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遥かなる時空の中で(PS) 二次創作

   lost moon

第11章 5つめの心のかけら(cruel passion pt.1)

「……いけません、まだお休みになっているので……天真殿!」
 藤姫の困った声でその朝は目覚めた。まだ体は働かない。頭だけ少し動かして、ゆっくりと瞳を開く。
 几帳と御簾越しに細く射した日差しはもう夏のものだ。その光を、大きな足音とともに人影が遮る。
「あかねー」
 その声に遠慮はない。藤姫がまた泣きそうな声でたしなめるのを聞いて、「寝てんのが悪いんだよ。約束してたんだぜ?」
「……ですが、その……」
 口ごもる藤姫に天真の影が止まる。
「何だよ」
「……友雅殿が……いらしてますので」
「………」
「………」
 黙り込んでしまった2人の表情を想像して、それまでこらえていた友雅も思わず笑い出してしまった。
「……起きてらしたんですか!?」
 藤姫はばたばたと入って来た。几帳の外側で衣擦れの音がしている。
「まだ神子はお休みだよ」
「……すいません、あの……天真殿が」
「聞こえてる。もう少し待ってもらったらいい」
「……はい……」
 その後ろで足音が遠ざかる。藤姫も「何かございましたらお呼び下さい」とだけ言って下がったようだ。
 ----かと言って。
 無防備に眠る腕の中の神子殿----あかねを、無理に起こしてしまうのはもったいないと思っていた。ここ数日、ずっと会えなかった。寝顔さえも見ていなかった。薄暗い月明かりの中ではなく、こうして、多少薄暗いとはいえ、太陽の光で彼女を見るのは久し振りなのだ。
 そのあかねの眉が動いた。ふう、と小さなため息が洩れる。
「----姫君」
 耳元で囁くように呼びかける。しかし。
「……、ん…… ま、くん……?……」
 寝ぼけたままのあかねの口が動いて、出て来たのは彼の名前だった。
 約束していた、と言っていた。だから呼ばれたと思ったのだろうか? そんな風に冷静に解釈してはみても。
「やれやれ……ひどいな、私の腕の中で他の男の夢を見ていたのかい?」
「----え!! あっ……」
 はっきりと目を覚ましたあかねは、すぐ自身の状況を思い出したのか、かぁっ、と頬を染めて目を見開いた。
 それからすぐに目を伏せて。
 両手で顔を覆って。
 泣きそうな声で謝る。
 相変わらずよく表情の変わる姫君だ。
「……冗談のつもりだったんだが。本当に天真の夢を?」
「----!!」
 今度は怒り出した。
「からかわないで下さい!! 声がしたような気がしただけなんです……」
 拗ねたように顔を背けて、腕の中から逃れようとする。その動きを封じると少し意地になって手で突っぱねようとする。
「……あの、私、今日は……」
「----仕方ないな」
 本当は放したくはないのだけれど。
「……約束してて……」
「あぁ、聞いてるよ」
「聞いてる??」
「天真はもう来てる」
 また頬が紅潮する。
「……う、うそぉ……藤姫、いる??」
「はい」
 静かな衣擦れの音が近づく。
「着替え……お願い出来る?」
「はい」
 あかねの表情が少し変わる。恐らくはまだあの鬼の少女----ランを探しているのだろう。友雅の前では無防備で柔らかな笑顔でいることが多いあかねも、『神子』を自覚すると笑顔に鋭さが混じる。
 静かな威厳。この小さな少女に宿った不思議な宿命。そして八葉という役目。3ケ月前までは友雅にとって多少憂鬱でしかなかったそれも、今となっては終わってしまったのが少し寂しいとさえ思う。もちろん、アクラム再び京を穢して欲しいなどとは思ってはいない。しかし、今は彼女を----あかねと1日中一緒に過ごすようなことはほとんど出来ないでいるからだ。
 友雅の「本職」の方の拘束時間は不規則だ。あかねの方は拘束時間と呼べるものは皆無だが、最近の彼女の興味は専らラン----天真の妹にあるらしい。そのため、友雅が昼間にここを訪ねても、たいていあかねは出かけていた。
 几帳の外に追い出された友雅は、壁にもたれて逆光の御簾を透かして外を眺めていた。
 もう終わってしまった藤の花を見上げている天真の表情は固い。このところ、前にも増して彼は憔悴していた。一時期、頼久の下で剣術を基礎から叩き込まれていた頃は、強さが自信となり余裕となって、以前ほどかたくなではなくなったように思えていた。
 アクラムとの最終決戦で、神子が黒麒麟を封印しても、まだ妹を取り戻せなかった。彼女が記憶を取り戻し、天真を「兄」と理解しても、結局は連れ戻せなかった。恐らく彼の憔悴の原因はそれなのだろう。
 力が何かを成しうると信じて、しかし何も出来ないと悟った瞬間。
 友雅は目を閉じた。かつて自分が武官であることを選んだ時、そしてその無力さに気づいた時、恐らく同じように足掻いていた。
 それを乗り超えるまでには、彼はまだ時間がかかるのだろう----あの頃の自分と同じように。ただその選択が友雅と同じようになるかどうかは判らないが。
 几帳が動く。あかねは早足で飛び出して来る。
「じゃあ、藤姫、出かけて来るね」
 御簾に手をかけた時に、はっと思い出したように振り返る。
「……ごめんなさい、ばたばたしちゃって」
 友雅だけが知っている、少しはにかんだ柔らかい笑顔。
「気をつけて、『神子殿』」
「はい」
 凛とした気が彼女を包む。その時のあかねは、もう『神子』なのだ----友雅の腕の中で眠る、あの元宮あかねではなくて。


 数日して----天真が自分の世界に戻った、という噂が友雅の耳に入った。
 あの日----黒龍との闘いに勝った日以来、天真はことごとく友雅を避けて通るようになっていたので、あかねを迎えに来る時にたまたま鉢合わせる、という現場でなければそもそも会うこともなかった。だから、いなくなったこと自体も人づてでようやく知ったのだ。
 彼が戻ったのは、妹の蘭をアクラムの術から解放出来たかららしい。『神子殿』が彼女を解放し、アクラムの手が再び及ばないうちに戻るよう天真を説得したらしい。
 何もかも、らしい、でしか知らないのは、その張本人であるはずのあかねは友雅に何も話してはくれないからだ。
 ただでさえ、2人で過ごす時間があると、友雅は自分のことばかり喋っていることが多いのだ。穏やかに聞いてくれてはいてもあかねは自身の考えを話してくれることはまだなかった。照れているとか、こっちがからかっているから、とか、言い訳はたくさん話してくれるのだけれど。

 それから彼女は、夜の庭に注ぐ月明かりを見ながら、何かを考え込んでいることが多くなった。

「----天真のことが気になる?」
「えっ」
 しばらく触れていなかった琵琶を久々に持ち出して来たはいいが、隣にいるあかねは庭の方に視線を投げたまま、意識ここにあらずといった表情のままだ。ここに残ると決めた当初は、西の札を取りに行く時の松尾大社での会話を持ち出して、ずいぶんと興味深そうに聴いていてくれたものだけれど。
 ----何だか悲しい音ですね。
 とその時彼女は言っていた。
 確かに、琵琶の調べで幸せな楽を奏でているのはあまり聴いたことがない。友雅自身にも、何故一番馴染む楽器がこれだったのか、その理由はよく判らないが、あかねに悲しみを指摘されてからは、何となく理解したような気がしていた。
 心に潜む静かな諦念と共鳴したのが、琵琶だったのかも知れない。笙や琴ではなくて。
「何だかこの頃ずっと考え事をしているように見えたからね。君は何も話してはくれないが、君の環境でこのところの大きな変化と言えば天真のことだろうと思ったんだが」
「----……」
 一瞬だけ、友雅の方をちらと見たが、また庭の方に目をやる。ただ、それは、庭を見ているのではなく、何処でもいいから視線を投げたかった、そんな風にも見えるやり方だった。
「----君も元の世界に戻りたいと言い出すんじゃないだろうね……」
 ほんの少しの笑いを含ませながら肩を引き寄せてみる。嫋々としたその態度が変わらないのがこの時は不思議に感じる。
 反論、しなかった。
 今までその手の言葉が出るたびに少し怒ったように「そんなことありせん」と言っていたのに。
「月が恋しくなった、というわけか」
「----あっ」
 突然思い出したようにあかねの目の焦点が合った。
「……ごめんなさい」
「何がだい?」
「……聞いてませんでした」
 腕の中で小さくなる。
「心ここにあらず、という感じだから----戻りたくなったのかと聞いたんだ」
 友雅は、何故か笑いに紛らすことが出来ずについ真剣に聞いてしまう。わずかに手に力が入る。
「そんなことありません」
 今度は即答で返って来た。しかし、それまでとは違う点が1つだけ。
 その表情は笑顔だった。----八葉に向けられた『神子』の笑顔。
 アクラムが現れなくなってもそれを友雅が見る機会はたくさんあった。そう、自分以外の八葉に向けられる笑顔として。
 彼女の存在で光が射したはずの友雅の世界に、また一筋の闇が戻ったような気がした。その笑顔は、彼にとってそれほどの威力のあるものだったのだ。その笑顔で話された言葉は、あかね個人の言葉ではなく、神子としての彼女の使命から出たもののように、その言葉を飾りたててしまうのだ。

 その感情に名前をつけるのは簡単だった。
 不安。----あるいは相手の見えない嫉妬。
 何かに対して「情熱」を持ってしまったら、避けて通ることの出来ない感情なのに、自分で失っていたことも、気づかないうちに封印していたもの。
 ----失っていた心のかけら。5つめがあるなら、これこそがそうなのだ。


 その日、友雅が目覚めたのは昼過ぎだった。その夜は宿直(とのい)だったのである意味ではちょうど良かったのだが。
 今は、左大臣の館ではない。隣には誰もいない。----というより、「いなくなっていた」。
 彼女は、朝に普通に目を覚まして、まだ霧のような眠りに捕われていた友雅を置いて仕事に出たのだろう。今上帝の中宮候補と言われる梅壷の女御の所へ。
 彼女----中納言の君と呼ばれるその女性との関係は、自分が武官になった頃から続いていた。もちろん神子と出会う前だ。その頃は梅壷の女御も中納言の君もまだ15歳だった。ただ中納言の君は、梅壷の女御入内の前から、親に薦められて付き合いのある男がいて、来た頃の神子とは違い、ある程度『男女の機微』が通じる「大人の女性」ではあった。
 彼女は当初から、肉体的な部分は別として、友雅とは微妙な距離を保ち続けていた。
 制度上はまだ、実家にいた頃の男の北の方の地位にある。時々実家に下がる時に会う程度で、実質は殆ど何もしてはいないが。それでも、男の身分が低いせいか、女御に仕える北の方だというだけで崇め奉られているらしい。彼女もまた、何処か「何かに本気になる」ことを避けるように淡々とした日々を消費する生活に身を任せていた。
 多分、一番疲れない相手ではあるのだ。体の関係はあるが、独占欲はない。心の底を深く語るようなこともないが、簡単に心を見透かされる相手でもある。彼女相手では、「口説く」こともない。----友雅に対して、一番「冷めた」目を持つ女性でもあるからだ。
 だるそうに自分で身なりを整えて、友雅は光の中へ出て行く。通りかかった他の女房たちのキラキラした視線と笑顔に、いつものように薄く笑って答えながら。

 ----その前の晩、真夜中過ぎ、横たわってはいても眠っていなかった中納言の君は、友雅の目を見るなり「かわいそうな人」と呟いた。
「私が?」
「----神子殿が、よ」
 一瞬、自分の顔が歪むのが友雅自身にも判っていた。彼女は目を細めて、そしてくるっと寝返りを打って背中を向けてしまう。
「……あなたがここにいるからかわいそうだなんて思ったわけじゃない。何も知らないのがかわいそうだ、って思うだけ」
 隣に腰を下ろし、肩に手をかけて振り向かせようとする。中納言の君は逆らわなかった。真っ直ぐに友雅の方を見上げて、ゆっくりと瞬きを何度かした後で、
「私の方は自己紹介したいくらいの気持ちなんだけどな」
 くすっ、と少し意地悪く笑う。
「あの姫君はまだそこまで『ものわかり』がいいとは思えないが」
「でも、周りからの噂で知るよりは傷つかないようかも知れない。----どうせ、私たちの間にあるものなんて、あなたと神子の間に今あるものとは全然別物だもの」
 それはその通りだった。
 中納言の君は上体を起こした。慣れた手つきで友雅の肩を引き寄せる。わずかに顔が触れそうな距離まで来て、
「あなたはこれでいいの?」
 まるで責めるように呟く。
「さあ、ね」
「『でも悪くはない』?」
 友雅の言葉尻を真似してみせて、彼女は友雅の頬に触れる。そして首筋に。神子----あかねは、まだ、そんな風に触れることは出来ない、そんなやり方で。
「----そう簡単には立ち切れない。それまでの『退屈』に存在した快楽もある----、そんな言い訳で納得するのはあなた自身だけよ……」
 そうかも知れない。
 だが、友雅の中でもそれを『納得』しているわけではないのだ。神子とは違うことは判っていても。それが、何事にも情熱を持てなかった自分の残骸だとしても。
 納得、し切れているわけではないのだ。
 ただ彼女の隣なら、神子に対する漠然とした不安感から逃れられるような、そんな気がしていた。

 夕刻、仕事に向かう前に左大臣家に顔を出した。あかねは何処かへ涼みに出かけている、と藤姫は言った。そしてその後に、藤姫は友雅にまつわる噂の話を持ち出して来た。女房たちの噂話に戸を立てることなど最初から出来はしないのだから、と。
「確かに皆様の噂は大袈裟なものであることは私も承知しております、ですが、中納言の君につきましては、ですね」そこで言葉を切って、少し困ったように俯いてから、「どうも話が具体的過ぎますので、私もいささか扱いかねているんです」
「藤姫が困るほど具体的な噂、とはね。私も聞いてみたいものだ」
 ふふ、と笑いに紛らせて去ろうとするのを、藤姫は珍しく、ぎゅう、と袖をつかんで引きとめる。
「とーもーまーさーどーのー」
「はいはい」
「少しは真面目に私の話も」
「もちろん聞いているよ」
 そこまでは藤姫も怒っていたのだが、やがて、年相応の子供のように少し泣きそうな顔になった。さすがにこれは友雅も笑っているわけには行かなかった。
「----藤姫、心配し過ぎているよ。噂なんて気にしないことだ」
「私が気にしているのは噂のことだけではありません」
 少し涙を含んでいる声を整えるように溜め息をついてから、
「神子殿には何か気がかりなことがあるご様子なのは友雅殿もご存知のはずですわ」
「------」
 それを突かれると、友雅にも言葉は返せない。
「そばにいて差し上げて下さい、出来る限り。そして、もし噂のことが神子様の心を騒がせているのであれば、友雅殿自らきちんとお話しして差し上げて欲しいのです」
「----判ったよ」
 かと言って彼女----あかねは、たとえ数日ここに来られないことがあっても、そのことを怒るとか拗ねるとかいう態度に出てくれたことは一度もない。いつも明るく笑っていて、最近は少し恥ずかしそうな柔らかさを見せてくれることはあっても。
 ----何も知らない可憐な蕾。
 友雅を決して疑うことがないくらい純粋な心の持ち主だと、そんな風に思う自分の裏で、その真っ直ぐさが何故か不安になることがある。
 藤姫が困惑して釘を挿したということは、神子の身近にまで話が聞こえているのかも知れない。それでも彼女は、とりあえず今のところは、変わった様子は何もない。
 ただ、----笑顔でいる。
 笑顔という表情が、どれだけ人の本当の心を隠しやすいか、友雅自身が一番よく知っているのだ。
 彼女の笑顔は本物だろうか。
 神子でいた頃の彼女には裏は感じなかった。
 でも最近、何処か上の空になることが多い彼女は----
 何を考えているのだろう?

