スパイラル-I'm not in love.- カット : しちみ唐子/小説 : 乙姫静香


Scene 3





 ピンポーン
 土曜日の夕方。貴明は、突然部屋に響いたベルの音に振り向いた。
 亨が来るには、まだ時間がある。それ以前に、亨は鍵を持っていないから、共用玄関の中に入れない筈だ。もしかしたら、他の住人と一緒に中に入ることが出来たのだろうかと、貴明はPCの前で立ち上がり、玄関へと向かった。
「はい」
 念のため、声をかけてみる。すると、ドアの向こうから、聞きなれた元気な声が響いてきた。
「あ、兄貴?俺!」
 高校生らしい若い声。いつもだったら、何の問題もなく部屋にあげる悠汰も、今日はそういうわけにはいかなかった。
「どうしたんだ、急に。土日は来るなって言っておいただろう?」
 鍵を開けて悠汰を玄関に入れながら、貴明がはっきりと言う。悠汰はそんな風に兄に叱られるのにも慣れているのか、懲りた様子もなく、嬉しそうに兄を見上げた。
「分かってるって、すぐに帰るからさ!なに?今、一人?」
 廊下に立ちはだかる貴明の横から、悠汰は中を覗き込もうとする。貴明はそんな悠汰にピシャリと言った。
「一人に決まってるだろう。こんな風に約束を破るんだったら、合鍵は渡しておけないぞ」
「ちょ・・・待ってよ。用事が済んだらすぐに帰るからさ、怒らないでよ。・・・ね?」
 同じような口調でも、そこに本気が存在するかどうかは分かる。冗談で済まなさそうな兄の雰囲気に、悠汰も肩をすくめて小さくなった。
 悠汰の申し訳なさそうな顔に、貴明もとりあえず気を取り直して身体を横にずらす。それが中に入るオッケーサインと理解した悠汰は、今までの悲しそうな顔はどこに行ったのか、意気揚々と靴を脱いだ。
「お邪魔しまっす!」
「本当に、少しだけだぞ」
 低い声で念を押す貴明に、悠汰は調子よく肯く。キッチンに入って食器棚を開けると、貴明が淹れていたコーヒーの相伴にあずかろうと、マグに手を伸ばした。
「こら」
 と、その指先が触れるか触れないかの位置で、かけられる声。悠汰はそのまま視線を横にずらすと、自分を叱るように見つめている貴明を、じっと見返した。
「え?なに?」
「そのマグは使うんじゃない。他のにしとけ」
 なんでだよう!と言いたい気持ちをぐっとこらえて、悠汰が他のカップを取り出し、コーヒーを注ぐ。さっき怒らせたばかりだから、今日はおとなしくしていようと思った。
「あれってさ、新しく買ったの?どっかで見たことあるような気がするけど・・・」
 答えたくない質問には、ただ無言で返す貴明。貴明が努めて反応を悪くしていることが、悠汰にはちょっと面白くない。彼女とお揃いなの?と聞きたかったが、きっと聞いても返事はないと思い、悠汰は黙って椅子を引いて座った。
「で、なんなんだ?用事って・・・」
「あ、うん。それなんだけど。・・・兄貴、気付かなかった?」
 小さい頃から兄の後追いばかりしていた悠汰は、貴明に話しかけられることが嬉しくてたまらない。悠汰の母と貴明の仲が悪いのは分かっているけど、それでも一緒に住めないのは寂しいなと思っていた。
「気付くって・・・なにに?」
 貴明も貴明で、悠汰が純粋に自分を兄として慕っていることは分かっている。自分が家族と認識しているたった一人の人間であることも手伝ってか、貴明は悠汰に甘かった。
「俺が今日履いてきたスニーカーだよ!新しいの買ったんだ!」
 一瞬、貴明の目が丸くなる。声には出さなかったが、「それを見せるためだけに来たのか?」と顔に書いてあった。
「あ、兄貴、スニーカーなんて・・・って思ってるだろ。でもね、そりゃ兄貴の趣味じゃないかもしれないけど、こういうのが好きな奴にとっては、すごく羨ましいスニーカーなんだってば!高いし、中々手に入らないし!カッコいいだろ?」
 カッコいい・・・?
 ちらっと見えた記憶を辿るものの、「どこがカッコよかったのか」など、さっぱり分からない。とはいえ、せっかく見せに来たのだから、もう一度ちゃんと見てやろうと、貴明は腰をあげて玄関に戻った。
 SF映画に出てきそうな前衛的なフォルムに、独特の色使い。こういうものが流行っているのかと、スニーカーを持たない貴明は改めて感心した。そういえば、亨もこんな感じの靴を履いていたっけ。
「兄貴もスニーカー履けばいいのに。それでジョギングでもしたら?運動不足気味だって言ってたじゃん」
 自分の靴をまじまじと見ている貴明を見て、悠汰が嬉しそうに笑う。
「いや、俺はいい・・・」
 立ち上がると、貴明は短く呟いた。






