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  - 創作物置き場 -

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遥かなる時空の中で(PS) 二次創作

   残された時間

prologue

 ----彼女はこんなに小さかっただろうか?
 泰明は、真っ白なベッドの中に横たわるあかねを見ながらそう思う。
 血の気を失った顔色と、わずかに開いた唇。表情はとても穏やかだ。
 それだけが救いだ。彼女は苦しまなかった。
 薬の副作用で、喋ることも辛いほどの痛みと嘔吐に苦しめられて、最期に彼女が望んだことは、治療の放棄だった。

「こんなにつらい思いを長く続けていたくない……
 たとえ残された時間がわずかでも、あなたと……、泰明さんと話していたいの。
 穏やかに笑い合って、時を過ごしたいの……
 このままこんな苦しみの中で死ぬなんて嫌。……だから。
 だからお願い。先生に----先生に伝えて……
 もう治さなくていいって……
 ただ穏やかに死なせて欲しいって----」

 享年26歳。その死期が、この世界においてもあまりに早すぎることは、泰明にも判っていた。


1.

 正確には泰明は彼女の遺族ですらない。だから弔問客の1人としてそこに向かったのに、それでも、あかねの両親は遺族として彼が葬儀に立ち会うことを望んでくれた。
 16歳の彼女が突然連れて来た「彼氏」が、10年間この世界で生きて行けたのは、この両親の尽力によるところが大きい。
 最初はかなり驚いていたし、実際あまり歓迎はしてもらえなかった。それでも、あかね自身が両親を根気よく説得したその熱意についに折れてくれた。
 それどころか、身元が、文字通り「ない」泰明のために、知り合いの経営するカラオケ屋やパチンコ屋など、働かせてもらえそうな所に頭を下げに行ってくれたのもこの人達だった。
 偽造された履歴書に罪悪感を感じている暇もなかった。そうしなければ生きて行けないことは判っていたからだ。
 あかねが高校を卒業して大学へ行くのを機会に、一緒にそのアパートに暮らし始めた時、あかねは周りの友達に2人は『結婚している』と言っていた(しかも婿養子で)。苗字も『元宮』を名乗った。彼女の両親が保証人となってくれたからこそ就職出来た先もあったので、その方が疑われなかったのだ。
 でも実際に、泰明とあかねが婚姻届を出すことは出来ないのだ。
 それでもいい、と彼女は言ってくれた。
 ----だから、本当は泰明は彼女の遺族ですらない。最初から最期まで、この世界のシステムの中では2人は他人でしかなかった。あえて言えば、内縁関係。そんなあやふやな言葉でしか、2人を定義するものはなかった。
 あかねの両親は、彼が「何」であるかすら、実際には判っていない。
 あかねの母親が「孫の顔を見せてはくれないの?」と笑って言ったことがあった。泰明はただ困るだけで何も言えなかった。その表情に彼女は息を詰まらせ「ごめんなさい」と謝ったきり、「孫」という単語はこの家族の中では禁句になった。
 両親が彼について「判っている」ことがあるとすればそれぐらいだろう。師匠があえてそうしたのか、出来なかったのかは判らないが、泰明の体は子供が作れるようには出来ていなかったのだ。医者に見せたわけではないが(と言うより見せられないが)、少なくとも、あかねとの生活の中では、そう判断するのが妥当だった。彼女の方には何の問題もなかったのだから。
 それに、泰明自身「コドモ」という生き物や「アカンボウ」という生き物を、可愛いとも欲しいとも思ったことはなかった。
 あかねがどう思っていたかは、聞けなかった。聞いたところで、自分は無力であることは判りきっていたからだ。
 でも----『人間』はそうではないことも泰明は判っていた。自分の血を引いた子供が授かることを願い、生まれれば大切にする。
 ----その渇望が最初から存在しないし想像も出来ない自分は、やはりひとではないのだ
 心の何処かで、その痛みはずっと引きずられていた。
 泰明の心が、いとしい、という感情を向けることが出来る他者は、神子しかいなかった。自分の「血」に対する執着のようなものも、彼には存在しなかった。

 だから----時々思うのだ。
 自分のこの想いは、----あかねを「いとしい」と思うこの気持ちは、師匠が自分にかけた『呪』でしかないのかも知れない、と。
 それは、もしかしたら、ひとの言う「愛」ではなかったのかも知れない----と。


 弔問客が引いた後、あかねの両親はひどくやつれていた。がっくりと肩を落として座り込んだまま。
 その後ろで泰明はただ後片付けに集中していた。そばで、ずいぶん久し振りに会った天真と詩紋も手を動かしている。この世界の葬儀のしきたりなど判らない泰明が何とかここにこうしていられるのは、彼らの助言のお蔭でもあった。
 記帳された名簿。香典と香典返し。客の忘れ物。友人達が「一緒に燃やしてあげて欲しい」と持って来た様々な思い出の品。
 葬儀屋の請求書と表向きだけ申し上げてるお悔やみの言葉。出棺のスケジュール確認。火葬場の場所の確認。事務的に続けられる手続きの一切は、今の両親に聞かせるよりはと全て泰明が引き受けた。
 今夜、彼らは眠れないかも知れない。以前より小さく感じるあかねの両親の背中を見ながら、どうしようか、と考える。
 こんなに遅くまでいるつもりは、実は、なかったのだ。最初の予定では、弔問客の1人として来て、帰るつもりでいたからだ。
 あかねと暮らして来たアパートに戻るにはもう夜遅い。かと言って、これから何処か宿を手配することが出来るかどうかは不安だ。
 それで、隣にいた男に声をかけた。
「----天真」
「ん?」
 彼はもうすぐ一児の父親らしい。何処かの建築会社で、とある遊園地の大型の遊具の開発をするプロジェクトに入ったと話していた。身重の、そしてあかねとは知り合いでも何でもない彼の妻は今回来ていないとも。
 天真は年相応にあの頃よりは大人の風貌を身につけている。でも泰明は、----年を取っていない。少なくとも外見は。
「家に、泊めてもらうわけにか行かないだろうか?」
 この家は、あかねにとって「実家」ではあっても、泰明が居ていい場所とは思えずにいた。彼がいることで、両親に更に辛い思いをさせてしまうのではないかという危惧もあった。
「----俺の部屋でもいいか? 狭いけど」
「構わない」
「じゃあ、ちょっと電話して来る」
 喪服のポケットから携帯を出してかけ始める。ちょっと離れて「客が1人増えて……」などと話しているのを聞きながら、はぁ、とため息をついたのは横にいた詩紋だった。
 彼は、自らが話すところによれば、「よたよた歩き始めた」ケーキ屋を最近オープンしたばかりだという。小さな青年実業家だ。
「----泰明さんは落ち着いてますね、相変わらず」
 取り乱してどうなるものでもない。取り乱して彼女が帰って来るというなら、いくらでも泣き叫んでいたかも知れないけれど。
「私は少し泣き出しそうですよ。色々思うところもあることですし」
「----『京』のことで?」
「はい」
 そしてまた長めのため息をついて。
「彼らに----伝えてあげることは出来ないんでしょうか」
「伝えてどうなるものでもないと思うが」
「----確かに、そうですけど……」
 もし本当に必要なら『龍神の神子』はまた現れる。
 元宮あかね、としての存在は、たとえ消えてしまったとしても。
 ----それが「あの世界」の現実だ。10年やそこらでは、多分何も変わっていないはずの。
 携帯電話の小さな電子音を引き連れて、天真が戻って来る。泰明はあかねの両親に軽く挨拶をすると、気の抜けたような頷きだけが返って来る。そのまま泰明は、天真について、彼の実家へと歩いて向かった。


2.

 それからの日々は、----時の流れが止まっていた。
 ただ働いて部屋に戻る。休日は普段出来ない掃除や買い物で暮れて行く。その繰り返し。
 彼女が16歳の少女から大人の女性へと成長して行く間も、泰明自身は「成長」することはなかった。彼女が変わって行くことが唯一の変化だった。それがなくなった今、泰明にとって時間はないも同然だった。
 自分がどれぐらい生きていられるのか、考えたことはなかった。でも何処かで、神子より長くは生きないと何の根拠もなく思い込んでいた。
 でも、実際は。
 自分に寿命があるのかどうかすら、彼には判らない。
 睡眠や食欲ですら、心の底から、生きるために必要だから求めたことなど1度もなかった----何処か「人間を擬態」しているような感触が抜けなかった。寝なくても食べなくても、彼はあまり苦にはならなかったからだ。
 だから、自分のこの生き方が、果たして「いのち」と呼べるのかどうかすら、今の泰明には、判らなかった。


 1ケ月して、あかねの両親から、あかねのために墓地を購入した、という連絡が携帯電話の留守番電話に入っていた。
 まさか自分達より娘が先に亡くなるとは思っていなくて、それまで何処に落ち着けるべきか考えられずにいたらしい。
 メールで地図を送っておいた、というメッセージ通り、着信していたメールには地図サイトのリンクが添えてあった。
 ぼんやりと眺める。彼女の実家のすぐ近所の寺。何度か通りかかったこともある。念のためそれを折り畳んで手帳に挟む。次の休みの予定は、その時に決まっていた。

 その日、泰明は携帯で天真と詩紋を呼び出していた。この世界の「墓参り」の仕方を知らないから、と。天真には「あんたに呼ばれなくても行くつもりだった」と言われ、詩紋には「泰明さんはどうしてそんなに冷静なんでしょうね」と訝しがられた。いずれにせよ、2人は快くその案内役(変な話だが)を引き受けてくれて、泰明が電車を乗り継いで寺に着いた時には2人とも既に到着していた。
 墓地は山の斜面を切り開いて作られていた。少し勾配のきつい坂を登って、真新しい墓地に辿り着く。
 近所に住んでいる2人は納骨した時にも少しの時間立ち会ったと話していた。
 花や供物は鴉か何かに荒らされてしまっている。「とりあえずそれを掃除することからしましょうか」と詩紋が声をかける。「残された人に出来ることなんてそんなにないですから。---『京』でもそれは同じような気はしますけどね」
 普通は桶に水を汲んで来てかけたりするんですけど、まぁ新しいので、と、一応は説明しながら、無残に突つかれた供物と花は詩紋の持参したコンビニ袋に片づけられて行く。
 その代わりに天真が調達して来た菊が新たに供えられる。
 線香に火を点けて、さっと振って。
 一連の『手順』をただビデオでも見るように眺めていた泰明の手に、詩紋は何本かの線香を握らせる。「その手であげないとダメです、来た意味がないから」
「……そういうものか」
「そうです」
 やけに真剣な顔できっぱり言ってのける詩紋の後ろで、天真が何だか苦笑いしている所を見ると、そういうものでもないのかも知れないとは思いつつ、一応従う。
 手を合わせるのは京と同じ。目を閉じて祈るのも。
 意識を少し集中すれば、閉じ込められた死者の想いをほのかに感じることはまだ出来た。陰陽師であったことの名残はかなり薄れてしまっていて、その想いが誰のものなのかまでははっきりとしない。
 すぐに意識を切断する。少し頭痛がする。今の泰明にはこれ以上は無理だった。
「----泰明さん」
「ん」
 手を合わせたまま目だけ向けた詩紋は、
「----泰明さんって、『今の』あかねさんとは、話せないですよね、もう」
「あの頃だって怨霊になってしまった者としか話は出来ない」
「----そうですよね」
 綺麗に成仏してしまっていれば、ここに想いが残ることはない。
 だから、彼女の声が聞こえないのはいいことなのだ。
 この世に未練を残すこともなく。悔いもなく。生きた人間からみれば26年という時はあまりに短いと思えるのに、それでも、彼女は満ち足りていたのだ。


 それから----時が止まっていたと思える泰明の日常に、1週間という「時間」が戻って来た。
 ただ仕事をし、家に帰り、体を休める5日。買い物や掃除や洗濯や、生活するために消費される1日。そして、花と線香を手に、墓地を訪ねる1日。
 そのサイクルは、以前よりは多少時の動きを感じさせてくれた。

 毎週のようにそこを訪ねて、何をするでもなく立ちすくむ若い男の存在は、寺の住職をとても不思議がらせていた。後にそれが(誰に聞いたのか)一緒に10年を過ごした恋人の墓だと知ると、住職はひどく同情したようだった。
 もちろんその行動は、未練、だと思われても仕方ない。
 でも泰明の心にある感情には、そんなせつなさよりも無為の方が大きかった。
 どうすればいいのか判らないのだ。自分がどう生きるべきか判らないのだ。彼女のそばにいて、彼女と時を過ごしていた頃には、そんな疑問を感じることはなかったのに。彼女がいなくなってからは、まるでその存在自体が泰明の存在意義であるかのように、生きる意志さえ止められてしまったかのように感じていたのだ。
 だからただ、彼女のそばにいた。
 今の泰明に判るのは、ただ、それだけのことだった。

 無為な時は流れた。
 半年が過ぎた冬、既にすっかり顔馴染みになってしまった住職は、ただ立って吹雪に晒されていた泰明を見かねて、寺のすぐ近くにある自宅へ来るように言った。
 ひどく寒い気温の割に顔色のあまり変わらない泰明を不思議そうに眺めながらも、住職は自ら温かな茶を入れてくれた。
 でも泰明はそれに手をつけることはない。必要がなかったから。住職は、そんな泰明には構わず、「もう少ししたらこの雪も収まる。好きなだけ休んで行きなさい」そう言ったっきり、寺へと戻って行った。
 温かな言葉と温かな部屋。あれから、他人と関わることは極端に少なくなっていた泰明の中には、それを解釈する回路はもうなくなっていたのかも知れない。----あの時以来。
 痛みをなくすための薬。病魔に蝕まれて痩せて行く体。穏やかな笑顔。「どのくらいこうしていられるのかな」と呟くように言って閉じた瞳。
 泣くことすら出来なかった自分。
 死を理解出来ないのか、理解したくないのか、あるいは、死というものに対して鈍感であるように師匠が造ったのか。
 泰明はただ目を閉じる。小さな時計の針の音だけが聞こえる部屋に、何かを聞こうとして挫折する。
 もう自分は陰陽師ですらない。
 自分の存在する意味----だったはずのもの。
 それすら、もう全く聞こえては来ない。

 夕方、頼りなくちらつくだけになった雪の中を、泰明はただ歩く。繰り返される日常に向かって。その向こうの、ここへ来るための1日のことを想いながら、ただ生きる。
 残された日々は、----まだあまりに長かった。


3.

