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BOY×BOY〜私立光陵学院誠心寮〜(PC) 二次創作

   触れる手の意味が変わる時

Part 1 〜 Side.Y −Angel I−

 その日学校から帰る途中から既に早坂はぼーっとしていた。
 前日、傘を忘れて激しい夏の通り雨に降られて帰った後からちょっと熱っぽかったらしく、朝から学校でも本調子ではなかったらしい。
 だが、隣を歩いている結城の話に答えられないほどぼんやりはしてなかった----と思う。
「----早坂、聞いてないだろ、お前」
「ん?」
 緩慢な動作で横を向く。
「----ごめん、なに?」
「----大丈夫か?」
「うーん……」
 大丈夫じゃなさそうに見えた。
 寮に戻ると、結城は早坂の部屋の中まで付いて行く。
 2年の時は、オーストリアからの留学生が早坂と同室だったが、今は1人だ。誰も使っていないベットに結城は自分の鞄を投げ出して、もう一方のベットにぱたんと倒れ込んだ早坂を覗き込んでいた。
 額に手を当てる。
「----お前なあ…具合悪ぃなら早退しろよ……」
 その熱さに驚いて、結城は部屋を出る。
 寮母さんに話をすると、早速水枕とハンドタオルを用意してくれる。寮母さんが運ぼうとするのを、自分がやるからと荷物だけ受け取る。
 水枕に氷水を流し込む。ハンドタオルを濡らしてきつく絞る。
 部屋に戻ると、うつらうつらしているらしい早坂の頭の下に水枕を敷いて、額の上に冷たい濡れタオルを乗せる。
 早坂は一瞬目を覚まして、ぼーっと潤んだ無感動な目で結城をしばらく見上げていた。
「……なんだよ」
 ----いたたまれなかった。
 いつものようにふざけていられないのは。
「……ごめん……」
 吐息のような言葉。
「----バカ、気にすんなよ、そんなこと」
 鞄をひっつかんで、部屋を出る。最後に一瞬だけ振り返ると、熱に浮かされた視線はまだ結城を見ていた。
「また後で様子見に来る」
「----ん」
 弱々しい微笑に見送られて、結城は古びた木の扉を静かに閉める。背中を、とんっ、とそのドアに預ける。
 見られることだけで時折こんなに苦しくなるのは……。
 (----ヤバい前兆だな)
 胸の中で苦笑するしかなかった。

 ----そんな風に思うのは久々なのだ。
 少しずつ思い出して行くしかないんだろう。
 自分の中で1度消したはずの想いを。
 あの頃は受け入れられなかった想いを。
 今は----受け入れたかった。
 もう嘘はつきたくなかったのだ。
 あいつにも、自分自身にも-----


