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GunParade March(PS) 二次創作

   ささやかな温度

part.1 / Intro

 ----雨の音で目を覚ます。
 背中の辺りで続いている規則的な呼吸から身を剥がすようにして、ベッドから下りた茜は、そのまま----全裸のままでキッチンに向かう。
 コップに水を満たしただけで、何かを思い出したようにまたそれを捨て、洗面所に方向を変える。
 気が狂ったようにうがいを繰り返す。
 記憶ごと洗い流そうとするように。


part.1,茜,ササヤカナオンド

「----仲がいいことだな」
 腕を組んだ尊大な態度が校門で声をかける。茜の隣で速水が目を細めて笑う。「おはよっ、舞」
「芝村に挨拶はない」
「僕にはあるの」
「ふむ」
 最初の頃に比べてかなりトゲの取れた笑顔が速水を見て、それから茜を。「…眠そうだな」
「………」
 答えないまま、離れる。
「…茜?」
 大したポーカーフェイスだ。
「僕は2組だ」
 吐き捨てるように。
「別に、途中までは一緒に」
「寄るところがある」
 振り切って正面グラウンドへ。
 足早に広いグラウンドを突っ切って、ハンガーに飛び込む。意味もなく、騎魂号----士魂号複座型を見上げて、その肩に誰かが落書きしたハートマークを見つける。
 ラブラブハリケーン。そんな風にふざけて熊本城攻防戦に送り出したのはつい先日のことだった。ラブラブはともかく、ハリケーンはその通りだ。まさに、桜の名所とともに幻獣たちを完膚なまでに叩きのめしたのだから。
 自分は見ていることしか出来なかった。それでも。
 ひとりの友が成し遂げた偉業。
 それにうっすらと笑って祝福を捧げるのは簡単な話。
 多目的結晶で時間を確認して、教室へ向かう。憮然とした義姉に途中で捕まる。
「何ぼけっとした顔してんの」
「うるさい」
 構うな。僕に。
 ----お願いだから。
 内心に隠れた悲鳴に似た思いは、表に出すことは出来ない。
 巻き込みたくはないのだ、この姉だけは。
「昨夜、何処にいたの」
 早足で教室に向かう後ろから、負けじと追いかけて来る森には答えない。答えないことが、ある意味でひとつの答えになる。
「いつまでメーワクかけるのよ」
 教室に滑り込む。途端に腕を掴まれるのを。
「うるさいっ」
 払いのける。
 迷惑? 誰がだ。速水がか? 心の中では鼻で笑いながら表情を崩さずに席へ着く。
 払いのけられた手を自分でぎゅっと握って立ち尽くす森。
 夢の中でなら彼女に1度縋ったことがある。
 でもそれは夢の中だけにしておかなきゃならないんだ。
 彼女だけは。
 ----彼女だけは。


 初めて会った時はすごくいい奴そうだと思っていた。人当たりのいい笑顔と、裏のない態度と。すぐに仲良くなった。親友になれると思えた。その正体に気づくまでは、多分親友でいられた。親友。甘ったるい言葉。

「僕は猫を飼っているんだ。舞って名前の」
「----芝村?」
「あれも、猫だね、ある意味では」
 『あれ』と呼んだ。自分の、恋人を。
「でも猫にはこんなことは出来ない」
 くすくす笑いながら、その手が茜の髪をつかんだ。
「逆らったら、どうなるか、知ってるよね」
「……何故芝村にやらせないんだ」
 目が細くなる。
「時期じゃないからだ」
 頭を叩きつけるように座らされる。その後で、髪を掴んだまま顔だけ上向かされる。
「あの猫が発情するのはもう少し先だよ。その時を、僕は待っている」
 くくくっ、と笑う。
「『女』はね、特にあの猫は、色々と面倒なことが多くて。だからかわいいわけだけど」
「……こんな時にのろけなんかっ……」
「茜」
 ギリギリと髪を締めつける。
「今、この時の君の口は、喋るためのものじゃない」

 かれがいく時の声はむしろ女みたいだ。
 それがなぜなのかはうっすらとわかっていた。
 いじられ過ぎていて、ある意味でアイデンティティが希薄で、なんというか----設計図通りに作られて、期待された役割があって、その通りにしか生きられない絶望の匂いがする。
 多分、茜をその腕の中に抱いている時はそのレールからは外れている。
 意地でも喘いでなんかやらない。歯が埋まるんじゃないかと思うほど食いしばって自身の反応を抑え込む。必ず背中から。顔を、この顔を見られるのは嫌だ。そして向こうもそれは同じらしくて、決して、真正面から見ようとはしない。
 むしろどうでもいいのだ。抱いている相手が誰であってもいいのだ。
 時々かれが夢の中でその猫を呼ぶのを聞く。
 ほんものの飼い猫の方は不思議そうにそんな主人を見ている。
 ----僕の背中は何度その名を聞いただろう。
 かれが果てて。だらしなく荒い息をぶつけながら茜の背中に縋ったまま眠りにつくから。
 その声は誰を呼んでいる。猫なのか、芝村という人間なのか。

 僕は誰を呼ぶ?

 その日目が覚めたのは自分の声が聞こえたからだ。
 彼を呼ぶ声を。
 甘ったるい親友だった頃の。
 滝川とふざけてつるんでた頃の。
 速水。
 速水、
 ----速水----。

 その男の腕の中には茜がいても、茜の腕の中には誰もいない。
 その男の心の中には茜がいない。茜の心の中には巣食っているくせに。
 ひどいやり口で。


 ゲーセンのうるさい音は頭から排除する。
 かちっ、と小さな手応えとともに、シミュレイトされた発射の感触が腕にフィードバックする。画面の中で炎を曳いて着弾、多分ミノタウロスか何かをモデルにしたグロテスクなモンスターが咆哮して倒れる。
 機体を少し傾けて高度を下げる。通りすがりにミサイルをバラ撒いて機首を上げる。
 青い空。幻獣との戦いの中で空が青いことはないけど。
 STAGE CLEARの文字が流れる。派手なファンファーレ。コントローラから手を離して溜め息をつく。
「おーステージ10! …楽勝って感じ?」
 後ろからばんっと抱きつかれて一瞬うろたえる。
「けっ、自機4つもあんのか」
 BONUS STAGE
 安っぽいテロップとともに現れる薄暗い空。スキュラに似た浮遊するモンスターがグルグルとうめきながら近づいて来るエフェクト。
「すげぇ。初めて見た」
 抱きついた姿勢のまま、茜の右肩の上で滝川の顎が動く。
「くすぐったい。どけ」
「へえへえ」
 どんっと隣に腰を下ろす。
 向こうのレーザー光のタイミングを全て把握していればそんなに難しいステージではない。見切って、避けながらミサイルを叩き込んで行く。連打。指が攣りそう。隣で感心して間抜けな声を出されるたびに気が散る。
「あっ」
 掠った。あっと言う間に爆破される。
「……滝川ぁ……」
「お、俺のせい?」
 ストックはあと3機。敵レーザーが新たな標的を見つける間をくぐり抜ける。接近して連打して流れるように避ける。行ける。
「チャンスっ!!」
「行けーっ!!」
 赤く光る相手の照準の隙間に連発して発射。ひゅうん、と音がして敵は沈黙する。
「すっげぇ。俺、まだクリアしたことねぇのに」
「やるか? ステージ11」
 体をずらす。
「いいの?」
「飽きた」
 ただ、時間を潰したかっただけだから。あいつが学校からいなくなるまで。
 嬉々としてコントローラを手にする滝川を残して学校へ戻る。もう0時を過ぎている。

 金がない。ブレインハレルヤでも作って売り飛ばそうか。部隊にいるというだけで給料は貰えているけど、給料日までにはまだ遠い。
 家に帰る気にもなれずに、詰め所の片隅に置かれた端末の前に座ってプログラミングに没頭する。多目的結晶がそれに集中している間は、意識は半濁している。
 夜が明ける頃にようやく完成する。
 会わなくて済んだか。今日1日は。だるい意識をはっきりさせようと伸びをして、クセになったテレパスの起動。
 速水はいない。でも、芝村はまだいる。珍しい。校内ではいつも一緒にいることが多い2人なのに。
 飛んでみる。ハンガーで仕事をしていた芝村が、驚いたように顔を上げた。
 猫、か。
「何の用だ」
 来たのが茜であるのが不満であるかのように憮然とする。僕が何したって言うんだ?
「別に」
 シミュレータをぼんやりと見上げる。芝村は手を止めたまましばらく茜をただ眺めていたが、突然つかつかと近づいて来た。腕を組む尊大な態度。
「速水は何処だ」
「知るかよ」
 知るわけない。知りたくもない。
「あいつめ」左手を少し気にするように見下ろす。テレパスか。「……何をしている」
 眉をひそめて、怒りで穴が空きそうな勢いで壁を睨みつける。
 約束でもしていたんだろうか。
 ほどなくして仕事を再開した彼女は、それでも全く集中出来ないように時折手を休めて溜め息をついている。茜は発言力稼ぎに戦車技能でも取ろうかとシミュレータの起動スイッチに手を伸ばしかける。
 靴音。茜の方が先に気づいて、その後で芝村がポニーテイルを揺らして振り返った。
 さりげなくその場を離れようとする。わずかに微笑んでいる芝村の声は、隠し切れないほど喜んでいる。彼女も、その靴音が誰のものか判別出来るんだなぁなどと考えながら。
「何をしていた」
「うん? ちょっと買い物」
「……そうか」
 俯いて、それで、なんだ、照準装置のことだが、などという話を真っ赤になって喋っているのを遠くに聴きながら裏庭へ降りる。
 帰る場所なんか何処にもないのに。それでもそこだけしか受け容れてはくれないから。
 あいつよりはマシだ。
 ピンっ、と手首に刺激を感じる。メール? 流れて行く言葉に、背筋が、冷たくなる。
 まだ帰るな。
 そう告げていた。
 それに逆らうように走る。どうせそこまでなんて来るはずがないのは判っているから。

 寒くてたまらない。
 眠りについている森家の玄関から忍び足で自室----滅多にその目的で使うことはなくなっているけど----に入る。ぱたんと倒れ込むベッド。シーツは、ちゃんと太陽の匂いがする。
 なんてことだろう。そういうことに手を抜こうとはしないんだな。この家の人間は。
 いっそ泣けたら楽なのに。そこに縋れたら。ただ甘えられたら。安心して抱かれる温もりが、あればいいのに。
 そんな温もりなんて小さな頃から知らなかった。実験動物みたいにしか扱われなかったのに。それでも、気が狂いそうにそのひとの影が愛しいのは、きっと、そうインプリンティングされているせいなんだ。そんな風に頭の何処かで思っていても、本能的に、刷り込まれたように、そのひとだけは、別格で。
 何故甘ったるく思い出さなきゃならない。ママン、なんて言葉で。
 フランソワーズ茜は、自分を愛してなんかいなかった。
 わかっているのに。
 ----わかっているのに。

 だれでもいいから僕を抱いて。ただ笑って抱きしめて。何の代償もなく好きだと言って。
 誰かの体温が、欲しい。
 なにかの温度が、欲しい。

 ふわふわしたネル地の感触に包まれて、泣くことも出来ないままつかの間のまどろみに引きずられる。
 寒くてたまらなかった。
 どうしようもなく。


「僕はもうここへは来ない」
 かれがイッた直後に言ってみた。
 がくっ、と全身から力が抜けて、止まっていた呼吸が長い溜め息に代わる。それをいつものように受け止めた背中で、かれはやがてくつくつと笑い出した。
「死んでもいいんだ……」
「死んだ方がマシだ」
 本当は、あの時に既に死んでいるはずだった命。こんなことのために生かされている義理なんてない。
「じゃあ」
 生ぬるい手が伸びて来る。うなじに辿り着くまではむしろ愛撫と呼べるほどに優しい手が。
「ここで殺す」
 後ろから首を絞められても残念ながら人を殺すほどの力は出ないんじゃないかな。一番力がかかるところに脊椎があるわけで。それでも、彼の力が常人のものではないことぐらいはもちろん判っていて。だから徐々に呼吸が苦しくなって頭がぼおっとして来る。
 こういう時には下手に動かない方がいい。ただでさえ不足しがちな酸素を、無駄遣いしないためにも。
 後ろでガンバレードマーチがわずかに聞こえている。楽しそうなトーンが、やがて途切れるとともに手も離れた。
 流石に咳き込んだ。
 胸を抱えるように丸まった体を引き寄せられて。
「だめ。許さない」
「来ない。もう絶対来ない」
「だめ」
 その腕から逃れるために肘鉄を入れてやろうとする----その隙間から滑り込んだ手が茜自身に下りて来る。性急なほど煽るように。
「やめ……」
 口を開くのは止めなきゃならない。そうなってしまったら、結局意図せず甘ったるい声しか出なくなるから。ただでさえ足りない酸素を求めて肺が喘ぐように短い呼吸を繰り返す。
 爪が割れそうなほどシーツを握りしめる。
「我慢しなくていいのに」
 ひどく冷静な声は、やっぱり背中からしか聞こえて来ない。
 もしかしたらもう忘れているかも知れないほど、長らく彼を正視していない。その青の髪も、青の瞳も。いや、出来ないのかも知れない。自分の中にある----あったはずの、彼の笑顔の残像と、向かい合うことが怖くて。
 たとえそんな風でも、それでもひとりで夜を過ごすよりはマシだと。そう思ったら死ねなくなる。そうは思いたくない。思いたくないと頭の片隅にでも思うことすら、嫌だ。
 時々思う。かれにとっては芝村舞を抱かないことの身代わりでしかないんじゃないかと。
「ねえ」
 底冷えする冷たいトーンの声がする。
「僕は好きなんだよ? 茜が…」
 信じない。信じたくない。そんな風に闇に引きずり落とすような声で言われても。
 こもったような笑い声がうなじを這い始める。耳の後ろから首筋。かれに触れられるまでは慣らされてなかった----そこにかれが来る時の意図はひとつしかない。
 声は出してやらない。喉が引きつっている。意識を、指1本でギリギリ引き止めて、自分を、解放する。
「----声が聞きたかったのに。きっとかわいいのに……」
「う、るさ、」
 それはもう快楽とは遠くなった儀式のようなものだ。ただ疲れるだけの。自分から誰かに求めたことがないから、楽しむ方法を知らないからなのかも知れないけれど。
 茜が吐き出したそれをかれがまた茜の体に塗りつけながら。
「殺すよりこの方が君は苦しいわけだ」
 ひどく残酷な声。今この瞬間は、もうそこから逃げられないことは、知っている。