 穏やかな春が来た。
 その日、帰宅する途中で、素っ気無い着信音とともに、泰明の携帯電話にメールが着信した。詩紋からだった。
 彼が10年以上前に卒業した高校(あかねの母校でもあり、天真の母校でもある)を会場として、同窓会が開かれるのだそうだ。
 その会場を抜け出して「あの井戸」を久し振りに見に行こうか、と天真と話しているらしい。高校の同窓会に参加は無理でも、その『同窓会』には泰明にも参加する資格があるから、というのが詩紋の言い分だった。
 普段の学校にOBがウロウロしていては怪しまれるようなご時勢だ。ましてや無関係の泰明が「侵入」するには、絶好の機会と言えた。
 この世界に来た時に1度見ただけの「通路」だ。滅多にないチャンスであることも判る。自宅へ辿り着く前に「ぜひ行きたい」の6文字だけを返信すると、しばらくして今度は電話の着信音が響く。
 詩紋は楽しそうに待ち合わせの場所と時間を泰明に告げる。携帯電話の録音機能を使ってそれをメモする。じゃあその時に、と言って電話は切れる。
 澱んでいた1週間のサイクルに、久し振りに風穴が開いた日だった。

 彼女の墓参を早々に済ませて学校へ。いつもは同じ制服姿ばかり溢れている学校に、色とりどりの服が散らばっている。門のところで落ち合った3人は、そのまま井戸へと向かった。
 『京』のことを回想して話が尽きていない2人を横目に、この世界へ来て以来訪れることのなかった井戸にそっと手をかけた。
 木の蓋と大きな石は、相変わらず人1人の力ではとうてい動かせる重さではない。かと言って、今の泰明には人以上の力などもう出せない。
 もう何も起こるはずがない、と判っていても、泰明の心にひとつの奇妙な考えが浮かんだ。
 この井戸を通ることは、即ち時空を飛び越えることだ。
 もしかしたら、もう一度ここを開くことが出来たら、……
 ----彼女が生きていた頃に、戻る手段があるのではないか?
 あの頃に。
 あの幸せな10年の中に。
 もしかしたら----。
「……泰明さん、どうかしました? なんか厳しい顔しちゃって……」
 心配そうに見上げたのは詩紋で、
「また何か起こるんじゃないかって心配してる?」
 茶化すように少しシニカルに笑ったのは天真。
「……中はどうなっているんだろう、と思っていただけだ」
 ただそう呟いて石に手をかける。
「やっ、止めた方が……今何か起きたら困りますよ、私は店がありますし」
「ホントに何かあると思ってるのか? 詩紋は……」ははっ、と楽しそうに笑った天真は、「まぁ、気になるなら開けてみようか? 3人で協力すれば何とかなるだろ」
「ええっ、先輩、それは」言ったものの、少し黙り込んで、「……確かに、気にはなるんですけどね……」少しバツが悪そうに笑って、石にそっと手をかける。
 3人は、少しずつ力を込めて石をずらしにかかった。
 最初に動き出すまでは大変だったが、一度動き出してからは、ごろり、と音を立てて石が自ら転がるように井戸から離れた。
 続いて、木の蓋を動かす。こちらは難なく滑るようにずれて、やがて3人の前に黒い井戸の口がぽっかりと開いた。
 でも、それだけだった。
 覗き込んでも、とっくに干上がっているのか、水面さえも見えない闇。試しに小石を投げ入れてみても、遠くてかすかにコトンと音がしただけだ。
「見事に、何もないですね」さっきまで怖がっていたはずの詩紋が少し残念そうに声を出す。
「……お前なぁ……」堪えられないように、くくくっ、と肩を震わせて天真は笑っていた。
 2人がやがて笑い出すのを、泰明はただ見ていた。心の何処かで、最後の望みを断ち切られたような痛さがわずかに疼いていた。


 春が終わる頃。
 泰明は「夢」を見た。

 15歳ぐらいに成長した藤姫は、もう自分の背負った責任と幼さに挟まれることもなく、既に「星の一族」としての責務を立派にこなしていた。
 とは言うものの、世は龍神の出番さえない、比較的平穏な時代だった。だから、彼女に出来ることのうち最優先とされるのは、「星の一族」の血を自分で終わらせないための後継者探しだった。
 少しでも血筋のある殿方を探して、彼女は文献と家系図をひっくり返していた。そして、1人の若者に行きあたる。
 泰明には後ろ姿しか見えない。
 小柄で、どちらかと言えばなよやかにも見えるその青年は、左大臣家を守る源氏の一族で、弓の使い手らしい。
 頼久が近づいている。声をかけるその姿は、まるで貴族にでも話しかけるかのようにうやうやしげだ。彼は、皇族が臣籍に下りた立場なのかも知れない、と泰明は思う。
 星の一族。その血を持つ女性の中に、残念ながら「ちから」が顕れることがなかった人がいるのは聞いていた。その人は、その血筋の良さ故に、帝の元へ入内した、と聞いたような気がする。
 彼はその子供か----孫、だろうか。

 その日の夢はそこで終わっていた。

 夏の狭間の嵐の日。
 泰明はまた「夢」を見た。

 藤姫の腕には2人の赤子が抱かれている。
 (リョウ)姫と(サイ)姫。そう呼ぶ女房達の声がある。
 女房達は口々に、可愛らしいお子様、と褒めそやす
 だが、当の母親が我が子を見るその瞳は冷たかった。
 まるで部下たちを捨て駒にして勝ちに行こうとする武将のような。
 その唇から、朗々とした言葉が聞こえる。
「この子たちは----私を超えます。来るべき時には、私はこの子たちに全てを教えて身を引きます。皆様、2人を支えて下さい。神子を支えて下さい。それが、一族が成すべき唯一のことです」
 引き締まった女房達の顔を見回し、満足そうに微笑する。
 あの頃の幼い姫の面影は、もう何処にも残っていない。

 秋の匂いも消え始めた時。
 泰明は再び「夢」を見た。

 光。
 小さな光。
 威圧的で、鋭利な光。
 そして声。
 充分に威厳を帯びた藤姫の声。
 「-------八葉は選ばれた!」

 ベッドから跳ね上がるほど夢に驚いたのは初めてのことだった。
 頭がひどく痛い。まるで太い釘を打ち込まれているかのような痛みだった。視界まで曇ったように感じながら時計を見る。いつも起きる時間より10分ぐらい早いだけだった。
 いつものように顔を洗おうとバスルームに向かう。しかし、その鏡の中に見た自分の姿に絶句したまま、泰明はしばらく動けなかった。
 消えたはずの、----顔の半分を覆う『呪』。そして、泣きボクロみたい、とあかねがいつも言っていた目の下の宝玉。
 11年----
 その年月を飛び越えて、彼はまた『選ばれて』しまったのだ。

 それがある限り、この世界にはいられない。
 ----彼には、他に選択肢は存在しなかった。

 早朝の学校を急いで抜ける。目深にかぶった帽子で何とか人目をはばかりながら、井戸へと辿り着く。
 そこにしかヒントはなく、そしてその勘は当たっていた。
 白い光が立ち上る。声が聞こえる。あの激しい頭痛は、自分の精神が11年の時を溯るための軋みだったのだとその時はっきり理解する。
 光に飲まれて行く。吸い込まれて行く。『京』の町を眼下に見渡しながら、自身の身の内に陰陽の力が満ちて行くのを意識する。
 全てはあの時と同じように----

 泰明の中で、再び「時間」が動き出した。


4.

「お帰りなさいませ、泰明殿」
 21歳の藤姫は、既に「姫」と呼ぶにはためらわれる毅然とした姿でそう出迎えた。
 集まった他の7人の不安そうな瞳が一斉に泰明を見ている。
 選ばれた八葉は根こそぎ入れ替わっていた。あの時のメンバーはもう残っていないらしい。それでも、気配を読むことの出来る泰明には、誰が誰の『後継者』であるかははっきりと見えていた。
 真っ先に理解したのは、天の朱雀。イノリにいつもくっついて回っていたあの子供が、きゅっ、と髪を結い上げた凛々しい若者に成長していた。
 天の玄武。その青年は同業者だ。だが、まるで気の色が違う。永泉ほど弱気ではないようだ。不思議に満ち溢れる優しさのような水の色は永泉と同じ。だが残念ながら泰明のことを良いパートナーとは思っていないらしい。師匠の弟子たちにあることないこと吹き込まれて来たのかも知れない。
 地の青龍----。見たような後ろ姿。短く髪を切ってはいるが、その体の線は「女性」だ。眉をひそめて、そしてどう解釈していいのか戸惑う。
 血筋、なのだろうか。
 あの時より成長している。あの時の気配は消えている。それでも、彼女は、あの黒龍の神子だった少女----。
「泰明殿、蘭殿」
 藤姫が2人に呼びかけた。
「お二人は、残って下さい。お話ししたいことがあります」
 緊迫感が破れて、皆それぞれに立って部屋を出て行く。

 残された泰明と蘭に、藤姫が話し出す。
「……泰明殿はとても戸惑っておられますね」
 さっきよりは少し破顔して泰明を見る。
「女性が選ばれる例は、極めて稀とはいえ、前例はあります」
「そうなのか」
「はい」
「----でも私は」
 横から、いかにも自信なさそうな蘭の声がした。
「その不安は、恐らくお兄様がここにいらした時と同じだと思われますよ。でも、お兄様は最後まで立派に務められました。私も出来る限りお支え致しますから、どうか自信をお持ちになって下さい」
 蘭の宝玉は、兄のそれとは反対の二の腕にあった。居心地の悪そうに肩を落としている。
「残っていただいたのは----」
 藤姫が続ける。
「蘭殿は、『素質』はおありになるのですが、実際に術を使うことにとても不安があるようにお見受けしたので、神子がいらっしゃるまでの間、泰明殿についていただいたらどうかと思ったのです」
 その話は蘭も判っていたらしく、微かに頷いて、縋るように泰明を見上げている。
「他の八葉は残念ながらまだ未熟です。ちょうど『世代交代』の時期なのでしょうね。残念ながら、今の段階では、自身の力を使いこなす以上のことを期待出来るのは泰明殿しかいらっしゃらなくて」
 2人の瞳に縋られては断りにくかった。
「わかった。出来るだけのことはしよう」
「ありがとうございます」
 嬉しそうに笑う表情にだけは、10歳の彼女の面影を見ることが出来た。
「----神子はまだ『選ばれて』はいないのか」
「はい。また別世界からお越しになるらしいということだけは占いで出ましたが」
 別世界からの神子。
 11年前のそれと同じように。
 もし彼女が、全てのことを終えて自分の世界に戻ろうとする時、彼女は何処へ帰るのだろう。その世界は、『元宮あかね』のいた世界と、『元宮あかね』のいた時代と、同じなのだろうか。
 少しの後ろめたさとともに、泰明は願っていたのだ。新しい神子が、あかねとの再会へと自分を導いてくれるかも知れないことを----。
 藤姫は女房の1人を呼ぶと、蘭を部屋に案内するようにと言って、彼女を促した。蘭は、深々と泰明に頭を下げると、立ってその場を後にする。
「----それから、泰明殿」
 2人切りになった途端、それまでよりも藤姫の表情は厳しくなる。
「今回は----恐らく、短期決戦です。四神の札は既にこちらの手にあり、向こうにも焦りがあります。どんな手で来られるのかはまだ見えませんが----、内裏を狙い撃ちされるかも知れない、という兆候は見えます。神子殿には苦しい戦いを強いてしまうやも知れません。しっかり彼女をお守り下さい。大局を見ることが出来るのは、私と泰明殿だけと思いますので」
「----承知した」
「ですから……」
 少しだけ、また穏やかに。
瑞矢(ミズヤ)さま----天の玄武の方のことはどうかお気になさらず。以前ほど、同じ四神の2人が行動をともにしなければならない時間が、あるとは思えませんから」


 翌日から、泰明は蘭の指導のために左大臣家に通う日々が続いた。彼女は、藤姫の言う通り本当にいい素質を持っていた。黒龍を呼び出すほどの「ちから」のある人間なのだからそれは当然かも知れない。その方向を、正しい方に導きさえすれば、泰明でさえ時折たじろぐほどの力を容易に出せるようになっていた。

 1週間後。藤姫によって再び八葉が集められた。
 藤姫の隣で、怯えたように震えている少女は、前代の『元宮あかね』と同世代に見えた。
 彼女よりも髪はさらに短いが、表情豊かで、同じ年齢で『京』にいる女性に比べればまだ幼さの残る様子なのもあかねとよく似ていた。
 少し、弱々しい感じがする。あかねがやって来た時は、事情が判っていないままに、それでも前向きに進もうとする意欲のようなものがあった。だが今の彼女にはそれが感じられない。
 逃げたがっている----ようにも見えた。
薙田(ナギタ) 早苗殿と申されます。龍神により選ばれし神子様です」
 藤姫にそう紹介されて、少女は観念したように頭を下げる。
「神子様にはこのお部屋をお使いいただきます。しばらくは、私の占いに従って動いていただくことになります。八葉の皆様は、神子殿からの要請があればすぐにそのお役目を果たせるよう、万全の体勢を整えておいて下さい」
 言葉を発することもなく俯いたままの神子。その不安は、八葉にはすぐに伝染する。
 状況はあまり芳しくないように見えた。
 泰明は、八葉が去った後で、藤姫に神子への目通りを願い出る。藤姫も理解していたのか、ただ頷くだけですぐに彼女に会わせてくれた。
「----神子」
 座り込んだまま、まだ床だけを見ていた少女が、こわごわと顔を上げる。
「恐れることはない。神子は----龍神の神子は、『存在する』だけでこの世界を守る力を持っている」
 出来るだけ優しく話しかけようと努力する。その心は感じてくれたのか、彼女の表情は少し柔らかになった。
「八葉は神子の剣であり、盾にもなる。私達は、神子の道具だ。神子を守るためなら命も投げ出す。だから----、神子は怯える必要はない。ただ守られていれば良い」
「道具だなんて----」
 少女は、小さく首を振る。そして、あかねと同じ言葉がその唇から流れ出る。
「ひとは、誰かの道具になんてなりません……そんな風に言わないで下さい」
 私はひとではない。----その言葉はまだ言えない。
「----あの」
「何だ」
「お名前、伺ってもいいですか」
「私は、安倍泰明。----陰陽師だ」
「----泰明、さん……」
「何だ」
「----いえ、あの……」
 何故か、ふっ、と神子は笑った。
 不器用な泰明の心の底に、突然舞い下りるような----あたたかな笑顔。
「ありがとうございます、心配かけて、すいません」
「----いや」
「私、怖くて仕方なかった。突然ここに連れて来られて。でも……。もう大丈夫です。私しか出来ないことなら、私は手を尽くします。だから----
 約束して下さい、守って下さるって」
 その時に感じた想いは----

 ----師匠がかけた、『呪』、なのだろうか……?


 病、嵐、雷、そして火事----。それからの2週間、内裏を襲った出来事はまさに地獄だった。帝は何度か生死の境をさまよい、そのたびに泰明は彼にまとわりつく瘴気を祓うために召し寄せられた。
 八葉(実際は泰明を除く七人であることの方が多かった)は、夜も昼もなく現れる怨霊たちとの戦いに明け暮れていた。まだ全員の力の及ばない序盤は蘭が、後半は陰陽師としての術と統率力で瑞矢が、全員の力をまとめた。そして、あんなに怯えていた神子----早苗も、自身の役割をわきまえてその戦いに飛び込んだ。
 むしろ、2週間で全てが終わったことは奇跡に近かったのかも知れない。
 現れたアクラムを完全に葬り去ることはやはり出来なかったが、それでも、目まぐるしいスピードでその対峙は通り過ぎて行った。

 全てが終わった時、『この世界に残って欲しい』と瑞矢に請われた彼女は、それを断った。だが『神子の住む世界を見てみたい』と申し出た泰明に対しては、あの笑顔で頷いた。そして、一緒に帰ることを許してくれた。

 そして、彼はまた「戻って」来た。
 だがその世界は----時を超えてはいなかった。
 戻って来たその日の暦は、ここから『京』へ旅立ったその日にまでしか戻らなかった。

 繰り返される日常の中に、再び彼は取り残された。


5.

