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BOY×BOY〜私立光陵学院誠心寮〜(PC) 二次創作

   過去形だけを残して

1.

 電車に揺られて2駅。その距離が今の椎名には長かった。
 会いたい、と思い続けていたその願いがやっと叶うかも知れない。それだけで飛び上がりそうな気持ちを抑えるのに忙しくて。
 ポケットの中で大切に温められていたその紙片に書かれた地図は、松岡から聞き出した住所を元に住宅地図とにらめっこして探し出したものだ。
 松岡に電話した時、彼の声はかなり怪訝そうだった。

「早坂の今の住所?……教えてもらってないのか? 椎名」
「メモ、なくしたんです」
「そうか。----しかし妙なものだな、1年の頃は早坂のこと毛嫌いしてなかったか?」
「ええ、まあ。----でも、悪い人じゃないですから」

 なくしたなんて嘘だ。松岡の言う通りなのだ。
 早坂は、教えてくれなかったのだ。
 隣町にある体育系の大学に入って、その近くにアパートを借りたらしいまでは話していた。携帯電話を買ったらしいことも話していた。でも、そのアパートの住所も、携帯の番号も、ついに椎名には教えてくれなかったのだ。

 ----半年前、早坂が卒業する日。
 ただ友達の顔で、
「椎名と仲良くなれてさ、俺は楽しかったよ、この1年」
 そう言って別れたまま。
 ----『楽しかった』
 過去形で言われたまま。
 それ以来会うことも話すこともなかった。そのための手段が何もなかったからだ。

 キィ、と軋んで電車が止まる。大学の近くの駅だけあって、似たような年齢の男女が駅に向かって入って来る。夕方のこの時間帯は大学の授業も終わる頃だろう。
 椎名は人波に逆行して改札を抜ける。
 携帯の番号も地図の隅っこに載ってはいる。でも、電話するのは何だか怖かった。
 もし話して、会いたいと言って、それを拒まれたら立ち上がれないような気がしたから。
 それよりも会いに行こうと思った。目の前に立てば挨拶ぐらいはしてくれるだろう。それ以上何もないとしても、電話で拒否されて会えないよりは少しはマシに思えたから。
 地図を見ながらウロウロする。大学の移転と同時に整備された街並は区画整理されていてとても判りやすかった。小さなアパートはすぐに見つかる。集合ポストに、早坂自身の手書きらしい表札を確認して、ふう、とため息をつく。

 ここに辿り着くまで半年悩んでいた。
 『楽しかった』という過去形で----自分たちの関係を突然断ち切られたように感じて。
 ただ、----その1年間、椎名と早坂の間にあったものが何かと言われたら、それは友情にしか見えなかっただろう。あちこち出かけて、笑ったりふざけたりするだけの。
 そして椎名は、それに甘んじていた。それ以上、何も出来ずにいた。
 その気持ちを、会うたびに強くなる想いを、そのままぶつけてしまったら、この関係ですら壊れるかも知れないと思えて。
 だから----当然なのだ。『楽しかった』とだけ表現されるような、そんな関係でしかなかったのだ。少なくとも、早坂にとっては………
 ……でも。

 夕焼けに照らされた街並を眺めながら、椎名はアパートの階段の敷石に腰掛ける。いつ帰って来るかなんてもちろん判らない。ただ待つしか出来ないのだ。
 門限に間に合うには何時にここを離れればいいかを逆算して、その時までに戻ってくれることを願い続けるしかないのだ。
 そして、その願いはちゃんと通じた----早坂が、ポケットに手を突っ込んでぼんやり歩いて来るのが目に入る。
 椎名は、思わず笑みが零れるのが自分でも判っていた。何て声をかけようかと頭をフル回転して、立ち上がったその時に----
 ----彼の隣に、女の子が走り寄るのを、見てしまった。
 女の子は楽しそうにはしゃいで早坂の腕に自分の腕を絡ませている。嫌がりもせず腕をつかまれたままの早坂も何か話している。妹がいると聞いていたような気はするが、でもその女の子の顔は早坂には全然似ていなかった。
 早坂の顔は、とても穏やかで優しそうな笑顔、に見えた。
 ----あの1年の間には、椎名に向けられていたはずの、----包み込むような笑顔。

 ----椎名は、早坂がまだ気づいていないうちに、その場から隠れるように逃げ出していた。
 ただ苦しかった。どうしようもなく。
 目の前が滲んで来るのを必死に払いながら、頭の中でどうしても認めたくなかった『想い』が椎名の心を揺さぶり続けていた。
 せめて自分が認めなければそれから目をそむけていられると思っていたのに----
 違う誰かがその隣にいるだけで、いたたまれなくなるなんて----