 いっそ彼女に告げてみようか? 自分の恋人が、何を慰み物にしているのか。
 彼女は信じないだろう。信じたとしても、速水が問い詰められて否と言えば茜より彼を信じるだろう。
 女なんてその程度だ。いつだって----そうだ。


「いい加減何か仕事したら? あんた何でも出来るんだから」
「姉さんには関係ないだろ」
「……全く。速水くんだっていい迷惑よね。ブラブラ仕事もしない無職に毎晩のように押しかけられて」
「うるさいなぁ」
「遅刻するでしょう、ほらっ」
 ぐい。
 森に手を引っ張られた途端に、少しだけ視界が揺らいだ。全身がだるい。一睡もしていなかったから当然だろうけど。何とか足で地を掴んで、立ち直す。
「朝からだらーっとして…」
 そう受け取られたらしい。更に激しく引きずられて教室まで連れて行かれる。
 仲がいいことねー、と原ににやにやとからかわれて2人で憮然とする。教室に入った途端に手を乱暴にふりほどいて、ようやく着席する。
 だるくて仕方がない。そのまま机にごちんと頭を預けてしまう。
「…何、もしかしてホントに具合悪いの?」
 上から再びの森の声。
 悪いよ。それを言うだけのエネルギーも使いたくないけど。
「…な、なんでそう言わないの…ほら、詰め所行こう」
 触るな。詰め所ぐらいひとりでだって行ける。立ち上がろうとして、肩が揺れる。
「意地張ってないでっ」
 森はためらいもせず脇から手を差し入れて茜を支える。周りが驚いているのは判るが、それに言い返すほどの気力もどうやら残っていないらしい。
 大人しく連れて行かれる。衛生官の石津か、あるいはヨーコか遠坂の仕事か、布団はちゃんと太陽の匂いがしていた。
 落下するがごとくの睡魔。その隙間に、授業に戻るからちゃんと寝てなさいよ、と言い捨てて走る姉の声が引っかかる。

 嫌なことを思い出していた。
 これが夢であることははっきりと意識している。何故なら、痛くないからだ。
 最初の頃は、それがただ苦痛でしかなかった。それでも、自分にフランソワーズが遺した財産はそれしかなかった。だから。
 ----その時のひとの表情は誰だってむしろ苦痛に近い。嫌がって首を横に振ることですらベッドではただの演出になり下がる。嫌だと言っても、やめろと言っても、それは相手を煽る道具にしかならなかった。
 涙で目の前が霞んで、細い悲鳴をそれでも押し殺すように耳元で囁かれる。唇を噛んで、ただひたすら耐えるだけ耐えて、朦朧とした頭の片隅で必死に計算している。
 この後どんな風にこいつに甘えてやればいいんだろう。
 そう考えている方がよほど建設的だった。
 少しずつ少しずつ、パズルのピースが揃って行く。芝村の研究機関。ありえない人工筋肉技術。前線に送られる部隊のひとつが「作られた」ものである事実、芝村直属の遊撃部隊。
 そこに、フランソワーズは手を貸した。後から集まった断片によればそれすらも予定されていたことではあるのに、それを裏切り行為とされて、故に彼女は----
 白く白濁した意識を、それでも決して宙に預けることなく、相手が正気を取り戻す前に、知りたいことだけ聞き出して、そして、豹変する。こんな小さな体の何処にそんな凶暴性を隠していた? そんなことを一様に言われる。殺されかけたこともある。綱渡りの間に、かろうじて命だけを守り、モノのように捨てられて、そしてまた次の家を探して歩く。
 ただひとつの財産は自分。フランソワーズがそれだけは芸術だと言ってあまり面白くなさそうに笑っていたっけ。
 忘れてはいけない。でも忘れたくて仕方がない。自分の「足」が浴びて来たたくさんの屈辱。
 茜は、自分は何処かで男というイキモノを自己同一出来ないまま成長させられて来たと思っている。他人と言えばフランソワーズしか知らなかった。そのフランソワーズですら、自分と彼女の境界自我が何処にあるのかなんて今でも実際は判りはしない。この意識は彼女で。この体も彼女で。茜自身の自我なんて、結局いじられた遺伝子にしか存在しないのかも知れない。だから、こんなにも憎いのにこんなにも愛しい。自分のオリジナルが剥奪されたから本能的にただ探そうとしているだけで、フランソワーズに会いたいなんて思っているわけでもなかったのだと思う。
 ここに来てまで何故こんな風になるんだろう。
 親友だと信じていた人間まで、スイッチを押してしまった、のだ。
 多分そうなんだ。そうつくられているんだ。それガいザといウトキノサイゴのセイメイセンダトアノオンナハオモッテイタノカモシレナイノゾンデスライナカッタノニソンナイキカタナンテコンナイキカタナンテ

 自分の悲鳴で目が覚める。咄嗟に目の前にあったのは白いシーツ。うつ伏せで寝るくせはそれが色々と都合が良かったからに過ぎない。そんなことまで頭を過ぎった途端、嫌な汗が噴き出した。喉が、引きつる。薄暗い視界がますますぼやけて行く。
 声を殺す。シーツを握りしめる。じわっと目の周りが熱く滲んで行く。
 泣いてしまいたかった。大声で泣いてしまいたかった。
 目を閉じたままだった茜の背中に、気づくと、何かが乗っている。そこだけが、温度が高い。
 ぎくりとする。誰かがいると思っていなかった。飛び跳ねるように上半身を起こす。表情が見えないレンズを少しだけ押し上げて、その人は、溜め息をついた。
「……ひどくうなされていましたね」
 隣に座っていたのは善行司令。その手は、子供をなだめるように少しだけ背中を叩いて、すっ、と離れた。
 離れたことで感じる温度の余韻。ただあたたかいだけの、てのひら。
「大丈夫ですか。石津さんが困っていましたんで、ちょっと様子を見に来てみたんですが」
「……なんでもない」
「そうですか」
 蛍光燈の角度が少しだけ変わった隙間に、ひどく優しい目がちらりと見えた。
「----手」
「はい?」
「さっきみたいに----」
 自分でも何を言い出しているのか、一瞬、わからなかった。
 善行は唇だけで微笑んで見せて、それから同じように手で茜の背中をそっとさすった。
「これでいいですか」
「うん……」
 目を閉じる。そのささやかな温度だけに、意識を集中する。
 自然にその間からまた涙が落ちた。どういう意味の涙なのか理解出来ないまま。
 善行の肩に額を預ける。一瞬驚いていたが、やがて善行はそのままそっと抱きしめるように腕を回して来る。父親が、幼子を抱くように、あくまで、優しく。
「……っく」
「----泣いて気が済むなら泣けばいいでしょう? 何があったのかは知りませんが……」
 ひくっ、と喉が鳴る。制御出来なくなる予感がする。それでも、やっぱり声を出したくなくて、わざと善行の肩口に自分の唇を押し当てた。手を伸ばして縋りつく。背中に、手を回す。
 ちょっと困ったような溜め息が茜の髪を揺らす。その後、また手が穏やかにノックする。
「誰にも話したりしませんよ。----それでいいでしょう?」
 いつしか茜の声は鳴咽していた。必死で聞かれまいとする意識はずっと働いてはいたけれど。
 決して自分が持つことの出来ない存在を、少しだけ理解出来たような気がしていた。
 ただあたたかなだけの温度。ほんとうにほんとうにささやかな温度。


part.2 / Intro

 チョコレート食べましたか?
 そう聞いたら少年は楽しそうに笑って答えるのだ。
 おいしい? 舐めたいなら、もっと舐めてもいいけど?
 そんな言葉遊びに翻弄されるほどこっちは子供じゃない。
 赤ん坊が母親にすがりつくように、ただこっちの温度を確かめて安心するように、ただ触れていたい、そんな風にしか思えない。多分誰でも良かったのだ。
 遺伝子的に存在することのない『父親』を求められているのだとしたら、その役割を演じることそのものは悪いことだとは思わない。ただ、茜は誰かと関わろうとする時にそれ以外の方法を知らずに育っているのだ。表面的な仮面で突き放すか、そうでなければ心も体も投げ出して全てをさらけ出してしまうか。もっと違うやり方はあると思えるのに。
 ねえ、僕ってそんなに魅力ないかなあ。
 そんなことはないですが。ただ私はそういうことにはあまり。ですから、ここまでで勘弁して下さい。いいですね。
 自信なくしそうだ。拗ねたように言う。手が後頭部に回って来る。引き寄せられる。チョコレートの味。
 そんな自信なんて必要ないですよ。あなたにはもっと他に出来ることがあるでしょう。
 そう笑って言う権利は自分にはないと思いながらも。
 この少年をここまで追いつめた一因は自分かも知れないと思いながらも。


part.2,善行,カタオモイノヤクソク

 フランソワーズ茜。その女性と最初に会った時、この少年はまだ人格すら持たない実験体----フランソワーズ本人いわく「肉の塊」----でしかなかったはずだった。最後に会った時は無邪気で甘えん坊で怖がりだった。次に会うまでの噂では、彼は転々と戸籍は移さないまま色々な家で養子となり、その間にひどく荒んだ人生と引き換えに大学に入り、この小隊が出来る話と平行するように大学を捨てた。それはもう、一体何処でそんな情報を、タイミングまで含めて手に入れたのかと驚くような正確さで。
 それが何処であるかまでは、善行は知らない。ただ、そうして来てしまったからには、マークせざるをえなかった。
 そしてそれとは別に、気にせざるを得なかった。
 彼は、母親は死んだと思っているのだろう。実際は確かに死んでいるようなものだが。いずれにせよ彼は復讐を決意してここに来たのだ。
 あの女----フランソワーズが、この息子のことをどう思っていたかは、知っている。それでもなお『母親』にすがり、微笑みかけ、邪険に扱われれば淋しそうにする、それは恐らくは母親がそうしたからに過ぎないのだろう。
 だれかの庇護。だれかの温度。そういうものに渇望させなければ、『絶望』は、訪れないから。その少年は最後まで材料でしかないのだ、セプテントリオンが「なにか」を作るための。
 その絶望にあの日自分が手を伸ばしてしまったのは、何だったのか今でもわからない。
 同情、あるいは罪滅ぼしか。善行がこの戦争に士魂号を巻き込みさえしなければ、フランソワーズは「消される」こともなかったかも知れないから。

 目の前に広げられていた書類に目を落とす。白の上に一筋のオレンジ。夕陽の残像。それを遮る影。
「手伝おうか?」
 嬉しそうに覗き込む、緑色の瞳。
「そんなに顔を近づけなくてもいいでしょう」
 知っている。眼鏡の奥の瞳が見たいらしいのは。ポーカーフェイスには、慣れている。身を引いて眼鏡を押し上げる。
 傍らに椅子を引きずって座り込む。いいとも否とも言わせないうちに、勝手に書類を整理し始めている。
 最近の放課後はいつもこんな調子だ。未だに何の職にもついていないなら他人を手伝うのはまあ悪くはないし、彼は多分作戦参謀辺りをやらせればそれなりにうまくやれそうな才もある。とはいえ、別に、こっちの仕事終了まで付き合っていなければならない義務があるわけでもない。仕事時間が終われば同世代の友人とつるんで遊びに行くなりする選択肢が普通だと思うのだが。
 ----例えば。
 開けっ放しの小隊長室の扉をそれでも軽くノックして、ぽややんとした顔が現れる。速水は、善行に軽く会釈すると、茜の元にやって来て。
「最近ずーっと司令の手伝いばっかりなんだね。整備も出来るんだし、調整手伝ってくれてもいいのにー」
「別に誰手伝おうと勝手だろ」
「まあ、そりゃそうだけどさ。ね、一区切りついたんなら、たまには一緒に味のれん行かない? お腹すいちゃって」
 ちらっと善行を見る。連れ出してもいいですか、と聞いているような気がしたので、別に構わないという意味合いで口元だけで微笑する。
「僕はすいてない」
「嘘、すいた顔してる」
 速水が正しい。さっきちょっとお腹鳴っていたし。
「もう仕事はあらかた片付いてますよ。食べに行ったらいいんじゃないですか?」
 善行も軽く後押しする。速水がにこにこと茜を見下ろして、「司令もそう言ってるし。ね?」
 茜はふと善行の方を見上げる。少し怒っている----わずかに目だけ泣きそうになっている。
 困惑する。友人と食事に出たらどうだと言うぐらいでなんでそんな顔になるのか。
「どうしたの?」
 まだ座ったままの茜の肩に速水が手をかける。
「行こ」
 少々強引に立ち上がらせる。
 ますます泣きそうになった目をこちらに向けたのは一瞬で----
 茜は、何やら楽しげに飼い猫の話など始めた速水に連れられて部屋を出て行った。

 ----引っかかる。
 本当にあらかた片付いていた仕事はそれ以上手を付けられないまま、小隊長室のデスクで善行はひとりで考え込んでいた。
 小一時間ほどそのままでいても、気になる以上の進展などあるわけはないので、ふう、と息をついて立ち上がる。
 部屋を出て、自分も何か腹に入れようかと味のれんへ足を向ける。今から行けば閉店ギリギリだろうか。
 通りかかった萌に、速水たちを見かけなかったか聞いてみる。彼女は首を小さく横に振った。学校にはいないらしい。彼女は気配が「見える」らしいので、いる時には、何処にいる、とはっきり指摘するからだ。
 お礼を言って味のれんへ。おやじにも聞いてみる。
「ぽややんとした子と、金髪の子ね。もうとっくに帰ったよ。泊まりにおいで、とか言っとったな」
「どっちかどっちにですか?」
「ぽややんくんが、金髪の子に」
「……そうですか」
 速水もまた気になって仕方ないんだろうか。茜の投げやりな孤独が。
 もしそうなら自分のような立場の人間よりも彼の方がずっとマシだと思える。同世代だから話しやすいだろうし。
 少々困ったことになったかな、と自問する。やっぱり茜には近づかない方が良かったか。いずれ母親のことを調べるうちに、こっちに『敵』として辿り着くかも知れないのに。そんな人間に向けて、あんな風にせつなげな目を向けるようになってしまうとは。
 速水あたりが、よき兄として彼の心に入り込んでいく方が明らかに健全だったのに。まあ、茜の例の「不器用さ」に巻き込まれて困ることはあるにしても。ちゃんと友人でいられる程度に恐らく速水は器用であると思う。
 善行は、今でも茜のキスを拒絶出来なかったことを何処かで後悔し続けている。それが、今の「距離」を決めてしまったことに。その時はただ、足元にじゃれて来る仔猫を払いのけ損ねたぐらいの意識でしかなかったのに。その仔猫にはそれが赦されていると思えたのだろう。受け入れられたのだと。
 無防備な仔猫は、苦手だ。動物のそれも、人間も。打算と陰謀で割り切れる関係の方が、付き合うには楽だから。
 味のれんを後にして、また再び小隊長室に戻る。ようやく、妙な引っかかりを振り払って仕事に集中出来そうな気がしていた。


