第1章 問題領域の俯瞰――産官学連携と地域イノベーション


 本章では、産官学連携と地域イノベーションという学際的な問題領域を俯瞰し、なぜ「セクター超越型リエゾン」が重要な政策課題といいうるのかを検証していく。まず本研究のテーマの意義を論述し、テーマをめぐる問題領域について分野横断的な先行研究、および先進経済諸国における産官学連携と地域イノベーションの政策の潮流のレビューを行う。
 以上の仮説と俯瞰のうえで、第2章以降の本論において、本研究がこの問題領域において、どのような対象に、どのような方法論でアプローチしていくかを概説する。

 

1.本研究の主題と仮説:なぜ「セクター超越型リエゾン」か

 本研究は、「産官学連携におけるリエゾン組織の政策過程」に着目するものである。今日の地域の産官学連携の最も重要な政策ファクターの1つが、「セクター超越型リエゾン志向」であり、それが幅広く多様な地域で見い出すことができるというのが、本研究の第1の仮説であり主張である。
 今日の産官学連携の潮流においては、地域連携の組織化が重要な政策課題になっている。地域イノベーションへの志向の高い地域には、フォーマルあるいはインフォーマルな地域の人的・組織的ネットワークのなかに、産官学のセクターを超えたリエゾン(連携・連絡)を形成しようとする志向がみられる。本論文では、このような志向を「セクター超越型リエゾン志向」と呼ぶ。
 ここで言う「セクター超越型リエゾン(trans-sectorial liaison)」は、「セクター横断型リエゾン(cross-sectorial liaison) 」とは異なる。「セクター横断型リエゾン」とは、あくまでも地域に分立する組織(セクター)のリエゾン担当者間の連絡と調整の機能を指す。これに対して「セクター超越型リエゾン」とは、セクターを超えたインフォーマルな水平的ネットワークや、帰属組織の重複性や流動性、地域を構成するキー・アクターの間に明確な間主観性 が存立している、といった状態を指す。
 なぜ地域イノベーションを志向する地域は、「セクター超越型リエゾン」を志向するのか。なぜ「セクター横断型」では不十分なのか。最大の理由は、今日的な産官学連携の潮流の根底に横たわる、科学技術のイノベーション・システムの変化にある。今日的なイノベーションは、川上から川下までの多様なアクターが多様な相互作用を行う「ノン・リニア(非線形)型」の研究開発システム(Kline and Rosenberg[1986] ) や、「参加型」「問題解決主導型」の研究開発システム(ギボンズ[1997])を必要とする。すなわち、イノベーティブな地域技術移転システムを確立するには、地域の多様なアクターが参加し、多様な相互作用を起こす「場」としての、地域イノベーション・プラットフォームの存立が求められている。一方ではシリコンバレーやケンブリッジ地域などのハイテク集積が、他方では中北部イタリアの草の根の企業家ネットワークによる自生的な産業集積が、80年代以降の内発的な地域イノベーションのベストプラクティスとみなされてきた。一連の成功事例を通じていわれているのが、フォーマルな産官学連携の促進以上に、インフォーマルな個人・組織間の連携による情報のスピルオーバー(漏出)が、内発的な地域イノベーションの源泉として重要であるということである。このことは、様々な先行研究によって実証されており、すでにOECDのグローバル指針としても、また各国の政策指針においても広くコンセンサスを得ている(OECD[2000a][2000b]他)。
 しかしながら、多くの地域は、既存の制度的環境にリエゾンの障壁があるか、あるいは環境変化に適応しきれずに機能不全を起こしている。このような地域のなかには、公共政策として「セクター超越型リエゾン戦略」を積極的に導入し、ネットワーク機能の不足を補完しようとする試みがみられる。90年代のシリコンバレーにおいてさえ、地域の深刻な空洞化による雇用不況、将来の成長への強い危機感が、地域の人々の間にタスク・フォースとしての「セクター超越型リエゾン組織」の結成を動機づけた。世界に類をみない「ジョイントベンチャー:シリコンバレーネットワーク」という、産官学民連携のNPO型地域政府が、地域の多様な人々のリーダーシップによって発現し、この現象が「シビック・アントレプレナーシップ(市民起業家)」「グラスルーツ(草の根の)・リーダー」という言葉の新たな流行に火を付けることになった(Henton, Melville and Walesh [1997])。
 こうした現象は、より多様な地域において、シリコンバレーほどの戦略性や結集性はないにせよ、なにがしか産官学民の障壁を超克しようとする「セクター超越型リエゾン志向」の存在をみることができるという仮説を想起させる。地域イノベーション志向の高い地域においては、そのようなリエゾン機能が、フォーマルにかインフォーマルにか、地域の制度に「埋め込まれて」いる場合が多くみられるのではないか。もしそうならば、そうした地域は、外部の経済環境の変化に即応あるいは先行して、柔軟な適応力を発揮し、内発的な成長を志向する政策をみせうるに違いない。本研究に取り組むにあたって、私はそのように考えた。
 また今日の産官学連携には、もう1つ見逃すことのできない環境条件があると思われる。私たちが暮らす民主主義的な参加と合意を基礎とする今日の社会においては、企業や大学人らのアクターに、産官学連携への参加を「強制」することはできない。政府や大学当局から「協力要請」や「努力目標」などの指針を与えることはできても、企業や大学教官には参加への自由選択の余地がある。それが今日の自由経済社会の基本としてある。企業は自己合理的に参加意思を選択するし、大学教官もまた「研究と教育への義務」は負っているが、ほとんどの場合、「産学共同研究への参加義務」は負っていない。このため、地域の産官学連携が活発であるかどうかは、ひとえに個々のアクターの「主体的参加意思の高さ」にかかっている。このような事情は、地域の産官学連携政策が、政府主導システムか市場主導システムであるかを問わず、先進諸国諸地域に共通のものとしてある。「地域の紐帯」という定義の曖昧な結びつきだけで、地域の産官学連携を動機づけることが不可能なことは、言うまでもない。
 かくして地域は、何らかの戦略的な取り組みを用いて、セクター間、アクター間の障壁を超克することが必要とされているのである。今日のグローバルな地域イノベーションの潮流のなかで、90年代のシリコンバレーと同じような構造と過程をもって、なんらかの公共的な政策としてセクター超越型リエゾン戦略を導入している事例が、他の地域にも同時多発的に見い出されるのではないかというのが、本研究の仮説である。

