スパイラル-I'm not in love.- カット : しちみ唐子/小説
: 乙姫静香
Scene 4
亨は、煙草の煙で胸を満たすと、白い息を長くゆっくりと吐き出した。
月曜日の昼、会社の屋上には亨一人。風雨にさらす実験中の看板に囲まれて、コンクリの上に横たわった。一日に何本も吸わない煙草を、再び胸いっぱいに吸い込む。長く息を吐くと、うす曇の空と亨の間に、薄い煙のベールがかかった。
「あ、小田切さん。・・・休憩中に、ども」
ドアの開く音がして、今年入ったばかりの新人が、ぶっきらぼうに挨拶をしながらやってくる。亨は半身を起こすと、明らかに愛想の無い顔で相手を見た。
「さっき、Y市公園の管理事務局から電話があって・・・」
亨は社内で余計な口を殆ど聞かない。その所為か、新人は最初、必ず亨を怖がる。この新人も過去の例に漏れないようで、用件を伝えることもそこそこに、落ち着かない様子を見せ始めた。
「・・・で?」
コンクリの上にあぐらをかき、白い息を吐く。眩しさも手伝ってか、亨は目を細めて新人を見上げた。
「え・・・?」
「まだ電話、繋がってるわけじゃないんだろ?・・・なんだよ、用件」
そう言って亨は、新人が穿いているペンキで汚れたスニーカーにかかる、裾の切れたデニムを見下ろす。亨の不機嫌さに、新人が後じさりながら言った。
「あ、小田切さんの昼休憩が終わったら、折り返すって言っておきましたんで・・・その、電話、お願いします」
言い終わらないうちに、ペコっと頭をさげてドアの向こうに消えていく。亨は再びコンクリの上に横たわると、短くなった煙草をもみ消した。
自分も言葉が足りない方なだけに、不器用な新人に対して、特に腹をたてることもない。不機嫌そうに見えるのも元々だし、会社の人間と馴れ合おうとも思わない。それに、いまはそんなことよりも心を占めて仕方が無いことがあった。
なんで、あんな抱かれ方をしてしまったんだろう・・・。
触れられれば感じる。繋がれば、もっと深く感じる。それは、身体の当然の反応。
でも、いままでの他の誰かとしたセックスと、貴明とのそれは違うような気がする。それが、気になった。
貴明の方はきっと、そんなこと、考えもしないに違いない。そのことも、胸を重くさせる。亨は、煙草も吸っていないのに、空に向かって大きく息を吐き出す。
湿った空気が、中途半端な冷気と共に亨の頬を撫でた。
Spiral - I'm not in love. -
貴明は、会社近くのベンチに腰を下ろし、コーヒーを飲んでいた。
一日中社内に居ると、息がつまりそうになる。だからこうして、昼食の後は必ず外に出かけていた。
どうかしたのだろうかと、貴明は思っていた。
あんな風に、投げやりな・・・それでいて挑むような抱かれ方を、亨が望んでくることなんかなかった。かといって、楽しんでいるかというと、それは貴明には分からなかったが・・・。
よっぽど、お金が必要なことでもあったのだろうか?とりあえずは、そんな結論に達する。金は一週間後の支払いだから先週末の分を、今度の週末に靴箱に入れておくことになる。ということは、そこでの支払いに色をつけて欲しいということなのだろうか?
金のために嫌々続けている関係だろうから、そうとしか思えない。
ブラックコーヒーが喉を潤し、貴明が曇った空を見上げる。
そろそろ梅雨が明けてもいいのにな・・・と、貴明は思った。
Spiral - I'm not in love. -
クリーム色のペンキを、筆でゆっくりと伸ばしていく。ある程度伸ばしたところで、口にくわえていた細目の筆に持ち替えて、細かい部分の修正。ペンキ独特の匂いが鼻をつく。暗い背景に生えるその色が、目の前に広がりつつあった。
限りなく白に近いクリーム色。それは、あの夜の雪の色に似ている。冷え切った暗い空から落ちてくる綿のような雪。街灯の光を受けてほのかに黄みを帯びた雪は、地面に投げ出された自分の足の上に静かに舞い降りていた。
手も足も、凍ってしまったかと思うほどに、冷たくなっている。殴られた顔と蹴られた腹だけが、異様な熱を持っていた。
仕方が無いと覚悟はしていた。たかが寝るだけと、タカをくくっていた。
もはや顔も思い出せない見知らぬ中年男。引き摺られるようにホテルに連れて行かれ、生ぬるい舌で身体を舐められた。不快感が胸を満たしたけれど、それでも、我慢できると思っていた。
仁王立ちした相手の前に跪かされて、咥えろと言われた時に、胸の中で何かが揺れた。それが自尊心だったのか、それとも相手に対する我慢の限界だったのか、それはもはや分からない。気が付いたら、服を鷲づかみにして、ホテルを出ようとしていた。
