スパイラル-I'm not in love.- カット : しちみ唐子/小説 : 乙姫静香


Scene 5





  「どうしても、金が必要なんだ」
 亨は、顔を強張らせながらそれだけ言うと、熱いコーヒーの入ったマグをぎゅっと握り締めた。
 シャワーを浴びて身体も温まっているし、傷の手当ても済んでいる。それなのに、亨はちっとも安堵の表情を見せなかった。それが、貴明には気になって仕方がなかったのだ。
「でも、だからって・・・」
 どうしてウリなんだ?と言いかけて、貴明が言葉を切る。しかし、言われなくても亨には全て分かっていた。そして、答えないことが、亨の意見も同じであることを示す。
 よっぽどのことがあったのだろう。
 貴明はそう思うと、二の句を継げずにため息をこぼす。腕を組み、片手を額に押し当てると、もう一度ため息をこぼした。
「小田切さん・・・だったよね?」
 貴明は、眉間に皺を寄せたまま、ソファに座る亨を見下ろす。窓辺に立ってため息をつき続ける貴明を、亨は上目遣いで見返した。
「君は・・・自分の値段が幾らだと思ってるんだ?」
 あまりにも唐突な質問に、亨の表情が固まる。貴明を見つめていた瞳を逸らし、床の一点に向けられる視線。こんな綺麗なマンションに一人で暮らし、金に困ったことなどなさそうな貴明のそんな質問は、今の亨には酷だった。
「ある程度の金になると思ったから、そういう手段をとろうと思ったんだろう?」
 どうしてそんな質問を続けるのかと、亨は思う。自分でも充分承知の愚かさを、さらにむき出しにされた気分だ。初めて会ったヤツに、なんでこんな思いにさせられなくちゃいけないんだと、亨はこみ上げそうになる涙を、ぐっと飲み込んだ。
 すると、その時貴明が、亨が手にしていたマグを、そっとどかした。ソファの前のテーブルに、そっと置かれる。
「・・・?」
 亨は不思議そうに貴明の方へ顔を向ける。貴明は、亨の前に跪くと、マグによって温められた亨の手の平を見、さらにその両手の甲をじっと見た。
 傷を負った顔や手とは違って、怪我ひとつない両手。貴明はしばらくその手を見つめると、ふと視線を上げ、自分を見下ろす亨を見つめた。
 かすかに、口唇が震えているような見えたのは、亨の気のせいだろうか。貴明は切れ長の目を細めると、押し殺した声で呟いた。
「君は・・・殴り返さなかったんだな・・・」
 瞬間、亨はこらえていたものが、止めようもなく溢れてくるのを感じた。
 殴り返さなかったのは、手を傷つけたくないため。どんなことになっても、絵だけは描ける様にと思った上でのことだ。もちろん、初めて会った貴明がそんなことを知る由もない。けれど、なぜだか貴明のその言葉は、亨の心の奥をそっと撫でた。
 熱いものが、亨の目の中でゆらゆらと揺れる。それがまさに零れ落ちそうになったその時、亨は顔をふせて、貴明の手を払った。立ち上がり、貴明に背を向ける。
「だから・・・なんだって言うんだよ。はした金でかまわねぇんだよ。手っ取り早く稼ぐには、これしかないだろ?あんたみたいな金持ちには、関係のない話だけどなっ!」
 貴明に何の恨みがあるわけでもない。むしろ、礼を言わなければいけないくらいなのだ。しかし、亨には素直に頭を下げるだけの余裕がない。たった一度の弱音が、今の自分の全てを否定しそうな気がしたから・・・。
「金さえもらえれば、誰だってかまわねぇんだよ!さっきみたいな脂ぎったオヤジだろうと、変態趣味のあるヤロウだろうと。誰だって!」
「小田切さん・・・」
 零れてくる涙を、貴明には見えないように何度もバスローブの袖で拭う。背中から聞こえてくる貴明の声が、自分の叫び声と同じように痛々しく聞こえた。
 馬鹿なことを言っているのは、百も承知だった。言っている端から、後悔の念がふつふつと沸き起こってくる。違うと心で叫びつつ、それでもなお、亨は勝手に動く口を止められなかった。
「身体なんかなぁ、いくら売ったって、なにも変わりゃしないんだよ!」






Spiral - I'm not in love. -





 気がつくと、孤独になれている子供だったような気がする。
 実の母からは幼い時に引き離され、かといって父が家に居たわけでもなく、誰に面倒をみてもらったというわけでもなかった。
 貴明には母親が三人居る。産みの親と、最初の継母と、二人目の継母だ。
 社長の愛人だった母から生まれ、子供の出来ない正妻の元に引き取られたが、その母も父と離婚。後妻に入ってきた今の母親は、自分の息子である悠汰のことしか見えていない。
 実の母と暮らした幼児期が、唯一子供らしかった時代と言えるだろうか?引き取られて以降会うことを禁じられたその母が、いまどこで何をしているのかさえも、貴明には分からなかった。
 引き取られてすぐに、父が欲しかったのは跡継ぎであって、子供ではないのだと気付いた。跡を継ぐ気などサラサラなかったのだが、父にあきらめてもらうには悲しいかな、貴明は優秀な子供過ぎた。