 産官学連携への取り組みにおいては、「リエゾン」とは別に「アライアンス」という言葉もよく使われている。この一見類似しているが、異なる文脈で用いられている2つの用語と、それぞれの戦略性の違いを規定しておきたい。
 リエゾン(liaison)とは、「連携、連絡、つなぎ(料理用語)」といった意味で、異なる人や組織間の連携や連携担当者のことを指す。軍事用語では、リエゾンオフィサーは連絡担当将校を指す。米国では福祉や法律といった行政の公共的サービスの提供での顧客(市民)満足を高めるために、セクター超越型の「リエゾンオフィス」を設置するという例が多くみられる。日本でも医療の現場で、1人の患者の治療に異なる分野の専門医が連携して当たる治療を「リエゾンケア」と呼ぶ。日本ではリエゾンという言葉は、圧倒的に産官学連携の分野で使われている。産官学連携の現場で、単純に「リエゾン」といったときには、大学や地方政府の産官学連携窓口機能を指すことが最も一般的である。
 一方、アライアンス(alliance)には、「同盟、連合、縁組み」などの意味がある。リエゾンが異なる性質のもの同士の連絡や連携を指すのに対して、アライアンスには「性質などの類似、親和的関係」といった意味が含まれている。軍事用語では、個別の連絡担当や連絡機能をリエゾンと言い、同盟国で編成される連合軍全体をアライアンスと言う。
 企業の多国籍化、グローバル化が進むなかで、1980年代半ば頃から「戦略的アライアンス」という言葉が盛んに使われるようになってきた。企業の優位は、単に規模拡大や事業部門の囲い込みだけでは確立できず、より強い部門に特化し、弱い部門は他社との同盟関係のなかで補完していくという考え方である。その後、アライアンスにも多様な形態が発展し、今日に至っている(フリードハイム[2000])。
 NPOが台頭し、プライベート・セクターとパブリック・セクターの境界が、以前よりも曖昧になりつつある今日では、アライアンスとリエゾンの意味領域の境界もあいまいになっている。しかしながら、様々な分野での慣習的定義を総合すると、両者の戦略としての概念の違いは、次のように規定できる。
 

 「アライアンス」:明確な目的利害の一致と情報共有の信頼関係をみる主体と主体の連携もしくは連合。

 「リエゾン」:異なる主体に遍在する情報を、ある目的の下に流通させ、集結させる連携もしくは連合。


 公共政策としての産官学連携に「アライアンス」よりも「リエゾン」という言葉が使われるのは、「異なる性質を持つ社会的セクター同士の連携」という側面が、より重視されているからである。現実的には、リエゾン機能の最も重要な役割は、セクター(組織)間に横たわる官僚組織的な弊害の超克にあると思われる。ノネ&セルズニック[1981] は、脱官僚組織的な志向を伴って現れるタスク・フォース型組織の特質の1つについて、《知識の源泉、伝達の媒体、および合意の基礎としての、参加型の意思決定。これらの原理や形態は「官僚制のねり粉の中の酵母」である》と述べている(p146)。この「官僚制のねり粉の中の酵母」という表現には、リエゾンの語源である料理用語の「つなぎ」との同義性があるように思われる。