 深夜を過ぎて、自分のアパートに辿り着いた時、そこにうずくまっている山を見つけて、善行は小さく溜め息をつく。
 膝を抱えていた茜が足音に顔を上げた。善行の姿を確認すると、ゆっくり立ち上がる。
「学校に来ればいいでしょう。わざわざこっちに来なくても」
「……うん」
「速水くんの家に泊まりに行ったんじゃないんですか?」
 その名前に眉をしかめる。
「……部屋、入らないのか」
「入りますけど……」
 君も入るんですか?
 という言葉は言い出せなかった。半開きになった唇が、そう寒いわけでもないのに、小さく震えている。
 黙って鍵を開ける。家主に続いて靴を脱いだ茜は、重いドアが閉じた途端に背中に縋りついて来た。やんわりとそれを払いのける。
「ソファに座っていて下さい。紅茶で、いいですか」
「何も要らない」
 近づいて来る手からわざと逃げるように奥へ。机に荷物を乗せると、キッチンに戻る。ティーポットに茶葉を落とす。
「要らないって言っただろ」
「私が飲むんです」
 台所でその手元をじっと見ていた仔猫は、「へたくそ」と吐き捨てて善行の手元からティーポットを奪って行った。「座ってろ。僕が淹れる」
 言葉に甘えておこう。その間は抱きつかれないで済むだろうから。嫌っているわけではないのだが、これ以上近づくと----というか、近づくのを許してしまうと、戻れない一線を超えることにつながりそうで怖かったのだ。茜の側は、多分躊躇しないだろう。こっちが線を引かなければなし崩しになる予感がする。
 いい香りが盆に乗せられてやって来た。さすが、というべきか。さして高い茶葉でもないのに。カップは2つ。
 善行の隣に、ためらいもせず座る。近すぎる。かと言って逃げても距離を詰められるだけなのは判っている。
 茜は両手に抱えるようにカップを持って、ソファに背を預けている。湯気の向こうにぼんやりした緑の目。
「----何か、用ですか」
「東京に、家、あるのか? ここに来る前に住んでた……」
「いえ、引き払って来ています。一人暮らしでしたし」
「その頃からこんなにモノがない生活してんの?」
「ええ、まあ。必要ありませんから」
「ふうん」
 カップに少しだけ口をつけて、テーブルに置く。前かがみになったその上半身が、突然糸が切れたようにぐらっと揺れる。
「----あか……」
 善行の膝の上に倒れて来た。
 膝枕とは新手だ。そんなことを冷静に考えたのはほんの一瞬。すぐに、その体温の高さに気づく。
「茜くん?」
 そっと額に手を当てる。わずかに汗ばんでいる。薄暗いままでいたので触れるまで判らなかった。
 このままでいる訳にも行かず、横抱きにしてベッドに運ぼうとする。茜の手が伸びて来て善行の首を引き寄せる。
「----離して下さい。横になった方がいい」
「うん……」
 肯定の返事ではない。ベッドに下ろしてもまだ手は離れない。
「離して下さい」
「……戻って……」
 か細い声。その息もひどく熱い。
「何処にも行きませんよ」
「うん……」
 ずるずると手が離れる。目を閉じる。
 ハンドタオルを湿らせて汗を拭いてやる。きっちり締められたネクタイを少し緩める。それ以上のことはどうにも出来ずに、もう一度ハンドタオルを冷やして額に。
 柔らかい髪を少し撫でてやる。その下で、茜は薄く目を開けて善行を見上げる。
「苦しい----」
 そう言って、自分の手でネクタイをほどいた。どうすべきか戸惑っている目の前でごそごそと上着を脱ぐ。額から落ちたタオルやら、ネクタイやらを仕方なく拾い上げる。制服の下のシャツのボタンもいくつか外して、ようやくまともに呼吸が出来ると言うように息をつく。
 タオルを戻してやる。
 月の光の中に浮かぶ、フランソワーズ譲りの真っ白い肌が嫌でも目に入る。半ばはだけた胸元と、うなじと。
 目をそらそうとして、その一点が何故か目に入る。無防備に寝返りを打つ間に、光にさらされる、赤と白のコンストラスト。
 アザ。傷。いや、キスマーク、だろう。すぐ消える類のものだ。だということは、逆に、そう時間は経過していないもの、ということ。
 ----まさかそんなことは。
 自分の仮定に気分が悪くなって頭を振る。だが、振り払おうとすればするほど、小隊長室での引っかかりが、今しがたドアの前で見せた『速水』の名前に眉根をひそめた顔が、浮かんで離れなくなる。
 次は善行が眉をひそめる。
 茜はこの小隊に来ればそんな日々とは違う日常が送れると思っていたのに。無職同士で滝川とはよくつるんでいて、速水は何かと茜の世話を焼きたがって、端から見ていればそれは微笑ましい親友としか見えていなかったのに。
 そんなことはありえないとは思うが----だとしたら、誰が? 味のれんのおやじの目撃証言もある。直前まで一緒にいたのは、速水のはずで。
 ----手の下の少年の呼吸が穏やかなリズムを刻んでいる。完全に寝入ってしまったらしい。善行は無理に思考を切る。そんな可能性を少しでも考えてしまったことに苦笑する。
 ソファに身を埋めて、目を閉じる。その領域はプライヴェートだ。そこまで干渉は出来ないと、善行は思っていた。

 朝、目が覚めた時はまだ茜は眠っていた。
 生ぬるくなったタオルを取って額に触れてみる。熱は下がったようには感じられる。すぐに、気づいたように頭が動く。反射的に手を引っ込めた善行の目の前で、眩しそうに緑の目が開いた。
「大丈夫ですか」
 のろのろと上体を起こす。
「汗…気持ち悪い」
「シャワー浴びたらどうですか」
「うん……」
 その場で服を脱ぎ始める。少々慌てて目をそらす。
「脱衣場はちゃんとありますよ」
「きもちわるい……」
 結局、ベッドに全部脱ぎ捨てたまま全裸でバスルームに歩いて行く。
 服を一式、バスルームに置いてある籠に入れてやる。カーテンの向こうでは、ただ流れる水に打たれて身じろぎもしないかのような静かな水音だけがしていた。
 自分の身支度もする。善行も軽く汗を流したい感じはしていた。
 また紅茶を入れる。トーストでも焼こうか。2枚の食パンと2枚の皿を準備して、セット。
 ----そのパンが飛び出して来ても、シャワーの水音は止まらない。
 いい加減遅刻してしまう。
 バスルームを開けて、声をかけようとした善行は、そこで数瞬、動きを止められてしまった。
 カーテンの四分の一ほどの隙間から立つ湯気の向こうで、茜はシャワーヘッドを手にしたまま座り込んでぐったりとしていた。
 善行が湯を止める。それに気づいたように緩慢な動作で善行を見上げる。
 目のやり場に困って顔をそらす。
「具合が悪いなら、今日は休んだらどうです。ここで良ければ、家の方には私が連絡をしておきます」
 茜の方を見ないままで言う。手近に置いてあるバスタオルを引き出して渡そうとする。タオルが引っ張られた感触に安心して手を離す。ぴしゃぴしゃと小さな水音と布ずれの音を聞きながら部屋に戻る。
 だらしなく制服のシャツを羽織っている茜のために、少しは楽だろうと部屋着を出してやる。だぼだぼだろうが。
 彼はそれに着替える。白と赤。視界の端の背中にまで、ひどく生々しいそれが点々と続いている。
 善行もシャワーを浴びる。時間もないので早々に引き上げて来ると、茜はトーストをもそもそとかじっていた。善行も手を伸ばす。くわえたままで荷物の中身をちらりと確認する。
「----善行」
 喋れないので、目で応える。茜は、ふっと突然今にも泣きそうな顔になった。あの時、速水と話していた時に見せた瞳。
「僕がここにいることは、誰にも…言わないでくれ。森にも」
 なぜですか。目だけで言った言葉は通じたらしい。それでも、首を振って、「理由は言えない」とだけ呟いてまたパンをかじり出す。
「……速水くんにもですか」
 パンを一時解放して、つい、聞いてみてしまう。
 唇がかすかに震えた。そこから出た言葉も震えていた。
「……特に、言わないでくれ。速水には」
 わかってしまった。そうだとしか見えなかった。
 茜は、速水に怯えているのだ。
 なぜ?
 ----ひどく嫌な気がした。----否定したかった仮定を、否定する材料を減らされたような。


 それから数日、茜はずっと善行の部屋にいた。
 ソファで寝ること自体は別に辛くはないのだが、さすがに何日も続くと体が痛くはなる。かと言って、今の茜に対して出て行けと言える雰囲気ではなかった。
 しばらく経てば気も済むだろうと善行は安易に考えていたのだが、数日後に大きめのボストンバッグが部屋に増えたのに至っては、さすがに一瞬閉口する。
「…いつまでいる気なんですか、家に連絡もせずに…」
 あんな顔で言うなと言われたからには、律義に言わずにいておいたのだが、このままずるずるとこんな状態が続くのはいいとは思えない。そもそも、学校にすら出て来ないのは「委員長」としての立場がない。周りに、「委員長は何か聞いてないのか」と質問されて、そのたびにごまかすのもいささか疲れて来ていた。
 茜はベッドの端に座り込んだまま(そこが最近の定位置だ)、何も答えなかった。
「また放校されたいんですか」
「……違う」
 とんっと軽い足音を立てて茜がベットから立ち上がり、近づいて手を伸ばして来る。腕をつかんで、じっと善行を見上げている。
 ----どうしようもない。
 そんな風に弱り切った目で見上げられることにはまだ慣れない。
 溜め息をついた途端に、こつんと頭を善行に預けて来る。
「----背中……」
 あの時のように。
 その言葉が聞こえたわけではないが、そっと背中に手を当てる。それこそ仔猫をあやすように撫でる。善行の胸元で、穏やかな呼吸が細く長い吐息に変わる。安堵、という名の無言の言葉。
「帰って来ないかと思った」
「……どうしてまた」
「嫌がってる」
 その質問はずるいですね。そうは言えないまま、
「そんなことはありませんよ。理由を知る権利ぐらいはあると思いますが」
「…………」
 ぎゅう、と腕を握る手が強くなる。
「気分のいい話じゃ、ないよ」
 話す気になっただけマシだろう。それに、善行が考えてしまった以上に、気分の悪い話があるとも思ってはいなかった。

 ソファに場所を移して隣に座る。甘えるように肩にもたれかかって来る茜にどうしようかと思っているうちに、ずっと背中にいた手を茜自ら後ろ手に引き寄せる。脇腹に手を回す格好になる。置き場所に困って宙に浮いた手の先を握る。そのまま、太腿の上に落とされた。
 準竜師を暗殺しようとした話は一応耳に入ってはいる。その咎を全く受ける様子がないのも、確かに不思議に思ってはいた。茜は、息を止めたまま長いこと逡巡した後で、吐き捨てるように言った。僕はこの戦争の間に殺されると。その刺客こそが、速水厚志だと。
 思いもよらない話ではあった。仲が「良すぎる」ぐらいと思っていたのに。
 ----芝村は用意周到だからね。決して、速水が殺した、という痕跡を残さない方法を、慎重に考えていると思う。あとはヤツがいつそれを実行に移すか、それだけだ。でも、速水は。
 言葉が、途切れる。
 その先にそれがあることは判っていた。小さく続く、赤。
 ----速水は、僕が芝村を……あの芝村舞をそれに利用しようとしたことが許せないと言った。
 ----ただ殺すだけなんてそんなの甘過ぎると言った。
 ----徹底的に侮辱してやらなきゃ気が済まないと言った。
 ----そして好きだと言った。
 ----僕の足も、この顔も、声も、髪も、緑の目も。嫌がる手も、震える背中も、喘ぐ胸元も、白い白い肌も。
 茜の指先に力が入る。善行の手を、必要以上に自分の足に押しつけて、そろそろと動かしている。意識せずとも、そのやわらかな感触をまさぐる形になる。
「----やめて下さい」
 冷静に抗議して手を抜こうとして、思ったより強い力で抗われる。
「どう思う?」
「どうも思いませんよ」
 さすがに声に怒りが混じった。それでも、くすくす笑う茜は手を止めようとはしない。
「速水はもったいないって言ってたけどね、ただ、殺すのが。
 ----いや違うな。判っていたのかも知れない。
 別に死ぬことなんてあの時から怖くなかった。成功しても失敗しても僕は芝村に消されると思ってたし。どうせ、僕自身だってヤツらに消され損なって生きて来ただけだ。『僕』という実験体がずっと生き続けていることはヤツらにとって都合がいいことなんかあるはずがない。
 善行は知ってるんだろ。僕が、ののみタイプや若宮にむしろ近いって。この姿で生まれて、成長を阻害されて、人よりずっと遅い速度でしか生きられないカラダだって。
 消され損なったモノを消すことにヤツらがためらうはずがない。覚悟していたから、速水は知ってたから、だから、ただ殺すことを選ばなかった。それはある意味僕が望むことだから。
 もしかしたらあいつは僕が自殺すればいいって思っているのかもね。いや、むしろそうした方がいいのかな。未練なんて、何もない。今の僕には、生きている価値なんて、ない」
 笑いながら淡々と話す。
「----それとも、価値、あるかなあ……ねえ、どう?」
 手が、更に奥へと善行を連れて行こうとする。手荒な真似をしたくはなかったが、反射的に自由な方の手が動いた。無理に体を引き剥がす。茜はソファに倒れて肘掛けに頭をぶつける。
「…………」
「…わかりませんね。別に強制されているわけじゃない。『泊まりに来い』と言われても行かなければいいだけでしょう」
「…………」
「殺されるのが怖くないなら、殺されてしまえばいい。そんな状態に甘んじている必要などないでしょう」
「…………」
「本当に死にたいなら死なせてあげましょうか。私はそれが出来ます。君をスカウトにして、敵中への進軍を命じればいい。あとは、君に本当に死ぬ勇気があるかどうか、それだけです」
 気絶したのだろうか。
 そう思うほど長いこと彼は動かなかった。
 やがて、その肩が先に動く。小さく、揺れている。
「----僕が逆らえば、姉さんが、殺される……から……」
 泣き声は聞こえないが、多分、泣いている。
 森精華…。士魂号の生体部品のことを探ろうとしているが故に芝村からマークされている小隊メンバーのひとり。その言葉が茜の口から出て来た途端、善行の中に奇妙な悲しみが満ちて行く。
 この少年は。この少年は。何処までセプテントリオンの思うがままに操られてしまうのだろう。
 その死すら、この少年のために用意された引き金のひとつでしかないのに。
 『その』役割が速水にすげ替えられた理由は見えないが、それはまた、別の狂気への序曲と思えなくもない。あるいは芝村舞の死がない代わりに、用意された別の歴史のパーツなのか。
「僕はどうでもいい、僕の命なんて……、姉さんだけは、巻き込みたく、なかっ……」
 ただの歴史の人形が、そこに反旗を翻すことも出来ないとは言えないな。
 心の中でだけひとりごちて、倒れた茜の半身を起こしてやる。濡れた緑が振り返ると同時に、再び肩口に縋りついて来る。払う気になれずにそのままでいるうちに、ひくん、と鳴っていた喉が徐々に落ち着いて来る。
「----秘密を知ったからには……」
 耳元でそう呟いて、茜が善行の脇腹に腕を回して来る。さすがに少しぎくりとするが、それ以上何もなく、ただ仔猫が甘えるようにまた額をすりつけて来るぐらいで。
「しばらく、ここに----」
 置いて欲しい、という語尾は消え入りそうに小さかった。


