことを考えてみたこともなく、心外だ、という彼の気持ちは痛いほどに伝わっていた。
「それしかないんじゃろう……こうなってしまったからには」
「ふん。そんなことを言い出されると、逆に何かあるんじゃないかと俺は疑いたくなるな」
 ニコラスを除く全員がぎょっとしてトーマスに注目する。モーリッツは溜息をついて手を額に当てて俯いた。
「やれやれ……。お前さんはどうなんじゃ。こんな年寄りに言いがかりでもふっかけなければならない理由があるのかの?」
 会議の視点は二人の間を往復した。トーマスとモーリッツ。その目は疑いと信頼の狭間に揺れるとともに、自分が対象外になれそうだという安堵の光も漂わせている。
「ニコラス、あんたはどう思う。俺たち二人のうち、見たいのはどっちだ」
 トーマスの大声は、距離があっても詰め寄られるかのような迫力を伴っている。
「……トーマスさんでしょうね。先に言いがかりをつけたのはあなたですから」
 ニコラスの返事に大男はみるみる顔を赤くして椅子を蹴った。ディーターが彼の前に立ち塞がって宥め、椅子を戻して座らせる。
「恐れることなど何もないでしょう、私に見られて困ることでもあるんですか?」
「ないな。見たいなら見ればいい。無駄になるだけだが」
 トーマスは腕を組んでむっつりと目を逸らす。
「判りました。今夜はあなたの本性を確認させてもらうことにします。皆様も、それで宜しいですか」
 トーマス以外の全員が仕方なくといった風情で挙手して賛成する。その日の会議はそれで終了した。

2nd Day - Midnight

 血の色。目を閉じるたびにオットーは、闇よりも先にその赤を思い出す。人狼という忌わしい化け物の記憶から逃れて、夢に見ることもなくなるまでに五年の歳月がかかった。それでも、ふとしたきっかけで目の裏側にそれが蘇る。
 五年ぶりに訪れたきっかけ。----オットーはちらりとだけレジーナの宿に目をくれると、その前を足早に通り過ぎて歩く。冷え切った夜風の中の方が、余計なことを考えなくて済むと思ったのだが、結局そんな努力は全て徒労だった。
 血の色。それは、自分自身を呪いながら人を喰らうことを止められなかった妹の唇の色。だんだん返り血を避けるのがうまくなって行くの。泣きながら笑い、笑いながら叫び、彼女は全てを喰らい尽くした----自分の兄であるオットーだけを残して。
 オットーが知る限りでは、この国で史上唯一。私刑という方法で妹を殺すことが出来なかった村人は、甘んじて滅びの道を受け容れた。
 ----そう。今のここと同じように。
 大陸の端と端。離れていたから。ここに辿り着いてパン屋を始めたのは、そもそもそんな理由でしかなかった。逃げたかった。妹を守るためにたくさんの嘘をつき、妹を守るために正論を振りかざして私刑に反対した。その結果どうなるかなんて、すぐそばにいる妹を見れば判っていたはずなのに。
 それでもそうするしかなかった。
 妹は引き裂かれた。お兄ちゃんは殺せないとさめざめ泣いた次の瞬間には、オ前ハ役ニ立チソウダカラ生カシテオイテヤルと嘲笑された。そのどちらも妹の本音であり、オットーの本心だった。
 最後に残っていた時にはどちらだったのかもう覚えていない。人狼のために役立つことで命乞いをしたのか。ただ妹を守ろうとするがゆえに地の底に自らを落としたのか。
 ----また血の色が来る。無関係だったはずのこの村にいてもなお、その宿命から自分は逃れられなかった。
「こんな時間にお散歩ですか」
 宿から街道沿いに少しだけ離れて月を見上げていたオットーは、その声に何気なく振り返る。
 頭の中で何かがキンと音を立てる。封じられた記憶の扉。五年ぶりに意識させられる、息苦しいほどの胸騒ぎ。
「旅人さんこそ」
「星読みが星を見上げるのはそんなにおかしなことですか?」
「……ああ」
 オットーがいたあの村には星読みがいなかった。あるいは、名乗り出る前に襲われてしまっていたのかも知れない。だから、星読みというものがどう行動する人なのかも、オットーはよく知らなかった。
 星読みの情報を頼りにする必要が、あの頃はなかったのだ。少なくともオットーは。人の本性も凶事も、答えは誰よりも歴然と目の前にあったのだから。
「オットーさん。あなたは大陸の西の方のご出身なのでしょう?」
 こくりと頷いてみせる。言葉のイントネーションからよく言われることだ。慣れている。
「もしかしてあの村のご出身ではないのかしら。五年前に人狼に滅ぼされた----『忘れられた村』の」
 びくりとする。目を見開く。声が上ずるのを自分でも止められなかった。
「……なん、で……」
「言いましたよね。『現場』に立ち寄ったことがあると」
 アイリーン。喉元まで出かけた名前を辛うじて押し戻す。旅人の姿を見るたびに記憶の一部が揺れた。その声を聞くたびに、もう忘れたはずの妹の声を思い起こした。
 嘘だ。別人だ。ありえない。頭の片隅で抵抗する理性が、近づいて来るニコラスから離れるようにオットーを後ずさりさせる。
「……かわいそうなオットー。私はあなたを追ったつもりではなかったんだけど」
 それでも、逃げ出すことは出来なかった。赤い記憶がオットーを唆す。何も恐れることなんかない。あの時だって生き延びられた。同じようにすればいい。この村の人もまた私刑を恐れている。守れる。守り通せる。あの時と同じように。そして。
 生き延びればいい。
 涙がこぼれる。がくりと膝をついて見上げたオットーの視界で、ぱさりと帽子が外れた。風に飛んだかのように。
「アイリーン」
「その名は捨てたのよ----お兄ちゃん」
 ニコラスは手を伸ばした。優しく抱きかかえるように冷たいオットーの頬を包む。身をかがめる。目を細める。その下で、人にしてはあまりに鋭過ぎる犬歯が鈍く光り、何かを探るようにオットーの首筋を這い始めていた。


3rd Day - Forenoon

「……お前も相変わらずだな」カルテをめくっていたヴィンセントの手が止まり、目の前にいる「患者」を苦笑して眺める。「たまには俺を優秀な医者として認めて欲しいもんなんだが」
「認めてるから来てんだろうが」
「『優秀な』と言ったんだよ。寿命を縮めさせるような案件ばっかり持って来やがるくせに。あんたが来るたびに俺は捕まるんじゃないかとヒヤヒヤするよ……」
 ディーターは患者用の白い丸椅子に窮屈そうに身を置いている。
 いつもの仕事として患者のシャツをまくり上げようとした看護士のニーナは、近づいてそれが誰だか理解した途端、ひょいと肩を竦めて処置室に避難してしまう。彼女にとってもまたこの男は「顔見知り」なのだ。
「頼む。今度ばかりは……猶予がない」
「----人狼か」
 ヴィンセントはこの町で生まれて、家を継いで医者になった。この町を出たことがないのは「氷の村」の村人たちと同じだが、ここは近隣の交通の要所として発展して来て人口もかなり多かった。
 そして。この町は人狼騒ぎを経験したことがない。ここだけでなく、『彼ら』は大きな町には現れない。侵食し始めたら村人を1人残らず喰い尽くして滅ぼすのが彼らなりの流儀なのだ。もちろん、目撃者を根絶するという大切な目的もある。彼らの牙を逃れることの出来た生き残りも、いずれは追い詰められて殺されると言われている。
 人狼は不幸な生き物だ、とヴィンセントは思う。言葉が通じ知恵の回る相手を捕食しなければならない不幸。それが、被害に遭ったことのない傍観者の感想であることは重々理解してはいるが。
「そんなに『悪い』のか、そっちの神父は」
「……この騒ぎでますますひどくなってる。顔色も悪い。それでも村人たちの前ではいつもと同じように振舞おうとしているがな」
「なあおい、ディーター」
「あ」
 手元のカルテに一応は真面目に症状を書き込みながらヴィンセントはちらりと時計を見る。
「別に偽物を作らなくてもいいんじゃないか?」
「……どういう意味だ?」
「本当に病んでそうじゃないか、話を聞く限りは。どっちにしても酒が過ぎれば肝がやられる」
「酒の飲み過ぎで体壊したなんて言ったら懲戒免職だろ。依願退職にはならない」
 大真面目に言ってのけたディーターにヴィンセントは盛大に吹き出した。
「……んだよ」
「お前、優し過ぎだ」
「--------」
 ディーターは俯いて首の後ろを撫でている。照れを隠す時のくせだ。
「まあ、うん、判った判った。何とかその、うまい具合に、神父に非がない感じででっち上げろっていうことだな」
 赤髪の男は、不服そうに口の中で何をぶつぶつ呟いている。それがまたおかしくて、ヴィンセントはとうとう机に片肘をついた手で顔を覆って笑い出してしまった。

3rd Day - Afternoon

 礼拝堂の入り口を入って左奥の片隅は、背の低い衝立で仕切られている。そこには背もたれの高い深めの柔らかい椅子が一つ。衝立の中の礼拝堂の壁に小窓があって、その向こうには簡素な椅子が一つ。一般に懺悔室と呼ばれる小部屋は、実際は懺悔のために限らず、神父への相談事を話すための場所になっている。
 小窓の位置は低い。懺悔という主目的に合わせて、話し手が直接神父と顔を合わせなくて済むようにとの配慮からだ。ただこの村のような小さな社会ではあまり用をなしていない。神父は村の全員を知っているし、村民もまた誰もが神父を知っている。ただ、秘密を洩らさないという紳士協定は厳重に守られる。これもまた、ジムゾン神父が村人たちから高い信頼を得ている理由の1つでもある。
 その懺悔室に誰かが入って来た。ジムゾンは私室でその耳慣れた物音を聞き、廊下を横切って壁の裏の個室へと入る。小さな窓の向こうに見えているのは、緑色のマント。
 旅人だ。確かニコラスといった。
 だが名を問うことはしない。穏やかな声で、どうしました、とだけ促してジムゾンは沈黙する。
「……私が来た最初の日には、神父さまは宿にはおられませんでしたね」
「ええ」
 退屈紛れに雑談をしに来る村人もいない訳ではない。ジムゾンは少しだけ姿勢を変えて、外に向いて開いた小さな窓から外の光に目を向ける。
「私は出版社の人間です。実は、そもそもはあなたにお会いしに来たんです。着いた途端に人狼騒ぎで、本来の目的がなかなか果たせなくて困りましたけど」
「……ああ」
 思い出してしまった。自分が書き綴っていた駄文のことを。それがどう解釈されるかなんて考えたこともないままに書き連ねた寓話論。
「興味深い解釈ですね。例の、『月夜の白銀』の四行詩についてですが」
「暇に任せて考えただけのことです。お恥ずかしい」
「いえ、謙遜なさることはありません。ある意味ではとても正しい、と私は思います」
 ニコラスの口調は平坦だった。何の感情も見せない。ジムゾンの文章を褒めているにしては賛辞の響きもない。ただ天気の話でもするように淡々としている。
「ただその。期待されては困るので最初にお断りしておきますが、まとめて出版したいとかそういうお話で来たわけではありません」
 なるほど、だからか。ジムゾンは苦笑いした。この抑制は、必要以上のぬか喜びをさせまいという配慮だったのだ。
「私が話に来たのは----」
 ニコラスは確認するように体を巡らせている。礼拝堂には誰もいない。
 そして次の瞬間に流れて来たのは。
「神父さまは、既にご自分が辿り着くべき結論が見えているのに、あえて目をお逸らしになっている」
 ----断罪。
 ジムゾンの息が止まった。
「神父さま。あの詩の本当の意味を理解出来るのは、自身が選ばれし者だという自覚がある者だけです。……教えて差し上げましょうか?」
 ----あの詩は触媒なのです。
 ジムゾンの頭の中に言葉が直接流れ込んで来た。ぎくりとする。慌てて狭苦しい個室を見回しても、近しい距離で囁かれたようなその声の主は何処にもいない。
 ----そう。お仲間に会うのも初めてというわけですね。この「能力」を使うのも。
 耳を塞いでも拒めない。ジムゾンは椅子から逃げ出した。よろけながら扉を押し開ける。狭い廊下を横切る。私室に辿り着いて駆け込む。しつらえの悪い戸をそれでも隙間なく閉めようとする。
 誰も追って来ない。それでも声だけは何処までも同じ距離で流れて来る。
 ----奇妙です。酔ったあなたは何のためらいもなく私に話しかけていたのに。あなたは私と話したことを全て忘れてしまっていますか? 尤も、シラフのあなたはあまりにもお優し過ぎて、私のような者とはお話になりたくないのでしょうが。
「やめてくれ」
 ----でもあなたはお知りになりたいんでしょう? アルコールの力で意識が混濁していなければ、自分が何をするのか。子供の頃から抱えていたその『衝動』の本当の意味を。
「やめろ!」
 ドアにすがりつく。体を盾にして何者かの侵入を拒もうとする。
 廊下を歩いて来る静かな足音。ジムゾンは呼吸の仕方も忘れていた。喉が異様に渇く。会いたくなかった。会って見通されてしまうのが恐ろしかった。人智を超えた存在であるはずの神にすがってすら、追い出すことが出来なかった自身の赤黒い本性。
 ヒトを食べたいという----欲望。
 がちゃりとノブが鳴った。ジムゾンは全身の体重をかけて開くのを拒む。声が出ない。体が震えるのは禁断症状のせいなのか、恐怖からなのか、もう区別がつかなかった。それでも、出せる限りの力で扉を押し留めようとする。涙が滲んだ。
「----ジムゾン、いるか?」
 しばらくの後に聞こえて来た声にはっとする。----ディーター。
「このドア、マジで建て付け悪過ぎじゃね? トーマスに直してもらわねぇとヤバイだろ」
 がくりと全身から力が抜けた。大きな音を立てて床に倒れる。聞きつけたディーターが何事かを叫びながら部屋に飛び込んで来た。その姿が一瞬見えたのを最後に、ジムゾンはふっと意識を失った。