.今日的な産官学連携の要請――「社会的分業」か「商業化」か

 今日の産官学連携をめぐる議論をつぶさに眺めれば、「2つの要請」が袂を分かっていることがみえてくる。1つは、社会から隔離された大学を社会へ埋め戻し、有益な社会的分業に参加させるという要請である。これは、フンボルトの近代大学に源流を遡ることのできる、より伝統的な要請の流れを汲んでいる(Muller eds.[1996]、レディングズ[2000]、アイゲン、ガダマー、ハバーマス他[1993]他)。いま1つは、大学をグローバルな拡大企業体(expanded enterprise; フリードハイム[2000])のなかで、戦略的アライアンスのパートナーとして参加させるという要請である。この2つの潮流の存在が、産官学連携の議論にしばしば混乱と対立を生んでいる。前者の「有益な社会的分業」は、大学の「公益性」をより重んじる要請としてある。後者はむしろ大学経営の競争社会への参加を促し、「私益性」の追求を重視する要請となる。
 ローゼンバーグ&ネルソン[1998]は、この2つの要請について、次のような表現を用いている。大学と社会との回路を広げるものとして、《応用科学や工学の領域の発展は、大学と産業界との間に分業をもたらす。この分業は有益である》という点を強調する一方で、「新製品や新製法を開発して企業を支援するという仕事に、大学はもっと加わるべきだ」という世論の傾向に対しては、《いくつもの理由により、我々はそうは思わない》とする。ローゼンバーグ&ネルソン[1998] が警鐘を鳴らすのは、大学の知識資源に商業化の論理が持ち込まれ、企業社会の価値尺度でもって、今日の産学連携や技術移転が秤に掛けられる風潮に対してである。より直近では、英サセックス大学科学技術政策研究所(SPRU)の2002年のレポート『第3の潮流を評価する』で、研究、教育に加えて大学の第3の使命とされる今日的な社会的貢献の方向について、「いかにして今日的な商業化の議論を超克するか」という点が論考されている(SPRU[2002])。
 一方は「社会的分業」を唱え、他方は「商業化」を唱える。この一見類似しているが、根本的に食い違いのある2つの「産官学連携」への観点について、学者や識者の間で議論が噴出するようになったのは、80年代の初め頃からである。その背景には、企業間のグローバル競争のなかで、ごく一握りのトップ企業を除いて、多くの企業が経営資源の集中と特化を進め、戦略的アライアンスを強化する時代に入ったことがある(モーリー&ティース[1998])。このような文脈の下で、大学が企業にとっての戦略的アライアンスのパートナーに値する価値を持ちうるかどうかという、旧来にはなかったまったく新しい価値尺度が前面に出てきた(レディングズ[2000])。
 この議論を整理するには、戦後米国の科学技術政策の動向に端を発する「技術移転論」の系譜を辿る必要がある。戦後米国においては、ヴァネバー・ブッシュが1945年に「科学――果てしないフロンティア」によって描いた研究開発のリニア・モデルが、その後の米国の産官学共同−分業体制の公共政策としてのコンセンサスを築くことになる。《新技術の大いなる源泉としての新科学、というブッシュのリニア・モデルを疑う者はいなかった》(ハウンシェル [1998])。ブッシュの提起した戦後科学技術発展による覇権立国の青写真の下で、全米科学財団(NSF)が設立され、大学への巨額の補助金支援(主に軍需資金からの)が始まる。そして、《過去50年の間に、大学の研究と企業における研究の間には比較的明確な分業体制が確立した》(ローゼンバーグ&ネルソン[1998])
 しかしその一方で、大規模化を志向する企業のなかで、このリニア・モデルを川上まで自社内で垂直統合する動きが活発化する。IBM、フォードをはじめ、戦前にはまだ基礎研究機能を有していなかった企業が、相次いで基礎科学の研究所を設立し始める。この戦後の「中央研究所ブーム」は、後にヨーロッパや日本の企業にも波及していくことになる。しかし結果からいえば、70年代のグローバル競争の果てに、この中央研究所ブームは終焉を遂げることになる。
 その背景には、そもそもイノベーションは、シーズ→ニーズ、川上→川下という線的なモデルで起こるのではなく、各プロセスが相互に連関し合いながらイノベーションが多発的に起こる「技術革新の連鎖モデル」(Kline and Rosenberg[1986])によるということ、さらには基礎科学研究は「創造の源泉」であったとしても、決して「富の源泉」ではなかったという事実の発見がある。商品化に繋がるイノベーションとは、最新の研究成果とはあまり連関性が高くなく、むしろ市場にすでに流通している技術やユーザーのニーズと密接に関係しており、その結果、企業は研究開発を抑制するか、あるいは長期的な基礎研究から応用研究へと重点をシフトさせている(ローゼンバーグ&ネルソン[1998])。
 こうした文脈の下で、新たな産官学連携への要請が出てきたのである。1970年代の終わり頃から、欧米の大学では特許管理部門やリエゾンオフィスなどの設置が広がりをみせていく。80年代には、地域計画に産官学連携や技術移転システムが組み込まれるようになり、他方では、地域を超えたグローバルな産学連携や技術移転システムもまた進化を遂げてきた。
 このようなグローバルに分散した研究開発の分業体制に対して、大学はどのような参加の余地がありうるのだろうか。ギボンズ[1997]は、今日の産官学連携の要請の背景にある大きな動向を、旧来型のディシプリン志向の研究開発体制(モード1)から、より問題解決志向で参加型の研究開発体制(モード2)への移行という理念型として描いている。今日要請されている技術移転とは、トランスファーというよりも「インターチェンジ」であり、バトンリレーではなくサッカーの試合のようなものだと述べている。ギボンズのこの理念型は、科学技術政策の変遷、企業の中央研究所の再編、大学からの技術移転への要請、大学内部のディシプリンの再編など、技術開発をめぐる様々な局面で起きている多様な現象を、かなり上手く一般化している。その意味で、きわめて完成度の高いモデルである。
 しかしながら、ギボンズ[1997]の理念型モデルでは、「地域」と「大学」という2つの領域については、ブラックボックスとして扱われている。《知識の生産と流通が緊密に結びついたモード2》への移行によって、ディシプリン志向のモード1の守り手である大学がすっかり消滅してしまうわけではなく、《両者には相互作用がある》とする。さらには《モード2はモード1から派生するもの》であり、《モード2はモード1にとってかわるものではなく、むしろ補うものだ》とする。つまりギボンズは、科学技術の伝統的なディシプリンの下にある創造の源泉としての大学の社会的存在意義は、将来的にも持続するという見解の下で、モード論を展開している。しかし、その大学そのものの「内実」がどうあるべきかという規範については言及していない。
 他方、地域に関しては、《(大学と企業の)地理的な近さは重要であり、それによって、緊密な協力が開始される前に必要な情報交換と非公式の接触が容易になる》といった程度の言及に留めながらも、最後の将来への課題において、《モード2は世界的な不平等を拡大する》という可能性を全面的に肯定し、《科学技術活動の成果へのアクセスとその利用という点で、世界的な不平等は拡大するだろう。たとえモード2の知識生産が地球規模に拡大しても、そこから得られる経済的利益は、富める国や参加可能な国のあいだで不均等な形で再び専有されるだろう》と述べている。
 日本の学界のオーソリティーの間でも、「知識主導社会の理念型」として高い評価を得ているギボンズ[1997]には、確かに今日の産官学連携や技術移転の現場で応用可能な、数多くの示唆深い政策提案が網羅されている。しかしながら、1つの世界モデルとしてギボンズの「モード2」をみたとき、強者たちのグローバル経済連合体に搾取される「地域」と「大学」という図式が免れえないものとしてある。同書のエンディングを《モード2は世界的な不平等を拡大する》というテーゼの提起で締めくくっていることからも、ギボンズ[1997]は世界の1つのアイロニカルな理念型として「モード論」を提起したとみなすべきであろう。