 速水の提案で屋上で弁当を広げる、のんびりした昼下がり。目の前には、自作の弁当の評判を気にする芝村舞と、それをからかって面白がっている速水と、そんな2人を苦笑しながら見守っている瀬戸口の姿があった。
「私はただ努力の結果を確認しているだけなのだから、素直な感想を言うが良いっ」
「言うが良い、って、命令されてもなあ…」
「でででではどのように言えばいいのだ」
「こう、上目遣いで、かわいーく、『おいしい?』って聞いてくれたら……」
「………………」
 目を白黒させながら、それでも、「う、うむ」と何やら決意して、ぽややんとした速水がやって見せたように、じーっと上目遣いで、速水を、……
「……それじゃ睨まれてるみたいだよ、舞……」
「わ、私は、かわいく、などという、ことは」
「ねえぇ、おいしいぃ?」
 速水は突然、ターゲットを瀬戸口に変えて、鼻にかかった甘ったるい声で上目遣いにそう聞いている。瀬戸口がにたにたしながらその悪ふざけに乗ったように、
「うん、もちろんだよ。君の作るものなら、なんだって」
 などとひとしきりアツアツカップルを演じて見せる。その横にいた善行も、巻き添えを食らう。
「こんな感じですよねっ、やっぱり」
 同意を求められて困り果てて苦笑する。
「善行は反対しているではないか、そなただけであろうそんなのが好きなのはっ」
「あれー、俺も好きだけどなあ」
「瀬戸口もどうでも良いっ」
「あらら」
「えぇー、僕が好きなのにやってくれないのー?」
「やるとかやらぬとかではない! ただ私は弁当の感想が知りたいだけなのだ! さっさと言え!」
「そ、そんな言い方されたら怖くて答えられないよぉ〜」
 しゅん、とうなだれる速水に、慌てたように芝村が手をかける。
「す、済まぬ、つい……その……あの……」
 下から心配そうに覗き込む。いつもの自信に溢れた彼女とはまるで違う表情。
「ただ、芝村ではあまり自分で料理する機会に恵まれてなかったのだ。きちんとレシピ通りにしたつもりでもなかなか、家政婦が作る味と同じにはならぬ。だが家政婦が言うには、それが手作りの調味料ってもんなのよ、とかいうことを言って、そのまま持って行けと言うから持って来てだな、だから、その栄養価は完璧なのだ、原材料は1日30品目が良いのだ知っておったか? いやそんな話はどうでも良い、とにかく、味の方が、その、そなたの、口に、合うかどうか、それが心配で----」
 その一瞬後に。
「----今の、かわいい。合格」
 速水の呟きとともに、ちゅ、と小さな音がした。がばっと起き上がった彼女の頬に小さなアザ。
「ば……ななななにをする!!!」
「何って、キ……」
「行為の名前ではないっ!!! 人が真剣に話しておるのにそなたは何を考えてっ……!!」
 がたん、と、椅子代わりのプラスチックケースを鳴らして、どすどす音がしそうな足音で彼女は屋上を出て行く。
「あー、待ってよ舞〜、ごめん、ごめんってばぁ〜! お弁当、おいしかったよぉ? だから機嫌直してよー」
「もう遅いわっ!!」
「舞ぃ〜」
 今度は速水の方が甘ったれた声で慌てて追いかけて行く。
 後に残された男2人。
「----やんなりますね、全く」
「まあ、仲がいいことは悪いことではないでしょう」
 善行も立ち上がる。
「さて、学校ごっこに戻りましょうかね」
 歩き出した後ろから、瀬戸口の声が届く。
「そう言えば、しばらくあの金髪くん、見てないですね。前は芝村の姫さんと同じぐらいよく速水とつるんでいたけど」
 答えないまま教室に戻る。瀬戸口の方もそれ以上は追求しようとはしなかった。この小隊での茜の位置というのは、誰にとってもその程度のものであるらしいことは徐々に判って来ていた。もちろん、速水と滝川は例外であろうが。

 授業を終えて職場に戻る。どちらかと言えばここの方が「戻る」感じがしている。
 明日も召集してこちらから出るか、と各機の整備報告書を見ながら考える。積み重なった書類を繰りながら、しばらくは頭の片隅で戦場のマップをシミュレイトしている。
 昨日は被弾させることもなく済んだ。それが明日も同じという保証はないが。それでも、戦うことなくしては前には進めない。
 窓の外の光が動く。夕陽のオレンジは部屋からゆっくりと抜けて行く。夜の闇の色が濃くなる頃、加藤は肩が凝った声が嗄れたと文句を言いながら後片付けを始める。
 お先しますぅ、というその声が出て行ったその後は、しん、と静まったたったひとりの空間。加藤があちこちに電話をかけたりしなければならないせいで、実はここから先の方が集中出来るのだ。
 常備されている電気ポットで湯を沸かして、コーヒーを淹れる。
 その湯気の向こうから、またあの顔がひょこっと覗き込んだ。
「……うーん……」
 速水だ。
「どうかしましたか?」
「最近、茜、来てないですね」
「ええ」
 書類に目を戻す。
「司令、何か聞いてます?」
「いえ、何も」
 目を落としたままで即答する。
「……司令らしくないんですね、まるで部下の生死すら気にならないみたいな顔じゃないですか。少しは心配してくれてもいいのに」
 ----珍しく突っかかる言い方をする。眼鏡を押し上げてちらりと見上げる。いつものぽややんとした顔が少し不満そうに膨れている。
「どういう意味ですか」
「心配するする必要がないからですよ。そうでしょう、司令」
 じっと善行を睨みつけて。
「何を隠しているんですか、司令」
 それはこっちのセリフでもある。あの状態の茜の言うことが全て本当との保証はないが、全て嘘とも思えない。
「隠していることなら山のようにありますよ。私の知ることをいちいち全て部下に話さなければならない義理はありません。司令官とはそういうものです」
「はぐらかさないで下さい。茜は、あの事件以来精神的に少し弱くなっているんです。僕は力になりたいって思っているだけなのに…親友なのに、避けられてばかりだ。その上、行く先を告げもせずに何処かに----」
 書類から、目を上げる。
 どちらが本当の彼なのだろう。茜の言う刺客と、ここで友人を心配する顔をした少年と。
「何があったんですか、茜に。あんなことの後だから----芝村に……」
「何も聞いてはいません。それに、芝村の動向なら今は私よりあなたの方が近いはずですが。芝村厚志くん」
 一瞬、瞳が歪む。
 アルミの扉が軽い音を立てて動く。次に聞こえたのは鍵のかかる音。息をつめるような突然の緊張感。目の前にいたぽややんとしていたはずの少年は、みるみるうちにひどく気違いじみた恍惚をその顔に浮かべて、それまで後ろに回していた手を、出した。
「だから聞いている。善行」
 黒く光るサブマシンガンの銃身。
「お前に何が出来る。何故守ろうとする。お前も、いやお前こそが茜をここに追い込んだ張本人だろうが?」
「…………」
 ラボから脱出した当時の彼はきっとこんな顔をしていたのだろう。誰かを殺すことに罪悪感よりむしろ快楽を見出すほどの、世界への、憎悪。
「引き渡せ。そうしなければ死人が増えることになるだけだ」
 森、か。
「----何故、こだわるんです」
「舞を利用しようとした罰だ。彼女を害するものは全て俺がやる」
「…………」
 眼鏡を、押し上げる。
「浅いですね。そんな風にあっさり本性を出す程度だとは思っていませんでしたが」
「何処まで知っている」
「いえ、何も知りません……が」
 鈍い振動とともに喉元に冷たいものが押しつけられた。
「----無理でしょう。私がこんな所で死んでいたのではさすがに隠し通せない」
 顎をじりじりと這うように動く銃口の向こうで、速水は同じ質問を繰り返す。そして善行もただ同じ答えを返す。
 何処まで知っている----何も、知りはしない。
 殺意はある。それでも引き金が動かないのは、あの頃に比べればまだ理性が勝っているということだろうか。
 かちゃ、とアルミのドアが音を立てる。誰かが入ろうとしているのか。訓練のためか何かで。
 すっと落ちた銃口はそのまま床に落とされた。軽く蹴る。机の下を滑って、善行の足元にぶつかる。
 そのまま速水はドアの鍵を開けた。カラカラと軽い音を立てて動いた扉の向こうにいたのは、
「にゃー」
 猫。そして、そのそばに立つ、石津。
「何か用ですか」
 石津は、ちらりと室内を見回した後、首を小さく横に振ってそのまま立ち去った。
 気づいたのだろうか、その気配に。----助けに、来た?
「-----僕は、生き方を変えますよ、司令」
 ドアを見つめたままの背中が、ぽややんとした明るい声でそう言った。
「変えます。この手だけは、使いたくはなかったんですけどね」
 闇に紛れて消える背中を見送りながら、善行は目を閉じる。
 どうすればいい。
 いずれそれが判れば恨まれるだけなのに。
 差し伸べた手を今更引けば、そのまま彼は堕ちるたろうが----
 どっちかマシだろう。今、突き落とすのと、後から突き落とすのと。
 それでも少しでも生き長らえるだけ後者の方がいいだろうか。
 それとも、死を望む彼にすれば、前者の方がむしろ安らぎには近いのだろうか。

 目を開く。ひとつの決意をして、通信機を取る。
 それであの少年が善行を恨むことになっても。あるいはその恨みをこちらに向けることになっても。今、目の届く距離で死なれるよりは幾分か気が楽だと思えた。
 否、もしかしたら、何処かで、彼に生きていて欲しいと思っていたのかも知れない。自分が彼をここに呼んでしまったから、こんな哀しい現実に、巻き込んでしまったから。
 そのために自分が出来ることを。
 ----間に合ってくれ、と、誰にともなく願いながら。


part.3 / Intro

 舞には、意味が判らなかった。その判断材料になるようなことをやすやすと話したがる男ではないのは判っていたが。
 腕を組んで立っていた舞の前で、相変わらず表情の見えない顔で善行は告げた。出来れば、あなたに以降を任せたいと思うのですが。
「……我らのような『嫌われ者』が、この未熟な隊を指揮出来るとも思えんが」
「人気のある人間や優しい人間は指揮は出来ないものですよ。少々反発されるぐらいでちょうどいいんです」
「……それは、褒めてないぞ」
「……まあ私も同類ですから」
 手の中に渡された辞令。司令の代理指名書。自薦で速水が司令になることを決意した報告もあったのだが、善行が後任にと指名したのは、舞だった。そのため、速水の陳情は却下されたらしい。彼は、相方不在の複座パイロットに籍を戻されていた。
 舞は少しだけ片眉を上げただけで、
「まあよい。いずれにせよ自然休戦期までの間であろう?」
「そうですね」
「我らの財と発言力があれば乗り切れるということではないのか?」
「それもありますが」
 のらりくらりと。掴みどころがない。今はこれ以上は何も聞き出せはしないだろうな。
 本田が近づいて来る。校門の前に止まる黒の車。舞が振り返り、歩き出したその後ろで、善行は、親しかった人間たちには何も知らせることなく熊本を去った。


part.3,舞,ミエナイウラギリ

 放課後、小隊長室に足を踏み入れる。小綺麗に片づけている報告書をいちいち確認してから、椅子に座る。
 そこには司令に目を通されることを待っている書類が既に溜まっている。取り上げて、目を落としたその時に、小さなノックの音がする。
「舞」
「----ああ」
 速水か。自然と表情が緩くなる。唯一、この小隊で舞が心を許せる相手。父と同じでこちらをからかうのが好きらしいのが玉にキズではあるのだが。
「また突然だったね。舞が司令官かあ…」
 近づいて来て、通信機の椅子を引き寄せて座る。
「ちょっと残念だなあ…舞と同乗出来なくなっちゃうのは」
「そうだな」
 それは舞の方も残念ではある。操縦者相性の良くない者が複座を操るのは非効率だ。
「その言い方」
「なんだ」
「操縦者相性の良くない人同士が乗ったら効率悪い、とか思ってる?」
「その通りであろう?」
「----舞」
 不機嫌そうな上目使い。
「なんだと言うのだ」
「僕は、一緒にいられる時間が減って、淋しい、って言ってるのに」
 またそのようなこと、と言い出すより前に顔が火照って行く。
「からかうでないっ」
「からかってなんかいないよ」
 机に肘をついて、その頬杖の上から、楽しそうな顔で速水は舞を見つめている。
「そばにいたいからね、ずっと。----僕、事務官に配置換えしようかな…」
「ぎ、技能訓練もせずになななななぬを、いや何を言い出して…、そ、そんなじっと見られていたのでは仕事にならぬではないか持ち場に戻れっ」
 書類に集中しようとして目をそらしたその頬に、ひんやりした指先が触れる。
「ははは速水」
「あったかいね、舞は」
 ふわふわと、頬や耳の辺りをくすぐるように往復する。無意味に心臓が高鳴る。触れられるだけで、どうして自分はこうなるんだろう、といつも思う。父はこんな時どうすればいいかを教えてはくれなかった----
「お取込み中申し訳ありまへんけどー」
 その声が今は救いに感じる。速水は残念そうにすっと離れて行く。
「か、加藤、ちょうど良かった、そのあのこれから色々と世話をかけるが、」
「はいはい。でもここうちの仕事場でもあるんでそこのところをお間違えなく」
「私は判っておるっ、は、速水、加藤もこう言っておることだし、その、なんだ」
「うちのせいにせんで下さい、委員長」
「………あ、いや、その」
「後でね、舞」
 速水はしれっとした顔のままで立ち上がる。椅子を戻して、そのまま最後にご丁寧ににこーっとこっちに微笑みかけて出て行った。
「…姫さん…」
「あ、いや…済まぬ。あいつは、どうも…」
「いやー、芝村のイメージ崩れるわ」
 …加藤はくすくす笑いながら、事務官デスクに座って自分の仕事を開始する。舞もまた、ぽややんとした顔を頭の中から追い出そうと頭をふるふると軽く振った。