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 亨が部屋に来ると、貴明は眼鏡を外した顔で玄関に出た。
「あ・・・、今日は・・・遅れてない・・・よな」
 「こんにちは」とか「こんばんは」という言葉がどうしても言い辛い。亨はいつも適当な言葉でごまかすと、促されるままに玄関を抜けていた。
「悪いけど、ちょっと待っててもらえないか。急な来客があったせいで、まだ仕事が終わってないんだ」
 几帳面で時間に厳しい貴明には、珍しいことだ。亨は驚きながらも、黙って肯いた。
「テレビを見るなり、なにか食べるなり好きにしててくれ。冷蔵庫は勝手に使ってくれてかまわないから」
 居間に通されたものの、なじむのに時間がかかるのか、すぐに座ることが出来ない。亨が立ち尽くしていると、貴明が傍らに置いてあったテレビのリモコンを渡しながら言った。
「どうぞ」
「あ・・・あぁ」
 成り行きで、それを受け取る。大きな液晶画面をチラリと横目で見つつ、亨は小さい声で切り出した。
「あの・・・」
 その声に、仕事部屋に消えようとしていた貴明が振り返る。亨はリモコンを握り締めたまま、とまどいがちに言った。
「忙しいんだったら・・・俺、帰ろうか?」
 その瞬間、貴明が眉間に皺を寄せる。それは、「買われている分際で何を言ってるんだ?」と貴明が言っているようにも見え、亨はいたたまれずに視線を床に落とした。
「何か、予定でもあるのか?」
 あくまでもクールなままの、貴明の低い声。亨は即座に顔をあげ、首を横に振った。
「いや、そういう訳じゃないけど!」
「じゃあ、泊まっていけばいい。延長料金をもらえると思えば、悪くない話だろ」






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 PCの画面が、電源を落とすまでの手順を一つ一つ終えていく。貴明は眼鏡を外すと、一度きつく目を閉じた。
 プツッ
 という電気の切れる音と共に、PCの画面が真っ暗になる。モニターの明かりが無くなると同時に暗くなった部屋に、貴明は改めて時間の経過を感じた。あれから、二時間くらい経ったであろうか。
 ため息をつきながら、部屋を出る。テレビの音でもするかと思ったが、意外なことに居間からはなんの気配も感じられなかった。
 もしかして帰ってしまったのだろうかと、貴明は居間に入る前に玄関に視線を投げる。するとそこには、その予測を裏切るように亨の薄汚れたスニーカーがあった。
 ほっと息をつき、改めて居間に向かう。テレビは、点いていない。貴明は静かにソファに近づくと、そこに丸まって寝ている亨の姿を見つけ、小さく息をついた。

「亨・・・でいいよ」
 眠っている亨を見ながら、貴明は、あの日の亨の台詞を思い出す。
「俺があんたのこと名前で呼べって言われてるのに、そっちだけが俺のこと苗字で呼ぶなんて、変だろ?」
 初めて亨がこの部屋に来た日、亨は予想通りの口調で貴明に話してきた。
「いいのか?きっと僕は、君よりも年下だと思うよ」
 そう、最初の頃は貴明も亨に対して一応の礼儀を示していた。だから余計に、亨の無礼さが目立ったのかもしれない。不遜な物言いが、精一杯の強がりだということは、分かりすぎる程に分かっていた。
「そういうの・・・関係ないんじゃないか。金払うのは・・・そっち、なんだし」
 頭では分かっていながらも、それを口に出すことで、亨は何かを飲み込んだように見えた。しかし、受け入れたことと納得することが違うことを証明するように、目の光だけは変わらなかった。
 そんなことを思い出しながら、貴明は眠る亨の閉じた瞼を見つめる。シャワーだけは浴びたのか、亨はバスローブに着替えていた。
 息をつめて、重ねる口唇。そっと、触れただけのくちづけは、亨になんの変化ももたらさない。貴明はソファの脇に跪くと、亨の寝顔をじっと見つめた。
 ソファの袖にクッションを敷き、頭を乗せる亨。軽く曲げた膝に伸びる手を持ち上げると、貴明は亨の腰に巻かれているバスローブの紐を静かに解いた。
 手首に感じる軽い抵抗の後に、スルっと引かれ手元に寄せられる紐。解けたそれを手放すと、貴明は目覚める気配のない亨の胸元の袷に、筋張った大きな手を滑り込ませる。そのまま亨の肌の感触を楽しむように胸の上をなでると、そこでやっと亨が身じろいだ。