3.「地域」における産官学連携とは何か

 1980年代以降の新たな「産官学連携」の潮流を、「地域」との連関なしに語ることはできない。その理由は、大きく次の3つ挙げられる。
  (1) グローバル経済における競争の単位は「地域」である (ポーター [1999])。
  (2) 地域の地理的近接性は、知識・情報・技術の移転に有利に働く(Scott[1988])。
  (3) 地域ネットワーク、集積の外部性は、地域成員のインセンティブとなる(サクセニアン[1995])。
 地域の産業は、グローバルなネットワークを構築し、地域を超えた活動を展開するなかで、地域の優位を確立していく。このようなグローバルな地域間のネットワークは、互いの地域優位を相乗的・補完的に高め合うことにも、また奪い合うことにもなる。地域に根ざさないグローバル企業は、より優位な条件を求めて拠点を次々と乗り換えることが起こる。その代表的な現象が、近年の日本の地域を襲っている「空洞化」である。このようなグローバル・シフト(ディッケン[2001])が進むなかで、地域における「産業集積(industrial agglomeration)」「産業クラスター(industrial cluster)」への重要性への認識は、80年代以降、急速に高まってきた。地域への産業の「凝集」は、その周辺に技術やアイデアの壮大なスピルオーバーをもたらし、経済のみならず、人々の生活、教育、福祉、考え方にまで、多大な影響をもたらす。
 A.マーシャルの昔から、産業集積地域(industrial districts)のもつ外部経済が、地域の経済に優位をもたらすという議論はなされてきた。しかし、戦後先進地域の右肩上がりの経済発展のなかで、経済政策の基盤となった主流派経済学は、「空間」「成長」といった概念の取り扱いを不必要なものとしてきた。「成長」の概念は、もっぱら途上国を対象とする開発経済学の領域で追求され、「空間」の問題は、もっぱら経済地理学の領域で取り扱われてきた。しかし、80年代に入って、一方では大企業の組織的な非効率性による産業成長の停滞が、他方では多国籍企業による国家の利益を超越した経済合理性の台頭が、国家の経済政策を悩ませることになる。規模の経済の限界とともに、既存の新古典主義の経済学の枠組みを超えて、成長や空間にアプローチできる政策ツールが必要とされるようになった(クルーグマン[1994][1999]、絵所[1997])。かくして新たなイノベーション政策のための、様々な傍流理論の統合が積極的に行われた。中小企業の技術革新力優位の研究(Acs and Audretsch eds.[1991])、技術資源を内生的要因として取り扱った国家間貿易とイノベーション優位のモデル(グロスマン&ヘルプマン[1998])、「第三のイタリア」をはじめとするクラフト型産業集積の優位に着目した研究(ピオリ&セーブル[1993]、Best[1990])などが、学際的(というよりも異種交配的)領域としての今日の「地域イノベーション政策」の基盤を形成してきた。
 こうした文脈は、90年代に入って、80年代からすでにあった今日の産官学連携の議論の流れと合流をみせていく。Etzkowitz [1992]は、いち早く「産官学連携」の今日的文脈における「地域の重要性」に着目した。《米国をはじめ世界各地で、地域産業と地域の研究開発とのミスマッチが研究成果の海外移転を招き、国家利益と自由貿易との間に軋轢を生んできた》ことによって、地域を単位とした産官学連携への高い政策的要請がすでに顕在/潜在していることを指摘している。
 90年代半ば頃からは、高度技術集積の極(ポール)としての「大学」「研究機関」の現実の興隆に着目した研究が活発化する。シリコンバレー、ケンブリッジ、ソフィア・アンティポリスなど、大学や研究機関を擁するテクノポリスやサイエンスパークの経済地理的な生態が、盛んに研究されるようになる(Keeble and Wilkinson eds. [2000])。その他、大学からのスピンオフ企業の研究(Brett, Gibson and Smilor eds.[1991])など、今日の産官学連携に直接に関連性の高い研究が急速に活発化してきた。
 しかしながら、「地域政策における産官学連携」という明確な文脈で、その公共政策としての規範や方法論を直接的に取り扱う研究は、きわめて数少ない。 その実態を取り扱うには、制度的なセクター間障壁の間隙を縫って構成されている、インフォーマルな人的・組織的連携、タスク・フォースとしての多様な地域コーディネーション機関の存立、目に見えない技術や知識のスピルオーバー(漏出)のネットワークなど、複雑な要素の連関を相手にしなければならないからである。
 前述した「モード2」の理論は、Nowotny, Scott and Gibbons[2001] において、よりグローバルに分散した知識の核がネットワークされる場としての「モード2」に敷衍されており、そこでは地域は単に「拠点」であるに過ぎず、地域の内部は依然としてブラックボックスであるため、具体的な政策形成への敷衍が難しい。
 公共政策として産官学連携を取り扱う際の規範的枠組みを提起しているのは、《産官学の三重らせん(triple helix)》という概念を提起するEtzkowitz & Leydesdorff [1995]である。Leydesdorff [1997]は、今日の産官学連携が、ポスト近代資本主義と従来の近代資本主義との違いをいかにして峻別し、かつ再構成しうるかという点をめぐって、次の3つの重要な認識が要請されるとする。(1) (産官学間の)コミュニケーションのコードおよび機能の違いは、主に17〜18世紀に構築されたものであり、(2) 経済と国家の間の制度的分化は、主に19世紀の前半に構築されたものであり、(3) (産官学間の)機能的・制度的分化の統合配置は、1870〜90年の間に興った科学技術革命に端を発するものである。この3つの点を複合した《超越的認識(trans-episteme)》で、ポスト近代資本主義の時代に望むことが、モード1の世界にあってモード2と共存し続けるとされる《ディシプリナリーな》大学に求められている要請だとする。
 Leydesdorff[1997]の指摘は、今日の大学のアイデンティティーが、複層的でかつ内部矛盾を孕んでおり、大学それ自身が、1つの規範の下に連帯することなどほとんど不可能な情態にあることを示唆する。ある大学人は依然として17世紀由来のアカデミズムのアイデンティティーに固執し、ある大学人は国民国家の下での大学像へのこだわりを持ち(賛否どちらにせよ)、またある大学人は技術主導・知識主導型社会の新しい卓越性(exellence) としての大学像を希求する、といった具合である。レディングズ[2000]は、このような今日の大学を《不同意の共同体》と呼んだ。