3rd Day - Evening

 夕刻の宿は前日以上にピリピリとした空気に包まれていた。既に被害者は二人。今日発見されたオットーは村の中心部から少し離れた所に放置されていたので、第一発見者はヴィンセントの元へ行っていたディーターだった。先を急いでいた行きには気付かず、帰り道に----午後になってからやっと、道端の草むらの中に転がされているオットーの首に気がついた。
 嘲るようなやり方。誰が死んだのか声高に見せびらかすように顔を残す。それはまるで村人への挑戦。パズルのヒント。襲われたのが何故彼なのか、それを考えてみろと言いたげな。
 ただ、そう感じていたのはディーターとリーザくらいのもので、村人たちは一様に被害者が襲われた理由などないと考えていた。ただ夜に迂闊に出歩いたから殺された。それだけだと思っている。
 人のように思考する生き物が、被害者を選ばないなんてことがありうるのか。見つかったら処刑される立場であるからこそ余計に、彼らは考えるのではないか。いかにして自分たちが見つからずに済むのかを。被害者もまた、そのために選ばれるべくして選ばれているのではないか? その危惧は、言葉に出していいのか判断がつけられないままにリーザの中で逡巡していた。
「では、星読みの結果から」
 ニコラスは帽子ごしに静かにトーマスを見据えている。腕を組んで足を広げて堂々と座る木こりは、つまらなそうに口をヘの字に曲げて場を斜めに見ている。
「----残念です、とても。彼こそが人狼です」
 ざわりと場が泡立つ。トーマスは眉をしかめた。だが立ち上がったりいきり立ったりはしなかった。こうして集まるうちにトーマスも理解したのだろう。激昂することは決して得策にはなりえないと。
「ふん。そうか。俺をスケープゴートにする気で指名したんだな、人狼め」
「----私がですか?」
「そうだろう? みえみえじゃないか。ヤコブにオットー……人狼被害はあんたが来た日から起こってるんだ。子供にだって判ることだろう」
 ちらりとトーマスはリーザを見た。周りに気付かれないようにリーザは小さく頷いて見せる。
「では何故私は人狼の話なんかわざわざしたんですか? 星読みだと名乗って目立つようなことをしたんですか? 私が人狼なら、被害を防ぐために人狼を処刑して救われた村の話なんかする必要はないはずですよ。目立たず潜伏して、人知れず殺して回る方がいいでしょう」
「そう思われるのを逆手に取ったんだろう。だいたい、あんたが星読みだってその説ですらうさんくさい。人の本性を見破る星読みなんて、人狼にとっては脅威のはずじゃねぇのか? 人狼が怯えて人の目を気にして潜むようなタチなら、ヤコブやオットーなんかよりあんたが襲われているはずだろう! 何故オットーなんだ? 説明がつかない!」
「それこそ人狼の思うツボでしょう。あなたを人狼だと指摘する私を、偽者と思わせたいから、わざと襲わないで泳がせているんでしょう? 実に狡猾なやり方ですよ」
 理性的に話をしようとしているトーマスの顔色が変わる。わなわなと震え始めたのを見てまたディーターが宥めに近づいた----が、間に合わなかった。
 悲鳴と怒声を浴びながらトーマスはニコラスに飛びかかって殴りつける。顔を庇うように腕を盾にしたニコラスは、そのままカウンターのスツールから転がり落ちて身を縮めた。
 なお収まらないトーマスが振り上げた腕をディーターが今度こそ止める。トーマスは荒い息をどうにかして落ち着かせようとしながら、それでも耐え切れないのか罵声の言葉を倒れているニコラスに浴びせかける。
 雰囲気が凍りついていた。もう誰もがひとつの結論に心を動かされていた。
 リーザは焦燥する。立場の上ではまだ子供であるがゆえに、言ってどうなるものでもないかも知れない、その惑いが捨てられない。
 でもこのままでは----きっと。
「残念なことじゃが」
 モーリッツが場を締めるように声を通した。沈黙が降りる。
「……今のわしたちには、他に信じられる『事実』はないんじゃよ」
「モーリッツ!」
 トーマスがディーターの腕の中でもがく。何をしてももうマイナスにしか働かない。取り巻き始めた同情と恐れのまなざし。
「村が生き残るために必要な犠牲です。少なくとも、今まで生き延びた村はみんな同じ道を通って来た」
 少し足を引きずりながら起き上がったニコラスの声は、何処か泣いているように湿っている。引きずられるように抑えた嗚咽や鼻をすする音があちこちで生まれ始める。
「……くそっ」
 トーマスはディーターの腕を振り払って宿を出て行った。
 ----誰も、追おうとする者はいなかった。

 滅多に使われることのなかった絞首台。そこで、最後には黙ったままでトーマスは殺された。村人の手で。毎年、冬を越すことだけを目指して一年を組み立てる中で、力という絶大な才を惜しみなく発揮してくれていた彼を、村人自らの手で殺めてしまった。
 虫の声すらも聞こえなくなって来た。季節は晩秋を抜けて初冬へと傾いている。リーザはボアのついたハーフコートの前をかき抱いたまま、粛々と進む宗教行事のようなそれを黙って見つめていた。
 レジーナが気遣うようにリーザの頭を片手で抱き寄せてくれる。こういう時ですら『父』はリーザの方を見ようともしない。彼は、彼自身が抱えているもので恐らく精一杯なのだろうけれど、それでもわざと表情を殺しているかに見える仮面のような顔に少しだけ苛立ちが募る。
 もう遅い。リーザは目を閉じた。この村は崩壊に向かっている。無実の者でも私刑に躊躇わなくなってしまったら、人狼は疑心暗鬼の真っ黒い種をバラ撒きにかかる。その意味で、彼が----ニコラスが星読みを名乗ったのは正解だったのだ。あえて堂々として疑いを逸らす理論で武装するのは当然なのだ。
 それなのに。確たる情報が何もない。正確に彼の嘘を暴ける証拠が何もない。
「----『土読み』が、出て来てくれたらいいんだけど」
 レジーナはリーザにだけ聞こえる声で言葉を落とした。リーザが首を傾げてレジーナを見上げる。だが彼女はそれ以上のことを何も言おうとしなかった。ただ、リーザの肩を守るように添えられた手に、わずかに力を込めただけだった。

3rd Day - Night

 部屋に戻ったリーザは、膨大な量の本の背表紙を順番に目で確かめていた。確か星読みについて記した本は見たことがある。その当時は深く読み込んではいなかったけど、ひょっとしたら、レジーナの言う「土読み」についても同じ本に書いてあるかも知れないと思ったからだ。
 全ての本の配置を記憶しているわけではない。ましてや内容も。リーザは取り出してめくってはまたしまうという動作を何度も繰り返していた。時には椅子を使って上の段から本を引き抜き、またしまうのに苦労する。時には力加減を間違えて周辺の何冊かを一緒に落としてしまい、派手な音に身を縮めながら片付ける。
 何十分かそんなことを繰り返してやっと、目当ての本に再会した。これもまた、おとぎ話や伝説の類についての解説本の一種。ジムゾンの書庫には、何故かこの手の本が異様に多い。それらが昔からの宗教的な概念と結びつきが強いのは当然だろうが、例の本に出会ってからはまた別の意味を感じさせる。神父は恐らく、これらの寓話たちに何かを感じているのだろう。それが何なのかまでは、さすがにリーザには判らないが。
「つちよみ、つちよみ……」
 口の中で呟きながらページをめくる。内容を頭に入れるより先に、単語を拾う努力だけをしようとする。
 本も半ばに差し掛かってやっと、目指す単語に行き着いた。その言葉がある章を、リーザはベッドに座ってゆっくりと読み始める。
 ----星を読み凶事を先に見るのが星読み。土を読み起こったことの事実を後に知るのが土読み。物語の中で語られる土読みの姿は墓守として描かれる。彼に与えられているのは、死者の本性を見る力だ。
 リーザの鼓動が高くなった。レジーナの言葉の意味がやっとはまる。パズルの最後の一片。
 土読みなら、亡くなったトーマスの本性を知ることが出来る。もしそれが白なら、ニコラスの嘘を証明することが出来る。今や村の処刑に関する決定を全て握っている彼の出す「証拠」を、覆すことが出来るかも知れない。
 でも誰なのだろう。この村にそもそも土読みはいるのだろうか?
「いるとしたら----」
 同じ疑問を抱えているはずだ。知ろうとするはずだ。トーマスのことを。
 リーザはいても立ってもいられず、コートを手に部屋を抜け出した。ちらりとだけ見た神父の部屋は、今夜は明かりがもう消えていた。

 夜の墓地なんて、普段は怖いだけの場所だ。だが今のリーザにとってそこは真実を見極められる場所なのだ。
 恐ろしさは感じなかった。むしろ彼らが蘇り、見た真実を語ってくれるなら、諸手を挙げて歓迎したいくらいなのだから。
 彼らを殺したのは誰なのか。トーマスは本当に人狼だったのか。真新しい三つの墓地を見回す。そこには誰の姿もない。
「気に、ならないの?」
 何処にいるとも判らない土読みに言葉を投げる。それとも、もう立ち去ってしまった後なのだろうか?
 リーザはトーマスの墓石に近づいた。個別に名前を彫っている時間がなかったので、RIPとだけ刻まれた無愛想なものだが、村人たちは葬る時に彼の斧を目印に供えている。
 リーザがその前に立った時、かたり、と石が鳴った。
 その音は、今日でなければ逃げ出す合図そのものだったろう。だがリーザにはその音が何かを知らせてくれている暗号のように感じていた。
 埋められたばかりの柔らかな土の上をさくりと歩く。冷たい墓石に近づいて、そっと手を伸ばして触れる。
 リーザの頭におぼろげなイメージがふわりと浮かんだ。
 にこやかに笑うトーマス。普段は愛想がないが、子供に対しては心の底からの笑顔を見せてくれることもあった。手作りのおもちゃをくれたこともある。そして悪いことをした時にはきちんと叱ってくれた人だった。
 ぼろぼろと涙がこぼれる。自分の意志で止めることが出来ない悲しみが溢れる。リーザはそのまま墓石を抱きしめた。
「……なんてことなのっ……」
 探していた土読みはそこにいた。リーザ自身こそが、そうだったのだ。
 そこに見えたのは紛れもなく真っ白だった。トーマスは、不当な疑惑をかけて殺されてしまったのだ。----あの旅人によって。


4th Day - Afternoon

 誰に言えばいいのか判らなかった。
 リーザはまだ子供なのだ。宿での会議は村人の一人として同席を許されているとはいえ、その発言力を認められているとはリーザは考えていない。旅人を処刑すべきだと主張した時もそうだった。恐らく、何を言ったとしても子供の感傷で片付けられてしまう。
 大人はいつもそうなのだ。リーザの言葉を一人前として認めてくれようとはしない。その前提で話を最後まで聞いてくれることさえ、してくれない。
 だからリーザはディーターに会いに行った。『リーザは大人だから』----その言葉に込められた、彼の真意を信じたかったから。

 ディーターは、めんどくさいとこぼしながらもヤコブの家に引っ越して来ていた。今までは適当な空き家に勝手に住んでいるという話は以前に聞いたことがある。大きな町ほど戸籍管理が厳重ではないこの村では、放置すれば朽ち果てて行くだけの空き家に誰かが住むことは暗黙のうちに歓迎されていたので、誰も彼を責める者はいなかった。
 だがこれからは多分、ここが彼の家になる。考えてみれば、数年前にフラリとやって来ただけの彼は、旅人ニコラスと同じくらい怪しいはずなのだが、少なくともこの村に於いて責務を果たす姿勢があるうちは追い出す必要はない。
 ここはそういう村なのだ。助け合い信じ合うことでバランスを保って来た。経済や物流といったシステマティックな関係よりも、人間同士の交流の方が重視されて来た社会。ディーターのような人間にとってそれが心地良いものだとは思えないが、彼はそれでもここにいる。
 だからこそ逆にリーザには判る気がするのだ。彼は理由があってコミュニティを追われただけで、決して人として悪性なのではないと。
 ディーターがヤコブの家に持ち込んだのはかなりくたびれた感じのベッドが一つ。空き家に放置されていたものをそのまま使っていたらしい。家具らしい家具はやっぱり増えていない。
「お引越終わった?」
「引越と言うほど大袈裟なもんじゃねぇよ」
 リーザがドアから覗いた時には、ディーターは台所に立っていた。ぱちぱちと薪の爆ぜる音がしている。
「……そう言えばヤコブってベッド使ってなかったのね」
「床にマットレス敷いて寝てたらしいぜ。大陸より離れた極東の島国ではそういう習慣があるって聞いたことがある」
「へえ、物知り」
「アルビンからの受け売りだよ。あいつはあちこち行ってるらしいからな」
 ワインの季節になるとやって来る行商人のにやけた笑顔が浮かんだ。レジーナの宿は彼にとって上得意だ。そしてこの村の方も、酒類を手に入れるためには実質アルビンを経由するしかないので、毎年の彼の訪問を心待ちにしている。彼の滞在する数日間は、今回旅人ニコラスが来た時と同じように宿が賑わう。異国の話。珍しいものの話。陽気で話し好きの彼は、常にこの村にいないまでも、立派にここの一員となっている。
 キッチンの小さな薬缶が湯気を立てていた。そばにあるひしゃげた金属のマグにディーターは湯を注ぐ。コーヒーでも紅茶でもない。リーザが嗅いだことのない匂い。
 そのまま薪が燃えるに任せて暖房代わりにする気らしい。木の椅子を一つ引き寄せて、火を監視するように目をくれつつ、手の先でひらひらともう一つの椅子を指した。かけろ、と言いたいのだと察して腰を下ろす。リーザには、少し高い。
「で、何悩んでんだ」
 察していたんだ。リーザは泣きそうなほど安堵している自分に少しだけ驚いていた。
「……ディーターは、土読み、って知ってる?」
 火に目を向けたまま、ディーターは眉根に皺を寄せる。
「それがどうしたんだ」
「リーザね、……見えたの。トーマスのお墓で。彼の『芯』が」
 マグを引っつかむようにして中身を喉に流し込んでいる。熱くないんだろうか。リーザの心配を余所に、ものすごくまずいものを飲み干したみたいな顔でカップの中に目を落としている。
「……ディーター、トーマスは----トーマスは人狼なんかじゃ」
「言うな」
 小さいが鋭い声だった。ひくりとリーザの体が跳ねる。
「言うな。他の村人の前でもだ」
 少しの間を置いて、次は言い含めるようにゆっくりと彼は言った。視線がやっとリーザの方を向く。
「出来ない。そんなこと出来ない!」
 リーザは言い切る。その選択肢だけは最初から考えていなかった。
 何かをしなきゃならないのだ。誰かが、あの星読みは偽者だと指摘しなければ。そのための武器をやっと手に入れたのに----。
「リーザ。トーマスが死んで、昨夜は誰も喰われてない」
 突然話の矛先が変わったことにリーザは戸惑う。だが、ディーターの目はずっとリーザから外れていない。
 聞かせようとしている。考えさせようとしている。リーザは大人だから。彼の目は雄弁にそれを語っている。
「今、お前がそんなことを言い出せば、あの旅人がどう反論して来るか、予想がつかないか?」
「--------」
 だから考えようとした。トーマスは人間でニコラスは偽者だ。声高に言い出したら何が起こるか。
「----リーザが人狼だって、そう言うでしょうね。仲間を庇っていると」
「そうだな。そして多分、こうも言うだろう。昨夜誰も襲われていないのは、残された人狼がリーザのようなかよわい子供だからだと。ヤコブやオットーのような『大人』を襲うには、力が足りなかったからだと。そして----次にカタリナかレジーナが襲われることになるだろうな」
 リーザの腕に鳥肌が立った。寒いからではもちろん、ない。
「物知り……だね」
 精一杯笑い声を加えようとした。ずっとリーザを見据えていたディーターの目が一瞬ふらりと泳ぐ。
「……人狼に限った話じゃねぇよ。人の裏をかこうとするヤツの思考回路なんて、みんな似たようなものだ」
 その言葉は奇妙な悲しみに満ちている。
「ディーター。聞かせて欲しいことがある」
 視点はもう戻って来ない。彼はマグを弄ぶ自分の指先を見つめていた。
「ディーターは彼を信じてた? ニコラスが本当に星読みだと思ってた?」
 彼は答えない。わずかに開いた唇が、何かを言いかけてまたきつく結ばれる。
「----リーザが告発したら、味方についてくれる?」
「よせ」
 それだけは迷うことなく撥ねつける。
「出来ない。黙ってるなんて出来ない。このまま、あの旅人の嘘でみんなが殺されるなんて、それを黙って見ているなんて、そんなのリーザには出来ない!!」
 いつの間にか立ち上がっていた。爪が食い込むほど強く拳を握っていた。踏みしめた足ががくがく震え始めていた。
 リーザだって怖くないはずがないのだ。村人たちから絶大な信頼を得てしまった星読みに対抗しなければならない。それだけで、星読みその人だけではなく、村人たち全員からの疑惑を被らなければならないのだから。トーマスがそうだったように。
 それでも誰かがやらなければ、この村は滅ぼされる。貧しくて忙しくて、子供らしい思い出なんて何ひとつない村だけど、それでもリーザが生きていた十年を簡単に否定されたくはない。
 自分の命の問題ではない。この村で過ごしたリーザの、想いの問題なのだ----。
「……ごめんね、ディーター。やっぱり話すべきじゃなかった」
「リーザ、」
 決心を見られたのだろう。ディーターは心の底から慌てたように立ち上がった。マグカップがからんと空虚な音を立てて落ちる。
「誰も信じてくれなくても、リーザは戦う。ひとりでも戦うの」
「やめろ」
「いや。やめないわ。いいの、ディーターは聞かなかったことにして」
「やめろ!!」
 大股で近づいて来たディーターは唇を噛みしめて目を吊り上げていた。リーザはぶたれるのを覚悟して目を閉じた----が。
 予想もしなかった刺激がリーザの手に押し付けられていた。恐る恐る目を開く。
 手の中に封筒が入っていた。真っ白なその表の文字は、今までリーザが知る誰のものでもない筆跡。
「……診断書」
 読んでから思い出した。----神父の。
「逃げるんだ、リーザ。神父と二人で」
「----え」
「それを使って、ジムゾンは退職を打診する。病気療養を理由にこの村を出れば怪しまれない。リーザは娘だ、連れて行くのは当然だ、咎められやしない。誰も----誰も不思議には思わない」
「ディーター!!」
 リーザの声はほぼ悲鳴だった。
「あいつのためじゃない、お前のためだ! 子供は……子供はこんなことに巻き込まれるべきじゃねぇんだよ!」
 悲しみの瞳。涙がない分だけ、それはひどく苦しげだった。
「----リーザは子供じゃない」
 泣きたいのを堪えてリーザは口を動かした。
「リーザは大人よ、ディーター。----リーザは、逃げたりしない」
 ディーターはそのままうなだれて膝をついた。腿に置かれた手はリーザと同じようにきつく結ばれて震えている。
「----オレは……また誰も守れないのか」
 囁いた言葉は、リーザに聞かせるつもりではなかったのだろう。少なくともリーザは、そう考えていた。
 だからそのまま家を出た。
 彼の顔の傷の意味を理解したような気がした。
 彼は優し過ぎるのだ。
 だからこそ----彼の悲しいまなざしを、巻き込まないことに決めたのだ。