 夜、夕飯の時刻にも結局早坂は起きて来られなかったらしい。
 事情を知る寮母さんが1人分の食事を盆に乗せて、結城に声をかけて来る。
「食べられそうかねえ」
 魚のフライ。病人に向いた食事とは言えないだろう。主食は一応おかゆに替わっていたが。
「おかゆだけ持ってってみますよ」
「そうだね」
 寮母さんは笑ってフライやらサラダやらを取り下げる。箸もスプーンに入れ替えてもらった。
 そろそろと廊下を歩いて早坂の部屋のドアの前へ。両手が塞がっているのでどうしようかと考えあぐねていると、一番会いたくないヤツ----松岡がたまたま通りかかった。
「-----」
 おかゆを持って突っ立っていたら状況は想像出来そうなものだ。
「晶のヤツ、寝込んでるのか?」
 向こうも『お前にに尋ねるのは嫌だ』という顔をしながらも、他に誰もいないのでそう聞いて来る。
「----あぁ」背に腹は何とやら。「ドア、開けてくれないか?」
 無言で、ドアを開けると、何も言わないまま結城より先に部屋に入る。
 夕方に来た時のまま全然姿勢を変えてない早坂の姿が目に入る。まだ制服のまま。『教育ママ』が額のタオルを取り上げると、無言で部屋を出て行く。
「----」
 また冷やして来る気なんだろうな、とは思った。
 机に盆を置くと、ベッドの方へ。起こしては悪いだろうかと考えあぐねているうちに、薄く早坂の目が開く。
「----何だ、結城か」
 安堵したような声。
「起こしちまったか?」
「いや、目が覚めただけ」
「寮母さんがおかゆ作ってくれたぞ」
「うん----腹減った」
 少し、楽になったらしい笑顔。
 ゆっくりと上半身を起こす。手伝おうとする結城を「そんなに病人じゃないって」と柔らかに断って、自力で机に辿り着く。
 もういなくなった留学生の椅子に腰かけた結城の目の前で、ゆっくりした動作でおかゆを片づけて行く。
 いつもの食べっぷりとは程遠いお上品さに、逆に辛さが垣間見えるような気がしていた。
 ドアが再び開いて、また無言のまま松岡が入って来る。
 無人のベッドを見ると、手のタオルと水枕を交換してまた出て行く。
「----何か言ってけよなぁ…」
 最近の松岡はずっとこんな風だ。前は会うたび憎まれ口大会だったのに、最近は口も利かない。
 3年になってから、生徒会長という大役のついでに寮長まで背負ってしまったせいか、前にも増して凄まじく忙しいらしい。その忙しさついでにますます早坂をこき使っているらしいのも知っていた。
 ----こいつは断らないから。
 もごもごおかゆと格闘している病人をちらと見る。
 平日の放課後はほとんど生徒会室に拉致されているらしい。前は力仕事専門だったらしいが、最近は書類の整理にも駆り出されているとため息交じりに話していた。
 ----…オレ、あーいうのは向かないんだけどな、ホントは…
 困ったように笑いながらそんな風にも言っていた。
 ----それでも、こいつは断らないから。
 思い出して結城は少し苛々する。
 嫌なら行かなきゃいいのだ、松岡の所へなんて。
 それはつまり、----嫌じゃないのだ、基本的には。多分。
 こいつと松岡の間にあるものを全て知っているわけではない。幼馴染みで、自分よりももっと長い時を共有して来た人間だ、ということは知っていても。
 おかゆを平らげたらしく早坂がスプーンを置いた頃、水枕----いや松岡が戻って来る。
 まだ黙ったまま、枕の上に水枕を。それからようやく口を開く。
「晶」
 早坂が、キィ、と椅子を鳴らしてゆっくりと振り返る。
「着替えて寝ろよ、ちゃんと」
 まさに保護者の言い分。
「はぁい……」
 バツが悪そうににやにやしているところを見ると、考えてることは同じと見た。
 最後にうざったそうな目で結城をちらっと見た後、松岡は部屋を出て行った。
「じゃあ、俺も部屋帰るぜ」
「あ、うん」
 食器と盆を抱える。早坂がドアを開けて。
「お休み。ちゃんと治せよ」
「うん」
「それから」
「何?」
「----無理、するなよ、しばらくは」
 松岡に何か頼まれたとしても、という言葉は何故か言い出せなかった。
「無理なんてしてないぜ、いつだって」
 早坂の笑顔に裏はない。だからホントにそうだとしても。
 (----オレが嫌なんだよ。)
 結城は心の中でだけそっと呟いた。


Part 2 〜 Side.M −Nimphet I−

 遠くから聞こえて来る足音で、誰なのかもう判っていた。それでも生徒会室のドアにノックの音がした時、「誰だ」などといつもの口調で問いかける。
「俺だよ、早坂」
「あぁ、入れよ」
 前日まで病人だった早坂はもうすっかり回復して、いつも通りの笑顔で部屋に入って来た。
「病み上がりは早く帰った方が良くないか?」
「もう平気だって」
「だが今はお前の手が必要なほど忙しいわけでもないし」
「----いいだろ、別に」
 近くのパイプ椅子を引き寄せて座り込み、手元に散らばっている紙を見回している。
 あの日----3月の卒業式の日以来、早坂はほぼ毎日のように、用がなくてもここへ来ては所在なさそうに松岡の仕事ぶりを見ている。途中で飽きて帰ってしまうこともあるが、終わるまでぼーっと待っていることもある。
 椎名は、相変わらず松岡の前ではいい書記でいてくれているが、松岡がいなくなると露骨に早坂を鬱陶しがっているらしい。
 今日もまた、続いて入って来た椎名は一瞬げんなりしていたが、やがて松岡の存在に気づいたようにぱっと顔を輝かせて、
「会長、……あっ、すいません、片づけてる途中で」
 机の紙をぱたぱた整理し始める。
「あと、これ、総会の報告書です。目を通していただいて、もしこれでよろしければコピーして来ます」
 ぱさっ、と数枚の紙束が松岡の手に渡る。
「判った。見ておく」
「はい、じゃ、何かあったらコンピュータ室にいますので」
 書類作成に追われている時は、椎名はたいていコンピュータ室にいる。今日もしばらくこもっているだろう。遠ざかる足音を聞きながら、松岡は早速書類に目を落とす。
 小綺麗にレイアウトされた報告書はいつものようにソツがない。椎名は、一緒に仕事をする上では一番信頼出来る『部下』だ。使えない人間が頭数揃っているより椎名1人の方がいいと思うこともしばしばだ。
 その意味ではもちろん、必要な存在なのだが----。
 ----与えられた役割のためではなく、ただ自分の心がその存在に飢えるような、そんな『必要』ではないのだ。
「なぁ」
 机に頬杖ついて見上げる顔が、退屈そうに口を開く。
「何か手伝うこと、ない?」
 数瞬の沈黙。
「ない」
 松岡の返事に、うー、と拗ねたように唸って、早坂は立ち上がる。
 窓辺に寄って、外を見下ろし校庭をぼんやり眺めている。