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 「ん・・・」
 かすかに首を横に振り、亨が薄く目を開ける。それに構うことなく、貴明はさらに奥へと手を忍び込ませた。
 長い指先が、亨の胸の敏感な部分に触れる。瞬間、息を飲んだ亨が、薄闇の中で寝言のように呟いた。
「・・んだよ・・・・。こんなとこで・・・・?」
 伸びをするように、首筋を伸ばす。亨が起きたことで、貴明は益々大胆に亨の身体に指を這わせた。
「どこでしたって、やることは一緒だろ・・・」
 言いながら、月明かりを受けて出来た亨の鎖骨の影に、貴明が口唇を寄せる。バスローブを割って覗く膝の間に、貴明の身体が入り込んだ。
「へぇ・・・」
 シャツを着たままの貴明の背に、伸ばされる亨の腕。感心したように亨が呟き返すと、貴明が亨のバスローブをはだけながら言った。
「どういう意味だ?」
「いや・・・あんたも、そういうコト言うんだなって思って・・・」
 答えながら、亨の指は貴明の白いシャツのボタンを外していく。
「だって、本当のことだろ・・・?」
 貴明のかすれる声。亨は答えずに、一度自嘲気味に微笑むと、開いた貴明のシャツを自分の方に引っ張った。
「そうだよな・・・。どこでやったって・・・・・誰とやったって、やることは一緒だよな」