 異動報告書。その文字を見て舞は首を傾げる。確かに随分長いことあの少年は無職だったが。あの体で、スカウトが勤まるのだろうか。
 朝、転属を告げられた茜は、心ここにあらずといった茫然とした顔で命令を聞いていた。
 ひどく生気のない顔をしている。一司令官としては、「駒」にも出来ない類の顔だ、と舞には思えた。
 かと言って、その陳情が誰から為されたものなのかの記述は見当たらない。ということはつまり、自薦、なのだろう。自分でやりたいと言うものを、わざわざやめろと言うわけにも行かない。せいぜい「使い方」を考えなければならないか。そう内心でひとりごちて、教室に下がらせた。


 司令の仕事は自分の仕事成果だけの問題ではない。この小隊全体の仕事評価を左右する。少しでも滞ってしまっては次には進まない。書類決裁など自分のやる仕事ではないと半分は思いながら、しかしそれを知らなければ部隊を把握しているとは言えないから、目を通す。
 深夜に近くなる。空気の匂いが変わったことに気づいて窓を見る。雨。
 小隊長室を出る。雨の中を歩く。校舎の屋上へ。
 司令になってからの仕事量の多さに----しかも単調で変化の乏しい仕事だ----、さすがの舞も疲れていた。少しだるい。頭の中に霧がかかっているような気がする。もしかして熱があるんだろうか。見上げて閉じた瞼に打ちつける雨すらも、冷たくて気持ちがいい。
「----舞?」
 少し焦ったような甲高い声。そのまま何も言わずにいると、やがて背中からぎゅっと抱きしめられる。
「速水か。何をしている」
「それはこっちのセリフだよ。雨の中でこんなトコで…風邪引くよ?」
 後ろから額に手を押し当てて来る。その手はひんやりしている。
「熱いじゃないか、舞…。いつから?」
「そうか?」
「舞…飛ぶけど、いいかな」
「構わぬが、何処に----」
 行く気だ?
 尋ね終わるより前に、速水の部屋に辿り着いていた。
「シャワー浴びて。少し体をあたためなきゃ。おかゆ、作るから。聞いてる?」
「うむ……」
 そう矢継ぎ早に心配されたことで初めて、自分の体調に気が向いた。確かに少し体温が高いか。頭痛もしている。
「あ……、考えてみたら、舞の部屋の方が良かったかな」
「いや、良い。私の部屋は……その……」
 速水のこの小ざっぱりと片付いた部屋に比べると、舞の部屋は物凄い惨状と映るに違いない。片づけるとか整理するとかいうことがとことん苦手な舞は、時計だのリモコンだのの電池を取替に来るののみにすら「めー」と怒られてしまう有り様なのだ。
「また凄いことになってる? 舞は本を買い過ぎなんだよ…」
「………」
 返す言葉もない。
「とにかく、シャワー。ね?」
 バスルームを指差される。重い体を引きずって、そこに向かう。

 嫌な火照り方をしている頭が、熱いシャワーのせいでますますぼおっとしている。それでも、熱がある時は汗をかいて体温を下げた方がいいと家政婦にもよく言われていたし、恐らくこれで良いのであろうな、とは考えている。
 遺伝子的な病を抱えている舞は、小さい頃はよく熱を出したそうだ。その記憶は、もう自分には全く残ってはいないのだが。
 着替えがあるわけでもないので、少々大きいが速水のスウェットを借りて着る。速水が甲斐甲斐しく用意したクッションにへたり込む。
 その速水は、台所へ戻ってから、小さな土鍋を運んで来る。
「熱いから気をつけてね」
 猫の柄のついた鍋つかみがその蓋を取った。ほかほかと湯気が上がる。
 渡されたレンゲでおかゆを口にする。食欲はあまりないが、目の前で全身心配の権化のごとくの表情で覗き込んでいる速水の手前、食べないわけには行かなかった。
「おいしい?」
 おまけにそんなことを聞く。
「言わねば判らんのか。もう何度も言っているであろうに……」
「何だよぉ、僕には、お弁当の感想を言えって散々迫るくせに……」
 ……あ。
「僕は舞の作るものなら何でもおいしいって何度も言っているのに、でも、毎日のように聞くじゃないか……」
「そ……そうだな……」
 料理をする者にとって、それを食べる者がどう思うかは気になるものなのだな。
 自分が料理する側に立たなければ、それに気づくこともなかっただろう。
「……おいしい?」
「う、うむ。熱過ぎる冷た過ぎず、固過ぎず柔らか過ぎず、ほんのりとした塩味と米の甘さのバランスがだな、なかなかその、なんだ、」
「舞……」
 目の前で速水は堪えきれなくなったように突っ伏して笑い出す。
「な、何か変なことを言ったか?」
 しばらくして顔を上げると、すうっと微かに目を細めて、その手を舞の頬に伸ばして来る。
 慈しむように、ふわふわと撫でられる。こうされることに、ひどく弱いのを知っているくせに。
「オイシイって言ってくれればいいんだ。もちろん、マズければマズイって言って欲しいけど」
「そ、そういうことなら…」
 熱とは違う火照りが頬に宿る。目を見ていられなくなり、たまらず俯く。それでも、彼の手はそこから離れなかった。
「……お、おいしい、が」
「良かった」
 名残惜しそうに手を離す。
「冷めないうちに食べてね。そして、ゆっくり休んで。シーツはちゃんと交換してあるから、ね?」
「そなたのベッドでか? そなたはどうするのだ?」
「ソファで大丈夫」
「それは……いくらなんでも……」
「じゃ、一緒にベッドで寝ようか?」
 罪もない顔でしれっと言う。舞は自分の顔が一際壮絶に真っ赤になっているだろうことを、意識する。
「なななななぬをいきなり言い出すのだそなたはっ、そっ、それはそのあれであろう、壬生屋が良く言うところのフケツとやらではないだろうな? ヘンな想像をするでないと言っているであろうっ」
「ヘンな想像をしているのは舞の方だよ? 病人にそんなことするわけないよ」
 物凄いムッとした顔をしている。本気で怒っているようだ。
「……済まぬ」
「じゃ、一緒に寝ようか?」
「……本気なのか?」
「同じ部屋にいるのに、離れて眠るなんて淋しいよ……僕はカダヤなんでしょ?」
「……わ、わかった」
 おかゆを食べ終えて、速水が台所で食器類を片づける間に、横になっていて、と促されて、髪をほどいて速水のベッドに入る。まっさらのシーツ。少し糊が効き過ぎているところを見ると新品だったのだろうか。
 うとうとしかけていた耳元に、僕もシャワー浴びて来るから、と言われたような気がする。
 だが、それっきり舞の意識はあっさりと睡魔に負けてしまった。

 次に気がついた時には、枕元に見えた時計は朝方の時刻。
 首筋にかかる風が速水の寝息だと意識した途端にまたかああっと体温が上がる思いがする。
 だが彼の言葉に嘘はなかったようだった。背中から腕を回して抱き寄せるような体制になってはいるが、それだけだ。着衣の乱れもない。
 でもその距離ですら、今の舞にはひどく恥ずかしくてならない。もぞもぞと動いて逃れようと試みるが、速水がむにゃむにゃと何事か呟いたのでぎくりとして動きが止まる。
「----舞……」
 と、聞こえたように思った。
「なんだ?」
 小さく、答えてみる。
 すう、と寝息が再開する。寝言か…。少しだけホッとする。
 夢の中でも自分に呼びかけてくれているんだろうか。そう思うと、胸の内にあたたかな想いが広がって行く。
 ----いつもそなたは私のことを考えてくれているのだろうか。眠っているその間でさえも----
「----僕が……守る……から……」
 寝言でまで、速水はそんなことを呟いて、そして、起きている時よりはいささか弱々しくはあれど、腕が舞をぎゅうと引き寄せる。
 ----たわけ。私はそなたに守られているだけの女ではないぞ。
 その手に、舞は自分の手を重ねる。そっと握りしめる。
 ----だがその心は嬉しい。戦えと育てられて来た。私を守ると言ってくれたのは、この男が初めてだった。
 感触に気づいたように、舞の後ろで寝息が少し含み笑いをしていた。
 そのまま、不思議な安堵感とともに、また睡魔に引き戻される。


 そのまた次に目が覚めた時には、速水はいなくなっていた。
 時計を見て、窓を見て、納得する。丸1日を無駄にしてしまったようだ。時刻は再び深夜。
 ひどく汗をかいているが、そのせいか、ぼんやりとした不快感は綺麗になくなっていた。
 速水はまだ学校で仕事をしているのだろう。昨日は、自分の看病のために途中で切り上げさせてしまったのだ。取り戻そうとするのは当然と言えた。
 そしてそれは自分も同じだ。ゆっくりと起き上がり、軽くシャワーを浴びて、髪をきゅっと結い上げる。
 テーブルの上に、土鍋が再び置かれている。お腹すいたら温め直して食べてね、という置き手紙が隣にある。開けてみる。少々の野菜の入った雑炊。途端に空腹を意識して、ありがたくそれに従うことにした。
 コンロでとろとろと加熱する。ぐつぐつと音を立て始めた頃に火から下ろし、黙々と食べる。
 一度誰かと食事することに慣れてしまうと、独りは淋しいものだな。内心だけでひとりごちつつ、綺麗に平らげた。
 速水は舞の制服の洗濯までしたらしい。すっかり乾いて綺麗に畳まれたそれに着替える。
 テレポートで小隊長室へ。溜まっていた書類に目を通す。久し振りに熟睡したせいか、体調は打って変わって良かった。翌日に回せそうなものをある程度は残しはしたが、あらかた片づけた。

 一息ついて、テレパスを何気なく起動した。もはやちょっとしたクセになっているかも知れない。もう校内に残っている者はほとんどいないようだ。
 速水の名前を辿る。何故か一組教室。こんな深夜に?
 茜が一緒にいるようだ。その名前に、少しばかり表情が暗くなる。
 あの2人が仲がいいのは知ってはいる。そのせいか、茜はよく速水の家に泊まりに行ったりもしているらしい。別に、それに嫉妬する必要などある訳がないのだが、それでも、舞と過ごす時間がそれだけ削られることに関しては、やはり不満だ。
 かと言って3人仲良く一緒に出かけたりといった気にもなれるはずがない。茜は、舞の従兄である勝吏を暗殺しようと企てたのだ。芝村に刃向かう者である以上、ただの友としても心を許すには危険な相手だ。
 尤も、その件について全く咎を受けることなくのうのうと生きている現状を見れば、それでも尚、彼を生かすことに何かの価値はあってのことなのだろうとは思えるが。その真価は今の舞には見えてはいない。
 ただ、存在が疎ましい少年でしかない。認めたくはないが嫉妬に近いのだろう。現に、2人が同じ場所にいることを意識しただけで、既に仕事はもう手につかなくなっていた。
 がたりと椅子を鳴らして立ち上がる。大した距離ではないので、そのまま歩き出す。
 また雨が降り出している。今度は、かなり強い雨だった。視界も音も遮断する水のカーテン。
 階段を静かに上がる。何となく足音を殺している。
 雨に濡れた髪を払い、一組のアルミのドアを引き開ける直前、その違和感に手が止まる。教壇の上に、誰かが座っていたのだ。
 窓からの逆光のシルエット。見間違えるはずもない。速水だ。
 違和感はその腰の辺りにあった。足をだらりと垂らして制服のズボンの前が外されて、下半身がさらされている。
 その前に、僅かな青の月光に輝くような白金の髪が見える。
 その髪をひどく乱暴に鷲掴みにすると、速水は自らの股間にその頭を押しつける。
 表情は見えない。速水も、茜も。速水は逆光のせいで、茜は速水の足に阻まれて。
 音も聞こえはしない。その雨のせいで。
 舞は事の解釈が一瞬出来なかった。そのために、動けなかった。
 影だけの速水の胸元の動きから、徐々に彼の息が荒くなって行くのが判った。片手はずっとその髪を掴んだまま、もう片手を教壇について体を支えている。最初は自分がつかんでいる頭に何かを話しかけるように多少俯き加減だった体が、時の経過とともに、わずかに小さな痙攣を繰り返しながら上体を逸らした。足先が、跪いている茜の背中に締めつけるように回される。自分の側に引きつけるようにぐいぐいと押している。茜が、瞬間、苦しそうに顔を上げる。それを許さないかのように手が押さえつける。
 ちらりとだけ光が反射した。茜は、泣いている。
 泣きながらも、茜は自らの手をそれに添えて、舌で刺激して、再び口の中に深くくわえ込む。
 頭が、激しく動き出す。さらさらと髪が揺れるたびに月の光を反射する。
 押えつける必要がなくなったと言うよりは、与えられる刺激に耐えられなくなったように、茜から手が離れた。教壇に突っ張るように両手が置かれる。
 白い喉がのけぞる。がくがくと腰が揺れ始める。
 雨のカーテンですら遮れ切れなくなった、がたがたと鳴る教壇の音、そして、嬌声。抱えるように足で茜の体を抑え込んだまま、早くなるリズムが一際大きくなり、そして、止まる。
 がくんっ、と大きく、数度、痙攣する。

 その間、細く高い声は、絶叫するように何度も何度もその名を呼んでいた。
 自分の欲望を受け止めたその少年の名ではなく。この場にはいないはずの、彼の恋人の名を。

 ----舞の、名前を。


「司令、ちょっといいでしょうか」
 茜に追い出されて無職になってしまった若宮が、放課後の仕事時間になって小隊長室を訪ねて来た。手を止めて目だけで頷く。
「このまま何もしないでいるよりは、三番機に乗ろうと思うのですが」
「ふむ。良いのではないか」
「はい。ただ、司令の後を継いでコ・パイロットを務めるのは少々無理があるかと。自分はプログラミングやら細かい機器操作が得意ではありません。出来れば、速水万翼長にコ・パイに下がって頂けるならと思ったのですが……」
「……そうだな」
 前日までの訓練記録を手に取る。司令になろうと決意したせいなのか、速水の知力はそこそこ使えるレベルにはなっている。後は、自分が少しプログラミング方面を教えてやれば出来ないことはないだろう。
 若宮の知力は……失礼だとは思うが今からどうこう出来る数字ではない。攻撃力は問題ないので、遊ばせておくには惜しい。それは確かだ。
「わかった。速水に話してみよう。追って連絡する」
「はい」
 慇懃な一礼が部屋を去る。自分から直接話さないのは、一応は上司(若宮はまだ十翼長だ)だからか。司令の口添えがあった方がいいという判断なのだろう。
 何処にいるだろう。テレパスを起動しかけて、手を止める。
 思い出したくないことを思い出しそうになったからだ。
 一族の記憶力の良さが、この時ばかりは恨めしくて仕方なかった。