 いつまでこうしていられるんだろう。

 今の松岡自身にとって、自分の心こそが少し重過ぎる荷物だった。
 いずれは違う道を歩き出すかも知れないのに、それでもこの空間を必要だと感じてしまっている自分の心が。
 いずれなくなる世界なのに-----。
 書類に無理に集中しようとする。忙しければ考えなくて済むことの色々が、頭にぽつんと浮かんで来るのを振り払いながら。

 いくつか訂正を入れてコンピュータ室にいる椎名に渡して来る。生徒会室に戻ってまた書類整理が続く。
 早坂はまた頬杖に戻ってただ松岡の手元を見ている。
「なぁ……」
 今度はすかさず、
「ないぞ」
「まだ何も言ってないだろ」不満そうだ。
「じゃ、何だ」
 書類から目を上げる。
「いつ終わるんだ、それ」
「………」
 校舎の外の色は一面の夕焼け。時間の経過にその時になって気づく。
 はぁ、とため息をついて。
「……今日中じゃなくてもいいしな」
 自分に対する言い訳のようにそう言う。

 時々は、こうして一緒に寮に帰ることもある。他愛ない話をしながら歩く通学路は、それまでに歩いていた距離と同じとは思えないほど短く感じる。
 とはいえ、寮に戻ったとしても、今度は寮長としての仕事がまた待っている。幸いここ最近は大したトラブルもないから仕事と呼べる仕事があるわけではなかった。
 部屋に戻り、椅子に体を預ける。年度始めの忙しさがなくなると、逆に気が抜けて疲労感ばかりが濃く感じる。
 仕事のことだけならまだ良かったのだが。
 あの日----早坂に告げてしまった自分の弱さが、松岡自身にとって心に入り込んで抜けない楔になってしまっていた。
 早坂には裏がない。いつも、そばにいて欲しいと思う時には、退屈そうだが、それでもそこにはいてくれる。
 でもそれは----永遠ではない。
 自分が向かおうとしている道と早坂の進もうとしている道筋はあまりにも違い過ぎるから。
 早ければ来年には、こうしてはいられないかも知れない。
 そばにいて欲しいと、いくら切実に願ったとしても……

 (----多分、こっちだけなんだろうな)

 ドアに乾いたノックの音がして、松岡はふと現実に引き戻される。
 時計を見ると夕食の時間が過ぎている。
 立ち上がってドアを開けると、そこにいたのは早坂だった。
「どうしたんだよ、珍しいな」
「ちょっとな」
 遅刻の原因を見下ろしながら苦笑する。
 実のところ、こいつがどれだけ松岡のことを「想って」いるのかは判らない。----もしかしたら、松岡の中に生まれ始めてるそれとは違う種類かも知れない。
「……最近、妙に無口だよなあ、松岡は」
「ん?」
「急げってば、ほらっ」
 急き立てるために捉まれた腕すら、何か違う生き物のように感じられるような。
「松岡?」
 必要以上に----
「----先、行っててくれ」
「あ?」
「用を思い出した」
 ----近づくのが怖くなるなんて。
 ----触れることが怖くなるなんて。
 ----触れることで揺れる自分を、抑えることが苦しいだなんて。

 (----多分、こっちだけなんだろうな)