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 バスローブを身体に残したまま、亨は漏れそうになる声を抑えて腰を震わせた。
 貴明の舌は容赦なく、亨の前で高ぶるそれを追い詰める。とめどなく先走りを滴らせる亨のものを長い指で掴むと、貴明が顔を上げて言った。
「どうして・・・欲しい?」
 月明かりを受けて、貴明の色素の薄い瞳が光る。どうしてだか、今日の貴明は少し意地が悪いような気がした。
「ば・・・っ・・・・知る・・・かよっ・・・」
 恥ずかしさも手伝って、亨が火照った顔を背ける。貴明は、それを掴む指をゆっくりと動かしながら、服を着たままの自分の腰を、亨の腰に近づけた。
「そっちこそ・・・ツライんだろ・・・?」
 クールを装う貴明に、悔し紛れに亨が言いながら手を伸ばす。ベージュのチノパンの前に手を添えると、熱を確かめるように服の上から張りつめたそれを撫でた。
 虚勢を張りながらも、貴明の指が動くたびに喉がひくつき、声が漏れそうになる。貴明はそんな亨の様子が面白いのか、自分の股間に伸ばされた亨の手に自分の手を重ねると、その指を促して自分のベルトを外した。
「っな・・・」
 そのまま、解放を待っていた自分のそれに、亨の指を絡ませる。途端に、亨の頬に赤いものが走った。
「ちょっ・・・」
 促されたとはいえ、まるでねだるような自分の指の動きに、亨の羞恥心が刺激される。貴明は亨の前から離した手で、亨の後ろに触れると、濡らした指をクイッと中に入れた。
「んっ・・・・ん・・・・」
 片手で貴明のものを掴んだまま、亨が後ろへの異物感に目を閉じる。しかし、リズミカルに加えられる刺激に、喉を震わせる声も、次第に甘いものへと変わっていった。
「っあ・・・・・・ん」
 慣れた身体が貴明の指を飲み込み、せつなく震える。ソファの上で広げられた脚が、貴明の指の動きにあわせて静かに揺れた。
「あっ・・・ああっ・・・・・」
 指を入れられたまま、亨の前に再び手がかけられ、甘い刺激が加えられる。グレイのバスローブに覆われた亨の身体に、しっとりと汗が浮かび始めた。
「貴っ・・あ・・・き・・・っ・・・・」
 低く喘ぎながら、亨が手にしている貴明のそれをギュっと掴む。亨の身体に負けないくらい熱を帯びている貴明の背中にも、伝っていく汗。
「ちから・・・抜け・・・・っ・・」
 荒くなる息と共に、貴明が囁く。それを合図に、亨は貴明のそれから手を離すと、低く息をつきながら、貴明が自分の上にかぶさる姿を熱い瞳でぼんやりと見ていた。
 貴明がソファの上に片膝をつき、亨の後ろに自分のものをあてがう。濡れて息づく亨の身体が、ゆっくりと入ってくる貴明をキュっと締め付けた。
「っ・・・んっ・・・・・ふ・・・・っ・・・」
 亨の鼻にかかった声が、貴明の耳に届く。亨の顔の横に手をつき、貴明が亨の身体を割るように、その身を押し進めた。
「ん・・・あっ・・・・いっ・・・・・」
 いつもよりも張り詰めているような貴明のそれが苦しいのか、亨が背中に回した腕で貴明のシャツを掴む。そこで一度動きを止めた貴明は、息を整えながら、亨の耳元に口を寄せた。
「大っ・・・丈夫・・・か?」
 熱い吐息混じりの低い声。その囁きさえもが刺激になるのか、亨は整わない息のまま小さく肯くと、できる限りの力を抜いて、自らの身体を貴明に委ねる。
「・・・っ・・・」
 再びゆっくりと、貴明の身体が亨に入っていく。奥まで入りきったところで動きを止めると、貴明が亨の髪の毛を優しく撫でた。
 いつもよりも締め付けがきついような気がしながらも、貴明が上半身を起こしてゆっくりと腰を引く。多少は動けることが分かると、貴明は亨の両足を抱え込んでゆっくりと腰を動かし始めた。
「っん・・・あっ・・・・」
 ソファの軋む音がリズムを刻む。それと重なる亨の声が、与えられているのが苦痛ではなく快楽であることを伝えた。
「っ・・・んっ・・・・・」
 突き上げられる度に、腰を溶かし背筋を駆け上がってくるような快感が襲う。
 震動にぶれる視界の中に見える貴明の眉が、亨の締め付けに合わせて寄せられる。熱の塊のような貴明に貫かれながら、亨は目を閉じ、貴明の低い息遣いに耳をすませた。
 ゆっくりと、亨の内側を味わうように出入りする貴明。脳をじんわりと犯していく刺激に、亨が焦れたように乾いた口唇を舐めた。
「っ・・・・・・んっ・・・」
 亨の口からねだるような台詞を聞きたいのか、貴明はいつまでも柔らかな刺激しか与えようとしない。亨の根元を指できっちりと押さえたまま、貴明が動きを止めて囁いた。
「どうしたんだ・・・?いつもより、早そうだぞ・・・」
 言いながら貴明が、指の背でゆっくりと、亨の立ち上がりきったものの裏をなぞるように摩る。やっぱり今日の貴明はなにかが違うと、亨は口唇を噛んで思った。
「な・・・んだよっ・・・・・・早く・・・っ」
「どこでやろうと・・・誰とやろうと、変わらないんじゃ・・・なかったのか・・・?」
 冷ややかに亨を見下ろす貴明の瞳。その首筋を、汗がツッと伝い落ちた。
 いつもは、こんなことなんて言わないのに・・・と、亨は胸の中で呟く。亨には、貴明の今日の不機嫌の理由など、到底分かりもしなかった。

「そうだよな・・・変わりなんかない。言う・・・通りだ・・・・・・」
 自分に問いかけるような貴明の呟き。亨がそれに返す言葉を探しあぐねている間に、貴明の濡れた指が、亨のそれを愛撫し始めた。
「んっ・・・」
 と同時に、今までよりも深く、えぐるように亨を貫き始める。不意打ちで動かれた亨が、自分でも驚くような甘い声をあげた。
「ああっ!・・・・んっ・・・」
 羞恥心でさらに、貴明を締め付ける身体。それにも構わずに、貴明は何度も何度も亨の中に入り込んだ。
「っ・・・・あっ・・・・・んっ」
 貴明が動きを止めぬままに、亨の身体を抱き寄せる。熱い吐息をとめどなく漏らす口唇を重ね、むさぼるように絡まる舌。快楽を貪欲に求める本能か、貴明が動きやすいように、亨の手が自然と自分の脚を抱え込んだ。
 重なる胸の間で、擦れるシャツ。絡まるバスローブの奥で息づく亨が、貴明のリズムに合わせて呼吸を繰り返す。
「んっ・・・あ・・・も・・うっ・・・・」
 ヒクヒクと震えだす亨のそれに、かかる貴明の指。前後から与えられる快感に、亨の眉がキュッと寄せられた。
「あ・・・んっ・・・んんっ・・・」
 貴明の汗が、裸の亨の胸に落ちる。眩暈がするような熱。
 貴明も亨の限界に合わせるように、亨の奥で己を解放した。