 そして再び季節は春になった。
 既に習慣となっていた墓参の帰り道、携帯電話の呼出音が鳴る。ディスプレイに並ぶ数字の羅列は、それが「知らない番号」だと知らせていた。不審に思いながら出ないでいると、すぐに別の番号からかかって来る。それは、天真の携帯電話だった。
 電話を受ける。が、出て来た声は女声だった。
「----泰明さん、お久し振りです。蘭です」
 弾むように明るい声がそう言った。それから立て続けに、
「あの、これ、1回切ります。すぐかけ直すので出てくれませんか? 私の携帯ですから」
「わかった」
 予告通り、切ってすぐにまた鳴り出す。さっきの、「知らない番号」が並んでいた。
「もしもし?」
「----良かった〜! もう、ちゃんと出て下さいねー、これからは」
「何か用なのか?」
「あははは……相変わらず、ですね」乾いた声のバックでもうひとつの笑い声。天真だろうな、と想像する。
「ちょっと会って欲しい人がいるんですよ。今、こっちに来てるんですよね?」
「来ている」
「学校の門のところまで、来られません? 30分でいいんですけど、時間、もらえませんか?」
「別に構わないが」
「良かった。何分ぐらいで来られます?」
「15分----ぐらいだと思う」
「わかりました、じゃ、15分後に!」
 慌ただしく電話が切れる。
 約束通り学校の門へ向かう。既にそこにいた蘭が泰明に手を振る。隣にもう1人の少女----薙田 早苗が立っていた。泰明の姿を見つけると、ぱあっと花が咲いたように笑顔になる。
「覚えて----ます?」
 蘭は軽く早苗の背中を押しやる。つんのめるように前へ出る無邪気な笑顔。
「もちろんだ。会って欲しいというのは----」
「こいつですよー」
 目を細めて、彼女の肩にぽんと手を置く様は、まるで妹でも出来たかのようだ。
「もう会っているが」
「…………泰明さん…………」
 呆れたようにため息をついてから、
「まぁ、いいわ。後は若いモン同士で好きにやってよ」
「----えっ?? ら、蘭さん!?」
 慌てたように振り返る早苗。
「いいからいいから。おねぇさんも暇なわけじゃないのよ? ね?」
 にこにこと笑って、有無を言わせずまたぐいっと2人を近づける。
「そいじゃ」
「----蘭さーん」
 去って行く後ろ姿に早苗は不安そうな声を上げる。だがしばらくして、諦めたような息をついて、
「あの……」
「何だ」
「お久し振りです」
「そうだな」
「お……、お元気でしたか?」
「問題ない」
「……それは、良かったです」
 笑顔。わずかに紅潮しているように見える。
 そんな表情を自分に向けた人はもちろん彼女以来だ。
 だが----彼女の時は心地よいとさえ感じたその視線は、早苗から向けられた時には奇妙な不安を引き起こす。
 何故そんな風に思うのだろう、と泰明は自問自答する。これ以上は踏み込んではいけないような気がしている。自分の中にわずかに生まれかけた想いの核に、あえて触れてはいけないと、必死で自分で自分を遠ざけて足掻いているような。
「良かったら、お話----しません? おいしいケーキ屋さん、紹介してもらったんです、蘭さんから」

 彼女に連れられてやって来たのは詩紋の経営するケーキショップだった。いくつかのテーブルも並んでいて、そこで食べることも出来るようになっているらしい。
 泰明は「甘いものは苦手」と言って紅茶だけを頼む。早苗の方は、キラキラと楽しそうに瞳を輝かせて、さんざん迷ったあげくに苺ショートに落ち着いた。
 「話」は他愛無い日常だった。あれからどんな風に過ごして来たのか、こちらではどんな仕事をしているのか、といったことを早苗が聞きたがり、当たり障りのない範囲で泰明がそれに答える。
 早苗は、毎週電車を乗り継いでこの町に彼が来る理由は知っていた。あかねがいなくなってもうそろそろ2年たつ。その習慣を、彼女は羨ましいという言葉で表現した。
「素敵、ですよね。亡くなった後でもそんな風にずっと覚えていてもらえるなんて」
 普通はそう思われても仕方ない。だがその行動の源がひとの言う「愛」なのかどうかはもう泰明自身にも判らなくなっていた。
「彼女は、私の前代の神子様だったんですよね」
「そうだ」
「私も、ご挨拶したいな。ダメですか?」
「別に構わないが」
 実際は、彼女の魂はもうそこにはいない。だがこの世界の人間にそれを説明しても仕方ないのは判っていた。

 ケーキ屋を出て再び墓地へ戻る。彼女は、真摯な顔で手を合わせて、しばらくじっと祈っていた。
 何を『話して』いたのかはあえて知ろうとしなかった。今なら出来ると確信はしていても。
 そのまま、墓地から駅へ向かう。彼女もこの町に住んでいるわけではなく、帰って来てから蘭と連絡を取り合って遊びに来たりしているのだと話していた。同じ方向の電車に乗って、途中までまたしばらく些細な世間話が続く。
 電車の中で、電話番号を教えてもらってもいいか、と聞かれて、断る理由もなく携帯を取り出して見せた。
 彼女はとても嬉しそうにその番号を自分の携帯に打ち込んでいる。いつなら電話してもいいか、と聞かれて、仕事の終わる頃の時間帯を伝える。
 そう聞くからには、かけて来るのだろうな、とぼんやり考えながら、その日は別れた。


 早苗から電話が来るようになり、時々は会うようにもなった。あかねよりもさらに活動的で行動範囲の広い彼女は、遊園地、ショッピングモール、イタリア料理店、アイスクリームショップ等々、節操なく「一緒に行かない?」と言うようになった。
 泰明には他に用事があるわけではない。週末にあの場所に行くということは早苗も承知している。それ以外の日に声をかけられれば、泰明は特には断らなかった。
 彼女が自分に好意を持ってくれていることは気づいていたが、あえてそれ以上深入りするのを泰明は避けていた。そして早苗も、前代の神子----あかねのことが頭にあるせいか、一緒に出かける友達以上のことを泰明に求めることはなかった。
 蘭はすっかり早苗の姉気取りで、時々「あかねさんのことで辛いのは判るけど……早苗ちゃんの気持ちも判ってあげたら?」と釘を刺すために電話して来る。
 だがそれは、早苗に辛く当たりたくてやっていることではない。泰明の中に起こる奇妙な不安の正体は、早苗と会う回数が増えるたびに徐々に明らかになっていた。

 彼はただ、怖いだけなのだ。
 あの時にあかねに感じていた想いをまた抱え込むことになったら、それを失った時に自分の存在する意味がまたなくなるような気がして。
 自分ひとりで淡々と生きていた日常があかねによって壊された後の10年----。たとえその時はとても幸せであたたかくても、その後で、自分の人ならざる命の方が取り残されてしまうのであれば、いずれその温度は消えてしまうのだ。
 失うかも知れない温度なら、初めからそれを知らなければいいと----

 そう。失うのが怖いから----手にすることが出来ないのだ。


 また夏が来る。あかねがいなくなってから2年目の夏。
 そして----。
 3度目の宝玉が、彼の元へとやって来た。


6.

 今度狙われたのは藤姫だった。
 他の京の人々や内裏には何も起こらず、だからそれが単に藤姫の体調が思わしくないだけと周りには思われていた。
 しかし、5歳になる彼女の娘----綾姫が、「かあさまの周りにこわいものがいる」と泣き出したことで、藤姫は病を圧して占いに入った。そして、自分が穢されていることに自身で気づいたのだ。
 彼女は、自分ひとりが犠牲になれば良いのなら、このまま穢れを道連れに死ぬことを考えていたらしい。しかし、周りも、そして綾姫・彩姫の2人の娘も、泣いてそれを止めたのだと言う。
 それで、今回、神子を支える星の一族の代表として、まだわずか5歳の綾姫・彩姫の2人が立つことになった。とは言っても、占いは藤姫がまだ主に行うことになっていたが、思うように動けない藤姫と神子をつなぐ役目を任されることになった。
 もちろん、さすがにまだあまりに幼い。藤姫は、長く仕えて来た2人の女房をその補佐役として任命し、そして、八葉が選ばれた。

 集まった八葉の顔触れは、地の青龍が蘭ではなくなっただけで、前回とほぼ変わらなかった。
 天の玄武----瑞矢の心には今や奇妙な敵対心さえ見える。前回、ほとんど八葉として仕事をしていないのに、泰明が再び選ばれたことを快く思っていないらしい。
 泰明本人も、何故自分なのかはよく判らない。師匠は2人の息子がいて、それぞれそろそろ独り立ち出来る年にはなっているだろう。もし陰陽師の力が必要なら、彼らであっても全く問題はないように思えた。

 そして、藤姫の占いにより、この世界に舞い下りた神子は----
 『鬼』、であった。
 彼女が現れた時の八葉達の動揺はかなりのものだった。アクラムの下にいた女性の鬼----シリンの面影を彷彿させる。明るいブラウンの長い髪、ブルーグレイの瞳。すらりと背の高い体型の良さは水干に包まれていても判り過ぎるほどよく判る。
 レベッカ・杉浦・スタンフィールド。
 つたない綾姫の唇から出て来た長い名前がすんなり理解出来たのは、恐らく泰明だけだった。
 彼女は、不安や怯えではなく、まるで何事にも興味を示さないかのように無気力な目をしていた。今までの神子たちとは真っ向から違うタイプだった。瑞矢などは、何故彼女なのか、と病に伏す藤姫に聞きに行こうとして女房たちに止められていた。
 確かにそれまでとは違う。それでも、多分意味はあるのだ。無作為に選ばれるわけではないのだから。
 今やその対立は別の段階に進もうとしているのかも知れない。こちらも、戦略の変更が必要となっている時期なのかも知れない。他の八葉と違って、泰明だけはそんな冷静さで彼女を見ていた。そしてまた彼女も、周りが自分を見る目と明らかに違う泰明の態度に、いささか興味を持った風ではあった。


 この戦いは、初めはとても静かだった。
 時折、左大臣家の周りに怨霊が姿を現すことがあり、その時は神子と八葉は活躍した。しかし、大部分は藤姫が穢れによる病と闘い続け、瑞矢と泰明が結界や術で藤姫だけをひたすら守り続ける、そういう日々だった。
 またしても神子と泰明が直接共に戦うことはほとんどなかった。その間に、他の八葉から聞こえて来た噂によると、この神子----レベッカはどうやら戦いの女神のようだった。
 今回の八葉の中では一番攻撃力の高い天の朱雀----あの自称・イノリの子分の由斗(ユウト)ですら、彼女の強さに舌を巻いていたと聞いた。おかげで戦いについてはほとんどが短期に決着がつくのはありがたいが、八葉の中には彼女を恐れる者も出て来ているらしい----まるで鬼そのもののようだ、と。
 それは八葉としては望ましい状況とは呼べなかったが、彼らが無駄に戦いで体力を消費しなくて済むという点では大局的にはいい方向と言えた。
 ただそれに気づいているのは恐らく泰明ぐらいのもので、今回ようやく「同じ四神」として仕事を共にすることになった瑞矢はずっとわだかまりを残していたようだった。


 長く動かない時が続いた。
 藤姫の容体は一進一退を繰り返していたが、現れる怨霊たちは次々に封印され、まるで平和を取り戻しつつあるようにしか見えない日々がやって来た。
 綾姫と彩姫も常に母の元に控える生活から、交代で子供らしい日々を過ごすことが出来るようになり、神子も戦いとは関係なく庭を散歩したりもするようにもなっていた。
 とはいえ、彼女の容貌はこの世界ではいささか目立ち過ぎた。彼女は、その日も左大臣家に来ていた泰明に「私の姿を変えることは出来ない?」と声をかけて来た。
「姿を?」
「そ。ちょっと散歩でもと思ったんだけど、この髪とこの目では出て行かない方がって釘刺されてさ。この庭もいい加減飽きて来たし」
 泰明は自分とほぼ変わらない長身の彼女に向けて小声で呪文を唱える。
「……まあ、こんなもんだろう」
 とりあえず髪と瞳。それが黒になっても身長で目立ちそうな気はしたが。
 神子は自分の髪を眺めて「すっごいね。便利便利。カラーリングで髪傷めなくて済みそう」などと頷くと、「じゃあさ、ついでに」
「何だ」
「案内してよ、この辺」
 何処か斜に構えたような笑顔で、そう言った。

 彼女は、以前の2人に比べると妙に醒めた目でこの世界を見ていた。
 無気力に見えていたのは本当に興味がなかったかららしい。でも、そうしなければ帰れないなら、最低限のことはしよう、という考えに途中で変わった、と言っていた。
「でも最低限だよ。無駄に血を流すのは本意じゃない」
 そう言って空を見上げる彼女の瞳に、一瞬何かを懐かしむような表情が浮かんで----すぐに消える。
「泰明さんって言ったっけ」
「そうだ」
「戦うの、好き?」
 泰明の方を見ることはなく。ただ投げ出すような質問。
「私は大嫌い。世の中、敵・味方って分かれて殺し合ってるうちは、誰かが必ず悲しむからね」
「--------」
 意外、と思える言葉だった。
「『敵』であってもココロはある。それで誰かが悲しい思いをする。操られてる怨霊たちは昇華してあげられるけどね----あ、封印、っていうんだっけ?」
「そうだ」
「うん、それ。----悪くないシステムだよね」
「まぁ、そうだな」
 しばらく、黙ったまま歩いていた神子は、突然泰明の前に回り込んで目を覗き込んだ。
「ねえ、泰明さんは----若く見えるけど、実はそうじゃない、んだよね」
 一瞬のたじろぎを何とか隠して、
「----何故そう思う?」
「落ち着いてるから。それに何か凄い技使ってたし」
「そうでもないが」
 『年齢』の話をすれば、彼はまだ『14歳』だ。
「そーなんだ。----でも、相手のボスが何者なのかは知ってるんでしょ?」
「知ってる」
「どんなヤツ? アクラム、とか言ってたけど」
「----支配者になりたがっているらしい、そのために神子を狙っている」
「私を??」
「そうだ」
「あら、そうなんだ、意外。というか----解せないな」
「解せない?」
「じゃなんて藤姫なんだろう。私じゃなくて」
「星の一族を潰せば、もう神子を呼び寄せ、支える者がいなくなる。----弱体化を狙っているんだろうと思うが」
「なるほどね。卑怯ねー、さすが『敵』さんですこと」
 泰明の目の前の笑顔はとことん皮肉屋のそれだ。何を考えているのか、よく判らない笑顔。
 彼女は、身を翻して後ろを振り返る。そして、うーん、と大きく伸びをする。
「もう帰ろうか、そろそろ」
 夕日が、風景を変え始めていた。


 もはや持久戦の様相を呈していたその事態に痺れを切らしたように、にわかに怨霊たちが凶暴化し始めたのはそれからすぐ後のことだった。
 左大臣家の周りでだけ突発的に大量に巻き起こる戦いには、神子と八葉だけでなく警備の者たちも駆り出さざるをえなかった。
 無駄な流血が嫌いだと言っていた神子は、その事態をあまり喜んではいなかったが、だからと言ってそれを止めろと言える状況ではないことも判っていた。
 それでも、彼女は時折、他の人々から隠れて悔し涙を流していた。その涙に気づいていたのは泰明だけだった。
 何を言っていいか判らないでいる泰明に、彼女はまたそのシニカルな笑顔を向けて「……何だか、龍神の神子って一番非力だよね……」などと言いながら唇を噛んでいた。

 そして----。
 神子も八葉もかなり体力・気力を消耗してしまっていたその後に、アクラムは姿を現した。
 そのタイミングは敵ながら実に鮮やかと言わざるをえなかった。神子自身の精神力も限界に来ていたし、八葉たちも自分を守るだけで精一杯で余裕がなかった。
 辛うじて瑞矢と泰明が周りを見回せるだけの余裕を持ってはいたが、元から「気」の合わない2人が揃っていたところで大した戦力にはなりようがなかった。
 神子は、ただ唇を噛んでいた。
 アクラムは何度となく繰り返された言葉を再び語り出す。神子が身を差し出せばこの場は矛を収める、と。
 既に空に渦巻く不穏な雲は、強力な怨霊の力を意識させるに充分だった。勝てない、と思わせるにも。だが、八葉も藤姫も、たとえ勝てぬ争いでもその身を投げ出す心は出来ていた。無駄に死ぬだけかも知れない、とは思いつつも、それが彼らの成すべきことと信じていたからだ。
 そして期待していたのだ。「神子」たる者の最後の切り札、龍神を彼女が呼び寄せることを。
 しかし。神子は1度大きく深呼吸をした後、ゆっくりと振り返った。ぐるりとその場の人々を見回して、----そして最後に泰明に、あの斜めの微笑を残して----、アクラムに向かって歩き始める。
 八葉はざわついていた。何をしようとしているのか理解出来ないでいた。彼女の意志を理解したのは、泰明と瑞矢だけだった。ただしその理由まで判っていたのは、泰明だけだったかも知れない。
 神子を止めるため瑞矢が飛び出そうとするのを、泰明は制止する。責める瞳が泰明を睨みつけている。
「神子のご意志だ」
 ただそうとしか、今の泰明には言えなかった。
「----すぐにこんなこと止めて。私が行けばそれでいいんでしょう?」
 神子の通る声に、アクラムは不審そうに彼女を眺め回す。
「裏なんてない。私は戦いたくない」
「----神子自ら戦いを放棄すると?」
「そうよ」
 音が消える。人々が愕然として神子の背中を見ている。
「神子----判っているのか? 私の元へ来れば、私のために働いてもらうことになるが」
「判ってる」
「『仲間』だったあやつらと敵対することになっても?」
「くどいわね。さっさと私を連れて行きなさい」
 アクラムは手を挙げる。ぶ厚い雲がほどけて行く。彼の喉元から洩れた笑いは、やがて八葉たちの耳にも届く。
 空がその青さを取り戻した時----
 神子とアクラムの姿は、その場からかき消されていた。


7.