 ハンガーに出向く。壬生屋や滝川と一緒に仕事をしている速水はずいぶんと上機嫌だった。
「あれ、どうしたの、舞」
 振り向きもせずに言い当てる。足音だけで判ったということなのか。
 壬生屋が困ったようにぷいと顔を逸らした。その表情は曰く『不潔です』。何もしていないと言うのに。----何も。
「話がある。相方の件なんだが」
「戻る気になったの?」
 きらきら目を輝かせて振り返る。そういう所は子供っぽい。
 壬生屋と滝川がちらちら2人のやりとりを聞いているのが何ともやりづらいので、小隊長室に来てくれるように、と告げてその場を去る。
 多目的結晶にメールが飛び込んで来た。
 不潔です。
 そういう想像をする方が不潔だ。舞はそう返しておく。

 2人きりの小隊長室。今はあくまで仕事だ。司令の顔で、舞は速水を見上げる。そっちはどうもそうは思っていないらしいが。にこにこといつもの笑顔。
「どうしたの?」
「うむ。若宮が、複座パイロットになろうかと考えておるらしい」
 なぁんだ。
 顔がそう言っている。本気で舞が戻ることを期待していたのか、この男。
「そうか。でも確かに無職でいるのはもったいないね、若宮さん」
「そうだな。時間はあると言うので、新人スカウトの訓練を手伝ってもらってはいるが」
「茜?」
「そうだ」
「ふうん」
 表情を伺うようにちらと見る。速水は少し考え事をしているようだった。
「それで思ったのだが、」
「僕がコパイに下がった方が良さそうだね」
「----? あ、ああ。そうなのだ。もしそうしてくれるのであれば、」
「うん。構わないよ」
 あっさりと頷いた。
 気の回し過ぎだったか。メインパイロットであることに少しは固執しているかと思っていたのだが。
「勝つために最良の布陣を引く。それだけのことだよ、ね、舞」
「う、うむ、そうだな」
「プログラム、もう少し教えてくれるよね。今の僕ではあの頃の舞ほどはうまく扱えない」
「もちろんだ」
「じゃ今からでもいい? 司令の仕事大丈夫?」
「問題ない」
「じゃ行こう」
「そうだな」
 こちらがやろうとしていることを、あっさりと先回りする。勝つために必要なこと。そのために出来る努力。不思議と、速水とはそういう部分では簡単に通じ合えるのだ。それは、操縦者としての遺伝的相性とやらのせいだと思っていたのだが…、それ以上に何かがあるような気がする。
 もしかしたら自分は騙されているのではないかと時々思う。操縦者相性だけではなく。もっと『運命的』な何かが自分とこの男の間にはあったのではないかと。
 『運命』は変えられないのか。父は、自分が死ぬ日を予言してその通りに死んだ。
 もしこれが『運命』なら----自分の手を引く男のくせのある髪に目を向ける。
 あれも『運命』なのか?
 変える努力は出来るのだろうか?
 でも----
 ----どう変えろと?

 詰め所の端末で時折デモしながら、戦闘時に複座が必要とするプログラム操作を一通り教える。そしてハンガーに場所を移してコパイ用のシミュレータで、想定される戦局でのシミュレイションを繰り返す。さすがに飲み込むのは早い。こうされればメインがどう動くか。メインがこう動くためにはどうしたらいいか。体験しているだけに理解しやすいのだろう。
 深夜を過ぎる頃には、基本的な部分は全て伝えられたと思えた。後は、「戦術」の問題だ。戦術に対する勘もコパイには必要だが、それは舞がどうこう言わずとも大丈夫だろう。
「付き合わせちゃってゴメンね。でも、おかげでやれそうな自信が出て来たよ」
「そうだな。では私は戻るが」
 椅子から立ち上がって出て行こうとする。
「……舞」
「なんだ」
「なんか最近、僕を避けてない?」
「忙しいだけだ。司令というものはたいていそうであろう」
 更に何か言い出しかける速水を無視して、舞は小隊長室に戻る。
 避けている……のだろうか。
 自分を優しく抱き寄せてくれる手が、他の誰かにも触れていると思うだけで胸が焼けそうに痛くなる。ましてそれが女であればまだしも。周りから見れば速水と茜はただ少しばかり仲が良すぎる親友に過ぎない。その関係について舞が口を出したりすれば、それこそ壬生屋に「不潔です」と罵られかねない。
 小隊長室の扉を乱暴に閉めて鍵をかけてしまった。誰にも会いたくない。
 きっとひどい顔をしている。嫉妬に狂った女の顔など。瀬戸口の周りで時々起きている争奪戦を思い出す。今の自分はあの女たちのような形相をしているんだろうか。
 その時、手首に違和感が走る。メール。誰だろう。ぽつんとURIが書いてあるだけの。
 差出人の痕跡は消されている。ここまでのことが出来るのは一族かそれに連なる者だけだろう。
 再び、今度はひとりで詰め所の端末と向かい合う。周りに誰もいないことを一応確認してから、示されたURIにアクセスしてみる。もちろん、こちらの情報が洩れないように細心の注意を施すことは忘れない。
 ……音声データ。ウィルスの類ではなさそうだ。一応ダウンロードしてセルに収めて手に取る。
 もう一度小隊長室へ。こんな手の込んだやり方をして寄越すからには何かはあるんだろう。そうは思うものの、心当たりはまるでない。しばらくそのぷよぷよした半透明のデータセルを眺めていたが、思い切って多目的結晶へ。変換するまでにしばらくかかる。準備が出来てすぐ再生する。直接、神経を伝わって来る音。
 ノイズの中から飛び込んで来る声にぎょっとする。慌てて停止する。
 まじまじと手首を見つめて(メールを読み返して)みても、どうしてそれが自分に送りつけられなければならないのかまるで理解出来ない。しばらく考えていたが、答えは出ない。
 何かあるのか? この先に。
 恐る恐る再スタートする。
 ----苦痛と聞こえた声の間に混じる単語を分析すれば、これは明らかに性行為の最中の声だ。しかも喘いでいるその声は。
 ----茜大介----
 間違いようもない。また頭に血が昇る思いがする。
 これが何だと言うのだ。何故自分に送られて来る。怒りで目の前が真っ赤になる。まさかとは思うが、あの男からの宣戦布告なのか? 自分と速水の関係を認めろ、とでも言いたいのか?
 耐えられなくなって再び停止しようとする。「行為」が済んだらしい、荒い息遣いの間にその少年の声は甘えるように相手に縋っている。その会話で、相手が速水でなかったことが判ってその点では多少ホッとはする。
 大学に行かせて欲しい、とその声はねだっている。昼間ずっとその相手の家にいるだけで退屈だし、大検資格は持っていると。相手はあまり乗り気ではないらしい。悪い虫がつきそうだ、と。少年の声は甘えている。他の奴になんか触らせるはずないよ。そんなの判ってるくせに。ねえ、もう一度----。
 ----そこで、データは終わっている。
 そうか、と納得する。茜が何故この部隊に潜り込んだのか、それを以前調べようとしたことがあった。恐らくその時に放った自動情報収集セルの1つが見つけ出した情報なのだろう。
 短い周期で養子となる家が変わる経歴、しかもその大半が人工筋肉の研究に関わった人間ばかりだ。最初はフランソワーズの人脈上こうなっているだけとも考えた。だがしかし。
 彼はそれを武器にしていたのか。それで彼らに取り入り、必要な情報を集め、用がなくなれば次の餌食を探しに行く。そういう生き方をして来たのか。
 茜があまりに多くのことを知り過ぎているその理由はこれで説明がつくだろう。恐らくこの1人だけではない。彼の過去には、もっと多くの犠牲者がいたに違いないのだ。
 売女か。男だが。
 理解した途端におぞましくなる。速水は----速水は何を考えている?
 彼もまた、今は芝村だ。一見速水に「強要」されているように見えたそれですら、もし何かのための茜の思惑だったとしたら?
 芝村に取り入るために速水を利用しようとしているのだとすれば。速水があの茜に溺れ、寝物語を盗聴される、などということがあれば。
 最初は違ったのかも知れない。母親を失くしたかわいそうな少年を放置しておくに忍びなくて構っていたのかも知れない。でもそのうちに茜の方からそういう関係になる舞台を作っていたとしたら。何かと言えば足のことを自慢していたあの少年が、速水をそっちに引きずり込んでいたとしたら。
 ----そうだ。速水は引きずられているだけだ。彼の心にいるのは私なのだから。体の相手が誰であろうとも。
 芝村たる速水を味方につけようとしていたとしたら。その復讐の実現の機会を密かに待っているとしたら。
 その「奉仕」のために、あの事件後も、殺されずに済んでいるのだと、したら----?

 何かがかちっと音を立てて嵌まったような気がした。今まで解けなかった謎の鍵。

 危険過ぎる。でも、その危険にカダヤはまるで気づいてはいないのだ。あの少年が過去に何をして来たかなど、あのぽややんは恐らく知らないのだ。それがあの少年の「手」なのだと。本性なのだと。
 いや恐らく今まで利用されて来た人間たちも気づいてなどいないのだろう。だからこそ有効な手になりうるのだ。誰もが、あの足を自分だけのものだと思っている。あの少年を。手ひどく裏切られる、その時までは。

 舞は小隊長室の端末を起動して5121の転戦を指示する。阿蘇特別戦区へ。
 今なら、司令なら、それが出来る。誰にも気づかれずに。
 命令を下すだけだ。撃手としての訓練が足りないから囮になれと命ずるだけだ。戦車兵たちが前線に出るまで、幻獣たちの注意を引きつけよと命ずるだけだ。そこに、他の何の意図かあるかなど、周りが気づくはずがない----
 気づかれるはずなど、ないのだ。


 武尊とリテルゴルロケット。来須の装備はいつもの40mm高射機関砲。茜は、若宮に薦められたらしいヘビーマシンガンとシールド。茜の小さな体には重装備のように見えなくもないが、無謀な特攻が出来なくなるという意味ではいい選択なのだろう。若宮らしい。
 どちらにしてもリテルゴルロケットがある限り移動力に問題はない。戦場のマップと幻獣の数を算定。半透明のスクリーンに展開されるて行くマーカーのポイント。
 スキュラが偏っているか。3体も。友軍の可憐が何体か最初から突出し過ぎている。
「まいちゃん、準備おっけーなの」
「全軍前進。----茜機」
「はい」
「無茶な喧嘩を仕掛けろとは言わぬ。ただ、友軍兵は我らほどに『強く』はない。判っておるな」
「はい」
「リテルゴルロケット全開。前に出ろ。注意を逸らすだけでいい。以降は武尊の機動力を生かせ。ポイントを送る」
 計算して座標を出す。3体のスキュラの真ん中。瀬戸口に目で命じはするが、戸惑うように睨みつけられる。
「----姫さん。あいつじゃ無理だよ」
「無理なことはない。加藤。煙幕ジェネレータ準備」
「はいよ。ロック解除、装填します----萌りん、あとよろしく」
「了解…」
 白い霧。それを確認した後、溜め息をついて瀬戸口がデータを茜に送っている。無言のまま、小さな体が宙を飛んだ。マーカーが揺らいだ点滅を繰り返しながら移動する。指示した通りの、位置へ。
 空中要塞たちの動きをののみが報告する。ゆっくりと振り返っている。前線にいた他の幻獣たちも、すぐ近くに突然降り立った目標に一斉に注意を向けている。
 その背後から戦車隊がにじり寄る。複座が最初に前へ。
 茜はそのスキュラの1つに向けて重い銃身を向ける。その発射の反動で姿勢がぐらりと揺らぐ。それでも、決定打になどもちろんなりはしないのだが。ダメージの報告は微々たるものだ。
 ちっくしょぉ、と小声で呟く声がする。
「欲を出さなくていい、茜機」
 立て続けに弾をばらまくように撃ちまくったかと思うと、重い音がした。---捨てた?
 リテルゴルロケット。高度を示す数値が激しく動いた後で、空中要塞の発する独特の唸るような音が通信機から聞こえている。
「何をして----」
 その足がスキュラに突き刺さった。ぐしゅっ、と肉が潰れる音。マシンガンで削られていたスキュラが、どおんっと大きな音を立てて地に落ちた。
「----茜機、スキュラを撃破……」
 意外だと言わんばかりの瀬戸口の声。若宮の指導も無駄ではなかったということか。
 ----だが、その後に来るのは。

 すぐに短い悲鳴が入る。壬生屋機。
「壬生屋機、被弾----って、あ、あれ? ののみ、今壬生屋機をロックオンしていた目標は」
「えっと、えっと、きめらさん----」
「壬生屋! 間違いないか? 今の、レーザー……」
「そうです、キメラのレーザーです----申し訳ありま……」
「違う! 煙幕が…効いて、ない?」
 ざわっ。
 ラインの全員の呼吸が一斉に止まるのがわかった。
「どういうことだ瀬戸口」
「中村、指揮車に異常はあったか」
「出撃4時間前にテストして合格したばかりたい、問題なかよ」
「なんだ? 何が起きて……」
 瀬戸口が左手を直接接続してデータ解析を始めている。立ったままの舞は身じろぎもしないままスクリーンを見つめていた。
 着地した茜は呼吸が荒い。しばらく動けないか。リテルゴルロケットの火力もしばらく使い物にはなるまい。
 スキュラの射程に捉えられたままで。

 ----目を閉じる。
 内心だけで始まるカウントダウン。
 茜。
 生きたいのなら自分で生きろ。この場で司令が兵に生き残れとは言えないのだ。
 スキュラのレーザーがチャージされる時間はよく知っている。その時間内に逃げられたらそなたの勝ちだ。
 尤も、今の茜程度の実力でそれが出来るとは、到底思ってなどいなかったが----