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 濡れた髪を拭こうともしないまま、亨は暗闇の中で虚空を見つめていた。
 貴明に抱かれた後は、なにも考えられないくらい、頭の中が真っ白になる。普段、考えることが多すぎる生活なだけに、この真っ白な時間はとても心地よかった。
 闇をぬって届く月明かりが、ソファの下に投げ出した足を斜めに照らす。シャワーで温まった身体が、夜の空気の中で徐々に冷やされていった。
 そういえば、初めて貴明に会ったあの夜も、熱いシャワーを浴びた。
 12月の雪の日。吐く息が凍るほど、寒い夜だった。借金に途方に暮れた挙げ句、でかけた夜の街。声をかけてきたオヤジとホテルに行ったまではよかったが、結局耐え切れずに逃げ出そうとして、殴られた上に裸足で雪の街に投げ出された。
 口の中に広がる血の味よりも、心の方が苦かった。
 亨の妹の紀恵(のりえ)は、幼い頃から心臓が弱かった。手術をしたので今では元気になったが、その時の費用が、まだ借金として残っている。しかし、あの時必要だった金はそうではなかった。
 亨の仕事中に、立ち入り禁止サインを無視した男が、ペンキ缶を踏んで怪我をしたと言ってきたのだ。相手の要求は服の弁償と治療費。払えないのなら、会社に言ってクビにさせると言い出した。
 当然、妹のための借金を返済中の亨には、そんな金など無い。そこで考え出した苦肉の策だった。
 別に、男としたことがなかったわけでもない。しかし、いざコトに及ぼうとした時、目の前の相手に対する心の奥底の嫌悪感が、一気に噴出した。
 そして裸足で歩き出した雪の街。凍えるような寒さの中、道の角で座りこんでいた亨に声をかけてきたのが、貴明だった。
  「飲むか?」
 気がつくと、またウトウトしていたようだった。
 亨は自分の隣に立つ貴明が差し出した瓶ビールを受け取ると、乾いた喉に冷えたビールを一口流し込んだ。
「・・・サンキュ」
 言いながら、亨は返そうとした瓶のラベルをついつい見つめる。見たことの無い、外国のビールのラベルには、キレイな宗教画のようなものが書かれていた。
「なんだ・・・これ?初めてみる・・・」
「そうか?冷蔵庫の中にあるから、気にいったんだったら持っていけばいい」
 シャワーを浴びてきたばかりの貴明は、そう言いながら濡れた髪をかきあげ、ソファを背にするように床に腰を下ろす。自分の足元に貴明が座っている様は、亨としては少し奇妙な感じがした。
 亨から返されたビールで喉を潤した後、貴明が深くため息をつく。
「何か、食べるか?夕飯、食べてないだろう・・・」
 いつも身体ばかりを重ねているからか、こういう普通の会話が不思議に聞こえる。亨は、返す言葉を忘れて、貴明の横顔に見入っていた。
 月の明かりを受けて、きれいな影を作る貴明の横顔。自分の立場の所為で、あまり貴明の顔を眺めたことがなかったが、改めて見る貴明の顔は、精悍さと知的さを兼ね備えた、将来有望そうな青年に見えた。
「・・・なんだ?」
 貴明が、無言で見つめてくる亨に、いつもの瞳で問い返す。亨はそれで初めて、自分がかなり長い間貴明を見つめていたことに気付いた。
「まだ、足りないのか?・・・食事を、忘れるほど・・・」
 意地悪く微笑んで、貴明が喉の奥で笑う。それが貴明なりの冗談だということには気付いたが、それよりも先に、あまりにも正直に亨は本音を表情に出していた。
 言われてみて、初めて気付く欲望。
 驚きに見開いた瞳に、揺れる陽炎のような熱。一瞬のうちに、貴明の台詞が、言い当てていることを顔に出した亨は、表情を強張らせると、その顔を見せまいとするように勢い込んで立ち上がった。
「なんか、食うもんもらうからな」
 バスローブから伸びた脚が、大またで絨毯敷きの床を踏んでいく。貴明は、つかの間亨が見せた表情が忘れられずに、亨が歩いていった方向をじっと目で追った。
「あ、ハムもらうぞ。それと・・・これ、いいのか?」
 平静を装うように、キッチンから響いてくる亨の声。貴明はそのとき、冷蔵庫の中にあるものを思い出した。
「あぁ・・・それは、こっちに持ってきてくれないか。今晩中に食べないと、駄目なものだから・・・」
「分かった。持ってく・・・」
 亨が両手に、切れたハムとビールをもう一瓶、そして白い大きな皿を持ってくる。貴明の前にあるテーブルにそれを乗せると、皿の上には綺麗に飾られたカナッペが何個も乗っていた。
「これ、あんたが作ったのか?」
「あぁ。中途半端なあまりモノがあったからな」
 亨は、色とりどりに演出されたカナッペを食い入るように見つめる。貴明はそのひとつを指先でつまむと、自分の口に放り込んだ。
「なんだ?食べないのか?」
「あ・・・あぁ、食べる」
 貴明が優雅にカナッペを口に運ぶ姿を目で追った後で、亨も皿の上のものに手を伸ばす。亨がスモークサーモンとキャビアの乗ったクラッカーを一口で口内に入れると、貴明が亨の様子を横目で見た。
「・・・・・・うまい」