 参内はしたが帝と約束した時間にはまだ早い。女房たちが忙しく1日の仕上げに駆け回っている間を縫って歩くうち、内裏の一室で鷹通が座り込んで、何かの書面を前にして難しそうに考え込んでいるのを見かけた。
 八葉として一緒に動いていた頃、鷹通は恐らくあかねに好意を抱いていたはずだった。それでも、彼は、言葉の表面ではただの八葉の一人としてあかねに接しようとはしていたらしい。
 それに----彼もまた、恐らく、初めてだったのだろう。一人の女性に対して心の底から真剣にそんな気持ちになることが。もっとも彼の場合は、八葉という「役目」が邪魔して素直になり切れないという部分もあるようだったが。
 いずれにせよ、全部顔に出ていたのだ、この純真な青年は。
 あかねはあの頃も(そして今も)そういうことには多少疎いようで、何人かの八葉があかねに神子以上の想いを抱いていることに気づいてはいなかったらしい。もちろん友雅も全ての八葉と個人的に親しいわけではないので、どこまでどう、と言い切れはしなかったが。特に泰明については、そもそも女性に対して女としての関心を持つ気があるのかどうかすら、よく判らなかった。
 だが少なくとも鷹通は判りやすかった。白虎同士だから、一緒に行動していた時間が長かったせいもあるのだろうが。
「ずいぶん疲れているようだね」
 声をかけてみる。
「どうなさったんですか」
 振り向きもせず、役人の声だけが返って来た。
「これから仕事だよ」
「今宵は宿直(とのい)ですか」
「そういうことだ。その前にちょっと鷹通に例の件を聞いておこうと思ってね」
「例の?」
「鬼たちのことだよ」
 ああ、と鷹通はため息で返事をしてから、ようやく振り返る。そして、経緯を淡々と友雅に説明した。----人脈のある国司がいて、あちこちの宿屋や茶屋でイクティダール・イノリの姉・セフルの一行の目撃談を集めてくれたこと。それらの話を総合して、近江の国にいるらしいと突きとめたこと。そして、今度は範囲を狭めて人を探しに出そうと思っていること、など。
「ではもうすぐ新たな消息が入るわけだ」
「そう願いたいです」
 もう話は終わり、と言わんばかりに、鷹通は素っ気無く言い切って仕事に戻るふりをする。
 友雅にもそれはふりだと判る。わずかに横顔が見えるだけだが、今の彼には紙と筆を前にしても何も書く気がないらしいのがよく判る。
 やはり、気になっているのだろうか。神子のことが。
 だからこそ友雅に対して必要以上に淡々と接しようとしているように見える。
 元々、鬼たちの消息を気にしていたのは神子の方だ。そしてその仕事を鷹通に振ったのは友雅だった。この青年が、実質的な八葉の仕事がなくなってからも、用があるわけでもないのに左大臣家にやって来ては、庭がどうの、警備がどうの、とやたらに役人ぶって話をして行くらしいのを藤姫から聞き及んで、彼に神子と話す話題を差し向けたつもりだったのだ。実際、そういう人捜しのようなことをさせるには、友雅が直接使える部下たちはいささか畑違いで、彼の人脈の方がどちらかと言えば適任であった。
 たぶんそんな友雅の本当の意図を鷹通は判っていないだろうが。
「たまには神子殿にその話もしてやってくれないか。どうも最近姫君は何か心配事があるようだから。少しでもいい知らせがあるなら、姫の心も穏やかになるだろうしね」
 さりげなく、友雅の意志をそんな風に伝えてみる。彼だって、理由もなしに左大臣家の事情に首を突っ込みに行くよりは訪ねやすいだろう、と思ったのだが。
 鷹通の横顔に緊張が走っていた。
 目をわずかに細めて、それを隠すようにますます部屋の奥に顔を向けようとする。
 ほう、と内心友雅は思っていた。
 ----そうか。彼の中の情熱はまだ潰えてはいなかったか。
 心配になるより微笑がこみ上げてしまうのは、あかねの方が全くそれに気づいていないらしいのを知っているからでもある。彼女は、そういうことには本当に疎いのだ。
 ----かわいい青年の心を無自覚に弄ぶとは、神子殿も罪なことをする。
 もちろん、彼女が何かを実際にしているわけではないが、そんな言葉が胸の内につい出て来てしまい、
「それに鷹通」
「何でしょう」
 顔は向けないままだ。
「----君もずいぶんとせつなそうな顔をするようになったものだね」
 そんな風に言って、明らかに少し手がぴくんと動いたのを最後に、友雅はその場を離れることにする。
『いい加減にして下さい、友雅殿』
 あの頃の鷹通なら、眼鏡の奥からじっと凝視しながら、そんな風に返って来るはずだが。
 ----その余裕もないのだとすれば、やはりちょっと度が過ぎたかな。
 くすくす笑いながら、帝の元へと歩き出した。


 もう寝る支度に入っている女房たちの横を過ぎて、几帳の中で藤姫と笑い合っていたあかねに近づいて行く。女同士の秘密の話はそこでぴたっと止んで。何やらくすくすと目配せしながら、「それでは神子様、私は」などと言って藤姫が下がって行く。
 ここに友雅が来る時には、いつも繰り返される光景。
 何を思い出したのか1人でまだにこにこしているあかねの頬にそっと手を伸ばす。すっ、と屈んで目線を合わせてみる。
「ここで夜を過ごすのはずいぶん久し振りだ」
 独り言のように呟いて、そして髪の中に手を入れる。耳の後ろ。首筋。あの時に比べて髪もかなり伸びた。
 ほんの少し体温が高いように感じる。
 くすぐったそうに身を縮めて、それでもされるがままにしているあかね。目を伏せて、それでもその顔は恥ずかしそうな笑顔。
 ----いつもの通りの。
 少し力を入れたら友雅の腕の中に、ふわん、と倒れて来る。わずかに侍従の香がその髪から漂って、----すぐに消える。
 穏やかな鼓動と呼吸。彼女にとって友雅が、こんな風にくつろいで落ち着く存在になっていることは何だか不思議だ。
 恋とは----、ある種の激流だと、そんな風に思う頃もあったけれど。
 いつもくるくると表情の変わるあかねの、そんな柔らかな物腰は、少なくとも友雅だけのものだと、そう思えることは嬉しい。少なくとも今日は、最近上の空だった彼女とは違い、心もこの手の中にあるようで。
 このままこの夜が続いてくれればいいと。
 ----月の全てをこの手の中に封じ込んでしまいたいと。
 言葉の代わりに手を強めた。

 蒼白い月の光が細く射しているだけの薄暗い中で、安心しきったように眠る少女は、こうして見ている限りはまだ幼い少女の影を残したままだ。まだ、男の腕の中でどう自分を処していいのかよく判らない、そんな戸惑いも抜けないままの。
 固く眠っていた蕾が、自分の手で緩やかにほどかれて行く。その様は本当にゆっくりとしたもので、----それは友雅にとって、難しいことでもあり、新鮮なことでもあった。
 彼女は正直だ。決して無理に背伸びすることもなく。ただ真っ直ぐに友雅に身を委ねてくれている。こんな女人を相手にするのは友雅にとっても久し振りのことだ。
 ----私の杞憂だったんだろうか、姫君?
 眠る横顔に、声には出さずに話しかける。
 ----君の心が、何処か別の所にあるような気がしていたのは……。
 ふう、とその小さな唇から溜め息が洩れて、眉をしかめる。一瞬、起きていたとしても聞かれているはずがないのに、少し心がうわずって、----そしてそんな自分がおかしくて、喉元だけでくつくつ笑ってしまう。
 あかねは少し寝返る。顔が友雅の視界から消えてしまう。そっ、と彼女の頬を傾ける。出来ればもう少し眺めていたかった。
 唇が、動いていた。
 声はしない。
 また溜め息をついて、そして少し苦しそうに顔をしかめた。
 つらい夢を見ているのだろうか。
 彼女の夢の中に忍ぶ苦しみとは何なのか、今の友雅には判るはずもない。ただ、何か気にかかることがあるなら、救ってやれたら、と思う。
 ----起きても覚えているほどに悲しい夢なら、朝に話してくれればいいが。
 そう思っている友雅の前で、また彼女が少しうめく。また口が少しだけ動いて、その後で何かに耐えるように唇を噛んで、
 ----瞳が、震えた。
 閉じられたままの双眸が、それでも瞼の下で動いていて。
 そのまま、今にも起きそうにまつげが動いた。
 友雅は頬にそっと手を当てる。もし起きたのなら、その時最初に目に止まるのは自分であって欲しかった。
 ----だが。
 彼女の目は開かなかった。その代わり、わずかに震え続ける瞼の下から、涙が零れ落ちる。
 少し苦しそうに息をついて、あかねの体がひくんと動く。何かに縋るように、手が宙を泳いだ。友雅はその手を自分の体に引き寄せる。彼女のそばにいると----夢の中の彼女に伝えるように。あかねの指先が友雅の服の片隅を捉えて、ぎゅう、とそれを強く握り締めている。
 苦しそうな表情が少し和らいだ。
 ----起きて友雅の隣にいる時にあかねは泣いたことがない。
 自分の故郷から遠く離れたこの土地で、残して来た家族のことを思い出して寂しくなることもあるに違いないのに。
 それがあかねの明るさだと、前向きでまっすぐで純粋な心だと、そうとだけしか思わなかった自分に友雅は少し腹が立った。
 ----笑顔でいて欲しいと、私が望んだからか? だから夢の中でしか泣けないのだろうか?
 一筋だけの涙を指先で拭ってやる。彼女の、きゅっと結ばれていた唇が少し緩んだ。また、穏やかな呼吸が聞こえる。
 起こさないように、そっと抱き寄せる手を強くする。耳元で、すうっ、と静かな寝息がしている。時々、何かを話しているらしい声もするが、言葉ははっきりしない。
 朝になったら、彼女の心に住む寂しさを引き出してやろう。それが自分で癒せるものなら、そのために何でもしよう。
 彼女の心に楔があるなら、それを私が取り除こう。
 また、声に出さずに話しかけ、あかねの閉じられたままの瞳を覗き込む。
 彼女の唇がまた動いた。
「……、さん……」
 誰かの名を呼び、そして手がまた少し強くなる。
 動く口元を凝視したまま、友雅は頭の芯に氷を打ち込まれたような気がしていた。
 その唇が呟いた名前は----

 ----朝、仕事を理由にまだ眠るあかねを残して早々に左大臣家を後にする。
 こんな心を抱えたことはなかった。
 まだ自分に『情熱』があった頃でも、まだ若さだけで鷹通のように突っ走るような恋をしていた頃にも。
 自分の中に渦巻く闇が友雅を飲み込もうとしていた。
 この闇の中に彼女を巻き込みたくはなかった。
 ただ自分の近くにいて欲しくて。この手の中に抱きしめていたくて、それだけを望んでいれば、それは恐らく叶うのだろう。
 彼女は笑ってくれるのだ。その心にある名前を隠して。その名のために流した涙を隠して。
 友雅の心は再び闇に閉ざされる。見つけたはずの桃源郷の月は、その光を自分だけに向けていたわけではなかった。
 決してそれを友雅に悟らせることはないままに。

 手に入らないならいっそ壊そう、そう呟いた鬼の少年のことが、ちらりと頭の隅に蘇る。
 今なら、----彼と話せるだろう。
 その気持ちはこの闇と呼応する。
 この巨大な虚無と。
 5つめの心のかけらと。
 嫉妬という名の----黒いかけらと。

-----第11章 5つめの心のかけら(cruel passion pt.1) end.


第12章 旅路

 藤棚から洩れる太陽は鋭い。朝に少し走っていたのだが、天真はその時はまだ暑いとは思わなかった。急激に温度が上昇するように感じるのは、恐らく夏が近づいた証なのだろう。
 この町は、やはり京都と似ているのだろうか。地形や、気候も。だとすれば、これからはかなり厳しい暑さになるのだろう。
 エアコンも扇風機もないこの場所には独自の涼み方がある。滝はその1つだ。今日は将軍塚に行った後に寄り道をしてみようか----と1人で考えていると、後ろから軽やかな足音が近づいて来た。
「お待たせ……」
 あかねは肩で息をしている。
 さっき藤姫から、友雅が部屋に来ていたと聞いたのを思い出し、
「……寝不足か?」
 ふざけたつもりで笑って尋ねる。あかねは困ったように天真を見上げている。
「……わりぃ」
「……別に、いいけど」
 一変して、くすっ、と小さくあかねは笑う。零れた光が弾むような笑顔。
「で、今日は何処?」
「将軍塚だ。自称・イノリの子分が見かけたそうだ」
「判った。今日、いてくれるといいけど」
「あぁ」
 天真は顔では笑いながら、最近心に生まれた奇妙な感情のかけらをまだ拭い切れずにいる。
 もしランが見つかって、彼女を取り戻すことが出来たら。
 ----もうこのあかねの笑顔とともに京の町を歩くことはなくなるのだろうか?
 あかねがここに残ることを決めたのは、ランを探すためではない。天真がそう望んだわけでもない。あの日、八葉の力で黒龍の穢れを跳ね除けた後、あかねがここに残ることを望んだのは友雅で、あかねはそれに応えた。
 あの2人がよく出歩いているのは天真も知っていた。ランに関する目撃証言も、あかねの口から聞くこともあったが、隣にはたいてい友雅がいた。
 だから判ってはいたはずなのだ。期待してはいなかったのだ。それでも、天真は1度あかねに心をぶつけてしまっている。蘭のことを含め、自分の弱さを全てさらけ出してしまっている。
 あかねはその心を受け留めてはくれた。さざ波のように不思議な安らぎとともに。しかし、----応えてはくれなかった。
 あかねの方は、そのことでわだかまりがあるわけではないらしい。付き合い始めて友雅に似たのだろうか、たまにほんのわずかにカマをかけたりしてみても、うまく躱されてしまうだけ。
 ----置いて行かれている。あかねの心は、もう天真のずっと先を歩いている。そんな気がしてならないのだ。現実は、はやる心を抱えた天真の方がスピードが速いとしても。