「え? ちょっ、わ、若宮さん!?」
 速水の慌てた声に目を開く。移動するマーカー。複座からまっすぐに飛んで行く。動けずにいた茜の方へ。
「----若宮が降車しました」
 データ解析に半分意識を取られたままそれでも瀬戸口が報告する。
「若宮! 何をして----」
 この状況では彼とて無事ではいられない。スキュラの赤い「瞳」がその光を強くしている。
「若宮機!」
 2体のスキュラ。その咆哮。あまりに強いエネルギーのせいでマーカーの信号さえ一瞬遮られる。ののみの悲鳴が上がる。
 その隙間に、瀬戸口が『帰って来た』。
「何が起きていた。報告しろ」
「----何者かが妨害していたとしか……ジェレータプログラムがいじられている」
「中村か?」
「悪いが中村がやれるようなレベルじゃないな。この部隊で出来るとすれば姫さんぐらいだろう」
 ノイズ混じりで止まってしまったマップを見上げる。瀬戸口の視線はしばらく舞から動かない。
 疑うのは自由だ。だが、証拠など何もありはしない。
「……今の衝撃でレーダーが少しイカレたらしい。ののみ、少しの間、頼む」
 そしてまた多目的結晶で直接、接続する。目を閉じる。
 スクリーンを睨んだままの舞の耳に、ノイズの向こうから少しすすり泣くような声が入った。
「済まんっ……。間に合わなかった……」
「----そんな、まさか…。じ、冗談ですよね? 若宮さん……?」
 震える声は、二番機滝川。
 瀬戸口がまた接続をすぐに切った。
「レーダー側には異常は見当たらないが。----何かの妨害物質か? いや、まさか……」
「冗談でこんなことが言えるかっ! ----直撃だ。あっと言う間に蒸発しやがった……。速水、済まん、すぐ戻る」
「嫌だ! 茜が死ぬはずなんてない! 舞……、司令っ、彼の最後の移動目標ポイントをよこして! 僕に行かせて!」
「来ても無駄だ。一瞬で蒸発しちまったんだ。何も残ってない」
「そんな……そんなの嘘だ!! 嘘だぁぁぁぁっ!!」
「速水!」
 通信機の音が振り切れている。あの男が泣いている。何かを割るような音がする。複座からの信号が完全に切られた。互尊の機動力はたかが知れている。全速力で走るその間に、若宮に止められて、がくりと地に膝をつく。
「たわけっ! 戦闘放棄するやつがあるか! 壬生屋、若宮機退却の援護! 滝川、仇を取るがいい!」
「言われなくたって!! ----ちくしょぉぉぉぉぉっ!!」
 軽装甲が全速力で突っ込んで行く。目標を定めかねてうろうろしていたスキュラが新たな敵の出現に高度を下げた。滝川機は手にした92mmライフルを撃ち尽くしてスキュラを落とすと、すぐに離脱した。それが敵陣の撤退の呼び水となる。
「敵は撤退を開始した。掃討戦に入る。逃すな! 全軍突撃!」

 複座のコ・パイロットは、その戦場の真ん中で座り込んだまま動かなかった。
 隣に立つ若宮は、ただ困ったように空を見上げていた。
 その2人に後ろから舞は近づいて行く。気配に気づいたように、速水は振り返った。
「----舞」
「大丈夫か」
 若宮は、機体回収に行きます、とだけ言ってその場を離れた。
 闇の中でも判る。顔をぐしゃぐしゃにして泣いている。
「----これが正しい判断だってホントに思うの」
「どういう意味だ」
「知ってたはずだよ! 囮にだってなれるほどの力なんて茜にはなかった! 40mm高射砲辺りで戦車隊の後方支援に回す方が妥当だったのにっ……」
「幻獣たちの注意を引きつけるだけで良いと言ったのに、無謀な特攻をしたのはあやつ本人だぞ」
「舞! そもそもなんで茜を最前線になんか!」
 ぼろぼろとその目から涙が落ちる。舞の肩をつかむ。見上げた視界で、速水はまた俯いて、そのまま崩れ落ちる。支えようと手を伸ばした途端に、それを、振り切られた。
 地に手をついた速水が泣いたまま低く舞に向けて言葉を向ける。
「何故殺したの」
 内心、ずきん、と心が痛む。だが表には出さないままで。
「殺してなど」
「殺したのと同じだ。舞。それは芝村の意志?」
「--------」
「あの事件の報復なの? 勝吏の、命令なの?」
「--------」
「答えて!」
「司令は私だ。『手足』をどう使うかは私の自由だ」
「舞」
 咎める目。それでもまだ、気づいてはいない。気づかれてはいない。恐らくは。
「撤収する。そなたもいつまでも泣いているでない」
「………」
 踵を返して指揮車へと戻る。続く痛い視線は決して逸れないまま。
 わかってない、まるで判っていない。あのままの関係を続けている方がそなたは不幸になる。
 そなたには私がいる。
 それでいいと言って欲しかった。
 あんな男のために理性を失うほど泣き崩れる姿など見たくはなかった。
 いずれ、時間が解決するだろう。これからは2人の時間を築いて行けば良い。この戦争に勝つための戦いを、2人で続けて行けばいい。その歴史に茜大介の存在など必要ないのだ。なかったのだ。
 ----違うのか、速水。
 まだ、自分を責めるような目で見続けているその男に、舞は背中だけでそう問い掛けた。


part.4 / Intro

 目の前が真っ白になった。その途端に、誰かの太い腕に体を乱暴に引き寄せられた。胸にかかる衝撃の後にやって来た急激な重力。三半規管がついて行けない。吐き気がする。----リテルゴルロケット?
 木にぶつかりながらの低空飛行。咳き込みながら見上げたそこには、若宮の顔があった。
 山陰に隠れるように着地。若宮が、何かを装備ポケットから出して投げた。手榴弾?
「チャフだ。遠距離レーダーを撹乱している」
「………?」
「長くは持たない。瀬戸口はああ見えてもやることはやる。レーダーがダメと判れば飛距離をシミュレートしてそのうち見つける。その前に逃げろ」
「----え」
「いいから早く。出来るだけ遠くへだ。リテルゴルロケットは痕跡が残るから使うな。武装品は捨てて身軽になって走れ。通信機と識別票は壊せ。いいな?」

 通信機を切って、ヘッドセットごとむしり取る。投げ捨てて、足で壊し、そして全速力で走り出す。
 何故逃がそうとする。何故若宮が。
 何が何だか判らない。それでもただ、ひたすらに走った。


part.4,茜,ソレダケデ、タダソレダケデイイカラ

 ----雨になるだろうか。
 ぼんやりと空を見上げて茜は思った。
 体中が痛い。倒れるまで走って、動けなくなって何時間経つんだろう。時間の感覚はまるで、なかった。
 スキュラのレーザーで焼かれたと思われていたらしいし、恐らく捜索を諦めてしまったのだろう。全身が熱で溶けてしまったら、それはもう死体なんて状態ではなくなってしまうのは知っている。ミノタウロスに殴られて砕け散ったのだとしたら、まだ肉片の形は留めていられるだろうけど。
 識別票、通信機、位置を知られそうになるものは、何も持っていないはずだ。つまりそれは。誰からも自分が見つかる心配はないということ。
 いずれこのまま死んでしまえば誰も思い出すこともないだろう。
 ----僕のウーンズライオンは誰が受け取ることになるんだろう。
 速水の顔より先に、善行の顔が浮かんだ。途端に、意識しないうちにぼろぼろと涙が零れた。
 ひとたび何かの温度に慣れてしまったら、それを失うことがどんなに辛いか知っていたのに。
 気が狂いそうになる。
 いっそこのまま一息に誰かに殺して欲しかった。
 思い出したくない。あの温度を。思い出してしまったら、欲しくなってしまうから。
 滝川がいつか言っていたことを思い出した。ひとりで死にたくないと。それが口に出せるだけ、彼の方がまだいいのだろうか。
 滝川。せめて答えてくれないか。どうやって、この痛みを耐えればいいのか。どうやったら、そんな風に明るく笑っていられるのか。

 ざああ、とバケツを引っ繰り返したように雨が落ちて来た。
 涙と雨の区別もつかないまま視界がぼやける。
 薄ぼんやりしたそのカーテンの向こうから、誰かが歩いて来るのが見える。
「…………」
 ウォードレスだ。互尊狙撃兵仕様。無言のまま、こちらを覗き込むようにしている。
「……僕を、殺、して……」
 掠れた声で、そう頼んでみる。ウォードレスには届いていないようだ。
「……お願い、だから……」
 肩が少しだけ上下したと見えた後、ヘッドセットを外す。
「生きているな」
 聞こえて来た声は、若宮だった。こくん、と頷いて見せる。
 若宮は茜の体をひょいっと持ち上げた。岩陰の窪みに避難する。
 ずっとぼんやりと見上げっぱなしだったその視界で、若宮はひとく複雑な表情をしていた。背に担いでいたらしい荷物からタオルが出て来る。いささか湿っているが、それで茜の頭や顔の水滴を拭って、そして泣いていることに気づいたように手を止める。困ったなあ、と目が言っている。
 助けに来たのだろうか。またあの日々に戻らなくてはならないのか。そう思った途端に、また涙が、落ちた。
「若宮、さん」
「ん、何だ」
 何かしてやりたいと言わんばかりに心配そうに顔を近づけて来る。
「殺して下さい、僕を----」
 やっぱり、思いっきり顔をしかめられた。
「……茜」
 溜め息の後に。
「……普段の戦場なら、それも選択肢だろう。お前のような自暴自棄な目をした兵はいずれにせよ生き残れない」
 意味が判らず首を傾げる。若宮はちらりと自分たちがやって来た方に目を向ける。
「だが今は、事情が違うから、その頼みは聞けん」
「え……」
「お前はもう戸籍上は死んでいる。聞いていたかどうかは知らんが、指揮車に対して、お前がレーザーにやられたと報告した。遺体の回収は無理だともな。今頃、遺体がないままお前はもう埋葬されている。そういうことだから、----好きにするがいい」
「……どういう……」
 雨の中から、何かの影が近づいて来るのが見える。エンジンの音。----車?
 2人の前に止まったジープの中から、若宮に瓜二つの男が降りて来る。
「……この少年ですか、例の、茜、というのは」
 その男が、茜の隣にいる若宮に問いかける。静かに頷く。
「だいぶ弱っているらしいから丁寧に扱ってやってくれ」
「はい」
 男は茜をひょいっと持ち上げる。後部座席に乗せられた。
「では、失礼します、『百翼長』殿」
「学兵の階級なんて形だけだよ----じゃ、『ミスター』によろしく」
「はい」
 運転席に戻って来る。バタンとドアが閉まる振動。
「毛布お使い下さい。寒いでしょう」
「----あの……」
「ああ、存じませんでしたか? 茜くんは。私もまた、『若宮』です。私たちは、年齢固定型の量産クローンでしてね。5121の『兄弟』は私よりは後に生まれた若宮ですが」
 話には聞いたことがある。だが実際に目の当たりにしたのは初めてだった。
 がたがたと揺れるジープの車内で、置かれていた毛布を引き寄せる。その感触に少しだけ安心する。
「何処に行くんですか」
「それはあなた次第です」
 壊れてしまった信号でスピードを緩めて、ちらりと左右を確認して、また発進する。
「少々お待ち下さい。もう少し離れてから、ゆっくりお話しますから」

 半壊した家屋が並ぶ住宅街。ひどく閑散とした空間の一角に、まるで取り残されたような公園がぽつんとある。雨に洗われてつやつやした緑の木の下で、ジープは止まる。小さな声で鳴っていたラジオがぷつんと切れた後には、雨の音だけが聞こえていた。
「----大丈夫ですか」
「はい」
 振り向いたその顔は少しだけ緊張しているかのように見える。
「ミスター……、善行上級万翼長から、質問を預かって来ています」
 その名に、息が止まる。知らず知らず、毛布を握る手が強くなる。
 『若宮』はまた前を向いた。長い長い溜め息。
「----茜くん。あなたの母親、フランソワーズ茜が芝村に『消された』その一因は、善行上級万翼長にあります」
「……!?」
 思いもかけない話。茜は何か言いかけて口を開きはしたが、そのまま言葉を探せずに絶句する。
「上級万翼長殿は、ここが日本を守る最前線になり、自分がここに来ることを決めた後、確実に勝つための手段として、それまでとは全く違う武器を使うことを考えました。即ち、----士魂号です。
 それまでの実験で、整備に手間がかかり過ぎることや、パイロットの人材不足等で、まともに実戦稼動出来ないと判断されていた人型戦車、それを実戦に持ち込むことを考えました。
 圧倒的な戦力差を戦うには、それしかないとミスターは考えていたのです。
 そこで、----フランソワーズ女史に、話を持ち掛けました。
 当然、芝村一族から口外を禁じられた技術です。女史がそうやすやすと渡すはずはない。少々、強引な手段を取りました」
 ----まさか。
「善行が、ママン…を…?」
「『消した』のかというのであれば、答えは、いいえ、です。----平たく言えば、脅迫した、ということになりますか」
 脅迫されるような弱点を彼女がが持っていたのだろうか? 母親のことは、やっていた仕事以上の周辺事情まではあまり知らないのだ。
「脅迫されるような何があったのか、知りたいですか?」
 またちらりと後ろに目を向ける。頷いた茜に、言いにくそうに目をそらしてから『若宮』が答える。
「それはあなたです、茜くん。芝村が必要とした以上の『実験』が、あなたには施されている」
 とくん、と一際心臓の音が大きく感じた。
「それが何なのかまでは、私には判りません。ただ、それはある意味でこの世界の歴史を変えかねないほどの何かであろうことまでは、判ります。
 フランソワーズ女史は、そのためにあなたを『愛そうとしなかった』素振りがありました。でも、あなたを持ち出されると、彼女は、抵抗出来なかった----。自分の命までもがそれで危うくなると判っていながら、それでも、人工筋肉の技術を、士魂号を、熊本限定配備の特殊武装という偽の情報とともにミスターに影で供給することを約束したのです。
 そして、それ故に彼女は『消された』。
 女史はあなたを守ろうとして自らを犠牲にしたのです。あなたに施された一切の実験データを、巻き添えにして」
 まるで、遠い国の物語を聴いているようだ、と茜は思った。
 それまで考えていて、あるいは聞かされていた情報の中から、肝心な部分はまるで抜け落ちていたのだ。彼女は研究者であるが故に、ただその正義のために、この戦争に士魂号を持ち出したのだと思っていた。だから消されたとしか、思っていなかったのに----
「……茜くん」
「……はい」
 若宮と同じ顔が、横たわる茜をじっと見つめている。
「ミスターは、……関東で、あなたを待っています」
「……えっ」
「この話を知った上で、選択してくれるように、そうミスターは言っていました。東京に来るか、あるいは残るか」
「----東京…に…?」
「はい。----来る目的は復讐になるかも知れないですね、と、苦笑しておられましたが、----それでも、構わないと」
 そうか、とその時に全てがつながったような気がしていた。
 彼があの時、自分に手を伸ばしたのは。そのささやかな温度を感じさせてくれたのは。眼鏡の奥の優しい瞳は。我がままを許容していたのは。
 全て、彼の罪滅ぼしだったのか。自分への----
 胸が締めつけられる。自分という一個人を気にしてくれていたわけではないと。善行自身の罪悪感に動かされていただけなんだと。
 僕を、
 「ぼく」をおもってくれていたわけじゃなかったんだと、
 ----気づかされた。
「……茜、くん?」
 何故こんなにもそれが悲しいんだろう。
 何故こんなにも心がこわれて行くんだろう。
 視界が滲んで行く。砕けて行く心のかけらは、もう拾えない距離に落ちていた。
「----残りますか、熊本に。会いたくないと思われても仕方ないと、ミスターはそう言っていました。残りたければ、私の『後輩』に工作させます。報告は勘違いで民間人に助けられていたとでもなんとでも。
 あの小隊に戻りたくないのであれば、森家とは別の養父母を探すことも出来ます。今の熊本なら、戦争で、最初の養父母を失った学兵や、子供を徴兵で失った親たちが大勢いますから。需要も供給も多いぐらいで。
 見つかる間だけ『後輩』にかくまわせます。そこまでの話はつけてあります」
「若宮は何処まで知ってるんですか」
「私ですか」
「いや、5121の」
「……詳しくは、何も。それは私も一緒です。ただ、芝村勝吏暗殺未遂事件の話は聞き及んではいますが、その程度です。私などは、あのミスターがどうして勝吏暗殺未遂犯のあなたのためにそこまでするのか、正直理解に苦しむぐらいでして」
「----そう」
 罪悪感なんてそんなものだ。善行ほどに生真面目な人間なら、どんな大きな代償でも払おうとするのだろう。頼んでなんていないのに。
 もう復讐なんて終わっているのに。あとは誰かに自分の人生を断ち切られるのを待つばかりの終幕。そんな時に心の中にそんな風に入り込むなんて。同情なら、悔悟なら、ただそれ以上のことなんて、して欲しくはなかった。
 いっそのこと全てを拒んでくれた方が、マシだったのに----それでも。
「どうしますか」
「行きます、東京に」
 ここにいるのは、もう嫌だった。
「そうですか。では、お疲れでしょうがこのまま空港へ向かいます。特別機を、用意してありますので」
「善行が?」
「ええ。殴る目的にせよ殺す目的にせよ、一度は顔を見に来てくれないかと、そう望んでおられました」
 ジープが再び走り出す。雨は徐々に弱くなって来ていた。