 それからまたしばらく時は止まっていた。しかし、八葉たちの任が解かれることはなく、何もすることがないまま重苦しい緊張感だけを引きずる日々が続いた。
 次に神子に再会する時は敵かも知れない。しかも、共に戦って来てその強さは全員身に染みて判っている。アクラムがどう彼女を「使った」としても、ギリギリの戦いを強いられるであろうことは容易に想像出来た----もし龍神が向こうについてしまったら、絶対に勝てないであろうことも。

 瑞矢と泰明だけは、引き続き藤姫の周りで結界を張り、彼女を守り続けていた。
 一見、穏やかにも見える日々の中で、瑞矢だけは焦燥感を濃くしていた。
 彼には理解出来ないのだろう、怨霊たちに対しては積極的に攻撃に出た彼女が、何故アクラムにあっさり降伏したのか。
 泰明には、判るような気がしている。
 怨霊たちは封印することは出来るが、アクラムについてはそれは出来ないかも知れない。殺すしかないかも知れない。
 だから彼女は戦わない道を選んだのだと思った。
 『無駄に血を流すのは本意じゃない』
 神子がそう言った時の、何かを懐かしむような表情の意味までは、泰明にも理解出来なかったが。

「----泰明殿」
 その日も庭に出て入念に結界を張り直していた泰明に、瑞矢が声をかける。
「あなたは不安に感じることはないのですか? この状況を」
 歩いて来たその顔はかなり疲れが見えている。
「私には、あの神子の考えていることは理解出来ない----」
「瑞矢殿、顔色が良くないようだが」
「あなただけだ、まるでいつもと変わらずにいらっしゃるのは。その冷静さの根拠は何処にあるのです?」
 ため息をついて肩を落とす。答えを知りたいというより、ただ言いたかった、そんな風にも見えた。
「私達が焦ったところで何が変わるわけでもないだろう」
「しかし……」
「瑞矢殿」
「はい」
「『根拠』が必要なら----信頼、では不足か」
「信頼?」
「私は八葉だ。神子のすることを信じる。それだけだ」
 再び意識を集中しようとする。が、すぐに隣にいる瑞矢の気に邪魔されてしまう。
「----瑞矢殿」
「泰明殿は何か知っていらっしゃるのではないのですか? 神子殿が何をしようとしているのか」
「いや」
 即答する。本当に知らないのだ。
 瑞矢の目は明らかに信じていない。
 彼の心にいたずらに不信感を植えつけてしまうのは、今は得策ではない。判ってはいても、そうとしか言えない泰明に出来ることはこれ以上何もなかった。
 瑞矢もやがて諦めたようにその場を立ち去る。
 泰明はただ淡々と仕事を終えた後、藤姫の元へと足を向けた。

 藤姫はあれから、神子の行方を探すことを最優先に占い続けていた。
 もちろん、アクラムたちのいる場所が、この世界での土地のように定点に存在するものではないことは承知している。だから、彼女が出来ることにも限界はあったのだが、それでも彼女は神子の辿った軌跡のかけらでもいいから見つけ出そうと努力をしているようだった。6歳になる彼女の2人の娘----綾姫と彩姫も、今回はそれに参加していらしい。
 泰明の姿を認めると、藤姫は床から半身を起こして人払いを申し付けた。ただし、幼い2人はそのままそばに置いた。
「ちょうどお話ししたいことがあったのです」
「神子のことか」
「はい」
 一瞬だけ、彩姫の方をちらりと見て、
「彩姫が、この間からしきりにこんな絵を描くようになって----」
 そばに置いてあった半紙の束を泰明に手渡す。
 ただの落書きのようにしか見えないその絵は、それでも川にかかる橋のように見えなくもなかった。
「橋----だとは、思うのです」
「そう見えるな」
「ただ、その橋は……、彩姫」
 ちょこんと控えていた少女は、突然の指名に驚いたようにまばたきしていたが、
「とても、いやなにおいがします」
 可愛らしい声がそう答えた。
「嫌な----匂い?」
「はい、お倉の中で似たにおいをかぎました」
 さらにそう言って、思い出したように眉をひそめた。
「彩姫、」藤姫は彼女の手を取って、立つように促した。そして、「このお兄さまをそのお倉に案内して差し上げて」と泰明を手で示す。
 泰明はわずかに頷く。彩姫もこくんと頷き、歩き出す。

 彼女が案内したのは、武器庫だった。
 泰明は警護に立っていた武士に中を見たいと申し出る。八葉である間は、それを断る人間はいない。お気をつけて、という言葉を背中に、泰明と彩姫は倉の中に入る。
「まだ匂いはするか」
 彩姫に尋ねる。彼女は、しばらくすんすんと鼻を動かしてから、
「はい」
 と答える。
 泰明は何も感じなかった。
「声も、いたします」
 彩姫はそう言って、ぱたぱたと奥へ向かおうとする。
「あまり奥へは----」
 止めようと走り出した時。
 ----何かに、触れられたような気がした。
 振り返る。薄暗い、彩姫以外に人の気配はしない。
「お兄さま」
「何だ」
 声のする方へ足を向ける。立てかけてあるひとつの刀の前で、彼女は立ち止まっていた。
「危ないから、触ってはいけない」
「はい。でも、」
 彩姫は振り返る。わずかに入る光が、その目許で反射していた。
「----泣いているのか?」
「泣いていらっしゃるのです、神子さまが……」
「----神子が?」
「はい……」
 今度は泰明に走り寄り、その足元にぎゅっとしがみついた。
 立っていた刀を見る。最近使われたばかりなのか、何処となく無造作に打ち捨てられたような置き方ではある。
 やがて、その下に何か黒いしみのようなものがあるのを見つける。
 彩姫の背中を軽く叩いて宥める。彩姫は足から離れて、少し怖がるように後ずさる。
 泰明はそっと床に膝をついた。その近さで、ようやく彼もその『匂い』を感じることが出来た。
 もう渇いてしまっている。だがさほど昔というわけでもない。----そのしみは、明らかに血の匂いがしていた。


 橋、血の匂い、そして神子が泣いている----。考えられる一番恐ろしい結末を考えた時、泰明の心に初めて動揺が宿った。
 神子は----アクラムに利用されたのではなく、殺されたのではないか。あるいは、彼女が自ら、利用されるくらいなら自害を望んだ可能性もある。
 一条戻り橋にやって来て、その場所から通じているという鬼たちの世界への扉を探そうとする。
 自分の心が揺れていることは悪影響でしかない。自身の力の精度が落ちてしまっているのを痛感する。
 神子が命をかける必要などない----それはただの願いでしかないのか。
 神子を信じていると----そう言った自分の心は嘘なのか。
 死を望んでさえ、それを容認しなければならないと----

 また失うのか。守らなければならない存在を。
 今回は、防げたはずなのに。あの時に引き止めれば、失わずに済んだかも知れないのに----!

 見ようとしても見えない。何も。
 目を閉じる。落ち着こうとする。このまま自分まで冷静さを失ってしまったら、やって来るかも知れない戦いの時に自ら負けに行くようなものだ。
 深呼吸を繰り返す。----その空気に、異様な気配が混じる。
 何が起きているとは判っても、それが何なのか判らない。
 今まで感じたことのない----心が凍りつく感触。

 それは、『恐怖』----

 血の匂いがした。あまりに近くで。その血の気配がひとのそれではないことだけはすぐに気づいた。
 何かをしようと焦る。焦るばかりで何も出来ない。
 力が、自分の内からまるで水のように流れてしまう。
 引き止められない。既に自分の精神がただの空洞になってしまっていることを意識する。
 体が動かない。目を開くことも出来ない。
 息遣いが聞こえていた。奇妙に落ち着いている。その主はゆっくりと近づいて、微かに震え始めた泰明の肩に手をかける。
 そして----声がした。

「----大丈夫。もう、……全部終わったよ……」

 ほんの少しだけ、泰明の体にかかる重さ。血の匂いの向こうからやって来るあたたかな温度はすぐに離れた。
 自分が抱きしめられていたと気づいた時、見開いた目の中に飛び込んだのは、全身血にまみれた神子の姿だった。
「最悪な作戦だったけどね。後味悪過ぎ。もー嫌だからね、『龍神の神子』なんて」
 そんな時まで、斜に構えた笑顔でとぼけたように肩をすくめて見せる。
「----神……子……」
「らしくないなぁ、泰明さんだけはそんな顔しないって思ってたのに」
 ただ笑顔で。いつもと変わらない笑顔で。
 泣けないと思っていた自分の頬に伝ったものが、久し振りの涙であると気づいた時----

 ----その心は、師匠がかけた『呪』であっては欲しくないと、強く泰明は願っていた。


8.

 神子自らの手でアクラムが殺された、という報せは、京の町全体を浮き立たせていた。3日ほど死んだように眠り続けてから目を覚ました神子の元には、あちこちやら山のような貢ぎ物がやって来るようになった。もちろん、謁見を希望する者も後を断たなかった。ただ、神子自身は全て断ってくれるようにと藤姫に頼んでいた。会えば彼女の外見が噂の元になるのは明らかで、それは余計な憶測を生むことになりかねないから、というのが彼女の言い分だった。

 泰明がその日訪ねてみると、神子はたくさんの贈り物と手紙を身の回りに散らかしたまま、はぁ、とため息をついているところだった。
「参ったなー、増える一方だよ……」
「それは当然だろう」
「やだなー、そういう言い方」
「元々こうなんだが」
「そーじゃなくて……まぁ、いいけど、別に」
 また、はぁ、とため息をつく。
「神子」
「もうその呼び方止めない?」
「----神子」
「----はいはい」
 うんざりしたように一瞬頭を抱えて、それでもすぐに泰明を見上げる。
「最初から、アクラムを殺すつもりでついて行ったのか?」
 『無駄に血を流すのは本意じゃない』----その言葉の意味するところが、彼女のこの帰還でよく判らなくなっていたのだ。
 しかし、神子は、
「いや、全然」
 即答だった。
「----それでは、何のために」
「彼がそう言ったからだよ、私さえ付いて行けばいいって」
「----では、何故……」
「うーん、話せば長いんだけどね……」
「時間ならある」
「----私、話、下手だから、判ってもらえる自信ないけど……」
「知りたい」
 神子はそれからまだしばらく迷っていたが、やがて何かを納得したのか、小さく頷いた。ちょうど部屋にさらに貢ぎ物を増やしに来た女房に、
「ごめん、ちょっと泰明さんと大事な話があるんで、誰も入れないようにしてもらえると嬉しいんだけど」
 女房は頷いて、貢ぎ物を部屋に置いて部屋を出る。

 神子は物を少しだけ片付けて、泰明に座るよう促した。
「アクラムが何故神子を必要としていたのか、は、知ってる?」
 座りながら泰明は答える。「『力』であろう、五行の」
「そう。でも、残念ながらそういう意味では私はあんまり優秀じゃなかったみたいだけどね。何せ腕力ばっか強くてさ」力こぶを作るように腕を曲げて見せる。「でもまあ、それでも、役には立ったらしい----けど」
 何故か、ふっとよぎるせつなそうな表情。泰明は理解しかねて眉をひそめてしまう。しかし、次に出て来た言葉は、
「寝なきゃならないらしいんだよ、私と。その力とやらを彼が得るには。しかも継続的に」
 一瞬呼吸が止まる。『寝る』という単語が何を意味するのかすぐに気づいたからだ。
「あのさぁ……、バカ気てると思わない? ゴギョーだか何だか知らないけど、私はね、てっきり----私があなたたちをじかに潰すことになると予想してたわけ」
 八葉たちももちろんそう思っていた。彼女が、優秀なアクラムの手先として、直接攻撃をしかけて来て、対峙するものだと思っていた。
「結局さ、あの孤独ちゃんは、自分でやらないと気が済まないんだよね。彼の一族、全部いなくなったらしいけど、自分で切り捨てたらしいし----でもね」
 目を伏せて、床にでも話すように。
「----その話を聞いててさ。冷酷なヤツ、とかいう前に、何をそんなに追い詰められてるのかなって……。私、根が単純だから口に出しちゃったけど」
 そう言って、思い出したようにくすくす笑う。
「そしたらね----、ふふ、見せたかったよ、その時の顔」
「アクラムの、か?」
「うん。それが切っ掛けかな」
「----切っ掛け??」
「ん。私さ----嫌いじゃなかったよ、アイツ」
 目を上げて、泰明の目の中を真っ直ぐに覗き込む。
 わずかに笑った口元とは正反対に、その瞳はとても真剣で----そして、少し潤んでいたように見えた。
「どうしたいのか、って聞いたよ。藤姫潰したとする、帝殺したとする、無政府状態の京を乗っ取ったとする、それからどうするか? って。
 殺戮して、支配して、でもその先にあるものは何なのか、ちゃんと見てるのかって。
 独裁者はね----、決して『幸せ』じゃないんだよ。少なくとも形のある幸せを手にすることなんか絶対に出来ないんだから。
 戦って得た『トップ』の椅子なんて、座っていられる一瞬だけは嬉しいかも知れないけど、やがてどうせその座を狙うヤツらは現れる。潰した側が今度は潰されるだけの話で。
 繰り返すだけなんだよ、そんなことを。永遠に」
 神子の顔にあの表情が宿る。何かを懐かしむような----
「無駄な血を流すのは好きじゃないって言ったの、覚えてる?」
 ただ、頷く。
「正確には、----無駄な血を流すのは、もう飽きたの」
 視点が遠くなる。何かを思い出すように、ゆっくりと。
「私は、----内戦の中で育った。潰す側が潰される世界でね。民族同士がトップの椅子を奪ったり奪われたりを短期間で繰り返す世界だった。
 父はとても優秀な軍人だったよ。血も涙もない、と言われていた。私は父を尊敬してたし、16になって、自分の持てる武器を全て使って戦うことに何の抵抗も感じてなかった。
 でも----。多分、私という存在は、父にとっては兵士の1人だったんだと思う。男を殺すのに一番いい場所はベッドの中だ、って、----ふざけてんだか本気なんだか、----娘にそんなこと平気で言うような人だったし。
 でも好きだったよ、父のことは。父だからね。だから、平気だった。ベッドの中で抱かれながら相手を殺したこともあるよ。よくやったって褒められたよ。普通に考えたら、それって『父親』の言うセリフじゃないけど、でも私はそれが嬉しかったんだ。誇らしかったんだ。
 だから私は、本当に『鬼そのもの』なのかも知れない。みんなが言うように」
 皮肉屋の笑顔。
「ただ、そのうち----私は、父親を潰すための人質として狙われる立場になった。敵さんからすれば当然の選択だけど、でも残念ながら、私という人質は父の心を弱らせる材料にはならなかった。私も、殺されることを恐れなかったし、父も私を失うことを恐れなかった。
 それが判った時、敵さんの1人が、私という存在に違う興味を抱いて、私は母方の祖先の国へ逃亡することになった。その『敵さんの1人』の命と引き換えにね」
 口調は淡々としていても----皮肉屋の笑顔が歪んで、涙が一筋だけ、頬を伝う。
「その時に初めて----『愛』、がどんな形をしているのか、判ったような気がした」
 一瞬だけ見えた弱々しい笑顔はすぐに掻き消える。
「私があの頃に盲信していた父の存在と、アクラムが囚われていた『ちから』とはね、本質が同じなんだって思えたの。だから、----昔の私を見ているようで。
 昔の私は、それを認めてくれる父がいて、彼が大きな手で頭を撫でて『良くやった』って褒めてくれて、----でもアクラムにはね、何もなくて。
 自分が何をしたいのかだって、判っていなかったのかも知れない。
 何かをすれば変わるかも知れないという期待があるだけで。
 だからね----。
 何も変わることなんかない。また立場が逆転するだけで、いずれ歴史は繰り返すだけだって。私は自分が経験したことを全て話した。今話したようなことを。
 だから止めろ、とは言わなかった。ただ、やっても何年か後にはきっと絶望するよ、と言っただけでね。でも----」
 再び、せつなそうな表情が落ちて----。
「それは結局彼を最悪な形で追い詰めることになってしまった。
 それはね。私もよく知ってる。
 ----希望を失った人間、の姿。
 信じていた何かが手の中から零れて行くのを、足掻きながらもう一度集めようとする人間の姿。
 もう戦えなかった。彼は。その時の彼は。
 そして、私の『五行の力』もなくなっていた。その時の私は、もう彼を敵だとは思っていなかったからかも知れない。
 価値のなくなった『神子』に対して、彼のするべきことはひとつしかないはずなのよ。私は殺されるんだと思っていた。でも、彼はそれすら出来なかった」
 目を伏せて。……ぽつぽつと、床に小さなしみが出来て行く。
「だから、ほんの一瞬でも、せめて彼を愛してあげようと思った。『敵さんの1人』が私に向けてくれたそれと同じように。そして----」
 その次に顔を上げた時、彼女はもう泣いてはいなかった。
「それは多分、ほんの少しの間だけでも彼を幸せにしたと思う。だからその瞬間を永遠にしてあげた方がいいと思った。絶望を抱えたまま、ただ生き続けなければならない人生なんて、そんなに大切に生きるほどの価値があるとは思えないから----」

「無駄な血、じゃなかった、と思いたい----けど……。
 どう思う? 泰明さん」
「----京の人々にとって価値はある」
「----そういう意味じゃ……ないんだけどな……」
 泰明もそうだと思っていた。
 でも、その神子の心を『わかる』と言い切ることは出来なかったのだ。
 彼女の抱えた心の重さを----受け止め切れる自信も、なかったのだ。


9.