4.地域イノベーション政策の潮流――技術移転政策と地域政策の融合

 4−1.大学と技術移転政策

 今日、「地域イノベーション」といわれるものは、茫漠とした領域であり厳密な定義はしがたい。強いてその政策領域を定義するならば、80年代以降の技術移転の潮流と、地域政策の潮流とが融合し発現している領域というのが、妥当な定義といえるだろう。
 技術移転(technology transfer)という言葉は、戦後の2つの大きな政策の流れのなかで用いられてきた(小林[1981])。1つは、途上国への開発援助の領域である。経済学者のシュルツやアローによる「技術の外部経済」への着目の影響の下で、1960年代半ばからの開発援助、国際協力の文脈で、地域間格差を補うものとして、技術移転という言葉が盛んに用いられた。そこでは技術の先端性よりも、むしろ地域に合わせた技術水準の適正化、教育や啓蒙活動を含めた社会開発が重視される。いま1つの流れは、前述したヴァネバー・ブッシュの政策提案に遡る、戦後先進諸国の高度科学技術の発展の下での、軍需・官需などの公共的な基礎研究の成果の民需への移転という文脈である。
 今日の先進諸国の「産官学連携」「技術移転」は、一見すると後者の文脈の流れにあるように語られることが多いが、現実にはそうではなく、先進経済諸国においても、この2つのどちらの流れも混在している。前者の地域開発に資する技術移転は、先進国−途上国間だけの問題ではなく、米国の地域間においても、EU圏内においても、また日本国内においても必然的に存在するし、また地域の大学と地域のローテク企業との間の技術移転にも敷衍される。政策の現場では、必要に応じてこの両者の文脈を適正に使い分け、また融合することが必要とされている。にもかかわらず、両者の議論はなぜかデバイドされる傾向にある。ここに大きな議論の混乱の原因があると思われる。
 技術移転が、もっぱら今日的な産官学連携で取り沙汰されるようになったのは、1970年代後半の米国の動向からである。70年代まで、連邦資金による研究開発の権利はすべて連邦政府に帰属し、これらの公共資源は、非独占的実施権によって公有化されているがゆえに、市場で競争的に活用されるインセンティブをまったく欠いていた。ここに立ち上がったのが、米国の大学人らだった。1974年には、大学や研究機関の技術移転関係者らによって、大学特許管理協会(現在の大学技術管理者協会: Association of University Technology Managers)が結成され、大学への特許権付与を求めて、議会への激しいロビー活動を展開した。その結果、1980年には「バイ・ドール法」が制定され、連邦政府の莫大な資金による研究開発の知的財産権は、その開発にあたった大学、研究機関、企業等に付与されることが定められた。
 以降、この措置を受けて多くの大学がTLO(技術特許化機関)を設置してきた。同年には「スティーブン・ワイドラー技術革新法」も制定され、政府研究機関には技術移転窓口を設け、民間等への技術移転を促進することが義務づけられた。さらに1986年には、「連邦技術移転促進法」の制定によって、政府系研究機関と民間企業の共同研究の自由裁量性を広げ、民間企業への特許付与も全面的に許諾された。80年代を通じて、米国連邦政府は、官需→民需への技術移転の政策を徹底的に強化してきた。こうした政策転換の結果、1983年から1990年の間に、米国の大学からは累計で約1,169社に上る大学発ベンチャー企業(一部カナダ含む)が誕生した(Association of University Technology Managers [2000])。これらの企業のなかから、株式公開、上場を果たし、大学に巨額な収益をもたらすスタープレイヤーが数多く誕生した。
 一連の米国連邦政府の政策は、その後の先進諸国の国家政策の雛形となっていく。ヨーロッパでも80年代初めから、大学や研究機関からの技術移転が政策化され始めるが、むしろEU統合へ向けた地域開発・再生計画のなかに、こうした技術移転政策を埋め込んでいく傾向がみられる。各国の制度的な違いはあるにせよ、EU圏では地域の再編、地域間競争が、政策形成の大前提となっていき、政府主導、地域主導の大枠の枠組みによって、技術移転、産官学連携が導入されていく。
 一方、日本では、戦後はもっぱら海外に追随し模倣するキャッチアップ型の技術移転が行われ、その過程で大学と産業界の直接・間接の分業が行われてきた。増子[1999] によれば、日本型産学協同のマクロな変遷は、(1)戦後復興期(1945-65):産=技術導入、学=基礎物理学(説明の学)→(2)高度成長期(1965-75):産=自主技術開発、学=化学工学(設計の学)→(3)資源転換期(1975-85):産=技術再武装、学=システム学(評価の学)→(4)新素材開発期(1985-95):産=軽薄短小、学=試行錯誤(開発の学)→(5)地球環境期(1995-):産=ファクター4 、学=未来開拓(限度の学)、といった展開をみてきた。大学の役割が最も明快で活気があったのは、海外技術の理解を深める必要があった戦後復興期の「説明の学」で、基礎物理学の素養を大いに活用した時期であった。高度成長期に入ると、大学は製造現場に見通しの良い指導原理を与える「設計の学」で、基礎素材の大量生産プロセスの効率アップを基礎技術で支えた。学術振興会が両者の媒介的役割を担いつつ、産学の関係は点から面に広がり、生産プロセスの効率評価、使用性能評価といった「評価の学」へと進んでいった。しかしながら、企業がグローバル市場で厳しく鍛えられている間、大学は企業からの寄付講座、委託研究の甘い汁に浸かって、アカデミズムのグローバル競争や社会環境の激しい変化から隔離された環境におかれてきた。日本の大学はおよそ20年間、つまり今日の90年代以降の政策転換の潮流に至るまで、日本型工学教育の見直しに迫られることはなかった。