 あの日からも変わらない早坂の態度に、それを何度も自覚させられるのが、

 ----こんなに………苦しいだなんて。


Part 3 〜 Side.S −Babe I−

 (----廊下で1人窓の外を眺める美少年。)
「絵になるねえ」
 賞賛された張本人は、必要以上にびくっと驚いて振り返る。
「さ、櫻井先生……」
 窓際の少年----早坂は一言言った途端、何もしてないのに後ずさりを始めている。
「随分悩ましい顔してたね」
 さらっと言って強引に隣に並んで一緒の光景を見ようとする。
 微妙に30cmぐらい離れてから、
「べ、別にそんな意識してたわけじゃっ……」
「なーんだ、つまらないな。ついに早坂くんも恋に悩む少年になったのかと思ったのに」
「な……」
 むすーっ、とむくれて、また校庭に目を戻す。
 運動部の練習風景。下校する生徒がぱらぱらと。いつも通りの校庭だ。
「何がそんなに楽しいんだい?」
「いや、別に」
「じゃ何を見てたんだい?」
「関係ないです」
「つれないなー」
「関係ないです」
 はあ、とため息をついて、その場から離れようとする早坂の背中に、
「まあ、何か悩みがあるなら頼りにして欲しいな、一応、校医兼カウンセラーなんだしね」
 とだけ、呼びかける。
 それまでだって、何かあれば話に来てくれたこともあった。
 もうすぐ卒業式----。終われば彼は3年生になる。受験戦争に巻き込まれてしまえば、悩みは進路や受験にだんだん移って行く。だが、まだその戦争から中途半端に距離のある2年生の今、窓の外を見ていた早坂の思考回路は違う所にあるように見えた。
 もっと別の。
「多分……私の得意分野だと思うんだがなあ」
 遠ざかる背中に、そんなことを小声で呟いてみる。
 でもそういう類のものであれば本人が言いたがらないのに無理強いするわけにもいかない。
 ましてやあの早坂の場合は。
 (----聞きたくないような、知りたいような。)
 ふふっ、と1人笑って、櫻井もその場を離れる。

 光陵ネットの掲示板で他愛ない音楽談義なんかに参加してるうち、早坂から「ライヴ、連れてってくれない?」などとメールをもらうようになったのは夏頃からだったと思う。
 それ以来時々、学校外で会うことがあった。彼は入寮する前は賑やかな家族の中で暮らしていたらしいので、多分光陵でも「兄貴」的存在が何処かで欲しかったのだろうな、と思っていた。
 男でも女でも関係なく口説く、と噂になっているせいで、変に気味悪がって近づかない他の生徒とは明らかに違っていた。ふざけて口説く真似をしてたら悪態で返されるが、だからと言ってそれで悩んだりはしないタイプのようで、一緒に出かけること自体は嫌がらない。
 ----無自覚で無防備で、表裏のない素直な性格なのだ。今どき珍しいぐらいの。
 櫻井は、かなりこの少年に興味を惹かれていた。口説き文句が日常会話なだけ、などと、早坂の方は思っているのかも知れないが。

「はぁ……」
 ため息をつく目の前の生徒----生徒会書記の椎名の右手首に湿布をして櫻井は声をかける。
 軽度の腱鞘炎だ。使わなければ治る程度の。
「あんまり根をつめちゃいけないな。会長は君を随分頼りにしているそうだから」
 そんなことを言われたら、普段は妙に有頂天になるはずのこの少年が、最近は、
「どうだか」
 と自嘲めいた捨てゼリフを吐くようになった。
「都合よく使われてるだけなのかも」
 ただ、その裏に漂う感情はそこはかとなく淋しそうで。
 ここまで慕われる松岡という男も羨ましい、などと思いながらも、気になるこの変化の原因をさりげなく尋ねてみる。
 椎名の口から出て来たのは意外なことにあの早坂の名前だった。
 最近、あの少年は生徒会室にいることが多いというのだ。椎名は、純粋にそれが気に食わないらしい。
 元々、幼馴染の2人だ。別に一緒にいるのを目撃するくらい何でもないだろうが、ほぼ毎日となると事情は変わって来る。
 それでも。
「そりゃあ、もうすぐ卒業式だし、色々忙しいんだろ、生徒会も。手が足りないんじゃないか?」
 と、一応あたりさわりのないことを答えておいた。
「----まあね」
 不満そうにあらぬ方向を見て考え込んでいる。
「仕事してる分には----別にいいんだけど」
 吐き捨てるように言って、不自由になった右手を恨めしげに見ている。
「ねぇ、これいつんなったら取れる?」
「2〜3日はそのまま」
「そんなぁ」
「今、無理したら、一番忙しい時期にもっとひといことになるよ。これでも医者なんだから言うこと聞いてくれなきゃ」
「……はぁ……」
 独りでぶつぶつ文句を言いながら、それでもそっと手首を気遣うようにしながら、椎名は部屋を出て行った。