 (----これは、多分、恋、だったんだ----
 ----誰に対しても、そんな風に心を開けなかった僕にとっての、初恋----だったんだ。)


 テーブルの上に無造作に積まれたお菓子の空き袋や空缶たちを綺麗さっぱり片づけて、恵里は、はぁ、とため息をついた。
「……やっぱり男の独り暮らしってダメねー」
「だからって掃除しに来なくてもいいって言ってるのに……」
 恵里の兄----晶は苦笑しながら恵里がゴミ袋と格闘するのを眺めていた。
「片づけてくれる彼女はいないのー?」
 ちょっと意地悪に問い掛ける。
「いねーよ」
 案の定だ。
 恵里はくすっと笑いながら、それでも----安心する。
 血のつながりのないこの兄のことを、恵里はただの兄だとは思っていなかったから。
 ただ、今のところはまだ『妹』でいよう、と恵里は思っていた。腕を組んだって、アパートに押しかけたって、いつも笑顔で受け入れてくれるのは、彼が『兄』だからに過ぎないのかも知れないから。
「それにしても、好きな人も出来ないのー? 大学には素敵な人いないのー?」
「そりゃこっちのセリフだよ……恵里は高校でいい男漁れなかったのか? わざわざ創立記念日の休み潰して兄貴の所まで来るなんて----」
「あ、漁るって何よぉっ、もうっ!」
 笑いながら逃げる兄の背中をこづく。
 こんな風に笑えてる、それだけで彼女は楽しいのだ----充分に。

 その日、午前中で大学から戻った晶と恵里は、午後から大学の近くをぶらぶら当てもなく散歩して過ごしていた。掃除のお礼にと奢ってくれたチョコレートケーキを食べたり、ゲームセンターでUFOキャッチャーに大はしゃぎしたり。
 夕方、アパートに戻って来るまで、恵里はずっと晶の左腕を独占していた。最初はうっとおしがっていた晶も、やがて最後には諦めてくれた。
 ホントはずっとこうしていたかったけど……
 帰らなければならない時刻は容赦なく近づいていた。

 ----アパートの前、先を行く兄の腕にまた恵里は自分の腕を絡ませる。
「全く、何か今日は妙に甘えてないか? 恵里」
 苦笑しながらも優しく見下ろしてくれる『兄』に、精一杯笑いかける。
「いいのっ」
 アパートの敷地にそのまま足を踏み入れた時、恵里は、そこに1人の男の子が立っているのを見つけた。
 きらきらした笑顔で晶の方を見ていたが、やがてその顔からすっと表情が消える。
 突然突き落とされたような、今にも泣き出しそうな顔。
 まだ晶はその存在には気づいていない----どころか、気づく前に彼は踵を返してそのまま何処かへ行ってしまった。
「----誰だったんだろ」
「ん?」
 晶が不思議そうに恵里を覗き込む。
「今、----男の子がね、そこに」
「男の子?」
「うん、色白くて、ちょっとくせっ毛の。お兄ちゃんより背が低かったかも。何か、こっち見てたような気がしたんだけど……」
 思い出してそう話しているうちに、晶の表情はどんどん険しくなっていた。
「----お兄ちゃん?」
「先、入ってろ----そいつ、どっち行った?」
 晶は部屋の鍵を恵里に押し付ける。
「えーと、あっち……」
 少年が走って行った方を指さす。
 今にも走り出しそうな晶を、恵里は慌てて引き止める。
「待って、私、もう帰らないとっ……」
「悪い、鍵、郵便受け入れといてくれっ」
 振り払うように晶は駆け出す。
 後にはただ、きょとんとして面食らったままの恵里が残されていた。
 ----あの少年は----誰なんだろう。何故そんな風に、焦って追いかけるのだろう?
 恵里はもやもやした心を拭い切れないまま、それでも時計に急かされて、仕方なく晶のアパートへと戻った。


 椎名は、駅へ辿り着いて時刻表を見上げる。次の電車までは10分ぐらいの時間があった。
 でもここにいても仕方ないのだ。その少女との様子は、どう見てもかなり親しい関係を想像させるものだった。
 考えたくなかった。でも、ありえる話だった。----大学に入ってから、早坂には『彼女』が出来たのだ、と。
 もう椎名の気持ちの付け入る隙間なんて、とっくになくなっていたのだ。