「……少し待ってみるよね」
 木陰で腰を下ろしたあかねは、持っていた手ぬぐいを畳んででパタパタと首筋を扇いでいる。
「さすがに歩くと暑い……。天真くんも休んだら?」
「……あぁ」
 とは言ったものの、仁王立ちしたまま歩いて来た道を睨んでしまう。何でもいい、どんな手がかりでも、蘭の痕跡を見つけ出す。それだけに気持ちが集中しようとしていた。
 どんよりとした穢れに似た気の痕跡。天真は、自分がそんなものを感じ取れるようになるとは思わなかった。青龍を苦しめていた呪詛を感じた時も同じだが----ある指向性がある。方向は南。
 ただ、この痕跡は「鬼」だ。アクラムが蘭にかけた術は、強くなり続けているらしい。京に実質的な被害をもたらしていないのは、もしかしたら蘭を使った黒龍召喚の方法を探っているせいなのかも知れない。セフル、シリン、そしてイクティダールに去ることを命じ、それでもなおかつ何かを企んでいるとしたら、後は黒龍に全てを託すしかないだろう。
 あの日全てが終わったら、元の世界へ帰れると思っていた。天真も八葉ではなくなり、あかねも「龍神の神子」という役割から解放されるものだと。しかし現実はそうは行かなかった。アクラムはまだ生きている。それに----少なくとも天真にとって、蘭が戻るまでは終わらないのだ。
 とは言うものの、蘭を取り戻した時、自分はどうするのだろう。蘭を連れて、あの世界へ戻るのだろうか。あかねと離れるのだろうか。この、不思議な安らぎを失うことに耐えられるのだろうか。
「----詩紋くん、元気にしてるかな……」
 ずっと睨んでばかりの天真の耳に、あかねの小さな声が滑り込んだ。
「何だよ、いきなり」
「……今でも時々、どうしてだろうって思うんだ。京の人たちは詩紋くんを怖がらなくなって来てたし、ここで暮らしていく方が詩紋くんにとっては幸せだったんじゃないかって……」
 詩紋はあの日、戻ることを選んだ。あかねはその時も同じことを聞いた。元の世界では、昔、彼は外見のためにいじめられていた。その哀しい思い出に彩られた世界にあえて戻る選択をするのは何故なのか、と。
 詩紋は笑っていたように思う。ボクはボクだから、と。
 ----ここにいる間にボクは強くなったと思う。もう、逃げたくないんだ。きっと今なら、立ち向かって行けると思う。そんな気がするんだ。
「『強い』よね、詩紋くんは。すごく強くなった」
「そうだな」
 力ではない強さ。今の天真が探し出せずにいるもの。
「……天真くんは、どうするつもりでいるの? 蘭が戻って来たら……」
「戻って来なきゃわかんねぇな。そこまで考えてねぇよ」
 即答出来るのは、脚本を準備していたせいだ。本当は判らない。考えることを拒絶しているのかも知れない。
 木洩れ日を映したあかねの顔がゆったりとした笑顔になる。
「そっか……」
 すっ、と立ち上がって、服の土を払いのける。
「何か感じた?」
「まあな。ただ漠然とした方向だけだ」
「行ってみる……よね」
「あぁ。だけどよ、その前に……涼みに行こうぜ。音羽の滝で」
 あかねは頷いた。「賛成!」

 冷たい水で顔を洗って、水辺に腰を下ろす。あかねは滝に手をかざして水しぶきと戯れていた。
「永泉さんがね」
「ん?」
「思い出の場所だって言ってた。ここが。お兄さんとの」
「帝との?」
「そう」
「へえ」
 ただの雑談のつもりだろうが、あかねの口から他の八葉の名前が出るたび、天真の心が痛むことを、彼女は知らないのだろう。あるいはもう、気づくつもりもないのかも知れない。
 それがあかねの幸せなら、と割り切ってはいたつもりだが、やはり友雅と直接顔を合わせる機会を自然に避けている。そうしたらどうなるのか、自分でも予想がつかないから。
 だから今朝も、藤姫の口から友雅の名前が出た途端に逃げるしかなかった。
 多分これからもずっと----。
「----鈴の音」
 あかねが突然そう言った。
「……? 何だよ」
「音がした。多分、蘭が近くにいる」
「----!!」
 立ち上がる。全神経を集中させようとする。
 耳に残るのは水音だけ。他には何も聞こえない。
「何処に----」
「黙って」
 あかねは神子の顔になる。手を合わせて、目を閉じて、深呼吸している。口から何やら呪文のような言葉が流れている。この間、陰陽道の修行を少しずつ始めているという話も聞いたような気がしていた。恐らくそれなのだろう。以前、泰明の口から似たような言葉を聞いた記憶があった。
「----南……」
 呟いて目を開く。その強い瞳が天真を射抜くように見つめた。天真は力強く頷く。「同じだ」
「案朱の桜が見えたわ」
「本当か」
「ええ。行きましょう」
 今度はあかねが先導して行こうとする。天真は追いついて並びながら、
「……桜、って言ったな」
「そうよ」
「この時期に桜?」
「----ありえる。私は1度経験してるの。ランが現れた時、時期でもないのに案朱に桜が咲く----」
 天真に、というより、熱に浮かされたようにあかねは話している。彼女の気は何かを感じているのだろう。天真の中でも気配が強くなる。
 確かに----蘭はいる。近くに。

 まるで真夏の海辺の太陽のような----。
 直視出来ないほどに降り注いでいる花びら----。
 散り急ぐ薄桃色の冷たく柔らかな花の間に、蘭のわずかな悲鳴が感じられる。そこに立つランはまだ凍りついた呪縛の下にある。しかしかすかな心はある。ランの中の蘭が救いを求めて差し伸べる手のひら。それは一陣の温かな風のように。天真の心にだけ届く温度。
「----蘭!」
 その声の進入を阻止しようとする黒い力。アクラムの気配はない----とすればこれは『術』なのだろう。
 あかね----いや、龍神の神子が、再び手を合わせる
「----破邪!」
 物静かに強い声がランの頭にぶつかったかのように、蘭は一瞬目を見開いて、そしてぐらりと上体が傾く。
「天真くん、受け止めて」
 言われなくても体は勝手に動いていた。小刻みに震える蘭の体は、初夏のこの時期にしてはひどく冷たかった。
「お兄……ちゃ……」
「蘭……っ……」
 少しでもこの温度が伝わるなら……。
 天真はただ抱き止めることしか出来なかった。神子は、静かな笑みで2人を見下ろしている。教科書でいつか見た観音象の表情に似た、穏やかな笑顔で。
 しかしそれは一瞬だった。すぐにあかねの顔は豹変する。凛とした決意の瞳は、神子の声で語り出す。
「油断はしないで」
「----あかね?」
「アクラムがいつそれに気づくか判らない。もし蘭を助けたいなら、彼女を元の世界に戻した方がいい。今のうちに。神泉苑の出入口に結界を作れば、そしてそれを守れれば、二度とは、」
「待ってくれ」
 蘭を元の世界に?
「待ってる時間なんてないよ」
 天真は蘭に尋ねるつもりだったのだ。この世界で共に暮らすという選択肢もありうると思っていたのだ。蘭と、自分と、
 そう、あかねも一緒に----
「あかね、俺は」
「何のために今まで彼女を探していたの? またアクラムの手にかけたいの?」
「だけど」
「戻ってあげて! 天真くんは蘭のためにここに残った----そうでしょう? これで、これで帰れるじゃない!」
「………」
 真剣なその表情は…、まるで気づこうとしていないかのようだ。あかねがこの世界に留まることが天真の未練になりうることに。
 ----俺の気持ちには全然気づいてねぇのか!?
 叫びそうになる自分と、蘭の怯えた瞳が天真の中でせめぎ合っている。
 蘭の瞳から涙が零れ落ちた。
「----帰りたい……帰りたいの、私……」
「----蘭」
 あかねは少し目を細めた。そして----『神子』の表情が崩れる。
 すぐに視線がそれる。
 天真から逃げるように。
 ----目の中に何かが光っていた。それが涙だと気づくまでに時間はかからなかった。
 天真は自分の心の中に広がる痛みを止められずにいた。
 どうしようもなかった。彼女の涙の方が明らかに『痛い』のだ----
「----蘭を守ってあげられるのは天真くんしかいない」
 低く感情を抑えた声が届く。
「----私には----みんながいるから」
 どういう意味だ、と聞きたくなる。天真の心の一部がその言葉をねじ曲げようとしてしまう。『本当は帰って欲しくない』、という幻のあかねの声を再生しようとしてしまう。
 そんな風に思いたいだけの、自分の我がままだと、理性で自分に語りかけようとしても----
「天真くん!」
 悲鳴に近い声であかねが叫ぶ。
 天真は立ち上がる。蘭を支えながら。
「歩けるか」
 こくん、と頷く蘭はまだ震えている。そっとなだめるように背中を叩いて。
「神泉苑へ----あかね、頼む。入口を開いてくれ」
 あかねは振り返らなかった。そのまま、しっかりした足取りで歩き出した。
 これで全て忘れるしかないのだ。ここにいる間に生まれたこの感情は、永遠に殺すしかないのだ。
 孤独だったあの頃に、また戻ればいいだけなのだ。
 何も難しいことはなかった。自分が2年間続けて来た仮面の笑顔を、取り戻す、それだけのことなのだから----。


 夕焼----。
 葉桜の木陰に消えようとしていた人影が振り返って走り寄る。鮮やかなプラチナゴールドの髪の下で驚いた青い目がまばたきしていた。
「天真先輩?! ----ランも…」
「----よう」
 笑顔、というより唇の端を吊り上げた、という方が多分似合う。自分でも自分の心の動きが信じられずにいた。
 全てが終わったはずなのに。蘭を取り戻してここへ戻って来ること、自分が望んだことはそれが全部だったはずなのに。
 どうしようもない虚脱感が拭えない。
 目の前の井戸は同じようにそこにある。ここからあの世界にいつでも戻れるかも知れない、と思った時、それはパンドラの箱に見えた。
 ----未来という名の、儚い希望。
「何でこんな所にいるんだよ、詩紋」
「……わかんない。何となく、予感がしたというか……。何か起こりそうな……」
 ホントに判っていないのだ。以前から少々勘は鋭かったが、京へ行ってからはますます磨きがかかったようだ。
「すげーな」
「そんなことはないです」
 照れて笑った後に、蘭の方に向き直る。
「えーと、初めまして……では、ないんだけど」
「まあ、初めましてっていう方がいいだろうな」
 蘭の顔に少しの緊張と共に笑顔が戻った。
「よろしく」
 差し出された詩紋の手におずおずと応じて、その緊張はゆっくりと解けて行くように見えた。
 2年の間、蘭がランとしてどんな闇の中にいたのかは天真にも判らない。少なくとも、無邪気に笑うことしか知らなかった小さな少女だった妹とは、今の蘭は別人だった。
 まだ少しおどおどしている。久し振りに戻って来たこの現実に慣れていないせいもあるだろうが、やはり、何処か苦しげな影があるように見えるのだ。
 そんな蘭に、どう声をかけて、どう接するべきか、まだ天真は考えあぐねていた。
 詩紋の方がそういう意味では屈託がない。桜の林を抜けて学校へ向かい、学校を抜けて自宅への道を歩く間、彼は穏やかに言葉を選びながら、ずいぶんと蘭の心を解きほぐしてくれていたようだった。
 詩紋は----自分がどれだけ凄いのか、気づいていないのだろう。否、気づいていないことそのものも、詩紋の凄さの要素なのだろう。
 自分が強いはずだと、誰かを守れるはずだと、そう思っていたとしても、伴わない実力で悩むことなどないのだろうから。
 詩紋と別れて自宅に2人で向かう。あの時のことを、----蘭がさらわれてしまった時のことを、何とかして謝りたいと、言葉を探し回っているうちに、家の前についてしまう。
「蘭、」
 玄関の前でようやくつんのめるようにそう出した一言に、蘭は不思議そうに振り返る。
「----俺……」
「いいの」
 ゆっくりと頭を振って、とん、と胸に頭を預けて来る。
「ちゃんと助けに来てくれた。だから、もう、いいの」
 戸惑いながら背中にそっと手を回す。
 まだ少し緊張しているようだった。
「もう大丈夫だ、蘭」
 それだけ、ようやく言葉にすることが出来た。

 仕事から帰って来た両親に説明するのは大変だった。予想はしていたことだったが。もちろん、必死に蘭が説明したことの全てをまだ信じているわけではないだろう。証拠と呼べるものも、天真の左肩にまだ残る宝玉と、皮膚の組織自体が変化したような模様ぐらいしかない。
 多分、兄妹がいっぺんに戻って来ただけで充分混乱しているのだ。2時間の話し合いの末、お互いに何かを言う気力もないほどぐったりしてしまったため、両親の方が根負けした形で話は終わってしまった。
 久し振りにベッドに寝転がる。京にいた時の寝床はこんなにふわふわしてはいなかったので、それまでこれで寝ていたことすら信じられない気持ちでいた。
 以前は、いつも寝る時はラジオを点けていたような気がする。だがもう、何かの音を出す気にはならない。京では、夜は本当に静かだった。時々通り過ぎる警備の静かな足音や、遠くで鳴く蛙の声が聞こえるぐらいで。
 体が、八葉としての天真にもう慣れてしまっているのだろう。
 何度か寝返りを打っている内に、ようやく疲れが彼を眠りに誘い込んでくれた。

「先輩、おはようございます」
 詩紋の通う中学と天真の通う高校はすぐ近くにある。時間帯さえ合えば、朝、途中までは2人は一緒に通っていた。実際はあかねも含めて3人だったが。
「よう」
「どうですか、久し振りの制服」
「あ? 別にたいしたこたーねぇよ。ま、アレよりは動きやすいな」
「ボク、戻って来た当初は、何だか窮屈に思えちゃって」
 詩紋が京で来ていた服を思い出す。確かにあの服はかなりゆったりしていた。最初の頃は、今着ているブレザーの下のワイシャツとネクタイをそのまま着ていたような気がしたが、やがて周りの貴族たちの服を借りたりしながらすっかり京スタイルになってしまっていたのを思い出した。
「そう言われると、まあ、そうかも知れねぇな」
 詩紋は、テレビを見なくなったとか、図書館で源氏物語や枕草子の訳書を読んでいると何だか懐かしいんだとか、そういう他愛ない話をしている。その隣で天真は頷いたり相槌を打ったりしながら歩いている。
 あかねがいないことを除けば、いつもと同じはずの登校風景。
 分かれ道に来て、手を振って別れる。
 去年も、ほとんど登校拒否児扱いだった天真は、クラスでも少し浮いた存在だった。その溝はあかねが埋めてくれていたのだが、あかねがいない今となっては、また浮いた存在に逆戻りだろう。
 ただそれを気にする余裕は、今の天真にはあまりない。
 学校----それはあの井戸に続く経由点であるようにしか、今の天真には思えていなかった。

 授業は退屈だった。元々勉強が好きなわけではなく、先生の言葉も右から左へすり抜けて行くだけだった。久し振りに登校して来た登校拒否生徒、なんてものは先生にとっても扱いにくいことには変わりなく、授業中指されたりすることもほとんどなかった。
 休み時間はやはり教室にはいづらくて、外に出たり屋上でぼんやりしたりしていた。
 自分の存在をどう学校に馴染ませていいやら、まるで掴めないままだ。蘭が学校に入って来たら、「同学年」として過ごすことになる彼女のために普通に、とは思っていたのだが。
 まあまだ1日目だから、と自分に言い聞かせてやり過ごすしかなかった。