 もぐもぐと口を動かしながら、それでも短く言った亨に、貴明が小さく息をつく。それには気付かぬままに、亨は空腹だった所為もあり、次々に綺麗なカナッペを口に放り込んだ。
「好き嫌いとか、ないのか?」
「ん・・・・ないな、特に」
 貴明の質問にも即座に答え、亨は食べ続ける。カマンベールチーズにイタリアンパセリ、生ハムにピンクグレープフルーツ。確かにどれも美味しそうに食べていた。
「じゃあ、好きなものは?」
 あまりの食べっぷりに、貴明は自分が食べるのも忘れて、亨の食事を見続ける。亨は口の中にあったものを飲み込むと、ふうっと息をついて言った。
「安くて満腹になって腹持ちのいいもの・・・かな」
 つまり、味は二の次なのかと、貴明はため息で答える。すると、亨はビールを一口飲んで、貴明を横目で見た。
「あんたの好きなもの聞こうかと思ったけど・・・やーめた」
「どうして?」
「だって、どうせ聞いたって、わけの分からない横文字が出てきて終わるだけだもんな」
 その台詞に、貴明が少しムッとする。どうしてムッとしたのかは、貴明自身にも分からない。テーブルの下で握り締めたビールの瓶が、冷たかった。
 すると、貴明のそんな様子にも気付かずに、亨が続けた。
「でも・・・なんか、今日は違うな」
「・・・え?」
 表情は変えないまま、貴明が目線をあげて亨をみる。亨は、自分をまっすぐに見つめてくる貴明の色素の薄い瞳に、一瞬ドキっとした。
「いや、その・・・だって、普段はこんな風に・・・話したり・・・しないもんな」
 正直に言ったものの、そこまで言って亨はしまったと思った。別に友達の家に遊びに来てるわけじゃないのだ。そもそも会話なんて、必要ない関係なのだから。
「・・・そうか?」
 しかし、貴明はなにをどう思っているのか、短くそれだけ言うと、再びビールの瓶を傾ける。伸びた首筋に浮かぶ喉仏が、月光の中で薄い影を作った。
 見れば見るほど、どこにも欠点なんか見当たらない。亨は貴明と同じようにビールを喉に流し込むと、明らかに自分とは違う世界に住んでいる貴明を、じっと見つめた。
 金も仕事も、自分名義のマンションだってある。性格はよく分からないけど、外見だって人並み以上に良い。男同士であることを除けば、変な性癖があるわけでもない。きっと、もてるに違いないのだ。
 この半年、何度思っただろう。なぜ、自分なのかと。
 あの雪の日、あんなにボロボロだった自分に、声をかけたのは何故なんだろうと。
 最初は、ただの気まぐれなんだと思った。わがままな金持ちの、つかの間の刺激なんだと・・・。しかし、半年経ったいまも、貴明はこうして亨との契約を続けている。相変わらず仏頂面でなにかと厳しくはあったが、亨に対する扱いは、悪くなるどころか益々優しくなってるような気さえしていた。
 あの雪の日、裸足だった亨を部屋に連れ帰り、椅子に座った亨の汚れた足の裏を撫でながら、貴明は言った。
「怪我はないか・・・?」
 ・・・と。
 怪我ひとつ、汚れひとつ無い手で、あまりにも汚れた自分の足を触られて、恥ずかしさに泣きそうになった。自分とはあまりに違う貴明に、苛立ちさえ感じながら・・・。
 貴明にだったら、タダででも抱かれたいヤツはいるだろうに、なんでわざわざ高い金を払って、自分・・・なんだろうと亨は改めて思う。そして、それはいつまで続くんだろう・・・とも。
 もうしばらくしたら、借金も返済のめどが立つ。そうしたら、金で身体を売るような真似など必要なくなるのだ。この部屋にも、来る理由が無くなる。
 ここ一、二週間ほど、亨はしばしばそのことを考えていた。
 金の繋がりでここに来ているというのに、来る必要がないとなると、なんとも説明しようの無い気持ちがこみ上げる。しかし、金で無いのだとしたら・・・なんだ?
「・・い。・・・・おい」
 貴明の声に現実に引き戻され、亨は顔を上げる。貴明の顔を見ているつもりで、どこも見ていなかったことに気付き、亨は改めて貴明を見た。
「・・・え?」
「まだ食べたいか・・・と言ったんだが・・・」
 目の前にある空っぽの皿を指して、貴明が亨を見つめ返す。
「ちゃんとしたものが食べたいなら、なにか作ってもいいし・・・」
「や・・・、いや、もう・・・いい。あの、俺、これ片付けてくる」
 しどろもどろに答えながら、空いた皿を手に亨が立ち上がる。その時、貴明が何かを言いかけたが、それにも気付かずに亨は再び大またでキッチンへと向かった。
 シンクを流れる水音を聞きながら、亨は高まる心臓を抑えようとした。貴明のあの低い声を聞くと、反射的に体温が上昇するような気がする。だから、さっきも貴明に足りないのかと聞かれた時、とっさに冗談にして返すことが出来なかった。
 ふざけるな。金じゃないなら、身体だっていうのかよ。
 スポンジで皿をゴシゴシと洗いながら、自嘲的な笑みを浮かべる。そんなの別に、貴明だからって訳じゃない。寝る相手なんて、それこそ本当に、誰だって変わりはしないんだから。
 否定すればするほど、なにが本当なのかが分からなくなっていく。
 洗った皿を水にさらすと、白い泡が排水溝に渦となって吸い込まれていった。