 (----この半年、悩み続けていた僕は何だったんだろう。
 過去形にしたくないって、でも拒否されたらどうしようって、ずっとずっと悩み続けていたのに……)

 溢れそうになる涙を必死でこらえる。公衆の面前でいきなり泣き出すわけには行かなかった。

 (----僕はどうかしてる……)
 ----こんなに弱くなったなんて。
 切符を買って、空いていた椅子に腰を下ろして電車を待つ。
 ずっと意地を張り続けていた16年。それをあの早坂に突き崩され、その温かな関係にまどろんでいた1年----。
 その間に、心を固めていた鎧は綺麗に溶けてしまったのに、むき出しにされた心だけを置き去りにして早坂は去ってしまった。
 ----『楽しかった』の、過去形だけを残して。
 そのむき出しの心に、今日は深く刺を刺された。そんな気がしていた。
 もう、抜けないかも知れない刺。痛みは増して行くばかりの……。

「----、椎……名……?」
 電車がホームに滑り込む。その甲高い金属音に、紛れるような細い声。
 顔を上げられない。椎名はただ唇を噛んだまま、俯いて、自分の手で震える切符だけを見ている。
「----椎名、だろ?」
 立ち上がり、改札口に向かおうとする。
 会いたかったはずなのに、----今は辛い。
 まともに顔を合わせるのが辛い。
「どうしたんだよっ……」
 肩に乗った手を振りほどく。
 最後まで振り返らずに改札を抜けて電車に駆け込み、ギリギリで閉まったドアに身を預ける。
 さほど混んでない電車のドアに額を押し付ける。
 ----目の前を通り過ぎて行く景色が、やがてぼんやりと輪郭を崩した。もう、流れる涙を止めることは出来そうになかった。


 日曜日。
 椎名は1人部屋の自室にいた。
 3年になってから、成績の落ち込み方がひどい、と担任に指摘されて、志望大学のレベルを落とさなければならなくなったことに親はピリピリしていた。
 請われて続けて来た生徒会の仕事でもミスが多くなっていた。
 自分でも判っていたのだ。
 ----早坂と離れてからの自分は、壊れて行くばかりなのだ。
 ましてや『彼女』を見かけてからのこの数日は、クラスメイトに声をかけられてもすぐに気づけないほど、椎名はぼんやりとしていた。
 今日だって、ベッドの上でぼーっと天井を見上げるだけの無為な1日。もう時刻は夕方になろうとしているが、朝目が覚めて服を着はしたが、それっきり椎名は何処にも行く気になれず、ただ時々起きて部屋を歩き回るだけ。何もしていないに等しかった----寮内放送で呼び出されるまでの間は。
 だるい体を引きずるように寮の玄関へ。寮母さんが、椎名の姿を見つけると小さく手招きして、管理人室へ入るように促している。
 事情が判らないまま、そっと管理人室に入る。そこには、応接セットに座っている早坂がいた。
「----先輩……」
 掠れた声しか出ない。
 すっ、と立ち上がって、寮母さんに目を向ける。彼女は、ただにこやかに無言で頷いた。
 そして椎名の方に向き直ると。
「椎名、話がある。部屋に…行ってもいいか?」
 ----会いたかった。もう一度、その笑顔に触れたかった。
 でももし触れても、いずれ失われると判っているぬくもりなら、それに触れるのはとても怖かった。
「……椎名?」
「あ、----はい、どうぞ」
 それでも----。

 早坂は、部屋に入ってしばらくは、何も話し出さないまま困ったように、ベッドに座っていた椎名を見ているだけだった。椎名の方も、何も言い出せない。聞いてみたいことはあっても、それを聞いてしまうのが怖くて。
「……先輩」
 仕方なく呼びかけたその言葉に、早坂はようやく心を決めたようだった。
「……誰に聞いた? 俺の住所」
 責める口調ではない。それでも、椎名は非難されているように感じる。自分が教えてないのに、誰が? と言っているように聞こえるのだ。
「----松岡先輩」
「そうか」ため息とともに。
 それから。
「----この間、何の用だったんだ、わざわざ来たのに、逃げるみたいに帰って」
 会いたかった。
 そう答えることがこんなに怖いと感じたことは今までなかった。
 ただ唇が震えるだけで、その一言が言い出せずにいる。
「椎名……」
 早坂がゆっくり立ち上がり、椎名のすぐ隣に座り直す。
「こないだ櫻井先生に会ってさ。最近、どうかしてる、って聞いたよ」
 気が乗らない時は「気分が悪い」を言い訳にして保健室でサボっていた。ここ半年は特に回数も増えていたかも知れない。
「来る回数も増えたし、成績も下がってるみたいだし……って、随分心配してたみたいだけど」
 ぽん。
 軽く、肩に衝撃。
 心配そうに覗き込んでる『友達』の顔。
 肩に乗せられた手の意味は、それ以上でもそれ以下でもないのだろう。
「でさ、あの校医が言うには」
 淡々と繰り出される言葉の意味を、もう解釈する気もなくて、椎名はただ俯いたままでいた----が。
「いい薬があるらしくて」
 ----薬?
 突拍子もない方向に話が進んで、思わず顔を上げる。すぐ目の前にいた早坂の顔が、あの頃のように楽しそうに微笑している。
 一緒にいた頃のように。
 ほんの少しの優しさを秘めた笑顔。
「あの先生のことだから、ホントに効くかどうか判らないけどね」
 何のことか判らない。
「処方する価値は、あるような気がしたんだ。だから、渡しに来た」
「----何の----くすり?……」
「うん、こういうこと」
 言葉と同時に、椎名の視界が暗転した。