4th Day - Evening

 宿での会合は開かれていた。ただ、トーマスを処刑した夜に誰も喰われていないため、これで人狼はいなくなったのだと思いたい----そんな雰囲気が全員に漂っていた。
 何処か浮き足立っている。まるで祝勝会のようなムード。リーザはそのうわついた空気を肩で切り裂くように食堂に入った。
 全員がリーザを見た。ディーターも含めて。入って来た人間を確かめる程度だった視線は、リーザのまとっている怒りのオーラに絡め取られて沈黙する。
 ざわりとした場が潮を引くように鎮まる。ニコラスは手にしたグラスを置いて、最後にリーザの方に向き直る。
「リーザ、どうしたの? なんだか随分トゲトゲして見えるけど」
「トーマスは人狼なんかじゃない」
 これ以上黙っていると決意が鈍る。だからリーザは結論から先に出した。これでもう、引き下がれない。
 村人たちは呆気に取られていた。誰もがそんな可能性を微塵も考えていなかったという目をしていた。
「どうしてそう思うんですか?」
 ニコラスの声は穏やかで落ち着いていた。子供を宥める大人の慈愛に満ちていた。未だに目を見せない彼の印象は、ほぼその声によって決まってしまっている。丸くて甘い。それなのにこもることなく不思議によく通る。
 何処かカリスマ的だ。場数を踏んでいる----純朴な村人を騙す程度ならやすやすと出来る程度には。
「……リーザが、土読みだからです」
 感情的になったら負ける。トーマスが遺してくれた警告を慎重に胸の内で反復する。
 レジーナの手が過剰なほどびくりと反応していた。徐々にその表情に広がるのは後悔。リーザに教えてしまったことがこれを引き起こしたのだと気付いたのだろう。
 だが、それは責められるべきことではない。知らせてくれなければ、リーザは自分の武器に気付けなかったのだから。
「リーザはトーマスの本性を()ました。土読みは死んだ後にしか見られないけど、でも、確かに視ました。トーマスは、人狼ではありません。人間です。リーザたちは、この人の言葉に惑わされて、罪のない人間を殺してしまったの----この手で!」
 ゆっくりと食堂を見回す。ぽかんとしていた村人たちの顔に、徐々に不安が戻り始める。
 ニコラスはしばらく黙っていた。目を向けることなくカウンターのグラスに手を伸ばし、わざとらしいくらいゆっくりと赤の液体を喉に流す。その後に細く流れる溜息。
「リーザ」
 甘ったるい声。表情の変化に気付けない分、それはあまりに唐突だった。
 ----ニコラスの声は泣いていたのだ。
「かわいそうに」
 震えている唇だけが見える。
 感情が侵食する。伝播する。その場にいた全員が、何事かと言いたげにニコラスを見つめながら、それでも引きずられるように目が潤む。
「……トーマスと親しかったんだ、リーザは。だから私を信じたくないのでしょう。でも、人狼騒ぎに遭ってしまったら、それまでの関係は忘れなければならない」
 まただ。あの時と同じ。トーマスに人々の疑惑が降り積もった瞬間と同じ。空気を、彼が塗り替えてしまった。
「人狼は、目覚めるまでは普通の人として生きているものなんです。何をきっかけに目覚めるのかは、まだ誰にも判りません。おいそれと研究させてくれる相手ではありませんし。だから----これは何処の村でも起こっていた話なんですよ、リーザ。今まで普通に一緒にいた人が、突然変貌する。それが人狼の恐ろしさなんです」
「リーザは嘘なんかついてません」
「もういいんです。みんな判ってくれます。悲しみは、皆一緒です。誰もが彼を疑いたくなんかなかった----そうですよね?」
 かたんとスツールから降りたニコラスは、あくまで柔らかな仕草でリーザの肩を叩いた。労わるように。慈しむように。
「すみません。今日は私はもう失礼します」
 ニコラスは涙を堪えるように片手を顔に当てたまま、足早に食堂を出て行く。
 残された村人たちは、全員が同情の目でリーザを見ていた。
「リーザは嘘なんかついてない」
 はねのけたかった。言いたいことは全て言っておかなければならなかった。
 ヤコブが----本物の星読みが殺されたように、本物の土読みもまた、今夜殺されるかも知れないのだから。
「トーマスは人狼じゃなかった。まだ人狼はこの村にいるの。昨夜誰も襲われなかったのも、きっと何かの作戦があってのことか----もしかしたら、お腹が空いてなかったのかも知れない。でも、まだ人狼はいるわ。きっと……きっとまた誰かが殺される!」
「リーザ、もういい」
 立ち上がったのはディーター。ちらりとだけ黙りこくったままの神父に視線を向けてから、リーザの肩を抱くようにして食堂から出るよう促してくれた。
 宿の入口までの距離がリーザには異常に長く感じた。ドアを挟んでいるはずの食堂から、それでもじわじわと染み出すように哀れみが押し寄せる。かわいそうなリーザ。かわいそうな子供。宿の建物から出てキンと冷えた風に触れてやっと、そのまとわりつく想いから逃れられたような気がしていた。
 リーザは泣くまいと決めていた。泣くより先に怒らなければならないと思っていたから。
 それでも、自分の背を叩いてくれる大きな手には嘘がつけなかった。
 ぽろぽろと涙が落ちる。止められないそれを拭うことすらリーザには悔しかった。自分が泣いていることを認めることですら、リーザはしたくなかったのだ。

4th Day - Night

 どんよりと曇った空は夜になっても晴れなかった。そろそろ雪が来る兆候。ヤコブがいた時は、それが何日後のことになるのかまで言い当てていたのだけれど、空読みはもうここにはいない。
 ジムゾンは西の窓から空を見上げていた。火のない部屋でも寒さは全く感じていない。もういつもの習慣になってしまった酒。酔っている間なら、温度は感じなくて済む。
 温度だけでなく。あの飢餓感も。
 伝承やおとぎ話、寓話に伝説。そんなものたちの中には当たり前に登場する、人を喰う化け物。食屍鬼(グール)のような怪物の姿を取ることもあれば、狼や熊のような野生動物の派生であることもある。いずれにしても、子供の時のジムゾンは、それらの化け物たちの物語を知るたびに異様な興奮を感じていた。
 何故なのか。子供だった時分には考えたこともなかった。ただ、両親が語るおとぎ話を聞きながら、被害者である喰われる人間たちにではなく、加害者である喰う側に感情移入してしまうことを止められなかった。
 止められない思いを、子供だった頃はあまりに素直に口に出し過ぎた。両親はきつく彼を諌めた。以来、ジムゾンにとって一番理解し合える相手だった物語たちは家から一掃されていた。
 自身の性癖が異質だと気付いたのは十代に入ってからだ。その頃からジムゾンはその飢えを忌み始める。異常だという自覚が芽生えてからは人と接するのが恐ろしくなった。恋愛も当然、出来なかった。恋人なら当然の触れたいという欲望は、ジムゾンにとってはあまりにも強烈で凄惨な誘惑だったから。触れてしまったらもう戻れない。自分が、何をしてしまうか、予想がついていたからだ。
 ----救われたかった。だから神にすがった。厳格な両親は、化け物に憧れる少年が神父を目指したことを歓迎した。全寮制の神学校に通い、他よりも恵まれた仕送りは、子供の頃に奪われた物語たちとその分析本に費やされた。そして全てを忘れるために勉強に身を入れた。
 ジムゾンは優秀な神父になったのだ。敬虔な信仰心ではなく、知識を味方につけて。
 最初の赴任地は大きな町だった。教会も大きく、神父も何人か所属していた。現実の娯楽の方が先に立つ町では、宗教施設はほとんど飾り物に過ぎなかった。ほんのわずかな「信者」に対してだけは丁寧に接する。その他は刻まれたスケジュール通りに定時の礼拝や結婚式や葬式や洗礼などの「仕事」をこなす。それなりに忙しく、それなりに充実していた。
 だからこそ紛れていたのかも知れない。忘れていられたのかも知れない。
 この村に来てみてそれがはっきりした。
 激減した仕事量。漫然とした退屈な日々。定刻の礼拝以外にすることがなくなったジムゾンの一日は突然、ひどく長くなった。それとともに、押し込められていたはずの飢餓感が蘇った。物語たちが語るように、夜に----深夜に近づくにつれてどうしようもなく喉が渇く。胃袋に何を詰め込んでも、その渇望は止められなかった。
 眠れずに夜を徘徊した。星を見上げていたヤコブに会った。彼は何かを悟っている目をしていた。だが何も言わず、眠れないなら飲むのも手だと言って、レジーナから手に入れたワインのボトルを融通してくれるようになった。
 ----それからはまっさかさまだった。
 ヤコブは全てを知っていたのだと今でもジムゾンは思う。それでも彼はジムゾンを処刑しろとも追放しろとも言い出さなかった。この村の神父として、村の一年をうまく巡らせるための歯車として、お互いに支え合い信じ合う村人として、その役割を果たせる立場に置き続けてくれた。
 そのまま時を過ごせて来た。十年近くの長きに渡って。夜に現れそうな自身の正体をアルコールで封じ込めてやり過ごして来た。
 せめて記憶を失わない程度にと自制が効いていたのは数年前までのこと。体が慣れて、量が増えて、反動のように醒めた時の飢餓感も強くなった。気が狂いそうになって深酒をするようになった。また夜を徘徊するようになってからディーターが村に現れ、何かを感じているのか庇ってくれるようになった。
 そういう星回りだ、とヤコブは笑っていた。神父さまはこの村にいなくてはならないから、生かされているのだと。
 ジムゾン本人は何度も死を夢見た。自分が強大な何かに喰われて、何も考えられなくなればいいと願った。
 ----彼の身となりし我に惑う道は既になし。
 『彼』が神であろうと悪魔であろうと、そんなことはどちらでも良かった。奪われてこそ得られる安寧があるなら、手に入れたかった。
 だから知りたかった。あの四行詩に込められた安寧の正体を。

 今では疑う余地もない。
 あの詩の造り手が熱望したのは。その音律に込めて呼び出そうとした神の名は。

 ----我が神の名は、人狼。


4th Day - Midnight

 この村の周辺に定住するようになる前、カタリナの暮らしはほぼ遊牧民に近かった。家族の中でひとり生き残って羊たちを受け継ぎ、彼らの餌を求めてあちこちを彷徨い歩いた。
 この大陸は、季節風のおかげで東へ行くほど年間の平均湿度が高くなる。最初に西の方にいたカタリナは、草地を求めて東へと進むうちにそれに気付いた。以来、ほんの少しの強行軍で羊たちを連れて長い旅をすることになった。
 湿度が高いということは雨が多いということだ。雨が多いということは、植物がよく育つということ。ここより南に下ってしまうと、今度は雨が多過ぎて却って土地が痩せて行く。栄養分が水に流されてしまうからだ。
 「氷の村」の位置は、だからカタリナにとっては一番落ち着ける場所だった。オットーが言う、ここの小麦を気に入ったという言葉にも嘘は感じなかった。その麦わらに世話になっているカタリナの羊や山羊たちも確かに「気に入って」いるのが判ったから。
 カタリナは、モーリッツの計らいでオットーの家を借り受けることになった。商売のための本格的な作り方は知らないが、カタリナは粉を引いてパンを作るくらいのことなら元々手に覚えがあったのだ。もちろん、商売を引き継ぐまではとうてい行かない。本業を疎かには出来ないから。それでも、店の倉庫から出して来た小麦で自分が消費する程度のパンを焼き、温かな家で暮らせることは、それまで過ごして来た人生の中ではこれ以上ない幸いだった。----それが、ひとりの青年の犠牲の上にあるという、その事実だけを除けば。

