秘境の旅 写真館
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旅ノート イエメンの旅(2005年5月1日〜5月8日)

◎旅の日程◎
1.関西空港 〜
2.〜 ドーハ 〜 サナア
3.サナア 〜 ムカッラ 〜 サユーン 〜 タリム 〜 
 〜 シバム 〜 サユーン
4.サユーン 〜 (シャブワ遺跡) 〜 マーリブ
5.マーリブ 〜 (マーリブ遺跡) 〜 サナア
6.サナア 〜 ワディ・ダール 〜 シバム ・コウカバン 〜
 〜 トゥーラ 〜 サナア
7.サナア旧市街 〜
8.〜 ドーハ 〜 関西空港



1・2日目 (関西空港 〜 ドーハ 〜 サナア)

カタール航空
2005年4月から日本に乗り入れたカタール航空。「5つ星航空会社」に選ばれたということで、さぞかし素晴らしいサービスで快適なフライトができるものと期待していましたが、実際に乗ってみると期待が大きすぎたせいか、はっきり言ってがっかりでした。
液晶画面があるのに、コントローラが着脱式でないので使いにくくて楽しめないし、何といっても参ったのは、乗り継ぎの悪さ。朝5:30にドーハ着いて、サナアへは12:15発で到着は15:00頃です。関空をわずか30分早く出発するエミレーツ航空では、ドバイでの乗り継ぎが良く、朝8:30過ぎにはサナアに到着できるのです。機内サービスもエミレーツの方が良いし、私は断然エミレーツ派です。


3日目 (サナア 〜 ムカッラ 〜 サユーン)

ムカッラからサユーンへ
早朝6時の飛行機でムカッラへ。ムカッラからは4WD6台に分乗して、ハドラマウト渓谷を通りサユーンに向かいました。アラビア半島最大のワディ(涸れ谷)であるこの渓谷はダイナミックな自然の景観の連続です。私の乗った3号車のメンバーは全員一眼レフを持っていて、車窓から写真を取りまくっていました。

ワディ・ドアン渓谷(写真館@) ハジャレイン


アル・ハジャレイン
渓谷の荒涼とした景色にも見慣れてきた頃、建物が密集して張り付いている一際目を引く岩山を発見。これがアル・ハジャレインでした。車で岩山の中腹まで登り、歩いて細い路地を散策しながら麓まで降りてきたのですが、焼け付くような日差しに参りました。町は人影もまばらでしたが、ペンを欲しがって纏わりついてくる子供達は元気でした。

タリム
かつてイスラム教の中心であったタリムの見所は、アル・ムダール・モスクの高さ50mのミナレットと貴重な古文書がある図書館ですが、図書館の方は見られませんでした。その代わり、街中で何やら掛け声に合わせて踊っている集団に出くわしました。ハドラマウト地方の男性の衣装は、フータという腰巻とマッシャダというターバンが特徴的で、ジャンビーア(短剣)は付けていません。

踊る集団(タリムにて) アル・ムダール・モスク(タリム)



シバーム
昼食時に添乗員さんから、タリムに行くとシバームの夕日が見られなくなりそうなので、タリムの観光はやめますと言われました。でもどうしても行きたいという人がいたので、私も便乗して4人だけタリムに行く事になったのでした。という事でタリム組はシバームの旧市街は観光せず、夕日のみの観光となりましたが、曇っていて期待していた幻想的な景色は見られませんでした。

シバーム(写真館B)



4日目 (サユーン 〜 シャブワ 〜 マーリブ)

砂漠横断
炎天下の砂漠の移動を避けるため、サユーンのホテルを出発したのは朝の4時でした。5時半頃に日の出を拝んだ後、砂漠の入口に到着。ここで砂漠走行のために車のタイヤの空気を抜く作業をするので、小休止となりました。ベドウィンの車に先導されて、マーリブまで約500キロ、ルブ・アル・ハリ砂漠を横断します。

砂漠の朝(写真館A) 砂漠の朝日



シャブワ遺跡

途中、ハドラマウトの首都であったシャブワの遺跡に立ち寄りました。紀元前8世紀頃、シバ王国と並び南アラビアを支配していたハドラマウト王国の首都です。紀元前4世紀頃に建てられたという女王の宮殿跡は、当時の面影は感じられない崩れかかった石積みでした。女王の足跡があるという石があるそうですが、近寄れないので確認できませんでした。近くには1967年まで住民がいた新しいシャブワの町の廃墟がありましたが、こちらの方が遺跡らしく見えました。
遺跡があまり見栄えのしないものだったので、遺跡よりも付近に落ちているアラバスター拾いに夢中でした。また、遺跡から少し離れた所では岩塩も拾いました。