 藤姫の体調が回復するまでにはまだ時間がかかりそうだった。神子はそれだけが心配と言っていたが、それ以上長居する理由もなく、自分の場所へと帰る支度をしていた。
 泰明はやはり同行することを願い出た。ほんのわずかな願いの灯はまだ消えてはいない。
 神子はちょっと口の端を上げて笑って答えた。
「っていうか、あなたも『帰る』んでしょう? 横文字出しても会話が普通に成立してたもん、この世界の人じゃないなとは思ってたんだ」
 10年の中で慣れ過ぎた言葉。意識することがあまりになかったし、神子に対して嘘をつこうともしていなかった。
 今や泰明の『人生』はあの世界で過ごした時間の方が圧倒的に長いのだ。『帰る』という言葉は、それはそれである意味は正しいのかも知れない、と泰明は思う。

 戻って来たその暦は、やはりあの幸せの10年の間ではなかったけれど、それでも予想は出来た分だけあまり絶望はせずに済んでいた。


 その町は神子の知る土地ではなく、神子はとりあえず泰明の住むアパートに来ることになった。帰るための交通費が調達出来ないから一晩泊めて欲しい、という申し出に、何の疑問もなく頷く。
 レベッカはそのあっさりとした返事が何だか不満そうだった。

 レベッカにベッドを譲って、眠るふりをしながら眠れずに窓から空を見上げる。
 時々動いていたレベッカの方からやがて、はぁ、とため息が聞こえて来る。そして、ばさっ、と薄い毛布が跳ね除けられて、あまり眠そうではない顔が月明かりの中に浮かび上がる。
「眠れないのか」
 小声で尋ねる。レベッカは膝を立てて座り直すとその膝に顎を乗せる。
 その目が、ただじっと泰明の方を見て少し光っていた。
「----神子」
「その呼び方は、……っても、無理そうだよね、泰明さんの場合は」
 苦笑する。2人ともお互いに。
 泰明にとってはそれが内心自分を縛っている枷なのかも知れないと気づいている。やはり怖いのかも知れない。名前を呼んでしまうのは----呼ぶような関係になってしまうのは。
「ね、こっち来て」
 苦笑したまま手招きする。泰明が素直に従う。レベッカはベッドの端をぽんぽんと叩く。そこに座れ、と目が言っている。
 久し振りの2人分の重みでベッドが沈む。
 泰明が、何だ、と言い出そうとしたその唇は言葉を発することが出来なかった。
 しばらく続いたその柔らかな感触は一度離れて、やがてそっと肩に彼女の重みがかかる。
「----無理、かなあ……」
「何がだ」
「この一連の出来事の終わりはさ、せめて好きになれそうな男に抱かれたいなって----思ったんだけど」
「--------」
「殺さないから、ねっ?」
 ふざけたように耳元でくすくす笑う。
「殺されるとは思っていないが」
「----それとも、忘れられないひとがいる、のかな」
「--------」
「図星か。つまんないの……」
 かたん、と背後で小さな音がする。その辺りに置かれていたものが何だったのかを思い出して、泰明は神子の腕の中で振り返ろうとするが、動きを止められてしまう。
 ベッドの頭の位置に小さなナイトテーブルがあって。
 そこに、ここ2年はずっと伏せられたままになっていた写真立てがあったはずなのだ。
 手を触れることもなく埃を被ったままだったはずの。
 神子は泰明の肩に顎を乗せたままで、恐らくはその写真を眺めている。発病する直前に撮られたあかねの恥ずかしそうな笑顔。
 ----せめて2人で撮った写真を飾ろうよ……
 そう言って拗ねた目を向けたあかねのことを思い出す。泰明はその外見が成長しないから写真に残したくない、と言ってそれを頑なに拒否していた。
 神子は両手でその写真立ての中身を取り出そうとしているらしい。泰明は動けないまま、ただ肩を貸していた。しばらくして写真を取り出したのか、レベッカは体を離して、今度はその写真をじっくり見つめ出した。
 彼女が手にしていたのは2枚。
 少なくとも泰明は入れた覚えがなかった。
「----そうか」
 レベッカはとても無表情で。
「だから凄く年上に感じてたのかな」
「--------!!」
 泰明は思わずその2枚を引ったくるように手にしてしまう。
 1枚は見慣れたあかねの笑顔だが、もう1枚は----自分の横顔だった。いつ撮られていたのかまるで記憶にない。オレンジの文字で刻まれた日付は10年前だ。もちろん、今と全く外見に変化はない。ひととしてはあまりに不自然な写真。
「----誰、なの、泰明さんって」
「----『誰』、ではない。あえて言うなら『何』かも知れない」
「えっ」
「私は、『ひと』ではない。師匠----安倍晴明によって作り出された」
「----もしかして私のために泣いてくれたのも、『そう造られた』から?」
「--------」
 ちくりと、痛みが走る。
 自分が感じている感情の全てが、ただ『そう造られた』だけのものだとしたら。
 涙すら、本物、ではなく----。
 ほんとうに、かなしかった、わけでは、なくて----。
 ほんとうに、うれしかった、わけでは、なくて----。
 答えられずに俯いた泰明の体を、レベッカは引き寄せる。
「だとしたら、ホント、良く出来過ぎてるよね----」
 耳元の彼女の声はほんの少し震えていた。

 朝まで、彼女はずっと泰明の体を離さなかった。ただ抱き合ったまま、疲れたように彼女は眠りに落ちて、泰明はただ----天井だけを眺めていた。


10.

 秋が来て。
 相変わらず続く日々は淡々として終わりがなかった。
 レベッカとはそれから会うことはなかった。たまに電話で話したりすることはあるが、話題と言えば時候の挨拶や近況報告ばかりで、しかもお互いに「変わり映えのしない日々」に苦笑していることが多かった。
 早苗との奇妙な友情はまだ続いている。『蘭お姉さん』の苛々を募らせるばかりのじれったい友情だ。とはいえ、蘭もそろそろ泰明のその頑固さに半ば諦め始めてはいるようだった。早苗が本当におかしそうに、「あんなヤツとっとと見切りつけちゃえ、とか、言われちゃってますよ」などと泰明に律義に報告して来たりしていた。

 1週間の平和なサイクル。毎週電車で通う道はいつも通り。
 仕事と墓参以外に特別することがなくなった日常の中で、藤姫のことが少し気にはなっていた。
 まだ本調子とは呼べない彼女の病には気になる気配がいくつもあった。最悪のケースになる可能性は、アクラムの不在によって防げたとは思っているが、しかしそれでも気になる気配の全てが消えたわけではない。
 だから----アクラムという存在が何だったのかは、多少疑問に感じ始めていた。
 それはただの序章に過ぎなかったのではないかと。まだ、本当の戦いは始まっていなかったのではないか、と。
 それが気になり始めてからは、その不安は大きくなる一方だった。

 多分、予感と言って良かった。
 八葉として呼ばれたわけでもないのに、彼は学校に忍び込む危険を冒してまで再びあの井戸の前にいた。
 天真たちと3人で開けたままの蓋から、わずかに声が聞こえて来て、その不安が増大していた理由を理解する。
 彼は再び飛び込んだ。そして左大臣家にまっすぐ向かっていた。


 閉ざされた重苦しい空気。あちこちから洩れる啜り泣きと慟哭。苦しげに眉をひそめたまま全身気が抜けたように疲れ切っている瑞矢の姿。
 声をかけなくても何が起きたのか悟らざるをえない。
 足音に気づいて目を上げて、泰明の姿を認めた瑞矢は、それまで抱えていたわだかまりを一気に溶かすようにその目から涙を零した。
「申し訳ありません、泰明殿、私は……」
「お前のせいではない」
 彼は出来る限りのことをやったのだ。それ以上に、何者かが藤姫を呪う力の方が強かっただけで。
 部屋に横たわる彼女はとても穏やかな顔をしていた。見下ろしている2人の娘は泣き出すのを堪えているように見えた。まだ6歳----その責務を負うには幼過ぎる娘を残して、22歳で藤姫の命の炎は燃え尽きていた。

 心の隅に引っかかったのは、何故師匠が出て来なかったのかということ。6歳の子供が星の一族の当主となるのは明らかに異常事態で、彼ならそれを防ぐ手に出るのが当然ではないかと思えた。少なくとも、泰明が師匠の立場ならそうしていたと思えた。

 現れた泰明は女房たちにとって救いの神に思えたらしい。何せただですら元から男手の少ない一族だ。藤姫の夫(源雅永というらしい)は何故かさる皇族方の船遊びに付き合わされて、----というのはもちろん女房側の言い分で、実際には警護の仕事として命じられたらしいのだが、----使いを走らせてはいるがすぐには戻って来られそうもないのだという。
 泰明はただ冷静にその場を仕切ることにした。せめてその雅永殿が戻られるまでの間だけならと。
 遠い夢の中でちらと見た華奢な弓使いの背中を思い出す。あの夢の中では内裏の警護の仕事はしていなかったはずだが、何故皇族に召されているのだろう、と少し疑問を感じながら。

 その疑問は、まる1日たって本人が戻って来た時にすぐに解けた。
 女房の1人がばたばたと慌てながら雅永が戻ったことを告げ、他の女房たちも出迎えの準備に忙しく動き始める。だいぶやつれて焦燥した気配が彼女たちに続き、現れた小柄な青年を見て泰明は目を見開いた。
 雅永は泰明には気づかずにそのまま藤姫の元へと駆けつけている。途中で手にしていた武具を投げ捨てながら。せめてお召し替えを、と請われて苛立つような視線だけで応えて、やがてその姿は泰明の視界から消えた。
 その青年の顔には見覚えがあった。
 あり過ぎるほどに----。

 女房たちは部屋の前で静かに控えていた。泰明が近づいてもその時ばかりは入室を拒んでいる。中から、限界まで堪えるような鳴咽が洩れている。「とうさま……」と囁くような、涙を含んだ幼い少女の声も。
「泰明殿、せめてご家族だけの時間を、もう少し……」
 必死になって手で制する女房の潤んだ瞳に、泰明はただ小さく頷いた。
 血のつながり。それがどれほど強いものであるか、そしてどれだけ大切なものであるか、泰明には想像がつかないだけに過大評価するしかなかった。
 それがひとの証なのだろうか、それを何よりも大切と思えることが。
 レベッカのことがふと頭をよぎる----。
 男に自分の体を差し出してまで敵を倒す。そんな屈辱的としか思えない行為を「父が好きだから」「父が喜ぶから」という言葉だけで正当化出来ることの不思議。
 理解出来なかった。だから、過大評価するしかないのだ。

 そして何故か、まるでおとぎ話のようだと思いながらも、それを知ることが出来たらもしかして自分は人になれるのだろうかと----ちらりと考えて、自分で苦笑する。
 血、と呼ばれる肉体の要素を擬態する液体はあっても、自分に遺伝子が存在するのかどうかまでは泰明には判らない。
 自分が子を残すとすれば、粘土細工のように自分を擬態するモノを作るしかないのだろうか。
 几帳の向こうにいる青年の背中。
 あの頃の彼は自分を卑下してばかりいた。泰明にはとうてい及ばないといつも下から見上げる視点で見られていた。
 今はもうそうではない。
 彼はずっと高い場所にいる。泰明がどう足掻いても届かないその場所。
 ひとであること、ただそれだけで。
 ----父であること、ただそれだけで。


11.

 聞けば、ここ数日は、歩みは遅いながら確実に病状は良くなっていたらしい。だからこそ、夫も『仕事』を引き受ける気にもなったらしい。
 それはかなり突然の急変だったのだ。だから師匠も間に合わなかったのか、と泰明は1人納得していた。

 夜が更けても彼----雅永が眠れないのは当然だと思えた。
 濡縁で座り月を見上げたままの後ろ姿に、泰明はしばらく迷って、呼び慣れた方の名前で小さく声をかける。
「----永泉」
 ぴくっ、と肩が震えた。
 決して振り返ろうとはしない。
 複雑な思いが、彼の中に渦巻いている。懐かしむ気持ちと、嫌悪の心と。もうそう呼ばれることなどないと彼自身が思っていたのが判る。
「そう呼ばれたくないなら、もう呼ばぬが」
「--------」
 しばらくして雅永の振り返った表情は、思いの他、穏やかに見えた。
「いえ----泰明殿がそうしたいのであれば、私は構いません」
 少し目を伏せ気味に微笑む。
 隣を指して、座ってもいいか、と尋ねる。無言で頷く。
 2人の視界の先にある月はとても明るかった。何故か少し遠慮がちにすら聞こえる虫の声を聞きながら、泰明は、話したくなければ無理には聞かないと前置きした上で、何故今の立場に身を置くことになったのかと尋ねる。
 雅永----永泉は、あかねが帰ってから程なくして還俗していた。元々、僧になることを第一に望んでそうなったわけではなく、ただ何かから逃げ出したくて仁和寺へ駆け込んだようなものだったから、と。あかねによって、自分の存在する意味をもう1度考え直したくなった、とも。
 帝----兄に男子が生まれるまでは、またしばらく皇位継承争いの中に望まずして放り込まれることになった。しかし-----。
 7年前。永泉に、思いもかけぬ縁談話が飛び込んで来る。その縁談を受けることになれば、恐らく皇家とははっきり縁を切らなければないほどの、特殊な一族から。
「----星の一族、か」
「そうです」
 永泉の母親は、星の一族に生まれながら力が発現することがなかった。しかし、家柄は良かったので、彼女は女御として内裏に上がった。
 そして生まれて来たのが永泉だったのだ。
「----その時に生きていた、星の一族の血を引く男子はあなたしかいないと、藤姫に口説かれました」
 何を思い出したのか、わずかに苦笑する。
「私にとっても、実は千載一遇の出来事ではありました。男子が生まれないことを兄上は心苦しく感じていましたし、私の顔を見るたびにそのことを思い出させてしまうのも辛かった。ここで、再び私がいなくなればいいと思ったのです。しかもその時には私にはあまりに強力な言い訳がついて来た。----『星の一族』という名の」
「--------」
「ただ、私と藤姫では、血が濃過ぎて狂人か天才になる、と占いには出ていたそうです。でも、その時の藤姫は他に手がなかったのです。自分を最後にするわけには行かないと、ひどく真剣でした。----怖いほどに」
 夢に現れた藤姫の冷たい表情。母であると言うよりも、戦略家の将軍のようだった瞳。
「もし『狂人』が生まれていたら、彼女は殺していたかも知れない。『天才』が生まれるまで」
「----それではまるで」
 種馬のようではないか、と言いかけて、さすがに躊躇する。
「おっしゃることは判りますよ」
 真っ直ぐに泰明を射ている真剣な目には、一縷の迷いも存在しなかった。
「でも私はそれを自分で選んだつもりでおります。永泉ではなく----臣籍に下りて雅永として生きる道を。
 今の私には、身分はありません。あるのはただ、『私』だけなのです。
 そして、綾姫と彩姫にその血を継ぐことが出来ました。肩書きや身分を争いながら継承して行くだけの親子関係よりも、私には今の『家族』の方が、『家族』であると実感出来ます」
 泰明は何も言えないでいた。
 雅永の視線がそれて、再び月を見上げる。
「藤姫は、私のことを恐らくは愛してはいなかったでしょう。彼女は私を利用したに過ぎない。でも、私も恐らくは彼女を利用したのだと思います。それでも----」
 ちらりと、幼い2人がいるはずの方を向いて。
「『とうさま』と呼んでくれるあの子たちがいる限り、私はこの選択が正しかったと思うことが出来ます。この先、ずっと」

 父という名の優しさ。慈しみ。子供という名の柔らかな枷。そこに縛られることが愛しさであり喜びである、それでも、あまりに不自由な枷。
 自ら望んで囚われて穏やかに安住する罠のように----
 何故それを望むのだろう、愛などなかったと言い切りながらも、何故それほどにそこに自らを嵌めようとするのだろう。
 泰明の中に、泡のように想いが生まれては消えて行く。
 自分にはどうしても届かないその境地にいる雅永に対するその痛々しい想いを、嫉妬と名づけることが出来るまでには、それからほんの少し時間が必要だった。


12.