Part 4 〜 Side.S −Babe II−

 春休みに入った。
 よく晴れた日曜日のオープンカフェに男2人が向かい合って座っているのは相当似合わない。早坂本人が以前そんなことを言っていたような気がしたが、今日は珍しく嫌だとも言わず、櫻井の目の前でジュースをストローで引っかき回すことに専念していた。
「……先生」
 カラカラ氷の音を立てながら。
「ん?」
 紅茶のカップに口をつけようとした時、
「……今まで、何人ぐらい付き合ったことある?」
 いきなりの質問に櫻井は一瞬紅茶を吹きそうになって慌ててカップを下ろす。
「----うーん、早坂からそういう話をしてくれるのは何だか嬉しいね……」
 ふざけたようにぽんっと膝に手を置いただけでも、やたらに大袈裟に嫌がって払いのけようと…………
 ----しなかった。今日の早坂は。
 ………それはそれで手のやり場に困り(真昼のカフェだし)、仕方なく引き下がって頬杖をつく。
「覚えてないな」
「男女比、どのくらい?」
 周りが聞いていたら引きそうな会話だ(男2人だし)。櫻井は困ったように笑いながら、
「さあ」
「さあ……って」
 むくれて、何故かヤケのようにまたストローの回転速度が上がる。
「そんなにかき回してたら、氷溶けて薄まっちゃうぞ?」
 止めに入るつもりで手を掴む。
 動きは止まったものの、どうもそれまでと勝手が違う。
 いつもならもっと怒るからだ。ほんの些細な接触ですらも。
 ストローを掴んでいた手が離れ、力なくテーブルにぱたんと落ちる。おかげで、公衆の面々で白昼堂々手を握り合ってる男2人、という構図になってしまっている。
 櫻井はそれでも気にしないが、早坂の方はそういうのは気にするタイプだと思っていたのだが。
 ----どうも……気づいていないらしい。
 何かが頭の中を占めているのだ。もちろん目の前の櫻井のことではないだろう。さっきの質問からしたって、さっきまで見ていた新作映画のこととも思えない。
「----早坂、変だな、今日は」
「……先生」
 されるがままに投げ出された指先がほんの少し動いたような気がした。
 そして、まるで慣性でふらふら動くストローにでも話しかけるように、
「……初めて、男を好きになったのは、いつ?」
 真剣な瞳で、----そう問いかけられた。

 それ以上の話をオープンカフェではさすがにしたくなかった。早坂が珍しく拒否しないのをいいことに、櫻井は彼を自分の部屋に招き入れる。
 新調したばかりのソファに身を埋めたまま、何をされても気づかなそうなほど、意識ここにあらず、という表情でぼんやりしている。
「----どうした、ホントに変だぞ? 調子狂わされっ放しだな」
 そっと肩に触ってみても無反応。
 これはこれで何だか面白くないな、などと思って1人で苦笑する。
「……何度か……」
 しばらくの沈黙の後で、やっと口を開いて。
「見ている夢がある」
「へえ、どんな」
 ふっと俯いて。少し辛そうに。
「----女の子。……叶わぬ恋をした女の子の夢」

「----舞台は昔の日本らしい。
 その時代、『女』は、政治や血筋のためにやりとりされる道具で、後継ぎを産むこと以外は何も期待されていなくて……、そんな生き方を選ぶしかなかった姉たちを見て、そんなの嫌だと思ってた」

「----女の子はそんな時、物語や人の噂で……、高尚な僧侶や武士や貴族達が、政治戦略のためではない『恋愛』をしていることに気づく。
 その相手は『女』じゃなかった。
 逆に『女』を相手にしている限り、その恋は血筋や身分や政略に翻弄されてしまう宿命だったんだ。そういう時代だった。
 子供が生まれてしまえば、そこに諍いが起こる。殺戮と、争いと。ただ好きになっただけでも、周りは、ただ好きになったとは思ってくれない恋もある」

「女の子は----望まない結婚を強いられた。
 強い家柄との結びつきを得るために差し出された人身御供で、まだ十代なのに30歳以上も年上の男の家に嫁いだ。
 彼女は逃げ出したいと思い続けて、ストレスで体を壊してしまった。
 子供が生めない体になって、実家からも嫁ぎ先からも役立たずと罵られた」

「女の子は、嫁いだ先の家で、主人の警護役として仕えていた1人の男に恋をした。もちろんそれは叶うはずのない恋で、相手に気持ちを告げることすら許されない恋で。
 彼女の心労は積み重なり、日に日に弱って、血を吐くようになり、----もう死ぬだろうと覚悟した。
 その時、彼女は願ったんだ。
 今度生まれる時は男になりたいって。
 たとえ結婚出来なくても、その男のそばにいられるならそれでいいって。
 男になって……彼と同じ時代を生きて。たとえばそれが戦の時代でも、たとえばそれが飢饉の時代でも、それでもただそばにいられるなら……それでいいから、それだけでいいから----」