 あたたかかった。
 その腕の中は。
 早坂の鼓動はひどく速くて。椎名自身の鼓動も、喉元を突き上げそうなほどに大きくて速くて。
 ずっとずっとそうしたかった----
 想いがほんの少しでも重なるなら……

 椎名は、腕を伸ばして早坂のうなじを自分の方に引き寄せる。少し戸惑ったように引いた早坂の頭は、それでもすぐに椎名の手の導くままに近づいて来る。
 ゆるやかに----唇が重なった。

 ずっとこのままでいたかった
 そう思うこともわかっていたのに
 離れなければならないのに
 離れるのは辛いのに
 それでも触れてしまったら

 (僕は、もっと壊れるんだろうか)

 その時に流れた涙の意味は、椎名自身にも、----判らなかった。


2.

 恵里は週末になると、携帯から兄の携帯の番号にかけるのがもう習慣になっていた。
 「遊びに行こうよー」と拗ねるためが大半。でもたいていは断られて終わりだ。大学での友達付き合いもあるのだろうとは思う。
 それでも時々はOKしてくれる。恵里の心中ではそれは「デート」なのだが、晶からすればわがままな妹に振り回されていると思っているのだろう。
 それでも良かった。とりあえず。
 会って、話をして、手をつないで、一緒に歩いて。その権利が当然のことのように恵里には「ある」のだ。妹、という名のもとに。
 少なくとも晶に恋人が出来るまでの間は、その隣を独占していられた。恵里はそれが、とても嬉しかった。

 ポートエリアにオープンした巨大CD店。その中をはしゃぎながら見て回る。服も見て回り(でも買うほどお金はなく)、またケーキ食べて。1日中遊ぶだけ遊んで電車に乗ろうとした。
 駅で電車を待つ間、たくさんの人の中に、恵里はまたあの少年を見つけた。
 その視線は、恵里と合いそうになった途端にふいっと逸れてしまう。
「----お兄ちゃん、あの子、知り合いなんだよね?」
 腕を引っ張って振り向かせる。まだ知らん顔をしている少年の方を指さす。
「----あぁ」
 晶の顔が、ふっ、と笑顔になる。
 優しい顔だった。妹に向ける顔とも違う。
 恵里にはその兄が----普段とは全く違うように見えた。家族には決して見せることのない、不思議な情熱を含んだ優しさ。
「高校の後輩でさ。最近会ってなかったけど」
「ふうん」
「ちょっと----話して来ていいかな。気づいてないみたいだし」
「いいけど」
 その場に恵里を置いて近づいて行く。
 何を話しているのかなんて聞こえる距離ではもちろん、ない。だけど、傍目に見ても彼は少し怒っているようだった。
 宥めている晶と、怒っている少年。
 と言うより…
「……拗ねてる、って感じかな……」
 恵里にはそう見えた。
 2人の会話が止まったらしいところを見計らって、恵里も近づいてみる。そろそろ電車の時間も迫っていた。
「----ねえ、電車、来ちゃうよ。私、これ乗らないと帰れないんだけどなー」
「あ、恵里……」
 振り返って呼びかけた晶の肩越しに、少年が恵里を睨みつけている。
 (……こっわーい!!)
 というのが、恵里の正直な感想だった。どうしてそんなにまで恨まれなければならないのか、全く心当たりがないだけ余計に恐ろしい。
 とはいえ。すぐにピンと来るものがあった。
「----あのさ」
「何だよ」
 その不穏な空気に気づいていないのは晶1人。
「私、ヤバいからもう帰るね。----そこの後輩くん」
「な、なんだよ」
 呼びかけられると思っていなかったのか、妙にうろたえた甲高い声が返って来る。
「こいつ、譲ったげる。好きにしてやって」
「----はあ??」
「……へ??」
 2人が同時に怪訝な声を上げる。だが、さっきまで睨み通しだった少年の方は少し表情が和らいだかに見えた。
「じゃあね、お兄ちゃん」
 恵里はにこっと笑って走り出す。ホントに走らないと間に合いそうもなかった。
「恵里、譲るって……俺はモノじゃないってのにー!!」
 叫ぶ声は、だんだん遠くなって行った。