 ただざくざくと土を踏んで歩く。
 師匠の家へ向かうまでの間に頭の中を整理しようとしても、結局門が見えて来るまで何もまとまらなかった。
 聞きたいことはあまりに多くて、かと言ってあの師匠があっさりと全てを教えてくれるとも思えなくて、どうしたらあの師匠から何かを引き出すことが出来るだろうか、と、そればかりを考え続けていた。
 相変わらず『野趣溢れる』庭を突っ切って入口へ。人の気配がしないのは実際に人がいないからだ。
 人にしては静か過ぎる足音で出迎えた女性----恐らくは式神----が、泰明の顔を見た途端に無言で頭を下げて、「こちらへ」と案内するように先に立つ。
 やはり来ると気取られていたらしい。師匠----安倍晴明にとって、それぐらいは容易に予想出来たことなのだろう。
 ただ無言で続く。
 まだ混乱し続けている自身の胸の内を持て余しながら。

 師匠は、いつも通り穏やかな----しかし何を考えているか判らない----笑顔で、脇息にもたれたまま泰明を出迎える。
「まあ、座りなさい。----少しはたしなめるようになったか?」
 片手で杯をあおるような動作をする。
「----いえ」
「そうか、それは残念」
 晴明もまた----10年の時を経てもさほど年を取ったという感じはしない。だからこそ物の怪の子供などと噂もされるのであろうが、それでも泰明が微塵も変わらないことに比べれば変化はある。目尻に少し皺が増えたとか、そういった些細な変化が。
 師匠は起き上がって、すっ、と姿勢を正す。
「ずいぶん心乱れているようだね。来る前からそれはひしひしと感じてはいたが」
「--------」
「泰明は知らないだろうが、お前が何かを想うたびに私にもその波動は伝わる。とても強くね。あちらの世界にいる間のことはうかがい知れぬが、少なくともこちらの世界にいる間は」
 それっきり、師匠は口を閉ざして泰明をじっと観察するように見ている。
 以前から、師匠が泰明を見る目はいつもとてもクールだ。----あかねは時々師匠を「父親」という言葉で表すことがあったが、泰明自身がそう感じたことは1度もなかった。師匠と師弟。それ以上でもそれ以下でもないと。
 御簾越しに射し込む月光がただ部屋を静かに満たしていた。
「----お師匠」
「何だね」
「聞きたいことは----たくさんある」
「そのようだね。ただ私で答えられる質問かどうか」
 何かを含んだように少し笑う。
 最初は----答えてもらえるかも知れないものから。
「今回の藤姫のことだが----」
 師匠でも防げないことはあるのだ、とは思ってはいたけれど。
 だが、
「ああ……」
 一瞬、拍子抜けしたような顔でため息をつかれる。
「『仕事熱心』だね、泰明は」
「--------」
「まあいいだろう。あれは、----予定されていたこと、ではあったよ。私としても辛い決断ではあったが、藤姫にどうしてもと頼まれてね」
 泰明は眉をひそめる。----頼まれた? 彼女の死が?
「星の一族は実質彼女一人だ。彼女がそうしたいと言えば他に反対出来る人間は誰もいない。秘密裏に、ということであれば、私でなければならなかっただろうしね。瑞矢には悪いことをしたが」
「----話がよく見えない……。頼まれた、とは、いったい」
 師匠は少し残念そうに目を伏せた。
「10年で鈍ったかな」
「--------」
「妙に静かだ、とは思わなかったか、今回は」
 ただ頷く。
「それは、実際には何も起きていなかったからだよ」
「----何も……?」
「そう。何も、だ。彼女を穢していたのはアクラムではない。アクラムは、藤姫の----星の一族の気が弱まっているのを感じ取って、それに便乗して現れたに過ぎない。いわば、おびき寄せられたわけだな」
「誰に」
 身を乗り出した泰明に対して、師匠はただ何も言わずじっとその目を見ていた。
 言葉はなくても、その沈黙で、泰明の動きは止められてしまった。
 ----まさか。
「----師匠」
「うん?」
「----何故、そんな……」
「敵を欺くにはまず味方から、という言葉があるそうだよ」
 淡々と。
「何のために!」
 思わずにじり寄る。信じられなかった。何故わざわざ藤姫を『殺す』必要があるのか----。結果としてアクラムを亡き者にすることは出来たが、彼女が死ななければならない理由が判らなかった。
「私はただ----龍神の怒りを鎮めるためにはそうするしかなかった、と聞いている」
「----怒り?」
「そう。レベッカだが、彼女は龍神によって選ばれたわけではない。藤姫が自分の命を賭けて呼び寄せた破壊の女神だよ。だから今までの神子とは精神構造がまるで違う。戦い方も、その『力』の種類も。
 彼女には協力者が必要だった。でも使える手駒は5歳の娘2人だけだ。だから彼女はニセモノの八葉を作り上げるしかなかった。龍神を無視して----ね」
 あまりに話の内容に、泰明は言葉が探せなかった。
「龍神は創造の神だ。彼がやることなら、たとえアクラムでも流血沙汰で終わらせるのをなるべく避けようとするだろう。だから今までの『神子』たちではこの戦いを『終わらせる』未来が見えずにいた。
 藤姫は苦しんでいたんだよ、彼女なりに。血を継いだとしても、それがただアクラムと対立して力を消耗して終わり行くだけの人生しか与えてやれないとしたら、それが子供たちにとって本当に幸せなのかって。
 終わらせたかったんだよ、彼女は。自分の命を引き換えにしてでも。
 子供が生まれる前の彼女はそう思っていたようには見えなかったが----。ただ、その一族をつなぐための道具としてだけ、子供というものを見ていたようだったが、実際に生まれて育って行くのを見た時に主義が変わったのだろうね。一族云々よりも母であることに心が動いたんだろう」
 師匠の目がふとそれて、庭の方にぼんやりと視点を移していた。
「私は舞台を用意したに過ぎないよ。全ては彼女自身の決断だ。----陰陽師、なんてものは、頼まれれば、そして必要とあらば、仕事は引き受けるものだからね」
 ----『予定されていたこと』。人の死がそのその無感情な言葉で片づけてしまえるほど簡単なことだとは思えない。泰明自身がその悲しみをリアルに実感出来ないとしても、人の心を簡単に壊してしまうほどの威力のある出来事であることは確かで。
 それがただ、予定されていたこと、だと----。
「泰明」
「はい」
「----人の命、というものは、お前が考えるほど重いものではない。命は、断ち切れてつながり行くこそが宿命だ。それは星の一族とて同じことだ」
「----私は」
「うん?」
「私の命は----」
 つながることはない命。
「私の命は、つながることはない----」
「--------」
 答える声はなかった。しかし、表情を隠すようにふわと広げられた扇の向こうで、小さなため息だけが聞こえていた。
「師匠----つながらない命は、断ち切られることもないのか」
「--------」
「私は、いつまでこんな『命』を抱えていればいい?」
「--------」
「師匠----」
 まるで表情のない瞳が泰明を凝視していた。
 陰陽道の師匠と弟子、という立場だった頃にさえ、そんな風に----まるで『モノ』を見るような目で----見られたことはなかったはずだった。
 ぱち、と小さく指を鳴らす。現れた式神に師匠は何かを囁いて、
「今日はこちらに泊まりなさい。たまには『親子』で過ごすのも悪くはないだろう?」
 少し辛そうな微笑だ、と泰明には見えていた。


13.

 そうは言ったものの、それからほどなくして、晴明の元には内裏からの使者が訪れていた。すぐに片付くと思うから出て来る、と言って師匠は家を出る。
 時刻はもう深夜。
 ふと瞳を閉じて集中すれば、誰もいなくなった広い屋敷を包んでいる結界の中で、空間そのものが異様なほど清浄であることが意識出来た。まるで、ひとが暮らす家ですらないかのように。
 ひとがいればそれだけで、誰もの心に存在するはずの闇は家に漂うのだ。それはたとえ龍神の神子----あかねであっても同じことだった。彼女は、決してそれを表に出そうとはしないでいてくれたけれど。
 師匠は、自身の中に闇を意識することはあるのだろうか。
 子供の頃から師匠は常人ではなかったという話も聞かないわけではない。だがもし彼にまだ未熟だった頃があるとすれば、その頃は今のように一糸乱されぬ鏡のような心とは別の面を見せることもあったのだろうか。
 ふと----何かの気配を感じて、泰明は目を開く。
 澄み切っていたはずの空気の中突然流れ込んで来るもの。
 眉をひそめる。よりによって師匠の留守に……。しかし、今のこの状況では他にこを守れる者はいない。泰明は何人かの式神を呼び寄せてその淀みの方向を探ろうとする。
 ふわり、と消えては現れて、それは泰明をからかうように屋敷の奥へと進んで行く。自分の後ろを封印して回りながら、奥へ向かうならそこへ追いつめようと画策する。
 正体がまるで見えない。もちろん、視認出来るカタチがあるものでもない。
 式神を散らせて反対方向を封印させる。挟まれたその部屋にじりじりと追い込む。
 気配は、部屋の真ん中でその動きを止めた。
 しばらくして、空気がより合わさるようにくるくると渦を巻いたかと思うと、そこに1人の女性の姿が現れる。
 この世界には存在しないはずの服装。
「----地味なペアルックだよね」
 女性は、自分の着ているデニムと似たようなデザインの上着を手にして、くすくす笑いながら泰明にそれを差し出した。
「気に入らない? やっぱりカジュア……じゃなくて、『お気軽な服装』過ぎる、かな?」
「--------」
 泰明の中で時が逆流する。
 初めて、あの世界で、あの世界の服を買おうとした時----
「どうしたの?」
 ----同じ言葉を確かに聞いた。
「----あれっ」
 彼女は、やっと気づいたように周りを見回して。
「ここ----京……?……な、何で?」
「--------」
「や、泰明さん、何かしたのぉ? もうっ、からかわないでよ、私……」
「----あかね?」
「うん?」
 にこっ、と見上げる笑顔。少し幼い。
 あの頃の。
「あは、やっと名前で呼んでくれた!」
 近づいた『あかね』は腕を組んで来る。
「ね、これ、どうなっちゃってるんだろ。ひょっとしてあの店にも井戸みたいな『入口』あったのかな。それで飛んで来ちゃったのかな。藤姫、いるかな?」
 本物ではない、と心の大部分は冷静に考えていた。目の前で実体のないものが実体化する瞬間を見ているからだ。
 それでも、残ったほんの少しの心はその温度を信じている。
 自分の中に生まれ始めた理不尽な想い----
 何故信じるのだろう、何故信じたいのだろう。終わってしまった日々のことを、今更信じてどうしたいと。
 これは何かの罠かも知れない、と警告する理性が、徐々にその声を弱めて行く。
 泰明の意識に入り込むことの出来た何者かが、その記憶の断片を使って再現している幻かも知れないと。
 それでも----。
 取り戻せたぬくもりに対して、あまりにも大き過ぎたいとしさが溢れ出して。
 たとえ嘘でも、またその腕の中に彼女を抱ける日が来たのだと。
 腕を解いてその体を引き寄せようとする。ちょっと驚いたように身を引いたが、やがて素直にその身を泰明に預けて来る。
 心臓の鼓動。彼女の。とても速い。
「や、やだ、誰か来たら……困るよぉ」
「私は困らない」
「----もーっ、泰明さんって冷静に大胆なんだからぁ……」
 少しずつ穏やかになる鼓動。
 まだ短いその髪を撫でて。耳の裏に触れるとやたらにくすぐったがってすぐに膨れて。そんな風に小さなことまで記憶の中から溢れ出して来る。次々と。
 思わずその手が強くなり----
「痛いよ……」
 言われて緩めた途端に。

 あとかたもなく----。

 腕の力が抜ける。見下ろしているそこにはもう彼女の頭はない。
 ただ月明りに浮かぶ何もない部屋。
 見えるもの全てが滲んで行く。そしてやがて流れ落ちる。止められない涙の裏で、泰明はそれまで感じたこともない想いをその身の内に感じていた。
 失ってしまったもの。
 取り返せないもの。
 後悔しても、泣き叫んでも、それは戻って来ないとしても。
 それでも人間は泣くことしか出来ないのだ。泣いて、叫んで、苦しんで。

 彼女が神子で、自分が八葉だから、ではなく----。

 立っていられなかった。
 膝をつく。目の前の床ですらもう見えないほど自分は泣いていると意識する。声を殺そうとしてももう出来ず、ただしゃくり上げている喉からわずかに洩れる声を持て余す。
 式神たちの存在が『消える』のを意識する。
 まただ。あの時と同じように。
 自分の力をコントロールする術を失う。襲われるその心を名づけるのは今ならとても簡単だった。

 孤独感。
 他の60億の人間よりも、彼女1人の存在に飢える孤独。

 無力感。
 今の自分は何も出来ない、そして、あの時の彼女に何も出来ないまま失ってしまった。

 喪失感。
 失っただけなのだ。
 それを悲しむことも出来ないまま、ただ失ってしまっただけなのだ----。

 突然、閃いた言葉があった。
 包まれた闇に射した一筋の木洩れ日のように。
 ----何故気づかなかったのだろう。
 彼女の元へ行こうと何故思わなかったのだろう。
 その身に価値などもうないのに。つなげる必要などない命なのに。

 その時の泰明に迷いはなかった。どうしようもなく無為なまま繰り返される日常に意味を見出すことなんか出来なかった。
 振り返る。ただ歩いて屋敷を出る。

 ただその人に必要とされていればそれで良かったはずなのだ。
 その人のいない世界に、これ以上留まる意味などないのだ。
 だから----

 断ち切ればいいだけなのだ。自ら----今すぐに。


14.