 転入した有名私立校でも、すぐに抜群の成績をおさめた貴明には、家庭教師がつけられ将来のための猛勉強が始まる。しかし、それを特にいやだと思うこともなく、また成績に伸び悩むことも無く、中学高校大学と、父の望むがままの成績で卒業した。
 しかし、悠汰の方はというと、もっぱら勉強よりも遊びに夢中で、貴明がいる気楽さからか、ガムシャラに勉強しようという意欲も見えなかった。それが、悠汰の母には余計に腹立たしいのだろう。貴明の顔を見るのも不愉快そうだったので、貴明は、株で儲けたついでにマンションを買った。それが、大学生の時。以来、気ままな一人暮らしを満喫していた。
 家事は好きな方だし、一人で淋しいと思うことも無い。自分の時間を、自分のためだけに使えるというのは、ちょっとした贅沢だなと思っていた。
 そして、今日は会社から帰るなり、ずっとキッチンで料理をしている。大鍋で何かを煮込みながら、傍らのテーブルで本を読んでいた。
 グツグツという鍋の音と、調理中のモノの匂いのみが部屋の中に広がって行く。貴明は時間を見るつもりで視線を上げ、ふとそこにあったマグに目が行った。
 亨がいつも使う、銀行のロゴの入ったマグ。
 貴明は立ち上がり、そのマグを手に取ると、もう一度食器棚の奥深くにそれをしまった。






Spiral - I'm not in love. -





 「契約・・・しないか?僕と」
 貴明がそう言った瞬間、亨は言葉の意味が分からずに目を剥いて貴明を見返した。
「・・・・・・え・・・?」
「毎週末、ここに来るだけで良い。ただし、他の誰とも寝ないこと」
 毎週末?ここに来る?・・・・寝る?
 この男は、いったい何の話をしてるのだろうかと、亨は本気で思っていた。冗談にしてはタチが悪すぎるし、本気にしては・・・いや、そんなこと有り得ない。
「他の誰とも寝ないって・・・」
「恋人でもいるのか?」
 貴明は、いたって冷静な顔で亨を見ている。コイツは、冗談言うときもきっと、この顔のままなんだろうな・・・と亨は思った。
「それは・・・、いない・・・けど」
「じゃあ、そう難しいことじゃないと思うが・・・。それとも、週末だけじゃ足りないくらい、好きなのか?」
 言われていることの意味がジンワリと脳に浸透して、やっと亨の顔色が変わる。ムッと眉を寄せると、あくまでも強気の態度で言った。
「あのなぁ、俺はホモってわけでもないし、好きモンってわけでもないんだよっ!」
 すると貴明は、あくまでも涼しい顔のまま返した。
「そうか、なら・・・問題はないな」
 暗に貴明のことをホモと非難したつもりだったのに、サラリとかわされて調子が狂う。
 貴明は貴明で、自分が口にしてしまった提案に、妙に納得していた。そうか、これが自分の両親がしていた愛人契約ってヤツか・・・と。蛙の子は蛙とは、よくもまぁ言ったもんだと思っていた。
「来れない時・・・とか、どうするんだよ」
 亨は、いかにも育ちがよさそうな、出会ったばかりの男をじっと見つめ返す。どうして、こんな不自由してなさそうな男が、自分を買いたいだなんていうのかと、不思議でたまらなかった。
「二日前までなら、予定の変更も受け付ける。家の電話を教えよう」
 よどみなく返してくる貴明に、なんだよそりゃ、旅行の予約みたいだなと亨は思う。
「ここに来るってコトは、その・・・アンタと、寝るってことかよ?」
「他になにか・・・できることでも?」
 これにも、返す言葉が無い。他になにか、金になる技術があるのなら、とっくにそっちで稼いでいた。
「じゃあ、もしも、俺が他の誰かと・・・寝たり・・・したら?」
 すると、それまで即答していた貴明が、少し考える。そして、再び視線を上げると、亨に聞き返した。
「それは・・・、他の誰かとも金で・・・ってことか?それとも・・・」
「いや、その・・・それは、恋人でも出来て・・・ってことで・・・」
「ふむ」
 そういうことか・・・と言いたげな貴明の表情。
「君は、恋人ができても、金で誰かに身体を売るつもりなのか?」
「・・・・・・」
 あまりにも的を射た質問に、亨は答えることが出来なかった。
 もしも自分に恋人が居たら、金で身体を売るなんてことはできなかっただろう。そして、もしもウリをしていたとしても、恋人ができたら止めていただろうし。
「そういうあんたは・・・いないのかよ」
 かろうじて搾り出した声に、貴明が顔を向ける。「なにが?」と言いたげな貴明の瞳に、亨が続けた。
「・・・・・・恋人・・・とか」
 貴明は、そういうことかと小さく肯く。
「いや・・・・・・いない。居たら、こんな提案はしないと思うが・・・」
 それにも、亨は答えない。貴明は、亨の前に立つと、固く握り締めた亨の拳を見下ろして言った。
「君に・・・もしくは僕に、恋人が出来たら、そこで終わりにすればいい。この契約が続いている間は、お互い以外とは関係しないことにして欲しいんだ。その方が、いろんな意味で安全だろう?」
 間近で見る貴明は、やはり綺麗な顔をしていた。頭がよさそうで、清潔そうで。ただ、その瞳の奥に隠されているものだけは、どうしても読めなかった。
「そうしたら、君の借金が返済できる分くらいのお金は、僕が出そう」
 涼しげで張りのある貴明の声が、耳に響く。亨は、時計の音が沈黙をゆっくりと通り過ぎて行った後に、搾り出すような声で返した。
「・・・・・・・・・あぁ、分かった」

Scene 5(1/2) / End






前へ          スパイラル目次へ          次へ