「だから同じ時代に生まれ変わって、同じ土地で生まれ変わって、必ず再会させて欲しいって……
 そう願って----彼女は死んだ」

 淡々と話していた早坂の瞳が、ほんの少し潤んでいるように櫻井には見えた。
「----悲しい話だね」
 多分拒否しない。そんな気がして肩を抱き寄せる。少しためらった後、それでも唇をそっとかすめるぐらいのキスをしても、----拒絶しなかった。
「……先生、俺には----まだ判らない。自分の心が」
 拒絶しなかった、だけに見える。
 そうして欲しかった、わけではなくて。
 辛うじて溢れずにいる涙をまばたきで鎮めようとしながら、それでも真っ直ぐに櫻井の方を見ていて。
「自分の中で、どうにかして『理由』が欲しかったんだと思う。あいつを----好きになってもいいって。そのことばっかり考えてたから、きっとこんな----」
 櫻井である必要はないのだ。恐らく誰でも。「それ」を理解してくれる人であれば。
「もういい」
 無理に話を止めた。
「もう話さないで」
 そっとその頬を包み込むように手を添えて、出来うる限り優しく始めたキスで。
「----『彼』を好きになれるかどうか----」
 少ししゃくり上げながら、それでも無抵抗な早坂の体を、ゆっくりとソファに押し倒して。
「----試してみるかい?」

「君にそれを教えられる人間は、きっと私しかいないんだからね----」


Part 5 〜 Side.M −Nimphet II−

 3年生になって初めての試験も近くなった。
 手助けはしないが、見てやるぐらいなら、などと言い出した時点で、もう去年とは明らかに違っている。
 早坂の部屋。松岡は留学生が使っていた椅子をずるずる引きずってすぐ隣に陣取り、いつもとは逆に、滞る早坂の手元を、じぃっ、と眺めてやったりしている。
「……やりづらいなあ……」
「いつもは俺がそう思ってるんだがな。少しは気持ちが判ったか?」
「そういう問題か?」
「……しかしノート真っ白だな」
「余計なお世話だ」
 相変わらず悪態をつきながら、それでも勉強はする気になっている。やがて早坂が、口の中で公式をぶつくさ唱えながら化学式と戦い出したので、松岡は少し離れて、淹れてあったコーヒーを飲んだりしている。
 その間にも----
 シャープペンの後ろで自分のほっぺたをつついたり。
 うー、と声にならない声を上げながら自分の額に手を当てて考え込んでいたり。
 一瞬突っ伏して「はあ……」と妙に長い溜め息を吐いてまた起き上がったり。
「………落ち着きのない……」
 思わず呟いた松岡を振り返ってむくれ顔で睨んでみたり。
「勉強してる姿まで、こんなに見てて飽きないヤツだとは思わなかったよ」
 くすくす笑い出してしまった松岡に、早坂はむすうっとしたままシャープペンを机に投げ出す。
「……やる気なくさせに来たのか? 松岡……」
「いや」
 ----でも。
「休憩するか?」
 視線で早坂のカップを示す。彼は諦めたようにコーヒーを手にする。
 2人だけの部屋。ただコーヒーの香りと沈黙だけの時間。
 その空間は不快ではない。
 椅子のキャスターをからから言わせて早坂が近づいて来る。
「なぁ」
「ん」
 いきなり、松岡の視界がぼやける。早坂が眼鏡を取ったらしいのは判った。
「裸眼だとどのくらいまで近づけば見えるんだ? 松岡って」
「………」
 いきなりの質問に少し戸惑ってから、松岡は、目の前の早坂の顔(と思われるぼやけた物体)の前にいきなり顔を近づける。
 ほんの少しどちらかが近づいたら触れそうな距離。
「このくらいかな」
 実際にそうなんだが。
「------」
「------」
 お互いに何も言わないままその距離で止まっている。
「------」
「------」
 息がかかりそうな距離で。
 鼓動の早さが早坂に聞こえそうだと思える距離で。
「------」
「------なあ、松岡」
 喋ると、息はかかる距離だ。
 その声に本当は飛び上がりそうな心臓を落ち着かせる。
「------ん?」
「------」
 す、と、早坂の顔が、ぼやけた物体に逆戻りする。
「不便だな、視力が悪いってのは」
 ぽん、と眼鏡が返って来て、カラカラ音がする。
 眼鏡をかけた松岡の視界に戻って来たのは、早坂が再び自分の机に向かっている姿だった。
 奇妙な感覚が胸元でざわついている。
 近づかれることに対して、早坂がただそれだけの反応しかなかったことに。
 ----『鈍い』のはどっちだ?
 横顔に心だけでそう叫んでいる。
 知らず識らずに引きつるような深呼吸を繰り返している。
 無性に----何かを変えたくなる。

 どうせいつかはこんな日常は終わる。早ければあと1年弱で----
 同じ大学に通うこともないだろう。同じ道を歩むはずがないのだから。
 いずれ壊れなければならない日常なら
 いつか壊れてしまう日々なら