 村田[1999]は、以上の増子の論を援用しながら、こうした歴史制度に培われてきた日本の科学技術、産業技術が伸び悩んでいる根本に横たわる問題として、(1)実利が見えないと深入りしない、(2)分野を越す課題で複雑な交渉を伴うものには手を染めない、(3)コンセプト、スキーム、価値づけ、戦略などのイメージ的要素(虚部分)は先進諸国の良いものを借りるというアメーバ的な風土がある。と同時に、《個が組織に埋没している基層文化》が、変化の激しい不透明な時代には決定的な逆風となり、《組織の変化対応力を削いでいることに気づく人は増えているが、何故か行動には繋がらない。企業文化は慢性病に似て経口薬などでは治らない》と指摘する。村田[1999]が指摘するとおり、企業も大学も、「個」の創意のモチベーションが必要な時代において、容易には変容しえない「組織」の頑健な制度の下で、変革をなしえないでいるのが、まさに日本の危機的情況である。80年代後半以降、日本でも新たな文脈で産学連携を促進する政策が導入されてきている。一方では欧米の政策を雛形とするキャッチアップがあり、他方では日本型の制度に風穴を開けようとする、マクロ、ミクロ、様々なレベルでの政策転換、制度変容への、地道な働きかけが行われ始めていることも確かだ。
 日本では80年代前半までは、旧文部省と旧通産省の管轄障壁もあり、大学がフォーマルに産学共同研究を行うのは至難であった。80年代初頭から、こうした制度の変革が徐々に始まる。1982年には、大学と民間企業との共同研究を認可する法改正が行われ、87年からは全国の大学に、共同研究や技術移転の窓口となる「共同研究センター」が順次設けられていく。この動きは、中央主導ではなく、むしろ先導的な地方大学からの内発的要請が、国の政策を動かしてきたという経緯がある。この点については第2章で詳述したい。
 86年には、国立研究機関と民間との共同研究を認可・促進するための「研究交流促進法」が制定される。この頃、中央では、旧通産省主導の産官学コンソーシアム「第5世代コンピュータ」や、東大の坂村健(現教授)氏のリーダーシップによる民間ベースの産学ネットワーク「TRONプロジェクト」をはじめ、様々な新しいタイプの連携プロジェクトが勃興する。「第5世代コンピュータ」は日本独自の政策スキームによる画期的な産官学プロジェクトだったが、欧米に逆にこのスキームが模倣されることとなり、今日の科学技術政策研究では「第5世代」は代表的失敗例として取り扱われ、これを模倣した米国の半導体技術の官民コンソーシアム「SEMATECH」の優位が取り沙汰されるようになっている(フリーマン[1999]他)。ここでは詳述しないが、欧米の様々な研究が、これら各国の産官学プロジェクトについて、失敗と成功の要因を分析しており、日本の戦略形成においても学ぶべき点が多いと思われる。
 前述した米国型の技術移転の流れを、大学に持ち込む政策が本格化したのは、さらに遅れて90年代に入ってからである。95年に科学技術基本法、96年に科学技術基本計画、98年に大学等技術移転促進法(TLO法)が制定され、米国の実情からおよそ15年間遅れでキャッチアップがなされてきた。しかし、米国のバイ・ドール法が、大学の「地域への貢献」と「スモール・ビジネスへの優先的な貢献」を重視している、きわめて経済民主主義的な趣旨を強調した法になっていることについては、日本ではあまり取り沙汰されることがなく、「大学発技術移転」「地域振興」「中小企業とベンチャー支援」の政策は、連関の重要性が叫ばれながらも省庁管轄の障壁のなかで微妙にデバイドされてきた。
 また、TLOについては、政府は指針を出すのみで、設置するか否かは、各大学主体、各地域主体の判断に一任されている。TLOがそもそも公益団体であるべきか、利益追求団体であるべきか、NPOなのかについては、いまだ議論の定まらない点であるが、少なくとも特許収益だけでTLOの経営が成立する可能性はきわめて低いことだけは認識されており、補助金目当てで後先の戦略のない展開が少なからず問題視されている。TLOをめぐって、地域では広域連携や戦略的アライアンスの動きが活発化しているものの、特許収益に短中期的なメリットは求めず、むしろ地道な地域産官学共同の積み重ねや、大学発の技術の市場化を積極化して底力を上げていこうという気運が高まっている。
 近年では日本でも、欧米と同様に、地域産業政策、地域科学技術政策、地域開発の流れが、管轄省庁の障壁を乗り越えて、徐々に1つの地域イノベーション政策へと融合化する方向性がみられる。2003年からは、文部科学省の地域科学技術振興政策の柱である「知的クラスター政策」と、経済産業省の地域産業技術振興政策の柱である「産業クラスター政策」の間で、中央省庁レベルからの超越的連携を試行するという案も浮上している。
 こうした動向に対して、地方の側の対応にはばらつきがあるが、地方分権の流れのなかで、地域技術移転システムを、地域が主体的な政策として構築しなければならない時代に入っていることは確かである。
 