Spiral - I'm not in love. -





 貴明は、ビールの瓶をテーブルに乗せ、床に座ったまま足を伸ばす。亨に貸したものと色違いの、紺色のバスローブ。シャワーの汗は、すでに引いていた。
 両手をだらりと床に落とすと、指先に触れる布の感覚。視線を落とすと、そこには亨が着ていたTシャツがあった。
 キッチンからはまだ水を使っている音が聞こえる。貴明はそのTシャツに指を伸ばすと、指先をそっとTシャツにからませた。
 今日は少し、手荒にしてしまったかもしれないと、貴明は反省する。二人の関係がはじまって半年、亨が金のためにここに来ていることは分かってる。金で契約をしている間柄。しかし、だからといって、亨が自分自身のことを卑下するような関係にはしたくないと思っていた。
 冗談で言ったつもりの言葉に、あんな表情で返されるとは思ってもみなかった。てっきりここへは、いやいやながら来ていると思っていたから。金がもらえるのでなければ、来ないものだと思っていたから・・・。
 水の音が止まり、キッチンの電気が消される音。貴明はTシャツから指を離すと、少し冷えた空気の中で小さく息をついた。
 亨は、すぐには戻ってこない。もしかしたら、そのまま寝室に行って眠ったのかもしれない。貴明は、ソファに寄りかかったまま、天井を見上げ目を閉じた。瞼を通して感じる、月の明るさ。自分もこのままここで寝てしまおうかと考えたその時、閉じた目の中がさらに暗くなった気がした。
「もう、寝るのか?」
 貴明が目を開けると、正面には亨が立っていた。月の光を遮るように立っている亨の輪郭を、淡い光が覆う。貴明は、片足をあげて膝を折ると、床に座りなおして言った。
「いや・・・そういう君こそ、寝ないのか?」
 すると、亨が貴明の曲げた足の傍に腰をおろす。どこかふてたような、それでいて挑むような目つきで貴明を見ると、亨は寝室から持ってきたゴムをテーブルに置いて言った。
「俺に、足りないのかなんて聞いてくるから、そっちの方が足りないのかと思ったんだけどな・・・」
 なにかにいらついているような、亨の口調。こんな風に、亨の方から誘ってくることなんて、いままでなかった。
「・・どうし・・・?」
「あんたは、なにもしなくていいよ。・・・俺が、全部搾り取ってやるから」
 貴明の眉が、すっと寄せられた。