 ----今、壊しても……

 シャーペンを置いて伸びをした早坂が松岡を振り返った時、立ち上がった松岡の手が早坂の肩にかかっていた。
 きょとん、とした顔をしていた。何が起きたか理解出来ないような。
「----なに?」
 一瞬後にやって来た屈託のない笑顔を遮るように、その体を腕の中に引き寄せる。
「……ま……松岡!?」
 突拍子もない声。
 判っていなかったのか、やっぱり。
 これ以上ないくらいはっきり言ったつもりだったのに、それでも----
「……ばっ……な、にして……」
 困ったように、居心地悪そうに、体をよじって抜け出そうとする。それに抗おうと力を入れた途端、
「痛っ」
 と悲鳴に似た声が聞こえて、思わず腕が緩んだ。
 その隙に、ばんっ、と今度は松岡の体が揺れた。
 ぐらっ、と視界が傾く。背中に当たる感触はベットだろう。
 ぱふっ、と受け留められて、しばらくふわふわと上下を繰り返して。
 視界に入った白い天井に、すっ、と黒い影が入る。
「……松岡ッ」
 自分を見下ろしている早坂の頭がそこにいた。
「------」
 表情は逆光で見えない。
 再び手が伸びて、眼鏡を奪う。その後で落ちて来る、ぼんやりとした黒い塊。何が起こるのかまるで掴めずにいた松岡の言葉が、突然、……塞がれた。
「-----!!…」
 心臓が体から飛び出してしまいそうだった。
 早坂の方からそういう行動に出て来るなんて考えたことがまるでなかったのだ。というより----

 ----通じていた、とも……思っていなかったのだ。

 ごく浅いキスから始まり、やがて深く絡みつくようなそれに変わる。少しずつ早くなる呼吸の隙間で、彼は囁く。
「俺だって心の準備ってもんがあるんだよ……」
 奇妙に呼び覚まされる熱を煽る。ただ最初は服の上から触れているだけでも、その動きは確実にそれ以上を求めている。
「----『鈍い』よな、松岡は」
 くす、といたずらっぽく笑って、
 ----早坂の方から、松岡のシャツに手をかけていた。


 目覚めた時に見えた時計は午前1時。----体の芯に残る熱はまだ消えない。
 早坂は隣のベッドに移動している。既に熟睡してしまっているらしい。
 松岡は、辛うじて自分の体にまとわりついていた自分の服をどうにか着込み直す。まだ目覚め切ってないだるい体を動かしながら、さっきのことを思い返す。

 男を相手にしたのは初めてだった。少なくとも松岡の方は。だが----
 ----多分、こいつは違う。
 無邪気な寝顔。その裏にあの時見えた小悪魔のような表情は、既に松岡が今まで知っていた「早坂晶」のそれではなかった。尤も今までは、そんな自分を松岡に対して見せる必要がなかっただけで、それもまたこの男の一部であることには変わりはなかったんだろうが。
 思いがけなかった。まるで想像したこともなかった。
 初めての(同性との)体験で自分の身の処し方がまだおぼつかない松岡を導きながら、ずっとこの時を待っていた、と早坂は言った。
 今まで「保護者」呼ばわりされていた自分が、その時はまるで何も出来なかった。ずっと主導権は早坂の方にあって、時に煽られて、甘えられて、縋られて、時に動きを封じられて(そう、力では勝てなかった)、焦らされて、何度もキスをして、
 ----何度も名前を呼ばれて、
 ----何度も名前を呼んで、
 ----昇りつめて、
 ----そして果てた。

 横寝している早坂の寝顔の頬にそっと触れる。もう、触れることが苦しいとは思わない。ただ火が心に灯るようにあたたかくて。
 そんな気持ちにさせてくれる「恋人」は----初めてかも知れなかった。
 松岡はそっと部屋を出て自分の部屋に戻る。まだ自分の中で消えない熱が、いっそこのまま消えない方がいいと何処かで思いながら。


Last Part 〜 Side.Y −Angel II−

 3年生も夏を越えれば、徐々に受験の言葉が現実に近づいて行く。
 結城の部屋には大学よりもコンピュータの専門学校のパンフレットの方が増えて来ている。それを見るともなしに巡りながら、今日もう何杯目か忘れそうなコーヒーをあおっていた。
 最近、早坂は妙に勉強し出している。試験でもかなりいい成績にまで食い込んでいて、意地悪な担任から、ダークホース呼ばわりされたと拗ねていた。
 それら全てが何のためなのか、結城には判っている。
 判っているだけに----苛々するのだ。

 早坂は同じ大学に行く気でいるのだ。あの……松岡と。

 同じ学部には入れないとしても、同じキャンパスには通えるかも知れない。元々成績が悲惨というほど悪くはないのだ。死ぬ気で努力すればきっと叶ってしまうのだろう。
 試験の前になると、松岡が早坂の部屋に訪ねて来ているのも知っていた。
 知った、というより、知らされてしまっていた。
 早坂の部屋と結城の部屋は近い。普通に生活しているだけで嫌でも目に入って来る。
 元々仲が悪いわけではない2人だ。試験勉強の相手をするんだったら結城より松岡の方が適任かも知れないのも判る。
 それでも----苛々するのだ。