 終業のチャイムと共に教室を飛び出し、井戸に向かう。今日は詩紋の姿はない。
 木の蓋。上に乗せられた石。あの時は、何もしていなくても勝手に石が動いて中から光が溢れ出た。あれがアクラムによる儀式の結果だとしても、また起こらないだろうか、と心の何処かで期待している自分がいる。
 井戸に背中を預けて座る。自分の膝を抱えて。右手の指先が、服を通して宝玉に触れる。
 これがあるのに。
 ぐい、と顔を肩に向ける。おもむろに制服を脱いで、シャツを左肩だけはだける。
 太陽の光を吸い込んできらきら輝くそれこそが、今の天真にとって安心出来る唯一の『自分』のような気がしている。
 詩紋のようには割り切ることが出来ない。蘭を取り戻した安心感より、あかねに会えなくなる虚脱感の方が心の中で大きくなり続ける。
「……」
 揺れる葉桜が自分の目の中で歪む。自分の膝の間に頭を預ける。
「……あかね……っ……」
 答えなどあるはずのないその人の名を、呟くように呼んだ時、こらえきれなくなった涙が地面に染み込んで、そして消えた。


 そんな状態のまま半月近くが過ぎた。
 放課後の数時間、天真は殆ど井戸の隣で過ごしていた。
 帰りが一緒になることがなくなったことを不審に思った詩紋が、時々やって来て、理由を尋ねた。もちろん、あかねに対する思いは詩紋に話せるはずもない。ただ、今の学校が面白くないとか、あの時は自分の存在意義があるような気がしたんだとか、上っ面だけの悩みをぽつりぽつりと話す程度だった。
 詩紋は、現実と折り合いをつける方法を探し出していたらしい。と言うより、もう逃げないと決意してここに戻って、それを実行している、と言うべきだろうか。
 家に戻っても、天真は無口だった。多分、あかねと一緒に京で過ごした2ケ月強が、天真の人生で一番饒舌な時だったと思う。仲間と軽口を叩く、というのも、相手があかねと詩紋だから出来たことなのだ。クラスにも学校にも、そこまで心を開いている友達は他にはいない。
 高校への編入試験の準備を進めていた蘭は、新しい学校生活にキラキラした期待を寄せているようだ。せめて彼女のためにも学校で普通にいられるようにならなければならないと思ってはいたが、2年以上続いた孤独は2週間やそこらで取り返せるものでもない。高校のことで矢継ぎ早に質問する蘭にも何処か上の空でしか答えられなかった。

 その日の夜、少し遠慮したような音で天真の部屋がノックされた。
「お兄ちゃん、----ちょっと話せる?」
 ドアの向こうの声は蘭だ。
「あ? あぁ」
 ベッドに寝転がっていた天真は起き上がった。ドアが開いて、蘭は少し沈んだ顔で入って来る。
 天真はベッドの端に座り直す。蘭は、机の下から椅子を引き出してそこに座る。
「……あのね」
 言い出しづらそうに、蘭は視線を泳がせていた。
「何だよ、遠慮すんなよ」
 少しでも心が楽になればと思って少し笑いを含ませてみる。
 蘭はそれからしばらくまだ指先をぐるぐる回したりして落ち着かなかったが、やがて大きく深呼吸して決意したように話し出す。
「お兄ちゃん、京に戻りたいんじゃないかと思って」
 言ってしまってからは、吐き出したことで楽になったように、すっ、と天真を見つめている。
 天真は少し口を開きかけて、でも、何も言えずに呼吸が止まってしまう。
「……お兄ちゃん、神子と一緒に私を助けようとしてくれてた時、とっても生き生きしてた。こんなにぼんやりした毎日過ごしてなかったし、真剣だったけど、楽しそうだった」
 真っ直ぐ天真を見つめたまま、一語一語区切るように、蘭は話し続ける。もう、その目を見ることは、天真には出来ない。
「最初は、私を助けてくれるんだって……、そう思ってた。でも----。お兄ちゃん、あの子のことが、神子のことが、----八葉として、じゃなくて、ホントは、」
「言うな」
 俯いて、歯をギリギリと噛みしめる。思い出さなければいいと決めたはずの、その想いが、心の中に薄く広がる痛みを呼び起こす。
「----そんなに辛そうなのに!!」
「言うなッ」
 蘭が椅子から立ち上がって、その温かい手が肩に乗る。するっ、と滑って----宝玉に、そっと触れる。
「ねえ、今度は私がお兄ちゃんを助けるから」
 蘭は、あの時天真がそうしたように、天真の背中をなだめるように叩く。
「会いたいなら----会いに行くべきだよ」
「…………」
「私なら心配ないから。詩紋くんもいてくれる。友達もきっと出来る」
「…………」
「何とかやって行ける。もう大丈夫って、お兄ちゃんが言ってくれたんじゃない」
「……でも、結界が……」
 そう、蘭を守るために、入口を守っている結界があるはず。
「……だから言ったの、『私が』お兄ちゃんを助ける、って」
「えっ」
 流れそうな涙を止めて蘭を見上げる。蘭はゆっくりと頷く。
「神子と私の力は、似ている。私は壊すことしか出来ないけれど。でも、彼女が作ったものなら----私は壊せる----恐らく」
「……結界を、壊すつもりなのか?」
 そのことが京の世界にどんな影響をもたらすのか、天真にはまるで想像出来ない。この世界との通路の結界だから、それをどうしようと京自身には影響しないという予想も出来るが、本当にそうだ、とは、天真には言い切れない。
「……京に影響は……ねぇのか?」
「みんながいる。特に、あの強力な陰陽師の人がいてくれたら、きっとすぐ修復してくれる」
 泰明のことだろうことは想像がついた。
「お兄ちゃんが通る間だけ開いていればいいんだもん、きっと----何とかなる」
 何とかなる保証は何処にもない。蘭に危険が及ばないという保証もない。多分蘭にはそれも判っていて、それでも行動を起こそうとしてくれているのだろう。
 これではどっちが年上なのか判らない。立場が逆転してしまっている。蘭は、ランでいる間に、ただ守られるのを待っているだけの少女ではなくなっていた、そんな風に思わせる強さを、その手から感じることが出来た。
「きっと大丈夫」
 蘭は床に膝をつく。視線が、同じ高さになる。
「私は、もう大丈夫だから。でも----そんなお兄ちゃんを見てるのは、辛いの……」

 あの時と同じ穏やかな夕焼け。
 詩紋と蘭、そして天真は、井戸に再びやって来た。
 蘭には気づかれていたあかねへの想いを詩紋に打ち明けることはしないでいた。ただ、学校でひどく浮いていて、もう1度あの場所で自分を見詰め直したくなって、と、そんな言い訳だけを話していた。
 詩紋は、詳細な事情は今イチつかめない、という顔で聞いている。多分、天真の言葉の中に少し嘘があることまでは見抜いているのかも知れない。だが、それを突っ込むようなことは、彼はしなかった。しない方がいいと、判ってくれてのことかも知れない。
 この現実で唯一の気がかりである蘭のことを、彼は守ると約束してくれた。たとえどんなことがあっても。
「天真先輩にはいろいろお世話になったから、」聞き慣れたはずのそんなセリフも、今の天真には少し痛い。「だからボクに出来ることなら何でもするよ」
「詩紋、----蘭を頼む」
 こくん、と真剣な顔が頷く。
 蘭がそっと井戸に近づく。蓋がされたままの井戸の奥の方をじっと見つめる。だが、その表情はやがて驚きに変わった。
 少し後じさる。詩紋が蘭の腕をつかむ。「どうしたの?」
「----変、だわ……」
「えっ」
「結界が、ほころんでる」
「何だって?」
 詩紋と天真も、蘭と共に恐る恐る井戸に近づく。3人は自然とお互いの服や腕につかまるように手を伸ばしていた。
「お兄ちゃん」蘭の声が少し冷え冷えした響きを含んでいた。「今なら、私が何もしなくても行ける----でも」
「でも?」
「…………」
 蘭はきつく目を閉じる。開いた時に井戸を見つめていた彼女の目は、ランだった頃のような、悲しげで苦しげな瞳。
「黒龍の気配がする----」
「な……」
 かあっ、と頭に血が上る。
 もう終わったはずの名前は、すぐにあかねの危険へと結びついた。
 黒龍を呼ぶ『神子』だったはずの蘭がここにいるのに、どうして?
「誰があの子を呼んだのか判らない、でも、確かに気配がする……」
「天真先輩----」
 詩紋が、さっきとは別の決意を滲ませて天真を見上げている。
「ボクも行くべきかな----あの時みたいに、八葉全員で力を、」
「いや」
 氷のような蘭の声がまた聞こえる。そして、蘭はずるずると地面に座り込んでしまう。詩紋は駆け寄って肩を抱きかかえる。彼女の体は、小刻みに震えていた。
「多分、どうしようもない」
「どうして」
「八葉は、詩紋くん・お兄ちゃんを除いても全員揃っていない。今行っても、もう遅いかも知れない----」
 どういう意味だ、と聞きたくなる気持ちと、聞いてしまうのが怖い気持ちが天真の中で交錯する。
 口の中が、異様に渇いていた。
「俺は行く」
 ただ掠れた声でそう言うのが精一杯だった。
 自分の中の焦りをどうにかしないと落ち着けない。それがもしかして、もうどうしようもないことであっても。
 井戸の蓋に手をかける。力を込めようと息を吸った途端、ガガッ、と石が動いて、そして風が起こった。
 光はない。闇に閉ざされ、ただ吸い込まれそうな穴があるだけなのだ。
 先の見えない世界。予想は出来ていても。
 考えていてもどうしようもなかった。天真は、目を閉じてその風に身を任せた。詩紋と蘭の細い声が、ゆっくりと遠ざかるのを聞きながら。

-----第12章 旅路 end.


第13章 empty gonna empty(空即是空)

「……主上(うえ)さまは、永泉殿とお2人で話したいそうです」
 女房の穏やかな声を合図に、周りの女房・更衣や武官たちは次々と部屋を出て行く。御簾の向こうからわずかに見える帝の姿は、脇息にもたれていささか疲れているようにも見えた。
「……よろしいのですか? お疲れのようですが……」
 抑えた声で話しかける。小さなため息が聞こえて来た。
「永泉」
「はい、主上さま」
「……よしてくれ。2人きりの時までその呼ばれ方はしたくない」
 上体を起こして楽しそうに笑う。永泉もようやく緊張が解けて来たように思えた。
 たとえ兄弟であっても、くつろいで2人きりで話すことなどありえなかった。東宮の地位を争っていた頃はもちろん、鬼の出現、龍神の神子の闘い、京を覆った呪詛のための病、いずれの時も、永泉は弟としてではなく、単に僧侶として帝に仕える立場でしか接することが出来ずにいた。
 恐らくそれは周りの状況のせいばかりでもなく、永泉自身がその役割に盲従することでしか自分を表現出来なかったせいでもあった。
 だが今は違う。状況も違うが、永泉の心も変質していた。
 時に叱咤激励し、時に優しく話を聞いてくれる----そんな女人が彼の前に現れた時から、彼は変わったのだ。たとえそれが「恋」として実るものではなかったとしても、彼女の存在それ自体が、今の永泉を支えるものとなっていたのだ。
 自身の出来ることをして彼女----龍神の神子を守ること。それが今の永泉の大切な日課になっていた。
「……八葉としての勤めはどうだった?」
 穏やかな声。普段は女房の口伝えでしか聞くことのない帝自身の言葉。生の声を聞く機会があるのは、側にいつも召している女房や更衣以外では永泉ぐらいかも知れない。
「得るものが多いお役目でした」
「そうか……。帝、などという立場でなければ、お前の勇姿をこの目で見てみたかったが」
「勇姿、などは……。確かに敵を攻撃する機会もございましたが、天真殿などにはよく『向かない』と言われておりました」
 帝の影がまた楽しそうに揺れて笑い、そして、さっ、と御簾が舞い上がった。帝が自身の手で御簾を引き上げたのだ。
 驚く永泉の目前に、帝はゆっくりと歩み寄る。
 久し振りに太陽の西日の中で見た帝の顔は、ただでさえ線が細く神経質そうなのに、その上かなりやつれているように永泉には見えた。
「私はあの呪詛の病でずいぶんと寿命を縮めてしまったらしい----」
「----兄上、そのようなことをおっしゃってはいけません」
「いや、自分の体は自分が一番よく知っている。最近食欲もない。----それに」
 永泉の隣に腰を下ろした帝は、がっくりと肩を落としてうなだれていた。
「私は元々、帝という役割が好きにはなれずにいたのだ。だから心労もあったのだと思う。母上は元々名誉を重んじる人ではなかった。だから、お前の方が東宮にと話が出た時、家からは色々言われてはいたが、母上自身は、政権争いの中に身を投じなくて済むことに安堵しておられた……」
 それは永泉も知っていた。しかし、身分が高いゆえのプライドで、永泉の母親が父親----先帝に対して非常に強い調子で迫ったことで、逆に先帝は永泉を避ける結果になってしまったのだ。
「永泉、お前はどう思っていたか判らぬが、私は帝になったことで母を裏切ったような気がしてならぬのだ。母上は心を痛めたまま亡くなられた。……時々思い出してしまうのだ。だが今は、それを単に思い出のようには扱えぬ」
 すっ、と上がった帝の顔には、不思議な決意の色が見えた。
「私も出家を考えている……」
「……!! 兄上、いったい何を……」
「京が穢されているのに私は何も出来ずに内裏で守られているだけだった。私は、自分のいるべき場所がこことはどうしても思えなくなっているのだ」
 兄は----永泉の兄は昔もそんな話をしていた。父親が帝だった、というだけでここに居場所を決めさせられる状況が正しいとも思えず、子供ながらに「誰かの役に立ちたい」と望む正義感のある少年だった。
 帝が出家を望むのはもちろん自由だ。しかし、今の帝は東宮となるべき親王が1人もいないままだった。
「ですが……」
「言いたいことは判っている。次の東宮に立つべき者がいないということだろう。しかし永泉、私には1人だけ心当たりがいるのだ」
「えっ」
 少なくとも永泉には心当たりはなかった。帝が、あるいは何処かに女人でもかくまっていたのだろうか、などと疑ってしまって慌てて自分で否定する。
「----永泉」
 帝は突然、立場が逆転したかのように居住まいを正す。
「はい」
 つられて永泉の背筋も伸びた。しかし、次の言葉は、永泉を更に驚かせるものだった。
「----お前のことだよ、その心当たりというのは。もし還俗する気があるなら、考えてみてはくれまいか…」