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 四つん這いになった亨は、貴明の足の間に顔をうずめると、赤い舌で貴明のそれを何度も舐めあげた。熱く立ち上がった貴明のモノを掴み、手で擦り上げながら先を咥える。
「・・・っ・・・」
 ついつい漏れるのは自分の声。身体の割りに立派な貴明のモノを全部咥えると、息苦しさに涙が滲んだ。
 唾液で濡れたそれを必死で舐める亨を、貴明はじっと見つめている。時折いいポイントに当たるのか、貴明の眉が寄せられ、喉が震えた。
 身体に溺れているなんて、思いたくなかった。そんなの、金で身体を売るよりもやりきれない。だから、亨は自分から仕掛けてみた。この、理由の分からない靄の正体を知るために。中途半端な優しさや快楽が、自分のプライドを食い尽くしてしまう前に・・・。
 するとふと、動かしている頭に感じる温もり。口では貴明のモノを咥えたまま、亨が視線を上げると、貴明が亨の頭に手を乗せていた。
「もういいから・・・こっちに来い」
 貴明の言葉に、亨が貴明のそれから口を離す。そのまま、亨が貴明にまたがると、その腰を貴明が掴んで言った。
「どうしたんだ?なんか変だぞ・・・今日は」
「別に・・・たまには、こういうのもいいだろ・・・?」
 亨はそのまま、貴明の肩を床に押し付け、奪うように口唇を重ねる。ねっとりと舌を絡ませ、息苦しいほどのくちづけ。
「・・・っ・・・ん・・・」
 そして、むさぼるようなくちづけを続けながら、貴明の指が、亨の後ろに回された。
「んっ・・・」
 指を入れられ、反りそうになる背中を、貴明が捕まえる。中で指が動くたびに、離してもらえない口唇が、細かく震えた。
「・・っ・・・・・」
「ほら・・・来いよ・・・・」
 口唇を離した貴明が、亨の腰を掴んで呟く。亨は、口唇を舐めて腰をあげると、すでにゴムをつけてある貴明のそれの上に、ゆっくりと腰を下ろしていった。
「あ・・・っ・・・・」
 貴明の身体にまたがったまま、熱くなっていく身体。ずり落ちたバスローブが、腰の辺りで遊んでいる。

「っ・・・俺が・・・動くからな・・・っ・・・」
 亨はそう言って、自分で動き出す。貴明は、バスローブの影に隠れた亨のものを掴むと、亨の動きにあわせて、手首を上下に動かした。その度に、貴明を飲み込んでいる場所がキュっとしまる。
「・・・っ・・・・なぁっ・・・」
「・・・ん・・・?」
 お互いに呼吸を乱しながら、問いかけてくる亨。貴明は、いつしか自分も腰を動かしながら、亨の身体を抱き寄せていた。
「気持ち・・・いいか・・・よっ・・・・・・あっ・・・」
 突然、どうしてこんなことを聞いてくるのか、貴明には分からない。貴明は一度亨にくちづけると、亨の身体を突き上げながら、返した。
「良くないわけ・・・ないだろ・・・っ・・・」






Spiral - I'm not in love. -





 明け方近くになって、貴明はふと、ソファの上で目を覚ました。
 夜明けの冷えた空気が、二人の肌を冷やす。二人・・・・?貴明は胸の辺りに感じる重さに、目だけで下を見る。そこに亨の腕があるのを見て、肩に乗っている顔にも気付いた。
 貴明は、ソファの脇に落ちたソファカバーのラグを二人の上にかける。そして、肩に乗る亨の顔に軽く頬をよせると、ため息をひとつついて、目を閉じた。






Spiral - I'm not in love. -





 朝・・・とはいえ、もう昼近くになっていた。貴明が目覚めると、亨はいなかった。バスローブを羽織って玄関に行くと、靴も無い。
 コーヒーでも飲むかとキッチンに行くと、おそらく亨が使ったであろうマグが、洗っておいてあった。
 食器棚の奥にしまっておいた、銀行から貰ったマグ。よくも、あんな奥から引っ張り出したものだなと思う。
 貴明はなんだか可笑しくなってしまって、そのまだ乾いていないマグをシンクの脇に置くと、冷蔵庫からミネラルウォーターの瓶を出して、それに注いだ。
 それでもやはり、漏れるのはため息。
 梅雨は、まだ続くと思われた。

Scene 3 / End






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