シャブワ遺跡(宮殿跡) 砂漠を走る


砂漠の真ん中での事故

正直言ってイエメンでは砂漠はあまり期待していなかったのですが、サラサラの砂丘の真っ只中のような所も走り、正に砂漠越えの感がありました。
それにしてもラリーのようにガンガン飛ばすなぁと思っていたところ、重大事故が発生!3号車が砂丘でジャンプして、砂地に突っ込んでしてしまったのです。知らせを聞いて駆けつけると、乗っていた方が痛々しい姿で車の外に運び出されていました。重傷を負われたようですが当たりは一面の砂漠なので、できる治療は氷で冷やす事ぐらいです。
添乗員さんは他の車から氷を集めるなど、砂漠の炎天下を走り回っていました。一緒に砂漠越えをしていた「世界紀行」という会社の添乗員さんもすぐに駆けつけてくれました。参加者の方々も私達に協力してくれて、怪我をされた方を灼熱の日差しから守るため、日除けを作ったりしました。
結局怪我をされた方と添乗員さんは、比較的快適な車で直接マーリブの病院に向かいました。事故車には乗れなくなったのであぶれた私は、「世界紀行」さんの車に乗せてもらいました。その後、砂漠のテントでの昼食時にも、この会社の添乗員さんが私達のグループまで面倒をみてくれて、お世話になりっぱなしでした。


5日目 (マーリブ 〜 サナア)

マーリブ(ダム)
シバ王国では紀元前8世紀頃に造られたダムにより、灌漑農業が行なわれ豊富な農作物が生産されていました。山岳地帯に降った雨が濁流となって押し寄せるので、ダムは決壊・改修が繰り返され紀元570年の決壊後は放棄されたままになっています。高さ15メートルの北の水門には、古代シバ文字を見ることができました。3km上流には1986年に造られたニュー・ダムがあり、こちらは満々と水を湛えていました。

マーリブ・ダム マーリブダムに刻まれた古代文字



マーリブ(太陽神殿) 
8本の柱が特徴的な太陽の神殿は、紀元400年頃に造られたもので、365の部屋があるという神殿本体は、砂の中に埋もれているといわれています。現在、アメリカの考古学チームが発掘中で2重の柵が張り巡らされ、近づいて見学することができませんでした。銃を担いだ発掘作業員たちが日本人を珍しく思ったのか押し寄せてきて、逆に私達の方が見られている気がしました。砂漠に突き出た柱に子供が登っている昔のマーリブ遺跡の写真と比べると、発掘作業が進んでいることが分かります。

マーリブ 太陽神殿
マーリブ 太陽神殿(写真館C) 遺跡修復作業員



マーリブ(月の神殿)
アルシュ・ビルキス(ビルキスの椅子)またはイルマカ神殿と呼ばれるシバの女王の宮殿です。こちらは高さ15mの柱が5本、その半分の高さのものが1本並んでいます。発掘作業員はいませんでしたがこちらも柵に囲まれていて近寄れませんでした。柵の中にゴロゴロしていた遺跡のかけらには、アイベックスの彫刻を見ることができました。月の神殿からは太陽神殿を遠くに見ることができ、2つの神殿は地下通路で結ばれていたという説もあるそうです。

マーリブ 月の神殿 マーリブ 月の神殿の破片


オールド・マーリブ
最後に1960年代まで住民がいたというオールド・マーリブを遠方から見学しました。ここは内戦で空爆され現在は廃墟になっています。ここでいきなり、車も通る道の真ん中で集合写真大会となりました。通りがかった車に乗っていたイエメン人は、迷惑がらずに車から降りてきて一緒に写真に納まっていました。

マーリブ 旧市街の廃墟


サナア旧市街その1
午後から首都サナアに向かいました。3時間くらいでサナアに到着。まだ明るかったので、有志を募って旧市街に繰り出そうとホテルを出ると、駐車場にドライバーさんたちがいました。旧市街までどのぐらいか尋ねると、2号車のアブドゥッラーが連れて行ってくれるとのこと。
8人で一台に乗り込みイエメン門に到着。彼のガイドの下、旧市街を少し散策したところで、どしゃ降りの雨となってしまいました。仕方なく早めに切り上げると、なんとそれから彼の自宅に招待してくれたのです。シャンデリアの輝く豪華なマフラージでジュースをご馳走になりました。思いがけずイエメンの一般家庭にお邪魔することができてラッキーでした。


6日目 (サナア 〜 ワディ・ダール 〜 シバム・コウカバン 〜 トゥーラ 〜 サナア)

ワディ・ダール
サナアから車で約30分、荒涼とした岩山の間に緑のオアシスような村々が点在しています。まずは、有名なロックパレスへ。巨石の上に建てられた5階建ての建物は、1930年代に支配者のイマームヤヒヤが夏の離宮として建設したのもです。最上階まで登り、井戸や秘密通路、マフラージ等を見学しました。
次に向かったのは、ワディ全体が見渡せる岩山。金曜日だったので、結婚式のお祝いの花婿ご一行が来ていて、あちこちでジャンビーアダンスが行なわれていました。結婚式は男女別々に行なわれるので、一行は男ばかりです。それぞれ腰につけたジャンビーア(短刀)を振りかざして、太鼓に合わせて輪になって踊っていました。