 セスナに乗ってからはずっと眠っていた。そんな風に深く眠ったのは久し振りだったかも知れないと思うほど。夢を見ることもなかった。
 次に茜の目が覚めた時は既に見知らぬ天井が目の前にあった。わずかな時計の音。ぼんやり霞んだ視界が晴れるに従って、体中の感覚も徐々に戻って行く。
 清潔なシーツ。ふわりとしたブランケット。その上から、あの時と同じ温度が、自分を、撫でている。
「----気がつきましたか」
 手が伸びて来る。汗ばんだ髪を優しく梳いてから、そっと、頬を辿る。熱を確かめるように、額へ。それからまた、髪に。
 苦しい。何故そんな目で見るのだろう? 優しさなんてもう要らないのに。それは嘘であるとわかっているのに。そっちの罪の意識を軽くするための方便でしかないと、知っているのに。
「来て、くれましたね。こちらに」
 ふと、苦しそうに顔が歪む。そんな表情をすることがあるなんて考えてみたこともなかったような。
 何故そんな顔をするんだろう。
 少しの躊躇の後に、半身を起こそうとしてみる。少しだるかったが、あの時よりは動ける。
 気遣うように善行が添えようとする、その手をわざと引いた。茜の方がよろけるように善行の腕の中に倒れ込む。
 他人の、心臓の音。それは好きだ。善行の、ひんやりしたシャツの下の鼓動は早鐘を打っていた。茜も、同じ。
「顔を見られて嬉しいです」
 そっと包み込まれる。しばらくすると、茜の方が戸惑うほど、徐々にその腕の力が強くなる。
「痛……い」
 静かに力が抜ける。その隙間からそっと手を伸ばして首に絡みつく。引き寄せる。抵抗する様子がない。
 それも、同情、だろうか。
 唇が触れそうなギリギリの位置で動きを止める。自分が呼吸する音ですらうるさいとすら感じる。そのまま、ただ自分を解放して、困ったように苦笑する善行を想像していた。
「……離れてくれませんか。話がしにくい」
 自分からは距離を変えようとはしない。
 苛々する。卑怯だ。言う代わりにその距離を詰めた。
 予想はされていたんだろう。固く閉じられたままの唇。何度も刺激するようについて離れる。隙間に、諦めた、とでも言いたげに息をついた。拒まなくなる。半分だけ開いたその歯の間に入り込む。
 他人の唾液の味。少し苦い。煙草、こっち来てから吸ってるんだろうか。
 執拗に責め立てる。指先も舌も絡ませる。善行の喉から声が洩れるのが聞こえた。少しだけ勝った気分になる。鉄壁の理性。あの頃、たった一度だけのキスですら、事もなげに流されてしまったことを、思い出す。
 今は応えてくれている。仕方なしに、であるようだが、そうだとしても。
 ゆっくりと離れる。喘ぐような息でしか呼吸を取り戻せなかった。お互いに。
 そのまま肩先にまた顔を埋める。その胸元が、ゆっくりと上下した後に。
「……どうしますか」
「……どう、って……」
「決めて下さい。今、ここで。彼女の----フランソワーズの仇として私を殺すことも出来る。もしそうしないなら……ここにいて下さい」
「……え…」
「私の目の届かない所で、あんな風に弱り切った目でふらふらされるのは、もうやめて欲しいんです」
 頭が混乱した。どう解釈していいのか判らない。
 ここにいろだって? 反芻した途端に、また穏やかに束縛される。
 ひどく優しい。抱き寄せられたその手の強さは微妙だった。こわれものを、それでも決して離したくないと、言葉より雄弁に物語るように。強いのか弱いのかまるで判断がつかないような。
 そんな風に抱きしめられたことなんかなかった。
 ずるい。----なんでこんな気分にさせる? 答えを知りたくてシャツの下に手を差し入れる。一瞬、息が止まるのが判った。何かを、耐えているように。
 それ以上に進む気はないと暗に言われているのが判った。あの時と、同じだ。
 苦しかった。と同時に、たまらなく自分が嫌いになった。言葉にしてしまうのが恐ろしいほど、自分は、誰かに抱いて欲しいと願っているのが判ってしまったから。何の代償もなく、ただ大好きといってほしいとねがっているのがわかってしまったから。ただだきしめて。ただすきだといって。いたいくらいにふれてほしいと。だれかと、つながりたいと。
「----抱いてくれたら……」
 泣きそうな声だと自分でも思った。
「抱いてくれたら、ここに、いる」
「----どういう意味ですか」
 戸惑うように手が離れる。子供が拗ねるように首を振る。
「言わせるなよっ、そんなことっ……」
「……そういう、意味なんですね」
 念を押す低い声。頷く。
「……それは、出来ません。これで勘弁して下さい」
 ----突き落とされた。
 痛いほど強い抱擁。逃れようともがく。そんなんじゃない。そんなんじゃないのに。
「離せよ! 死んでやるっ……ここになんかいてやらない」
「茜くん」
 もはや優しさのなくなったその束縛は、ただの拘束。離れようと突っぱねる。
「自分の罪悪感から身寄りのない僕に援助してやるってそれだけなんだろ。同情なんて----同情なんかでこんな気持ちにさせられたんだと思うと頭に来るっ……最低だ! 離せよ! その気がないなら離せ! どうせ誰も同じだ、『僕』を見てなんてくれない、いつだってそうだっ!! 僕は…僕はどうせ人形なんだ、僕を、僕個人を見てくれる人なんて誰も…」
 突然解放された。その反動でベッドに倒れそうになって枕をつかんだ。ぎりぎりと食い込むように。
「誰もいないんだ……っ……」
 あの時と同じ。涙。喉が引きつれる。多分もう、うまくは、喋れない。
 ぼんやりした視界の中に、手が伸びて来る。
「自分の価値をそんな風に見下すのはやめた方がいい」
「うるさ……離せっ」
「……私はあなたを『抱き』はしません。でも、ここにいて下さい」
「----なんで」
「いて欲しいからです。それじゃ不足ですか? 何の代償もいりません。ただ、君にいて欲しい。それだけです」
 髪を撫でる手。頬の輪郭を辿る指先。顎を撫でる、てのひら。
 今まで感じたことがない熱を、意識する。
 胸の奥に、小さく疼き出す。甘い、熱。
「キス、して」
 困っていた。手が離れる。
「しろよ。それで妥協するから」
 口が開いた。まだ何か言う気でいる。言葉を遮る。
「しなきゃここで死んでやる」
 ちろりと舌を出す。歯を当てる。このまま噛み切ってやる。そう無言でねめつける。
 長い長い溜め息の後、善行は少しだけ今までより深く座った。
 近づいて来る。最初に手が。次に顔が。
 耳からうなじに回る指先。動くたびに包まれるたびに頭の芯が痺れて来る。思考が麻痺して来る。おおきな、てのひら。
 その手の中なら泣ける気がした。だから。
 ただ待った。その距離が限りなく0に近づくのを。
 そして。
 ゆっくりと、目を閉じた。


epilogue.

 誰かの体温がなければ眠れないと少年は言っていた。毎晩のように、茜は善行の胸に縋りついて来ていた。彼のために別のベッドを新調した時はかなり嫌がられた。せめてセミダブルに買い換えようかと思っていると言っただけでも嫌がられたから、予想はついていたのだけれど。
 時々、ひどく不機嫌な顔で、じっと善行を見上げることがあった。いや不機嫌なのは表面だけで。
 「そういう意味」で抱いて欲しいとはもう2度と言わなかったけれど、口に出せないだけで、彼の不機嫌な仮面の下で、その緑の双眸はひどく艶めかしかったことは、覚えている。
 別に同性愛自体に偏見があるつもりではなかったけれど、生理的に受け付けなかったのか。あるいは、最期まで父親もどきでいようとしていたせいなのか。
 そう割り切れるものなら、こんな類の喪失感など感じる必要などないのに。
 そう割り切れないなら、あの時にもっと応えてやっても良かったはずなのだが。
 静かに、手にした花束を墓前に落とす。
 少しだけ余分に生き過ぎたと口を歪めた最期。彼は言った。ありがとうと。うれしかったと。血と潮風と涙のせいでひどく塩辛い唇がいつもと同じように善行の温度を探して、それに応えることが最期になると予感したから、すべてを奪うような深いキスを、落とした。その合間に喉から洩れる声は対照的にせつないほど甘く。でも、喘ぐような息とともに離れた直後、閉じられた瞳は、もう開くことはなかった。
 自分の采配ミスで部下を死なせる経験は何度もして来たはずなのに。
 その血の味が口の中に甦った途端に、開けてはいけなかった扉に、自分が手をかけていたことに気づかされたような気がしていた。
 多分何処かで避けていた。見てはならないと思っていた。
 彼を苦しめたのは自分だから。地獄に落としたのは自分だから。
 その自分が、----彼の救いになるだなんて、そんなことは考えられなかった。
 考えてはいけないのだと、思っていた----のかも知れない。

 砂利を踏む足音。振り向いたそこにいた青の髪。
「……お久し振りです」
 速水----いや、その青は「芝村」。
「そうですね」
「ご活躍は拝見していますけどね。今回の熊本の件も」
「そうですか」
 ちらり、と墓標に目をやって、
「わざと、ですか?」
「…そんなはずないでしょう」
 さすがに少し声が尖った。意味ありげな含み笑いが聞こえる。
「でも、ここで生き延びていたら彼はもっとひどいことになっていたかも知れない。僕を騙してまで、あなたの元に逃げた。僕を、裏切った。僕ならそんなに簡単に死なせははなかったのに」
 目がすっと細くなる。伸ばされた指先が、建てられたばかりの墓標を静かになぞる。
「…全く。うまく騙されましたよ。舞が自分で決意して謀殺しようとしたならまだ僕でも諦めはついたのに。あなたですか黒幕は」
「何の話ですか」
「舞を司令にして、茜をスカウトにして、若宮と茜を近づけて、そして舞に吹き込んだわけだ。茜が何をして来たのかを。
 彼女は純心だから、芝村一族にとって危険人物と見なして茜を消そうと動くはずだ、と見込んだ。そして、その通りになった」
「--------」
「あの時に気付けば良かった。若宮が複座に僕を残してひとり脱出した時点で。あなたと若宮の『友情』を甘く見過ぎていたようですね」
「……何の話ですか」
「あなたが必要以上に冷静なのは嘘をついている証拠です」
 確かにそうかも知れない。偽る方がいつしか自然になった。身についたくせのようなもので。
 青の瞳は、その冷静を突き抜けて何かを探ろうとしているように善行を見据えていた。その中にはまだ、在る。あの時と変わらない狂気が。
 彼の本質は、変わらないのかも知れない。ただ、それをコントロールする術を芝村舞から学習しただけで。そう考えれば確かにこれも、悪くはない選択だったのだろうか。ここに今、彼が生きていないことが。
「……いずれにせよ、もう終わってしまったことです」
「簡単なんですね。僕は、彼が好きでしたよ。その死すらも味わいたかったほどには」
「私も好きでしたよ」
 すらりと出た言葉は、速水にはあまり深い意味があるようには聞こえなかっただろう。つまらなそうに受け流して、
「まあいい。確かに終わったことだ」
 舞がよくそうしていたように、尊大な態度で腕を組む。
「僕はあなたを敵には回したくない。覚えておいて下さい」
「こちらも同じです」
 苦笑する。ただその私怨のために敵対視するほど子供ではないつもりでいる。それに、あの残虐性と芝村の力があれば、次にそうなったらもう生きてはいられないだろうという予測もある。
 こういう目をした人間を敵に回してはいけない。それは、経験より本能に近いところで感じたことだった。
 軽く会釈して立ち去って行く。花や線香を上げるのでもなく。
 善行が置いた花だけが、微かに風に揺れていた。怯えるように小刻みに。

 鮮やかな夕焼けが、花束を包んでいた白に反射する。時の経過とともに濃くなって行く茜色。
 しばらく微動だにしないままでそれを見下ろしていた善行が、ゆっくりと眼鏡を外す。
 その光をレンズに映すように、眼鏡を花の上に置く。
 名残惜しそうに数瞬戸惑った後で、その指先が離れた。
 そしてそのまま、振り返ってその場を後にする。
 迷いのない足取りで。
 ----一度も、振り返ることなく。

=== END === / 2000.07.14 / textnerd / Thanks for All Readers!

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