 4−2.地域コーディネーションの重要性

 1980年代を通じて、ヨーロッパだけでなく、米国においても、地域政策における技術移転、産官学連携が強化されるようになっていく。地域イノベーション志向の高い地域で、各セクターの連携を意図した「コーディネーション(組織間やセクター間の調整)」に重きをおく政策の発現が顕著になる。これは、80年代の地域政策の新しい潮流のなかで、顕著に発現してきた動向である。
 OECDの1988年のレポート『New Trends in Rural Policymaking』は、ヨーロッパ15ヵ国と米国の調査分析にもとづき、欧米に共通にみられる地域の政策形成にみられる新しい潮流を、(1) 伝統的なセクター重視、社会重視から、より統合された領域的政策の優先へ、(2) 政策形成過程に参加する政策主体の多様化と広がり、(3) 制度の多様性:旧来の地域の利害ではなく、今日的な経済的・社会的課題を反映した国家−地方政府間に、責任委譲の制度的な違いがみられる、(4) 政府の役割:単に中央集権の緩和あるいは地方分権の促進だけでは、政策形成の万能薬とはならない、統率的にせよ補完的にせよ政府がいかなる役割を取るかが重要である、(5)伝統的なプライベート・セクターとパブリック・セクターの実践的協働の傾向:厳格な役割責任の境界が、以前ほどには重視されなくなっている、の5点に特性分析している。
 米国においても80年代を通じて、研究開発関連投資を拡充する州政府が増え、州が独自の産学連携政策を進める動きが強まってくる。そこでは、地域がいかにして、地域産官学連携と技術移転を、地域イノベーションへと結びつけていきうるか、より多くのアクターの参加と連携の動機づけを図りうるかのコーディネーションが重要になってくる。国家政策のドメインが政府主導システムであれ、市場主導システムであれ、むしろ制度を補完する「コーディネーション」の手腕が重要になってきたのである。
 現実に、80年代には、技術移転、産官学連携、経済振興の促進を明確な目的とする「地域コーディネーション機関」の組織化が、各地で活発に行われる(岡本[2000])。特にヨーロッパでは1980年代後半以降、地域の「産官学連携」「技術移転」「ベンチャー創出」を推進する公共的なコーディネーション機関の設立や、地方政府、中央政府の支援プログラムの拡充が顕著にみられた。本論文の事例でも、そうしたコーディネーション機関を多く取り上げる。
 一方、日本の場合には、70年代の終わりには、産業構造の転換の下で、日本経済の失速、国際的競争力低下への懸念が浮上しつつあり、中央主導の産業政策の下での地方への工業立地政策の根本的な見直しが図られていく。80年代には、自律分散型の産業の拠点づくりを標榜して全国26地域に「テクノポリス(高度技術工業集積都市)」が順次整備されていく。この過程で、日本にはフランス型の国家主導のナショナルポール政策の道という選択肢もあったが、日本の中央−地方関係のなかで、善くいえば地方分権、多極分散型の政策の道を、悪くいえば平等主義的な道が選択された。日本はより英米型の「小さな政府」の道を選ぶ方向での政策転換が(「財源なき委譲」といわれつつ)進み、87年の「多極分散型国土の構築」を旗印とした地域開発計画の下で、地方政府の側には本格的な地方分権化、多極分散化政策への主体的キャッチアップが要請され始めていた。80年代後半から90年代前半は、地域開発政策がハコモノ行政からソフト行政へと転換が進み、産業政策、科学技術政策が、「地域イノベーション」という1つの茫漠とした大きな流れへと統合しつつあった。
 日本において、地域の科学技術移転のコーディネーションにターゲットを絞った最初の国家政策は、1996年に創設された旧科学技術庁の「RSP(地域研究開発促進支援拠点)事業」である。地域科学技術コーディネーターが、地域の有望な研究シーズへの投資・育成を図る事業に対して、国が助成を行うという画期的な政策であった。さらに1999年には、新事業創出促進法にもとづいて、旧通産省が中心となって主導する「地域プラットフォーム事業」というまったく新しい政策の枠組みが登場する。「地域プラットフォーム」は、地域コーディネーション事業そのものである。国から指定を受けた地域プラットフォームが、ベンチャー・インキュベーション、技術移転、産官学連携など、様々な国の施策・補助金の受け皿となって、地域の資源を効率的にコーディネーションするものである。具体的には、この枠組みの指導の下で、1999年から全国都道府県と政令指定都市に順次、「中核的支援機関」の設置が行われてきた。中小企業振興公社、テクノポリス財団、高度技術振興財団など、様々な地方政府の外郭団体がここに統合再編された。この組織の統合再編に、それぞれの地域の独自のスタンスを一定みることができる。中核的事業をベンチャー育成に置いているもの、科学技術振興に集中しているもの、地域の中小企業振興に置いているもの、商工農振興の一元化を目指すもの、域内分散を志向するものなど、多様な組織編成がみられる。
 日本の地方政府主導のコーディネーションとしては、この地域プラットフォームを最大限活用して、国からのトップダウンの政策と補助金を、地域の内発的発展の土壌へと、より戦略的に落とし込んでいくコーディネーションの手腕が重要になっている(田柳[2002])。そこでは、地域による中央の政策の主体的な再解釈、翻訳力と、地域のボトムアップの発意・創意を汲み上げる力が必要とされている。
 こうした日本の地域政策を、欧米の政策のキャッチアップという視点でみたときには、1980年代後半からの欧米の地域コーディネーションの潮流からみれば、やはり15〜20年の遅れがあるといわざるをえない。しかし日本の地域には、それぞれに独自の歴史制度的環境があり、以上に述べてきたような大枠の潮流とは次元の異なる、固有の内発性を内在させていることもまた事実である。海外の地域もまた同様である。そうした地域のメゾレベル、ミクロレベルの制度的文脈については、本研究の事例分析を通して言及していきたい。