ロックパレス ワディ・ダール(写真館D)
ワディ・ダール ジャンビーアダンス


シバム・コウカバン
シバムとコウカバンは双子都市といわれ、高さ350mの岩山の上の町コウカバンは軍事、下にあるシバムは農業・商業の担当で同じ部族が暮らしています。シバムが外敵に襲われると人々はコウカバンに籠城し外敵の侵入を防いでいました。住人は細い山道を通りコウカバンに登りますが、私達は快適な舗装道路を車で登りました。
昼食はシバムの民家風レストランでイエメンの郷土料理をいただきました。サルタという石鍋料理は見た目とは違い苦味のある煮込み料理でした。他には野菜や炒め物や卵料理、デザートには蜂蜜のかかったパイなど。熱い料理を手で一気に平らげたドライバーさんたちの食事風景も見ものでした。
また、このとき事故発生以来怪我をされた方々に付き添っていた添乗員さんが、代わりの社員さんが日本から来たという事で私達と合流しました。後で聞いた話では、連日の寝ずの看病と日本大使館員の不親切な対応などもあって、彼女自身も病院で倒れてしまったそうですが、そんな事はおくびにも出さず元気に振舞っていました。

崖上の町コウカバン コウカバンの子供たち
石鍋料理・サルタ あっという間の食事


トゥーラ
岩山に張り付いたように石造りの家が建ち並ぶ、山岳部族の典型的な形の村です。アラバスターを使った独特の窓を見上げながら、迷路のような石畳の路地を歩いていると、本当に道に迷ってしまいました。焦って必死に道を探しているのに、物売りの子供がしつこく付いてきて余計に惑わせるような事を言ってくるのにはうんざりしました。

写真館Eトゥーラ(写真館E) トゥーラにて


サナア旧市街その2
今日もアブドゥッラーとハミドが、旧市街に連れて行ってくれるというので迷わず参加しました。今回は怪我をされた方以外はほぼ全員が参加。今日もアブドゥッラーはガイドに燃えていて、皆が離れて行かないよう目を光らせながらも、ちゃっかり自分の買い物もしていました。そして最後には、またしても総勢15人を自宅に招いて家族を紹介してくれました。


7・8日目 (サナア 〜 市内観光 〜 ドーハ 〜 関西空港)

サナア旧市街
今回はイエメン門からではなく、旧市街の南西から入り共同菜園の横を通って細い路地に入りました。サナア旧市街は町全体が世界遺産に登録されていて、昔ながらの街並みが保存されています。狭い路地の両側には、窓に漆喰で細かい模様の施された独特の高層建築が立ち並び、どれも絵になる風景なのであっという間にフィルムを使ってしまいます。

共同菜園(写真館F) サナア旧市街のイエメン建築
旧市街の路地1(写真館I) 旧市街の路地2(写真館J)



オールドサナアパレスホテル
路地をしばらく歩いたところで、屋上から旧市街のパノラマを眺められるオールドサナアパレスホテルに入りました。階段で最上階のマフラージ(眺めの良い応接間)まで登り、さらにその上の屋上から旧市街の360°のパノラマを堪能しました。

サナアのパノラマ(写真館H) サナア旧市街のパノラマ
高層建築(写真館G) マフラージ(写真館K)



イエメン門 
旧市街でのフリータイムを終えて集合場所のイエメン門に来ると、門の上に見覚えのある人たちの姿が...先に集合場所に来た人たちが、門の上に上っていたのです。今までは門をくぐってばかりで気がつかなかったのですが、横に階段があり上に登れるようになっていたのです。ここからの、旧市街の眺めもなかなかのものでした。

洗濯物を干す女性 かくれんぼ
買い物をする女性 サナアの長老(写真館L)



帰国の途へ
イエメンの最後はレストランで名物料理の昼食でした。直径1mもあろうかという巨大なパン(ビッグ・ホブズ)や、紅海の魚「ガシュ」などに舌鼓を打ちました。そして、現地の人のテーブルを通りがかると蜂蜜パイをくれました。
事故で怪我をされた4人のうち3人の方は重傷で、サナアの病院に入院されていましたが、設備に大いに不安があるような所なので、旅行会社がファーストクラスを手配し、私達と一緒に帰れる事になりました。空港でガイドさんドライバーさん達とお別れし、またしても乗り継ぎの悪いカタール航空で帰国の途に着きました。



●参考にさせていただいたもの●
旅の記録(トラベル世界 添乗員さん)
季刊旅行人 イエメン(旅行人)
地球の歩き方・アラビア半島(ダイヤモンド社)


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