 紫に消えかけた夕闇の中、内裏から東寺に戻って来た永泉は、仏間で1人座り、ざわついた心の中を鎮めようとしていた。
 過去にも、年の離れた弟を次の東宮に立てる例はいくらでもあった。しかし兄のように、3つしか離れていない弟に譲位しようとした例はさすがに存在しない。
 永泉はもちろん最初は断り続けた。考えてみてくれと何度も念を押されて「考えてだけはみる」とは言ったものの、永泉に受ける気はまるでなかった。
 これが、八葉としての役割をただ終えただけの自分だったら、こうまで頑なにはならなかったかも知れない、とも思う。
 今の自分には守りたい人がいるのだ。京のため、政治のためといった大義名分よりも大切に思えるものが。その人のために命すら投げ出しても惜しくないと思う人がいるのだ。今の彼も、内裏の寝殿に縛られた帝の生活を望んではいなかったのだ。
 その人----龍神の神子としてこの京に降りて来た少女----元宮あかね。
 ただ、今の永泉にとってそれは届かぬ想いでしかない。あかねは帝の武官の1人で八葉の1人でもある橘友雅の妻となることを選んだからだ。
 永泉はただ、穏やかに流れる桂川のような情熱で、静かに彼女を見守るしかない。出来る限りのことで。
 神子としての気の乱れを感じる時はそれを鎮める祈りを捧げる。永泉が誰にも明かさず続けて来た彼女への穏やかな祈祷。たとえ離れていたとしても、神子の心の安定を支えているのは自分であると感じることが出来るまでになっていた。
 神子は時々何かに苦しんでいる。それも永泉には判る。否、恐らく、永泉にだけは判る。力や術で相手をねじ伏せることの出来る八葉は多くても、神子自身の苦しみを引き受けられるのは僧侶である自分しかいない。
 今の永泉にはそれが自身の存在価値なのだ。他の八葉の誰でもない、彼だけの『力』なのだから。
 そう思うからこそ……
 たとえ大切な兄からの申し出であっても、永泉は引き受けられなかった。
 永泉は静かに手を合わせる。目を閉じ心を集中させる。日課となった祈祷----が、すぐに目を開く。
 神子の涙を見たような気がしたのだ。
 仏間は薄暗く、わずかな灯りの中で見回しても人影はない。だが、確かに見たような気がしたのだ。
 嫌な胸騒ぎがした。神子の心は乱れていた。黒く澱んだ霧のようなその乱れを払うべく再び静かに祈り始めるが、それはいつものように徐々に薄れることもなく、ただぼんやりと渦巻いて留まり続けていた。
 いつもとは違う。いつもより強い。その霧の黒は、あの時のランが持つ澱みによく似ていた。黒龍が呼び出されようとした、まさにその時の黒に……。


「ふむ……お前も感じているのだとしたら間違いはないな」
 片方の眉だけを少し上げるような----一般的には多少皮肉っぽく取られそうなその表情は、泰明が何かを考える時のくせだった。それが判るまでは、永泉は何か自分がいけないことを言ったのではないかと落ち込む材料にしかならなかったが、今はもう慣れて来ていた。
「あの時に比べるといささか弱いのは、アクラムの力が感じられないせいではないかと思ったのだが、永泉、どう思う」
「私には、何者かの自発的な意志を感じない、という気がします。あの時はそれがアクラムの意志であったということならば、感じている違和感は同じでしょう」
「つまり----」今度は眉をしかめて、「呼ばないのに降臨しそうになっていた、ということか、あの気配は」
「そう感じましたが」
「しかし黒龍とて『神子』は必要だろう。身を捧げる神子が」
「恐らく」
「では誰が? ----今までの気を総合して考えてみると、私にはその『神子』が、あの『龍神の神子』以外には考えられないのだが」
「----恐らく」
 数瞬のためらいは隠せない。本当はそんなことを考えたくはなかったのだが、泰明が感じた気の乱れとを併せて出て来る答えはそれしかなかったのだ。
 あの『龍神の神子』----元宮あかねその人が、自分でも意識しないうちに黒龍に呼びかけている。あの瘴気の正体は、そういうことになってしまう。
 泰明はだいぶ神子のおかげで柔軟性を持つようにはなった。鬼を助けたいなどと言い出す神子の思考に、以前の泰明なら「仕方ない」などとは言えなかっただろう。しかし、その柔軟性を以ってしても、今回のこれだけは解せないでいるかのようだ。そのためか、今まで鬼の気配を敏感に感じていた泰明の感性よりも、神子の精神状態に同調している永泉の方が判ることが多いらしい。
 しかし----。『龍神の神子』を信じ、その役に立つこと、を最優先として勤めて行くとすれば。
「----黒龍を呼ぶことは神子の望みなのか? 自分で意識していないとは言え、呼んでしまっている、ということは……」
 彼女がそれを望むなら、八葉は何らかの破滅に手を貸さなければならないということになる。泰明は、受け入れ難い、という顔だ。それは永泉にしても同じことだった。
「まだ、結論を出すには早過ぎます」
 恐らくは違うのだと思いたかった。神子の心に闇が潜んでいることは確かでも、それは『意志』ではないのだろう。
「----……」
 泰明は珍しく考え込んでしまっている。しかし、やがて何かを諦めたようにため息とともに首を振り、
「お師匠に会って来る」
 そう言って歩き出した----かと思うと、突然誰かに引き留められたように立ち止まって、振り返った。
「永泉」
「はい」
「お師匠に会ったことはあるか?」
「----いいえ」
 解せない、という顔を数瞬、した後で、
「そうか、これから……」
 そんなような小声だけが永泉の耳に届いて、泰明はまたすたすたと歩き出した。
 ----これから?
 永泉の方も解せずに少し首を傾げる。しかし、その答えはすぐに明らかになった。

 深夜。寝静まった寺の空気は凛として澄んでいた。もう夏が近づいた時期とはいえ、それでもこの時間はさすがに風も涼しさを含んでいる。
 滅多にないことだが----永泉は夜中に目を覚ました。途端に何かに呼ばれたような気がした。
 そっと起き上がって、外へ出てみる。月明かりに照らし出された境内にはもちろん誰もいない。
 ----否、見えない、だけだ。
 永泉は目を閉じる。
 そこには誰かがいた。自分は呼ばれていた。その感覚を信じるだけの自信は、以前の自分にはなかった。だが、今は違う。
「----ほう」
 わずかな笑い声が耳に入る。
「なるほどのぅ」
 目を開く。見ようとする意志より先に、境内に小さな生き物がいるのが目に入った。
「ずいぶんお変わりになった」
「----晴明様、ですか」
 少ししわがれた老人の声で喋るその小さな生き物が、ちょろちょろと近づいて来る。白いネズミだった。
「泰明とは違う類の力をお持ちのようだ、とは思っておりましたが----、今の状況を把握するのには永泉殿のお力の方が有利でしょうな」
 永泉はそっと身を屈めて境内に下りようとする。が、ネズミはその小さな体に不似合いなゆったりした動作で首を振ってみせる。
「私が上りましょう。草履もなしではおみ足に傷が」
 ネズミが柱を伝って昇って来る。廊下に腰を下ろした永泉の元に走り寄る。
「----どういう意味でしょうか」
 永泉は声をひそめて話しかける。
 自分の膝頭のところで、後ろ足で立つネズミの表情は、ほんのり微笑んでいた。
「泰明にも未熟な部分はあります。特に柔軟性に欠ける部分が。あやつの方が全て優れていると、永泉殿は未だに心の何処かで思っていらっしゃるやも知れませぬが、そうではない部分もあります」
 ただ黙って聞く以外、永泉には出来ない。そんな風に思ったことは1度もなかった。今でも、稀代の陰陽師である泰明と自分の力など、比べることすらおこがましいと何処かでは思っている。
「永泉殿、私は警告しに参りました」
「警告……」
「どうも今の永泉殿は『邪気』を受け入れていらっしゃるように思われます。あるいは、自ら呼ばれていらっしゃるのか----」
「----!?」
 目を見開く。自分ではもちろんそんな意識をしたことはない。ただ、もし自分に何か邪なるものが向かっていたとしたら、それを祓う力など多分自分にはない。
 ----自分には、隙があるということでしょうか、
 と言い出しそうになったのを読んだように、
「隙があるから入り込んだとは思わないで下さい。その原因は神子にある」
 神子----。永泉の心にふっとあの時の涙が浮かぶ。絞めつけられるような感覚。
「泰明と2人で話していたことは私も泰明から聞きました。恐らく今、京に生じようとしている穢れの源は神子です。彼女の心には、闇が潜んでいる」
「----そのような……」
 少しの怒りと共に体がすっ、と前に出る。だが、穏やかな瞳のネズミにじっと見つめられているうちに、今まで感じていた彼女の心の乱れの1つ1つが、流れを作るように浮かんでは消えて連なって行く。
 永泉は眉をひそめる。
 多分、その流れを『見せて』いるのはこのネズミ----否、晴明なのだろう。
「彼女の心に闇が在ることを『見て』いるのは永泉殿だけです。今の泰明は、それを見ようとはしていない。『神子』を絶対視しているのは私の責任でもありますが……」
 意志ではなくてもそれは闇であり、ある種の危険信号であることは、永泉にも理解出来ていた。ただ、今まで清らかな守るべき存在とされて来た彼女を穢れの根源とは思いたくはなかったのだ。
 だが----
「永泉殿は恐らく辛い立場に立たれることになるでしょう」
 ネズミの表情は不思議な荘厳さを湛えていた。
「ご自分に出来ることをなさりたいと思われるでしょう。しかし私は----何もなさらない方が良いと申し上げるしかありません」
「----な……」
「恐らくそれはお辛いことです。ですが、あえて申し上げます。----永泉殿、」
 ネズミは、きゅっ、と口元を引き結んでから、
「神子を救おうとなさってはいけません。彼女の心の闇を、受け入れてはならないのです」

 翌夕刻。音羽の滝の穏やかな水飛沫の音を辿るように永泉は笛を奏でていた。
 自分にどんな力が宿っていたのか、など、晴明に言われるまでは気づこうとしもしていなかった。
 恐らく神子によってそれが「目覚めさせられた」だけで、自分が元からそうだったのだろう。八葉に選ばれた時は「何故自分が」と思っていた。恐らく、今の気持ちがあの時にあったのであれば、自分がそのために選ばれたのだと納得出来たのかも知れない。
 自分は『受け入れて』いまうのだ。あらゆる波動を。それが悪であれ善であれ。
 恐らくそれは他の八葉にはなかった力。そのために他人よりも敏感になることを余儀なくされ、人の悪意をも簡単に見えてしまい、それが自信のなさへつながってしまっていたのかも知れない。
 笛から唇を離して、ふう、とため息をつく。自分の笛の音の余韻は、すぐ水音にかき消される。
 人の気配を感じて、永泉は振り返った。そこには、神子----あかねが立っていた。
「----こんばんわ」
 1人で神子がこんな時間に歩いているはずはない。最初に永泉が思ったのはそのことで、だから誰かがその後に続いて現れるであろうことは覚悟していた。すっ、とわずかな葉ずれの音とともに、人影が見えた。頼久のようだ。
「神子、どうなさったのですか」
「涼みに来たんです、そしたら、笛の音がしたから……」
 にっこりと、屈託のない笑顔だ。確かに、だいぶ日差しも暑くなり、太陽が沈みかけていてもその空気の熱は容易には冷めてくれない。左大臣家の屋敷から何処かへ涼みに行くとなればここか神泉苑になるだろう。
「もし邪魔なら、私、帰りますね」
「いえ、私の方が帰ります。少し心を落ち着けたかっただけですから」
 永泉はその場を離れる。頼久は相変わらず生真面目な顔でただ控えている。
 ----彼にとってあかねは仕えるべき主以上の存在ではないんだろうか。
 すれ違う時にわずかに会釈する横顔を見ながら、永泉は仁和寺への道を急いでいた。


 その日は、朝から何だか奇妙な胸騒ぎだけがしていた。
 凛とした早朝の空気の中で、祈ることに集中しようとしても、何かがそれをさせてくれない。
 それは、自分の未熟さだから、と切り捨ててしまって解決する問題ではなかった。いやもしかしたら、以前の自分ならそうしていたかも知れなかった。
 でも違うのだ。何かが。
 どうしようもない閉塞感。先が見えない闇。それを突破してくれる何かを求める悲愴な感覚。それらの感情が、現れては消えて行く。
 その発信源が何処なのかは、永泉には判っている。だが、「それ」はあまりにもこの日に限って大きくて暗い。一筋の光もない。
 朝のお勤めが終わった時、東寺の住職にも迷いを指摘されて、それに対してはただ謝るだけに徹していた。本当は住職の方も謝って欲しいとは思っていないだろうが、その時はそうするしかなかったのだ。
 気になり過ぎて。
 音羽の滝へ向かう。まだこの時間では彼女に会えない可能性の方が高いから。
 薄い雲を通して太陽が昇るのを木々の間から見つめる。ゆったりとした動きでも、細かい木洩れ日の動きで時の動きが見える。
 集中して----。
 光を、見出そうとする。
 永泉には判っているのだ。それは晴明が警告したことだと。だが、それでも、自分の存在する意味をそこにだけ見出せた彼の心は、何もしないでいることなど出来なかった。
 だからこそ晴明は警告しに来たのだろう。だが一方で、彼は判っていたのかも知れない。もうそれが、遅すぎたのだ、ということも。

 気温が上がっている。空気もう真昼になりつつある。
 さらさらと流れる滝にもう一度心を落ち着けて、そして左大臣家に向かう。藤姫が何やらおろおろしている光景が最初に目に留まる。その目がこちらを見た途端、ぱっ、と表情が輝いた。
「あ、永泉様!」
 ぱたぱたと駆け寄って来る。
「お願いがございます、神子様を----神子様を追いかけて下さいませんか?」
「どうなさったのです?」
 つとめて平静に答える。
「判りません、突然、船岡山がどうとかおっしゃって----。頼久を呼ぶと申し上げたのですが、頼久を探しているうちにお1人で……」
「そうでしたか。では行ってみましょう」
「お願いします」
 言うなり、またぱたぱたと出て行く。
 永泉は、深呼吸して、そして出来る限り急いで走り出す。船岡山、という地名で浮かぶのは、神子とともにこの世界に降りて来た強気な青年、天真の顔だ。彼はよくあの山の上から京を見下ろしているんだ、という話を聞いたことがあるような気がした。