 それは最後の夢だったのだろうか? 意識、というものがなくなって行く直前の----

 泰明はいつのより自分の目線が低いことに違和感を感じる。
 水面。覗き込んだ自分の顔は泰明自身の顔ではなかった。
 でも何故かそれが自分だと思う。その時は。

 少女がいる。星の一族の女性がいる。藤姫に面差しの似たその人から『リュウジンノミコ』という言葉が出た途端、ただやっかいな仕事が増えたとだけ彼は思っている。

 少女----神子はあまりに不完全で、無力か、または暴発するかだ。安定度の低いその素質に苛立って、彼は精神面での助けが必要かも知れないと星の一族と話している。

 神子に対して自身の力を操縦する術を教える。
 歩みは遅いが着実に成長して行く。

 ----その少女に、いつしか神子である以上の心を抱き始めていることに気づく。

 まだ充分ではないとはいえ、そこそこ力もついて来た時、怨霊を操る一族からの奇襲を受ける。八葉同士の結束がまだ薄く、しかもそれを危惧しているのは彼だけだ。
 八葉たちは突き崩されて行く。結界に守られていたはずの神子の元へも敵は辿り着く。
 神子は震えながらもそこに立ち向かおうとする。彼は必死で策を巡らせる。彼女を危険にさらさないことを第一に考えている。
 結界を張る。彼女を閉じ込める。
 だが剣を携えた八葉のひとりがそこに飛び出して切りかかる。剣の効く相手ではない。今言おうとしても時は遅かった。
 怨霊たちを逆上させてしまった。神子を守りに入った彼を見て、ここを崩せば神子は落ちると理解したのだろう、その矛先は彼に向かう。
 彼女を守ることだけで手いっぱいで、自分を守ることなどとうてい無理だった。自分の力にそんな余裕はない。かまいたちのような空気の爪で身を引き裂かれて血が滲む。
 ただ耐える。彼女さえ無事なら。
 泣き叫ぶ声がする。彼女の目から一時的に光も奪っておくべきだったと悔やむ。見えているから辛いのだろうとは理解している。
 でも気にする必要なんか本当はないのだ。
 人の命なんていずれいつかは消える。その時に何かを残して消えることが出来るならそれはそれで悪くない。
 死を望んでいるわけではないが、死を恐ろしいとも思わない。必要ならそこへ行くだけだ。三途の川だろうと、黄泉の国だろうと。
 だから、神子が自分に向ける突き刺さるほどの悲しみは、むしろうざったいとさえ思う。
 ただ殺されるのを待つよりないと思い始めたその時に。
 神子の涙に油断した。
 その意志の強さを読み違えた。
 彼女は自力で結界を突き破り、まだ泣いたままで彼をかばうようにその前に飛び出した。そして、殺意を込めたその爪が、彼女の体をずたずたに突き破った。

 四神を奪われ失墜した星の一族の女性は病に倒れ、やがて急逝した。人々は神子を殺してしまったことで龍神の怒りに触れたのだと噂しあった。
 八葉たちはそのままばらばらになり、それ以降会うこともなかった。

 ----自分をかばって神子が死んだ。その一点の事実は、長い時間をかけて彼を蝕む。自責の念に耐えられず、彼はとうとう身を投げ出すように人里から離れて山へこもる。
 時の流れを伝えてくれるものはただ移ろい行く季節の風景だけ。
 誰もいないその場所で。
 死を待とうとしていたのに。
 彼の目の前に現れた者がいた。

 その者は予感めいた言葉を残した。
 また神子は現れると。
 また戦いは訪れると。

 ----お前の役割は、まだ終わっていない、と。

 その者はひとつの人形(ヒトガタ)を手渡した。
 ----今の状態のお前に永遠の命を与えることは無理でも、最初から永遠であることを約束された命を造ることなら出来るやも知れぬ、と。

 人形(ヒトガタ)はただ目を閉じたまま横たわっていた。
 人形(ニンギョウ)に過ぎない姿の上に、その者が手をかざす。消えそうな傍らの命を元手に、時の歩みを何倍も遅くする術をかける。

 そして最期に彼が見たのは、自分の生まれた意味すら判らない、人の形をした命。
 神子を守り、神子を愛した、その想いだけを残して、----彼は静かにこの世を去った。

 神子という名の『呪』をかけられたその人形は、やがて何かに引かれるように山を下り、素質に目をつけたある陰陽師に拾われることになる
 人形の生まれた経緯を、その者----天狗より聞いた陰陽師は、強過ぎた想いに扉をつけることを考える。まだ脆すぎたその心に負担になることがないように。必要以上に理論的で無感情になってしまったのは、恐らく彼の『遺伝子』の反発なのかも知れないと天狗は言った。
 『父親』を覚えていない彼のために、造り主は自分だと陰陽師は答えた。そして自分の弟子となり陰陽の道を継ぐべき逸材を得るために造ったとも。人形は自身の出生に理由を見つけることが出来て納得したらしい。
 そして人形は陰陽師となった。『師匠』と同じように。

 ただ、その存在はとても不安定だった。時折心にかけた扉が綻んでひどくバランスを崩すことがあった。有り体に言ってしまえば、人形は狂い始めたのだ。
 そして人形は自傷した。器に過ぎなかった肉体は「壊れて」しまえば使えなかった。だが彼の想いは生きることを望み、器が与えられなければ確実に怨霊になってしまうだろうと思われるほど精神力が強かった。
 『師匠』はその命をつないだ。そうするより他にないと思えた。残されたその想いを心おきなく果たすことが出来るその日まで、『師匠』と天狗は器を作り、扉を作り、それらを何度も壊された。

 何度目かで----初めて人形は長い時を生きた。
 10年もの長い時を。
 その心は安定していた。『師匠』はもうこれで彼が自身を壊すことなどないと思えていた。これで彼の心にもやっと安住の地が訪れたと思っていた。

 再びその人形が『神子を失う』ことになるなど----しかも異世界で----、考えたことがなかったのだ。


15.

「----晴明よ」
「何だ」
 ずぶ濡れで、全身冷え切った泰明の体は、ところどころすり傷を作ってはいたが、まだ生きてはいた。もちろん、死の渕をさまよってはいたが。
 決断しなければ、恐らくは同じように----
「『実の』息子ですら『名』を継がせなかったお前が、何故この人形に『明』の字を与えたのか、前から不思議には思っていたんだよ」
「----深い意味などないよ」
「そうかな」
 ばさ、と天狗は羽根を延ばす。
「どうしたい、このまままた壊れるに任せるか」
「--------」
「恐らく今までの『かれ』と此奴は違うぞ。10年だ。その時の間に『かれ』が知ったことも多いだろう。それに、もうアクラムはいない----」
「--------」
「やるなら、今がその時だ。
 扉を解放してやるか? 有限の命と、凡庸な才能を与えて、ただ漫然と生きて生涯を終えるただの男にしてやるか?
 それとも----」
 晴明の顔に走る少しだけ苦々しげな表情は、すぐにふっと消えてしまう。
 かわいそうなことをしたのかも知れない。天狗自身の身の内でも少し悔いが強くなりつつある。
「それとも----やはり、稀代の陰陽師『安倍泰明』としての未来を与えるか? 心を殺したまま生かし、お前亡き後に、その力を継ぐ正当な後継者として----」
「----私を、超えるであろうな。彼には怖いほどの情熱がある」
「惜しいか、『安倍泰明』を失うのは」
「----と、言うよりも」
 晴明は身をかがめる。まるで親が子供にそうするように濡れた頭を優しく撫でる。
「既にこの子の波動はひどく不安定だ。とても----『ひとらしい』揺らぎだよ」
 天狗はただ頷いた。
「これは、そうなったわけではない。多分、10年の時を経て『かれ』が選んだ選択だろうと思う。今までの壊れ方とは明らかに違うからね。
 そうしたいんだろう、『かれ』も。だったら----」
 ふっ、と晴明の指先に力がこもった。苦しげにひそめた眉が動いて、泰明の体がぴくっと動いて。
「『親』として、最後にしてやれるのは、それぐらいだろう」
「----そうか」
 やがて、目を開くと同時に泰明はひどく咳き込んで、口から少し水を吐き出す。すぐに体を横にして、ぜいぜいと息をする。
 しばらくの間水を吐き続けていたそれがやがて収まると、上半身をゆっくり起こして、絶望したように水辺に目を向けた。
「----師匠」
 目は向けないままで。
「何故生かした」
「--------」
「何故見殺しにしない!」
 それは今までの泰明とは別人のようだった。
 振り返った男の顔は怒りに歪んでいる。その頬に流れる涙は決して途絶えることもなく。手は堅く握られて、わなわなと震えていた。
「----っていたはずだ、師匠には……、私は」
「泰明」
「なっ……」
 ひどく冷たい晴明の声に、一瞬打たれたように泰明の言葉が止まる。
「----お前に、もう『師匠』などと呼ばれる筋合いはない」
「…………?」
 意味が判らない、という顔だ。
「お前を破門する。もう、『安部』の名を名乗ることは許さぬ」
「……な……」
 怒りで震えていた手が、脱力したように地面に落ちた。
「聞こえなかったか」
「……どうして……」
 言いかけて、それでも、何かに気づいたようにびくりとする。自分の身の内を探るように目を閉じて、愕然として、----その手が顔を覆う。
「……なぜ……だ……」
「異世界に戻れ。同じように暮らして行けばいいだけのことだ。10年の月日をそうしたようにな。向こうで生きて行くのに五行の力など必要ない。むしろ好都合だろう?」
「--------」
「そのままでは風邪を引く。1日2日は私の屋敷で休んで行きなさい。それぐらいは構わぬ」
「私は風邪など引かない」
 何処か自嘲したようなその物言いに、晴明は何故かとても楽しそうに返す。
「今のお前は引くんだよ」
「--------?」
 急に何かを吹っ切ったような晴明の態度。
 あからさまにそれを怪しんでいる泰明。
 天狗は、自分のやったことが結局無駄に終わったのに、何故か不思議な安堵を感じていた。


 泰明は初めて睡魔と出会った。
 晴明の屋敷に連れて来られて、白々と明ける朝日を避けるように床に倒れる。
 落ちて行く滝に巻き込まれるようだと思った。熟睡という言葉の意味を、初めて体で実感した。

 泰明は初めて疲労と出会った。
 体中が軋んでいた。思うように動けなかった。
 まるで鉛を打ち込まれたようだと思った。
 口角が割れていた。不思議がる泰明に式神の1人が粥を運んで来る。
 胃腸が荒れているとそうなるのだ、だから食べるように、という晴明からの言づてとともに盆を置く。

 泰明は初めて空腹と出会った。
 ものがおいしいとはどういうことなのかを初めて知った。

 陽光によって体が目覚めさせられるのだということ。
 虫の声がただの雑音ではないということ。
 月の光が優しいということ。

 そして----

 「おもいで」という名の悲しい記憶----。
 それを思い出すたびに冷静ではいられなくなり、死ねなかったことを後悔する苦しみ。
 自分は彼女との間に何も残すことが出来なかったという自覚。
 シナプスに浮かぶ感情と映像と音声とを、繰り返し再生して、そのたびにやって来る締めつけるような痛みでしか、もう味わえない、もう現実にそれを実感する手段が、何も、存在しない、ということ----

 泰明は初めて----
 いっそ狂ってしまえたら楽だ、と思っていた。


 井戸の蓋を閉めた。せめて木の蓋だけでも。
 もう聞きたくなかった。何も知りたくなかった。
 八葉に選ばれることは、二度とない。それだけは、はっきりと確信出来ていた。

 また始まるのだ。あの日常が。ただ同じとは完全に言えない。
 揺らいでいた。何もかもがただスライドするように過ぎていた無為の感覚ではなく。

 ただどうしようもなく誰かに触れたいと感じて電話をかけて----その相手に「それって、きっと、淋しい、ってことですよね、ははっ、ついに私に堕ちていただけましたー?」なんて明るい笑い声に救われたりするのも----。
 以前とは違うのだ。
 まるで----

 ひとになったようだ、と----。

 揺れてばかりで。不安定で。苦しくて悲しくて。
 楽しいことや嬉しいことは記憶を追体験するしかなくて。
 その時にこの心を抱えていたらきっと楽しかっただろうと思ってはみても。

 その日々は、もう戻らないのだ。


16.

 泰明は長く暮らしたアパートを出た。
 それまで意識したことがないのに----日々を重ねるたびに、そこに残る彼女との思い出があまりに辛く感じるようになって。
 忘れたいわけではなかった。忘れたくはなかった。それでも、時々その喪失感に自分の心を食い殺されそうになるのが耐えられなかった。
 それに----2LDKのその部屋は、生活すること自体に興味の薄い泰明には広すぎるような気がしていたのだ。

 家具の殆どを売り払った。そのまま放置されていた女性ものの衣服は蘭に頼んで、使えそうなものはフリーマーケットで片づけてもらうことにした。蘭は何度も「いいの?」と確認した。いくつかは、「私が欲しい!」と言ったのでそのままあげることにした----ただし、自分の前ではそれを着ないようにとの条件つきで。
「----もうあかねさんのことは忘れることにしたの?」
 遠慮がちにそう尋ねる声には、そうだとも違うとも答えられなかった。

 見つけた部屋は1Kの小さなアパート。ただし建物自体は新しい。周りは大学生が多いらしい。見た目の年齢だけなら泰明も大学生と言えないこともないが。
 前にいた部屋よりは、あの街に近くなった。あの井戸のある街。あかねが眠る街に。
 そして、毎週の墓参も、相変わらず静かに続いていた。

 穏やかな時間は、徐々に記憶を薄れさせて行く。自分がまだ『安倍泰明』だった頃は、記憶はただ積み重なるばかりで抜けて行くことがなかったのに-----。

 そして3年を経た頃には、泰明の周りにある彼女の痕跡は、苗字だけになっていた。----この世に存在するために、むりやり名乗ったまま変えていない「元宮」の姓だけに。


 風邪を引くとはどういうことなのかも経験した。その時は、携帯電話に出た声があまりに辛そうだからと早苗が、自称「押しかけ女房」を名乗って部屋に乗り込んで来たりもした。
 大学生になった早苗は、相変わらず蘭を心配させているらしい。彼氏作らないのか、と泰明に問われて、むぅ、と膨れたりしてみせていた。
 そんな表情の意味が判るようになったのも、あの頃とは違う。
 彼女も、だんだん大人になっていた。無邪気だったあの頃とは違い、----そして泰明の方も『無邪気』だった頃とは違うので----、時々ふっとその距離が友情とは違うものに傾きかけることはあっても、やはり一線を超えることは出来なかった。
 自分が、ひとではないから。そのことだけは、意識の中から離れることはないから。『普通に』付き合うことなんて、無理だ、と思っていたから。

 レベッカとはとても奇妙な関係が始まっていた。恋人ではないが時々会って、お互いにわだかまりを残さない約束で体を重ねることもあった。
 彼女も、心の何処かにかなり強力な喪失感を抱えている。それは父親であり、自分を逃がすために死を選んでくれた青年なのだろう。
 彼女は、ただ温度が欲しいだけなのだ。そして、そんな彼女の心に「わだかまりを残さない」まま応えてくれそうな人は恐らく他にはいないのだろう。
 ただそれだけだ、と思っていた。

 ひどく中途半端で----。それでも、とても『生きている』気はしていた。
 そしてふと思い出すこともあるのだ。
 あれはやはり『呪』だったのだろうかと。神子という存在に、翻弄されて来たあの日々は。


 それから3年毎に仕事を変えた。
 年を取らない彼の存在は、社会から不信感を持たれてしまうのは明白だから。
 履歴書の生年月日を少しずつ後ろにずらしながら、比較的身分にうるさくない職場を転々と渡り歩いた。

 1つところに長く住んでいるだけで、やがて人々の目が変わって行くのだということも、徐々に判って来た。
 最低限の家具と最低限の荷物。それを抱えて、人々の視線に限界を感じて来たら引っ越す生活が始まっていた。
 他人とのつながりは小さな携帯電話だけだった。それも、あの頃からの知り合いのごく少数の人々だけだった。