 リーザが会議の席で言い出したことは、カタリナの心にも暗く長い影を落としている。以前からこの村で暮らしていたリーザのことは、カタリナもよく知っていた。病気の両親のために家を支え、ジムゾン神父の養子となった今もあちこちでコマネズミのように働いて生きようとする健気な少女。少なくとも、あんな大切な場に於いて、哀惜だけで嘘を必死に主張するほどには『子供』だとは思えなかった。
 だとしたら。
 焼くものもないパン釜を暖房代わりに炊いて、その前に椅子を置く。座って、足元の籠から引っ張り出した編みかけのセーターに目を落とす。
 だとしたら。トーマスの遺言を呼び起こす。----事件はニコラスが来た日から始まっている。
 あまりに直裁だろうか? 子供じみているだろうか? でも、教養や人心の裏読みなんてことの出来ないカタリナには、その方がよほどすんなりと飲み込めるのだ。
 工房から続く店の入口の方でコトリと音がした。カタリナはその時になって、自分に今まで施錠という習慣がなかったことを思い出して苦笑する。ただ、今のところ盗まれて困るようなものはこの家には置いていない。あるのは、全てオットーの遺したものだけだ。
「……どちらさまですか?」
 立ち上がって声をかけ、セーターを籠に戻してから店に続く扉を開けた。一応会議の席の上で一言話はあったから、出席していた人であればカタリナがここにいることは知っているはずだ。
「ごめんなさい……うっかりしてました。カタリナさんがいらしたんでしたっけ」
 手を胸に当てて驚いたように言った人影は、シルエットであの旅人だとすぐ判る。
「どうかされました?」
「霰が降って来て。少しだけ雨宿りさせてもらうつもりだったんです」
 ちらりと店頭のウィンドウを透かして外を見る。薄暗くてよくは見えないが、確かに何かが降っていた。あまり強くない。すぐ止むだろう。
「またお散歩ですか?」
「星を見ていました」
 この天気なのに? カタリナは胸の内で呟いてしまってから、ほんの少しだけ自嘲する。一度疑いを持ってしまうと、何もかもが悪い方にしか捉えられなくなる。良くないくせだ。
「少し、お話してもいいですか」
 ニコラスの声は柔和で耳当たりがいい。名前からして男性なのだろうが、女性の声にも聞こえなくはないほどに。
「ええ」
「私は、動物のことには詳しくないんですが、この村に来る途中であなたの山羊を驚かせてしまったみたいで」
「----ああ」
 カタリナはくすりと笑った。知らない人から見ると確かにあれは珍しいのかも知れない。
「急にぱたんと倒れてしまって。私、何かとんでもないことをしたんじゃないかとずっと引っかかってたんです」
「いえ、あれはあの種の山羊の本能なんです」
「本能」
「ええ。あの山羊は基本的に群れで生活するんですけど、外敵に襲われた時に、一匹だけああやって死んだふりをして敵を寄せつけるんです。その間に、他の仲間は遠くに逃げ出す」
「その一匹は犠牲になるんですか」
「そうです。種の保存のための知恵ですね。----他の動物でも、弱い生き物はたいてい最初から出産数を増やしたりして、仲間を犠牲にして種を保存することを第一に考えています。種ではなく個を気にする動物は人間くらいかも知れません」
 カタリナは、話しながら店のカウンターの裏に置いてあった丸椅子を引き出した。ニコラスは口元の微笑みだけで感謝を伝えてそこに腰をかける。
「----人間にも、そういうところはあると思いますよ」
 ニコラスはぼんやりと外の方に目を向けている。
「そういう……って。仲間を犠牲にして種を保存するってことですか」
「ええ。現に今がそうじゃありませんか?」
 カタリナの鼓動が激しくなった。なにげない言葉のようでいて、何処か冷たい響き。
「私の言葉ひとつで、彼は殺された」
 誰のことを指しているのかは明確だった。
 会合では、リーザの告発に対抗するように哀切を見せていたのに。今ここにいる彼の言葉は何処か他人事のようだった。
 さらりと布ずれの音がする。いつしか外は静かになっていた。
 ふっ、と空気の手触りが変わった。真綿で締められるような沈黙がカタリナを縛る。
 息が詰まる。温度の変化などないはずなのに。それでも冷気がするりとカタリナの頬を撫でる。
 その変化は突然訪れた。
 ----この気配は。
 弱き動物を守るため、カタリナはこの気配だけには敏感なのだ。
 この気配は----捕食者だ。獲物を目の前にした捕食者のもの。
 カウンターに隠されている手足が小刻みに震え出す。
 リーザは正しかった。彼女は本物の土読みだった。
 この村は----
 彼が来たその瞬間から、狼に狙われた羊の群れでしかなかったのだ。

「待って下さい」
 あえぐように掠れた声。それでも彼に届くには充分なはずだった。
「一匹だけ死んだふりをする山羊にだって、願いはあります」
 ニコラスは立ち上がっている。うやうやしくお辞儀をするように帽子を取る。
 微かな月を浴びて輝く白銀の髪。長めの前髪の間から覗く瞳は、光を集めて鈍い金色をしている。
「せめて……。せめて、仲間たちに私の死を知らせないで」
「なぜ」
「これ以上の疑心暗鬼を村にバラ撒くのはやめて! このまま私と一緒にこの村を出て! 私を……私を最後にして!」
「----それは、出来ない相談ね」
 言葉が変わる。心をも切り裂く刃物のような声。これが『彼女』の本来の姿なのか。
「でも一部の願いは聞き届けるわ。容易には見つからないようにしてあげる----それが限界よ」
 カタリナは目を閉じた。読み書きの出来ない自分には何も遺せるものがない。リーザが本物だと、『彼女』が人狼だと、伝える手段が何もない。
 ----いえ。だからこそ選ばれたのだ。
 彼らは、目の前で死んだふりをしている、それだけの理由で獲物を選択しているわけではないのだから。

 『食事』を終えたニコラスは、パン釜で弾けていた薪を引き抜いた。先にちろちろと燃えている火を編みかけのセーターに移す。
 勢いよく燃え上がるのを確認して、籠ごと工房の床に蹴り転がした。
 床に積もっていた埃や小麦。木で作られた作業台。しばらくは黒く焦げているだけだったそれらが、毛糸玉の転がる軌跡に沿って徐々に火を上げ始める。
 やがて、勢いのついた炎は壁に侵食を開始する。ニコラスは帽子を胸に当て、じっと立ったままその光景を眺めていた。


5th Day - Morning

 翌朝。村人たちは目の前の光景に言葉を探せず、誰もが茫然としていた。
 町ほど建物が密集していなかったのが幸いして、何処にも延焼はしていなかった。オットーの店ただ一軒だけが綺麗に焼け落ちている。まるで、何も遺すまいと炎が意志を持っていたかのようだった。
 カタリナの行方を全員が心配した。仕事は中断され、全力で捜索に回った。だが彼女はとうとう見つからなかった。
 残された羊と山羊たちは、村人たちの手に余った。相談の上、どうすることも出来ずに結局、大半は野に放つことになってしまった。残された数匹の山羊と羊は、レジーナの手によって細々と飼われ、やがては宿の食事のために捌かれる日を待つだけの身となっていた

5th Day - Evening

 その日の夕刻は、火事の話題で持ちきりだった。この村では暖房も料理も薪が基本なので、不始末によるボヤは何度も起きている。扱いに慣れた者ですら油断してしまうのだから、ましてや不慣れな家でカタリナが火を出してしまったことを疑う者は少なかった。
 けれど。深夜の失火ならカタリナは家の中で焼死していると考えるのが妥当だ。だが、めんどくさがりつつも実地検分をさせられたディーターがいくら探しても、焼死体らしきものが全く発見出来なかったのだ。人骨ですら。
 ディーターは、数少ない「疑う者」に回っていた。もしカタリナが何かの理由で殺されたのだとしたら。その証拠隠滅のために家ごと燃やされたのだとすれば----そうでもない限り、ここまで完璧に消息を消さなければならない理由がない。
 カタリナは、自分の仕事に誇りを持っていた。もし何らかの理由でここを出て行くことにしたとしても、羊たちを置いて行くなんて考えられないことだった。
 ただ、宿での会合の席で報告を求められたディーターは、自分の疑惑については必要以上に語らなかった。ただ事実だけを淡々と話した。遺体は見つかっていないことも含めて。
 その話が終わると、宿の食堂は話題を探しあぐねてひっそりと食事を摂るだけの場に戻った。ディーターは、それまでの習慣通り宿に来ていたリーザが、まだ穴が開きそうな視線でニコラスを突き刺していることに気付いて苦笑する。
 彼女はまだ諦めていないのだ。口でいくらディーターが諌めたところで彼女はやめるつもりはないだろう。
 それでもディーターは彼女を止めなければならない。止めるふりをしなければ。場に同調して、ただの村人の一人として、ニコラスに----人狼に目をつけられないように動かなければならない。
 彼女を守るために。
 ----何度目かの決意が、今度こそ実を結んでくれることを神に祈る。普段は信仰心など持ち合わせはないのだが、この時ばかりは祈らざるを得なかった。

 リーザは確信していた。カタリナが人狼に襲撃されて死んだことを。
 土読みにはそれが判るのだ。墓地ではなくても。宿に来る前に焼け跡にかがみ込んで地に触れた時、じんわりと染み出して来るカタリナの思いを確かに感じていた。
 村人の手で処刑されたのでも、本当に火事で不幸な焼死を遂げたのでもない限り、人狼の餌食になった、それしかありえない。()る前からそう思っていた。そして視て確証を得た。トーマスの白からは無念の匂いがした。カタリナの白は不思議なほど透明だった。まるで----リーザが、ここへ来て視てくれることを待っていたかのように。伝えるべき事実を、整然と並べて待ちかねていたかのように。
 だが、ディーターと話したことが頭に浮かんで離れない。今まで襲われたのが男性で、トーマスがいなくなった途端にカタリナ。しかも外で襲撃ではなく家の中で、おまけに火の力まで借りている。
 力に任せて襲撃出来ないから----対抗するリーザに人狼の濡れ衣を着せるにはいい選択だ。ディーターの予見には感謝するが、だからこそ対策を考えなければならない。
 死ぬわけには行かないのだ。自分がいなくなったら、誰も真実を語れる人間がいなくなる。人狼と誤解されてしまうわけには行かない。
「……あのね、モーリッツ」
 わざと周りにも聞こえる程度の音量を保つ。無関心を装いながら話の種に飢えていた人々の耳目を集めるのは簡単だった。
「カタリナの遺体が見つからないのは、人狼に喰われてしまったからだってことはないの?」
 不自然なタイミングで食堂からざわめきが引いた。リーザにとっては、予想していたことだった。
「まだそんなことを言っておるのかの、リーザ」
「だからね、リーザは嘘なんかついてないの。トーマスは」
 冷静に説明しようとした言葉の先を言い澱む。ちくりと、痛みが伴いそうな注目が自分に集まっている。
 その先鋒は、もちろん、あの旅人。
 リーザはわざと椅子から降りた。ペーターはさっきからずっと床で、トーマスの遺品の一つである積み木を手に遊んでいる。屈んで積み木を片付ける。そのついでのようにモーリッツを見上げるふりをした。
 その直線上に彼がいる。既にそこが定位置となったカウンター。高めのスツールに座っている。
 目が見たかった。彼の----旅人の心の底にある何かを見たかった----が。
 床から見上げても、はっきりと目を見ることが出来なかった。決して煌々と明るいとは言えない食堂の明かりでは、帽子のつばの影が深過ぎる。
「……まだ私を疑っているのか、リーザは」
 ごく表面的な遺憾の意を込めた溜息。
「リーザには見えるの。それだけよ」
「土読み、ね」
「そう。カタリナのことも見えたわ」
 ペーターは何も判らないのだろう。無邪気な顔で何かの動物の形を作っている。……犬だろうか。
「カタリナは何を語ったの」
「----人狼に襲われたと。火事はきっと証拠を消すためね。ああしてしまえば、カタリナの生死すら曖昧に出来るもの」
「人狼が彼女を襲って、その上に放火した。そうあなたは言いたいのね」
「逆かも知れない。放火してカタリナをパニックに追い遣って襲ったのかも知れないわ」
 レジーナが洗い物をする音だけが部屋に響いていた。決して大きな声ではなく、互いに届かせる程度にしか話していないが、それでも村人たちは息を詰めて会話の行方を探っている。
「いずれにしても、人狼の襲撃があった、という意見は変えないんだね。----そこまで断言出来るのはどうして? リーザ」
 来た。
 リーザは一度目をきつく閉じた。深呼吸する。次に目を開けた時、会話について行けていないのか、意味が判らないという顔をしたペーターが何度かまばたきをしてリーザとニコラスを見比べているのが目に入った。
「旅人さんは、どう思うの?」
 ゆっくりと立ち上がる。服についた埃を軽く払い落とし、足の裏で床をつかむように踏みしめて、ニコラスと真っ向から対峙する。
「----今夜あなたの本性を見たい、と言わなくてはならないでしょうね」
「あら。ずいぶん奥ゆかしいんですね。もっとはっきりおっしゃってもいいんですよ」
 もちろん皮肉のつもりだった。ニコラスの唇が、少しだけ歪むのが見えた。
「それは、自白?」
「リーザは自分のことを全て話しています。私は土読み。これ以上『自白』するものなんて、最初からありません」
「私もそれは同じですよ。判ったことは全て話している」
「判ったことじゃない。旅人さんの言うことは捏造だわ」
「----リーザ」
 ニコラスが立ち上がる。体中が隠れていても、雰囲気では何処となく彼が苛立っているように見えた。
「二人だけで話せない? きっとあなたは私に対して誤解があるだけだから----あなただけが、誤解しているみたいだから」
 言葉の表向きは優しく温かかった。
 応じてはいけない。そうなればどうなるかはリーザには見えていた。でもここで拒むことは、村人たちを敵に回すことになる。『あなただけが誤解している』。その言葉一つで、ニコラスはリーザ以外の全員を自分の味方につけた。
「わかりました。お夕飯の後なら」
 時間を稼ごう。どうすればいい。むざむざ殺されないで済むために、何をすればいい?
「じゃあ一時間後に。場所はリーザが決めていいけど、どうする?」
 ----期待出来るとしたら。頼れるとしたら。一人の人間の顔しか、リーザは思いつかなかった。巻き込みたくない----でも他には誰もいない。
「ヤコブさんのサイロの前で」
「----判りました。約束ですよ」
 ニコラスはそのまま食堂から出て行った。去り際に、幼い子供にするようにリーザの頭をぽんぽんと叩く。
 張りつめた沈黙を壊すようにモーリッツが咳払いする。ふっと緊張が解ける。
 まだ戦いは始まったばかりだ。
 村人たちが彼の処刑に踏み切れないなら、自分一人でもやるしかない。たとえそれでリーザがどんな疑惑を被ることになろうとも、誰かがやらなければならないことなのだから。
 ただ、ジムゾンは----。
 物静かに俯いたままの神父をリーザはうかがう。いつもいつも、この会議上では表情の硬かった彼が、その日はわずかに震えているように見えた。まばたきの少ない目は、自分の膝辺りで空ろに泳いでいる。
 彼は人を襲っていない。
 リーザが感じた直感が何なのか、それは彼女自身にも判らなかった。
 毎晩のように泥酔して眠り込んでいるから。そんな理由で、一応は自分を納得させてみてはいたのだが。


5th Day - Night

 ディーターは、ベッドの下に隠してあったナイフとクロスボウを引っ張り出して来た。
 木で出来たクロスボウは、ディーターが「仕事」をするために、かなり昔に手に入れた唯一の武器だった。村の生き残りにとって大切な人間を護衛する。うまく行けば人狼を射止めることも出来る。ただ、その「役目」ゆえにあまり大っぴらに練習することもままならず、確実に対象の急所を狙える自信は実はあまりなかった。
 この場所に住んでからは、麦畑の東の端に立つ大きなモミの木を主な練習相手にしていた。それでも、村の仕事を色々任されてしまったせいもあり、腕を上げるための時間はここ数年、取れていない。
 それでも、やらないわけには行かなかった。
 リーザには気付かれていたんだろうか。わざわざヤコブの家の近くを指定して、わざわざ人狼と二人きりになることを選ぶなんて。
 ディーターにチャンスを与えようとしている。あんな子供が。
 そう考えると胸がしめつけられた。彼女は、この村で誰よりも「大人」なのだと思い知らされる。
 矢は手元に五本しかない。トーマスがいた頃に無理を言って造ってもらったものだ。
 ただ、いずれにせよクロスボウはスピードには向かない武器で、一矢で仕留められなければ次の矢を接ぐまでに最低でも一分はかかる。人狼は、その間にこちらを見つけるだろう。一撃を失すれば次に待つのはナイフでの接近戦。失敗したら自分の死だ。そういう意味では、五本はむしろ多過ぎると言える。
 チャンスは一度しかないと肝に銘じてかかった方がいい。今までもそうだった。だがいつも大切な人を守り切れず、そのたびに自分の方が生き残って来た。
 もう、無駄に命を永らえる必要はない。今まで人狼に喰われてしまった人々のためにも。
 自身の役割を、今度こそ、果たさなければならないのだ。