 ----『お兄ちゃん』。
 さっきまでトゲトゲしかった椎名の心が、その一言だけでふわんと溶け出してしまっていた。
 妹……だったのだ。
 自分が今まで思いつめていたのは何だったんだろう?
 ----そうと判っていたら、折角兄妹で過ごしていた休日の邪魔なんてする気はなかったのに。
 椎名は、何気なく出かけて2人を見つけてしまってから、頭の中で渦巻く怒りに似た思いにどうしても逆らえずに、まるでストーカーのように2人をつけてしまっていたのだ。
 ほんの少しの理性が自分を責め続けるその声にも耳を傾けられずに。
 早坂が気づいて近づいて来た時、ただ挨拶だけをしようとしたのに、まるで近づかれることすら嫌がるように噛みついてしまった。
 もちろん本音はそんなところにないのに。
 それでも、優しい目をしたその男は、あの頃のように怒りもせずに宥めてくれて。
 どうしたらいいのか判らなかった。
 また泣き出してしまいそうになった。
 そんな時にやって来た『彼女』は----
『譲ったげる。好きにしてやって』
 笑いながらそう言って去って行ったのだ。

「----何なんだよ、あいつはぁ……」
 苦笑しながら妹の背中を見送る早坂は、そう言ってから椎名の方に向き直った。
「ほら、譲られちゃったよ。どうする?」
「----ケーキ」
「ん?」
「----奢って」
「わかったよ」
 何故だろう。
 屈託もないその笑顔に裏はないけど。
 椎名には判らない。
 連絡先さえ知らせようとしなかったのに。
 (----僕は何なんだよ、早坂さん)
 歩き出す背中に、心の中で問いかけ続ける。
 (----あなたにとって、僕は……)

 ケーキを買っている早坂の後ろから「テイクアウトにして下さい」と椎名は声をかける。
「え、何処で食うんだよ? ----お前だけ持ち帰る気でいるー?」
「遊びに行ってもいいでしょ、早坂さん」
「俺の部屋に?」
「そ」
 目を覗き込んでみる。戸惑っている。
「……今から行ったんじゃ、ケーキ食ったら門限ギリギリじゃないか?」
「何だよ、嫌なの?」
「----いや、別に……椎名がいいなら、いいけど……」
 とても困っている顔だった。
 椎名の胸の奥に奇妙な熱が燻り始める。
 小さな苛々が出口を求めてさまよい始める。
 部屋に行かれるだけで何がそんなに困るんだろう。
 何故そんな風に困った顔をするんだろう。
 ----考えたくない結論と、そうは思いたくない感情が、椎名の中で交錯する。
 ケーキをぶら下げて道を歩き、電車に揺られて再びその街に降りる。
 慣れた足取りでアパートに向かう早坂の後ろで、無言のまま椎名もついて行く。
 部屋の前で鍵を開け、意外に小綺麗にしている部屋に入る。
 テーブルの上にケーキの箱を乗せて、「紅茶でいいかー、椎名」と言いながら早坂は台所へ向かう。
 窓の外に広がる夕焼けの赤。
 椎名の心に広がっている色と同じだ。
 どうしても、聞きたかった。
 何故教えてくれなかったんだろう。
 何故困っていたのだろう。
 何故----

 (----僕を避けるの……)