 ----元から走ることは得意ではないし、そもそも法衣は走るのに適した服とは言えず、急いだつもりではあったが、結局船岡山に着くまで神子には追いつけなかった。
 頂上で、彼女は肩で大きく息をしている。何が目的なのかはその時点ではまだ判らない。ただひどく焦っていて、当然藤姫を待っている余裕などなかったのだろう。彼女は時々、そんな風に1人で飛び出して行くことがあるらしいのは聞いていたが、だが今回のこれは、永泉が感じたあの閉塞感のこともあり、それまでとは少し違うような気がしていた。
「……神子!」
 切れる息の隙間でそう呼びかける。はっとして振り返った神子は、驚いたように目を見開いて、それから、
「永泉さん、どうしてここへ」
「藤姫に聞きました」
「----あ、もうっ、藤姫……」
 少し困ったように元来た道を見ている。
「神子、怨霊の気配は確かに失せましたが、しかしまだ何もないとは言い切れません。お一人では危ないと……」
 言いながら息を整えて近づく。神子は、ふう、とため息をついて、自分の爪先辺りを見ていた。
 そして、声の届く距離に来てから、
「一人にして欲しいんです。お願いですから」
 真っ直ぐに永泉を見つめて、そう言った。
 ----何を焦っているのだろう、彼女は。
 何かを決意したような強い瞳が、ここから離れて欲しいと必死に訴えている。まるで、ここにこれから何かが来るとでも言うように。
「神子」
 何が出来るのか判らない。だが、これ以上何も出来ないでいるのは辛過ぎた。
「----私にはあなたが苦しんでいるように見えます」
 強い瞳が、ゆらっ、と少し揺らぐ。
「私にはそれをどうこう出来る力は、今でも、やはりないようです。ですが----」
 神子の目がそれた。いつも前向きな強さを持っていた彼女が、その時には何処か折れそうに見えた。
「神子が苦しむのは見たくありません。せめて----せめてあなたを癒して差し上げることが出来たら----」
 あまりに折れそうで。
 支えなければ倒れてしまいそうに見えたから。
 永泉の両手が、自然に彼女の肩に伸びた。神子はそれを拒むことはせず、ただ、少し唇を噛んで、何かにこらえきれなくなったように俯いていた。
 しばらく、息を詰めたような沈黙が続いた後に。
「お願いです……」
 再び聞こえた声は少し涙ぐんでいた。
「……一人に、して……下さい……」
「神子、」
 言葉には逆らうように、少し手を強めてしまう。だが----
「……誰も、巻き込みたくなかっ----」
 神子はそう呟いて、強く永泉の手を振り払った。
「神子?」
 巻き込みたくない?
 言葉の意味を解釈するより先に、あの時感じた瘴気のかけらが永泉の背中辺りを通り過ぎたように思った。
「……!!」
 振り返る。誰もいない。残る気配も緩やかに霧散している。
 ----今のは……
 再度神子に向き直った時、彼女は走り出していた。
 何処へ、と聞かなくても、頭の中に光が走った。
 あの光景は神泉苑。
 遠くなる神子の背中を見ながら、後に続く。今や彼の心の一部は完全に神子と同調してしまっている。彼女の混乱と、分裂と、巨大な罪悪感と、自責と。それが何によって引き起こされたものなのかまでは、永泉には見えない。だが、----
 神子は錯乱していた。それだけは判る。
 ----これは泰明殿が必要かも知れない。
 頭の何処かでそう冷静に思う。届くかどうか判らないまま、心で強く彼を呼ぶ。先ほどの奇妙な瘴気の存在に、気づいてくれることを願いながら。

 まだ夕方には早い。だが、神泉苑の空は異様な速さで雲を貯え始めていた。
 明らかに普通ではない。
 ようやく辿り着いて、水辺に座り込んでいる彼女に近づこうとした時、
「一人にして!!」
 また、神子はそう叫んだ。
 それは無理だ。この雲と、薄く漂う黒い霧。それが何であれ、彼女が----龍神の神子がそれを引きつけている。
 ----彼女が呼んだものだとしても。
 そこから彼女を守りたい。
 判っている。それが自滅だということは。
 でも、
「私に出来ることは、----それしかありませんから」
 誰に言うともなく呟いて、彼は祈り始める。霧たちを挑発する。君たちが向かうべき場所はそこではないと判らせるために。
「いやぁ!! 永泉さんやめ……!!」
 神子の悲鳴が一瞬聞こえて、すぐに途切れた。全身に真綿が詰め込まれたように、音と感覚が麻痺する。キン、と貫かれたような頭痛。風を感じない。空気を感じない。地面から足が離れた。赤黒い大きな瞳が、ニヤリ、と永泉に笑いかけたように見えた----

---- 第13章 empty gonna empty(空即是空) end.


第14章 cruel passion pt.2

 闇がだんだんと京を包み出す頃、藤姫と楽しそうに笑う彼女は、鷹通が精一杯の強がりで出した嘘をそのまま信じたのだろう。鷹通は多分、心の何処かでそれを結論として自分の心を決しようとしていたのかも知れない。
 彼女がその言葉通りに全てを忘れてしまうのならば、所詮彼女にとって自分はそれだけの存在だったと思うことが出来るのだから。
 そして彼女は----
「鷹通殿! まあ、お珍しい!」
 藤姫が真っ先に鷹通を見つけて声を上げた。
「お久し振りです、藤姫、神子殿」
 普段通りに微笑んだ----つもりだった。
「鷹通殿、何処か具合でも?」
 藤姫は少し心配そうな声。
「いえ、何でもありません」
 藤姫は気を効かせたのかその場を離れる。鷹通は神子----あかねの方に近づく。
 笑顔は変わらない。
 あの頃と同じ、八葉全員に平等に向けられる笑顔。
 蛍の光の中で、鷹通を見ていた少し潤んだ瞳は、----忘れて下さい、と言った鷹通本人が、まだ忘れられずにいたのに。
 彼女はその言葉通りに全てを忘れることにしたのだ。恐らくはあの時も、彼女の中に既に彼はいたのだろう。地の白虎----友雅が。
 鷹通の方は普通に笑おうとしても何処か歪んでしまうのだ。藤姫は気づいているのだろうが、あかねは全く気づこうともしていないかのようだった。
 温かな体温を纏っただけの輝く宝玉のように。あかねの心の表面はよそ者の侵入を拒む固さを決して崩そうとはしない。今の鷹通には、そんな風にしか見えないのだ。
「お元気でいらっしゃいますか」
「はい、おかげさまで」
 ふわりと花が咲いたように幸せそうな笑顔。
「今日はどうしたんですか?」
「いえ、近くまで来たので寄ってみただけです」
「そうですか……もしかしてシリンさんたちのこと何か判ったのかなって……」
 アクラムに切られてしまった鬼たちの名前。気になるなら人を使って探させるという約束をしたのは友雅の方だった。だが「私は人望がないからね」と本気とも冗談とも取れる口調で鷹通に手伝いを頼んで来たのだ。
 以来、確かに定期的に人を使って聞き込みをやらせたりしている。だが、収穫はあまりない。
 イクティダールが彼らを連れて何処かへ隠れたのだろう。彼自身も戦いを望んではいなかったようだったから。アクラムがあからさまに死を選ばせなかったことを機に、京からは遠く離れているのかも知れない。
「----いえ、今のところ何も」
「無事でいてくれるなら、それでいいのだけれど……」
 不思議な優しさを湛えた『神子』の顔つき。その温かさは諸刃の刃でもある。鷹通の前では「あかね」ではなく「神子」であろうとすること、その事実だけでも、彼の心に小波を立てるには充分過ぎるのだ。
 それはあまりに苦しい感情だった。彼の心は引き裂かれていた。ただの八葉であろうとする自分と、-----もうひとりの自分と。
 今は八葉である自分が勝っている。これ以上踏み込んではならない領域に何度も線を引き直しながら、それでもまだ八葉でいられる。
 ただの----八葉で。
「何か判ったら必ずお知らせします」
「はい、お願いします」
「それではこれで……」
 失礼します。
 言おうとして振り返った言葉の向こうに、友雅の姿が見えた。
「おや、珍しいね、鷹通」
 鷹揚にあかねの方へ。そうするのが自然であるように隣へ並ぶ。
「神子殿に用かい?」
「ええ、もう用は済みました」
 必要以上に話す必要はないのだ。否、話してはいけないのだ。もうひとりの自分が何かを言い出さないうちに、ここを離れた方がいいのだ。
 その葛藤を、多分友雅には見られている。八葉だった頃から、友雅には何も隠してはおけなかった。何を迷っていても、何を苦しんでいても。
 だから話せない。目を見ることすら。
 それが彼女の選択なのだから。二人が穏やかに微笑み合うことが。
 折れそうな自尊心で再び線を引き直す。必要以上に早い足取りで、その場を離れながら。


「鷹通殿、お母上から手紙が」
 屋敷に戻った途端に、父のお付きの女房の手から少し厚めの文が鷹通の手に手渡された。母上----鷹通自身の中では病死した北の方のことをそう呼んではいても、この屋敷の中で彼の「母上」と言えば、国司へ嫁いで行った生母のことだ。
 鷹通は生返事とともにそれを受け取り、自室で燭の近くに腰を落ち着けて読み始める。
 生母の再婚相手である国司は顔が広いらしく、あちこちの茶店や宿屋で、シリンやイクティダール、セフルの目撃証言がないか聞き回ってくれたようだ。
 内裏から人を出して探させてはいたものの、ここまで詳しい証言は出て来ていなかった。それは内裏の人間たちが、地方における情報の集積地点を読み違えていたことに起因するようだ。珍しい輩が通ったなどという噂話の類は、集落の管理者と膝を交えるよりも茶店や宿屋の方が証言を得やすい。鷹通自身が筋を通そうとしてやったことが遅きに失した原因を作ってしまっていたようだった。
 ただ、セフルとイクティダールとイノリの姉の3人は、セフルの容貌のこともあり、さぞかし目立つであろうという鷹通の読みは当たっていた。ぶ厚い手紙の中には、夥しい数の目撃談が書かれてあった。その全てを総合すれば、彼らがどういう道筋を辿って行ったのかがよく判るほどに。
 足取りは近江の国で途絶えている。琵琶湖に近い集落で見かけられたのが最後だ。
 使いに出した者たちが戻って来たら、今度はその辺りを集中的に捜索させてみるか、などと1人で思いながら、手紙の束を文箱へと収めようと蓋を開ける。
 自分で書きかけて封じた文が目に入る。
 静かに取り出し、手の中でしばらくどうしようかと迷っていた。
 わずかに残った侍従の香り。自分にはまだ友雅の言う『男女の機微』など見えなかった頃の、無骨なほどに堅苦しい墨の色、筆運び。
 ため息とともに鷹通はそれを静かに破いた。もう届ける先のない手紙だから。細かい切片を、燃える燭にかざし、その黒が赤に飲まれるのをただぼんやりと見つめていた。
 そして、同じ無骨さで再び筆を執る。今度は、単なる仕事の顔をして。だが純粋に仕事のせいにしているのかどうか、自分の心の底が読み切れないでいることも確かだった。ただこの手紙の束を報告するだけなら、あの時のように屋敷に出向けばそれでいいはずなのに、何故か手紙には『外でお会いしませんか』などと書いてしまった。
 もちろん、彼女は断る権利があった。昼間にでも、鷹通が仕事の合間に左大臣の屋敷へ来れば済む話だと、笑って流されるのが当然との思いが鷹通の中にはあった。
 それなのに----あかねから来た返事は鷹通を驚かせた。
 案朱の橋の近くの川辺で待っている。彼女の手紙はそう答えていた。
 あの場所で----。
 鷹通は、忘れようと努力した痛みをまた思い出していた。そしてあかねの意図をはかりかねていた。
 何故あの場所なのだろう。
 彼女にとっても、忘れたはずの場所。
 蛍の一夜にだけ、閉じ込められたはずの----。

 暑い盛りの過ぎた夕方。神子は1人で川辺にいた。夏に近づいた空気の熱から逃れるように、手を川の水に差し出して。
 その小さな背中に、鷹通はどう声をかけようかとしばし迷い、それから「仕事」だから、と近づきながら深呼吸する。
 足音に気づいたように、あかねは立ち上がり、振り返った。まるでいつも通りの『神子の顔』で。
「外でお会いするのは久し振りですね」
 鷹通の方もつとめて穏やかにそう切り出した。
「はい」
 穏やかでにこやかなまま。この場所に対して鷹通が抱いていたせつなさは、まるで彼女にとってはなかったもののようで。そして。
「彼らもここを通ったんでしょうか」
 橋を見上げた彼女の言葉で、鷹通にも、あかねがここを選んだ理由が読めた気がした。
 いつか話したことがある気がする。琵琶湖の方まで続く道。その出発点がこの橋だと。
 それだけ----だったのか。
「恐らく、そのようです」
 鷹通は生母からの手紙の束を取り出す。あかねは、それを興味深そうに眺めている。その横で、手紙に書いてあった目撃談から代表的なものをいくつか説明する。
 あかねは、熱心に耳を傾けている。近江の国から先の手がかりがないことを聞いて、心底残念そうにため息をつく。
 単に彼らが通ったであろう道だから。神子にとってこの場所はその意味しかないのだろうか。
「……でも、1歩前進したという感じはしますね」
「それはその通りです。使いに出している者が戻り次第、範囲を狭めながら引き続き探して行くつもりです」
 鷹通もようやく、単に役人の顔で接することが出来そうだった。彼女には何の他意もないのだ。この場所には。ただの偶然でこうなっただけで。
 ----それなのに。
「蛍、もう季節外れちゃってるかな……」
 あかねは誰に言うともなくそう呟いて、また川辺に向き直った。
 その言葉のせいで----触れてはいけないと箍を嵌めていた鷹通の理性は、雪のように溶けてしまっていた。
 彼の足は再びあかねとの距離を縮めて。
 何をしようと考える間も判断する間もないままに。
 あかねの肩を、抱きしめていた。
「----放して……下さい」
 小さいがはっきりとした神子の声がしていた。でも、そうはしたくなかった。言葉でそれを伝えることが出来ず、ただそのままでいることだけが彼の答えだった。
「お願いです」
 落ち着いた声はそれでもわずかな震えを含み始めている。
「お願いですから----」
 そしてやがて涙も。
「鷹……さ……」
 ほとんどすすり泣きに近くなってから----罪悪感が彼を動かした。
 あかねは振り返る。頬を転がる涙を拭うこともせず、少ししゃくり上げた喉を落ち着かせるためか深呼吸を繰り返す。
 そして目を閉じて、開いた時には、睨むような上目遣いが鷹通を見つめていた。
「----申し訳ありません、神子殿」
 我ながら消え入りそうな声だと鷹通は思った。非は自分にあるのは明らかなのだ。蛍は、たとえ彼の心の中であの時の出来事と結びついているとしても、あかねにとってその言葉は、ただ単に蛍が見たいと、それ以上の他意など何もなかったかも知れないのに。
 否、そうなのだ。他意など、何もないのだ、最初から。
「……鷹通さん」
 少し低い声が彼女の口から流れている。心の底から絞り出されるような哀しい声。
「…………」
 彼女の目が、ゆっくりとそれる。
 長い沈黙の間に、彼女は何かを迷っていた。そして。
「……忘れて欲しいと言ったのは、あなたの方なのに----」
 掠れた声がそう呟いた。涙が再び、彼女の頬を転がった。