 空になったコーヒーカップを机に投げ出して部屋を出る。
 もう耐えられなかった。はっきりさせたかった。
 馬鹿な思考だと判っていた。早坂が受け入れてくれるかどうかは考えたくなかった。
 それでも----

 このままでいるよりは、マシだと思ったのだ。


 ノックをしても反応がないので、そっとドアを開けようとする。鍵はかかっていないらしく、手応えもなくドアは開いた。
 まだ夕食の時間には早いこの時間。早坂はベッドで気持ち良さそうに眠ってしまっていた。
「………」
 無用心というか、無防備というか。
 苦笑しながら結城はベッドの端に腰を下ろす。
 起こさないようにそっと頬に触れる。
 この日を最後にもう友達ではいられなくなるかも知れない。ふざけて髪をぐしゃぐしゃにしたり抱きしめたりも出来なくなるかも知れない。
 ----触れるその手の意味が、変わったことに気づかれてしまうんだから。
 早坂が少し眉をひそめて、ふう、と溜め息をつく。眩しそうに目をしばたいて、ゆっくりと開く。
「----結城?」
「あぁ」
 体を起こして伸びをする。
「制服、シワだらけになるぞ?」
「いや、ちょっと最近----寝足りなくて」
 はは、と軽く笑ってベットから下りる。
「もうすぐ夕飯だー! 腹減ったー!」
「相変わらずだなあ」
 苦笑する結城に少しむっとしたように、
「生きてるんだから腹ぐらい減るだろ?」
「そうだな----」
「そう言えば、何か用だった?」
 もう片方のベッドに投げ出されっ放しだったらしい鞄を手にして、中を何やらごそごそ探りながら聞いて来る。
 結城はしばらくその背中を見ているだけで何も言わずにいた。
 それを不審に思ったのか、早坂は手を突然止めて振り返る。
「結城?」
「用っていうか----」
 立ち上がって、----
 明らかに『ふざけて』いない強さで引き寄せる。
「----抱きしめに来た」
「……………え??」
 腕の中で、早坂が戸惑っているような気がした。いつもなら笑いながら「止めろよー」とか言い出すのが常だったから、固まってしまったように動かないその顔はきっとぽかんとしてるんだろうな、と想像してみる。
「----ゆ、結城、あの……」
 早坂の掌が結城の体にそっと当てられている。まるで突き放す準備のように。
「----な……んで……」
「お前が好きだ」
 結城は、耳元で囁いて、腕を解いた。すっ、と離れて行く早坂の目を覗き込む。
「『友達』として、じゃない----」
 小刻みに何かを言おうとする唇を塞ごうとした瞬間、早坂の顔が横に逸れた。
 ----これ以上にないくらい、はっきりした拒絶だ、と思った。
「結城、----俺」
「いや……いいんだ、ただ、伝えたかったんだ」
 ドアに向かう。ノブに手をかけて、どうしようもない喪失感を溜め息とともに吐き出して、早坂の部屋を出ようとする。
 その直前、掠れた声で、早坂が告げた。
「----好きな人がいるんだ……でも、それは結城じゃない」
「わかってる」
 わかって、いたんだ。

 どう見てもそうだとしか思えなかった。ある意味ではずっと判っていたはずのことでも、でもはっきりさせなければ自分で自分が抑えられそうになかった。
 ただ自分に嘘をつきたくなくて。
 だから伝えたかった。
 ----それだけなのだ。

 ドアを後ろ手に閉めた後で、結城は自分の部屋に帰ろうとする。廊下で、相変わらずの生真面目な顔をした生徒会長とすれ違う。早坂の部屋の前で止まり、「晶、入るぞ」と呼びかけて許しも得ずに中に入る。
 ----結城はただ自分の部屋に帰った。

 はっきりさせたかった。それだけだった。
 その年月に勝てなかったのは悔しかったが、それで早坂が幸せなら、それを見守ってやるしかないのだ。
 せめて友達に戻ってくれるだろうか。
 触れる手のその意味が、変わってしまっていたとしても。
 せめてそれだけでも----赦してくれるだろうか。
 『そばにいる』それだけでも。

 ベッドの上に自身を投げ出し、滲んで来る視界を流れるに任せて、結城はただ相手のない懇願を心で繰り返していた。
 その願いは届かないかも知れないと、心の隅でわずかに思いながらも----

 願うことしか、出来なかったのだ。

=== END === / 2000.08.01 / textnerd / Thanks for All Readers!

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