 そうとしか思えなかったのだ。
 会えば声をかけてはくれても、会おうとはしてくれない。
 あの1年の間は逆だった。椎名が嫌がったって早坂は色んな場所に椎名を連れ出そうとした。
 それなのに。
「ティーバッグだけどな」
 カップが2つテーブルにやって来る。温かい香り。
 早坂はそれと一緒に皿とフォークも持って来ていた。
「食べるかっ」
 箱を空けようとする手を、椎名は思わず止めてしまう。
「……どうした?」
「早坂さん」
「ん?」
「----あなたはひどい人だ」
 心に広がっていた赤が、頭の芯にまでカッと昇りつめたように思えた。
「な……に言って……」
「----あんたのせいで僕は変わった」
 変わり過ぎた。
「----僕をこんな風にしたのはあなただ」
 何が起きているのか判っていない早坂の体を、封じるように押しやって。
「----あなたのせいだ……」
 すぐ近くのベッドの側面に押し付けて逃げ場を奪う。
 目の前の早坂の表情が、戸惑いから、徐々に奇妙な悲しみを浮かべて行くのが判っていた。
 同情されてるのか。哀れまれているのか。恐らくどちらにしても彼には椎名の行動の予測がついたのだろう。
 早坂は逆らわなかった。椎名が身を乗り出して、あの時と同じように早坂の頭を引き寄せる。
 刹那の絆を、唇に求めて。
 何度も浅く、そして徐々に深く。
 かちん、と歯がぶつかるのは、それ以上の『侵入』を早坂が拒んでいるせいだと、理解した途端に、椎名の頭の中で何かがキレた----ような気がした。
 片手で頭の動きを封じたまま、もう片方の手で早坂のGパンのファスナーに手をかける。
「----!!」
 さすがに、早坂の体が少し驚いたように引いた。わずかに離れた唇から、喘ぐような息と同時に、
「ばかっ、椎名っ、やめ----」
 それ以上の言葉なんか聞きたくなかった。また噛みつくようにキスをして、椎名の手を止めようともがく早坂の手を何度も振り払う。----だが。
「ばかやろうっ……!!」
 ばんっ、という衝撃とともに椎名の体はバランスを崩した。突き飛ばされた、と自覚した時には、今度は椎名がベッドに押しつけられていた。
「何してんだ、お前、どうかしてるっ!!」
 呼吸を荒げて、その悲しそうな顔のまま、早坂が怒鳴る。
「どうかしてるんだよ、頭冷やせよ、----こんなのっ……」
 何か言いかけて。
 突然うなだれる。
 息が震えていた。
 長い沈黙の後で椎名が聞いたその声は。
「----早坂さん?……」
 ----しゃくり上げていた。
「泣いてる……の……?」
 ぱさっ、と力なく、早坂の体が椎名の上に投げ出された。耳元で、必死に何かを堪えるように息をつめて、それでも堪えられない嗚咽が続いている。
「----なん……で……」
 泣きたいのは椎名の方なのに。
 こんなにはっきり『意志表示』して、それを拒否されたのは椎名の方なのに。
「----こんなの椎名じゃない……」
「えっ」
「こんなのお前らしくない」
 ひくっ、と子供みたいにしゃくり上げている隙間からの言葉は。
 とても致命的な----。
「----俺が好きになったのは、そんな椎名じゃないよ……」

「----だから離れようとしたのに……」

 ----でも、待っていたのかも知れない。
 決定的に自分達を引き裂いてくれる何かを。
 そうすれば、悩まないんだから。
 期待することが、なくなるんだから----。

「俺のせいで椎名が変わったって……そう思ったから……」
「…………」
「俺がお前のそばにいたら、椎名は椎名じゃなくなっちまうって……」
「…………」
「----松岡にまで言われたぜ、はっきりとさ、『悪影響』、だってね」
「…………」
「自覚してた。----だからもう止めようと思ったんだ」
「…………」
「椎名は優秀だよ。俺なんかどうしようもないくらいに凄いやつだよ」
「…………」
「だから、----俺なんかのせいでダメになるわけにいかないんだ」
「…………」
「だから……っ、……」
「…………」
「こんなことしないでくれ……、気が狂いそうになる」
「…………早坂さん」
「----ん」
「----あなたは、……ひどい人だ」

 (----僕の気持ちなんて、判ろうともしてくれない……)

「ひどいよ----こんな気持ちにさせたまま、今更離れるなんて許さない」
「----椎……」
「許さない----絶対許さない」
 その首筋に、消えない後を残すように、唇を這わせる。
「----し……いな……」
 悲しみとは違う感情を孕んだ温かな息遣いがしばらく続く。----それなのに。
 いきなり体を引き離す。
「……お願いだから----もう……」
 堪えられないように喘ぐ。
 その瞳に映っている色は、多分椎名と同じ気持ちなのに。
「どうしてっ」
 ----欲しいと思ってくれるなら、すぐにでも全部投げ出すのに。
「早坂さんなら、僕は、」
「やめろっ」
 立ちあがって背中を向ける。
 乱れた息を整えにかかって、やがて抑えたように絞り出す。
「帰れよ、椎名----もう、門限、ヤバいから」
「----また……来てもいいよね」
「------」
「----来るよ。僕は。……絶対来る」
「------」
「絶対、許さないんだから。……絶対に」