 鷹通はもうためらわなかった。そして彼女も、もう『放して』とは言わなかった。


 その日は、前日のうちに戻って来ていた使いの者たちに、一日の休暇の後に近江の国へ出向いてくれるよう手配したり、京に許可なく侵入した薬売りがいると告発して来た貴族の対応に辟易したり、新しく仕事についたばかりの鷹通にも覚えのない一門の親戚の相手をして内裏の中を案内して歩いたり、どういうわけか本来の仕事以外のことばかりに明け暮れる1日だった。
 ようやくそれらの頃が落ち着いた頃には鷹通はどっと疲れていた。いくつか書かなければならない書面があって、筆を手にはしたものの、今自分の書く字は後で相当読みづらくなりそうな予感がして紙の上には置けずにいた。
 姿勢を崩して座ったまま、昼間という名の暑さの盛りは過ぎた表で女童たちが遊んでいるのをぼんやり眺めるともなく眺めていると、その視界を人が遮った。
「ずいぶん疲れているようだね」
 穏やかなその声は友雅だ。
「どうなさったんですか」
 つとめて普通に話しかける。
「これから仕事だよ」
「今宵は宿直(とのい)ですか」
「そういうことだ。その前にちょっと鷹通に例の件を聞いておこうと思ってね」
「例の?」
「鬼たちのことだよ」
 ああ、と鷹通はため息で返事をしてから、それまでの経緯を淡々と友雅に説明した。もちろん、案朱であかねと会ったことは除いて。
「ではもうすぐ新たな消息が入るわけだ」
「そう願いたいです」
 もう話は終わり、と言わんばかりに、鷹通は素っ気無く言い切って仕事に戻るふりをする。が、視界の端で、相変わらず何かを含んだような笑顔が自分を見下ろしているのを意識していた。
 やがてその笑顔は振り返り、去ろうとして、立ち止まった。
「たまには神子殿にその話もしてやってくれないか。どうも最近姫君は何か心配事があるようだから。少しでもいい知らせがあるなら、姫の心も穏やかになるだろうしね」
 神子に会う。
 心の中に矢を刺されたような痛み。
 あの案朱の日以来、単に八葉として会うだけでも、鷹通の心は痛みばかりが大きくなっていた。
 彼女が『神子』ではなかったのはあの一瞬だけで、それ以来また、彼女の瞳は表情を消していた。
 前と違うのは、今の鷹通には「消して」いるように見える、ということだ。あかねの方も、『神子』の仮面をかぶっているだけなのではないか、と見えるのだ。
 今また会いたいと言ったら彼女は応えるだろうか。
 会えばきっと、この痛みがまた重なるだけで、ますます苦しくなるだけなのだろう。
 立ち止まったままの友雅は、頭だけちらりと鷹通の方に向ける。
「それに鷹通」
「何でしょう」
 顔は向けないまま答える。
「----君もずいぶんとせつなそうな顔をするようになったものだね」
「……」
 鷹通はほんのわずかだけ目を上げて、友雅のいた方を振り返る。
 そこにはもう誰もいない。わずかに遠ざかる足音と、楽しそうな軽やかな笑い声が数瞬、しただけで。
 ……以前の自分なら、それを友雅の余裕と取っただろう。自分はからかわれているに過ぎないのだと。
 だが、神子の涙に触れた今では、そんな風に笑える友雅を何処か哀れんでさえいた。もちろん、彼女の心が友雅から揺らいでいる、などと確信があるわけではない。だが、少なくとも、あの瞬間は彼女は自分に心を開いてくれていた、と鷹通は思っていた。
 友雅から奪おうなどと思っているわけではなかった。
 ただあの幸せな瞬間の、彼女の温かな体温が、友雅に対する後ろめたさを少し相殺してくれていた。
 鷹通がせつなそうに見えるのは、友雅自身の心が何処かでせつないからかも知れない。----本当の理由はよくは判らなかったが。

 数日後、近江の国へやった使いが戻って来た。
 仕事が一段落した夕方、鷹通は彼を自室に招いてゆっくりと話を聞きたいと伝えた。女房たちに命じて、食事を用意させて。
 使いの者がその席で語ったことは、正直、神子に対してそのまま伝えるにはやはり辛い部分もあった。
 人の口に噂が乗るのは早い。京で鬼がして来たことは遠方まで伝わっていたが、イクティダールが心の底では闘いを望んでいなかったことや、アクラムに切り捨てられたセフルが心に大きな傷を抱えていることなど、個々の事情までは伝わるはずもない。
 やはりセフルの外見が一行を悩ませているらしい。使いが集落の人々に彼らのことを聞こうとしても、何故あんな奴等のことを聞きたがるのかと逆に怪しまれる始末だったという。
 彼ら自身にも会おうとしたのだが、使いの正体を明かさずに調査するよう命じていたためか、彼らがいるらしいという家に出向いても誰も出て来なかったという。
 せめて「龍神の神子」の言葉は出しても良かったか、と今更後悔しても仕方のないことだ。
 彼らは何処へ行っても迫害を受ける側でしかないのか。
 鷹通は、つい先日まで自分が戦っていたはずの相手なのに、彼らが哀れで仕方なかった。何も事情を知らない遠い国で逃げ回るように暮らすなら、京の中でも隠れられる場所はいくらでもあるはずだが、などと考えてしまってから、この短期間でずいぶん自分も主義を変えたものだ、などと思ったりもする。
 使いの者が帰って1人になった後、これをどうやって神子に伝えるべきか、鷹通は考えあぐねていた。
 何処かでひっそりと幸せに暮らしていました。そんな風に伝えて終わる『任務』だと思っていたのに。
 だが嘘をつくことは出来ない。
 鷹通は少し頭を振った。考えても答えは出そうになかった。
 部屋の外で女房に声をかけられる。食事の片づけを、と言われて、ようやく現実に戻って来た。鷹通は立ち上がると、少し庭に出ているから、と女房に告げて外へ出た。
 冷たい月の光と、少しは涼しくなり始めた風の中で、鷹通はただ、空に向けて小さなため息をついた。


 翌朝。
 左大臣家に出向く。友雅が定刻通り参内しているとすれば、もういない時刻を見計らって藤姫に取次ぎを願う。
 神子は何処かに出かけようとしていたらしかった。藤姫が「庭で待つように」と言ってからすぐ、彼女は庭へ出て来た。
 そしていきなり、
「出かけましょうか」
 と笑いかける。
「……神子、ですが」
「せっかくのいいお天気ですし、鷹通さんさえ嫌でなければ」
「……」
 まるで判らなかった。
 最初に出会った頃の、いささか幼い姫のような、無邪気で屈託のない笑顔。
「……神子」
「はい」
「私たち2人だけで、ですか?」
「はい」
 それをどう解釈すれば良いのだろう。
 戸惑っていると、神子は少し沈んだ顔で、
「もしかして、嫌……ですか?」
 と返して来る。鷹通は慌てて
「いえ、まさか」
 そう言ってしまってから、かあっ、と自分の頬が熱を持つのを自覚してしまった。
 神子は、ぱっと表情を明るくして、鷹通の内心の焦りなど知らないかのように歩き出す。
「み、神子」
 その後に急いで続く。
 藤姫が「行ってらっしゃいませ」と言うのが聞こえた。鷹通には、何が何だか判らない朝だった。

 最初は単にあちこち散策をしに来ただけだった。しかし、のんびり散歩している間に鬼たちの話になり----、やがて、少しずつ表情に憂いの色が濃くなっていた。鷹通とて、そんな風に明るく無邪気に接してくれていた彼女を落ち込ませたくはなかったのだが、彼は用があったからこそ左大臣家にやって来たのだ。
 彼らの様子を、鷹通が知る限り詳しく話しているうち、時は夕刻に近づいていた。
「そうか……。何処へ行っても同じなのかなあ」
「さあ、どうでしょう。もっと遠くへ行けばあるいは噂からは逃れられるのかも知れませんが、……セフルの外見は何処にいても目立つでしょうね。目立つことは、何かの問題を起こすかも知れません」
「……鷹通さん、あの……」おずおずと上目遣いで見上げている。
「何でしょう」
「怒らないで下さいね……」
「努力しましょう」
 神子は数度深呼吸をした後、
「……戻っておいで、って手紙を出しちゃ……ダメですよね……?」
 神子は言ったあと、もう怒られるつもりなのか、ぎゅっと目を閉じて身を縮めていた。鷹通はしばらくそんな神子を眺めていたが、ついに、くすっ、と笑い出してしまった。
「た、鷹通さん??」
「すいません、神子。実は……」
 自分も同じことを考えていた、と鷹通は告白した。
 神子の顔がぱっと輝いて、
「ホントですか?」
「ええ、ただし、彼らに対する京の人々の意識はまだ同じでしょうから、人目につくことはしないで欲しいと釘を挿さなければならないでしょうが」
「そうですね」
 神子はあの頃から、話し合って共存する道を常に探ろうとし続けていた。
「----結局はあなたが正しかったということでしょう、神子」
「そんなこと……」はにかんで笑う。「でも良かった。鷹通さんにそう言ってもらえると自信が出て来ました」
 ----鷹通の方の用事はこれで終わりだ。
 神子は、鷹通に何か用事はあったのだろうか。
 あの夜に流した涙の後がいきなりこれ、というのは、鷹通にはどう解釈していいのか判らない明るさだった。
 忘れてしまったのだろうか。あの夜のことさえ。
 だが----どう尋ねていいのかも判らない。ただ鷹通1人がすっきりしないままなのだ。
 多分その時の鷹通は、友雅曰く「せつなそうな顔」だったのだろう。神子はその太陽のような笑顔を少し翳らせる。そして突然、
「----ごめんなさい」
 そう言って、わずかに頭を下げた。
「何がですか…」
 鷹通は不思議な穏やかさが満ちるのを感じた。神子の手が、少しためらいながら、彼の袖に触れていた。
「……こないだのこと……。私……忘れられなかったから、あの夜のことが……。忘れて欲しいって、言われたのに……」
 視界には誰もいないが、誰も見ていないという確証もない。鷹通はやんわりと彼女の手をたしためる。その時にほんの少し触れただけで、実際は鷹通の方が顔が火照っていたのだけれど。
「だから、あの頃みたいに、京の散策出来たらって……そしたら、鷹通さんに、会えるかなって……。私が、ただの龍神の神子、であれば……」
「神子」
 鷹通は不思議と落ち着いていた。
「私はいつでもあなたのそばにおります。八葉として」
 何か言いたげな潤んだ瞳が見上げている。
 そうか、と鷹通は納得する。
 これが『せつなそうな顔』というものなのか、と。
「----あなたが望むなら、八葉ではないただの自分としても」
 彼女の瞳がゆっくりとまばたきする。そして、かくん、とうなだれる。
「----私……、ひどい人間ですね」
 その声には涙が含まれていた。
「こんなことしてたら、誰かを傷つけちゃう、そのうち……。ううん、もう傷つけてるのかも……」
 両手で顔を覆う。肩が大きく動く。
「天真くんも----」
 自分の世界に帰った、と聞いた八葉の1人の名前が彼女の口から出て来た。その裏にどんな事情があったのかは鷹通には判らないが、彼もまたこの苦しみを抱えていたということかも知れない。それを知りながら、何も出来なかったということなのかも知れない。
「でも……、でもどうしようもなかった……」
 神子が自分を責める必要はない。
 そう言おうとするより先に。
 今度は彼女の頭が、鷹通の胸元にその重さを預けて来る。
「み……」
「……ごめんなさい……でも、今だけは……」

 彼女が何に絶望しているのか、具体的に判ってあげることは鷹通には出来ない。それでも、彼女が何かに絶望しているらしいことだけは判ってあげられた。
 だけど、友雅は----。
 彼はどうなのだろう。
 彼にとってこの少女は、まだ開かないつぼみのように可憐で愛おしい存在であろうことは理解している。でももしかしたら、そんな風に慈しむだけの彼の前では、神子はこんな風には悩めないのかも知れない。
 彼女は----愛されることを強制されている。
 ただ可憐なつぼみであることだけを求められている。
 だから、鷹通の胸が必要なのかも知れない。
 否、もしかしたら誰でも良かったのかも知れない。友雅でなければ誰でも。
 だとしても、それが自分であるならば、鷹通はそれに応えたいと思った。自分の存在が、彼女に必要なのであれば、それを拒む理由など、彼にはありはしないのだ。

 夕闇。もう誰かがいたとしてもそれを識別することすら出来ない。鷹通はただ泣きじゃくるあかねの肩を抱いた。ただ----静かな情熱で。


 涙をただ受け止めるだけの時間が過ぎて、彼女はその隙間から少しずつ言葉を吐露し始めた。
 京に来て、『龍神の神子』としてしか扱われなかった自分が少し窮屈で、ただの元宮あかねでいたい、という気持ちが心の何処かで強くなり続けていたこと。その心に呼応してくれたのが友雅だったこと。
 だが彼の『妻』となってからは、逆に自分の存在の意味を見出せなくなっていた、と。
 ----龍神の神子だった頃は自分が何をすべきか判っていた。でも、今の自分は何なのか判らない。何をすべきなのか。
 ランを助けるまでは、それを心の中心に置いていた。そしてそれが叶った後は、本当に『自分』が何なのか判らなくなった……。
 異世界から来た彼女には、この世界での女性の在り方は理解出来ないものであったのだろう。ただ子を産み家を守りじっと座り、立つことも許されない(移動する時ですら膝行しなければならない)。特に友雅の妻となってからは、龍神の神子としての役割がなくなってからは、それまで容認されて来た彼女ゆえの事情など通用しなくなる機運も出て来ている。
 彼女はやがて、ここでの他の女性と同じように深窓の姫君として扱われることになるのだろう。こんな風に他の男と出歩くことなど許されない身分に。
「それに、友雅さんだって----」
 しゃくり上げる狭間の声がその名前を呼ぶことすら、鷹通には少し辛い。
「私じゃ、ダメなんです、まだ子供で……、だから……」
 その言葉に続く話が何なのかは予想出来た。あの少将殿は、それまでの習慣をただ延長しているくらいの心でしかないだろうが。彼の女人にまつわる噂話は、たとえ事実でなくても彼女を苦しめる。
 ----それを判らない方ではないはずなのに。
 彼女の何か言おうとする唇をそっと指先で止める。少し驚いたように鷹通を見上げた瞳は、まだ枯れることのない涙を落とし続けている。
 もう何も言わないで。
 かすれて、声にならないその言葉は、それでも彼女に届いたかのように、ゆっくりとした溜め息とともに彼女は再びそっと鷹通の腕の中に身を委ねた。

 ----どれぐらいそうしていたのか、闇の濃い色で鷹通は急に時間の経過を意識する。
 その夜も、何もなければ友雅は彼女の元へ帰るだろう。
「神子殿、もう遅いですから----送りましょう」
 あかねが少し悲しそうに顔を歪める。
 その表情が全てを語ってくれていた。もう、友雅に対して微塵の後ろめたさも感じる必要もないのだ。ただ----彼が哀れなだけで。
 鷹通はそっと彼女を促して歩き出す。
 館の門まで来て、友雅が既にいるかも知れないことを考えて、家の警護に当たっていた1人に彼女を託して早々に立ち去る。
 鷹通には想像がつかない。あの友雅があかねを『失う』とどうなるのか。
 他の女人たちにそうしたように、さした執着も見せずに次の蕾を探しに行くのだろうか。
 彼にとってあかねの存在がどのくらい特別なのか、あるいはそうではないのか、それすら鷹通にははかりかねているのだ。
 もちろん、あの堅いことの嫌いな友雅が『きちんとした』手続きを踏んで妻とした最初の女性ではあるが、それでも彼の周りに女性の影が絶えることはない。それがこの時代だとは判っていても、自分は元々そんな風には----そして父のようにも----なれない人種のせいか、その気持ちが理解出来るとはとうてい言えない。
 自分にとってあかねは唯一無二であり、明らかに特別だから----。
 ただ、自分が背負ってしまっている『家』の重さを考えると、藤原の名に諂うために娘を差し出すような輩に答えなければならなくなる日はいずれ来るだろう。あるいは『家』の政治的立場のために内親王を降嫁されるといった、それを拒みづらい事情も出て来るかも知れない。
 この時代、ここに生まれたからには結婚は政略でしかない。そういう意味では、友雅が、この世界での『身元』を持たない彼女を北の方に迎えることが出来たのは、彼が『橘』だから、と言うことも出来た。
 自分の近くにあかねがいることは、いずれ今と同じような悲しみの中に彼女を置くことになるかも知れない。ほんの少しの危惧は、彼女の涙を伴って大きな不安へ結びついて行く。
 本当は今すぐにでもこの手に彼女を抱きしめたくても----
 自分がそうしないことに、そう出来ないことに、彼は不思議と納得しているのだ。
 ただ友雅が哀れだとだけ----
 鷹通は振り返る。屋敷は闇の中でただの大きな影としか見えない。
 あれだけ人の心の機微に敏感な友雅が、彼女の悲しみに気づかないのは何故だろう。彼にとって彼女の存在が、それらを見えなくするほどに大きなものだということかも知れない。
 本当の理由など、その時の鷹通にはまだ判らなかったが……。