 元宮の----あかねの両親は病に負けてしまった。他に子供がいなかった彼らはとても静かで孤独な死を迎えたらしいと聞いた。
 実際にその葬儀にはただの弔問客として出た。記帳を求められて、元宮の名は書けずに(親戚たちが彼のことを理解しているとは思えなかったから)、その場で思いついた適当な偽名で焼香だけをして帰ろうとして、知った顔に会った。
 天真は立派な父親になっていた。子供たちももうすぐこの手を離れてしまうと笑っていた。その目は優しかった。
 詩紋はまだ独身のままだった。店はあまり冒険せずに育てて行くつもりで、と目を輝かせて話す様子は年よりだいぶ若く見えた。結婚しなきゃ跡継ぎいないだろう、と天真にからかわれて、血のつながりより実力で選ぶつもりと答えていた。どうやら、次期経営者を育てたいという段階にまでは来ているらしい。
 蘭は結婚していた。職場で会った人らしい。はっきりとは言わなかったが、あの頃の兄の性格を彷彿とさせるような熱血漢タイプの男性であるらしかった。その日は来ていなかったらしい。
 住所を尋ねられて、どうせまたすぐ変わってしまうとはぐらかす。詩紋が、そういうことが気になるならウチで働きます? というありがたい申し出をしてはくれたが、ものがおいしいと感じるようになっても甘いものが得意ではない泰明には多分勤まらない職場だからと断る。常に、誰かのために何か出来ないかと気遣う性格は相変わらずのようだった。

 久し振りにたくさんの人と話した。
 それは楽しいと同時に少し疲れて、----そして一部は恐ろしい予感を含む体験でもあった。

 あかねの両親が旅立ったように、いずれそこにいる人々もこの世界を離れる日は来る。
 その時に自分はまだここにいるしかないのだ。
 繰り返されて行く日々終わる様子はない。
 年を取ることも死ぬこともないまま。

 ----生き続けるのだろうか? このままで----。
 自分だけが----ずっと。

 心はひとの形をとることが出来るようになっても、しょせんこの体は『ひと』ではないのだから----。


 時間は、とても優しい。
 そして、とても残酷だ。

 携帯電話の中で読んでいたニュースにレベッカの名前を発見する。彼女の父親に家族を惨殺されたことを恨んだ少年が、その復讐を果たすためだけに入国して、本懐を遂げて自殺した、というのが真相らしい。
 しばらくはただ出ないだけだった携帯電話は、やがて『現在使われておりません』のアナウンスに切り替わった。
 その時に気づいた。彼女が何処に住んでいたのか知らなかったことに。
 その小さな機械の向こうにしか、いなかったのだということに。

 天真が倒れたと聞いて駆けつけた時には、彼はもう自分の人生でやりたいことは全部やったよと笑っていた。変なこと言わないで、と妹に責められて苦笑して、その言葉を最後に長い間昏睡状態が続いた。
 森村家の人々が、看病で身も心もぼろぼろに疲れ果てたのを悟ったかのように、彼は静かに息を引き取った。若過ぎる死だと誰もが言った。残された2人の息子は、父親にとてもよく似ていた。

 詩紋は結局結婚しなかった。最後まで職人でいたいような気がしてるんだと笑った。ウェディングケーキなら(他人のために)たくさん焼いて飽きた、とも。
 店で働いていた職人の1人に店を譲り渡して、自分はただの一職人として最後までオーブンの前にいたらしい。体を壊して入院するようになってからはあっけなかった、という話だった。
 彼には家族がいなかった。遺言では、店に関する遺産は全てが新店主に、それ以外のものは唯一の存命中の血縁だったいとこに渡して欲しいとあったらしい。

 蘭は、時々偏頭痛がするぐらいしか悩みはなかったよ、と笑っていた。夫と2人の娘と5人の孫が彼女の病気を悲しんで、共に戦って、そして見送った。

 早苗は奇妙な友達のままだった。----彼女の旦那も公認の。
 彼女に子供が産まれて忙しくなってからはついに音沙汰も消えがちになった。
 彼女が生きているのかどうかは、今の泰明には判らなかった。だがむしろそれは幸いかも知れなかった。----彼女の『死』に立ち会わずに済む、ということだから。
 もう嫌だったのだ。自分とこの世界をつないでいた人々が死ぬのを見るのは。


 それでも、まだ生きていたのだ。


 携帯電話に入っていた電話番号は今やどれもつながることのない番号になってしまった。
 職場の仲間とも必要以上に親しくなることのなかった泰明は、ただ日常を漫然と繰り返していた。守る者がいなくなったあかねの墓を訪ねることだけがあの頃との唯一の接点だった。
 あかねの両親が亡くなって、正確には無縁仏と化してしまったはずなのだが、先代の住職から泰明の話を聞いていた現在の住職の計らいで、特別にそのまま残されていた。泰明自身はそんな事情を知らないまま通い続けていた。
 それに対して、何かを思い起こしたり悲しんだりすることはもうあるわけではなくて。ただ途切れそうな糸を少しずつ縒り合わせて、自分の存在した意味をこの世につなぎ止めているかのような、そんな習慣に過ぎなかった。


 そして、ふと。
 ほんとうの創造主のことを思う。

 あの時に『京』で見た夢に似た何かが、元々のこの心の持ち主の記憶だとしたら。
 『かれ』を泰明として転生させたのは天狗なのだろう。
 時間の流れを歪ませて、年を取ることのない体にしたのも。

 もしかしたら。

 彼も恐らくは死んでいない。まだ間に合うかも知れない。
 それを望んでいるのが『かれ』なのか泰明なのかはどちらでも良かった。
 泰明は、これが最後にするつもりで、再びその時空を飛び越えた。

 否、最後であって欲しかったのだ。心の底では。

 最後に京に向かったのと同じ---その季節は秋だった。


17.

 陰陽寮にはもう知った顔はいないだろうと思った。晴明の息子たちですらもう隠居している頃だろう。
 晴明の屋敷へ向かうと、孫らしい少年の話を楽しそうに聞いている好々爺がいるのが見えた。多分彼は泰明を知っている。だが、知っているだけに現れてはいけないような気になった。
 北山へ向かう。着くのは夜になるだろうと思った。

 天狗は多分、判っていたのだろうと思う。木の枝に座って月を見るようにしながら、歩いて来る泰明の足音を聞いて目を落とした。
「ずいぶん久し振りだな」
 目を細めて笑う姿は、先ほどの好々爺の姿と重ならなくもなかった。
「そうですね」
「おや、口調まですっかりカドが取れて」枝から下りる。近くの切り株を椅子にでも見立てたように手招きする。「まあお座りなさい」
 話が長くなりそうな予感がして、大人しく座った。
「わしももう独りになってしまったよ。どうやら安倍家の跡継ぎたちはわしには興味がないようでな」
「----そうですか」
「そっちはどうだ」
「独りですよ。みんなもう亡くなっています」
「そうだろうなあ」
 ぼんやりと月を見上げる。つられて目を上げる。
 あの世界に比べて澄み切った空気の中で、月の輪郭すら冴え冴えとしているように見えた。
「----師匠は、やはり人の子だったのですね」
「----何だやぶからぼうに」
「いつ亡くなったんです」
「----もうだいぶ経つよ」
「そうですか」
 天狗の視点がすっと泰明の方に降りて来る。
「何でしょう」
「最期まで気にしていたよ、晴明は。自分がやったことが正しかったのかどうか」
「--------」
「晴明はな、一族の誰かがお前の存在を思い出して、『泰』の字をその子供に与えようとしたら、ひどく嫌がっていたそうだよ。弟子たちは、そこまで嫌って破門したのかなどと下衆な噂話をしていたが、私はそうは思わなかった。
 大切だったんだと思うよ、お前のことがね。だからこうしたんだとは思っている」
「----判っているつもりです」
「で、----お前はどうだい、自分の『人生』に満足しているかい?」
 泰明の頭の中にふと浮かんだのは天真の言葉。自分のやりたいことは全部やったと笑っていた顔。
 多分、終わってみないと判らないのだと思う。満足しているかどうかなど。
 そう、素直に言うと、天狗は困ったように笑っていた。
「終わらせたいのだな----泰明」
 頷く代わりに目を閉じる。
「あの時のように滝に飛び込まずに、私の所に来たのはどうしてだ?」
「『壊れたい』わけではないのです」
 すっ、と天狗の目を覗き込んで。
「『壊れたい』のではなく----『死にたい』のです」

 叶うはずのない願いなのかも知れなかった。

 天狗はばさりと羽根を伸ばして、その手を泰明の額へとかざすようにする。
 自然に目を閉じる。
 緩やかな熱が、体の表面を覆うような感触。内面からではなく、明らかに外から侵食して来る熱。
 その熱さに、声を殺して耐えているうちに。
 体のあちこちが、ギシギシと音を立てたように感じる。
「----っ……」
 体が揺らぎそうになって。
 その熱の膜に包まれて起こされるように立ち止まって。
 だがその支えはすぐになくなって。
 全身が気だるく重たく自分で自分が支えられなくて。
 ばさっ、と草の上にその身を投げ出すよりなかった。
「痛むか」
 声が出せなかった。動けなかった。
 目に入ったのは手の甲。薄暗い月明りの中で見たそれは、今まで見慣れていたそれとは別のもの。
 指を動かしてみる。
 自分のものだと確信する。
 でも、----

 それは老人の手だった。
 乾いて、皺がより、動かそうとしても関節が固まったようにうまく行かなかった。

「----何が……」
 言おうとした声もまるで別人のようにしゃがれていた。
 ひどく緩慢な動作で、それでも手で顔に触れてみる。がさがさとした皮膚の感触。それが自分のものであるとはすぐには思えなかった。
「----どうする、このまま死に向かうか?」
 天狗の表情はぼんやりとしか見えなかったが、その声はとても悲しい色をしていた。
「あの場所で----」
 掠れた声で精一杯話そうとする。
「あの場所で、最期は----」
 天狗は言いたいことを悟ったように頷いて手を伸ばし、再び額に手を当てる。
 少しだけ体が軽くなったように感じた。そろそろと立ち上がってみる。全身が重いのは相変わらずだが、自力で動くことは出来た。
「時空を超えるつもりなら急いだ方が良い」
 天狗は、その悲しみの色をますます濃くしながら、それでも冷静に泰明に告げた。

「お前に残された時間は、----あと1日もないだろう」


 ただ夢中で動いた。アパートに帰り、少し迷って、生きてまだそこにいてくれることを願って、早苗の住所に向けて自分のアパートの鍵を送った。全てを託した。捨てるのも自由だと書いた。もし彼女本人がいなくて遺族が残っていたとしても、せめてその文面通りに全てを捨ててくれることを願った。

 朝を待った。ただ待ち続けた。眠ってしまったら二度と起きられないような気がしていた。

 朝になって電車が動き出して、彼はその場所をまっすぐに目指した。
 ここでそのまま死んだとしても、眠る場所がすぐそこにあるのは好都合かも知れないと苦笑しながら。

 墓地に人はいなかった。
 誰かが来るかも知れないと思った。
 縁石に腰を下ろして----ただ自分の膝だけを見ていた。
 ただ祈るふりで。
 その時を待つ。

 何人かが近くを通り過ぎる。怪しまれることはなかった。墓地の前で悲しみにうなだれる(ように見える)人間を怪しむ者など普通はいない。

 長くは感じなかった。
 それまで生きて来た時間に比べれば、そのぐらいはすぐに過ぎて行くのだろうと思っていた。

 空が闇に落ちる頃、座っていることすら辛くなって来た。
 もう誰もいない。
 冷たい石の上にその身を落とす。
 呼吸が少し苦しくなる。
 全身が冷えて来た。決して気温が下がったせいではないだろう。
 意識が----心がまだあるのに、体が死に向かっている、そんな感触だった。

 どうしたらこの心を断てるのだろう。
 もしかしたら体を失ってすら自分はまだ「死ねない」のだろうか?

 目の前が滲んで来る。最期に流す涙は何故か温かかった。
 心が覚えていたのは、----その温度が最期だった。


epilogue

 1人の老婆が、空っぽになったアパートの一室をただ見つめていた。
 後ろから遠慮がちに声をかけられて振り返る。
 どういうご関係だったのですか、といたわるように聞いた大家に、初恋の人なんです、と照れたように老婆は笑った。

 もう昔の話ですけどね。
 でもあの人が最後に頼ってくれたのが私だなんて----
 こんなおばぁちゃんまでドキドキさせるなんて、最後まで罪な人ですよ、ホントに。

 老婆の顔は笑っていても、目は少し潤み始めていた。


 いつも早朝に寺を訪れていた婦人が、ちょっと気味の悪そうな声で住職に話しかけて来る。曰く、ある墓の前に服が置き去りにされている----と。
 お供え物にしては変わっていたし、まるでついさっきまで人が着ていたような姿勢で放置されているらしい。
 その墓の場所を聞き、住職は驚いて、そのまま墓地へと向かう。

 1人の不思議な青年が、長い間そこに通って来ていた。
 先代の----今の住職の父にあたる----話と総合するなら、少なくともここ50年ばかり彼は年を取っていないかに見えた。
 時々見かけることはあった。まだ22,3に見えるその姿は、確かにずっと変わることがなかった。
 いつも不思議と冷静で、墓前にいるのに悲しみやせつなさをあまり表に出そうとしない、何処か無感情な雰囲気のする男だった。

 先代は、初めて見かけた頃、10年をともに過ごした恋人と死に別れてからそこに通って来ている、という話を聞いたそうだ。
 まだ若く見えるが10年来の恋人ということは、その時点で既に25,6にはなっていたのかも知れない。しかしそれにしても、半世紀を経てなお変わらずにいるのは不自然だとしか思えなかった。

 先代はそれを確かに不気味と感じてはいた。彼が人ではない何かではないかと疑いもした。しかし、たとえ人ではない何かであったとしても、愛した人の墓前に立っているだけのことを咎めたり恐れたりする必要はないだろう、という結論に達したのだそうだ。
 だから、彼がもののけの類であるなら、その気が済むまでそこを維持してやっても良いのではないか、と思い、今にまで至っていた。

 ちょっとした伝統だな、と先代は笑っていた。

 住職は、とりあえず引き受けはしたものの、正直薄気味悪いことには変わりなかった。男は、変わらず無表情でただそこに立ちすくんでいたり、時々は一通りの墓参を終えてさっさと帰ってしまったりもした。

 だが、いつの頃からか----彼は無表情ではなくなった。
 その表情にはっきりとした苦しみや悲しみが時折浮かぶように見えることもあった。
 掃除をする住職に会釈をすることもあった。
 まるで、人ではない何かが徐々に人となって行くような、そんな風に見えることもあった。
 そして、その朝----

 何度か見かけたことがあるコートが、倒れた人の形でそこに置かれている。
 周りに流血の跡があるわけでもなく、服が破れたり汚れたりしている様子もない。
 まるで体だけが溶けたような光景だと思った。
 そっとコートをめくると、下からスーツが出て来た。やっぱり同じように、ついさっきまで着ていたような状態だ。
 頭の辺りに、紙が落ちている。
 拾い上げる。
 人の形をした紙人形。
 それだけが、この光景の中で妙に違和感を感じさせるものだった。

 事件性があるわけでもないその放置事件をどうすべきか、住職はしばらく迷っていた。とりあえず、住職は服を預かった。
 しかし、----
 この置き土産は、あの年を取らない不思議な青年のものであることは確信していた。そしてそれ以来、何週間たっても彼は現れなかった。
 彼が何故服だけ残して消えてしまったのか、その理由は判るはずもない。
 そしてついに訪れる人のいなくなってしまった元宮あかねの墓地を、それまでの慣習に従って、丁寧に供養して無縁仏の合同葬地に移す。
 その時に、姿を変えずにずっと彼女に会いに来ていたその青年の置き土産も、一緒に埋葬することにした。
 もし彼がもうこの世の人ではなくなっていたとしても----いや、もしかしたら最初からこの世の人ではなかったのかも知れない、とも思っていたが----、それを望むだろうと思ったからだ。

 ことが済むと、住職は先代の墓地にそのことを一応報告した。
 彼の魂が、愛した人のそれと無事出会えることを願いながら、住職はただ静かに、手を合わせ続けていた。

=== END === / 2001.11.13 / textnerd / Thanks for All Readers!

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