 リーザの手は震えていた。ポケットの中にある持ち慣れない得物の冷たさに身が竦む。教会の裏手の一番奥にあるキッチンから持ち出して来た包丁。
 最初から覚悟していたとはいえ、どうやって使ったらいいかなんて目算は、実は何もない。それでも、丸腰で旅人に会うよりはマシだと思った。
 ここを指定したのは、いざという時の目撃者を確保しようと考えたからだ。二人きりでとニコラスから指定がある以上、他の人を巻き込まなくて済むのは幸いだった。それでも、自分にもしものことがあった時に、真実を伝えてくれる誰かを残さなければならない。
 ディーターならそれが出来る、とリーザは考えていた。特に人狼騒ぎが起きてから、村人たちに彼に対する信頼度は前にも増して上がっている。態度がつっけんどんでも、彼の心根に誠意があることをみんな感じてくれているはずだ。
 言葉の信憑性という意味では長老のモーリッツの方に軍配が上がるだろうが、彼は今、本格的に村長を補佐するために庁舎に隣接する寮の一部屋を借りている。そんな所へ彼を連れ出したら、物音がすればあっという間に人目が集まる。そんな場所ではきっとニコラスは自分を襲ってはくれない。
 だからここにした。ヤコブの家にディーターが越していなければ成立しなかった賭け。あの時、モーリッツにここの処遇を相談しに行ったことは、「星回り」だったのだろうか。
 旅人は時間より少し遅れて現れた。相変わらず全身はすっぽりとマントに覆われている。見えるのはキャメルブラウンの編み上げブーツと、帽子の下のかすかな微笑みだけ。
「ちゃんと来たんですね、リーザ」
 リーザは頷いた。緊張で喉が渇いている。少しだけ強くなり始めた季節風が、ばさりと彼のマントを揺らす。
「私を人狼だと疑っていたのでは? だとしたらこんな所で二人だけ、という状況は、危険だとは思わなかった?」
「……それは、どうかしら」
 一時間のうちに色々なことを考えた。会った途端にざっくりと殺されてしまうなら無駄になるであろうことを。でも、ニコラスは辛うじて声が届く距離で立ち止まったまま近づいて来ない。少なくとも、話す余地はあるということだ。それが、優位に立つ者の余裕に見えて、リーザにはほんの少し口惜しかった。
「意外ですね。私は疑われていなかったというわけだ」
「違います。あなたが人狼なら、リーザに生かす価値を見出しても不思議じゃない、と思いますから。簡単に殺してはくれないと、リーザは考えました」
「面白い。理由を聞かせてもらっても構わない?」
 向こうが話す時間を与える気なら、せいぜい生かそう。なるべくそれを引き伸ばして。ディーターが、この声に気付いてくれることを祈りながら。
「旅人さんが自分で言ったことです。人狼は人を騙すため、真の能力者をあえて襲わずに残す。そうすることで、その力に対する疑心暗鬼を呼び起こし、議論を混乱させる」
「逆もまた真、では? 正しいことを言うやつは邪魔なだけ。さっさと殺してしまった方が早い」
「でも、人狼に襲われてしまったら、少なくともそれだけで、その人が人狼ではなかったことを証明してしまう」
 息を吸う。こんなハッタリが効くかどうかなんてリーザには判らない。それでも言い切りたかった。その言霊が、リーザを守る盾となる気がしたから。
「だから----だから、あなたはリーザを襲えない。少なくとも、あの会合の席で、リーザが人狼であると見せかけることの出来る可能性はある。濡れ衣を他人に着せるチャンスを自ら潰すようなことなんか、あなたは、やらない」
 風すらも止まった。震えながら少しだけ吐いた白い息は、流れることなくその場でふわりと消え失せる。
「----なるほど」
 楽しそうにくつくつと笑う声がした。
「なにが、可笑しいの」
「そうですね。少なくとも、私が人狼なら、対立するあなたを襲撃するのは得策ではないかも知れない」
「そうよ」
「でもねリーザ、あなたは見落としている」
 笑い声が止んでも、明らかに嘲笑する響きがそこには漂っていた。
「人狼は、私だけではない。私には襲う理由がなくても、もう片方には襲う理由があるかも知れない」
「--------」
 神父の顔がよぎる。今まではほとんど無口で無表情だったリーザの『父親』。今日の会合ではわずかに表情が変わっていた。
 その変化は何かの決意なのか。こうしている間に、誰かが襲われている?
「それに、今夜襲われる可能性があるのは、決してあなただけではない----」
 ニコラスは身を翻した。予測していなかった動きにリーザは咄嗟に反応出来なかった。一瞬その姿を見失う。が、ここは何処までも広がっている畑のそばだ。視界から消えるとしたら、行き先は一箇所しかない----サイロの裏側。
 途端。爆発しそうな勢いで嫌な予感がリーザに襲いかかった。
「ディーター!!」
 リーザは絶叫した。風が、嘲笑うようにその声を弾き飛ばす。吹きつけて来る。壁を作るかのように強くなって、リーザの行く手を遮ろうとする。
 ただ叫んだ。この身が届かないなら、せめてその声だけでも届けようとして。
「いやぁ!! いやぁぁぁっ!! ディーター、逃げてぇっ! ----ディーターぁぁぁっ!!」

 ディーターのクロスボウから矢が飛び出した。
 ----相手の動きの方が早い。手元が狂った。最初からこちらの場所を知っていたかのように旅人は風を切ってサイロを回り込んで来る。
 だが。がすっ、と鈍い音は確かに聞いた。うっと息を詰まらせる声も。
 月は明るい。でもその位置は陰になる。かろうじて一撃をかわしたディーターはクロスボウを投げ捨てた。
 ほんの数メートル。この位置ならむしろ白兵戦の方が楽だ。腰に挿してあったナイフを引き抜いて構える。
 暗さに目が慣れる程度の時間は与えられた。その刹那が物語るものは。
 当たった。致命傷ではないだろうが、とにかくも動きを封じることには成功した。
 そう判断出来ればもう迷う必要はなかった。一気に踏み込む。喉元を目指して。マントと帽子を剥ぎ取っている時間はない。確実に傷をつけられるのは----息を止められる可能性があるのは露出している首だけだ。
 走り寄ったその視界で、ふらつきながらも立ち上がったニコラスの腿から、放った矢が生えているのを確かに捉えた。
 これで終わる。ディーターは手のナイフをためらうことなく振り上げた。首の位置を目測して一気に横に引き切ろうとする。
 ----その手が、止められた。いや。止められたのだと----思った。
 次の瞬間、脳に激痛が突き上げて来た。ぼやける視界の中で、確かにさっきまであったはずの右腕が異様に細くなっているのが見えた。まるで、削ぎ落とされてしまったかのように。
 緑色のマントの下で何かが光っていた。人の手にしては大きく鋭すぎる爪。いつの間にか飛んでいたのか、普段つけている帽子は地面に落ちていた。
 ----女だった。ディーターは目を見開いた。
 彼の----いや、彼女の背中から当たる月の光は、吸い寄せられるようにニコラスの銀色の髪に集まっている。
「わざわざ出て来たわけね、狩人さん」
「--------」
「お役目、ごくろうさま」
 激痛と斬撃。飛び散る赤。喉元から粘りつく液体がぼたぼたと体を伝って落ちて行く。倒れて行くディーターを見送る旅人は、帽子を胸に当てて、悼むようにうやうやしく一礼していた。


6th Day - Afternoon

 第一発見者はレジーナだった。
 いつものように食材を仕入れるつもりでヤコブの----今はディーターの家を訪ねた時に、家の前で喉笛を切られて絶命しているディーターを見つけたのだ。
 夕刻を待たず、宿に人が集められた。とは言っても、そこにいたのはモーリッツとペーター、そしてレジーナと神父、旅人の五人だけだった。
 それまで積極的に顔を出していたリーザは部屋に閉じこもっている。神父がぽつりと話した。その言葉ひとつ出すのにもひどくジムゾンが苦しげなのは、リーザとジムゾンがディーターに対して示した、親しい故の哀悼だと、皆がそう思っていた。
「しかし、今回は----喰われているわけではないんじゃな」
 モーリッツは腕を組んで考え込んでいる。
「そうなんだよね。腕もえぐられているけど、でもその……なくなっちまってるわけじゃないんだ。まるまる、残ってた。ヤコブやオットーの時とは違う」
 普段は気丈なレジーナも、直接遺体を見てしまったせいか、声がずっと震えっぱなしだった。
「人狼のしわざではないからかも知れません」
 旅人の言葉は悲しみを沈ませながらもはっきりと断言している。
「では物取りか何かだと? 貯蔵庫も家の中も荒らされていなかったようじゃが」
「----いえ。その……」
 ニコラスが言葉を濁した。帽子ごとの視線がちらりとだけ外に向かう。----教会の方角に。
「何だよ、旅人さん」
 焦れたようにレジーナが急かすと、ニコラスは困ったように長い吐息をついた後に口を開く。
「あくまで、勝手な推理だということをお含み置き下さい」
 神父以外の全員がこくりと頷いて見せた。
「もしかしたら----彼は人狼だったのではないか、と。人狼は同族を喰らうことは出来ません。だから、喰われることなくただ殺されてしまったのではないかと」
 場の空気が凍てついた。ペーターは床にぺたんとしゃがみ込んだまま、モーリッツの足にぎゅうとしがみついている。その手を、安心させるように軽く叩いて、モーリッツが話を促す。
「そう思う根拠は、何かおありになるのかの」
 ニコラスは胸に手を当てた。マントごと握りしめる。体の中から湧き出る恐怖を押さえ込むかのように。
「神父さま、お許し下さい」
 少しだけその声に涙が乗っていた。村人たちの目がニコラスとジムゾンの間を往復する。
「嘘はつけません。だから正直にお話します----」
 肩が大きく上下した。深い深い深呼吸が三度。
「----昨夜、リーザと二人きりで会いたいと言いました。彼女はヤコブさんのサイロの前を指定しました。私はもちろん、穏便に話し合うつもりだったのですが、彼女は----リーザは、私に刃物を向けて来たんです」
「なんと」
 モーリッツの声を残して全員が絶句した。
「あの子は私を人狼だと心の底から信じていたみたいですね。よほどトーマスやカタリナのことが悲しかったのだと思います。私刑をする気がないなら、自分がやると、そう言って私に向かって来たんです」
 誰も動かなかった。全身を耳にしてニコラスの言葉だけに集中していた。
「もちろん、私は逃げ出しました。丸腰でしたし、あんな小さな子を人殺しには出来ない。ただ、逃げる途中で振り返った時、騒ぎに気付いてディーターさんが出て来たのが見えました。
 二人が何を話したのか、何をしていたのか、そこまでは確認出来ませんでした。ですが----。
 あれだけこの会合を大切にしていたリーザが、何故今日はいないのか。昨日、私と二人きりになるために、どうしてわざわざディーターさんの家の近くを指定したのか、----考えれば考えるほど、一番辿り着きたくない結論に、思い至らずにはいられなくて」
 リーザが殺した。ディーターが人狼である何かしらの証拠を得たのか、それとも別の理由があったのかは知らないが。
 言外の結論は、言葉にするまでもなく残る四人に伝播する。言葉にするのが恐ろしいから、黙りこくったままで。
「----あの、」
 沈黙を破ったのはペーターだった。
「旅人さん、リーザが人狼という可能性も、ないわけじゃないと思う」
「なぜ?」
 旅人は小さな少年と向き合うため、少し背をかがめた。ペーターは、意を決したようにモーリッツから離れて立ち上がる。
「つまりね……。リーザは旅人さんがニセモノだってずっと言い続けて来たでしょう。でもディーターはそんなリーザを止めに入ってた」
 それまでの会議のことを思い出す。確かに、リーザがニコラスに食ってかかるのを制止していたのはディーターだった。
「僕が人狼ならね、こう考える。----あまり露骨に敵対したら、却って目立つって。旅人さんも言ってたけど、こっそり潜伏して村人を襲う方がいいはずだもの」
 ペーターはそこまで話してから、注目が集まっていることに気付いて顔を赤らめた。急に恥ずかしくなったらしい。
「ペーター君、続けて。人が少なくなって来てる以上、あなたも大切な対策本部の一員でしょう?」
 ニコラスに優しく促されて自信を得たのか、大きく頷いてすっと姿勢を正す。
「リーザは、元のヤコブさんの家によく行ってたし、そこにいるディーターとも仲良しだった。でももしかしたらそれは、二人が人狼だったからじゃないのかな。
 ヤコブさんとオットーさんを襲ったのがトーマスさん。二人は道にほったらかしにされてた。その後に襲われたのが----襲われたのだとすれば、だけど、カタリナさん。この時は証拠隠滅のために家まで燃やしてる。明らかに、やり方が慎重になっている」
 自分で話しながら整理するように、ペーターは指を折りながら言葉を探していた。
「ディーターさんが、村人たちに見つからないように慎重にコトを運ぶタイプの----潜伏人狼、だとしたら、カタリナさんから急にやり方が変わったのも頷ける気がするんだ。人狼の襲撃だと思わせないために----自分たちの存在すら隠すために、考えに考えて決行した。だから、襲撃までに二晩かかった」
 トーマスが処刑された夜は誰も襲われなかった。それは、証拠隠滅までも視野に入れてカタリナを襲う方策を考えるために必要な時間だった----。
「だけど、積極的に出て星読みをさっさと始末してしまいたいリーザには、そのやり方がもどかしかった----そう考えたら、納得は行く」
「仲間割れ、か」
「うん。もしくは、目立つことをして来たリーザを止めようとして、誤って起きてしまった事故なのかも知れない」
 ペーターは話し終わると、ぐったりと疲れたようにまた床に座り込む。
「となると、私はやはり彼女の本性を確認しないわけには行かないでしょうね」
 ニコラスは膝の上できつく指先を組んでいた。
「彼女は、子供の感傷と取られることなど、最初から承知で土読みを騙ったのかも知れません」
「リーザはそんな子ではなかったはずじゃが……」
 モーリッツの声は沈んでいた。
「トーマスさんも、そんな人ではなかったはずでしょう」
 旅人の声は、その場に於いて、決定的な最後通牒となっていた----はずだった。

 ごとりと椅子が鳴った。その場の静かな雰囲気には不釣合いな激しさで。
 四人は、音を出した本人----立ち上がったジムゾンに目を向ける。
 ずっと俯きがちだった彼の顔を、この日村人たちは改めて見つめることになった。顔色が悪い。目の下は大きなクマ。瞳も少し血走ったように赤い。小刻みに震える指先。
 彼が焦燥していることは明らかだった。何かを訴えるように場を見回す。それから、ひどく追い詰められた目でニコラスを射抜く。
「……あの、どうなさいました?」
 旅人は慎重に言葉を選んだ。
「----リーザは、無実です」
 ジムゾンの声は掠れている。それでも、少ない人数に響かせるには充分だった。
「確かにまだ人狼はいる。でも----それはリーザじゃない」
「どういうことですか。今度はあなたが星読みだとでも言い出すつもりですか?」
 何処か冗談に紛らせるように軽い口調でニコラスが笑う。だがジムゾンは、普段見せない激しさで首を横に振る。撫でつけられている髪が乱れる。
「違う。----あなたが星読みなら判るはずでしょう」
「星読みは一晩に一人しか確認出来ません。そして私はまだトーマス以外の人狼は見つけていない」
「でもリーザを見る必要はない!」
 ジムゾンがテーブルを叩く。乗っていたグラスが派手な音を立てて床に落ちる。いつもは穏やかで冷静な神父の激昂に、旅人以外の三人はびくんと身を縮めた。
「では誰を見ろとおっしゃるのですか、神父さま」
 ニコラスは少しだけ首を傾げた。
「誰も見る必要はない」
 ジムゾンは息をついた。一瞬戸惑うように目を伏せる。彼が何か、決定的なことを言おうとしているのは、誰の目から見ても明らかだった。
 やがて顔を上がる。数瞬だけ目が泳ぐ。結ばれた唇が、ようやくのことで解けた時には、じりじりした空気は破裂寸前になっていた。
「誰も見る必要はない。人狼はここにいる」
 ジムゾンは、かきむしるように自らの胸をつかんだ。その指先は、もう震えてはいなかった。
「私が、人狼なんだ」