5.本研究の概要:3つのステップによるアプローチ

 本研究では、以上の問題領域に対して、次のような3つのステップでのアプローチをとっている。
 まず第1に、日本の産官学連携のフィールドにアプローチした。国立大学を基軸に展開している地方産官学連携の公共政策の枠組みをレビューしながら、そのなかで先導的な実績を築いている地方の3大学−3地域として、山口大学/山口県、金沢大学/石川県、岩手大学/岩手県に着目した。3大学は、2001年度現在で、国立大学の共同研究件数において地方大学の最上位に位置する。同時にまた3県は、偶然的にか必然的にか、中小企業の創造法認定企業件数においても、並んで上位の位置を占める。また、ともに全国比1%前後の同水準の従業員人口、県民総生産という類似の経済規模を持ちつつも、その他の構造的・制度的な面では、それぞれに対照的な特質が見い出される。
 私は、この3つの事例に対して、次のような問いを念頭に置いた質的調査を行った。(1) 大学はどのようなリエゾン体制・機能を築いているか? (2) 大学の共同研究はもっぱらどのような相手と行われているのか? (3) 大学の周辺には重要なインフォーマルな人的ネットワークが存在しているか? 産官学のキー・パーソンは、相互に個人的な接触を頻繁に行っているか? こうした問いにもとづく調査分析の結果、各大学の産官学連携において、まったく異なるタイプの政策志向が見い出された。この第1のアプローチの総括として、日本の産官学連携の類型化モデルを提示するとともに、本研究の焦点である「セクター超越型リエゾン戦略」が際立って顕現している事例として、岩手モデルをより深く掘り下げていくことを提起する。
 第2のアプローチとして、この岩手モデルにおける「セクター超越型リエゾン組織の政策過程」を分析的に記述した。岩手では1999年から、地域の明確なコンセンサスの下に、岩手大学のリエゾンオフィスを地域技術移転の戦略拠点として再編し、リエゾン機能と陣容の拡充を進めている。私は、このような戦略がいかにして地域公共政策としてのコンセンサスを得るに至ったか、他方でその背景にある制度的環境とセクターを超えたインフォーマルなネットワークが、どのような役割を果たしているか、その両者の相関関係を明らかにしつつ、政策過程を記述することを試みた。
 第3のアプローチとして、欧米の地域事例に目を転じて、「セクター超越型リエゾン志向」や「リエゾン戦略」が、各国各地域の制度的環境において、どのように顕在/潜在するか(あるいはしないか)を検証した。メゾレベル、ミクロレベルで世界の地域の政策現場を比較検証した結果、日本の国内でみられたような「多様態」が、やはり世界各地域の間においても相対的に見い出された。第3のアプローチの総括として、グローバルな地域の産官学連携が置かれた制度的環境の類型化を行い、日本の制度的環境はそのなかでどのように位置づけられるかを併せて検証する。
 最後にまとめとして、「セクター超越型リエゾン組織」が存立するうえでの、一般的な条件をモデル化した。
 以上が、本研究のアプローチと成果の概要である。本論文の終わりに、これらの成果が今後どのような問題領域に敷衍していきうるか、得られた理論的枠組みは今後どのような精緻化を行っていくべきか、将来的な課題を提起する。

 具体的な調査研究に用いた方法は、地域産官学連携のキー・パーソンへのインタビュー(全体の60%見当/縮約した文字分量換算)、一次資料(20%見当)、二次資料(20%見当)の比重からなる文字情報源からの、事実データ及び文脈の読み取り、そこから得られた発見的知識の再構成を中心とした質的分析の手法である。インタビューについては、地域の産官学連携・技術移転コーディネーター、大学のリエゾンオフィスやインキュベーションセンターのマネジャー、産官学連携に関与する地域の中小企業、ベンチャー企業のマネジャー、および中央省庁の共同研究振興担当(文部科学省/研究環境・産業連携課技術移転推進室)、地域技術振興担当(経済産業省/地域技術課)への対面形式での聞き取りを、それぞれ1時間〜1時間半程度行った。
 本論文で取り上げた事例のうち、実地踏査を行った地域は以下の通りである。括弧内の数字は、公式にインタビューを行ったキー・パーソンの人数である。ドイツ:アーヘン地域(2)、ルール地域(5)、ケルン(1)、ゾーリンゲン(2)、イタリア:モデナ地域(2)、ボローニャ地域(3)、フランス:ソフィア・アンティポリス(6)、日本:岩手県(10/うち複数回2)、石川県(8)、中央省庁:文部科学省(1)、経済産業省(1)。その他、訪問した機関や交流会での参与的な観察を合わせれば、300名以上の関係者に接触した。これらの地域については、現地で入手した産官学連携のPRパンフレットや、成果の報告書類、ホームページなどの一次資料で得られるデータや文脈による分析も併せて行った。
 その他の地域については、山口県と山口大学、英国ケンブリッジ地域、米国ジョイントベンチャー・シリコンバレーネットワークについては、ホームページ等で入手したパンフレットや報告書などの一次資料を中心に(80〜90%程度)、補完的に先行研究による二次資料(10〜20%見当)を併せて、事実データと文脈による質的分析を行った。80年代以前のシリコンバレー地域については、主に二次資料(サクセニアン[1995]他)からの事実データおよび文脈抽出による分析を行った。また、本研究の目的とは異なるが、1985年にスタンフォード大学電子工学科、シリコンバレー地域を現地に視察訪問した経験から得られた知識もその一助となっている。

←もくじへ   次章へ→