 椎名は、ケーキの箱とともに部屋を出る。
 涙が止まらない。
 もう隠すことも出来ない。
 道ですれ違う人々の、怪訝な視線を気にする余裕も、今の椎名にはもう存在しなかった。


 そして冬が来て----

 貼り出された成績表のトップの名前。
 ざわざわと遠目から羨むようなクラスメイトの視線。
 満足そうに微笑んだ担任教師の下卑た笑顔。

 (----そんなものなんか、僕は欲しくない。)

 踵を返してその場を立ち去って、図書館へと向かう。

 (----何をすれば『椎名千尋』に戻れる?)

 模試の申込書に機械的に記入する。広げた参考書に引かれた蛍光ペンの色をぼんやりと目で追う。
 やれる限りのことをやるようにした。
 ともすれば途切れそうになる集中力を必死に焚きつけて勉強した。
 成績も元に戻っている。でも、あの頃は達成感もあったトップの立場も、今となってはまるで空虚で落ち着けない。
 そんなものが欲しいんじゃないと判っているから。

 (----何をすれば、あなたが好きだった『椎名』になれる?)

 自分に課した課題は際限なく高くなり続けて、それでも何がゴールなのかは椎名自身にもよく判らなかった。
 同じ生活を送っているはずの日常。
 たった1人がいない、それだけが違うだけの。
 それだけなのに。

 (----早坂さん……)

 思い出すたびに痛みを伴う名前。

 (早坂さん、早坂さん、早坂さん……!!)

 でもその痛みは甘過ぎて。その痛みを感じることですら心地良いと感じる自分がそこにいて。

 (あいたい)

 封印したはずの感情が溢れた時、力の入り過ぎた手の先でシャーペンの芯が折れた。
「痛っ」
 誰かに飛んだらしい。
 心を落ち着けるように深呼吸して、頭を上げる。
「すいませんでした」
「いや、いいよ、大したことじゃない」
 落ち着いたその声は学生ではない。とっさににこやかな愛想笑いを作ろうとして、----固まってしまう。
 目の前にいたのは保健医の櫻井だった。
「何で図書館なんかに?」
「いや、ある生徒がふらふらしながら入って行ったのを見かけたんで、具合でも悪いのかと思ってついて来たんだよ」
 にこにこと笑いながら、隣に腰を下ろす。
「----あの」
「大丈夫かな、椎名くん」
 有無を言わせず額に手を当てられる。
「大丈夫です」
「いーや、重症だね」
「----は?」
「いやはや。……何をそんなに焦っているんだか知らないが、放課後保健室に来なさい」
「何処も悪くないです」
「それでも、だよ」
 意味不明な笑顔を残して、櫻井は去って行く。
「----はぁ?」
 時々判らない行動を取るその校医の背中を見ながら、それでもそういう意味不明な行動を取る時には「何か」あるんだろうな、とぼんやり考える。
 (----まあ、いいけど。)
 し損ねた返事を心でだけして、再び参考書に目を落とした。

「来てあげたよ」
 椎名はむすっとしたまま、保健室に足を踏み入れる。
 返事はなかった。
「櫻井先生?」
 部屋中を探し回る。ベッドの置いてあるカーテンの中も覗いてみるが誰もいない。
「何だよ、来いって言ったのはそっちじゃないかよぉ……」
 独りで文句を言いながら探し続けていたが、諦めて部屋を出ようとする。しかし、ドアに誰かが立ちふさがっていた。
 そこに立っていたのは。
「----何してるんですか?」
 制服姿ではない。ここの生徒ではない。
 卒業したはずの、----早坂がいた。
「----椎名こそ」
「ぼ、僕はちょっと、櫻井先生に呼ばれて----」
 そう言った途端、早坂の顔がみるみる紅潮して行くのが判った。
「あの先生は……ったく、余計なことっ……」
 そう呟いて、はぁ、と溜め息をついて。
 しばらく何かを振り払うように頭を振っていたが、
「椎名」
「はい」
「今度の日曜、予定は?」
「特にないですけど」
 まだ少し赤らんだままの早坂は、照れたような笑顔を椎名に向けた。
 ドキリとする。
 そんな風に見てくれたことなんて1度もなかったのに。
「また絶対来るって----言ったよな」
 ----とても直接的な----
「……うん、……行くよ」
 ----不思議なほどに暖かな笑顔だと思った。