 またグラスの割れる音が響いた。その源はニコラス。
「----神父さま、あなたは自分が何をおっしゃっているのか判っ」
「私を処刑しなさい」
 ニコラスにそれ以上喋らせない。ジムゾンは目だけでそう語っていた。
「他の誰にも疑いを向ける必要なんかない。もうこんなのはうんざりだ。トーマス以来、誰も処刑を行わず、それで本当に村が救われると思っているのですか。
 殺すべきだ、人狼を! そうすれば全てが終わる!
 私を----私をすぐに処刑しなさい!」
 ペーターがまた立ち上がる。その目からぼろぼろと涙が溢れ出す。
「いやです。僕はいやだ!」
「ペーター、」
 目を細めてジムゾンは言葉を継ごうとした。しかしそれよりもペーターが泣き出す方が早かった。火がついたようにわあわあと。そのままペーターは駆け出した。ジムゾンの足にすがりつき、ずるずると床に座り込む。
「神父さま、そんなことをしても何の解決にもならない……!」
 ペーターが声を嗄らす。
「お一人で全ての疑惑をしょい込もうとなんて思わないで下さい! 疑心暗鬼を一掃するための犠牲になんてなろうとなさらないで! 神父さま、僕たちにはまだあなたが必要なんです、何もかもお一人で背負おうとなんかなさらないで下さい!」
 その涙声は、この場にいた全員の心を激しく揺らした。----そう考えれば納得が行く。神父が人狼騒ぎ以来、さらに無口になったのも。表情を殺していたのも。俯いたまま目を合わせなくなったのも。宿の会合に顔を出しながら全く発言しなかったのも。
 ----全ては、村人たちが疑い合うこの状況に心を痛めていたゆえだったのか、と。
 だから神父は言い出したのだ。トーマスを処刑した夜、これで解放されたと、ほんの一時だけでも訪れたあの安心感を取り戻すために、自らを犠牲にするつもりでいるのだと----。
 ペーターはまた座り込んだ。声を上げて激しく泣きじゃくる。神父は茫然としたまま足元のペーターを見下ろしていた。
 村人の心証は明らかに神父に同情し始めている。ニコラスは、マントの中で震える自分を宥めるようにそっと体を抱いていた。

6th Day - Night

 人狼の傷の治りは、ただの人だった頃よりも早い。ディーターがそれを知っていたらもっと別な方法を考えることも出来ただろう。実際、ニコラスがあの村を出て五年を経るうちに出会った『仲間』の中で、毒矢にやられている者も何人かはいる。表面的な傷への耐性が強過ぎるから、身体の内部から崩壊させる方が手っ取り早いのだ。
 血を衣服につけないようにする方法。ついてしまったらうまく洗い流す方法。既に経験を積んでいるニコラスにはどちらも造作ないことだった。それでも、明日一日ぐらいはやはり足を引きずる羽目になるだろう。いざとなれば、刃物を隠し持っていたリーザに責を押しつけるのは簡単なことだ。
 彼女も知らなかったのだろう。夜の間に限るが、匂いや気配----特にマイナス感情の気配を察する能力もまた、人狼は並外れている。普段の彼女にはそぐわない金属の匂いと、ポケットに入れたまま震えていた手を見れば、そこに何があるかを推察するのは簡単なことだった。
 夜の人狼から見れば、人間が物理的に隠れたり隠したり出来るものはほとんどない。だからこそ、人狼と対峙するために一番の武器になるのは情報と決断。言葉に出された会話以外の情報。それだけは、人狼であるとしても探り出すことは不可能なのだから。
 狭く簡素だが清潔な宿の一室。入口から入って短い廊下の先に小さな机と椅子がある。その右手、くびれた構造の部屋にベッドが横たわる。こんな時でもきちんとベッドメイクをこなしているレジーナはさすがだ。枕元に毎晩置かれているラベンダーのポプリまでも欠かしたことはない。
 机の上の凝った細工のランプに火を灯す。この村では油は貴重品だが、旅の疲れが持ち込まれる場所であることを考えると、火事の危険を捨てきれないロウソクよりはこの方がいいという判断なのだろう。見るべき観光資源のないこの村の宿は、全てが丁重で実直だ。仕事で使う者の方が多い影響なのかも知れない。
 ニコラスは暗い窓に映る自分の姿をちらりと見てから、すぐにシェードを下ろした。----その時に、軽いノックの音がした。
「どなたですか」
 ドアにそっと手を当てて尋ねる。人狼にだけ通じるテレパスで少しだけ語りかけてみるが、気配は変わらない----ジムゾンではない。
「あの……僕です」
 思いの他、下の方から聞こえて来た声に驚き、ニコラスは音を殺して扉を開く。
「どうしたの、こんな夜遅くに」
 ペーターは胸の前で手を組んでいる。その目は、薄い飴色のランプの光が振れるに合わせて微かに揺らいでいる。
「星読みさんに、お知らせしたいことがあって」
 すがる声色。今まで、幼過ぎるがゆえに話の輪から外れていた少年。危機感に煽られて、ようやく自分も立とうと決意したのだろう。必死に足を踏みしめている。
「入って」
 招き入れる。迷って、高さのある椅子よりはとベッドに座るよう促す。ニコラスは椅子を引き出してごく浅く腰かける。
「----トーマスが、処刑された日のことなんですけど」
 ペーターは、座って落ち着こうとする合間も挟まずに話し出した。
「僕、レジーナさんがリーザに話しているのを聞いちゃったんです」
「何を話していたの?」
「土読みのこと!」
 それこそが核心であるとばかりに前のめりにペーターは吐き出した。
 ニコラスはすっと唇に指を当てる。声を抑えて。音に出さずに念だけで伝えようとするが、ペーターの思考からは何も帰って来ない。
 ----この少年は『仲間』ではない。では本当にニコラスを信じたくて協力しようとしているだけなのか?
「……リーザが土読みのことを言い出したのは、きっと、レジーナさんが教えたからです」
 仕草だけで意図は伝わっている。ペーターは体を傾けて距離を縮め、囁くように言葉を続ける。
 今日の話し合いからずっと、少年はリーザだけを一貫して呼び捨てている。その意図は明確。リーザがニコラスを人狼と決めつけているように、ペーターは既にリーザを人狼と決めつけているのだろう。あまりに、ニコラスを信じ過ぎているから。
 子供は御しやすい。何処の村でも、それは同じ。ふと浮かびそうになる微笑をニコラスは噛み殺す。
「僕、人狼騒ぎのことは今まで結構聞いたことがあるんです」
 ニコラスが何も言わないのを、訝っていると捉えたのか、ペーターは更に熱を込めて話し出した。
「お父さんの所に、国から文書が回って来てて。僕、お父さんが病気でまだ寝込む前から、具合が悪い時とか、文書をまとめたりするのを手伝ったりもしてたんです、それで」
 その時になってやっとニコラスも思い出した。彼が村長の息子である限り、国が把握している限りの「被害」を彼が知るのは簡単なことだったはずだ。政治の世界に世襲制が色濃く残るこの国では、小さな頃からそんな風に仕事に親しませるのは既に当たり前になっている。
「知ってるんです。人狼被害の出た村では----人間の側に、人狼を手引きしたり手伝ったりするやつがいる。狂人、とか呼ばれてるんですよね?」
 とくり、とニコラスの鼓動が鳴った。その言葉は----五年前のあの村で、最後の被害者が、喰われて行く間に血走った目で叫んだ言葉だ。
 ----あの男か。あの男が狂人だったのか。そうなんだな。だからお前はここまで生き延びられたのか。だからあの男はお前を殺すのに反対したのか。
 ----アノ男ハ狂ッテイタノダ。
 悲しみと痛み、切なさ。その裏で密やかに育っていた奇妙な高揚感と全能感。最後に彼は笑っていた。涙を流しながらも笑っていた。これで生き延びられるんだな。お前は逃げればいいんだな。笑い顔に刻まれた片えくぼは、死の最後の瞬間までただ一人の名を囁き続けていた。
 捨てたはずの名前。彼に呼ばれることで息を吹き返した名前。
「----旅人さん、」
 五年前の彼が----オットーがどんな目をしていたか、思い出す必要はもうなかった。
 少年の目は輝いている。微かな隙間風に煽られてさわりと揺れた髪の下で。
「僕は思うんです、レジーナさんはきっと狂人だって。リーザに助け舟を出したんです。だからあんな風にリーザは強硬姿勢に出ることが出来たんだって」
 表向き沈痛な声色とは裏腹に、その目と唇は笑っている。ひくつくように。心の底の暗い闇を呼び出す歓喜に穿たれて。
 思い出さなくても、わかる。
 ----オットーは同じ目をしていた。
 村が抵抗を失った時、絶望の淵で旅に出ようとしたその時に、彼は妹を連れ出さなかった。たった一人でそこを去った。彼を失うことを恐れて、近づくことさえためらっていた妹への最後の優しさだと、彼の妹は思い続けていた。
 五年で風化したその思いに答えをくれたのはペーター。
 愛する人を助けるためではなく、自らの心を、命を、ただ甘やかな地獄に落としたかった----。
 ----彼は、そういう目をしていた。


6th Day - Midnight

 深夜の礼拝堂は、あまりにも静謐な空気で満ちている。昼間はわずかながらも人いきれがここを満たす。その瞬間は、聖地と俗との境目に、この場所は堕ちている。
 人が次々に死んで行く。葬式という儀礼をしている時間的な余裕もなく、ただ流れ作業のように命が処理されて行く。それが何のせいであるか判っていても、ジムゾンには止める手段がない。
 かつてあれほど憧れた場所に彼はいる。緑のマントの旅人。一方的に語りかけて来る彼の意思は、言葉ではないがゆえに五感全てを撫でて行く。
 人を襲う瞬間の血の滾りも。喰らう時に伝わる骨を砕く感触も。甘美なまでに甘く、痺れるように苦いその味も----そして。
 その後にやって来る、狂おしいほどの後悔も。
 今夜も殺戮は始まっている。自らの血に溺れてくぐこもったその声は、悲鳴を上げることもなく強靭な意志で捕食者に叫び続けている。旅人は見せつけるようにジムゾンにそれを中継する。あの子だけは手をつけないで。リーザだけは助けてやって。
 ごぼごぼと声が掠れる。声帯がやられて言葉が止まる。
 ----レジーナ。
 ジムゾンはマリア像を見上げる。ステンドグラスの後光を背負ったその像の顔はいつ見ても、慈愛よりも悲しみに満ちているようにジムゾンには見えていた。

 宿の裏手のレジーナの私室。派手に破壊された扉の向こうで、惨劇は既に終わっていた。
「----また、食べなかったんですね」
 ずたずたに引き裂かれてはいるが。積み木で作った人形を崩して遊んだ後のようだとジムゾンは思う。
「神父さま。人狼は何故、人を喰らうか知っていますか」
 顔が今夜は見えている。月の光を集めた白銀の髪も。帽子は弔うように胸元に押し当られていた。
 初めて気付いた。旅人が女性であったことに。
「人の肉は食用になんか向いてません。それでも、人狼は、目の前に在る器をむさぼらないではいられない。そうでなければ、本当に欲しい蜜を吸うことが出来ないから」
「----器」
 無機質な響きだった。普段、宿で聞いているニコラスの柔和な声とは別人のように。
「人狼は人を喰らうのではなく、人の心を喰らうんです。だから----だから、この世界で、人間以外に捕食出来る対象がいなかった。
 私たちは不幸です。代替手段があるのなら、こんなことをする必要なんかないのに」
 ニコラスはまた帽子を戻す。ジムゾンの横をすり抜けて外へと出る。ジムゾンもふらりと後に続いた----彼女が、まだ何か話す気でいるのが判ったから。

 月灯りは薄雲に遮られて、ゆらゆらとその明るさを変えている。
 静かな二つの足音が街道に響く。静まり返った宿を通り過ぎる。焼け落ちたまま季節風にさらされているオットーの店の前。ニコラスの足が何かに引っかかるように止まった。
「----神父さま。あなたは」
 じわりと染み出して来る感情。彼女が、いつもいつも繰り返して来たイニシエーション。
「あなたはいつ、ご自分の本性に気付いたのですか?」
「----子供の頃です。もう30年以上前になる」
「それでも、今まで人を誰も喰べたことがないのですね」
 とくん、と鼓動が響く。意思が緩やかな波を作る。
「どうしてですか、神父さま。----あなたは何故、喰らわずにいられたのですか?」
 ----彼女はそのためにここに来た。答えを探すために。
 旅人は膝をつく。祈るように手を組んで。強くなり始めた風がことりと帽子を落とす。その下から現れた瞳は泣いていた----夕陽を閉じ込めた琥珀の色。殺されたパン屋も同じ色の目をしていた。
「----私はあなたのように強くなれなかった。何もかもが恐ろしかった。自分自身が一番、恐ろしかった」
「--------」
「喰らうたびに私の心は腫れて行きます。腫れるたびに飢えるのです。もっと大きな心が欲しいと、もっと強い心が欲しいと。満たしてくれる何かが欲しくて、欲しくてたまらなくなる----」
「--------」
「星読みは----」
 ----今でも星を観る。彼女の心の中で。喰らわれて死してもなお、空に運命を描いて見せる。恨みもなく悲しみもなく。ただ機械のように。眠りの浅い無意識のうちに、ニコラスにもそれを見せて来る。
 そして運命を指し示す。今やあの時の狂気を捨てた兄は、きっと全てを告発する。
「だからオットーを殺した----」
 唯一、触れることに戸惑わずに済んだひとを----愛することの出来たひとを。
「カタリナを殺したのは、何故ですか」
 ジムゾンの問いかけには、投げ捨てるような憎しみが帰って来た。
「彼のものを奪ったから」
 ジムゾンは瞼をふさいだ。今はもう視覚は要らなかった。
 声と意思。ゆるやかに押し寄せる波。音にならないささやきが溢れ出す。
 既に彼女自身、感情を制御出来なくなっている。口から出る言葉と、人狼のテレパスと。入り混じる懺悔。長年積み重なった『心』が、出口を探してあえいでいる。
 ----救って下さい。私を。
 ----人を喰らわずに済むのなら。
 ----すがることで救われる神がいるなら。