その後もよく覚えてない。逃げようとしたところを捕まえられて、殴られて蹴られて。かろうじて、相手のモノをねじ込まれることだけは阻止できた。そして、靴もなく、ジャケットも無いまま、行くあてもなく街角に座っている。
見上げれば、とめどなく振り続ける雪。雪が顔に触れると、腫れた顔が冷えて気持ちが良い。亨は首が痛くなることも忘れて、シャワーのように降ってくる雪に向かって顔を上げていた。
亨が仕送りをしなければ、すぐに実家の生活は苦しくなる。父親は働かないし、母親には一家を支えるだけの強さが無い。妹だって、健康になったとはいえ無理は出来ない身体なのだ。
自分がなんとかしなければ・・・と、亨は夜空を見上げながら思う。自分がここでなんとかしなければ、母も妹も路頭に迷うことになってしまう。もはや、自分のことなど構ってる場合ではなかった。
刺すような寒さが、薄着の身体を容赦なく責める。雪に覆われた足は感覚が無くなるほど冷たく、吐く息は視界を煙らせるほど白かった。
そんな時、ふと耳に感じる温かいもの。それが自分の流した涙だということに、亨はしばらく気付かなかった。
街を行く人が、みんな温かく見える。その中で、自分だけが一人、凍える空気にさらされているような気さえした。
きっといま、俺がここで死んでも・・・、誰も気付かねぇんだろうな・・・・。
見上げた夜空が歪んで、街灯の光が涙の中で乱反射する。喉の奥が震えても、嗚咽をこらえて空を見続けた。
どうにかしなくちゃいけない。けれど、どうしようもない。
亨が零れる涙も拭わずに、白い雪をただ眺めていると、視界の端で何かが動くような気がした。
しかし、それもどうせ自分とは関係の無いもの。亨は深く息をつくと、もはや動かすことも叶わない足元に、視線を落とした。そのまま、膝を両腕で抱きかかえてみる。
濡れた頬をデニムに押し付け、拭う。時折痛みが走るのは、顔が腫れている所為だった。
するとその時、急に暗くなる視界。誰かが目の前に立っているのだと気付くまでに、優にしばらくの時を要した。
血で汚れた顔をゆっくりと上げ、亨はその影の主を見る。揺れているコートの裾は、彼が走ってきた証拠。かすかに上がった息が、白く煙って流れていった。

貴明は、驚いたようなそれでいて迷うような不思議な顔をして、亨の目の前に立っていた。
頭良さそうな顔してるな・・・と、亨はとっさに貴明を見て思った。コートに手袋にマフラー。今の自分にはひとつも無いもの。寒さなんて、感じないだろうに・・・と、亨は目を細めてため息をついた。
「こんなところで、なにをしているんだ・・・?」
ひとしきり亨を見つめた後、開かれた口唇から漏れたのは、予想よりも低めの声だった。
「ケンカ・・・か?」
亨がなにも答えないうちに付け加える。亨は、貴明の瞳を見つめ返すと、何も言えずに口唇を噛んだ。どこの誰だかわからないようなヤツに同情されているのも情けなくて、泣きそうになるのを、じっとこらえる。さらに、その顔を見せたくなくて、思わず俯いた。
「誰かを待っているのか?」
それでも続けられる貴明の言葉。亨は少し考えた後、俯いたまま、静かに首を横に振った。
すると、目の前の貴明の靴が、ふと亨の視界から消えた。どうせ興味本位で声をかけただけなんだろうと、切ない心の中で切り捨てる。しかし、その一瞬の後にやってきたのは、肩の上に感じる温かさだった。
「え・・・?」
驚いて亨が顔を上げると、貴明は自分のマフラーを亨の肩の上にかけていた。
「立てるか?」
無表情で聞いてくる貴明に、よろめきながら立ち上がる。貴明は、足の感覚を無くしている亨を察したのか、次の瞬間、亨の身体を抱き上げ傍らに停めておいたタクシーに乗せた。
そして・・・。
「・・・おいっ・・・小田切っ!」
いきなり現実に引き戻され、亨が顔を上げる。するとそこには、会社の社長が立っていた。空は相変わらずの曇り空。あの日のような雪など、気配すら感じられない。
「あ・・なんスか・・・」
亨は、歯切れの悪い声で返す。幸いなことに、手は休んでなかったようだった。
「例の試験の申し込み用紙、お前の机の上に置いておいたからな」
社長とはいえ、いまも現場でバリバリと働いている。口は悪いけれど、悪い人ではなかった。
「あ、はい。ありがとうございます」
言いながら、ペコリと頭を下げる。社長は軽く手を振ると、再び自分の持ち場へと帰っていく。亨も、ぶら下げたペンキを混ぜると、気を取り直して筆に力を込めた。
Scene4 / End