 その日は----彼は拒否しなかった。
 まるで箍が外れたように何度も椎名を求めてくれた。
 立ち上がれなくなりそうなほどの疲労と慣れない痛みはあっても、それですら今の椎名には、探していたつながりを体に刻み込まれたように嬉しくて。
 早坂の方が不安になって引こうとしても、椎名は必ず引き戻した。

 ----やめないで

 そんな熱い息とともに。

 ----離れないで

 泣くような囁きとともに。

 ----離さないで……せめて今だけはこのままでいて……

 気が遠くなりそうな安堵と、心地良い束縛と、……何度も押し寄せて辿り着く快楽の嵐とともに。

 ----僕は許さないよ

 ----絶対許さないよ

 --------僕から離れようとするなんて、もう2度と許さない--------

 ----絶対に----!!


epilouue.

「だるー」
 保健室に入って来た途端、椎名はベッドの1つにばたんとうつ伏せる。
「おいおい、保健医の許可なく勝手にベッドを使うんじゃない」
 苦笑しながら櫻井は椎名の体を起こそうとする。
「ホントにだるいんだったらー……」
 最近、月曜日の朝はいつもこんな調子だ。
「昨夜何時に寝たんだ? 寝不足か?」
「普通に寝てるよー。門限破ってないし」
「出かけてたのか」
「………」
 無言。
 何処に行っていたかなんて、櫻井は聞かない。聞くだけ野暮だし、だからこそ『だるい』のだと判っているからだ。
「----そうか、だるいんだな………腰が」
 何気なく呟いて去ろうとすると、どすん、と背中をどつかれる。
「わっ」
「判ったようなこと言わないで下さいっ」
「ひどいなー……感謝されこそすれそんなことされる謂れは」
「か、感謝ーっ!?」
 椎名は真っ赤になって反論している。
 判りやすい少年である。
「何で早坂が『折れた』と思ってるんだ?」
 穏やかに切り出す。
「あ、あんた何かやったのか?」
「やったよ。もう隠すこともないだろうしね」
「何をっ」
「口説いた」
「……はあっ???」
「口説いたんだよ、早坂をさ」
「----なっ……」
 ますます真っ赤になって、今度は無言でぽかぽか櫻井を殴り始める。
「こら、何だいきなり、だるいなんて嘘だな、元気じゃないか」
「何だよそれっ、先輩に何したんだよっ」
「やれやれ、可愛い新妻の嫉妬みたいなことしてるぞ、椎名」
 手が止まる。肩が怒りでわなわな震えていた。
「ははは」
 軽く笑って。
「『口説いた』ってのは、----お前をどうにかしろって言ったんだよ」
「----えっ」
 意外そうな声。
「あいつはずいぶん自分を責めてたからね」
「…………」
「でも相手が何の意志もなく人によって『変わる』ことなんてありはしない」
「…………」
「それが気持ちいいから、そうしたいから、人は変わる」
「…………」
「洗脳したなら別だが、これは明らかにそんなんじゃない」
「…………」
「お前があいつを好きだということを、あいつは痛いほど判っていたよ」
「…………」
「それにあいつも----」
「………判ってる」
「そうだな。だから言っただけだ」
「何を」
「----『それ以外に、何があるんだ?』って」
 優しく、そっと頭を撫でてやる。椎名は珍しくて逆らわずに大人しくしている。
「変わること、変えることを恐れてたら人を好きになんかなれないし、人に愛されることも出来ない」
「…………」
「自分のために変わってくれるほどの恋心、相手のために変わろうと思う程の愛情、----それ以外に、何が必要なんだ、ってね……」
「…………」
「だから、あの日2人をここに呼んだ」
 そして----

 椎名は何かを吹っ切った。
 その日以来、椎名は以前よりずっと明るくなった。
 相変わらず先生に対する態度は猫かぶりだが、何処か投げやりで無為な視線はもうなくなっていた----。

「----先生」
「うん?」
「----ありがとう」
「いや、何、大したことじゃないさ」
 穏やかな笑顔。
 とても幸せそうな。
 表向きを繕うだけで何処か空虚だったこの少年が、初めて見せる、はにかんだような、それでも満ち足りた、----笑顔。

「----でもやっぱりだるい」
 ぱたん、とベッドに逆戻り。
「仕方ないな。----1時間だけだぞ」
「----はぁい」
 くぐこもった声を聞きながら、櫻井はそっとカーテンを閉めた。

=== END === / 2000.08.20 / textnerd / Thanks for All Readers!

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