 その神の御名を、私にも教えて下さい。

「私にはあなたを救うことは出来ません」
「神父さま」
 絶望を含む細い声。
「私には何もありません。生きようとする意志さえも、もう」
「--------」
「あなたは何故すがらないのですか。それでも生きようとし続ける自らの絶望に」
 ジムゾンには出来なかった。出来ないでいることを、軽やかに乗り越えて来たニコラスこそ、ジムゾンを救いに来たのだと思ったのに。
「この世に神なんていない。誰もを救う神なんて。ただ寄る辺なき心を支えるために、少しだけ天を仰ぎ、手に取れない何かを()ようとする、その意志こそが神と呼ばれる。それだけだ」
 ぶ厚い雲が通り過ぎる。暗闇に埋もれる旅人は、闇の底からそれでもなお救いを求めるように手を伸ばす。ジムゾンの腕をつかむ掌は、ぞっとするほど冷たかった。
「人狼にとっては----絶望こそがそれではないのですか。諦めこそがそれではないのですか。自らの運命を受け容れて、与えられた命の間に、犠牲となった人々の心を背負い、決して捨てることなく抱え続けて行くことこそが、寄るべき神ではないのですか」
 白い息が不規則に雲を作っては消えて行く。ニコラスの唇から洩れ出す声はもう意味をなしていなかった。ひくん、と喉が鳴ったのを最後に、やがて嗚咽へと姿を変える。
 彼女は崩れ落ちた。地をつかんで顔を伏せる。線の見えない肩が、マントの下で震えている。
 抑えることの出来ない泣き声を、再び現れた月だけが冷たく照らしていた。


6th Day - Midnight

 目を覚ました時、時間は既に真夜中になっていた。
 ディーターを巻き込むまいと決めたはずなのに、はっきりと巻き込んでしまった昨夜。時が遡れるなら、リーザはあの時の----ニコラスと約束した時の自分を殴りつけてでも止めているだろう。
 視野が狭かった。自分とニコラスという対立構造しか見えていなかった。相手はいくらでも裏を読んで来る相手だと、他ならないディーターに忠告されたばかりだったのに。
 それなのに----逃げ出すことしか出来なかった。
 武器まで持ち出したのに。刺し違える覚悟までしていたのに。それでも、音だけで流れて来た凄惨な戦いに足が竦んで、何もすることが出来なかった。
 ディーターを殺したのは自分だ。実行犯は旅人でも。彼の寿命を、明らかにリーザは奪い取ってしまった。
 涸れたと思った涙がまた溢れ出す。目の端がじんじんと痛む。流れる涙がこすれるのですら辛い。抑えようとしても出来なかった。しゃくり上げる息が、自分の意志では止められなかった。
 ----ノックの音がした。
 リーザは耳をふさいだ。ベットの上で自分の膝に顔を埋める。誰にも会いたくない。会合に参加するのも怖い。リーザの行動が、今度は誰を殺すことになるのか----そんなことばかりが頭を巡る。
「リーザ、大丈夫か?」
 穏やかで落ち着いた『父』の声。
「キッチンにスープとパゲットを用意してある。冷めないうちに食べなさい。胃がつらいなら、パゲットをスープに浸して柔らかくするといい」
 初めてだった。今まで、親らしい言葉など全くかけたことのないジムゾンがそんなことを言うなんて。
 胃がつらい、と何故判るのだろう。自分のしてしまったことの重大さを知られている?
 ぞくりとした。二つの可能性。
 一つはもちろん包丁が持ち出されていること。帰って来てから返してはいるが、引き出しに放り込むように片付けただけだ。同じ位置に戻したかどうかは自信がない。
 そしてもう一つは。
 ----また旅人が、何かを言った。
 自分が出ていない間に。また事実を捏造した。
 リーザは、ジムゾンの足音が遠ざかるのを確認してから起き上がった。動いていないのに息が上がっていた。
 だめだ。自分がこんなことをしていてはだめだ。ディーターが守り通してくれた命。捨て鉢になっている場合ではない。
 ニコラスに話したことはハッタリで終わらないかも知れないのだ。リーザが人狼と思わせるため、誰かがいる限りはリーザは生かされる。
 ----モーリッツ、ペーター、レジーナ----三人がいる限り、まだ希望は潰えているわけではない。
 リーザは立ち上がった。ずっと寝ていたせいか一瞬足がフラついたが、すぐに膝に力を入れ、身を立て直す。
 まずは温かなスープを食べよう。パンを千切ってスープの中にバラ撒いて。ひたひたに味の染みたパゲットを舌で潰すのは大好きなのだ。ジムゾンにこの好みを話した記憶はないけれど。想像すると少しだけ心がほわりとした。

7th Day - Morning

 モーリッツにとって、毎朝レジーナの宿でぼんやりとコーヒーを飲むのは、仕事前の大切な息抜きの時間だった。少なくとも、人狼騒ぎが始まる前までは。
 今となっては、その時間すらほぼ対策会議になっている。この所、何かしら事件が起きる。朝からその対処に追われる。冬支度という意味では一番忙しいこの時期に。
 幸いにして公務の方はそれほど立て込んではいない。忙しいのは死亡届とそれに伴う戸籍の訂正くらいのもの。だから、まだ朝のコーヒーの習慣を止めるほどには至っていない。
 とは言うものの。
 その日、宿の入口は珍しく鍵がかかったままだった。この村に住んで長いモーリッツにとって、理由はいくつか思い浮かぶ。
 レジーナは寝坊はしないが、体調を崩してしまえば話は別だ。この所ずっと対策会議で疲れが溜まっていたのだろう。一言声をかけてみるかと、のろのろした足取りで宿の裏手に回り込む。
 ----悲劇は、それで表沙汰になった。
 モーリッツは執務室にとって帰ると、太めのペンで、全員執務室に集まるようにと貼り紙を作った。起きて来たペーターに頼んで宿の入口に貼り出させる。
 残る村人が----旅人も含めて、そこに顔を揃えるまでに、小一時間とかからなかった。

7th Day - Forenoon

 人々は貼り紙で初めてレジーナの死を知った。リーザもその一人。しかも「また」喰われていないのだと言う。昨日の会議にいなかったリーザにはその「また」の意味が判らず、どういうことなのかとモーリッツに食ってかかってしまった。
 事情を説明してくれたのはペーターだった。それまで無邪気に遊んでいた年下の子供だった影は、その時だけはなくなっていた。生き残った一人の村人として、責務を果たそうとする意志に溢れていた。
「----だからね、昨日はディーターさんが人狼だったんじゃないかって、そういう話をしてたんだ」
 その飛躍した結論にリーザはまた首を傾げる。同族を喰べることが出来ないから、喰われていないから人狼。それではあまりに短絡過ぎではないか。
 とはいえ、その場にいた誰もが、昨日の会議であったはずの、そこに至る推理を説明してくれようとはしない。----リーザだけが、何も知らされない。
 嫌な予感は当たった。ディーターが死んだ夜、あの場にいて、今生きているのはニコラスと自分だけ。旅人はまた、自分の見たことを捻じ曲げて伝えたのだ。昨日一日で、リーザは既に他の村人からも人狼疑惑をかけられてしまったのだ----。
「こんなの、欠席裁判じゃない」
 リーザは出来る限りの冷静さで反論する。
「あの夜、リーザが見たことを話させて。ディーターは人狼なんかじゃない。もちろん、レジーナも」
 モーリッツの目は同情。神父は相変わらず目を合わせない。ニコラスの表情で見えるのは軽い微笑だけ。ペーターは絵本でも読んでもらっているかのようにどこかわくわくした様子で話の続きを待っている。
 リーザは深呼吸して落ち着いてから、なるべく順序立てて状況を説明しようとした。
 自分は殺される覚悟で会いに行ったこと。ディーターにその目撃者になって貰おうとしたこと。ニコラスがやって来て、話したこと----真の能力者は、偽と疑惑を被せるためにもあえて襲撃しないだろうという予測。
 話の途中で彼が走り出したこと。サイロを回り込んで、そこにいたディーターを襲撃したこと。
 ニコラスが言った言葉----「わざわざ出て来たわけね、狩人さん」----その声を最後に、リーザはその場を逃げ出してしまったこと。
 必死に説明しながら、次第にまた涙が溢れて来た。瞼がヒリヒリする。だが涙も言葉も止められなかった。最後には、自分が彼を巻き込んでしまったことを謝り続けて頭を下げた。
 何とか、話は出来たと思った。伝えられるべきは伝えたと思った。
「----しかしのう」
 モーリッツは悲しみを双眸に湛えている。
「リーザ、今話したことはそっくり裏返しでニコラス殿にも当てはまることじゃろう?」
「----え」
「真の能力者は、偽と疑惑をかけさせるためにあえて襲撃しない、という話じゃよ」
 ニコラスはその言葉を受けるように口を開く。
「それに、リーザ、あなたは隠していることがある」
「ないわ!」
 反射的に叫んでいた。ここでモーリッツの信頼を得られなければ勝てないのだとリーザは悟った。ペーターはまだ子供過ぎる。まるで旅芸人の芝居でも見ているかのように目をキラキラさせている。
「私の口から言わせたいのですか、リーザ」
「なんのことよ。リーザは、全部本当のことを話してるわ!」
 ふふっ、と、その場に不似合いな笑い声が洩れる。モーリッツの足元に寄りかかるように床に座っていたペーターからだった。手元にはやはり積み木。同じように何かの動物を作っている。犬か----あるいは狼か。
「僕は昨日いたから知ってるよ。リーザはナイフを持ってたんだ」
 ずきん、とリーザの胸が跳ねた。----隠していたのではない。結局使わなかったので、状況を正確に説明することに頭が取られて忘れていただけだった。
 一気に血の気が引いた。自分がしてしまった大き過ぎる過ちに、その時になって気がついた。
「昨日からずうっと、旅人さんはちょっと足を引きずってる。ケガをしているのは、腿のあたり?」
「……ええ」
 何処か勝ち誇ったように。それでも表面は沈痛さを崩さずに。彼のそんな心が、リーザには見えてしまうのに。何故、皆は気付かないのだろう? これもまた、土読みに課せられた残虐なハンディキャップなのだろうか?
「リーザが切りつけるんなら、そのくらいの高さがちょうどいいかもね」
 ペーターは、まるで歌うみたいに言い切って積み木を弄び始めた。
 違う、と言いたかった。切りつけたのは自分ではないと。だが声が出せなかった。どう説明すればいい。確かに包丁を持ってはいた。それを自分からは言わなかった、でもこの場では、その理由を「忘れていた」だけで納得してもらえるとは思えない----。
 ----神父は助けてくれない。まばたきをする彫像のごとく動かない。モーリッツはじっとリーザを見ている。その目が厳しさを増している。つい数日前までは、子供の一人として目を細めて慈しんでくれたのに。
 疑惑は静かに降り積もる。トーマスを処刑しようとした夜の会議の時よりも、さらに濃く強く、跳ね除けようのない重さで。
 リーザは瞼を下ろした。もう取り戻せないのか。この村で助け合って生きて来た自分たちの温かな時間は。身を寄せ合って、支え合って暮らして来たあの笑顔は----。
「星読みの結果を、お聞きになりたいですか」
 ニコラスの声は死刑宣告に等しかった。結果など、言われなくてもリーザには判っていた。----判り過ぎるほどに。


7th Day - Evening

 リーザの部屋の机の上には、一冊の本が置かれていた。
 本の中ほどに、栞のように紙が挟まっている。そのページをジムゾンが開くと、あの四行詩が現れた。
 触媒、と彼女は言った。自身が人狼であることの苦しみを抑えるために酒量が増えたのは、確かにこれについて考え出して、文章を書き始めてからだったような気がする。
 古来から言葉には魂があると言われていた。少なくともこの国では。ただそれは、この詩についてだけは呪文の類とは違うのだとジムゾンは思った。
 気付きの力だ。自分の奥底に潜む本質を、自ら覗き込んでしまったのだ。これをきっかけにして。
 そして。一度見えてしまったそれからは、誰も目を逸らせない。
 ニコラスもまた同じ。彼女は、目覚めてしまったがゆえに、意志より先に体の反応で人を喰らうことを求めてしまったがゆえに、後から押し寄せる人としての倫理の狭間に堕ち込んだ。
 喰らった人々の心を全てその身に背負おうとした。背負わなければならないことを、無意識に自覚していた。切り捨てなければ膨れ上がるだけの罪悪感を、決して捨てることが出来なかった。
 だから。喰らった人々の心という幻を、夢の中で飼った。
 責めてくれる誰かがいなければ、彼女の心は崩壊するのだ。
 ----苦く笑う。それは神そのものだ。彼女にとっては。
 どう違うのだ? それは何故信仰と呼ばれないのだ? ありもしない神を心の中で創り出し、まるで自身とは別物のように切り離して崇めるのと、それの何が違うのだ?
 挟まれていた紙に目を移す。見慣れない筆跡で診断書と書かれている封筒。リーザが何かの病を抱えていたのかと不審に思って裏返す。
 リーザの拙い走り書きがそこに遺されていた。
 体がお辛くなったら、これで神父さまを引退して下さい----リーザ&ディーター
 その黒鉛の跡は新しい。投げ出されている鉛筆が目に留まる。
 持ち主を失ったそれは、雪を運ぶ季節風の隙間風に煽られて、かたりと、少しだけ転がった。

7th Day - Midnight

 ニコラスが深夜に庁舎の寮を訪れた時、既に「先客」はそこで待っていた。小さく鼻歌を歌いながら、指先でくるくると何かを振り回している。
「やっと来たね。遅いよ、旅人さん」
 ペーターは楽しくてたまらないという顔をしている。
 回していた何かを空に放り投げた。飛んで来たそれを慌てて受け取る。
 冷たい。手を開いて出て来たのは----鍵束。大きめのリングにいくつかの鍵がぶら下がっている。
「一番大きいのがこの表玄関の。モーリッツの部屋は三号室」
 満面の笑顔。調子外れな童謡を聞いているようだった。
「……この鍵、どうしたの」
「何処にあるかくらい、僕は知ってるよ。ここで暮らしているのは村長と僕とモーリッツだけだし、持ち回りで預かるんだ」
「違う。何故私に貸すのか、って聞いてる」
 判り切っている。今までの村にだって『彼ら』はいたのだから。
「あとはモーリッツだけだから。どうせ父さんはもう長くない」
 声を落とす。含み笑いの余韻が続く。少年はまばたきのたびに目の色を変えていた。ゆっくりと、ゆっくりと、とろんとした憧れが灯る。
「全部終わったら、僕も連れて行って」
「----何処へ」
「何処へでも。旅人さんの行く先に」
「悪いけど、君を養う余裕なんて私にはないですよ」
「そういう意味じゃないよ。僕はね----目覚められなかったんだ」
 くすくすと笑い出す。自らを心の闇に堕とし込む笑い。
「たくさんのお話を読んだよ。色んな勉強もしたよ。でもね、僕はなれないんだ。いっくら憧れても、目覚められなかったんだ」
「--------」
「だからね、あなたとひとつになりたい」
 恍惚のまなざしと一緒に手を伸ばす。
「僕を持って行って----あなたのお弁当にして欲しい」

 氷の村に冬が来た。夜半からちらつき始めた雪の勢いはまだ弱い。
 ジムゾンには既に判っていた。もう人狼に抵抗できるほど村人は残っていない……。残されているのはヴァルターとペーターだけ。そしてペーターは。
 ジムゾンの足元で泣いていた少年は、派手な号泣の陰で確かに笑っていた。
 あの笑いが何なのかは知っている。ジムゾン自身がかつて持っていたものだからだ。自分がまだ人を喰らう者だという自覚がなかった頃から、物語の捕食者たちに抱いていた蒼く(くら)い憧れ。
 あの当時のジムゾンが、ペーターの立場でここにいたとしたら、きっと同じことをしただろう。
 彼もまた闇に囚われたのだ----あの年で。
 最後の晩餐を終えたニコラスは雪を浴びている。体に降り積もる冷たい感触がひたりとジムゾンにも伝わって来る。
 神父は立ち上がった。最後に、そっと白い封筒を手にする----リーザが遺してくれた、最後の親孝行を。