 鷹通は、龍神の神子の意志を伝える、鬼たちへの手紙を使者へ託す。使者は今更彼らに何を言おうというのか、と言いたげな表情で鷹通を見ていたが、「何も聞かずに頼まれて欲しい----龍神の神子のご意志だ」との言葉にそのまま近江の国へと旅立って行く。
 鷹通はその報告だけしようと、夕刻、仕事を終えた後に藤姫の館へ急ぐ。
 昼の余韻の残る少し蒸した空気の中で、御簾の向こうで書を広げているらしい藤姫に声をかける。
 彼女は小さく答えて、御簾をくぐって濡縁へと進み出て来る。
「神子にお話ししたいことがあるのですが、お目通りをお願い出来ますか?」
 いつもと同じようにそう言ったつもりが、藤姫は不思議な緊張を漂わせたまま押し黙っている。
「----藤姫?」
「----申し訳ございません、鷹通殿、今は神子様の御前にお通しすることは……」
 言いにくそうな口ぶりに、
「----神子殿は、お体の具合でも?」
 また少し長い沈黙の後に、
「ええ、その……」
 と、曖昧な答えが返って来る。
 どうも歯切れの悪い答えではあった。藤姫はしっかりしているとは言ってもまだ10歳の幼き姫だ。その様子は、誰かに無理に嘘をつかされているようだ、と鷹通には感じられる。
 藤姫は困ったような顔でただ、申し訳ありません、と繰り返すばかりで、理由を聞いても説明してくれそうもない。
 ただ手紙の件を伝えてくれるようにと藤姫に伝言してその場を去る。
 普通の女人であれば門前払いはよくある話だ。相手があのあかねでなければ。だからこそ鷹通には藤姫の困惑の向こう側にいる人物がもう判っていた。
 ついに彼女は閉じ込められてしまったのだろう。
 つまり『彼』は気づいたのだ----その神子の心の揺れに。
 だが、その途端にこんな強硬手段に出るような『子供っぽい』人だと思ったことはなかった。それがおかしくて、鷹通はひとり微笑んですらいた。
 その笑顔の前に当人がすっと立ちはだかる。鷹通が笑顔のまま目を上げると、その笑顔に驚いたように『彼』----友雅は片眉を跳ね上げた。
「おや、鷹通、どうしたんだい、今日は」
 穏やかな口調はいつも通りだが、からかうような軽妙さは影をひそめている。
「鬼たちのことでお話が会って参りました」
「----そうか。今日は神子殿は、」
「ええ、存じております。藤姫に伝言をお願いしておきましたので」
 ただ笑顔で。
 それまでとはまるで立場が逆転したように。
 友雅の笑顔の裏に何かを警戒するような気まずさが見えている。
 鷹通は自分がそんな風に彼を見ることが出来る日が来るとは思っていなかった。
 ----彼は哀れだ。彼女の自由を奪うことでしかあかねを愛せないのだとしたら。
 それは決して、今以上に彼女に『愛される』ことにはつながらないかもしれないのに。

 鷹通は穏やかに一礼してすれ違い、歩き出す。
 彼女がこの先この世界で生きて行こうとすればきっと様々な悲しみを知ることになるだろう。
 その時にあかねが心を開いてくれるのは、涙を見せてくれるのは、自分であって欲しい、と鷹通は思っていた。
 たとえそばにいられないとしても。物理的に距離があるとしても。誰がその2人の間に隔てを作ろうとしても。
 心はここにある----
 ふっ、と彼女の体温をその胸元に思い出す。笑顔はやがて小さな笑い声となり、それでも外には大袈裟に洩れないようにかみ殺しながら、鷹通は歩き続ける。
 政治のためでもなく、策略のためでもなく、家のためでもなく。純粋な自身の心のために彼女を愛し、そして、
 『愛される』ことが出来るなら----。

 その心を感じられる自分は幸せなのだ----ただそばにいるだけの友雅よりも、ずっと。

----- 第14章 cruel passion pt.2 end.


最終章 闇と光と

「お師匠」
 神泉苑に向かいながら、泰明は気配に対して呼びかける。
「何だね」
「何故止めなかった」
「私に出来ることはやったよ。法親王の心の中にまでずかずか上がり込んで想いを消せ、とでも言いたいのか? そんなことが出来るほど私は不粋ではないつもりなんだが?」
 晴明の気配はすぐに消えた。
 もし自分なら、それが最善ならそうしている。いない晴明にそう独りごちる。
 神泉苑に辿り着いて空を見上げる。呼吸を整える。
 まだ完全に復活を遂げたわけではない、黒い霧のように渦巻く破壊の龍神----黒龍の魂。その中心部にいる永泉が恐らく完全な復活を止めているのだ。
 『龍神の神子』が、どういうわけか呼んでしまった黒龍を、永泉は自分で引き受けることで神子を守ろうとした。----ただ。
 ----そうされると私にも手出しが出来なくなるんだが。
 封じてしまうことも、追い払ってしまうことも出来ない。こんな事態に直面したことがないので、そうしたら永泉の身がどうなるのか泰明にも判らないからだ。
 八葉はしょせん神子の道具だとしか思っていなかった頃の泰明なら、ためらわずに攻撃をしただろう。そのために永泉がどうなろうと気にはしなかっただろう。自分と同じように永泉も道具でしかなく、殉死したければ勝手にさせればいいのだとしか思わなかっただろうから。
 だが、----神子はそうは思っていない。彼女は、誰かが犠牲になるくらいなら自分が、と言ってはばからない。八葉は道具だとは思っていない。
 今の泰明にはもう拒絶出来ない事実----黒龍の魂は、彼女自身の闇。彼女の感情を刺激することは、事態を悪くさせることにしかならない。
 神子本人は----魂を抜かれたように、へたり込んで空を見上げている。今の彼女に何かを期待するのは無理だと、一目で判る。
 ----さて、どうすべきか。
 素早く、異世界への結界を修復する。そして更に大きな結界で神泉苑を包もうとする。しかし、澱んでいる空気の流れにうまく乗り切れない。
 ----もう遅いか。
 方法を考え直そうとする。永泉のよく通るあの笛の音なら、と思ってから、その吹き手はここにはいないことにすぐに気づく。
 眉をしかめて唇を歪める。----何も手だてを思いつかない。
 人の気配に振り返る。残る八葉たちが茫然と立ちすくんでいる。もちろん、天真と詩紋の姿はないが。
「----泰明殿、これは」
 頼久はその中でもまだ冷静さを保っているようだった。
「説明している暇はない----他に方法はなさそうだ」
 殉死したいなら----させるしかない。
「力を貸してくれ」
「しかし永泉殿が」
 頼久が詰め寄る。
「私が何とかする」
 言い切ったものの、実は策が浮かんでいるわけではなかった。ただ、自分がそう言えば説得力があるように聞こえるだろうと思ったまでで。
 まだこの段階では、本当は1人でも出来ないことはない。最大の力を出せば。だが、同じ玄武として戦った永泉がいる限り、自分の力を出し切ることに何故かためらいがあったのだ。
 それにためらわなければ、もう片付いている。
 そして恐らくここにいる全員がためらうはずなのだ。
 ----やっかいだな。
 その中途半端な力で何処まで出来るのかは判らない。泰明は静かに手を合わせて、そこにいる5人の力を溜めようとした。----その時。
 雷が、鳴った。
 天から、雲を割って一筋。やがて、まるでそれが誘い出したように幾筋かの光が舞い下り、少し遅れて雷鳴が響いた。
 そして次々と槍のように光は黒龍の魂を突き刺した。怒りに任せて殴り倒すような光の群れ。そこにためらいは微塵もない。----その根元はすぐに判った。
「天真」
 八葉たちは動きを止めて泰明の視線を追う。
 その心は巨大な怒りに支配されていた。肩で大きく息をしている。着ている服は恐らく向こうの世界のものなのだろうが、あちこち破れてボロボロになっていた。泰明が修復しかけた結界を無理に突き抜けて来たためだろう。腕や足に少し血が滲んでいるらしいのが見える。
 走り寄る。「畜生、畜生ッ」とうなされたように繰り返して、さらに雷を呼ぼうとするのを、泰明が封じる。
「何すんだてめぇっ」
「永泉がいる」
 ぐい、と体を雲に向けさせる。天真はそこで初めて気づいて、愕然として、そして全身からふっと力が抜けた。
 気を失っていた。
 もう全身がボロボロなのだ。心に沸き起こっていた怒りだけで立っていたようなものだったのだろう。
 彼が何をしに戻って来たのか泰明には判らなかった。何に怒っていたのかも。
 ただ、その雷は効き過ぎていた。邪悪な気配は弱まって来ている。ただ、それと同時に永泉の精神力も相当消耗しているのが判る。
 余計なことを、と眉をひそめる。
 事態は最悪の域に達していた。
 猶予はなかった。
「力を!」
 泰明が声をかける。八葉は再び力を合わせる。あの時に瘴気を祓った力を。
 泰明の体が媒体となり、力が一気に流れ込む。印を結んだ指先から光が溢れる。黒龍の魂を貫き、内部から突き崩すように光は四方に広がる。
 それまで人形のように動かなかった神子の体が、びくん、と反応し、また止まった。何かを呟いているが、言葉ははっきりしない。
 風に不気味な唸りが混じる。雲はすがりつくように互いに結びつき、だが光に気圧されて飛び散って行く。
 さっきの雷で危機を感じたのか、急に魂の抵抗が強くなる。よりによって相手が利用しているのが永泉だからというせいもあるだろう。彼には自覚がないようだが、今の永泉の霊力は凄まじいのだ。使い方を知らないだけで、力量は泰明たち5人と互角だろう。だが今は、違う使い方の出来る者がその力を操っている。
 泰明の全身は鈍い痛みに包まれ始めていた。壊れてしまう時----人間で言う「死」の瞬間とは、こんなものなのだろうか、と一瞬考えもした。
 歯を食いしばる。まだ解けないその力に、必死で抵抗しようとする。
 目を閉ざして----最後のためらいを断ち切る。
 もうそうするしか勝てない、と感じた。

 ----突然強くなり、広がった光は、霧を粉々に突き崩した。強過ぎる光が、夕刻の空すら真昼のように照らし出して、やがて失せた。
 静かに広がった夕焼を確認する。がくっ、と泰明の体が揺れた。制御できずに地面にしたたかに体をぶつける。
 動けなかった。
 頼久が天真の名を呼んで彼の元へ走っている。白虎の2人は、まだ人形のように空を見上げたままの神子の方に向かっている。イノリは事情がまだ飲み込めないかのように茫然と立ったまま。
 視界に入ったのはそれで全部だ。
 ----永泉は……
 確かめようにも、体が動かない。
 ----殺してしまったかも知れない。
 感情などないと思っていた胸のうちに、わずかに痛みが走る。
 ----そうするしかなかった。
 何故言い訳が必要なのか判らないまま、胸のうちでただ繰り返す。----そうするしかなかった、と。


 体のすぐ横で女人の気配がする。
 頭にまだ鈍痛が残っている。こんなことは珍しい。
「お目覚めですか、泰明殿」
 その声は藤姫のものだ。別の足音もしている。女房たちのようだ。左大臣家の屋敷の一室であることは、泰明にも理解出来た。
 起き上がろうとした泰明を、
「----どうぞそのままで、まだお休み下さい」
 と藤姫は止める。
「お怪我をしています……」
 藤姫の小さな手が泰明の肩に触れるのが判った。
「どうぞこのままで。----もし何か召し上がるんでしたら用意させますが」
「----いや、いい」
 藤姫は小さく挨拶して引き下がる。
 入れ替わりに師匠の気配が入り込んでいた。藤姫の横を過ぎて、横たわる泰明の隣に浮かぶ。上半身を起こそうとした泰明に「いや、そのままで」と話しかける。
「気になっておろう、天の玄武のことが」
 天井を見上げたまま、わずかに頷く。
「目覚めたら伝えてやらねばと思っての。永泉殿の体は、戻って来ておるぞ」
「体、は?」
 その中途半端な言い方に眉をしかめる。師匠は、ふむ、とため息をついてから、
「ひどい怪我をしておる。熱も高く、気を失ったままのようだ。お前の力の凄さには感心するが、ちと度が過ぎたかも知れぬの。まあ怪我については主に地の青龍の方に責任があるが。
 帝もずいぶんと心を取り乱されての。京中の高僧と薬師を仁和寺に集めさせて、効果のあると言われる祈祷も薬も片っ端からやらせているそうだ。で、ご自分はただ悲嘆にくれる日々をお過ごしで、まつりごとはみんな止まってしまっておるとか」
「----……」
「判っておる、そうするしかなかったのだろう。永泉殿も判っておったようだ」
「----……」
「と言うより----永泉殿は本気で死ぬ気だったんだろう。黒龍を道連れにしてな。気づかなんだか?」
「----……」
「だがそれはかなわなかった。黒龍は、永泉殿を解放して途中で逃げおったのだ」
「逃げ……」
 すっ、と血の気が引くのを感じる。氷の塊を突きつけられたように。
「お前は勝ったわけではない。そこまでは話しておらなんだが、龍神と黒龍は、完全にその根源から消滅をと思えば「神子」を犠牲にするしかないのだ。永泉殿は黒龍の中にいてそれが判ったのだろう。だからお前に自分を殺させようとした。しかし黒龍は恐らく、それに気づいた」
 勝ったわけではなかった。あれだけの精神集中を持ってしても。全ての力を取り戻して復活したわけではないあの魂にすら、勝てなかったのだ。
 ぎりっ、と知らず知らずのうちに拳を握りしめていた。
「しばらくは黒龍も現れぬ。英気を養え。力をつけるのだ」
「何故現れないと確信出来るのです?」
「呼べる張本人がおらんからだ。ランも----『龍神の神子』も」
 目を閉じる。気を読もうとする。
 確かに感じない。大きな光が。龍脈が。京をすっぽりと覆っていた龍神の加護が。
 神子はいなくなっていたのだ。泰明が気を失っている間に。恐らく、元の自分の世界に戻ったのだろう。
 だが、何故そうしたのか、今の泰明には判るはずもなかった。
 それまでに守れと言われて来たものが消えた不思議な虚無感があるだけで。
「お師匠」
「なんだ」
「これから私はどうすれば良い?」
「その虚無感の正体を探ってみるというのはどうだ」
 何かを含んだように言っただけで、晴明の気配は消える。
 後はただ、夜の静けさがあるばかりだった。
「…………」
 泰明は天井を見上げる。心などないと思っていた自分に生まれた痛みや虚無感のことを、少しずつ考え始める。
 すぐには答えが出ないとは思いながら、それでも知りたい、と何故か思った。

---------- 第15章 闇と光と end. & "lost moon" closed.

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