 教会の入口で、ニコラスは神父を待っていた。
「もう怪我はいいのですか」
「はい」
 その左手はペーターに占領されていた。まるで母親にまとわりつく子供。楽しそうに小声で歌を歌っている。
「----彼を連れて行くんですか」
「僕がついて行くんだよっ」
 手を挙げてにこやかに宣言する。ニコラスは苦笑して肩を竦めて見せる。
「お弁当だそうですから」
「うんっ」
 ジムゾンも苦笑した。----『彼の身となりし我に惑う道は既になし』は、『彼ら』の言い草でもあるのかも知れない。
「神父さまは、やはり残るのですね」
 テレパスでも言葉でも語りかけてはいなかったのだが、やはり意思は洩れていたのだろう。ジムゾンはただ頷いて見せる。
「----何故、ですか?」
 しんしんと雪が降りる。雪の幕を透かして冷たい月が光を落とす。
「私が存在することの出来る場所は、ここ以外にはないからです」
 ここにいれば、ずっと誰も喰らわずに済むから。そのまま、命が尽きるのを待っていられるから。
 過去の文献を探るうち、確信のないままに気付いていたことが一つある。
 人狼が人を喰らうのは、そうしなければ死ぬからだ。
 おとぎ話に仮託された化け物たちは、たいてい人の手で討伐される。だが、時に異色の物語として、狩られなかった化け物たちが描かれることがある。彼らは、概して長くは生きない。はっきりと数字に著している資料などないが、普通に人が生きる時間の半分以下であることは共通している。
 ヤコブの言葉が別の意味を持って浮かぶ。----ジムゾンは「生かされて」いた。
 それが何のためだとしても、この一連の事件で自分の「役目」はきっと終わった。
 だから、この村の----この村に遺された人々の想い以外に、自分の棺となるべきものはない。生かされて来た。だから、死をもここに遺さなければならないのだ。
 ニコラスは何かを言いかける----が、開いた唇は長い間そのまま留まり、やがて白い息だけを吐き出した。
 しばらくの沈黙。ニコラスとペーターのつながれた手の上で、淡雪がほろほろと溶けて行く。
「----また、会いに来てもいいですか」
 泣き出す直前のように震える声。ペーターは慰めるつもりなのか、両手でニコラスの手を包み込んだ。
「生きていれば」
 ジムゾンは微笑んだ。
 それはただの言葉。叶うことなどない約束。それでも、彼女にとってそれが『救い』になるのなら。
「生きていて下さい、神父さま」
 感情を抑えた声。裏腹にテレパスを通して押し寄せて来る波がある。
 なぜ生きて下さらないのですか。望んで『目覚めた』わけではない者にとって、あなたは救いになれるのに。長きに渡る人との共存という、たぐいまれなる前例なのに。
 捨てないで下さい。私たちを。----わたしたちの、こころを。
「私が人狼だからです、ニコラス」
 きょとんとしてペーターは2人を見上げる。意思を読めない彼から聞けば、会話はまるで噛み合っていないだろう。
「これを共存とは呼べない。私は自分の娘すらも救えなかった」
 ----否、救わなかった。
 初めて『語りかけた』。ニコラスの手が----ペーターに握られていない方の手が、わずかに動いた。
 ----私は、あなたが『語りかけ』る全てを欲していました。
「……旅人さん?」
 ペーターの声はニコラスの耳に届いていなかった。
 ----かつて学生だった自分が、物語たちに疑似体験を求めて渇望を満たそうとした時と同じです。村の神父としても立場より、あなたがヒトを喰らう意思を味わえなくなる方が怖かった。
「神父さま」
 ----体中が、あなたを求めていた。あなたの感じている全てを、我が物に出来ることが(よろこ)びだった。毎夜私はその悦楽に酔っていた。だから村人を見殺しにした。
 自分が、満たされたかったから。長年求めていたモノを、手に入れてくれるパートナーを得られたから。
「救われていたのは、私の方だ」
 最期に、という言葉だけは飲み込んだ。
 さざ波が津波になる。ジムゾンの心もまた引き裂かれている。十年近く、この村の一員として受け容れてくれていた人々の命を、抑え続けて来た飢餓感に毒の杯を注ぎ込むために費やしてしまった。
 激しい後悔と至高の歓喜。代わる代わる訪れては引いて行く波にジムゾンは翻弄されていた。襲撃が続く夜の間中、ずっと。
 ニコラスは何かを振り払うように頭を軽く振った。ペーターは何を察したのか、旅人の手からそっと離れる。
 自由になったニコラスの両手は、すぐに神父に伸ばされた。外気に晒された冷たい手がジムゾンの頬に伸びる。包み込むように。その親指が、流れ落ちた涙に触れる。
 じんとした雪の冷たさが去る。じんわりと、体温が混じって行く。ためらわずに触れることの出来るぬくもり。それは、ジムゾンだけでなく、ニコラス----アイリーンもまた、求めても得られることがないものだった。
 かつてこれほど迷わずに手を伸ばせた人は、彼女には一人しかいなかった。接しているせいで一際、想いがジムゾンに流れ込んで来る。彼女の中に溢れる『彼』は、激しいまでの愛しさと苦しいまでの憎しみに彩られていた。
 彼は----オットーは、彼女にとって永遠の棘となるのだろう。プラスであれマイナスであれ、刻み込まれた存在感が大き過ぎる。それは、相反する二つの意味で、彼女にとっての『神』なのだから。
「一緒に来て下さい」
 風が舞った。吹き上げられた雪の花びらが遊ぶ。緑の帽子を巻き上げながら。
「私はここで朽ちる」
「何故ですか----絶望に、救いを求めてはいけませんか」
「私は」
「誰かの絶望を、救おうとしてはいけないのですか!」
 掌が下りた。胸元にすがりつく銀色の髪。その隙間から見上げる瞳は、雪をまぶした月が夕陽に閉じ込められる琥珀。
 ----ジムゾンは動かなかった。ただずっと微笑んでいた。言葉よりも念よりも雄弁な、揺るぎなき決意を静寂に込めて。


After 2 Months

 底の浅い大きな木箱が、いくつもの小部屋に区切られている。立てかけられたそれが、衝立のように、雑然とした大きな集積所を区切っている。
 郵便物を行き先別に仕分けるための棚。メイが、氷の村の廃村に伴ってここに異動して来てから一ケ月が過ぎた。
 毎日、仕事が終わるたび、メイはその箱の前に立つ。すっかり位置は覚えてしまった。右の端の一番下。今日も、そこには手紙が残されている----仕分けても、配達されることのない手紙が。
 既になくなった氷の村。手紙の主はこのことを知らないのだろう。あそこのように自給自足で回っている小さな集落は、一部の行商人や配達人以外に外の人を必要としない。逆に言えば、外部の人間もまた、氷の村のような集落の安否など誰も気にしていないということだ。
 仕事の分を超えている。メイはそう思いながらも、この手紙を密かに預かり続けている。彼はもうこの世にいない。それでも、彼の元へ----あの教会へ、配達し続けるために。

「やっぱりお前だったか」
 新しく同僚となった同い年の青年。一瞬名前が出て来なくてきょとんとしたことに気付かれたのか、彼は苦笑いしながら「ウィルだよ。いい加減覚えろ」と軽く肩をこづいて来た。
「あー……うん、ごめん。で、その、何が?」
「手紙。業務上横領ってやつだぞ、いちおー」
 メイは指摘されてから慌てて手紙を後ろ手に隠す。けど、この状況はどう見ても遅過ぎた。
「差出人に戻せないし、どーせ捨てられちゃうだけじゃないですか」
「他の手紙だってそうだろ」
 ウィルは傍らの机から椅子を引っ張り出して腰を下ろした。軽く顎でしゃくってメイも座るよう促す。
「お前、そいつに限って持ってくだろ。ジムゾン神父宛ての」
 じっとメイを凝視する。決してそれは責める目でもからかう目でもない。
「----第一発見者、だからか?」
 ウィルの言葉にメイは目を伏せる。瞼の裏に、一ケ月前の光景が蘇った。

 ----雪混じりの柔らかな陽光がステンドグラスから射していた。いつものように郵便物を回収しようとした礼拝堂。ジムゾンはマリア像の前に倒れていた。胸に抱き込んでいたのは十字架と白の封筒。眠っているのだと、最初は思った。それくらい穏やかで邪気のない笑顔だった。
 いつもの習慣で声をかけた。当時、この村はやって来るごとに異常なほど静かになっていた。人の姿を見かけるのすら珍しくなっていた。配達された手紙はどの家でも、抜き取られないまま郵便受けに溜まっていた。不思議に思いはしたけれど、嗅ぎ回って探偵ごっこをしている余裕はメイにはなかった。
 神父の死をメイはこの町の自警団に知らせた。自警組織のない村の管轄はここの町の担当だったから。調査隊が村に入り、知らない間にこの村の人々が全員死亡していたことが表沙汰になった。神父が、最後の住人だった。神父以外は、雑ではあるが一応埋葬されていたし、整理されないまでも死亡届が村長の執務室に放置されていた。
 神父が手にしていた封筒がこの町の医師ヴィンセントの診断書だったため、神父の遺体はこの町まで搬送されて来たという。ヴィンセントが最終的に死亡診断を下したらしい。詳しいことは判らないまでも、餓死か衰弱死だという話だった。
 メイが発見した時の神父は「餓死」という言葉ほどには痩せてはいなかった。ごく普通の体型だったはずだ。それを素直に口に出したら、話をしてくれた調査員もよく判らないと肩を竦めた。ヴィンセントがそう言っていたのだそうだ。----なんかね、先生も診たのは二人目だとか言ってましたよ。特定の栄養素摂らないと三十年くらいで死ぬ病気があるとかなんとか----
 その言葉もあり、何らかの新しい伝染病を調査員は疑った。だが結局、神父一人の死因だけでは村全滅の理由が判らず、起きていたことを知るために墓が暴かれた。そして、直近に埋葬された名のないの墓のうち、少なくとも二人は手口から人狼の仕業と、二人は絞首台を使って処刑されたものと判断が下った。
 メイがそこまでのことを知り得たのは、ジムゾン神父の発見者であると同時に、配達人として唯一定期的にこの村を訪れており、外の人間の中では一番村のことに詳しかったからだ。事情聴取のために何度も村人たちのことを尋ねられるうちに、メイもまた情報を得ることとなった。普通は人狼被害のことはあまり表沙汰にされない。何処かに潜む人狼たちを刺激しないためだとメイは聞かされていた。
 住人のいなくなった村は即座に廃村の手続きが取られる。名目上は、メイの住むこの町と合併したことになっている。だが、あの村に人が暮らすことはもうないだろう。人狼被害は、隠していても噂となって町を駆け抜けて行くものだから。
 ----そして、あの手紙は配達されないまま箱の隅に残されることになった。

 一週間から十日に一度。細身の封筒は、廃村前もその後も、同じペースでジムゾンに送られている。来るたびに消印は変わっているが、差出人住所はいつも書かれていない。消印から判断する限り、彼女の滞在地はいずれも、メイのいるこの町と似たような中程度の規模の場所だ。周辺の小さな集落の郵便物を取りまとめるハブ局を持つ、という所まで共通している。
 そう、『彼女』----差出人は女性。覚えてはいけないと思いながらも忘れられなかった。流れるような筆跡のアイリーンという署名と、かくかくした拙い子供の手によるペーターという署名が連名で並んでいた。
 今日届いた手紙には、ペーターの署名がない。アイリーンの文字は、いつものさらりとした字とは違い、何かに動揺しているように乱れている。
「----あれ、ペーターどうしたんだ」
 ウィルはいつの間にかメイの手から手紙を奪い取っていた。
「って、ウィル、あんたも同罪!?」
「いや、メイが気にしまくりだったから俺も気になっちゃってさ」
「うん。まあ……気にしてたのは確かだけど」
「知り合いなのか?」
「----ちょっとね」
 どう話せばいいのか判らなかった。神父が出版社に送っていた、ずっしりとした封筒の重みを思い出す。
「あれかな、隠し子とか」
「……は?」
 ウィルは手紙をメイに返す。まじめくさって眉を寄せてみせる。
「神父って戒律上は結婚出来ないじゃん。でも人並みに恋愛しちゃう人ってやっぱいるんだよな。俺の故郷でもそんなんあってさ。事件のない田舎村にとっちゃ一大スキャンダルだったよ」
 そうなんだろうか。封筒に目を落とす。いなくなったペーターと、心を映すように揺れて滲んでいる文字。
「----ペーター、死んじゃったのかもね」
 その関係が明かされればスキャンダルになるから、『アイリーン』は子供を連れて旅に出たのだろうか。ここ最近手紙が突然増えたのは、息子・ペーターが不治の病にでもかかったのかも知れない。
 せめて最期に会わせたいと、それを願って彼女はジムゾンを説得しようとしたのか。それがあの手紙の束の真意だったんだろうか。
 でも----間に合わなかった。どちらも。
「かもな。ジムゾン神父も亡くなったし、アイリーンは一人になっちゃったんだ」
「----かなしい、ね」
「そうかな。お荷物全部なくなって、新しい男を探せるようになって万事オッケーかも」
 メイはウィルを睨みつける。彼は身を縮めて、こぇぇ、と大袈裟に震えて見せた。
「もう帰る。悪いけどこのことは」
「言わないって。どうせ捨てられるだけだから、誰も気付きゃしねぇだろ」
 わざとらしいくらいふざけてくれるのは、却ってこんな時は気が楽だった。
 もちろん、本当のことなんてメイには判らない。これからだってずっとそうだろう。気になるなら、その説を信じておくのも悪くない。
 人柄までは知らないけれど、きっとジムゾンは素敵な神父さまだったのだ。『アイリーン』と恋に落ち、『ペーター』が生まれてしまって。神父のために身を引く決意をした『アイリーン』は、閉鎖的な村ゆえに噂が広がれば止められないと感じ、母子で村を出ることで彼を守る決心をした----。
「ちょっとロマンチック、かな」
「何が」
「なんでもないっ」
 封筒をポケットにねじ込んで立ち上がる。軽く手を振って、ロッカールームに荷物を取りに行く。
 それが神父の最期の恋なら。『アイリーン』の想いが続く間は、やはり自分が届けてあげよう。
 いつか彼女も気付く日が来るだろう。自分が一人で遺されたことに。それでも、その間までは、彼女は一人ではない。想いを共有した人と、心だけでも寄り添うことが出来る。
 いや。もしかしたら----。
 これはむしろ永遠の約束なのではないだろうか。自身の居場所を知らせないまま、手紙は届き続ける(ように見える)。返事は最初から期待していないのだ。彼女は書き続けることで、ずっと永遠に彼とつながることが出来る。
 もしかしたら、それも『アイリーン』は知っていたのかも知れない。だから差出人住所のないままで、彼女は書き続ける----命の、想いの続く限り。
「やっぱり、ロマンチック」
 ちょっと哀しい物語だけど。
 仕分け棚を拡大しただけのような、粗末な木のロッカーから荷物を引き出す。手に馴染んだ革のカバン。外ポケットのひとつは、もはやアイリーンの手紙を入れる定位置になっている。
 この次の休みは、今まで届いた手紙と一緒にこれを届けに行こう。誰も氷を割ることのなくなった村の地面は、きっとスケートリンクになっている。勤め始めてから手に入れた、鋲を打った特製の靴。役目を終えたはずのあれを、久し振りに引っ張り出そう。
 メイが見上げた小さな窓に、ちらりと白いものが舞った。今夜は雪になるのだろう。
 ----冬が、この国を白い安寧で包み始めていた。

=== END === / 2005.9.16 / textnerd(a.k.a.watercress@D664) / Thanks for All Readers!
..... and piece of memory / Image Illust by iruse is here.

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